【週俳4月の俳句を読む】
春のはやさ
八上桐子
つちふるや八坂の塔を鳥かすめ 千鳥由貴
黄砂に霞む春空をゆく鳥も、視界の悪さから塔の認識が遅れたのか? それとも作者の位置から、たまたまかすめて見えたのか? 紗のかかったような古都に、漢字表記の八坂の塔と鳥だけが色濃く浮かび、スローモション・フィルムのように鳥が消える。黄砂マジックが効いている。
ひらきだす梅々へ枝追ひつかず 田中木江
伸び切った枝に花はひらくはずなので、ここで追いつかないのは梅の木の気持ちと読んだ。例年のことで、さすがに分かっているはずが、えっ、早い、早い……と、今年も面食らう枝。中七のウメウメヘエダの詰まり気味のリズムにも、あれよあれよ感が出ている。わっとひらく梅のスピード感がたのしい。
次会へるときには夏かさくらえび 田中木江
俳句のネタ+季語の基本形の句。実は、TVの人気俳句番組の影響で、新聞の川柳壇にもこの型の句が多く寄せられるようになった。なかには俳句でしか使わないような季語を取り合わせた句もあり、いささか食傷気味の昨今。けれど、この句のさくらえびは新鮮。心待ちにするそう遠くない再会へ、大きさ、色、みずみずしさがぴったりだ。
ぼくが나(ナ)できみが너(ノ)かうして向きあつて 原麻理子
向き合っているぼくときみをよく見ると、ぼくはきみへと開いているのに、きみは閉じている。発音も、日本語では同意を促す「ナ」に対して、拒絶の色合いを帯びた「ノ」であることもまた切ない。ハングルを俳人が学ぶからこその、発見のように思う。
読めてもう文字で花と葉いつぺんに 原麻理子
文字を覚えてしまうと、言葉だけですっと受け取れるようになって、言葉の表すものを一つひとつ確認するような、親密な時間が失われてしまう。今年は春先の気候が不順で、花と葉っぱが同時の桜もあった。桜色一色のとき、透けるような新緑のとき、それぞれに味わえなかった物足りなさにも通じる気がする。
川沿いに家々の裏夕永し うっかり
川沿いを歩いていると、立ち並ぶ家々の裏が目にとまる。裏手は表に比べ、家ごとの生活が垣間見えてしまう。干しっぱなしの洗濯物、空き缶にペットボトル、古い犬小屋……。見るともなしに見ながら行くのも、なかなか日が落ちないから。ゆるりと間延びした春の夕暮れが、川の流れのようにつづいている。
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