【週俳2月の俳句を読む】
ふたたび「大人の俳句」!
馬場龍吉
■内藤独楽 混 沌 10句 ≫読む
第355号2014年2月9日
■原 知子 お三時 10句 ≫読む
■加藤水名 斑模様 10句 ≫読む
第356号 2014年2月16日
■瀬戸正洋 軽薄考 10句 ≫読む
第357号 2014年2月23日
■広渡敬雄 ペリット 10句 ≫読む
■内村恭子 ケセラセラ 10句 ≫読む
毎週日曜日更新のウェブマガジン。
俳句にまつわる諸々の事柄。
photo by Tenki SAIBARA
【週俳2月の俳句を読む】
ふたたび「大人の俳句」!
馬場龍吉
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【週俳6月の俳句を読む】
とらやの水羊羹ほどの幸せ
馬場龍吉
ことしの夏も「夏」というくらいだからやはり暑い。
暑さと寒さは皆そうだろうがとくに嫌い。冷房の無い世界は考えられない。
そうすると暑い俳句は書けなくなるのだが。
そういうときは水羊羹でも掬って週刊俳句を読むに限る。
覺めぎはのかうかうとしろはちすのしろ 閒村俊一
ちなみに「かうかう」の正しい意味を探すのに検索してみると「カウカウ 当たり前体操」が出るから笑ってしまう。文語体に詳しくないのであれだが煌々とした光を表しているのだと思う。そして「雉子の眸のかうかうとして売られけり 加藤楸 邨」のオノマトペかと思われる。この「かうかう」が「煌々」なら「くわうくわう」と表記されなければならないのかもしれない。であるからしてここでは「煌々」の意味を持ったオノマトペと理解すべきだろう。
白蓮の白は空と水面をつなぐ白であり、あの世とこの世をつなぐ白である。昼寝覚めの朦朧とした目に映るものがこの蓮の花であったなら。一瞬あの世で目覚めたのかと錯覚しても不思議ではない。
閒村氏の十句は安心して読める大人の俳句だった。この「安心」は面白くないということではないのでご安心を。
●
残る鴨川面は錆の花の泡 石井薔子
どう読めばいいのかはわからないのだが惹かれる句だ。とくに「錆の花の泡 」にだ。
これが「花の錆の泡」では生活用水の流れる川のようだし。ここで「錆の花の泡」とあるところに錆色の水面に真っ白な泡が浮き立ってくる。都会に居る鴨の川はそれほどきれいな所は少ないはずで、それでも人里近くに居るのは何かあるのだろうか。
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水無月の眠りと恋のはざまかな 秦 夕美
なんと乙女チックで素敵な一句なのだろう。やはりこういう句は若いときには書けそうで書けない。「水無月」「眠り」「恋」のそれぞれのワードは乙女チックのなにものでもない。しかし「水無月の眠り」から「恋のはざま」は並列されてはいるが繋がって意味を持ってくるのだ。〈あられもなき五体ありけり大夕焼〉までの十句に夢と現実が去来して楽しめた連作。
●
短夜の耳に隠れし淡路島 永末恵子
すんなりと読める俳句が多いなか、永末氏の俳句には一度読んで一呼吸おいて再読する努力を読者に求めるという要求がある。だがそれは決して使命感ではなく自然にそうさせるのだ。この一呼吸間をおく間に世界が構築す るのだ。「耳に隠れ」るのは耳に隠れて淡路島が見えなくなったということではない。昼間観て回った景色や波の音の記憶を反芻している脳のことだ。〈酢と塩とあとしらなみのほととぎす〉の断絶と連続もいい。
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翡翠の川面の色をはがしけり 飯田冬眞
ぼくは野球に興味が無いので前半の句には興味がない。タイトルの「外角低め」があって、二句は野球のことを詠んでいるので夏の甲子園が詠んであるのかと思ったがそうではなかった。掲句の秀逸な把握がいい。下五の「はがしけり」で俄然翡翠のスピード感が出た。〈隅つこが好きな金魚と暮らしけり〉も部屋でいちばん安全な所に置かれているに違いない水槽の隅に居る金魚を不思議と思う視 線も俳人ならでは。
第319号2013年6月2日
■閒村俊一 しろはちす 10句 ≫読む
第320号 2013年6月9日
■石井薔子 ワッフル売 10句 ≫読む
第321号 2013年6月16日
■秦 夕美 夢のゆめ 10句 ≫読む
第322号 2013年6月23日
■永末恵子 するすると 10句 ≫読む
第323号 2013年6月30日
■飯田冬眞 外角低め 10句 ≫読む
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い ざ 鎌 倉 馬場龍吉
天高くいざ鎌倉へ遅れたり
実朝のとはの波音葛の花
砂浜に舟の擦りあと雁渡る
かりがねや盛切の酒こぼれさう
海光に浮かぶ島々鰯雲
この風は都へかよふ稲子麿
括る萩括らぬ萩もこぼれをり
狐のかみそり主従はここに祀らるる
華鬘へと色なき風のわたりけり
衣ずれも律の調べのなかにかな
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〔週俳8月の俳句を読む〕馬場龍吉
既視感によって結ばれるもの
俳句を詠む者と俳句を読む者とは、まったく同じ経験ではないのだが、ほぼ同じ経験、体験による既視感によって結ばれているのではないだろうか。
