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2019-12-15

【空へゆく階段】№21 俳句探訪 竹中宏「饕餮」 田中裕明

【空へゆく階段】№21
俳句探訪 竹中宏「饕餮」

田中裕明

「青」1984年8月号掲載
【編註】タイトルのうち〈竹中宏「饕餮」〉部分は
今回の転載に際して加えた

始は忘じぬ終は見えこずと踊り子  竹中 宏

句集「饕餮」より。集名はたつてつと読む。その謂は中国古代の青銅器の文様として刻された怪獣と自跋にある。この石川淳ふうの自跋がたいへんにおもしろい。もちろんおもしろいとか楽しいとか言うのはこのような真率な文章に対して失礼にあたるのかもしれないが読者は楽しめばよいしそれならば書き手も楽しくないはずはない。さてその自跋の中で作者は師故中村草田男の世界を「俳句は、はじめに、生命のよみがへりともいふべき、芳烈な至福の体験とともにあったのであり、そのひとの生と表現とをともに繋ぎとめる錨、ともにささえる礎石が、その場所にすゑられた。その基礎構造は、きはめて堅固で安定したものであって、爾後半世紀にわたる草田男俳句の千変万化の発展過程をとほして、すこしもゆるがなかったといへる」と感じたのちひるがえって次のように言う。
うたふにあたひするなにものを、わたくしはもつものであらふ。かへって、それらをみいだすために、わたくしは俳句をつくりつづける。わたくしのうたが、うたふにあたひするものであるのかどうか、実際にうたつてみるまでは、わからない。うたつてみて、不分明の度ははほもまさらう。一句ののちに、さらに一句をもとめねばならぬなりゆきである。ここに、文学といひ、対して芸といふ。このばあひ、うたふにあたひするものといふ含意を腹中に呑んでゐずには、文学なる概念はなりたたず、他方、うたつてみるといふ実際の動作には、芸がまねかずとも来つて、まつはる。けだし、文学は、これを芸の渦中にするほかなきものか。しかも、啓示はどこからもきこえず、象徴の構造はほぼ荒廃に帰した。(後略)
散文というのはおかしなものでたとえば詩は無内容であってもかまわなくてたとえば韻律がととのっていればそれでよくても散文ではそうはゆかない。詩がことばの伝達生をできうるかぎりおさえたものであるのに対して散文はそれを十全にはたらかせてはじめて散文である。あるいは無意味な散文など考えられない。ところが実際にはそうとばかりも言えなくて(はじめての散文というのはおかしなものでというくだりはこのあたりにかかります)散文で韻律がととのっているといえば間違いにきまっているけれどもまぁそういうほか言いようのないような文章もあるにはあってそのような文章なら伝達すべき内容などなくてもよいのではなかろうか。こうは言ってみても無意味な散文などないという前提は厳然としてあるからこの句集の自跋にしてもたとえばさきほど引用したところの最後の一文はやや気にかかる。象徴の構造はほぼ荒廃に帰した、はたしてそうなのだろうか。あきらかに間違っているというのではなくてたしかに心のそこからうべなう声が聞えるような気もする。しかしながら象徴の構造がいまだ存在するというような作り方で俳句をつくってゆくのもひとつのいきかたであるとも思えてどうせならあると考えていたほうがかえって別のことが言える。

  廃工場のギリシア風柱頭まひるの藤

  降車して芯なき人波懸崖菊

  滝行場へ足あと小さくしだいに密

  軽き死もあるか噴水はさらに脱ぐ

  虚無と名づけあと揺ぎをり野の日傘

  下肢は木のやさしさ佛月浴びて

  鯉おさへ切ると餅花へも目くばり

  帰り花生れて遊ぶもの短袴

  ほととぎす火の舌失せて朝の蠟

  箱庭や遊びをせんとしつくしてか

  マラルメて誰梨は木に灼け響き

  ピカソ春に死し夏はての船首の牛頭

  午睡界より朱の祠率てもどる

  頭韻法、蟻地獄消え蟻生きのこる

  凍鶴や鐘楼に継ぐ素木の脚

  餓鬼忌から十日餘りやこの半世紀や

最後の句は中村草田男を悼むという前書きのある四句のうちの一句。この句集は中村草田男にささげられているけれどもその集尾に師を悼む四句が屹立している姿はかなしいものである。しかしながらこの弔句には感傷はみじんもない。「先人の経験は、おほきなはげましである。とはいへ、かなしいことに、それがすぐに、わたくし自身のうへの事実とはならない」と言いきった作者の哀切はあってもセンチメンタルなひびきのないのと同様である。とくにこの一句昨年の真夏になくなった中村草田男の長い俳句とのかかわりあいを鳥瞰してあますところがない。しかして頭韻法の句、これはアリテラシオンとルビが振られている。つまり頭韻法という言葉で韻がふんであるという趣向である。作者によれば「小歌には小歌なりのなぐさみがある。だが俳句形式には、もっと強靱な弾性がひそむとみてあやまつまい」ということだけれどもこの句などはちょいと小唄ぶりとみてかまわない。もともと詩を純粋詩と小唄ぶりに分けて考えたときにかならずしも純粋詩にくみするほうではない。どちらかと言えばライトヴァースとして俳句をとらえるのが性にあってはいるのでこういう句はおもしろい。たとえば現代詩ではライトヴァースに見せかけたディフィカルトポエトリーを書くということがあるけれども俳句ではそんな芸のこまかいことはできない。あるいはもっと芸がこまかいのでそういうつくりにはならなくてたとえば脇をさそうということがある。もちろん純粋詩と小唄ぶりの両方をそなえていることが大切なのであってどうやら中村草田男は純粋詩としての俳句の作者ととらえられているけれどもそしてまたしんじつそうにちがいないがやはり小唄ぶりの作品もあってそれが草田男の名をおとしめるということはない。そして草田男のディフィカルトポエトリーの部分だけをまなぶということはないからこの句集の作者もまたライトヴァースの味を知っている。それをこの句集でややかくしたきらいがあるのは作者一流の照れであろう。踊り子の草田男はまさしく純粋詩のようだがずいぶんまわりくどい方法で脇をさそってはいないか。

空へゆく階段 №21 解題 対中いずみ

空へゆく階段 №21 解題

対中いずみ


竹中宏(「翔臨」主宰)は、2冊の句集をもつ。1984年3月に刊行された『饕餮』と、2003年5月に刊行された『アナモルフォーズ』である。

第一句集と第二句集のあいだに約20年の歳月が流れ、第二句集以後すでに16年の歳月が流れている。第三句集はずいぶんと待たれているがなかなか上木されない。何度か第三句集を出して下さいとお願いしたが、あるとき、「タイトルが決まらないんですよ」と言われた。「タイトルなんて! 「アナモルフォーズⅡ」でもいいじゃないですか」と言ったらものすごく嫌そうな顔をされた。それから数年を経て「タイトルが決まりました」と教えてくれた。しかし、その後4、5年は経っている。20年に1冊とでも決めているのだろうか。決して寡作なわけではないが句集上木へのこの抑制ぶりは、現代俳句ではひじょうに希有な例といえよう。

ここでは第二句集『アナモルフォーズ』の句と自跋の最後の一文を掲げておこう。

  頭韻をいましめ竝ぶ目刺しの目

  夢に化(な)る蝶を黄とおもひ何以(なぜ)とおもふ

  色と光のあはひ微(かす)かに入る陽炎
「アナモルフォーズ」を僭稱してゐるのだから、その構造をなぞっておくなら、この句集において、雑然たる風景のなかからにじみ出るのは、明晰な圖柄ではなく、もうひとつの混沌なのだといはなくてはならない。どれほど現實を微分してもその背後にはりつく、正體のとらへがたい、むしろ、正體がないといふのが適切な、このもうひとつの混沌の時空にわたる奥ゆきは、不安の源泉であるけれども、同時に、地上のまなざしのまへに、現實をのりこえるためのいざなひでもある。

≫田中裕明 俳句探訪 竹中宏「饕餮」

2013-09-08

星をつなぐ/時をつかむ 竹中宏「禹歩」(『翔臨』第77号)を読む 小津夜景

星をつなぐ/時をつかむ
竹中宏「禹歩」(『翔臨』第77号)を読む

小津夜景



『翔臨』第77号。竹中宏「禹歩」が印象に残った。

禹歩とは道教で広くおこなわれる歩行術のこと。呪術的な意味合いのあるこの歩法を身につけると長寿が手に入る上、さまざまな災いを避けることもできるらしい。さっきウィキペディアの解説を見にいったら「半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法」と、なんだか土方巽の舞踏しか想い浮かばないような何とも言えない説明のみが書かれていたのでびっくりした。もちろん実際はそんな奇態なものではぜんぜんない(はずである)。

たぶん「禹歩の重要な特色は『摺り足』にあり、太極拳や八卦掌の基本歩術ともなっている」などの書き方なら「あ、それならカンフー映画で見たことあるかも」と思う人もいるだろうし、そうでない人にも雰囲気がずっと伝わりやすい(少なくとも壮大な誤解を与えない)のに(もっともこちらにせよ、もし本当にそんな歩きかたで町をうろついたら、悪い薬と誤解されかねないといった意味では奇態なのだが、私が言いたいこととは別の話)なにゆえ暗黒舞踏なのか。おどろおどろしい方が効き目がありそうだから? あるいはもしかすると、そう単純には書けない経緯があるのかもしれない。

