【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈終章〉
田島健一
2015-10-25
【石田波郷新人賞落選展を読む】思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章 〈終章〉 田島健一
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【石田波郷新人賞落選展を読む】思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章 〈第十二章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈12〉デリカシーもおべんちゃらもいらない
田島健一
12. 微熱(三島ちとせ)
俳句をつくる上でもっとも難しいことは、自分に正直であることだ。いい俳句をつくることも、うまい俳句をつくることも、私たちの可能性という時間軸のなかでひとつの技術として現れるが、「自分に正直であること」は、そのような因果関係の直線上に因果関係を持たない絶対的な関係性を生成する。俳句を書くとき、「書きたいものを書く」ということが最も大事であることは言うまでもない。それが俳句を書くことの倫理そのものだ。そのために大事なのは「自分に正直であること」だ。言い換えれば「書きたいもの」に対して真摯であることだ。
島唄を覚えるごとく亀鳴きぬ 三島ちとせ
「私は正直か?」という問いに正しく答えることは難しい。自分では正直であるつもりでも、どこかで誰かに「配慮」している。その「配慮」が書きたいものを書くことを邪魔する。日常の社会生活ではデリカシーのある言動が不可欠だが、少なくとも「俳句を書く」という行為においては逆である。それは「書くこと」のもっとも大事なものを遠ざけてしまう。
私たちが「俳句を書く」ということは、言い換えれば「無意識の配慮」との葛藤である。例えばそれは有季定型への「配慮」であるかも知れない。あるいは季語への。あるいは意味への。
「書きたいものを書く」ときの「書きたいもの」とは、厳密に言えばまだ「書けないもの」だ。「無意識の配慮」はそれまでに書いてき歴史と経験をもとに、あくまでも誰かを納得させるために書かせようとするが、本来私が「書きたいもの」は、まだ誰にも書かれたことのない何かだ。
とある日へ置き去りにする真冬かな
掲句の「とある日」とは、あたかも過去のある時点を指し示しているようであるが、それは「今」という地点から遡及して定義された歴史には書き込まれなかった時間だ。私たちが「書きたいもの」は、すでに予言されていたかのように、あたかも私たちを代理する。
掲句の「真冬」はめぐる季節のなかで何度もくりかえすものでありながら、「置き去り」にされたそれは、複写することのできないたった一度の記憶(これもまた遡及して生成された)である。私たちの「書きたいもの」もまた、そのようにしてあたかも「書き尽くされた」ものであるような見せかけでありながら、私たちの時間のなかでどこまでも「新しい」。
私たちが「無意識に配慮」しているものたちは、この「書き尽くされた見せかけに奉仕せよ」と呼びかけてくるが、俳句を書くためには、その呼びかけに反する「勇気」をもたなければならない。ここで言う「勇気」とは、私たちがまだ因果関係で説明することができない事象をそこに「書きとめる」ことに他ならない。
「自分に正直であること」は、この「書きとめる」ちからを、歴史性や日常性に還元されず、私を起点として私の責任の上で書くために必要な絶対条件である。
空耳であらぬ柘榴を割つてゐる
まさに「俳句を書く」ことは、「空耳」を書き留めるような行為である。それは「私だけに聞こえるもの」にまっすぐに従うことだ。「自分に正直であること」それは、「配慮に欠けた」ものではなく、そもそも「配慮に反した」ものなのだ。そこには期待された(私たちの「配慮」はその期待に対する「配慮」に他ならないのだが)意味が「ない」のではなく、期待された意味に反する「意味」が遡及されて生成される。
俳句は一般的に思われていることと異なり、全き「意味の文芸」である。しかしそこで言う「意味」とは私たちが生きる時間の中で実に複雑な様相を呈している。俳句に書かれる「意味」は、私たちの「主体」と直接的に関係性をもっていて、いわゆる「意味」は、その「主体」との関係性のなかで「私ではない私」によって語られる。
この「主体」と「意味」と「時間性」は、俳句がおのずから「語る」こと、つまりは俳句が「語り尽くしたこと」によってのみ描き出されるネガティブな領域の出来事である。
俳句を書く私たち、俳句を読む私たちに呼びかけられているのは、そのネガティブな領域からの声で、その声は常に私たちに勇気を求めてくるのだ。
<完>
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2015-05-24