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長き夜のどこもきしまぬ廊下かな 山口優夢
この作家は耳を澄ませてものをよく見ている。廊下のこの季節を把握するのに秋の夜を持ってきた。言われてみれば廊下には四季がある。春は庭先の緑の息吹きを映し、夏は西日の射し込むなかを足裏にぺたぺたと張り付くような実感がある。冬には素足にその冷たさを。掲句は廊下とは軋むものということを前提としている。その廊下が軋まないのは通るものが居ないということだろう。この長い夜をしみじみと過ごす自分と虫の鳴き声だけなのかもしれない。この時間を愛おしむ気持ちが「きしまぬ廊下」なのだ。
水音のひしめいてゐる夏休
水とだけあるから、川や海の流れもそうだが、生活に使われる水も含まれるだろう。ひしめかせているのは人間でなければならないだろう。それは「夏休」だからだ。川岸や浜辺も見えてくるし、水遊びの水も見えてくる。水が人とじゃれ遊ぶのが夏なのだ。
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金胡麻を炒るひとときや蝉の夕 津久井健之
実際に見届けたわけではないが地中から抜け出て一週間過ごすという「蝉」の、ある一日を追った連作とも言える。胡麻を炒る音とその匂いのなかに聞こえる蝉の声。この蝉は法師蝉でありたい。
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泡立たぬ歯磨き粉あり帰省する 小林鮎美
なんともアンニュイな詩でもあるが、帰省に早る気分も多少あって面白い。
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森の絵に色なき風を加へけり 山田露結
東山魁夷の湖面に映る森と白馬の「緑響く」のような絵を思いたい。絵とは絵具の他にさまざまな風が加筆されてるんだと納得させられる。机上派作家は時にこういう作品を生み出す。この感覚大事にしたいもの。
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縁側を風が流れる遠花火 田口 武
花火そのものが風に流される俳句は見ているが、身近な風を詠んで、遠花火の音も流されて聞こえてくるようなしっかりとした捉え方に賞賛の拍手をおくりたい。
既視感にはきっかけが必要だ。そのきっかけが俳句であるなら、これほどうれしいことはない。
■ 西川火尖 「敗色豊か」 10句 →読む■ 山口優夢 「家」 10句 →読む■ 津久井健之 「蝉」 10句 →読む■ 中原寛也 「あなた」 10句 →読む■ 小林鮎美 「帰省」 10句 →読む■ 山田露結 「森の絵」 10句 →読む■ 関 悦史 「皮膜」 10句 →読む
■ 田口 武 「雑草」 10句 →読む
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〔週俳7月の俳句を読む〕馬場龍吉
ゆっくり詠もうよ、と言う声
当たり前のことだが、俳人に注目されている「週刊俳句」は北京オリンピックほどには注目されていない。
それでも毎週、何が掲載されているのか気になるのが「週刊俳句」。あ、編集部でもないのにすっかり「週刊俳句」の宣伝をしてしまっている。
参加することに意義があるのではなくて作品を発表することに意義のある「週刊俳句」。さて七月の作品鑑賞。
箱庭や地球の夜は影なりき 丹沢亜郎
小さな景色から大きな景色への移行が素晴らしい。箱庭の影からここまで連想が及んだのだろうか。ガリバーのような作者が見えるのだが、地球も他の天体から見ているようで地球も小さく感じさせてくれる。こういう世界観をもっともっと読みたいと思うのだが。この第一句目以降はあまりにも身近なテーマを詠まれていて、なんとなく惜しい気持ちがするのはぼくだけだろうか。
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鶏鳴のかすれてゆきぬ青あらし 中田剛
しっかりと写生の目が効いた作品。聴覚と視覚でしか表現されていないのだが、青あらしが気持ちのいい緑の匂いの風を運んできてくれる。これからどういう世界を見せてくれるのか楽しみ。
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牡丹の開ききつたる疲れかな 白濱一羊
この疲れとは牡丹の花の疲れなのだが、それを感じとることが出来るのは白濱氏の心の目であろう。「疲れ」と負のイメージを伝えているのだが、牡丹に「大儀であった」と賞賛しているような感受性の鋭い視線がうらやましい。
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番号順に肉体並ぶ日の盛 奥坂まや
〈五月雨や老人の列前進す〉もあるが、人間とはつくづく列が好きなんだな、と思わされた。蟻や雁の列にも思い当たるが、人間の列には少なからぬ笑いが潜む。目のつけどころがシャープ。
蟇歩む王道をゆくごときかな
好きで醜体に生まれたわけでもないだろうに。だが「王道をゆくごとき」と言われれば、それも満更でもないな、と納得させられる。白馬の王子さまではこの王道は似合わないだろうから。