さて、竹中宏の『禹歩』である。これはかなり手の込んだ雑写的編集を感じさせる作品だ。「端的に幸やパン屋をうかがふ蜂」「石榴ならむ繁りに文字は衛戍とあり」などの、接写ぎみで残留感のある視線を、巧みに音韻を曳きずることで表現した句も興味ぶかいが、個人的には「バイクで来るダブルのスーツ鯉のぼり」(きわめて良い風景)「スキンヘッドの紐は眼帯雲の峰」(素敵。イチオシ)「エスカレータ終端の櫛業平忌」(つげ櫛と伊勢物語のカップリングなのにふしぎとモダン)といった被写界深度の深いスナップ風写生が最も好みであった(もちろん、作中にはこの作者特有の「ガム嚙んでは物質枚挙しやめぬ蜘蛛」のごときアナモルフィックな句も存在する)。そしてまた、そうした句の合間を縫うようにして、どことなく感覚のよたついたような、身体をひきずるような、つまり禹歩的歩術を思わせる句が挟まっている。例えば、次のような例。

  ぬかるみに蛇紋の轍星の恋

もともと禹という字は、身を折り曲げた雌雄の竜のかさなりあう形象に由来し、鰐や蜥蜴なども意味するらしい。また昔の人は、そんな禹が地面を這いずりくねった際に生じる痕跡の妙を超自然的なものとして捉え、禹歩としてその形を模倣し、北斗七星や九宮八卦の九星の意味と重ねあわせて解釈してきたそうだ(ちなみに、八卦掌には「走圏」という禹歩法がある。これは趟泥歩と呼ばれる「ぬかるみの中を、足を抜かず、うねり流れるように移動する動作」によって円の上をねりあるく歩行術のこと)。

こうした背景から「ぬかるみの蛇紋」といった表現が、禹歩的痕跡へのそのままリテラルな言及であり、かつ「星」という語とペアになっていることは、ほぼ間違いないといえる。またその上に「星の恋」とくれば、この句が三つのペア(雌雄の竜、禹歩と星座、牽牛と織女)を織りあわせた構造だということもわかる。

とはいえ今は、このいわくありげなアストロジック構造に気をとられることなく、あくまでも蛇紋という「曲がったうごき」自体にこだわってみたい。なぜなら、禹歩という主題をダイレクトに反映した句に関する限り、作者の視線は空間の組み立てよりも、対象の非線形なうごきをなぞりつつそれを「時間の痕跡」として掴みだすことの方に強く向かっているからである。

そういう訳で、うねうね曲折したり、くねくね屈折したり、ずりずり跛行したり、などといった禹歩流のうごきを視線でなぞってゆくことで、作者が「時間の痕跡」を捉えている例を見てみよう。

  流鶯のめぐれる底の不整脈

  下闇を出てからも鳩しのび足

  猫わたる旱ざらしのカスケード

最初の句では、作者の視線が「流鶯のめぐれる底」をなぞって、そのうごきを「不整脈」という一定しないリズム、すなわち禹歩流のもたつきを内包する時間として再認しているのがわかる。次の句では、よたよたと進んでは止まり、また進んでは止まるといった鳩の歩行に「しのび足」という摺り足のヴァリエーションが重ねられると共に、なめらかのようでいて決してスムーズに運ばない時間とのひそかな共振を図っている作者の意識が窺えよう。最後の句は、身を焼かれるような日差しの下、険しい裸山と化した滝を猫がうごいている風景だが、作者は「旱ざらし」「わたる」「カスケード」などの語によって、ゆきつもどりつしながら延びてゆく迂曲に一定の強度(なんとなく cascadeur がフランス語でスタントマンを意味することも関係づけられる気がするが、どうなのだろう?)を与えつつ、持続するその強度をつかみとろうとする自己の欲望をもさりげなく描き出している。

上記の三句は、視線が外界の「曲がったうごき」をなぞることで「時間の痕跡」が把持されている例であった。だが当然のことながら「時間の痕跡」は、動く対象を「なぞること」ではなく、動かない対象を感覚の側で「つなぐこと」によっても創り出すことができる。たとえば、次に並べる三句は、感覚の側で随意につくりだした「屈折」「曲折」「跛行」がそのまま禹歩的非線形性となっている例だが、ここではあたかも道士が九星をつなぎあわせて座を創り出してゆくごとく(なおかつその座の軌跡から運命と呼ばれる「見えないはずの時間」をダイナミックにコントロールしてゆくごとく)、作者自身が意のままに諸対象をつなぎあわせることで、そこに新たな時間を生成させると共に、その生成された時間の内に両目を拓く自己を再認してゆくようすも見てとれる。

  膝まへの汚れ三味線と皿の瓜

  炎熱忌のこめかみ・みぞおち・つちふまず

  みんなが降りつぎの猛暑の駅に降る

最初の句は、これといった文脈を顧みないで読むならば、ごく平凡な空間写生のそれに思えるが、ここでは「汚れ/三味線/瓜」の三つの対象を屈折した視線でつないで座とし、さらにその座を根拠(痕跡)とするかたちで己の意識のうごめきを掬いあげた時間写生の作物として読まれるべきだろう。次の「炎熱忌」の句も同様に、内なる眼差しで「こめかみ/みぞおち/つちふまず」の三つのツボをジョイントすることで、うだるような暑さの中にあって冷ややかに浮かびあがる「時間内存在としての自己」を作者がつかみとっているその気配をぜひ味いたい。そして最後の句の「みんな」と一駅ずれて降りるといった行為が跛行のリズム、すなわち禹歩の神髄のそれを反映していることは想像に難くないが、いたって独創的なこの摺り足の発想には、猛暑にさらされ身体をひきずるような光景の描写のみならず、リズムのずれから生じる時間をなぞり、そこに自己の痕跡を複写しようという作者の思惑がおそらく存在するのである。

この作品において、禹歩とは、空間に曲がった線を引くことで時間を可視化し、さらにその可視的時間をなぞることで自己の意識に触れることであった。また「時間を視る」とは、時間の内になすりつけられた自己の残痕に目を凝らすことに他ならず、さらにはその残痕から「自分はそこに存在した」といった信をくみとる行為にもつながっていたようだ。

ところで「なぜ作者は『時間の痕跡』の写生に際し、禹歩流の『曲がったうごき』にこだわったのか?」といった疑問については、以下のような、ごくバナール&シンプルな憶断ですませておきたい。すなわち、曲がるという現象は、時空の中になんらかの差異をうみだすヴィタリテ(生気・力)そのものであり、またそんなヴィタリテの勢いは人間の息づかい(意識の律動)をそのつど引き出す「時空の原書的な書法」を体現しているのである。

  回廊からすぐ若駒の闇のへや

この句では「回廊」からほんの少しだけ視線をずらした場所に「闇のへや」が配置されている。おそらく作者は、永遠に安定した(それゆえ時間の観念の存在しない)この円環の外へ目を向けることで、新たな世界を発見するだけでなく、いまだ生傷のような時間の萌芽や、自己という意識への手がかりに触れたことだろう。

奇しくも、視線の曲折の先にあらわれた「闇のへや」には、生命の光をやどす若駒がひそんでいて、闇はそれほど深く感じられない。もしかするとこの「若駒」は、この作者が闇のさなかに繋いだ星、意識のはざまで掴まえた時、すなわちヴィタリテのみずみずしい化身、だったのかもしれない。

2012-03-18

写生写生文研究会  第一部基調講演 写生の「中味」竹中宏

愛媛大学写生写生文研究会京都研究会(2012.2.4)
第一部・基調講演 

写生の「中味」


竹中宏


これから写生についておしゃべりをさせてもらうわけですが、ごく大づかみな荒っぽい話に終わると思います。

私の写生に対する関心は、すべて、私が俳句実作者であることがスタートとなっています。逆に言えば、俳句実作者の関心を出るものではありません。

この写生文研究会は、文科省の科学研究費の助成を受けておられるそうです。私の話がどこまで学術的な参考になるかどうかは疑問です、と青木(亮人)さんにも申し上げたのですが、いいから喋れということだったので、基調講演と大げさな名前が付いておりますが、何かのきっかけになる話でもできれば、幸せだなと思っております。



さきほどの佐藤(栄作)先生のお話ともつながりますが、明治の、漱石、子規、そこに虚子も入れていいでしょう、近代俳句のスタートの段階から、写生は一つのモットーとして扱われてきており、そして、私が俳句をはじめた五十年ほど前にも、まだまだ重要な論点ということになっていました。

そして、俳句でいうところの写生の「中味」が、それぞれの論者によってあまりに違うことに、とまどいをおぼえることがしょっちゅうだったわけです。その状況は今でも変わっていないものと思われます。その、さまざまなニュアンスで語られる写生とは、結局のところ何なんだ、ということを見つけたいと、自分はずっと思ってきたのかもしれません。

写生という理念あるいは概念が、個々の俳人の表現においてどう具体的に顕現してくるかについて、こまごまと分析することには関心がありません。具体例に関わりすぎると木を見て森を見ずということになりかねない。茫洋として収拾のつかないまでに広がっていく写生という概念の、基本にあるものはいったい何なんだ、ということを、つかんでみたい。