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈11〉ことばの向こうの世界があってもなくても
田島健一
11.無声映画B(平岩壮悟)
言うまでもなく俳句は「ことば」だ。だとしたら、その「ことば」でできた俳句が指し示している「実体」はどこにあるのだろうか。
いわゆる「写生」は、つまり「対象」を見て書くことで俳句を「対象」に結び付けるのだが、では俳句はすべて「対象」に還元することが可能だと言えるだろうか。
仮に、俳句が「対象」に還元することができるとしたら、俳句の向こう側に、俳句が「対象」とするもう一枚の世界が存在していて、しかもその世界は俳句を(その世界を見つめる主体の視線そのものを)含んでいない、ということになる。
俳句は、そのような主体が生きる必要のないユートピアを前提とした表現だと考えてよいのだろうか。
蟇無声映画の字幕濃し 平岩壮悟
無声映画で表示される字幕は、そこで映し出される映像に「あるはず」の声を代替する。
仮に何かの問題が生じ、画面に字幕が表示されなければ、おそらく観客は騒ぎ出すだろう。なぜなら、そこに「あるはず」の声を聴くことができないからだ。それは、観客たちにとって、字幕は「あってもなくても」、物語を表現する〈声〉は存在している(はずだ)からに他ならない。ところが、問題が明らかになるのは、そこに用意されていたのとは別の字幕が流れ出した場合である。そこには従来とは別のやりとりが生じ、映し出された映像は別の意味を表現し、全く別の物語が展開する。このとき「あるはず」だった〈声〉は解体し、そこで流れた字幕は予定されていたのとは全く別の〈声〉をもたらす。
つまり、時間の流れが逆だということだ。
〈声〉は「あってもなくても」、字幕は存在する。むしろ、字幕こそが〈声〉の存在を裏付けている。つまり、字幕は声を代補する。
着ぶくれやエンドロールで眠りだす
明治期以後、俳句は多かれ少なかれ「イメージの詩」として発展してきた。
書かれた句の向こうには何かしらのイメージを生成する実体があって、そこには定められた詩的物語がある、と。
場合によっては、十全たる俳句は、十全たるイメージだと考えている人もいる。俳句の「鑑賞」は、そのような十全たるイメージの「解釈」として理解され、そこに書かれた句は、別の言葉で語り直される。それはまるで既に物語を終えた映画のエンドロールを見るように、読み手は俳句の「事後」に立ち会わされる。
そこでは、俳句の味わいはイメージの「事後」に生みだされる「余韻」、「余情」だと信じられている。それは間違いではないが、それによって俳句は常に「事後」の詩として、常に現実から遅れている。
子がひやくを数へきる銀河ができる
けれども、そのような「イメージの詩」としての発展の隙間で、それをすり抜けるようにして俳句には「語りつくせないものがある」ことは知られていて、静かに語り継がれている。
俳句のアクチュアリティとは、ことばの代補性に基づく、イメージ化の仕損じ、伝達性の過誤、全体性をすり抜ける罅割れのようなものである。
いわば、それは映画の予告編のように、イメージの完成を逃れつつ、常に何かを「保留」し続ける。もはや、本編が定かでなくなるほど、それは意味の「仮説」として、表現ではなく指標として、世界を「予告」する。
このとき、予告編としての「俳句」にとって、本編としての世界は「あってもなくても」なのである。
映画の予告編が、時折、本編よりも「面白い」ことがあるように、俳句の「面白さ」とは、継続する「面白そう」に他ならない。「面白さ」そのものが「保留」され続ける、ということが、俳句の「面白さ」そのものであるということ─それは、つねに「予告編」だと考えられているものが、実は「本編」そのものである、ということを示している。
言い換えれば、「書かれた俳句」が示そうとしているものは、その句の向こう側に「もう一枚の世界」としてあるのではなく、そこに「書かれた俳句」の表層に「ことばとして」書き込まれているのである。書かれたことが、書こうとしたもの「そのもの」であるということ─この再帰的な構造が、俳句がもつ最も個別的な構造で、そこで「意味」が出来事として生成される画期的な仕組みなのだ。
〈第十二章〉へつづく
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2015-05-03
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第十章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈10〉選ぶ眼と、整合性のとれた世界に流れ込む騒がしい者ども
田島健一
10.異世界(中西亮太)
私たちが生きる世界は偶然に溢れていて絶えず騒然としているのだけれど、俳句の有季定型という窓から覗くと不思議と世界はそのサイズに収まってしまう。けれどもそれは世界が自然とそこに「収まって」いるのではなく、むしろ私たちの「選ぶ眼」が、騒然とした世界から俳句として書くべき「美しい」ものだけを選択し書きとめている。そうして騒がしい諸々の声は封じ込められ、世界は整合性のとれたものとして私たちの想像的な領域でバランスを保っている。
