【週俳6月の俳句を読む】
五七五と季語?
曾根 毅
風鈴に西陣の昼闌けにけり 桐山太志
西陣織といえば日本を代表する織物。応仁の乱の際、山名宗全率いる西軍の陣地が置かれていた場所というのが、西陣の名の由来です。江戸時代に最盛期を迎えますが、享保15年の大火「西陣焼け」により職人が離散したこともあって大きく衰退するなど、その長い歴史のうちには様々なドラマがあるようです。例えばこの句について、西陣焼けの前日の情景と思えば、闌けるという言葉もただならぬものになります。そして、切字「けり」もまた、風鈴の音を一段と鋭い余情を感じさせるでしょう。あるいは、現代の穏やかな日常とすれば、日本が世界に誇る伝統工芸品としての絢爛豪華なありようが、風鈴の音を美しく響かせることでしょう。このように、時代を特定しないということも、多義を抱えた俳句における言葉の妙味だと思います。
いうれいの鍵穴ほどの小ささよ 犬星星人
鍵穴ほどの小さな幽霊というものを想像するということになります。鍵穴には、当然に鍵とそれを使用した施解錠の機能があり、内と外を遮断しロックするもの。幽霊との関連から、現世とあの世の境などを連想させます。そこに作者や読者の鍵穴にまつわる経験が加わって想像に厚みが増します。例えば幽霊が身内であるとか、その土地の怨霊であるとか、幽霊が存在感をあらわしてきます。ただ、どれだけ情報が加わってもどこか寂しい存在のように思われるのは、触れようとしても触れられず、想像と現実との区別のつかない立ち位置にあって、かつ、とても小さな存在として示されているからでしょうか。穴としての空虚や、命を持たないものどうし幽霊と鍵穴との相関というのも要因かもしれません。
どこにも戻れない冷蔵庫にシールの跡 牧野 冴
俳句が俳句であるための要素は、本当に定型と季語なのでしょうか。そうだとして、それに沿わないものを俳句ではないというのは容易いことですが、定型と季語という約束が破られても、そこに俳句を感じることがあるとすれば、それこそが本来の俳句なのではないかと突っ込んで考えてみたいところです。冷蔵庫は歳時記に載っていますが、歳時記に載っている言葉が入っているから有季だというのは短絡的だと思います。季語があっても無季俳句というのはあるでしょう。シールを貼りつけるような対象としての通年であらゆる物を受け容れるような冷蔵庫が、季語季題の冷蔵庫として機能するのかどうか。またこの句の場合、五七五の定型を逸脱していますが、字余りなりに七五五のリズム感、定型感覚は感じられます。五七五の定型との比較において、その機能をどう分別できるのか。そのうえで、「どこにも戻れない」という焦燥を感じさせるような訴えかけに対する、低温をもって様々な物を保存し延命する冷蔵庫の存在が浮かび上がって来ます。現代の生活に欠かせず、その生活とともに十数年を過ごすような多機能冷蔵庫の表面に、過去に貼り付けられたシールの跡があるということが、読者の経験のうえにリアルに訴えかけてくるのではないでしょうか。それが俳句以外の形式では見過ごされてしまうものを言いとめているなら、そこに本来求めるべき俳句があるのではないかと思うのです。俳句の定型は説明不足を生じますが、一方で抽象に通じ、直感を直感で表し得るようなところがあります。何でもない言葉が、他の型式では表現しえない余情を表出させるところ、外形や意味内容だけでない俳句そのものに興味が尽きません。
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