虚子の句を、写生的でないという角度から論じることも出来るでしょう。では、どうして彼は、それを写生と言ったのでしょうか。

割り切った見方で、客観写生というのは、単なる看板であって、虚子はそれを本気で考えてなかった、というようなことが、よく言われます。あれは、俳句を啓蒙する普及活動において、大衆にたやすく俳句に入門してもらうための手段にすぎないんだ、と。

そういう解釈がありうることは否定できません。しかし、話はそれですむのだろうか? と思うわけです。それを「高濱稲畑商店」が掲げている看板に過ぎないと言ってしまえば、むしろ話はカンタンなんです。

しかし、どうも、そうでもないのではないか、と。

むしろ、それを実のない看板だと言ってすましてしまう言い方は、その人の批評意識の貧困を示しているのではないか。



波多野爽波の『舗道の花』という第一句集の、扉にちらっと一行半ほど書いてある断章があります。

「写生の世界は自由闊達の世界である」

爽波さんが、この言葉を、第一句集の扉に書いた、ということに興味があります。



写生は何だと言われて、物を写すことだ、と答えることは同義反復です。トートロジーは絶対的な真実ではありますが、そういうことから、ものの本質や真髄が、明らかになるのか、それでいいのかと思うわけです。

僕は俳句というのは物を写すことだとは思っておりません。結論を先取りして言えばですね、俳句における写生とは、非常に特殊なものの捉え方、ないしは感覚、だろうと思っています。



さて、爽波さんのこの短い言葉がなんで面白いかというと、この人は虚子直系の弟子で、写生写生と言われて俳句をやっているわけです。しかし、自分の作句で意識されることは、自由闊達なんだと。

外から見ると、俳句における写生、というのは、対象を限定し、表現のかたちを限定し、俳句を特定の方向に圧縮し収斂していくもののように見えるけれど、どうもそうではないらしい。

どんなことでもそうなんですが、理想的に事柄が行われる場合と、そうでない場合は区別しなきゃならん、ということです。

つまり、すぐれた写生派の俳人は、その中である種の自由闊達さを享受しているらしい。このことは僕が写生を考える上での、重要なヒントになりました。



自由闊達は、単純に存在するわけではありません。どこにおいての自由か、ということが問題です。

この句集は昭和31年、1956年の刊行です。1950年代後半、つまり戦後のこの時期、彼がどういう意味でこの一行を、しかも扉に書き加えたか。どこまで意図されたものか分かりませんが、非常に象徴的で、いろんなことを考えさせる文句であると思います。

ここには明らかに、写生以外のやりかたでは、自由は獲得できないというニュアンスがあるように思える。

爽波には、片方に、自由闊達「でない」俳句がある、ということが意識されていたのではないか。つまり自己を縛っていくような俳句があることが意識されていたと思うんです。



写生ではない、自由ではない俳句とはなんだろう。これはおそらく、当時のアンチ写生の大きな流れが視野に入っているんじゃないか。そう考えることで、この命題は意味を持ってくる。

ここにお集まりの皆さんは、近現代俳句史のアウトラインはご存じでしょうから、細かく挙げる必要はないと思いますが、今日にまで続く反写生の流れの大元は、水原秋桜子だと思います。昭和初年「自然の真と文芸上の真」というホトトギス離脱の宣言において、秋桜子は、写生的な方向は「自然の真」であり、そうではない、別のものを俳句として求めていかなければならない、としている。

この反写生の方向は新興俳句へと続くわけですが、これは総じて見ると、非常に近代的な意識と価値観を前面に立てる方向である、と言える。

人間の意識というのは、ほうっておけば、とりとめもなく、あちらこちらへ散漫に勝手に動いていきます。我々の日常の経験というのは、そういうものですよね。

それを、いわば自覚的に「意識を」意識しながら、運用していくことを徹底させる。それが近代的主体の考え方で、文学も(この場合は俳句ですが)、それを前提として追求していく。秋桜子以降の反写生の流れというのはそういうものだったと思います。つまり近代的なものの考え方、人間が自己の意識を自覚的に運用していく、そして人間としての自信あるいは誇りというものが主張されるような方向です。

そういうものに対する違和感が、爽波さんにその一文を書かせたのではないか、と思われる。



爽波さんと僕は、その後、お互い長い付き合いになるんですが、爽波さんは、ここで言うようなややこしい論理操作を好む方ではなかった。非常に直感的な、そういう意味で頭のするどい人でした。

近代的な意識の自己展開的な動きの中で人間がほんとうに自由でありうるのだろうか、と彼は、あまり理屈をこねない人だからこそ、非常に強く思っていたのではないか。

近代人が当然とする、自意識を中心とするスタンスが一方にあり、また一方にそうでない自由自在さがあるとすれば、それは、いったいどういう部分で、あるいはどういう場面で実現するものだろうか。

その自由は、いわば、人間を「外の世界」に開いていくもの、自意識から自分を解き放つもので、その必要を、彼は言いたかったのではないか。

爽波さんのことは一つの例として言いましたが、いわゆる写生派の俳人は、みなそれを感じていたのではないか。これは私の観測で、そして、おそらく当たっているのではないかと思われます。



写生は、写生的な自由を、どういうふうに実現していくのか。

いちばん具体的な話をすれば、句作における主題の構成あるいは俗に言うところの俳句的な表現といったものの、外側に、俳句自体を解き放つ契機として、写生はある。写生派の俳人は、そういうふうに、自分たちの仕事を意識しているのではないか。

わたくしたちが俳句のことを考えるときには、俳句というカテゴリーをなんらかの形で打ち立てて、俳句の内と外を区別しているわけです。

近代的な意味での俳句は、近代的意識主体が、主題を選定し表現を構築します。その過程においては、俳句になりきらないもの、俳句をこわしてしまう、俳句でうたうに値しないと考えられるものが捨象される。俳句を意識する主体は、近代的意識主体として、その内と外を分けるわけです。

しかし写生派は、俳句の外とされる部分をとらえて、放さないようにしようとする。それが、俳句における写生の一番のポイントではないか。



意識的主体の主題にしたがって、作品世界を構築していくためには、目標設定の必要がある。それはいまだに実現されていないものであるにせよ、こうであろう、かくあってほしい、かくあらねばならない、という、我々のある種の理想です。

しかし、我々がそう考えるように、我々の外界は動いているんだろうか?

写生派に残されているのは、その部分なんです。その部分を閉ざしてしまって、自閉的な独立した作品の中で世界を完結させるようなことをして、自由なのか、自在なのかということです。

逆に言えば、近代的な意識主体が考える、あるべき価値が、人間を窒息させるという考え方があるように思います。



外部とは、けっして、我々が自ら構築するものではない。

さいきん、思想の方面で強調されるところですが、我々の意識は対象を構成するという考え方があります。それは、一面その通りかもしれません。極端な話、我々は、意識的にも無意識的にも、自分が見たいようにしか、つまり自分が概念をもって構築したようにしか、外の世界というものは見ることができない、そういう考え方がある。

しかし、そうは、なってないんじゃないか(笑)。

本当にオレの思ったように、世界は成り立っているのか、と、思うわけです。我々の外側には、我々の期待通りにはいかない外部の世界というものがある。

よく「自然」ということを言いますが、我々が意味的に限定して自然というものを作り上げるわけではない。所与の世界として、運命的に、この我々にかぶさってくるもののある部分を、自然と呼ぶわけです。

その所与の部分が、我々を「愛して」くれるかどうかは、分からない。必ずしも親和的にそれと交わることができるとも限らない。おそらくそうでない部分が大きい。それこそ、こちらの期待に過ぎないかもしれないわけです。

あるいは、その部分をコントロールすることができるかというと、それがおよばない部分がある。自然の中で、コントロールがおよぶ部分はごく一部であって、我々にとって野性的なものは、我々の向こう側にありながら、交わりを持たざるを得ないものとして、有無を言わさず我々に関わってくる。

存在、という言い方もありますね。ハイデガーの言う存在がどういうものかは、哲学の専門家におまかせしますが。存在は、こちらの思うように動いてくれない。その中には、あるいは、目をそむけたくなるような部分もあるでしょう。

目を背けたくなる部分と言えば、我々にとっての絶対的な否定性であるところの「死」があります。絶対的に体験できない外っ側には、そういうものが、わかちがたく絡まり合って存在し、うごめいている。

そのことに、我々は、気づくわけです。そのことの意味を、自分で自分に納得させ、自分の感情のメカニズムの中で消化しようとするのですが、消化し回収しきることの不可能な部分がある。しかし、それは、放っておいてもリアリティの岸辺に打ち寄せてきている。



先ほど、自由自在と申しましたが、それは必ずしも、外界と仲の良い関係を保つことではありません。嫌なもの、見たくないものがあらわれた時に、それを避けない、という自由もありますね。

爽波の句なんて、読んでみられたら分かりますが、あんまり気持ちの良い句ばかりではない。ときどきヘンな句があるんですね。なんでこんなものが混ざるんだろう、というような句が入っている。俳人としてそういう部分から目をそむけずに、むしろ作品の重要な契機として、取り込んでいく。