あまり知られていないことは、そこで選ばれなかった諸々の声の幾許かは、書かれた句に痕跡を残し、そこに書かれた俳句を歪ませるということだ。
異世界の入口なりし山椒魚 中西亮太
ここで言う「異世界」とは、どの位置にあって、私たちが生きる「自明の世界」とどのように関わっているのだろうか。逆に問えば、この「山椒魚」を包み込んでいる異世界ではない世界は何によって守られているのだろうか。
この「山椒魚」はあたかも「異世界」からの使者のような佇まいで、私たちには見ることができない「異世界」の存在をそこに立ち上げている。そのような気配は、「山椒魚」の佇まいが、私たちが生きる、「いまここ」にある世界から少しズレたものとして感じられる。
そのズレを「感じる」視線はあくまでも健康的な視線で、それはどこまでも「異世界ではない世界」にとどまっている。
通常、いまここにある世界と「異世界」とはパラレルな関係で、どこまでも触れ合うことはない。ところが、この「感じる」が「信じる」へと変化し、あくまでも世界の「ズレ」だったものがことごとく視線を支配するようになってしまうことがある。そして一度「信じる」ことに取り憑かれると、私たちは「異世界」の気配を感じとる「健康的な視線」を失う。そのとき異世界はもはや異世界ではない。
初恋の傷もいつしか蜥蜴かな
密め抜く初恋氷室の桜かな
「初恋」は正にそのような「信じる」視線のひとつかも知れない。「初恋」の対象がもつ些細な特徴や仕草は、恋を患った者の視線を支配し、もはやその視線の外側に立つことはできない。逆に言えば掲句のように「初恋」と名指しする作者の視線は、そのような「初恋」を「信じる」視線の外側にいる。それは「いまここ」にいる別の主体として、あるいはノスタルジーとして「初恋」をその外側から呼び出す。
実際に「信じる」視線にとって、そこはもはや「異世界」ではなく、逆に言えば、私たちが「いまここ」として暮している自明な世界も、すでに「信じる」視線をもった私たちが、信じた結果として広がっているに過ぎないのかも知れない。
暗闇に沈丁の香の溶けにけり
コスモスのたなびきたるや合唱祭
俳句をつくるときに厄介なのは、「信じる」ことの外部にいる視線にとっては、「信じる」視線に見えているものが「異物」としてうつることだ。俳句を書きながら、そうした「異物」は差し引かれ、そこには感触の良い、明朗なことばだけが書き残される。
俳句を書くとき、私たちは見えるものしか主題化することができないし、さらには名前があるものしか見ることができない。ましてや「いまここ」にパラレルに寄り添っている「異世界」に触れることは全く許されていない。
この「できなさ」に眼を見開くとき、初めて俳句に「何を書きとめるか」という議論に進むことができるのではないだろうか。
私たちが「ことば」で何かを名指すたびに、「信じる」者にしか見えない「まぼろし」たちの声を失わせ、その声たちを俳句の「美」に殉じさせる。私たちの「選ぶ眼」は、そうして世界をシミュラークルに描き尽くし、「信じる」ことを私たち自身から奪い去る。
逆に言えば、実はそこに書かれた俳句は、正にその主体が「何を信じているのか」を指し示していて、いかに「選ぶ眼」が全てを制御しようとしても、そこから零れたまぼろしの声たちによって、彼が何を「信じている」のかを露呈してしまうのだ。
俳句はそうやって主体の「信じる」領域に関わってくるのだけれど、その「まぼろしの声」は私たちにとってどのような意味を開示するのだろう。ここで実現されなかったものたちは、どこでそれを成し遂げるのだろう。
〈第十一章〉へつづく
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2015-04-26
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第九章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈9〉際限なく想像し、やわらかく現実に触れる
田島健一
09.採血の痕(寺田 人)
「俳句を書く」ということは何よりも現実的な行為で、俳句を通した視線がどこまで遠くに行ってしまったとしても、私たちは間違いなくそこに戻ってくればそれでいい。そのような視線によって社会を革新する必要もなければ、セカイを救う必要もない。迷う必要がない。
春の風邪隻眼の魚捌かるる 寺田 人
「隻眼の」は作者が触れた現実を示していて、そこだけが私たちの想像から妙に浮き上がってしまい、さらには無意味である。
「捌かるる」主体は魚なのだが、上五の「春の風邪」は、その魚を見ている「私」という主体を指し示している。己の身に刃を受け入れている隻眼の魚に成り代わりつつ、意識は春の風邪を感じる自己に貼りついて離れない。
