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2020-04-05

【2019落選展を読む.2】「鷲に朝日」(抜井諒一)も読む 上田信治

 【2019落選展を読む.2】

「鷲に朝日」(抜井諒一)も読む


上田信治




今回は、4番と7番の2作品に加え、角川俳句賞受賞作である「鷲に朝日」(抜井諒一)を、読み合わせてみる。




>> 2019「角川俳句賞」落選展 

http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/655-2019-11-10-2019-1.html



7. ハードエッジ 会ひに来よ  

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/2019-7.html



背が伸びて細き手足や雛祭
梅雨の月花より濡れてゐたりけり
丼は涼しと猫の子が眠る
番号や団地の壁の夕焼けて
冷蔵庫バタンと閉めてまた明日
八月の赤字九月の黒字かな
白桃を夢の高さに積み上げて
下駄箱の中の長靴秋の暮
屋上に駐車場あり今日の月
泣初の赤子の舌の短さよ





「7.会ひに来よ」のハードエッジさんは、twitter専業俳人を名乗られている。



以前の作については、言葉に負担をかけない(伝統的かつ現代的な)書きぶりながら、近代俳句的ではない、つまり写生的ではない発想の自由を感じた。



今作でも「冷蔵庫」「丼は」「八月の」「白桃を」などの句に、俳諧的なとぼけみを感じる。



八月の赤字九月の黒字かな ハードエッジ



二八は客商売がきびしい、ということは常識なのだから、何の発見のもない句のようだけれど、この句、売り上げがひと息ついたということと、天候がすごしやすくなったということがパラレルになっていて、句の中で涼しくなったんだ、という実感があるじゃないですか。それをぬけぬけと言い放っているのが良く、これは宇多喜代子さんの「俳句日めくり」に入れたいような、アンソロジーピース。



背が伸びて」「梅雨の月」「下駄箱の」「屋上に」の句は、取り合わせの方法における季語へのアプローチがすこしずつ新しい。



丼は涼しと猫の子が眠る ハードエッジ



猫の子の季重なりを嫌うむきもあるでしょうが、これは歴然と初秋の句。きもちがよくてかわいらしい。


梅雨の月花より濡れてゐたりけり
 ハードエッジ



「梅雨の月」が、夜桜よりも濡れて見えた、という句意か。だとしたら、これも大胆すぎる季のずらし方だけれど、感覚的な実質はあると思う。さらに考えると、この句「梅雨の月」を詠むふりをして「花」をほめているのではないかしら。だとしたら本当にアクロバティックなアプローチで、相当おもしろい。



背が伸びて」や「泣初」の句には(感覚的な実質は感じつつも)着眼に既視感がある。ただ「背が伸びて」は、雛人形と若い子どものきめ細かい肌感との相似、そして、手足の伸びた姿と雛人形の似ていなさが相まって、かなりグッとくる。



叙法が安定していて、人を驚かす類の発想を好まない書法は、生産性が高い半面「知ってる」範囲に収まりやすい(それは「鷲に朝日」(抜井諒一)にも強く感じることだ)



それでも、数多い作品の中からは、その人の固有性というものがあらわれるものだなということを、ハードエッジさんの50句から感じた。



冷蔵庫バタンと閉めてまた明日 ハードエッジ





4. 杉原祐之 むべなる  

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/2019-4.html

梅雨兆す汐入川の匂ひかな
 


ビール売るハイビスカスの花をつけ
 


農協のバケツに稔る稲穂かな  

縁側に座して落葉の濃き香り
 


葬列に踏み倒さるる彼岸花 
 


冷蔵庫また捨ててある師走かな
 


暁け切らぬ島水仙と潮の香と 
 


自転車を押し夜桜を仰ぎたる 
 


祭足袋ATMに忘れられ




「4.むべなる」は、編集部による一次予選通過作。



杉原祐之さんは「鷲に朝日」の抜井さんと同じく「ホトトギス」直系と言っていい書き手だ。



彼の方法は、麒麟さんの受賞作「玉虫」と共通していて、それは、虚子の中にあった低佪趣味を、自身の作句の中心に据えるというやり方だ。



虚子のたとえば〈梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け〉〈日課なる昼寝をすませ健康に〉のような句は、措辞も内容も、日常意識からの飛躍が0に近いけれど、逆に、即興的なもの言いと現実の手ざわりをもって、スポンタニティ(自発性)の美を感じさせる。



「俺が俳句だ」と言える立場にあった虚子にしてみれば、これらの句を作ることは、俳句が自らを歳時記に登録済みの概念で固定してしまうことへの自戒のあらわれだったと、見ることもできる(このことは「玉虫」(西村麒麟)について書くときに詳述したい)。