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夕風のなかなか迅し夏桔梗 千葉皓史
夏の風はどう吹いても熱風に変りはないのだが、桔梗越しの「夕風」と言われると涼しく感じるから不思議。全体にソフトとも受け取れる詠みっぷりだが、なかなかどうして骨太の作品が並ぶ。千葉氏からトーンをここまで均一にして飽きさせない度量というものを学んだ。これは机上作家には逆立ちしてもかなわないものだ。ゆっくり詠もうよ。と言う声が聞こえてくるような連作である。
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いちまいの布となりたる南風 北川あい沙
ゴーギャンの憧れた南国の風ならきっとこういうふうに感じるんだろう。そうあって欲しい。風を「いちまいの布」とした把握は鋭い。連作の全体の印象はまだまだ薄いように思う。もっと深くなりそうな作品があるだけに残念な気もする。
■ 丹沢亜郎 「暗い日曜日」 10句 →読む
■ 中田 剛 「有象無象」 10句 →読む
■ 白濱一羊 「ゴールポスト」 10句 →読む
■ 奥坂まや 番号順 10句 →読む■ 千葉皓史 夏桔梗 10句 →読む
■ 北川あい沙 柿 の 花 10句 →読む
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【週俳5月の俳句を読む】
馬場龍吉俳句個性とは百合の化した蝶のようなものか
■近 恵×星 力馬×玉簾×中嶋憲武
「一日十句」 自選30句より
ペンギンの羽ばたき速し四月馬鹿 近 恵
包丁の研がれ昭和の日の暮るる
傘開くところより春暮れにけり
どの作品にも「切れ」がしっかり効いている。理になっていない所に物語り、いや詩が生まれるとはこういうことを言うのだろう。例えば三句目。春の暮れはくまなくやってくるものだから、スポットライトを浴びるように暮れてくるわけはないのだが、こう書かれてみると、紛れもなく傘を開いたそこから春が暮れてきたように思えるのだ。そして傘をさす人までもが見えてくる。
花過ぎの雨や黒靴下に穴 星 力馬
和をもつて目刺を焼いてをりにけり
遠足の二百人はなれて三人
この人の作品は裏切りの面白さにある。「花過ぎ」と言っても「花の雨」の甘さには変わりないだろう。そこに「黒靴下」がくれば葬礼に違いない。最後の「穴」で見事に裏切ってくれた。次の句「和をもつて」とくれば当然「貴しとなす」なのだが、目刺を焼いているだけ。こうなると堅物の人なら歯痒くなるだろう裏切り。三句目「はなれる」裏切り。しつこいようだが裏切られる快感がある。
自転車を裸足でこげば春の海 玉簾
行く春やサンショウウオの手がひらく
一口で溶けるらくがん月朧
計らいのない気持ちのいい作品が並ぶ。素足で春の海に立っているのであればよくある俳句である。これは裸足で自転車に乗っているのだ。ペダルを裸足で漕ぐという記憶はたしかにある。ペダルを足裏で感じると同じくらい裸足に潮風を感じられるのだ。次の作品。行く春を惜しむように山椒魚の指がゆっくり開くのが見える。三句目は作意が見える作品だが、それも気持ちがいい。
北窓を開き南はどうするか 中嶋憲武
日の当たる月のとほくに蜷の道
人妻に馬鹿と言はるる蛍烏賊
この作品を見るまで「北窓を開く」のに南窓を考えたことはなかった。素朴な思いが素直に俳句になった。二句目。言ってしまえば、日の当たる蜷の道を見ていて見上げたら昼の月が出ていたということだが「日の当たる月のとほく」と表現したところに、日当たっている月に蜷の道があるような屈折感が出た。三句目は「人妻」の艶かしさが、つやつやの蛍烏賊の取り合わせによって生まれている。
俳句実作の一日十句というと課題というより、もはや試練になるのではないだろうか。これらの作品は息をするように生まれたのだろうか。そうだとしたら何とも羨ましい。三人の数ある作品のなかから三句ずつ選ばさせてもらったが、ここに載らなかった何句かの作品のご冥福を祈りたい。
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地球一周してたどりつくキャベツの芯 杉山久子
俳句は距離も時間も一瞬のうちに具現化できる道具である。それを立証したように大景から近景に迫った作品。「芯」にリアリティーがある。〈語り部と呼ばれ青芒のごとし〉青芒が語り部の清楚な人柄を浮き出させてくれた。〈泉見に行つたきりなるおばあさん〉泉は黄泉の国にもつながるようだ。敢えて「嫗(おみな)」を使わず「おばあさん」にしたところに、昔話を聞いているような懐かしさがある。
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真っ先に芽吹きもっとも寂しい木 伴場とく子
先駆けて芽吹く木はいかにもそうだろうなぁと思えるし「もっとも寂しい木」には理でない面白さがある。作者の胸中そのものを言い換えたのかもしれない。そんな小市民(死語?)的な読み方もできる。〈閑な日はひまなままいて春の雲〉春の雲にはそんな自由をあげたくなる。〈ピアスの穴たくさんあけて花粉症〉ピアスそのものは俗っぽい俳句に陥りやすいのだが、「花粉症」との配合で見事な俳句に化した。
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首刎ねよ首を刎ねよと百千鳥 菊田一平