ところで日頃から俳句を書いている私たちがそうでない人に自分を紹介するとき、「私は俳句をやっています」と言う。この「俳句をやっています」とは、もちろん俳句を書くことだし、あるいは俳句を読んだり、それについて論じることかも知れない。
けれども、仮に学校の宿題でたまたま俳句をつくることになった、というだけでは人は「俳句をやっています」とは言わない。ところがなぜか私たちが「俳句をやっている」という場合、それは俳句を作っている時間だけでなく、それを離れて仕事や学校や家庭で俳句とは無関係に過している時間もすべて含まれている。
言い換えれば私たちは、俳句と現実的に関わっていない時間もまた「俳句をやっている」のである。そのような時間は、私たちが想像的に俳句と関わっている時間で、いわゆる「イマジネーション」が活動するのは、ここである。
俳句を書く喜びや期待はこの俳句を書いていない想像的時間に支えられていて、この時間を失うと、私たちは俳句を書くモチベーションそのものを失う。
薫風の騎士の鎧の隙間へと
冬ざれや献血の痕重なりぬ
「騎士の鎧」も「献血の痕」も、それそのものは想像的なものであって、いくら「私はそれを見た」と言っても、ことばが運んでくるのは私たちが既に知っているカタログ化された世界の断片でしかない。
ある種の効率主義は、そのような想像的時間も「俳句を書く」という現実で埋め尽くし、あたかも「無意識」という意識できない別の「意識」の様態があるかのように想像力を侵略しつつ、あらゆる「無駄な時間」を削り取ろうとするが、実はその「無駄な時間」こそが、俳句を人間的なものに繋ぎとめるもっとも重要なものだ。
私たちが「主体」と呼ぶものもまた「無駄な時間」が生んだ想像的な産物であり、そこに現実として書かれた俳句から遡及して読み手が得るものは、想像的主体の視線─つまりは「意味」である。
満月に駆くる双子の手の繋ぐ
この句の助詞の使い方には曖昧さがあり、そのために「双子」というプリミティブな要素に対して作者が触れた現実がどこにあるのかが見えにくい。その分、読み手の想像力に負荷がかかる。
「満月の月光のなかを走る双子が手を繋いでいる」と言ってしまえば身も蓋もないのだが、問題は「手の繋ぐ」の「の」が読みようによっては「手」を主格化して、あたかも双子を「手が」繋いでいるようにも読める点だ。「双子が手を繋いでいる」のと「手が双子を繋いでいる」のは、そもそも見えているものが違う。
そこには日常的な想像力が生み出すイメージと異なる別の枠組みが見えてくる。
私たちの想像力の手前で、この句では「満月」も「双子」も「手」もいずれもが句の主体となる可能性を持っている。日常的な想像力はあくまでもこの句の下敷きになっていて、ここで書かれた句は、「書かれる」という行為によってその想像から少しズレる。
このズレがいわゆる「現実」と呼ばれるものを事後的に生成し、この句を「主体化」する。言い換えれば、この句に、内側から見つめ返してくるような霊的な視線を与えるのだ。
大事なことは、句の下敷きになっている想像的なものが、句を書かせた「動機」を生み出しているということだ。それがなければ、そもそも書かれた句に霊的なものが生まれない。俳句の楽しみは、そこからしか生まれてこない。
私たちの想像力は、現実を離れて際限なく広がり、私たちに勇気があるかぎり経験はそれを邪魔することができない。「俳句を書く」ということが現実的なものである、ということは、私たちが想像的な世界にとどまることができない、ということを意味しているだけでなく、むしろ「俳句を書く」現実へと私たちを駆り立てるものは、あくまでも私たちの想像力とそれを許す時間が生み出している、ということなのだ。
ここで「現実」と呼ばれているものは、いったい何だろうか。もちろん私たちは歴然とした現実のなかに生きているはずである。それでも、私たちにとって俳句を書くことが「現実」であるというのは、いったいどういうことなのだろう。
「写生」はものを見ることだというけれど、わたしたちが「ものを見る」というのは、どのような限界をもっているのだろう。
〈第十章〉へつづく
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2015-04-12
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第八章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第八章〉ことばになる前の感情の森に降る善良なる雨
田島健一
08.はばたくもの(辻本鷹之)
〈感情〉というものは本来言葉で表現することができないものだけれど、私たちが〈感情〉を表明するときはことばで表現する。「面白い」「嬉しい」「哀しい」「楽しい」「つまらない」これらはすべてことばである。
かざぐるま根本をきつく握りしめ 辻本鷹之
ことばは何かを表現しているけれど、同時にそこにある〈感情〉のいかほどかはこぼれ落ち、失われる。掲句もまた、かざぐるまの根本を「きつく握りしめ」たという行為を表現しつつ、その行為を生み出した原因となったであろう〈感情〉はことばの裏側に隠されていて、私たちはそれを句として書かれたことばの上から推し量るしか手はない。