杉原さんの「ビール売る」「農協の」「冷蔵庫」の句には、アイロニーがあり現実感がある。それは、いまの現代の人事句の手ざわりだ。



ビール売るハイビスカスの花をつけ 杉原祐之



野球場で妍を競う、ビールの売り子を詠んだのだろう。季重なりのようだけれど、ビールが季題で、ハイビスカスは造花なのだ。そこに、いわゆる「かわいい娘」が、その可愛さで大量のビールを売り上げる構造に対する批評も感じられる。



そういえば「冷蔵庫」の句は、師走が季題で冷蔵庫は粗大ゴミであり、「農協」の句は、稲穂が稔っているのがバケツの中で、それはおそらく、農家のガチの仕事としての収穫ではない。



この身も蓋もないアイロニーを含む季題へのアプローチは、杉原さんの作家性かもしれない(「祭足袋」の忘れものはたぶん面白すぎだけれど)。



梅雨兆す汐入川の匂ひかな 杉原祐之

暁け切らぬ島水仙と潮の香と



梅雨兆す」の句は「汐入川」の地名がよい。汐入川は全国各地にある川の名だそうだけれど、満潮のとき、上げ潮が入りこんでくることが特徴の川なのだろう。川に潮がさかのぼっていくイメージと、初夏から梅雨へと季節が暗く押し移っていくイメージが二重写しになる。さらに、雨の予感と汐のふたつの水の匂いが同時にそこにある。



暁け切らぬ」の句も、また、夜明けの時間の刻々と変化する空の色があって、水仙と潮のふたつの香りがあって、さらに、夜明け前の青一色の世界から、じょじょに、明るく水仙の黄色が見えてくるという、変化の相を捉える巧みさがある。



杉原さんの50句には、季語以上のことを何も言えていなかったり(〈天井に声の響けるビヤホール〉)、既視感があったり(〈コンセント抜かれ聖樹の静もれる〉)、さすがにこの世に何もつけ加えていなかったり(〈西瓜食べながら子どもの宿題を〉)という句がある。



けれど「ビール売る」「農協の」「梅雨兆す」のような句は、「ただごと」を述べるというポーカーフェースを貫きながら、じつは非常に情報量の多い複雑なものを立ち上げている、と思った。





◎「鷲に朝日」(抜井諒一)を読む



「7.会ひに来よ」「4.むべなる」に見られた既視感・類想感は、抜井さんの受賞作が、小澤、岸本選考委員から指摘されたことでもあった。



チューリップ午後の床屋に子の多し 抜井諒一 

壊すだけこはして石鹸玉に飽き
峡の木々裏返したる青嵐
ひとりづつ減る子や保育園夜寒
そよぐとき影失へる冬の草


その中のひとりを見つめ盆踊



それぞれ「なるほど」という見どころがありよくできているけれど、同じ発想で誰かが既に詠んでいるだろう、と感じてしまうことも確かだ。



もうひとつ「鷲に朝日」の弱点として、小澤、岸本選考委員がともにあげていたのは、説明的ということだった。



春の日のこころの軽くなる匂ひ
留まれる蛇に殺気の満ちてゆく
台風の匂ひが先に来てをりぬ
雑踏の中のしづけさ冬めける
いちまいの汗がまとはりついてをり
泥水の氷に泥の無かりけり




これらの句について、岸本委員は「言葉で言い仰せてしまっている」と否定的であり、小澤委員は、季語やそのものの説明に終わっている、としている。



※近年の俳句の「言い仰せてしまう」傾向について、岸本さんは以前、田中裕明賞の選評でも発言していた。 >> 第10回田中裕明賞



上にあげた句は、じつは「鷲に朝日」を◎で推した仁平、正木両委員の推薦句でもあったので、そこは「好みの違い」(仁平委員)ということになって、今年は、抜井、西村の二人受賞が決まった。



これらの句は、みな発想を中心とした句だけれど、その発想に、季語から予想される範囲を超えるものが少ない。むしろ、そうすることを拒んでいるようにさえ見えるのは、季題の重視、活用を旨とする、伝統俳句協会系の作者の、俳句観の現れかもしれない。



しかし、蛇の殺気や、雑踏の中の静けさ、あるいは〈すべて雑音秋風の音のほか〉〈その中のひとりを見つめ盆踊〉といった句の発想が、常識的で、誰でも思いついきそうであることは、たぶん作者も否定しないだろう。



さらにいえば、そこに発想以上のものがないならば、その句の価値にはそれなりの限界が生じる。俳句の価値は、言葉の一次的内容から生じるのではないからだ。逆に、内容や発想以上のものが十七音をこえて現れるなら、書かれていることは、どんなに平凡でも、ただごとでもかまわない。