ショッキングな言葉から入って、中七のだめ押しがあって百千鳥で収まっている。刑場を固唾を飲んで見守っている群集ではなく、百千鳥の姿があるところに異国か千年を遡っているような既視感がある。〈発掘のけふは休みで翁草〉は一句目とは違った、のどかな春の一日の気持ちよさがある。〈炒飯にきざむ焼豚みどりの夜〉年中作る炒飯だが、薄茶色の炒飯、茶色の焼豚は「みどりの夜」にこそマッチングするのだ。おいしそうではないか。
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螢袋の中を覗きに行かないか 北大路翼
シニカルな個性とも言える、独特な視点を持っている作家だと思う。それを直接的に言わずに素直に口にした作品に惹かれた。〈滝壺は何で溢れないのかな〉などもそうだ。作者が意図する方向性とは逆の読みだとしたら残念だが、読者の一人としてはこちらの方向へ伸びてくれたらうれしい。前書きがほとんどすべてに入っているのが気になった。十七音以外に前書きの要る俳句に意味があるのだろうか。
■伴場とく子 「ふくらんで」10句 →読む■杉山久子 「芯」10句 →読む■一日十句より
「春 や 春」……近 恵/星 力馬/玉簾/中嶋憲武 →読む
縦組30句 近 恵 →読む /星 力馬 →読む
/玉簾 →読む /中嶋憲武 →読む■菊田一平 「指でつぽ」10句 →読む■Prince K(aka 北大路翼) 「KING COBRA」 10句 →読む
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ダイクマ的
第46号「ハイクマ歳時記・春」を読む 馬場龍吉
ダイクマ的などと言っては失礼だろうか。ダイクマとは、wikipedia参照。平たく言ってしまえば家電量販店(ホームセンター)なのだが。「ハイクマ」を目にしたときに、端的な連想がここに至ったのである。週俳、第46号「ハイクマ歳時記・春」を読んで「ハイクマシーン」を略して「ハイクマ」ということがわかってスッキリした。
2005年11月、谷雄介、佐藤文香、上田信治の3名によってスタート。 2007年1月、谷雄介が脱けて、二人が残る。 佐藤文香と上田信治による俳句ユニット=ハイクマシーン。サイト http://www.haiku-machine.com/ ここを覗いてもらうとわかることだが、俳句活動だけでなく両氏の日常の巾広い俳句素材がわかる仕組みになっている。そういった意味でダイクマ的と言ったまでで他意はない。
さて、肝心の〈ハイクマ歳時記・春〉では、したたかなまでの俳句魂が垣間見られ、デュエットではなく、あくまでもユニットであることも頷ける。
【鶯】(うぐひす)
鶯や落款に血のかよひたる 佐藤文香
うぐひすや水こぼしつつ運びつつ 上田信治
佐藤文香の鶯は戸外から聞こえてくる。そして色紙か短冊に黒々と書をしたためた後、落款を息を整え心を込めて押す。その朱印が春先のまだ肌寒い冷気に鮮明なのだ。対して上田信治の描く人物は鶯とともに戸外にいる。寒風のなか少し汗ばみながらも水を運んでいるのだ。「うぐひす」「水こぼしつつ」「運びつつ」のかな表記が水の柔らかさを写して的確だ。
【梅】(うめ・むめ)
ほんたうに梅咲いてゐる梅ヶ丘 上田信治
目つむるといふ待ちやうも梅の花 佐藤文香
たとえば、百合が丘、つつじが丘、ひばりが丘という地名を持つからといって、それぞれが溢れるほど見られるとは誰も思ってはいない。それはイメージの地名だからだ。地名の梅がほんとうに咲いてる。上田の発見は読者の驚きに変わる。梅の花越しの春日のまぶしさにつむるものか、あるいは恋人のキスを待つ間につむるものか。佐藤の「梅の花」は若々しい。
【春深し】(はるふかし)
春深し能面に歯のたしかなる 佐藤文香
飯蛸の味噌汁となり春深し 上田信治
季語「春深し」は何にも当て嵌まるようだが、実は何にも当て嵌まるわけではない。春・夏・秋・冬の付く季語は俳句初心者ほど使いたがる。それは困ったときの季語としての使い方であって、何千句も作ってみると安易には使えないものであることがわかる。能面の句はすでに多々あるのだが、佐藤の「能面に歯のたしかなる」の発見と「春深し」の配合は能面の陰影をも彷佛とさせてくれる。上田の飯蛸は刺身になりたかったか。煮物になりたかったか。家人の都合で味噌汁の具になってしまった。飯蛸がたくさん入手できる地でないとこうはいかないことがわかる。この「春深し」には当然、亡き飯蛸の気持ちも入っている。
ユニットではあるが、両氏の描く俳句のタッチ、世界が違うところが魅力。
■ハイクマ歳時記 佐藤文香・上田信治 →読む
■■■
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【週俳2月の俳句を読む】
俳句に音が聞こえたら馬場龍吉
今となってはどうしようもない事なのだけれど、自分はもうすこし早く俳句と出会っていたかった。そういう意味では2月のこの俳人たちは恵まれているし羨ましいとさえ思う。全体の作品からつぶやき、言葉は伝わってくるが、声や音が聞こえてこないと思うのはぼくだけだろうか。
空を飛ぶものしずかなり室の花 宮嶋梓帆
