【週俳6月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅳ
瀬戸正洋
家ぢゆうの灯の青白き梅雨入かな 桐山太志
気持ちを落ち着かせる、集中力を高める、不安や寂しさを感じる等々、青白いとはそういった色とあった。梅雨入の頃のからだにへばりつくような湿気や不快感。青白き灯の色とは身にまとわりつく余計な不快なものを遮断してくれるものなのかも知れない。
聞香に痩する女や金魚玉 桐山太志
痩する女がいる。そんな女には何もかも忘れてじっくりと香を味わうことがあってもいいと思う。ここちよい香にはこころとからだを癒す作用がある。金魚玉と金魚はすべてのことを理解している。
蘭鋳の欲深さうな瞼かな 桐山太志
蘭鋳の瞼にはひとのこころが映っている。つまり欲深さうな瞼とはひとのことなのである。欲深い瞼としなかったのはあやふやにしておきたかった。欺いておきたかったということなのである。これは生きていくための知恵なのかも知れない。
低音を復習ふピアノや茄子の花 桐山太志
茄子の花は低音を復習っている。茄子の花は茄子色を復習っている。復習うとは繰り返すことである。繰り返すことによって茄子は茄子に近づいていく。
曇天の日暮あいまい行々子 桐山太志
あいまいとはいいことばである。曇天とはあいまいである。日暮とはあいまいである。行々子とはあいまいである。あいまいとは二通り以上に解すことができることとあった。
梅雨晴や濯ぎては嗅ぐ醤油壜 桐山太志
過去をあとかたもなく消し去りたいと思っている。消し去ることができないのが人生なのである。梅雨晴れなのである。空き瓶を何度も濯いでいる。
思ひ出すやうに息吸ふ暑さかな 桐山太志
臭覚だけではない。視覚、聴覚も、同じことなのである。ひとは、その一瞬一瞬を対処するために必要なことだけを思い出している。
久しぶりと云ひサングラス外さざる 桐山太志
見せたかったのである。しっかりと見ようと思ったのである。自分ひとりでは自信がなかったのである。久しぶりの再会であった。
風鈴に西陣の昼闌けにけり 桐山太志
西陣の昼の風鈴こそ風鈴が風鈴である所以である。昼のまっ盛りである。あるいは昼をいくらか過ぎたころなのかも知れない。昼の風が西陣の路地を通り過ぎていく。
目を凝らす庭に日照雨や祭鱧 桐山太志
視覚より触覚である。晴れているときの雨は雨ではないのかも知れない。祇園囃子が雨を連れて来たのかも知れない。
この作品の題名である祭鱧のことは知らない。祇園祭の別名を鱧祭というとあった。祭鱧と鱧祭とは違うらしい。字面からいうと祭鱧とは鱧のことである。鱧祭とは祭のことである。よくわからないで済ませていいのか自分でもわからない。生きていくということはこんなことばかりである。
飛び交ふや蛍その他の何や彼や 犬星星人
飛び交う蛍を見てその背後にある何や彼やに思いが到る。自分がそうであるから蛍もそうであるという程度のことである。裏からも横からも上からも下からも蛍を見なくてはならない。ひとも同じである。ひとのこころは危い。一寸先は闇だと思う。
捨て所なく左手にラムネ瓶 犬星星人
捨ててよい場所に捨てないと運に見放される。神さまに見捨てられる。貧しい考え方である。貧しいからひとなのである。観光地、繁華街の片隅に放置することが少しでもなくなればそれでいいのかも知れない。
天上は睡たきところ蝸牛 犬星星人
天上とは空ではない。空の上のことである。対義語は地上ということになる。地上にいるのは蝸牛である。眠くなる原因は、睡眠不足、睡眠の質の低下、体内時計の乱れ、ストレス、飲酒、カフェインの過剰摂取等いくらでもある。蝸牛は天上にもいるのかも知れない。
時計草ひかりの針を幻想す 犬星星人
ひかりの針が見えてしまったことが間違いのもとなのである。幻想とは根拠のない空想のことである。空想には根拠がある。よりどころもある。捨てたものではないかと思う。
生きてゐることの楽しき鯰かな 犬星星人
生きていることを肯定している。鯰であってもそうなのである。ひとであるならばなおさらである。故に、疑ってみることが必要なのかも知れない。