春の日のこころの軽くなる匂ひ〉〈いま会つてすぐに仲良し七五三〉のような句を見ると、この人は「ただごと」を「ぬけぬけとみんなが好きそうなことを言うこと」だと解釈しているのかと思う。さいきんの「ホトトギス」の流行なのだろうか。すくなくとも、虚子や爽波の「ただごと」とは、だいぶ違う。



要するに、自分は、今年の角川俳句賞の選考における、仁平、正木両委員の見識を、すこし疑ってしまっているわけだけれど。



ただ、よくないと思う句ばかりをあげることは生産的ではないので、自分なりに面白く読んだ句をあげる。



ひるがへる鷲に朝日のかつと赤 抜井諒一



受賞作を代表する一句。身をひるがえす鷲の腹に朝日が当たる。その運動性によろこびがあるのだけれど、そのよろこびは、藤田哲史の〈海老の素揚にさつとしほ〉を連想させる調子の良さから生まれている。


蜜柑より小さき両手で剥いてをり




選考委員がそろって評価していた句。温州みかんは、子供の手でも、だいたい手の中でむけるのだから「蜜柑より小さき両手」といえば、よほど小さい子なのだと分かる。「両手」も「剥いてをり」も、その懸命さが見えるように働いている。楽しい。



冬の川駅の下へと潜りけり



線路と大きな川が直角にまじわる状態をこうは言わないだろうから、川が線路を斜めにくぐるところに、たまたま駅がかかっているのだろうか。かんたんな言い方で、特殊な景を再現しているのかもしれない。そう思わせることが面白かった。



春の日のこころの軽くなる匂ひ



この句自体は、完全には成功していないと思うのだけれど、このばかばかしいほどの肯定性には、じつは可能性を感じている。この句には「ただごと」句特有の「あるはずのものがない」という感触があることはあるからだ。



京極杞陽や高田風人子(たとえば〈美しく木の芽のごとくつつましく〉〈好日のしづかなるかな花芒〉のような句)が参照されているのかもしれない。



「春の日」「こころの軽くなる」「匂ひ」と空辞に近い言葉ばかりを重ねて、返って読者に「こころの軽くなる」ことと「春の匂ひ」の実体を、探させるようにしむけている……そういう句なのかもしれない。



「あるはずのもの」がないことが、「あえて」ないのか「ただ」ないのか。ここには美学的価値判断において、作者の意図を算入すべきかどうかという問題をふくむ。



自分は、とりわけ俳句においては、作者がなにをしようとしているかは、文脈として重要だと思うのだけれど、「鷲に朝日」の50句からは「冬の川」と「春の日の」の句を、安心して肯定できるだけの意図を読み取れなかったことは確かだ。



(つづく)


2018-11-25

「第64回角川俳句賞」候補作品 雑誌掲載作6作品を読む 藤田哲史

「第64回角川俳句賞」候補作品
雑誌掲載作6作品を読む

藤田哲史


毎年注目を集める角川俳句賞。

第64回となる今年の受賞作は、鈴木牛後さんの『牛の朱夏』に決まった。

選考の様子や受賞者のことばなどはが「俳句」11月号に詳しく掲載されていて、受賞作はもちろん、選考の俎上に上がった候補作品50句も併せて読むことができる。

候補作品6つのタイトルと作者を示すと、

『お菓子』上田信治(生年昭和36年 所属結社「里」「週刊俳句」)
『闇を探す』 抜井諒一(生年昭和57年 所属結社「群青」)
『星を撫づ』 日隈恵里(生年昭和46年 所属結社「南風」)
『花烏賊』 大西朋(生年昭和47年 所属結社「鷹」「晨」)
『てまひま』 羽根木椋(生年昭和29年 所属結社「いつき組」「街」)
『零』 大塚凱(生年平成7年)