俳句において作者と読み手との間に生じる最も重要な構造は、そこに隠されている〈感情〉を過不足なくつたえることの不可能性に支えられている。
うつくしき頭の並ぶ卒業歌
たとえばジェットコースターに乗った後、ある人は「あー、楽しかった。また乗りたい。」と言い、ある人は「あー、怖かった。もう二度と乗るものか。」と言ったとする。
このとき、「楽しい」「怖い」というのは、そこに生じた〈感情〉をことばで表現したものであって、その時点で実際にそれぞれの人が感じた身体的な感覚とそれによって発生した〈感情〉の総量のいくらかは失われている。
〈感情〉は私たちが知っている範囲での語彙に集約されて表現される。そこで表現された語彙によって私たちはそこに複数の異なる〈感情〉が存在しているように見えるかも知れないが、実はそこには言語化される前の〈感情〉がひとかたまりに生じていると言えるのではないだろうか。
掲句は卒業歌を歌う生徒たちの黒々とした頭の列を「うつくしき」と表現しているが、もちろんそこには「うつくしき」以上の〈感情〉が存在していて、それはこの上五よりもむしろ「卒業歌」という季語のなかに経験的なものとして含まれているのかも知れない。
私たちが「良い句」を作りたい・読みたい、と言う場合に、それぞれの句が抱えている〈感情〉の総量がそこに書かれた句を通して、そのいくばくかを失いつつも、読み手にとってそれが「良い」ものとして印象づけられるのは、いったいどのような仕組みになっているのだろうか。そもそも、そのような〈感情〉の伝わり方を私たちはコントロールできるというのだろうか。
縁側の大気は重し猫の恋
先日、加藤楸邨の略歴を見ていると、大正十二年(1923年)十八歳のときに「西田幾多郎『善の研究』を耽読」とあった。(*1)
楸邨が俳句を始めるのはそれより八年後のことであるから、ここで彼が『善の研究』を耽読したというのは俳句のためではなく、もっと人間的な関心を根拠としているに違いない。
そしてこの『善の研究』には「善」について次のように書かれている。
善とは一言にていえば人格の実現である。(中略)我々は自己の心内において、知識では無限の心理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として皆実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。(中略)深く考えてみれば、世の中に絶対的真善美というものもなければ、絶対的偽醜悪というものもない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全豹を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現われるのである。
(「善の研究」西田幾多郎著 講談社学術文庫)
ここで何か道徳めいたことを言うつもりはない。また、人生的な教訓を伝えようというのでもない。
そうではなくて、ことばで過不足なく表現することが不可能な〈感情〉が、ことばによってそれを限定されつつも、何かしら「良きもの」として読み手に伝わるというのは、俳句的あるいは言語的な技術論とはどうやら全く無関係である、ということである。
つまりことばの意味・内容や、俳句の構成、形式、リズム等によって合理的に俳句の良し悪しを制御することはできない、ということに他ならない。というよりもむしろ、そのような合理的戦略そのものが、そうした「良きもの」を生み出す素地を失わせる、というシニカルな構造をもっている。
楸邨が『善の研究』を耽読したのは、楸邨自身を起点として発生したとどめようのない動機によるもので、作品を良くしようとか、評価を得ようとか、そういう興味とは全く性質の違う、もっと倫理的なものであったに違いない。
そして、句が抱えている〈感情〉というのは、それそのものは技術的に生み出すことはできても、それが読み手にどのように響くかについては、そのような倫理的な努力によって運命的に支えられている、としか言いようがないのである。
「俳句表現の道」という文章で楸邨は次のように述べている。
われわれは、たった一度しか生まれないということ、他の誰でもない、かけがえのない我という唯一の存在であること、その日々の胸をかすめ去る感動はただの一度きりで、もう二度とくりかえされないということ、こういうことを考えたなら、このたった一度きりの、二度と生まれてくることのない自分の、かけがえのない感動を、いい加減に扱ったり、とりにがしたりしてしまっては、惜しんでもあまりあることだといえましょう。(中略)それをとらえることによって、ささやかな五、七、五の中に、自分というものが永遠に生きることを思うと、自分の感動をどこまで尊重しても、きりがないくらい大切だということが感じられます。そこで、その感動がうわべのものでなく、本当のものであるように、充分心したいと思うのです。