中七までのフレーズは一見ありそうなのだが、案外ないかもしれない。「室の花」の静かな着地がいいし、連作のしめくくりとしても申し分ない。全体の流れもスムーズで悼みの気持ちが読み手に伝わってくる。〈初雪もなんまいだぶもまだ続き〉〈冬帽の大きすぎたる記憶かな〉も佳作。ただ、全体の湿っぽさを払拭する意図であったのかもしれないが〈布団干す椎名林檎を鼻歌で〉の一句は浮いていないだろうか。
綿虫は謝りたくて待つてゐる 矢口 晃
綿虫は夏のまくなぎとは違い、冬日にふわふわと飛ぶ印象は何かを告げたくて漂泊しているようでもある。この「ゐる」から始まって「ゐた」の挙げ句までに時の流れの使い方が充分計算されているようで安心して読める連作。〈携帯の待受画面春めきぬ〉〈居酒屋の春の壁掛メニュウかな〉に使われている「春」は、季語として呼吸しているようには思えない。息抜きの一句として使われていたのかもしれないのだが。
海に降る霰の音を誰か聞く 神野紗希
「たれかきく」と一句を全て清音で読みたい。地面をたたく霰と水をたたく霰ではやはり違うだろう。といって作者は音そのものにこだわっているわけではないような気がする。句意としては「海に降る霰を誰か聞く」そこに「音」を入れることによって「音」そのものを消しているような広がりが出た。〈風船を膨らませたる手の匂い〉には嗅覚や触感があって懐かしい。全体的には写生俳句と主観俳句のどちらを目ざしているのか、その融合の途上なのかまだはっきりしていないところに、これからの可能性があるように思う。
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〔余録〕アダルト版俳句甲子園
まず「毛皮夫人×毛皮娘」というタイトルに惹かれた。まさか日活○○○の逆襲じゃないだろうな。と思いつつもクリック。やはり違った。「夫人×娘」に思わず反応してしまったようだ。半分ザンネン。じつは「中嶋憲武×さいばら天気」による一月の「一日十句」、計310句からの自選31句の俳句対戦だったのだ。
さすがに元旦から始まる。正しい俳人は寝正月では無かったようだ。
猫のゐる恵方へからだ向けゐたり 中嶋憲武
漫才の服がおそろひ初御空 さいばら天気
猫好きの俳人があまりにも多いので、俳壇ではたとえ犬好きであっても猫の句を作ろう。恵方は毎年変わるらしいから猫とちゃんと打ち合わせしておかないと悪方へ向かっているかもしれないので注意が必要。
「漫才」は元旦でなくても見られるが、やはり正月三箇日、炬燵に入りながら前年の収録漫才をテレビで聞くともなく流しているのが正月の醍醐味だ。由緒正しい「萬歳」なら季寄せにも入っているが、いまやこちらはほとんど見られない。無形文化財に指定されて残っている程度かもしれない。初御空が文句なくめでたい。
双六の折目や駒の躓ける 憲武
牛日にひらく南の島の地図
余韻とも心残りとも寒茜
餅花があたまに触れて遊び人 天気
もの買ひに入るに門松が邪魔
贋作の屏風のごとく富士の山
写生派憲武に対する諧謔派天気の接戦は続く。そしていよいよ、「毛皮夫人×毛皮娘」。
ほほほほと口に手を当て毛皮夫人 憲武
酔うて寝て死んだふりする毛皮夫人
毛皮夫人毛皮をすこし毟らるる
毛皮夫人「沖」へ入会躊躇せる
屏風絵にうなづく毛皮娘かな 天気
毛皮娘じつは関西弁しやべる
いとをかし毛皮娘も伊勢海老も
人生とつぶやく毛皮娘かな
毛皮夫人、毛皮娘を詠むことはやはり難儀な仕事だったようだ。どの句からも空ろな印象を受ける。それよりも…
ハーモニカ吹くたび枯木近づきぬ 憲武
ひとひらの雪のゆくへをみてゐたり
枯芝やちひさき犬のちらちらす
ラグビーの笛吹く人の走りをり 天気
レコードのかすかなうねり山眠る
対岸の人に冬日のさしてをり
…等の句を得られたは恐悦至極。アダルト版俳句甲子園の行方やいかに……。俳句は勝ち負けで判断し得ないものと改めて認識した。読者それぞれの胸中に過るものがあればそれで成功だろう。
■宮嶋梓帆 記憶 10句 →読む■矢口 晃 いいや 10句 →読む■神野紗希 誰か聞く 10句 →読む■毛皮夫人×毛皮娘 中嶋憲武×さいばら天気 →読む
■■■
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【週俳1月の俳句を読む】
選ばれる句と愛される句馬場龍吉
さいばら天気さんが、「俳句的日常」で『選ぶ句と愛する句』について書かれていたが、まさにその通りでそこが句会と句集(独立した作品発表の場)における選句、観賞の違いだろうと思う。
句会の選句では自分には採れなかった作品が、その人の句集、連作発表に載っていてあらためてその作品に感心させられることがあるのだ。選者と読者の違いがここにあるのかもしれない。
実作者の立場からすれば、句会で無選だった句にも愛しい句がときにあり、発表して日の目を見せてあげたくなる。そういう作品が読者の「愛する句』に入れば最高なのだが。
[ 新年詠から ]
信頼は皆無と六日排卵し 井口吾郎
昨年を代表する「偽」を引きずる社会を嘆く回文俳句の極致。ただひとつ残念なのはぼくには「排卵」という感覚は知り得ないところなのだが感じは受け止めることが出来た。
去年今年分け隔てたる皮一枚 上野葉月
「皮一枚でぶら下がる」という言葉も思い浮かぶが、内と外のボーダー。肉体でいえば皮膚。時刻でいえば12月31日の午前0時。その瞬間に立ち会う一枚の皮の存在に思いが及ぶという感覚がいい。
福寿草ひかりに音のしてゐたる 越智友亮