写生派の俳人は、そういうところで、価値的に上下関係をつけていない。何が来ても、俗な言い方をすれば、句材にしてしまう。

それは今言ったようなところからくるんじゃないか。



もちろん、我々の内的世界と外的世界の境目のようなところにあって、どちらとも言い難いようなものはあります。

「自然」というもののも、必ずしも、目に見える、自分の外にあるもの、と割り切れず、我々の内にも、意識的主体に回収できない内的自然が存在しているといえる。

「言語」というものにも、私が使うものだけれど、私が作ったものではない、という、どうしようもなさがある。

あるいは「身体」。よく言われることですが、身体は私の内と外の境目であってどちらとも言い難い。

それどころか、意識それ自体も、醒めている段階ではコントロールによって自分の世界を打ち立てようとしておりますが、はたして、それができているのかどうか(笑)。そういう厄介なものとして感じられるとき、意識それ自体も、写生の対象となっていくだろうということです。

だから、特定の「何を」うたうかと言うことではない。そしてそれは、どう現れるか分かりませんから、「どう」うたうかでもない。すくなくとも、それは写生という契機からは決められない。

ただ写生は、根本的な態度として、俳人の創作活動を方向付けていく最初のきっかけなのではないか、と思います。



さきほどの佐藤先生のお話とも関連しますが、「ありのまま」というものが、存在しうるのかどうか。我々が見たいようにしか見れないのであれば、ありのままというのは成り立ちえない。しかし、外部に対して開いていく、何かが入ってきたらそのまま受け止めていくという、受け身の姿勢、受動性というもの、それが「ありのまま」と言われていることの中味だと思うんです。

そういうふうに考えますと、虚子の句があまりにも多種多様でとりとめがなく、彼が何をしようとしたか分からない、というふうに、作品世界を立ち上がらせたわけも、その意味での受動性を示している。そういうふうに思っております。



もう一つ、写生について、面白いと思っていることがあります。俳句の歴史の中では、いわゆるホトトギス主流ではないんだけど、反写生の流れに入れて良いんだろうかと思われる、微妙なスタンスをとる作家がいます。明治以来100年を越える俳句の流れの、随所に、大小の作家で、そういう人はあらわれる。

たとえば飯田蛇笏はどうなんだろう。蛇笏には彌榮浩樹さんが深い関心を持って論を書いておられるらしいですから、いずれ読ませていただけるものと思っておりますが、蛇笏は、はっきりと写生が大事とも、そうでないとも言わないんです。あれ、なんやろう、ということです。

あるいは山口誓子。当初は、誓子流のメカニズムで、新興俳句時代大いにもてはやされたわけですが、それ以降、誓子の長い生涯の中で、彼の写生に対するスタンスははっきりしない。別の言葉で、即物非情、というふうな言い方をするのですが、それは写生とどう違って、どう関係しているのか。

あるいは、中村草田男。人間探求派と呼ばれてはいますが、ご存じの通りそれは山本健吉の作った言葉です。しかし、僕は草田男の弟子ですが、草田男の口からは、俺を人間探求派なんて言ってくれるな、という言葉をいっぺんも聞いたことがない。やはり、人間探求派という言葉は、彼の一角を射貫いているんでしょうね。としたら、それは写生とどう関係しているか、考えてみる必要がある。この三人の中で、草田男がいちばん「写生」を肯定的に語っています。



先程来申しておりますような理解の仕方をとれば、写生とは、特定の主題の選択、あるいは特定の表現のありようとは違う。写生ということだけを腹に据えておれば、俳句が出来るものだということにもならない。

なぜならば、外的な自分の意識でコントロールできないものに触れるっていうのは、有季定型体験と違うものですからね。そこから見えてくるものっていうのは、もうちょっと不定型な、これといった形をなさないへんなものですから。

だから、俳句というのは、写生だけを考えておれば出来るというような、そんな簡単なものではない。

蛇笏の場合ですと「連山影を正しうす」あの連山というのは、やっぱり、何かが見えていたんだと思うわけです。「影を正しうす」というのは、いつも見ている連山じゃない、何かがその時あらわれたんだろうと思いますねえ。それをキャッチする。もし、連山がそういうものを示しているとすれば、……いや、示すというのはむずかしいんで、もし、連山が、そういうものの方向を見せているとすれば、彼が、写生についての否定的な意見を述べられなかった、述べる必要がなかった、ということが分かる。

虚子自身にしましても、のちに花鳥諷詠なんていうことを言いますが、あの花鳥というのは、俳句の成立している場ですね。つまり写生よりももう少し俳句の表現の形に近づいた話で、俳句が、俳句の形をとってくる時に、その契機となるもの、花鳥というのは虚子にとってのそういう場所を示すものだったと思います。

さきほど、僕は死とか外部とか存在とか、ひじょうに茫漠とした言い方をしましたが、それは話を一般化していたということで、特定の作家にとっては、特定の関心の領域というものがある。

虚子は花鳥という言葉で何か述べたかったわけです。それは、なにも字義通りの花とか鳥とかではない。彼は花鳥とは何かときかれて、人事自然の一切であるとかそういう無限定なことを言っていて、トートロジー的循環におちいっている。しかし、そうとしか言えないから、彼はそう言っていたんだろうと思います。

誓子の即物非情、物に即する、の、物とは何か。意識の対象化しうる具体的な物であってそうではない、そこの境目に成立しているものととらえる必要がある。

草田男の場合ですと、人間になる。つまり人間が、爽波流に言えば自由闊達ですが、草田男流に言えば、いわば「やむをえず」です。意識感情を越えて、もみくちゃにされる、その場が、人間探求派にとっての人間と呼ばれるものだろうと思います。



虚子と、このような出色の弟子との、写生をめぐってもあらわれる師弟関係を、割り切った分かりやすい説明があって、あれは同窓会的な感情だと。その面があることは否定できない。しかし、同窓意識で話が片づくなら話はかんたんだけれども、それだけではないだろうと僕は考えますね。



写生派の俳人たちが、自分たちの写生体験、あるいは写生という営みをどう説明してきたか、というと、それらはほとんど役に立たない。虚子俳話の言葉の表面だけとって引用しても、非常に浅薄な理解に終ってしまう。彼らは自分の中で起こっていることを、つまり句作の体験の突端で起こっていることを、批評的な言語として出してみせる、ということをやっていない。

それは、彼らの責任というよりは、あの時代は自分たちの体験を語ろうとすれば、ああいう語り方になってしまう時代だった。明治時代に西洋の画論から吸収された理論の枠組に、とりあえず従って語ることしかできなかった。

彼らの自己解説として提示してくる言葉と、実際の体験のギャップをよく見ておかなければならないと思います。



もう少し言えば、写生というのは、けっきょく俳句プロパーの問題とは言い難いものです。有季定型は、俳句プロパーの問題です。俳諧性も、隣接領域の川柳の問題を視野に入れる必要があるでしょうが、俳句の枠の中で語ることができる。

でも、写生っていうのは、そういうものとは質が違う。写生は、俳句が俳句になる境目のところで、何が起こっているか、境目のところで起こっている何を重視するのがいいのか、ということに関わる論題になってくると思います。

その点については、さきほど内部と外部という言い方しましたけど、たとえば我々は日常生活を営む上で、常識的に心得ていることがある。そういう日常卑近のことから、もう少し抽象的感観念的なことにいたるまで、我々は自分のものの考え方の体系を内面的にもっているわけですが、それをある種、こうゆさぶってくる形で外部というものは我々にせまってくる、あるいは侵入してくる。

お手元にお配りした資料は若いころ書いた文章で、今となっては恥ずかしいような若気の至りの部分があちこちにありますが、けっきょく、その、我々の写生という俳句の行き方が、我々に見せるものっていうのは、こちらの期待を裏切るようなかたちで出てくるものですね。それに対して心を開く。それは、こちらを心地好くはさせてくれないだろう、ということを書いているわけです。

実作者としては、そのあたりをはっきりと腹に据えておく、つまり写生ということを、俳句の上で主張するのであれば、そのことが必要になる。

もうひとつ俳句の場面で具体的にそのことをいうならば、外から見たくもない聞きたくもないものが迫ってくるとして、それは「非日常」の体験なのか、というと、俳人はどうもそうは思っていなかったんじゃないか、と思われる節があります。

ある意味で、我々の思い通りにいかない、心地好くないものが、ぴょこぴょこ首をもたげるのは、むしろ普段あたりまえのことで、我々は、それに気づかないふりをしているのか、あるいは蓋をして圧殺しているか、どちらかであろうと。そういうふうに俳人は考えているのではないかなあと思われます。

つまり外部が侵入してくるのは、非常時でもなく戦時でもなく平時の事態である。それに平然と向かい合っていく。それが俳人の心得ごと、心構えである、と。近代以前には、あたりまえすぎて、特別問題にもならなかった世界の受けとめ方を、近代的な意識のもとでの主体像が、たてまえとして当然とされるような時代となって、あらためて、取り出して確認する必要が生じてきたのだといえます。

しかし、写生体験をうんぬんするとすれば、そこには独特の、何ていいますかねえ、俳句表現を越え出る「もの」に対する、あるいは一般的な体験に対する腹の据え方という面があるのではないかと思います。

あとまあ、いろんなことがあると思います。皆さんからご質問が出れば、私もまたはっと気付くことがあるかもしれませんが、今は、写生とは何かと問われれば、こんなふうに答えることになるというふうに、ご理解いただければと思います。



第一部(了)