(「俳句表現の道」加藤楸邨全集第五巻 講談社)
十八歳で『善の研究』を耽読した若き楸邨が求めたものの一部は、その後、俳句を通して読み手に与えられたに違いない。見落としてはならないのは、そのような楸邨が求めたものを、私たちもまた異なる時代環境のなかで個人個人がそれぞれのかたちで求めているということだ。
このような話が、大げさに聞こえなくなる時代が残念ながら近いうちにやってくるかも知れない。しかし、そのとき自分自身と真摯に向き合い、自分自身を知る努力だけがおそらく俳句が抱えている〈感情〉の方向性を定め、読み手につよく届くことになるのではないか、と思われるのだ。
かように俳句と作者と読み手とをつなぐものが定かではない構造のなかで、そこにひらかれてゆくものは一体何なのだろうか。俳句における「良きもの」を支える合理的な手段が見えない中で、私たちは「何のために」「誰のために」という問いを発することはできるのだろうか。
〈第九章〉へつづく
(*1)「加藤楸邨全句集」寒雷俳句会編
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2015-03-29
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第七章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第七章〉遡及する意味とまだここに訪れていない時間
田島健一
07.水の隅々(田中惣菜)
〈意味〉というものは、俳句に必要なものなのか、そうではないのか。
この問いは〈意味〉が自明の存在であることを前提としている点で足もとがおぼつかない。そもそも〈意味〉というものは、そこに「ある」とか「ない」と明確に指示できるような確固とした輪郭をもつものだろうか。
やはらかきところに春の熊座る 田中惣菜
この句の「やはらかきところ」とはどこか。「やはらかき芝生」「やはらかき水辺」など、この「ところ」を具体化する表現はいくらでも思いつくが、その具体的な場所を言い表さないことで、この句は明確なイメージを保留している。言うまでもなくその場所にかたちを与えるキーワードは「春の熊座る」に他ならない。
「やはらかきところ」とはどこか、それは「春の熊」が座る「ところ」である。こうして保留されていた「やはらかきところ」の質感が「春の熊座る」によってかろうじてイメージを結ぶ。
しかし一方で「春の熊」とはどんな熊なのだろうか。言うまでもなくそれは「やはらかきところ」に座っているような熊である。すでに保留されている「やはらかきところ」によって、「春の熊」はすでにただの「熊」ではない。
ここで重要なことは、このようにして「やはらかきところ」と「春の熊座る」がお互いにイメージを支えあっているにも関わらず、イメージの中心となる「ところ=場所」は、まったく明確にはなっていないということだ。
どのように読んだところで、この「ところ=場所」を明確に確定することができない。「ところ」という一語は、この句の消失点として消されていて、いわばそれは読み手の解釈に委ねられている。
いわゆる〈意味〉とは、句に書かれた一語一語が指し示す場所に定位置を持つような実体ではなく、句のもっている基礎的な構造に、読み手の思想的解釈も含めたプロセスそのものである、と言うことはできないだろうか。
夕顔やきれいに折れた列にゐる
この句もまた「きれいに折れた列」が、いったい何の列なのかは提示されていない。さきほどの「春の熊」の句と異なるのは、その列が何の列なのか、イメージを結ばせるキーワードが他に与えられていないことである。
不思議なことに、この「きれいに折れた列」について、多くの読み手は、具体的な「列」をイメージすることができないにもかかわらず、それでも自分自身にとってのこれまでの「列」の記憶と照らしつつ、それとは完全に一致しないながらもどこかで共通点をもっている。この「きれいに折れた列」は、私たちにとって「ありうる」、場合によっては「いつか私も経験するであろう」イメージとして、いわば先取りするようにしてこの句と折り合いをつけるに違いない。
そしてもし読み手がこの「きれいに折れた列」について完全に経験するとすれば、それは未来における時点から遡及してそれを経験し、そこで構成された〈意味〉を知るのである。あの「きれいに折れた列」とは、このことだったのか、と。
ここで言う〈経験〉とは、まだここにないにも関わらず、いまこのときの〈意味〉を保留することで、句に関わりをもっている。
青芝や鼻先に触れやうとする
水澄みて足元に近づいてくる
藤の実や毎日を縫ふやうに会ふ
〈意味〉とは多かれ少なかれ、そのように遡及的に読み手に訪れる。そこに書かれたことの〈意味〉を生成する経験や思想は、「不可解に書かれたことば」を、事後的に意味あるものとして結び付け構成する。
仮に、その句が完全に辞書的な意義で構成されてそこに書かれているように見えたとしても、それがそのように書かれていることの〈意味〉は、そこに書かれたことのひとつ上の位相で読み手のもとに運ばれてくる。