「ひかりに音のしてゐたる」が眼目。福寿草といえば春色。福寿草の周りの生活の実景には違いないのだが、光そのものの音が聞こえる作者がうらやましくなってくる。
初雀役の雀がこの雀 佐山哲郎
俳諧味たっぷりの作品。この雀「初雀」とたすき掛けで現れてくれたらなお面白いだろうに。
爛々と闇に鹿の眼初昔 広渡敬雄
「爛々」には、たったいま見てきたような実感がある。二年詣りに出くわした不気味さも去年のこととして、新年を迎えることが出来そうだ。
門松をちょっと直して家出せり こしのゆみこ
「家を出る」ではなく、「家出せり」の可笑しさ。上五中七の平穏に対しての下五の裏切りが効いている。
曳猿のやや着崩れてをりにけり さいばら天気
そうそう昨今のペットに衣装を着させる風潮は、ペットを飼っていないものにはどうもわからない。たいていは犬だが。猿回しの猿にはそれも許されるだろう。演目をやってゆくうちに着崩れてくる猿の様子を想像すると思わずニヤッとなってしまう。「着崩れている」に実感がある。
手毬子の影踏まれたり轢かれたり 谷口智行
「踏まれたり」は考えの範疇だが、「轢かれたり」には度胆を抜かれた。誰もが見ている光景だが、こうして文字にされてみると恐くなってくる。リフレインとはこういう風に使うんだなぁ。
黒髪の乱れてゐたる歌留多かな 中嶋憲武
艶っぽい作品が少ないなかで、週俳で「スズキさん」を読ませてくれている憲武さんの作品とは。「スズキさん」ファンが周りにもけっこう多いので、続編を待ち遠しくしているのだが。
十二月三十二日寝酒かな 野口 裕
「十二月三十二日」の発想は理系の作家だろうか。いやいや案外、元旦を三十二日にしてしまうくらいだから波瀾万丈とは縁のなさそうな丼勘定タイプかもしれない。「寝正月」ではなく「寝酒」が決まっている。
で、ここからは静かな作品。新年といっても暦のうえの区切りであって、冬の一日であることには違いない。新年とは例えば、手術後の麻酔から覚めて初めて出会うであろう空や花、万物。それらに対する挨拶の気持ちから発する声のような。普段が普段と変わる新年を言い留めたつぶやき群。
初荷よりこぼれし菜なり啄める うまきいつこ
餅花をすこし揺らして開店す 齋藤朝比古
煙突に空あるばかり三ケ日 鈴木不意
気がつけば口開けてゐる去年今年 茅根知子
川風の堤をあふれ福寿草 津川絵理子
元日の掃除機顎を上げ眠る 仲 寒蝉
手も洗ひ飽きて三日の虚(うつ)け空 媚庵
元旦や物干竿に日の当たる 松本てふこ
黒豆を明るい方へ寄せにけり 宮本佳世乃
初春のうらがへしあるバケツかな 大穂照久
正月の日向に出でし坊主かな 雪我狂流
狂流さんのの句には、正月の日向に出てきた坊主(僧あるいは子供)という観賞と、正月に集まった親類縁者の子供たちの遊ぶ座布団に、花札の日の出の札が出されたようなおめでたさがあり、こういう押し付けでない二重構造の句は好きだ。
[ 一月の十句発表作品から ]
湯豆腐に瓦礫ののこる寧けさよ 青山茂根
見立てと言ってしまえばそれまでだが、湯豆腐の欠片を「瓦礫」と思う発見が面白い。食後の静かになった鍋の余韻を詠んで佳句。〈虎落笛死せる珊瑚のごと街は〉は掲句に比べて詩的な面、弱いように思う。〈上陸の夜を梟に迎へらる〉〈雨足の去りたる落葉浄土かな〉〈陵を守る水鳥もありぬべし〉などに上質の優しさが漂う。
門外に雪のざわめく辰の刻 村上瑪論
幕末の京にでも旅しているような読後感があった。掲句からは浪士や幕府方の追っ手の雪の足音が聞こえてくる。好きでなければ描けない世界。作者はちょうど司馬遼太郎のような目線でいるんだろう。〈池田屋は間口の狭く寒椿〉は、一読普通の吟行句のようにも見えるが前後を結ぶ重要な役割を果たしているようだ。
ことごとく蓮折れてゐる時雨かな 対中いずみ
蓮の茎も時雨も、句姿からは直線のイメージを受けるのだが、「ことごとく」の醸し出す表記の柔らかさが句全体を包みこんでいる。〈煮凝に鮟鱇の足ありにけり〉〈猛禽の声の中なる氷柱かな〉なども整っているなかに存在感があり、安心して読めた。
晩婚に冬のいなづま刺さりけり 岡村知昭
この作家は取り合わせの妙を見せてくれた。故飯島晴子は閃いた言葉をクリップで壁に止めて置き、ずっと見続けて次に閃いたフレーズを当て嵌めたというが、読者は作者の到達した答えから遡って問題である風景に行き着く旅程が楽しい。〈関西の騙されやすき枯木かな〉一句は一枚の騙し絵であり、そのなかに隠されたものを見い出す快感を享受することになる。
凩の聞えてきたるバイオリン 茅根知子
たぶん素直に作られている作品だろうから、素直に読めばいいのだと思う。のだが二通りに読んでもいいのだろう。一つはバイオリン奏者に凩の吹きすさぶ音が聞こえてきた。というもの。いま一つはバイオリンから凩が吹いてくるというもの。どちらにしても凩の存在は強い。〈枯菊に残つてゐたる火の匂ひ〉焚いている枯菊にではなく、枯菊そのものに生々しい火の匂いを感じたということ。こういう感性は大事にしてほしい。
文鳥は温し牡蠣フライは熱し 上田信治
いやあたしかに。でもつまらなくない。いいなぁ、こういうふうに詠めるって。文鳥の体温が手のなかにあり、熱い牡蠣フライは前歯に預ける。その感動がそれぞれにあり、自らも生きていると感じる。そういう喜びが伝わってくる。〈北風の吹いてするめの大きくて〉にはだるまストーブが似合いそうだ。焼けたするめは手には熱すぎて口にほうりこむ。
