2024-06-30

村越敦【俳句を読む】同時に、この無意味の

【俳句を読む】
同時に、この無意味の

村越敦


冷えお茶のボトル落とせばすごい音 上田信治

“冷えお茶”の響きで連想するのは私の場合“冷えピタ”だが、“冷えたペットボトルのお茶”という冷えピタより明らかに使用頻度が高いものに適切な呼称(略語)が与えられていないことにたしかにちょっとした気づきがある。加えて、“冷えお茶”を落とすとこれもたしかに意外なくらい大きな音がする。あまり言われていないがしかしそうだよね、という事実を2つ重ねたところで不思議とこれまで見たことのない方向性が示されている。


マーガリン塗られてパンの涼しさよ 上田信治

ふたたび当たり前のことを真顔で言うタイプの句だが、掲句で不思議なのは句には登場しないバターを塗ったときとの比較を自然と読み手が要請されているように感じるところだ。そしてその一瞬のシミュレーションの中において、確かにバターは汗をかいているような暑さがあり、塗られるさまが涼やかでスマートだという点においてマーガリンに軍配が上がる。この思考プロセスを経て、再びマーガリンを塗った食パンというごく当たり障りのないものだけがイメージとして残存していることに気づく。


待人が日傘ぐらぐらさせてをり 野城知里

連作中にある<天蛾の閉ぢぬつばさへ街の風>同様、都会景と読んだ。待ち人は自分にとり関係ない人と取っても良いだろうが、折角なので作者のことを立って待っている誰かと読みたい。待ち人に作者は徐々に近寄っているが(しかし決して小走りになったりはしない)、待ち人は貧乏ゆすりのごとく意味もなく日傘を微妙に動かしている。ひょっとするともう片方の手でスマホを触っているので日傘のコントロールがなおざりになっているのかもしれない。ここで“ぐらぐらさせる”という措辞を当てたことで、そうした実景の細かいさまを超えたもっと大きな、例えば天体的な動きを射程においた外部方向へスケール感を延伸するものか、あるいは待ち人と作者の関係性の微妙な揺らぎといった内面的な方向に深まっていくものか、いずれにせよそのあたりまで読みの範疇を拡大する効果を生ぜしめていると思う。


ポップ体の閉店告知水温む 加藤右馬

ポップ体はそのフォントが登場したころは本当にポップな印象を与えるために使われたのだろうが、今では一周回ってフォントが与える印象にどこか無頓着な人が使う印象がある(職場でもポップ体を日常遣いのフォントとしているのは失礼だがベテランの人が多い気が)。掲句の閉店告知は商店街の個人商店などを想像するが、手書き(=突然の閉店を想像)や堅苦しい文章で書かれている(=何か法律も絡むような深刻な事情が?)のと比べて、閉店のお知らせに特に気持ちが乗っていない感じというか、前向きの理由か後ろ向きの理由かがわからない。かかる中、季節は着実に三寒四温で進行しており、流れる水に春の兆しを見ている。そうした取り合わせの中に、どこか諸行無常な達観したトーンも感じられる。


実印に曲線多し桐の花 加藤右馬

日常で印鑑を使うシーンは激減しているが(仕事では電子署名で完結することがほとんど)、実印に限ってはまだ物理的にハンコであることが求められ、したがいその珍しさからハンコをつく前に模様を改めて眺めてみる、ということも十分にあることだと思う。桐の花との取り合わせの距離感はなんというか穏当で(朱肉との色合いのコントラストも良い)、そうした生活の一場面にちょうどよく寄り添っている。


酔へば海訛りひろがる夜の涼し 楠本奇蹄

実はちょっとした離島でこの文章を書いているが、まさにこの句の舞台設定そのものという感。日が沈んでいよいよ夜も深まるなか地元の人たちとの宴席も皆酔いが進んで訛りが混じるくらいのフェーズに入ってきている。作者はふとトイレなどで席を外して窓から真っ暗な海を眺めると酔い覚ましの涼しい風が顔に当たる。ぼおっとした暗がりの中にあるはずの海を含めた作者を取り囲む空間全体に、アルコールと訛りが混ざっただらっとした空気感が広がっていく感じを掲句はよく言い当てている。酔へば海、という唐突感ある入りも個人的に好き。


髪が減る新樹のまへをとほるたび 鈴木総史

新樹が育つのになにやら自分の抜けた髪の毛が養分になっているらしいというロジックが掲句の背後には見える。単に見立てである木の葉髪という概念と違った形の打ち出しによって、季節が異なることによる本能的な違和感を絶妙に回避するという職人技的なさまを見たように思う。10句並べたときにこの句がもっとも“ボケ”寄りと感じたが、高度なことをそうした天真爛漫な手つきであっさりとやっているところもまた好ましく思った。


鯖は美味い雨が流れる石段の 上田信治

古い由緒ある街のとある寺社の参道にあるちょっとした料理屋で鯖を食べている。外は雨で、とにかくじめじめしていて、ここに出てくる鯖がおいしいかどうかは悩ましい。たぶん作者も自信がない。なので、あえて美味いと言い聞かせている感じがある。末尾の「の」は厄介で、一読倒置のように思ってしまうが“石段の鯖はうまい”とは親切に解釈しても繋がらないので、その読みの可能性は放棄し、ただ無意味、もしくは文字数合わせ以上の機能はないというところで解釈を落ち着かせたい。同時に、この無意味の“の”こそが解釈のプロセスに揺らぎを齎しているので面白い。


加藤右馬 アラベスク 10句 ≫読む  第889号

楠本奇蹄 白髪 10句 ≫読む  第890号

鈴木総史 汀と呼ぶ 10句 ≫読む   第891号
野城知里 槌の跡 10句 ≫読む

上田信治 平気 10句 ≫読む  第892号

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