このようにして書かれた句は、作者と読み手の経験や思想の時間的な差異のなかで、それぞれが想像した以上のことをそれぞれに〈意味〉してしまう。たとえ作者であろうとも自分が書いたものの真の〈意味〉を知り尽くすことができない。なぜならそれは読み手ひとりひとりの未来という時間のなかで無限に拡散してゆくからに他ならない。
もしそうだとするならば、そこに書かれた句の「所有者」はいったい誰なのか。俳句をつくる私、とはいったい誰なのだろうか。
〈第八章〉へつづく
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2015-03-22
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第六章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第六章〉信じなければ出会うべき偶然に出会えない
田島健一
06.大人びる(高瀬早紀)
具体的に書く、ということはどういうことだろうか。
かつて秋元不死男は「俳句もの説」を唱え、一般的に俳句は「もの」を書くもの、と考えられている。しかし、ここで言うところの「もの」とはいったい何だろう。
たんぽぽの群れたる男子校の裏 高瀬早紀
草笛を吹き唇の重さかな
遊覧船の片側に人秋の風
仮に「もの」が名詞化されたものだと考えるならば、言うまでもなく「たんぽぽ」「男子校」「草笛」「唇」「遊覧船」は「もの」だと言えるかも知れない。
では「群れ」「裏」「重さ」「片側」は「もの」だと言えるだろうか。仮に「もの」が何か物質的なものだと考えるとすれば「酸素」や「宇宙」や「愛」や「正義」はどうだろうか。
書かれた俳句が、複数の読み手の一人ひとりに対してありありとその姿を現すとき、そこに書かれた「もの」は、その読み手の数だけ何度も繰り返しながら、しかしそれらは「同じもの」として、読み手の内に共有される。ある人にとってのたんぽぽが、他のある人にとってチューリップであったら、それはそれはややこしい。
方程式解なしわかめ噛み続け
しかし一方で、同じたんぽぽであるということは、あくまでも意味の世界での出来事であって、当然ながらそれを読んだ複数の読み手のそれぞれに、各々のたんぽぽが現前するに違いない。
その複数のたんぽぽは、それぞれの読み手の時空のなかで少しずつ異なる様相をもち、それゆえに読み手の立ち位置によって見え方を変える。言わば、そこでのたんぽぽはある一つの読み手の眼から見て誰にも侵されることのない唯一無二の「もの」である。
けれどもこの時点で「もの」はすでに「もの」ではない。それは異なる時空でその都度「違ったもの」として現れる、もはや「同じもの」として「繰り返す」ことのない、時間性を帯びた出来事である。
人間が時間的な生き物であることは言うまでもないが、それゆえにあらゆるものに時間がながれていて、そこで「同じもの」として留まるものは何一つ無い。
それでも確かに私たちのなかには「同じもの」が湧き出るように繰り返していて、それを常に「同じもの」として詳らかにすることはひとつが不可能性を帯びつつも、奪うことのできない私たちの幻想そのものである。
山本健吉が「挨拶と滑稽」のなかで「時間性の抹殺」として語ったのはこれだ。
俳句は時間の法則に反抗し、様式の時間性をみずから拒否する。言わば時間を質量感の中に圧縮してしまう。(「俳句とは何か」山本健吉 角川ソフィア文庫)
花ぐもり鯉やはらかく衝突す
春どなり汽笛の真似をする二人
さて、では最初の問いに戻る。俳句を「具体的に書く」とは、どういうことなのか。
それはやはり秋元不死男や山本健吉が言ったように「もの」を詠むことなのである。しかし、すでに述べたとおり「もの」とは名詞化された単語や物質的なものと一致しない。
それはひとつの幻想として私たちのなかに留まる時間のかたまりのようなものである。それは一つひとつのことばとしてそこに固定化されるものではなく、それを支える別のことばとの関係性のなかで明滅する。
ことばとことばが関わりあうなかで次第に時間性が剥がされ、むきだしの偶然としてかけがえのない瞬間を描き出すのである。
さて、それでも俳句という形式は時間のなかで書かれ、時間のなかで読まれるに違いない。そこで俳句はいつから意味を成し、いかにして価値を生成するというのだろうか。
〈第七章〉へつづく
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2015-03-08
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第五章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第五章〉見慣れた世界で私に成り代わる、見慣れない誰か
田島健一
05.風の名(下楠絵里)