となる。これらは週刊俳句の「落選展」と「2018落選展を読む」の対象から外れてしまうので、この記事で各作品などについて少しずつ紹介してみたい。

『闇を探す』 抜井諒一

平成23年第3回石田波郷新人賞奨励賞。
平成24年第23回日本伝統俳句協会新人賞。
平成25年第1回星野立子新人賞。
平成28年第6回北斗賞。

という数々の受賞歴を持っている作者で、角川俳句賞も十分にその射程圏にあるといった印象だ。

風船を子分のやうに連れ回す

「子分」の見立てが見せ所。
風船が「子分」とすると、その風船の持ち主は「親分」で。

緑陰の中の空気の濃かりけり

標高が高くなると「空気が薄い」というけれど、ここでの「濃い」はそれと異なり、直感的な空気の感じを指している。

夏の木の匂いとか、湿り気というものを「濃い」の一語に託している。

並べられている言葉に読者の想像力が入ることで詩情が立ち上がる、そういうことを逆算している巧みさが感じられる。

遥か見るやうに暖炉の炎見る
雪よりも先に気配の降つて来し


即物的ではなく虚構の表現に抒情を織り込んで行くタイプの表現。平成俳句のいちばんおいしい表現をいちばんおいしいかたちで成立させることができる作家なのだろう。


『星を撫づ』 日隈恵里

こがらしや離陸するとき灯の消ゆる

夜間飛行をイメージすればいい。離陸準備のときに灯が落とされて、聴覚がやや敏くなるつかのま。凩と飛行機の主翼が空気を切る音がまじりあう。音で描かれる「凩」だ。

火の爆ぜる音ひとつきり山眠る

焚火かそれとも冬のキャンプか。時間の軸を数直線で表せば、1点以外は全て静寂なのだ。音以前も、音以降も。

『花烏賊』 大西朋

家の奥に更に一軒フリージア

下町と呼ばれる地域には木造の家が立ち並んでいて、そういう家はたいがい狭い路の奥にあり、法律上立て直しができなかったりする。

そしてまた、たとえば、そんな家には音符記号のついたボタン式の呼鈴が付いていて、押すと音が出なかったりする。

『てまひま』 羽根木椋

チューリップ首(かうべ)なくして終はりけり

50句のうち1句と言われればこれだろうか。

作者は、花びらを含む花の部分ではなく、花びらのなかの、蘂のある芯の部分を「首」と見立てたのかもしれない。

つまり、ここでの花びらは、頭を包む”布”であって、このチューリップは、いわば頭を包む布ごと、鋏でもって首を切られた者としての比喩ともいえる。

『零』 大塚凱

秋から夏までの都市を一貫してテーマにした作品。座談会でも「屈折」感のある詩情を評価されている。

この作品は、淡々と作品を列挙するに限る。

逃れても月ありあまる都心かな
すこし咳してあなたではない手を握る
晴れていて初夢のなかひとりになる
どこに置いても献血の肘冷た
来たことのない梅林とだんだん思ふ
三月終はる空き缶のなかの雨
寝静まるあなたが丘ならば涼しい


『君に目があり見開かれ(佐藤文香)』『自生地(福田若之)』に比肩するような自在さと、意味やモチーフで押し切らない巧みさがある。

というのも「ありあまる」とか「ではない」とか「だんだん」とか、含みのある語彙を適切に配置できる冷静さがこの作者にあるから。

『お菓子』上田信治

瓜漬のなつうぐひすの緑かな

これには比較するとおもしろい句があって、

捨て菜畑うぐひすいろに氷りけり 飴山實

がある。この「うぐひすいろ」は、薔薇色とか、空色といった色の表現と同じように、
薔薇っぽい色であったり、空っぽい色を意味していて、実際に「捨て菜畑」が「うぐいす」と完全に同じであることを保証していない。

ところが「なつうぐひす」の句は、こう書かれてしまうと、瓜の漬け物の緑が鶯の緑だという断定となる。

質感という点でいえば、つるつるとした瓜と羽毛を蓄えている鶯にはかなりの隔たりがあって、だからこそこの緑の同一性への断定が異様なものとして感じられてくるのだ。

サングラス海に沈んでゆく早い

この措辞もまったく不思議なもので、ふつう(というかセオリー通りだと)「サングラス海に沈んでゆく早さ」とでもしておけばかっこうが付くのに、あえて「早い」としてあたかも発話されたもののように演出を仕掛けている。

このようなセオリーを外した語法はいくつもある。

はんこ屋に自転車止めてクリスマス
フラミンゴ首8の字に桜散る

はんこ屋の前で自転車を止めてはじめてクリスマスになる。ではそれまでのクリスマスは一体どこに。 そして、このフラミンゴの嘴は8の字の一体どこにあるのか―――というような描写の不完全さをあえて残し、言葉の世界を愉しませる仕掛けがそこここに散りばめられている。

水槽や鱧が長さを見せてゐる

この句では、長さだけが強調されることにより、鱧の生き物らしさがすっかり捨象され、何か紐のようなものに思えてくる。



以上のとおり候補作品6つについて少しずつ紹介をしてみた。

選考座談会記事を読めばわかるけれど、なかでも最後に取り上げた「お菓子」は、受賞作と最後まで競った50句で、昨年末に第1句集『リボン』(http://youshorinshop.com/?pid=125115125)を刊行した話題の作者のもの。

選考座談会では、表題句の「お菓子」の「お」付けなどについて審査員から厳しく指摘されているけれど、タブーを犯すなど攻めの作品が受賞を逃すのは優勝みたいなもので、これは角川短歌賞の穂村弘や、角川俳句賞で言えば榮猿丸しかり、前例に事欠かない。

角川俳句賞が時代を映す鏡とするなら、時代を先取る才能はこの賞にはそぐわない、ということなのか。

”次”の俳句は、むしろ落選作のなかにあると思えてならない。

(終わり)