■特集「週俳」2008新年詠 →読む ■青山茂根 珊瑚漂泊 10句 →読む■村上瑪論 回 天 10句 →読む
■対中いずみ 氷 柱 10句 →読む■岡村知昭 ふくろうワルツ 10句 →読む■茅根知子 正面の顔 10句 →読む■上田信治 文 鳥 10句 →読む
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【週俳12月の俳句を読む】
馬場龍吉フツーに全部読んでみる
冬萌や米軍基地は囲はれて 浜いぶき
「米軍基地」からは金網フェンスという境界の内と外のどちら側に立つかということや思想は別として、こうして文字にされてみると可哀想な感じを受けるから不思議。〈枯葉つもりて水のなきプールかな〉〈山眠るけものの目尻濡れてをり〉いぶきさんのたしかな目にこれからのスリリングな展開を期待させるものがある。
大枯野起伏を凝らすことしきり 小池康生
枯野しかも大枯野の波うつさまを写して広大である。繰り返し繰り返しただ風が通り過ぎてゆくだけの景色。変わってゆくのは空の色と時間。息を凝らして見ている作者。これこそが原風景なのかもしれない。〈凩や割箸ぎゆつと圧し込まれ〉には、戸外の寒さと人の手のぬくもりが見える。
白鳥定食いつまでも聲かがやくよ 田島健一
ギラギラした定食屋の「白鳥定食」だったにせよ。白鳥料理のはずはないだろうけれど。一瞬目を疑う。中七下五の惜辞が永遠。「白鳥」「定食」に付いただけでは駄目で「白鳥定食」であらねばならないと納得させるものがある。〈鏡中のこがらし妻のなかを雲〉この透明感もいい。
暖房機しくしくふうと止まりたる 太田うさぎ
ヒーターが「しくしくふう」と止まるという聴感覚の鋭さと、止まったあとの部屋の余韻がいい。暖房機にはいつも私がいるが、自分は孤独なんだと言わんばかりだ。暖房機を人間に置き換えてみるともっと切ないものに思えてくる。〈セーターを一人は脱げり美術室〉セーターは着るか脱ぐか編むものだが、脱いで成功しているのがこの作品。クロッキーかスケッチに夢中になっている生徒の様子が見えてくる。
いつかこの言葉も消えて夜の雪 冨田拓也
常々甘い言葉使いをする人の作品であれば飽食感もあるかもしれないのだが、この連作には見当たらないので、これは信じていいと思う。夜の雪は寂しい。降っても積もっても見ている人は少ないから。そして人間の吐くことばも言ったそばから消えてゆく、時には心に積もってゆくこともあるだろうが。〈寒月や鎧は函に納まりぬ〉〈一千年前の詩を読む霜夜かな〉拓也さんの俳句はまるで詩を読むようである。
富士壺の口寒月の照らしをり 相子智恵
岸壁などに付着しているフジツボを寒月光が照らしているだけのことなのだが、捉えようによってはアストロ写真に映っているクレーターのようにも見える。それは「富士壺」という文字がそうさせるのだが、小さなものも壮大なものに見えてくる。大きなものを小さくも見せ、過去や未来を手に届くほど近く引き寄せることが俳句にはできる。〈鶏の餌を撒きてむせたる冬日かな〉〈連山は雪積みてこそ空に鳥〉と、申し分ない作品が多かった。
七五三落丁もあり乱丁も 笠井亞子
何のことだか。と二読させる作品。ストレートに読むと、七五三の子どもにはいろんな性格の子がいて、手のつけようがない、どうしようもない子どもばっかり。そこが可愛いのよ。というのと。深読みをすれば、広辞苑らしき分厚い本の753頁には落丁もあり乱丁もあったと。亞子さんは後者で作られたのではないだろうか。〈すさまじき背中向けたる広辞苑〉〈一葉忌句点ほろりとぶらさがる〉久々に楽しい俳句に出会った。
ポインセチアあかるい毒をたつぷりと 中原徳子
フィリップ・ジャンティ・カンパニー『世界の涯て』に寄せる作品とあるから、観ていないフツーの人は俳句だけを鑑賞するしかないわけだが、〈白鳥よ種も仕掛もある夢よ〉〈極月の鋏と化せる下半身〉徳子ワールドの調剤の効いた薬を服用して異空間を浮遊したような作品にしばらく遊ばせてもらった。
茸飯折詰の底あたたかき 矢羽野智津子
素直な作品が続く。折詰め弁当を片手に持って箸を使う。出来たての弁当の温もりが伝わってくる。「折詰の底」が眼目。紅葉狩の一部始終に同行しているような臨場感がある。〈枯芒風がまるめてをりにけり〉風に意思があって枯芒一本一本を撫でているようなぬくもりを感じた。
天袋より引きずり下ろす聖樹かな 仲 寒蝉
引きずり下ろしたのが聖樹という面白さ。一年に一度暗い所から出され日の目を見ることになる聖樹。しかも団欒の主役に大抜擢。そして一週間後はまた天袋行きも決まっている。忙しいクリスマスと暗く安楽な天袋。どちらがこの聖樹にはシアワセなのだろう。そんな俳味を感じる。〈真ん中に鼻の居すわる十二月〉言われてみるとこの鼻というものも何にもしないで顔の真ん中にあるようだが一応いろんな顔の表情をつくる働きをしている。師走の一日、顔を洗っていてしみじみと感じいったのだろうか。
■ 浜いぶき 「冬の匂ひ」10句 →読む
■ 小池康生 「起伏」10句 →読む
■ 田島健一 「白鳥定食」10句 →読む
■ 太田うさぎ 「胸のかたち」 10句 →読む
■ 冨田拓也 「冬の日」 10句 → 読む
■ 相子智恵 「幻魚」 10句 →読む
■ 笠井亞子 「page」 10句 →読む■ 中原徳子 「朱欒ざぼん」 10句 →読む
■ 矢羽野智津子 「四〇二号室」 10句 →読む