バルコニーにて天体のつまびらか 犬星星人
バルコニーとは二階以上の建物から張り出したスペースのことである。つまびらかとは細かいところまで省いていない。詳しいさまのことである。だからといって何もかも理解できているということではない。知識はもとより、天候から悪意まで、その他もろもろのことを知っておくことが必要なのである。
蚊遣焚き図書貧乏といふことも 犬星星人
金があると書籍を買ってしまう。本好きということでもない。散歩のコースは書店、古書店、図書館、珈琲店ということになる。不思議なことだが書店や古書店を歩いていると必要な本が必ず見つかるのである。帰宅後は蚊遣を焚いた部屋で日の暮れるまで本を読む。
蓮の葉のばろんと空を翻し 犬星星人
翻った蓮の葉を見て空が翻ったと思った。空が翻るのを見て蓮の葉が翻ったと思った。翻ったものの何もかもが「ばろん」ということである。
金盥抱へ晩夏の東京へ 犬星星人
晩夏の東京へという表現も面白いが金盥抱へも面白い。石鹸と手ぬぐいを持てば他県からわざわざ東京のとある銭湯へ行ったことになる。故郷は近郊の他県であるのかも知れない。
いうれいの鍵穴ほどの小ささよ 犬星星人
成仏しない死者がこの世にすがたを現したものがいうれいである。生前のすがたと同じものになる。鍵穴ほどの小ささとなると寂しいような気もする。大きくなったり小さくなったりすることができるのがいうれいである。成仏しないことは困るがいうれいは自由である。それがいうれいのいうれいである所以なのかも知れない。
最後尾の看板持たされて炎天 牧野 冴
持たされるのならば最後尾がいい。たとえ持ちたかったとしても最後尾がいい。先頭は断るべきである。まして炎天ならばなおさらである。
円陣で台本さらう雲の峰 牧野 冴
台本を繰り返し読み込む。円陣を組むとは緊張感と意識の統一、気持ちを高めるためである。さらに雲の峰としたことでこころざしの高さ、強さが感じられる。
下の名で呼び合う職場ところてん 牧野 冴
フレンドリーな職場なのである。フレンドリーな職場だからところてんなのである。決め事ではなく職場の雰囲気がそうさせているような気がする。それが良いことなのか悪いことなのかは別の話である。
夏痩せてテプラで直す女神の名 牧野 冴
テプラはファイルの背表紙のためだけに使うものではない。間違った女神の名を修正するためにも使うのである。暑さのために食欲が減退して衰弱する。衰弱することも必要なことである。故に間違いに気づいたのかも知れない。
吐き方を褒められている熱帯夜 牧野 冴
吐く原因は多岐にわたっている。無理に吐く必要もない。がまんする必要もない。あるがままでいいのである。吐き方とは生き方に似ている。熱帯夜のことを思うとうんざりした気持ちにもなる。
逝去なお続く年表扇風機 牧野 冴
年表とは歴史のことである。逝去とは死の尊敬語である。戦時下を読んでいるのかも知れない。時代がひとを殺す。ひとがひとを殺す。それでも扇風機は回っている。
聞き飽きた台詞ラムネがぬるく落ちる 牧野 冴
飽きることにほのかな親しみを覚える。聞き飽きた台詞だからぬるいのである。聞き飽きた台詞だから胃の腑にぬるく落ちるのである。飽きることのない新鮮な台詞に代えてしまうことは無意味なことなのである。また、ラムネを冷せばいいだけのことである。
ピンセット冷たく眉を抜く西日 牧野 冴
よく見せようとすることは悪いことではない。だが「冷たく」とか「西日」といえことばがあることに興味を覚える。
茄子の皮するり洋画の女言葉 牧野 冴
女性だけが使う言葉である。人称詞かも知れない。洋画と対話しているのかも知れない。茄子の皮がするりとすべったのである。対話はおしまいになったのかも知れない。
どこにも戻れない冷蔵庫にシールの跡 牧野 冴
新品の冷蔵庫には戻れない。生まれたばかりの自分には戻れない。シールの跡をつけたままで生きていくしか方法はない。
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