写生写生文研究会  第二部第三部レポート 写生ー俳句の場合ー 久留島元

写生写生文研究会  第二部第三部レポート 
写生─俳句の場合─ 

久留島 元


本稿は2012年2月4日、京都私学会館で開催された写生・写生文研究会「俳句にとって写生とは?」第二部、第三部報告レポートである。

第二部は、竹中宏氏に加え、コメンテーターに岩城久治氏、中田剛氏、関悦史氏が加わり、青木亮人氏の司会でディスカッションが行われた。

まず、議論の前提となった竹中氏の講演の要点を書き出しておきたい。
・「写生」は、俳句だけの独占的問題ではない。
・「写生」は、俳句が表現される以前の態度、姿勢の問題である。
・「写生」は、人間の思い通りにならない外的世界を受け入れる態度である。

当初はそれぞれのコメント報告から始まる予定だったが、議論は自ずから竹中氏の「写生」観を受け止めてのディスカッションとなった。

その後、10分程度の休憩をはさんで第三部ではフロアからの質問が加わり、全体でおよそ2時間強にわたる議論が行われた。

本稿では(1)、(2)で、記憶とメモをもとに議論の再現を目指す。(3)は議論を踏まえた筆者の感想である。

ただし議論全体の雰囲気を伝えることを優先するため、忠実な再現ではなく以下の凡例をもうけて再構成することにした。参加者各氏に校閲をお願いしたが、文責は筆者にある。ご理解をいただきたい。

1.文中の敬称は適宜省略ないし統一した。
2.口調や言い回しはほぼ統一し、箇条書き風に記した。
3.同じ話題が繰り返された場合や、重要でなかったと思われる一部のやりとりは適宜、編集加工を行った。その過程で表現を補った箇所もある。



(1)

青木 はじめにそれぞれのコメンテーターから発言いただきたい。まず岩城氏から。

岩城 結局、<写生>という文言がいけない、という気がする。

竹中氏の「写生」論は、私の言い方でいえば物、こと、外部との関わりのなかで俳句が作られていく、ということだと思うが、それは当然であり、<写生>と名付ける必要はない。

竹中 たしかに<写生>という語がいけない、混乱する、という面もあるが、歴史的に、近代という段階では<写生>という語であらわす他なかった、ということ。

われわれが外部に開かれてある存在だということが、西洋絵画の<写生>技法の流入をきっかけに強く意識され命名された、ということが、俳句の近代を見る場合に重要だ。

岩城 <私>と(外部と)の関わり方、そのなかで<私>がどうあらわれるか、そのあらわれ方、ということで、それ以外呼びようがないものではないか。
私自身は<写生>という語ではあらわさない。<写生>という語にこだわったことがない。

竹中 さきほど言った、蛇笏、誓子、草田男などの出色の作家、そのそれぞれの俳句をすべて含み込んでいく、共通点、共有の体験として、「写生」があったのではないか。そこを探っていくと、「主観」対「客観」という基本図式に立つ近代的な芸術観の枠組では、説明しきれないのではないか。

青木 個々の作家の表出の違いは当然だが、竹中さんがこだわっているのは歴史的に様々な作家が、それでも<写生>という語を用い続けてきた、歴史性ということだろう。

岩城 竹中氏が、秋桜子を構成美といった言い方で評したと思う。
そういう自意識を解放するものが<写生>という論はよくわかる。しかし<写生>は結局、一人の人間として現れる、在り方そのもの、ということだろう。人によっては自然をなぞるかもしれないし、別のこともあり得る、それだけのことではないか。

青木 中田氏どうぞ。

中田 私は竹中氏のシンパなので、納得するところが多く、コメンテーターは本来ふさわしくないのだが、私自身は<写生>にこだわっており、実作者として、もの自体、質感を再現させるようなリアリティのある表現をめざしている。

今回、<写生>と<写実>を『広辞苑』で調べてきた。

<写生>は、「景色や事物をありのままうつしとること。客観的描写を主とする態度」であり、<写実>は、「事物の実際のままを絵や文章にうつすこと」と書いてある。

僕自身は<写実>のほうが物ごとの実相を写す、といった意味合いでとらえていた。竹中氏のいう<写生>は、私にいう<写実>にちかい。

子規が絵画の方法として取り入れた<写生>は、まさに「ありのままうつしとる」ことで、物の中に入り込んで理解し、実相を写す、といった内容ではない。

子規の場合は、個人的な事情として生きるため見ること、食べることが重要であり、見る、という外部との関わり方にこだわった。

竹中氏の、思うようにならぬモノをニュートラルに受け入れる、といった態度とは別。

俳句とは結局言葉の問題であり、思うようにならぬ不定形のわからないものを引き出してから、それをどう表現できるか、ということにつきるので、やはり具体的にどういったものが「写生」体験が感じられる句なのか、示して欲しい。たとえば爽波でいえば、

 福笑鉄橋斜め前方に  爽波『骰子』

といった句がある。不気味であり、私にはわからない。こうした不気味さを指すのか。

竹中 中田氏が俳句を表現の問題としてとらえる、それは当然のことだが、私の話したのはもっと手前の段階。<写生>は、俳句が俳句となる直前のところ。

言葉となりきる前のなりきらないところをどう受け止めるか、腹に据えておくか、ということは後の表れ方にも違いが出る。表れ方は個々別々で一般論で言えない。
むしろ、それは、歴史上の作家たちが一様に<写生>を唱えながら、俳句では個々別々にあらわれるのはなぜか、といった問題である。

中田 <写生>を仮に方法として、そういう方法を介在させることで、ときに作家の生き方や背景を引きずり出してしまう、ということはよくわかる。

竹中 そういった稀に成就したケース、出色の成功例があるから重要なのではない。<写生>という概念は、単一の、微視的、具体的な作例を超えてとらえられる必要がある。

 「<写生>は俳句プロパーの問題ではない」という発言があり、たしかに<有季定型>や<俳諧性>の問題と<写生>とは複雑に絡み合いながら別の問題系である。

「<写生>という語が適切かどうか」という話題も出た。技法の内容は歴史的な変化があるが、すべて<写生>という言葉であらわされている。

近代俳句史が、いわば<写生>という語の拡大と変遷の歴史。

「写生は自由闊達の世界」(波多野爽波)というが、竹中氏の言う「不快」であったり「ノイズ」であったりする心地よくないものを取り込むことが、なぜ自由なのかという問題。

基本的技法としての<写生>は、いわゆる近代的自我と対立しているように見えるが、歴史的経緯として明治時代、その成立とともに意識されたもの。

一般に近代は<自我>の確立期とされているが、現代思想の土台をなす、マルクス、フロイト、ニイチェ、ソシュール、の4者におけるおおざっぱな共通点を言えば、「私の主人は私ではない」ということ。

こうした思想が流入する明治に、いわゆる近代的自我の解体として<写生>が選択された。

<写生>は、竹中氏の言う<不快>も取り込んでしまって他者としての自分をあらわにする手法であり、だからそこが「自由」なのだが、秋桜子は取り込むものを自分の美意識によってある程度限定してしまったといえる。

爽波の句は、

 伐りし竹ねかせてありて少し坂  爽波
 金魚玉とり落としなば舗道の花

のように、秋桜子的美意識とは関係がない。意味も象徴性もそぎ落とされ、何の意味も持たない、あえていえば非意味の世界それ自体が横たわっているような不気味さがある。

子規の段階では、<月並>、つまり歴史的価値観に対する批評として<写生>があったが、歴史的な美意識以外にも我々にはもともと持っている先入観、物ごとに対する観念がある。そうした観念を打ち破り、自分のイメージと違うものを取り込む契機が<写生>。

つまり、子どもの遠足後の作文レベルのことでも、「行ってみなくちゃわからない」「やってみなくちゃわからない」ということが無数に出てくる。

自分の言いたいことは「メッセージ」になり、わかりやすいがおもしろくない。往々にして同じ発想におちいる。

外部に受動的になることで、かえって自分を通して個々別々にあらわれる。

<写生>として取り込んだものを、あらためて具体的に表現するときに竹中宏がこだわったのが<不快>、<ノイズ>といった言葉であった、ということだろう。

竹中 <写生>の内容が歴史的に変化していくという話題があったが、文化の裂け目にあらわれた言葉が変化していくのは当然なのではないか。

近代以前に<写生>というタームはあらわれないが、世界が自分の思いどおりにならない、というのは、近代以前にはごくごく当たり前の、ものの感じ方だったと思われる。

近代の確立期、<自我>の意識化のなかで違和感、逸脱する部分が、<写生>と名付けられた。

目の前の現実が理想を裏切ってしまうことを当然と思う姿勢、自分の足場をしっかりと持たず、変化する現実にその都度対応するような姿勢が、日本人の考え方なのではないか。

 <写生>句にはある種の不気味さがある。

言いたいことを言わない、寡黙である、ということが俳句の基本的方法の一つだが、言いたいことを抑圧するとかえって幽霊のように立ち帰ってくる。そぎ落とされることで逆説的に見えてくる風景の不気味さが事後的に作者をかたち作っていくのではないか。