■ 仲 寒蝉 「間抜け顔」 10句 →読む
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馬場龍吉 フツーに読んでみる
まったくフツーの人なので、そのようにフツーに俳句を読んでみる。
さつきから太陽に蝿枇杷の花 加藤かな文
この作品の言葉の捻れは成功している。日のあたる枇杷の花に来ている冬の蝿。そう言ってしまっては、ただそれだけのことに過ぎない。写生派の高野素十ならこうは作りはしないだろう。「太陽に蝿」としたことによって太陽の黒点のようでもあり、太陽の周りを付かず離れず飛び回っている蝿が見えてくる。それは「さつきから」という言葉の介在があってのことだが。
はつふゆや切り取り線をゆく鋏 同
はつふゆの質感は、もう雪を連想させてくれる。紙の山折り谷折りというパターンは良く目にするようになったが「切り取り線を行く鋏」の「はつふゆ」が動かない。国道をゆく除雪車を俯瞰しているような、炬燵に入りながらの工作に雪が降っているような寂寥感がある。
生姜から生姜の花を育てけり 寺澤一雄
「生姜の花」が全体のタイトルだから、さぞや清楚な作品が並ぶだろうと読み進めて行く〈長き夜の終りて通勤電車かな〉で始まる三十句。いや次には出てくる、その次の次には出てくる。いやずっと出てこない。
生姜を育てるのは生姜を得るために植えるわけだが、作者はその花を見てしまった。こういう面白味は寺澤氏の得意とするところのようだ。〈手を上げる運動会の大玉へ〉運動会で手を上げるものは? というなぞなぞの答えは「大玉」だ。因果のようで因果ではない。不思議な感触がここにもある。
円盤も槍も回転天高し 同
円盤投げの円盤と槍投げの槍。と理解するのが妥当だが、実は円盤とはUFOなのだ。とは作者は言っていないが、UFOに向かっていく槍があると思うと宇宙戦争のようでなんとも楽しくなる。
松茸を写真に撮つてから食べる 同
松茸の風味、形態、調理法には触れていないところが潔い。きっとうまかったのだろうと察しがつく。
この人の手に掛かるとなんでも俳句になってしまいそうだ。「通勤電車」「隣のビル」「休刊の俳句雑誌」「運動会の大玉」「銀河系」「大宮の駅前」「映画看板」「品川」「駅前飯店」。
掲句をはじめとして、これがいわゆる現代俳諧と言うものかもしれない。
秋の夜の赤いボタンを押してみる 鴇田智哉
まさか本当に押しはしていないだろうが。釦をみるとなんでも押してみたくなる衝動に駆られるのはなにも作者だけではない。その辺の深層心理を微妙にくすぐって面白味を出しているのが鴇田作品の醍醐味なのかもしれない。
草の香にあしたのことを思ひつく 同
普通何かを思い出すのは視覚、嗅覚、聴覚に触れたその連想からの事が多い。例えば道路を歩いていて後ろから来る自転車にベルを鳴らされ、ベル→自転車→危ない→自転車→さっき自分が乗ってきた自転車のカギを掛けたまま付けっぱなしにしていたことを思い出す。と、たいていは関連性のある連想が多いのだが、掲句では「草の香」をヒントに何かを思い出している。「草いきれ」が鼻を通して脳にピンと来た瞬間を言いとめている。
羽の国の羽毛のやうな鱗雲 久保山敦子
「羽毛のやうな鱗雲」が読み手のこころの青空に広がって爽やかだ。〈Unokunino/Umounoyouna/Urokogumo〉とu音の韻の深さがふわっとあたたかい作品。
十句はたったの十行だが、この十行で奥羽を駆け抜けることが出来る。俳句のありがたさを再認識させられた作品群。一言で言ってしまえば久保山氏は手練である。
わがままを通すままこの尻ぬぐひ 同
継子の尻拭い(トゲソバ、ハリソバ)、おそらく俳句をやっていなければ出会うことなく、目にしたとしても「草」のひとつとして認識されただけの植物だったであろう。
わがままを/通す/ままこの尻ぬぐひ
わがままを通す/ままこの尻ぬぐひ
わがままを通すまま/この尻ぬぐひ
「わがまま/ままこの尻ぬぐひ」の「mama音」からの連想の作品だとしても、読みようによってさまざまに読める仕掛けがここにあり、一句は奥深い。
これよりの月太りゆく月の山 同
山並をなぞるかのように月は上り、やがて中天を目指してゆく。あたかも月山の頂上を。繊細と骨太、硬軟のめりはりを使い分けできる久保山作品がまぶしい。
■ 久保山敦子 「月の山」10句 →読む■ 鴇田智哉 「ゑのぐの指」10句 →読む■ 寺澤一雄 「生姜の花」30句 →読む■ 加藤かな文 「暮れ残る」10句 →読む
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馬場龍吉 まぼろし
さ ね さ し の さ が み 走 ら す し ら す か な
浮 島 へ 鳥 つ き さ さ り 卯 浪 立 つ
岬 か ら 夜 の あ け ゆ く 青 葉 木 菟
妹 や 蛍 を つ れ て も ど り し は
水 打 つ て オ ア シ ス に 立 つ 土 煙
造 り 滝 靴 揃 へ あ り 捨 て て あ り
箱 庭 に 芭 蕉 の 影 の 立 ち に け り
風 の 百 合 あ つ と い ふ ま に 蝶 に か な
ま ぼ ろ し の 帝 都 く づ る る 梅 雨 濁
雨 音 の 高 野 聖 と な り に け り
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