秋桜子は<写生>を美意識(美学)のほうにあわせていく。<写生>の潜勢力を減殺させているともいえる。

歴史的には<写生>の範囲をたわめたことで、その後の多彩な新興俳句運動の契機となったのかもしれないが。

中田 質感を再現することを目指すことを<写実>と呼ぶのであれば、爽波の句にそういった質感は感じられない。

爽波にももっと不気味な、理解しがたい句はあるが、「伐りし竹…」は、ただ伐られた「竹」が横たわっている景が再現されるだけで、感覚的なリアリティは感じられない。

 たしかに質感を前面に出している句ではないし、爽波は質感に対するこだわりは少ない作家かもしれない。

しかし、「竹」というだけである程度の質感が再現されうるのが短詩型の特徴ともいえる。

岩城 ちょっといいですか。

竹中氏と爽波とのエピソードで次のようなものがあるので、紹介しておきたい。

 桔梗の花の中よりくもの糸   素十
 くもの糸一すぢよぎる百合の前

爽波はこの2句について、ホトトギス俳句の<写生>の真実の差が二句の差にあらわれている、<写生>の機微を探る道である、と言った、ということである。

ここに<写生>があらわれている、ということはどういうことであろうか。

竹中 その会話はよく覚えている。後者のほうが構成的である、ということだ。

爽波の解釈では、前者の句は、「くもの糸」のことは明示的に書かれてはいないが、花からよれて垂れていることを感じさせる。後者は「一すぢ」に美的な緊張感がある。爽波は、後者の美的緊張の構成的表現ではなく、前者の非構成が<写生>だと評価した。

爽波は、<写生>は発見だとも言っていた。

中田 そういった句と重なるのかどうか、虚子には「偶成」という前書のある句、つまりたまたまできた句に意味のわからない得体の知れない句がある。

 手を挙げて走る女や山桜

の句は、昭和19年の作で、終戦前という状況を考慮するべきなのか、得体の知れないおぞましさのようなものを感じる。<写生>とはそうした質感を伴うものではないか。

ここで第二部が終了。

(2)

第三部はフロアからの質問の時間だった。当日会場は30名余の聴講者が参加しており、質問者の名前は、その場で判明した方以外は匿名とさせていただく。

フロアA(正岡豊さん) <写生>というとほかの作家もたくさんいると思うが、なぜ今日はこんなに爽波ばっかり取り上げられて、爽波デーなのか、という気がする。
質問は、まず中田氏に、爽波のどこに惹かれるのか、ということ。

次に関氏へ。爽波にも美意識のある句はたくさんある。たまたま手元にある『俳コレ』の巻末座談会で、岡村知昭氏の句を関氏は「全体に不吉」「怨念が籠もっている」などと評するが、上田信治氏が「そこまで深刻じゃない」「裏側を聞くとすごくくだらない事実がでてきちゃうんじゃないか」と言っている。同じように、ニヒリズムとか不気味さという以外にも爽波には単純な美意識の句が多いのではないか。

中田 爽波になったのは、成り行きなんで、特に理由はないんですが。

爽波は、僕にとってはアルチザン(職人)の魅力で、虚子や放哉のような得体の知れなさはない。仰ったような、日本画のような美意識に惹かれる句もあるし、「見た」という視点だけが残されたような句もある。様々な技巧があると思う。

 たしかに美意識の句はあるが、秋桜子のような明確な美意識とは遠いのではないか。

岩城 私は<写生>に興味がないので、ここに座っていることも違和感があって、なんでこの場に出させられたのかと思って、さっきから黙っているんですが。

私は俳句とは<ことば>の世界だと思っている。結局はあらわれ方の問題だ。

青木 今回<写生>というテーマは仮のもの(笑)。<写生>というテーマから、俳句がどういう文学かを考えるきっかけになればいい。目の前に座っている、彌榮さん、どうですか。

彌榮 いま仮に<写生>を禁止されたとしたら、自分自身は俳句をしない、できない。

議論を聞きながら、<写生>は俳句にとって必要条件でも十分条件でもないと思っているが、自分にとっては事実を句にする、<写生>ということが重要だ、と再認識した。

関さん、竹中さんは同じように「写生だけで俳句は作れない」と言うが、内容は全然別ではないか、という気がする。

 しかし、彌榮さんの句は写実的な句は少ないのではないか。

作者にとっては単なる事実かもしれないが、編集の方法、加工の仕方によっておもしろくなる、変わった風景に見える、というのが彌榮さんの句のおもしろさではないか。

彌榮 自分にとってはあくまで自分と関係した事実があった、ということが重要である。

青木 関さんの句も、見たこと、実際に見たものを核としていることが多い。

 そうですね。昨年句集を出したが、句集を読んでくれた人がそろって「生々しい」という感想だった。

介護、震災の句が多いせいもあるだろうが、絵画や小説をモチーフにした句も含めて、「生々しい」と言われる。

フロアB(堀本吟さん) 今日の竹中さんの話では<写生>を俳句の外に置く、ということだった。

実際の俳句を見ると、竹中氏の句は意識、観念の動きで作っている、観念性を重視しているのではないか。

稲畑汀子さんなどは「自然の移ろいを写すのが俳句」という言い方をしており、そういったいわゆる伝統派の<写生>の一方で、竹中氏がどうして「伝統」であり「写生」なのか、と思う。関氏も観念的なリアリティの強い作風なので、共鳴するのではないか。

竹中 わからないけれども、僕の句作の動機として観念が働いているとすれば、それはもっと<写生>に近づけていきたい。

観念が観念として浮遊するのではなく、言語が僕の外にリアリティを持って出ていくかどうか、が重要である。

中田 関氏の作風が観念的、ということだったが、関氏の

  皿皿皿皿血皿皿皿皿皿  関悦史

は、非常にリアリティがある。もちろん文字面のおもしろさがあるが、縦書きで読むと、愚直に、ありのまま皿の積み重なりを表現している。厨房などでよく見る風景。そのなかに一点の血を見つけたとき、その血にリアリティを感じる。

青木 関さんとしては高橋新吉へのオマージュという意味が強かったと思うが、中田さんは質感、リアリティを感じたということで、おもしろい。

竹中 ホトトギスに属する友人、別に無名の作家で特筆すべきでもないが、その友人に、<写生>がうまくいったと思うときはどういうときか、と聞いたことがある。

友人は、「今まで見てきたものが見えなくなって、新しいものがあっと見えた瞬間」
だと言っていた。僕の中で爽波の言葉と並んで、<写生>を考えるときに心にとめている。

写生俳句と称するものはゴマンとあるが、そのなかで起こっている共通の体験はこういうことではないか。吟行で何を見るとかではない、何かが見えなくなって、何かが見えてくる、そのダイナミズム。

作品として結実するかどうか、とは別の問題だと思っている。

フロアB 観念が消える、とはなぜ言えるのか。

竹中 わかりません。

客観的に見れば、消えたと思って新しく見えてきたと思うのもそれも観念だ、といえば、そうかもしれない。重要なのは、言葉が僕から半分出ていってくれるかどうか。そのための場として写生がある、と考えている。

青木 竹中氏は、そうした<写生>体験が共有されているとして、そこからホトトギス派の、いわゆる本流の作家が言語化した作品については、どう見ているか。

竹中 非常に素朴だ、と思います。これは、善し悪しではない。

ホトトギス派は大きくて、ピンからキリまでいるが、さきほど言ったようなキリの、無名作家でもそのくらいのことは感じている、そのくらいの体験は共有していると見ておきたい。

青木 ホトトギスの話題が出たので、ホトトギス系の方にも話を聞きたいが。

フロアC 高浜虚子の「俳話」をバイブルにしております。

今日の話は難しくてついていけないことも多かったのですが、虚子が言っていることと結局同じことなのでは、という気がする。虚子が平明に、簡単に、と繰り返した意味が、かえってよくわかったように思う。

フロアD <写生>は近代に明確になった、ということだが、俳句自体は前近代からつながっている。もちろん近代以前は俳諧だ、ということもあるが、近代以前に、<写生>の議論、<写生>という言葉を使わないとしてもそうした議論はなかったのか。

青木 (近代以前の議論は)ないです。

江戸期にも<写生>と呼ぶべき感覚、認識はあったと思われるが、近代とおよそ違う認識だったと思われる。

 凡兆の「雪つむ上のよるの雨」という句に芭蕉が「下京や」の上五をつけたが、凡兆が納得しなかった、という話では、<写生>をどう捉えるかに類したすれ違いがあったともとれる。

竹中 つながっているとしても同質かどうかは慎重な腑分けが必要。

ホトトギス派がよく<写生>論の先蹤として出すのは、芭蕉の「松のことは松にならい、竹のことは竹にならえ」だが、なぜ松であり竹なのか、「松の位、竹の位」という前提があるはずで、近代以後の理解とは意味合いが違う。

フロアE(佐藤文香さん) 話題のなかでは、自然と一体化する、といった話などがあった。私の中では、<自分>も、<書く自分>にとっては外部。<写生>が、外部へ反応する、外部の対象への構えのことを言うならば、<自分>も対象になる。

自然と一体化して、自分のものでないような気がしたときにできる句を、よく「降りてきた句」とか、「書かされるように書いた句」というが、そういった<写生>体験はあるか。

中田 作るプロセスで自然と一体化して幸せを感じるのはいいが、言葉として出てきたときに構築、補正していく作業が必要。表現としてどう出るか、のほうが重要だ。

岩城 爽波のエピソードで印象的なことがある。吟行に行くときに、事前に季語をたくさんメモしておいて、吟行先では徹底していろいろなものを見るという。

爽波という人はもっと実地派、吟行派の人だと思っていたが、準備することもあった。見たものを、用意した季語にぶつける、そういう構築もする人だった、ということが印象的。

私は「ことば」に関心がある。あらかじめ用意しておいたものに、見たものがぶつかる、その意外性も、ある種の「降りてきた」感覚かもしれない。

関  ホトトギス派の、自然と一体化するような<写生>と、今回の話題は、進化の系統樹の別の極を見ているような気がする。

ホトトギス派の<写生>は、外部に自己をひらいてノイズとの相克の場にしていくのではなく、自然を自分の枠内で想像的に同一化させていくような手法。

自分に<写生>体験があるか、と言われれば、現実のモノと一対一で対応しあっていない観念的・直観的な語彙と、目の前の現実=質料世界がぶつかったときに感じることがある。

竹中 <写生>は、俳句として立ち上がる直前のこと。<写生>が言語化するときにたいへんな困難が予期される。いま言ったような、自分でないものに書かされているような感覚は、古代人は「降りてくる」とか「ミューズに息を吹き込まれる」とか表現したのだろうが、我々はそう表現する必要がない。

青木 ここでは「写生」について、何か共通の「答え」を出そうとしたのではない。

「写生」をめぐって、実作者の「割り切れなさ」をぶつけあうこと。それは興味深いかたちでなされたと思う。意義深いディスカッションだった。

(3)

<写生>が俳句だけの問題ではなく、表現として生まれる前の、「姿勢」や「態度」の問題だ――、という考えは、考えてみれば当たり前のものだ。

だからこそ子規は文章にも短歌にも共通する文学技法として<写生>を打ち出したのであり、本来この研究会も「写生文」の研究会だったのだから、話題は本来、ジャンルを横断しうる普遍性を前提に議論されるべきであった。

しかし、ともすれば「俳人」たちはその単純な事実を忘れていないか。

<写生>を俳句固有の問題、「俳句」という表現形式と一体と錯覚するほどに、<写生>は俳句史のなかで不可避的に議論されてきてはいなかったか。

<写生>論が、今日までさまざまな再解釈を経ながら連綿と続いてきたのは、同じ<写生>の語を用いて、同じような<写生>論を述べていても、結果、表現された個々の作品の色合いがすべて違う、という違和感が原因であっただろう。

だから、結果的に多様な俳句ができることを前提として、竹中氏が<写生>を「表現以前」と定義したことは、議論の前提として重要な意味があった、と思う。

むろん、俳句における<写生>と、ほかの形式における<写生>を同一に語れるかどうか、は今後検証されるべき問題として残されている。

特に、短歌における<写生>はどうだったのかは気になるところだ。

私は短歌にはまったく疎いので深入りを避けるが、印象で言うと、現代短歌で<写生>はあまり意識されていないようである。

<写生>を、「思い通りにならない外部のノイズごと、自分のなかに受容する態度」と理解するとき、「写生」は実際には「ノイズ」を不快なものと認識する「作者」と「外部」とのズレ、違和/異和を、表面化させる手段であることに気づく。

その意味でいうならば実は「ノイズ」は「感動」「発見」と同じ、要するに自分の価値観を超えた、一種の圭角である。その圭角の在り方、どこにどのようにひっかかっているか、というところに、消えたはずの作者の個性が色濃く投影されているのだ。

それが、「客観写生」は「主観」だ、という、虚子の理論の骨格なのだろうと思う。

これに対して、短歌という詩型はより積極的に外部と作者とを親和的に結びつける、つまり「ノイズ」を認識させず一体化させるのが得意な詩型だ、と捉えられないだろうか。

確信も確証もなく思い込みで話を進めることにする。

私がこの日の議論を聞きながら思ったのは、正岡子規の「写生」論を、より忠実に継承した、河東碧梧桐のことである。

碧梧桐は、「自然をありのまま写す」という子規の素朴な「写生」論を推し進めた結果、「無中心」論を展開し、結局俳句史のなかで傍流になっていくわけである。

自然の現象は玉石混淆で雑然としておる。其中から美なるものを採って俳句という詩に構成する。・・・・・・所謂明瞭な中心点の為めに自然の現象を犠牲に供せねばならぬ場合がある。即ち自然を偽らねば中心点の出来ぬ場合がある。・・・・・・即ち名義は写生であっても、中心点の束縛の為めに、写生の意義を没却する場合が絶無であるとは云えぬ。

碧梧桐「「無中心」という新しい時空」夏石番矢編『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫。原題「<無中心>論」)

碧梧桐のいう「中心点」が、俳句の核となる「発見」であり「感動」であり、竹中氏の場合は「ノイズ」であり、私に言う「圭角」なのではないか。その圭角がない状態(無中心)を我々が「俳句っぽくない」と感じるということが、おそらく重要なのだ。

ここでいう「我々」とは、子規、碧梧桐、虚子から、4S、前衛俳句、新古典派といった歴史的過程を経てきた、「我々」である。現在の我々が選択する「俳句っぽさ」が、ひとつは明らかな「中心点」をもつ詩型である、ということだ。

「中心点」の見せ方(表現)にはさまざまな手法があり、今後もさまざまに試みられていくべきだが、おおざっぱにまとめればともかく明確な「中心点」をもつ極小の詩型である、ということが重視されてきたことは疑えない。

そのうえで、他とは違う作者固有の「中心点」を際立たせる技法として、<写生>という、きわめて受動的な姿勢が有効とされてきたこと、そのなかで「俳句」という表現形式と一体のように語られてきたことが、俳句表現史に即して考えられるべきだろう。

<写生>論とはつまり、「表現」以前の問題であるがゆえに、「表現」方法の立場を超えて、「俳句」とはなにか、ということを考えさせるテーマなのかもしれない。

写生不快 竹中宏

写生不快

竹中宏

「青」昭和50年10月号


かって、金子兜太がその句集の後記で 「抒情的でなく抒情を、観念的ではなく観念を」と書いた口吻にならうならば、 まずは、写生につながるニュアンスを常識的にみとめられていろもろもろの現象を、写生自体から明確に区別して、写生的でなく写生をと書くことからはじめねばなるまい。

なぜなら、 写生を唱導する流派が子規以来の俳壇の圧倒的主流を形成してきたという、単なる量的事実への顧慮でなく、実際、近代・現代における俳句表現のすぐれた達成のほとんどが、写生となんらかのかかわりを持ち、または、写生を直接標榜するたちばから生みだされていることについて、個々の花々の多様よりも、それらの背後にあってそれらに精気をあたえ、かつ、それらをある見えざる中心へとつなぐものでもあるような、一定の世界体験の様態としての「写生」とはなにであるかという関心からわたくしは出発したからである。

写生論は、おそらく、一度このレヴェルまで昇華させる必要があろう。論者の理解にこの昇華が不充分なために、子親や虚子についての論説に混迷の生ずることは、めずらしくない。子規も虚子も、写生を説き、かつ、実践した。説いたことには飛躍があり、矛盾があり、韜晦がある。実践には、偏異があり、実現すべくして実現しなかった部分がある。子規や虚子において、その言説がその作品と充分に契合しないことは、他の作家のばあいと一般である。

現実の子規または虚子、またはその他のだれそれの作品と言説とに即して写生を理解ようとすると、作家の世界にひそむ矛盾撞着がつまづきの石となる。この石をとびこえるには、いったんその作家の背後へつきぬけた理解がなくてはならない。



写生を写生自体として理解する視点に立って、逆に、ひとりの俳人の作品を照らしだせば、その作品形成に、写生以外のさまざまな念慮がいかにはたらいているか、それらの念慮と写生とがいかに干渉しあっているかを、見いだすことができよう。

写生が俳句に特異な力をもたらすことは事実であっても、およそ一句が純粋に写生への意志だけで成立するものとは、かんがえられない。俳人ひとりひとりの作品に、構図や修辞に特徴があり、かれの個性的な審美上の 好尚を指摘しうることをおもってみれば、それは納得できる。行住坐臥に写生の気息を呼吸していたかのごとき虚子にあっても、事情は例外的でないはずだ。

こういったからとて、世に「写生する以外になんの能もない」と非難される、無個性的な凡百の写生派末徒が、単に個性的なものからの遠さのゆえに、もっとも純粋に写生に忠実だなどということにはならない。けだし、世上一般の評判に反して、これらの写生風作品は、写生の実例にすらなりえない。

せいぜいそれは、あたえられたモードとして、予定された結構として、写生的であるにすぎない。そして、「頭でつくる」とはあたえられたモード、予定された結構に依拠して、一句をかまえることをいう。したがって、かれらにあっては、「頭で つくる」なとの教訓でしめされる写生の方法が、自在な生命をうしなって、逆のものに転化してしまっているのだ。

あたえられたモード、予定された結構を突破してゆくところに、写生の本懐はある。

子規が当時の月並俳諧を超え出ようとした姿勢にも、それがあり、写生にかかわる「自由闊達」の身ごなしというものも、それら作者自身を内部から限定するものへの抵抗を意味するにほかならない。

もっと一般的ないいかたをすれば、現実にわれわれは、事物や世界のありようについて、あらかじめなんらかの解釈をもったうえで、その既成の解釈の眼鏡をとおし、事物や世界にふれているのだが、写生は、この眼鏡を破砕し、その裂けめから、裸形の存在がつきでる。



一枚の葉の干反(ひそ)りや顫えが、世界についての壮大な抽象論をよく蒼ざめさせることを、写生の効いた一句はおしえよう。たえず目を洗って、世界を原初性へとおくりかえすこと。写生の目のとらえた一枚の木の葉は、宇宙の風光をこの一点に凝縮しているためにうつくしいのではない、背後にさまざまな感情・価値・理想・希望を窒息させているゆえにおそろしいのである。

ここへいたるに、「人間的なもの」への甘えを、いく枚脱ぎすてねばならなかったか。しかも、写生のうつしだす一種の無表情は、無機物の非情さとはまったく別様であり、白痴の表情におもいきり近いが、しかし、存在の弛緩とは無縁だ。

そして、そんな写生のはらむ果敢な破壊力だけが、 わたしにとって、写生への興味である。

松のものを松に、竹のものを竹に還元しつやすことによって、みずから吃立してきた峻嶺を、俳句史上に、たどりめぐることができよう。だが、窮極のところ写生が、一民族の文化的文脈をはなれえぬ人間の意識枠の地平を、垂直に透脱するものであるからは、俳句において写生を語ることの意味を、俳句の伝統論に解消することはできない。

写生は、一度一度が吃立し、孤独に文学そのものの根底へとどいている。まさしく、その先端においては、「それはもう詩一般に言えること」(座談会 「写生と私」での大串章氏発言)が、問われるのである。



写生体験とは、しかし、われわれの意識を、めまいか痙攣のように、瞬間にはしりとおる。なまな姿をわれわれの眼前にあらわした存在は、それを長時間さらしつづけることはできない。その鮮烈な記憶はのこされるが、記憶は、もはや現在の体験でない。このようにして、写生体験は、すぐさま、非写生的なものの厚い層によって、とざされてしまうことになる。

われわれの視神経が、太陽の凝視にたえないように、われわれの意識は、存在の裸形の現前にたええない。なぜなら、存在との直接な触れあいのために殺した感情移入や知的意味づけや価値判断こそは、日常、われわれと世界との折りあいをつけ、両者の調和的関係を維持させる機制(メカニズム)であったか。

われわれの所有することばもまた、 単に意味をつたえおわって退場する透明な記号ではなく、それ自体、なんらかの意識の構造に即した文法・統辞法・修辞法・文体としてたもたれているのだから、つまり、発せられる以前に、ことばはすでに世界の解釈であるから、存在との直接な遭遇とは、ことばを失う経験でもあろう。

写生において、われわれの世界像を安定的にささえるすべての足場はとりはらわれ、対象の未知なあらあらしさに出あうこととなる。対象のそんな姿を見出して「あ」という歓声がもたらせるとき、そこには見者の不安と痛みが、うずくまているのである。

存在の裸形を見いだすということは、裸形の自己を世界へとつきだすこと以外ではなかった。そして人間の歴史は、とりもなおさず、人間による世界や事物の意味づけの歴史であり、歴史をとおして形成された思想や文化から、ひとは、自己をよろうものを汲みとるのだから、写生において、ひとは、歴史のそそのかしを超えるが、同時にまた、歴史の保護をも失う。

もしわれわれの生活のうえで、自己の知見と、知見にもとづく判断や期待に信をおけなくなったら、たちまち、生活のたしかさはゆらぐ。だが、存在は、いつも不意に、期待を裏切るしかたで、おのれをあらわにする。

事物との具体的なまじわりより、知的抽象への信頼にあまりにかたむいている現代人にとって、存在への直面は、とりわけ大きな不安としなければならない。あたかも、それはもう、かれらが身をもって侵入を拒もうとする病症とでもいえよう。

たしかに、写生の成就において、自己の意識枠がすべて無力化するとき、われわれは、病気のように不快である。厚すぎる鎧をまとってしまった人間には、この不快、あるいは端的に嘔吐感といっていい、それこそが存在の指標である。不快は、はげしく過ぎた戦いの痕跡である。この不快だけが、むきだしの存在を贖いうる。



いわゆる写生的作風または写生風表現といった限定は、すでに問題でない。写生を、写生的なもののからみから解きはなつことは、写生論の出発点であるのみならず、実作をみちびく灯光でもある。

しかし写生の本質を、ことばを超えた極限の体験 へとつきつめるとき、俳句は、いかにして可能か。存在の実相を目撃するや、ただちに、表現の国への還路を、ひた走らねばならない。その旅程、何万里。このプロメテウスは、はたしてよく火を盗みだしうるか。いかなる方向にしてもあれ「絶対の追求」のもとでは、言語表現は、本来の根底的な矛盾をかくしつづけることができない。ことばは、隠すのか、顕わすのか。遠ざけるのか、近よせるのか。

「写生」にもっともよく成功した作品であっても、その表現と対象のあいだに、無限といってよい距離があり、表現はただ存在の方向をしめす身ぶり、または「かたむき」にとどまろう。存在は、作品のかなたにあるのだ。

同時にまた、ことばのこの存在への「かたむき」が、読者の恣意なおもい入れを拒む力として、一句に強靱と緊密と一種倨傲の色とをもたらしもする。恣意なおもい入れを拒む力というのも、リアリティと言いかえてよい。そして、リアリティは、いつも意識の外部から到来するのだった。

それは、写生体験から得た教訓、そうよぶならば写生の思想である。あるいは、写生の眼とは、対象のリアリティを見ぬき、見わける眼である。しかも、リアリティは、作品内部の各レヴェルについて問題となりうる一般的論点である。とするなら、この写生の思想を、 写生の従来的対象である事物のレヴェルにとざしておく必要はない。

たとえば、それがなんらかの観念であれ、一連のことばであれ、それらに対する作者の好悪の評価はあってよいが、同時に、それらのリアリティを問う写生の眼がありうるし、あらねばなるまい。観念のリアリティといっても、現実的有効性をさすのではないし、ことばのリアリティといっても、事実適合性のことではない。

かってもちいた比喩でいえば、それらのリアリティとは、それらが「布ぎれや煉瓦牛以上に、ものとしてなまなましくある」 かということである。

ノイズのこと 竹中宏

ノイズのこと

竹中宏

「俳句界」2007年11月号掲載



写生についてのはなしである。

先日のある合評の席でのこと、 Aさんの透明な妻をたたえた句集が、粗上にのぼせられた。巨細にわたり、さまざまな角度からの吟味がなされたが、そのとき、F氏が、「すくなくとも、これは写生的といえない。写生には、もっとノイズがふくまれているはずのものだ。」という趣旨の意見をのべ た。 写生にかなうか否か、それがAさんにとって身にこたえる問題提起となったかどうかは、ちょ っとべつの話題としておく。

わたくしがF氏のこの発露をつよく耳にとどめたのは、めずらしく、それが、写生の核心をなす部分についての認識をかたっていたからである。

「写生」 の概念は、論者の、いや、作者のつごうしだいで、その内包を、曖昧に、どこまでも拡散してきた気配である。百人の俳人に百人の写生理解があるという状況は、いちがいに、否認さるべきものでもない。ただ、現場でのルースな展開過程が、ある原初の記憶を、つまり、写生が本来なぜ写生であったかの記憶を忘却することで可能となったのも事実である。

一句の表現内容に、具象性が確保されていること、あるいは、うたわれる事物相互の関係が日常の秩序を蹂躙していないこと、これらは、今日、写生といわれるものの一般条件であろうが、はたして、当初、それらがなによりも優先されなくてはならない写生の属性であったか。単純にそうだといってしまうと不都合となるケースを、 周知のように、俳句史に多々見いだすことができる。

西洋画論の示唆をうけて出発した経緯から、写生をもっぱら視覚上のことがらとして説明するのが通例であるが、この説明で間にあわせては、俳句において写生体験がどのように成立するか、その肝腎のポイントがにげてしまう。

おそらく、俳句は、写生という方法をとおして、事物の外形のなぞりでなく、観念への従属化でもない、世界とのいきいきとした接触をもとめたのである。

そのとき、写生の「生」とは、まさしく「ナマ」であり、「イキ」であって、だから、存在の石化し、時間の停止 した、いわゆる「死」の世界と対立するはずのものであった。つまり、生きている世界との連関のなかで、みずからが生きてあることを確認しようとする思想である。

そして、生きている世界は、無数の生きている事物の巨大な集合であり、事物はそれぞれが生きていることの気配を発散しているのだから、世界はふかいざわめきのもとにある。

生きていることのざわめきは、これを今日ふうにいえば、抽築化と数理化の支配にあらがうノイズとして、世界にみちていて、事物から削ぎおとせば、 ただの静物(スティルライフ)だけがのこることになる。

写生は、事物を、その内部に包蔵され、 表面に滲出し、周囲からそれをくるみこんでいるノイズの網目ごと、そっくりとらえたいのだ。 合評でのF氏の発言は完結ではあったが、それが背後にふまえるはずの理路を、およそ右のように推察して、ふかくうなづかせられたわけである。

たとえば「林檎」という語は林檎一般をさすものであり、 そこには記号としての抽象性が実現している。 言語によって、しかも、俳句という短詩形の枠内で追求される写生が、 きわめて困難な作業ではないはずはない。あきらかに、俳句の詩形が写生をよびよせたのではない。

わたくしたちの先行世代が、写生体験で得られるものの定着に、最大の表現価値をみとめたから、つまり、そういう時代精神だったから、 無数の作者によって、営々と、「写生俳句」への厖大な挑戦がつみかさねられたのである。

それにしても、その圧倒的多数が無視できる句だとすると、写生を易行道視するよくある理解に、かくべつの根拠もないといえる。また、対象を本質においてつかみとるのだとばかりに、するどく、純一に、あるいは、せつなく、感覚の洗練を主張することが、写生の「進化」にあたらないだろうと、 F氏の言は、そんな見識をふくむもののようであった。