私たちは常に見慣れた世界に生きている。ときどき世界は私たちを驚かせることがあるがそれはごく稀なことだ。それは見慣れた景色からある種の枠組みがはずされて、突然見ず知らずの世界に書き換えられてしまったような出来事としか言いようがない。
夏日向だちやうの首の伸びにけり 下楠絵里
私たちが世界を見慣れているという事は、世界をかつて1度見た事あるものとして、その見たことがある何ものかにあてはめながら世界を見ているということである。ややこしいのは、これは必ずしも「経験」と一致しないことだ。例えば、日々の通勤や通学のバスの中で少し眠ってふと目覚めたときに、見慣れているはずのバスの外の景色が突然見慣れないものに見えて、自分が今どこにいてどこへ向かっているのか分からなくなったというようなことはないだろうか。このとき私が失ったのはおそらく「経験」ではなく、もっと別の何かだ。
「私」を「私」として構成しているものは、このような「かつてみた見た景色」のあつまりで、いわば「私」が書く俳句が他の誰かのものと違っているのは、この「かつて見た景色」が私だけのものだからである。だから、バスで目覚めたときに見た見慣れない景色は、その瞬間、私から「かつて見た景色」が失われ、「私」ではない誰かの視線が「私」に成り代わってそれを見ているのだ。
膝を抱く胸のふくらみ寒牡丹
宛先のはらひ大きく燕かな
葉桜や一斉に手の挙がりたる
俳句における「切れ」とは、つまりは「意味」が切れるに違いないのだが、そこで「意味」が切れるということはそれを付与しているものとの関係が切れるということに他ならない。その「意味」を付与しているものこそが、私たちが世界を見慣れたものとして見るときの、それを支えている「経験」とは異なる「かつて見た景色」である。俳句では「切れ」によってその関係性が切れたとき、そこに「私」のものとは違う別の視線が入り込んでくるのだ。
万能ではない私たちの眼が、「私性」を離れて俳句に空間をひらく仕組みはこれである。ただし、この「経験」とは異なる「かつて見た景色」との関係性が切れたとき、それに成り代わる別の空間が別の誰かによって与えられるわけでは決してない。むしろそこには広々として何も無い部屋がひらいているだけである。
不思議なことに、そのような空間にひとびとは何かを置きたがる。そこに何かを置くことで、それを自分のものにしたくなる。そのようにして、それを見た「私」の視線を、作品の上であらためて支えてくれるのは読み手である。
囀や花束に白多くあり
薫風や鱗にひかり集まりぬ
炎天のガラスは指を傷つけり
そのようにして、私は私自身の「私性」を差し出し、見慣れない景色へ踏み出す。掲句において「囀」を聞くのは「花束」を持つ私とは違う私であり、鱗に集まる「ひかり」は鱗のものではなく、指を傷つけたのはガラスのみにとどまらない。「私」にとっての見慣れた景色は、「私」ではない別の主体によって見慣れない世界を常に指し示して躍動する。そこでは、「経験」は何一つ役立つことはないのである。
とはいえ、俳句は「ことば」によってつくられる。そこで書かれた「ことば」が、何か実体をもつ、ということは一体どういうことなのだろうか。「経験」が役立たない世界で、いかに「ことば」は支えられ、構成されつつ、俳句にかたちを与えるのだろうか。
〈第六章〉へつづく
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2015-02-15
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第四章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第四章〉あたえられた自明な世界と、万能ではない眼をもつ私たち
田島健一
04.ひかりと水の感覚(木田智美)
ものを見る、とはどういうことだろう。日ごろ、いろいろなものに囲まれて生きている私たちにとって、そのような「いろいろ」は自明な世界として「見る」よりも前に、見えているし、知っている。けれども一方で、私たちが生きるために必要なあらゆる「感覚」は、私たちの眼が万能ではない、ということに一途に支えられている。
薔薇園にサスペンダーの見つかれり 木田智美
サスペンダーが見つかったその場所は「薔薇園」だった。この「薔薇園に」は、そのような出来事が起きた場所を示していて、そこが「薔薇園」であることは、ひとつの場面設定としてこの句の世界のなかでもっとも先がけて明らかなことである。だから、この上五が「球場に」でも「空港に」でも「テヘランに」でも、書割の背景を入れ替えるように、この句の意味内容を満たすことができる。この「薔薇園に」はそのような考えられるさまざまな場面設定のひとつとして、作者の選択のもとに提示され、この句を彩る疑いのない前提となっている。
夢に水の感覚のあり夏休み
この「夢に」もまた、句の場面設定として機能しているが、ここでは句の主体が「夢」という空間に位置していることを示している。注目すべきは、この「水の感覚のあり」と共時的に存在する「夢」という空間に主体は位置しつつ、同時にそれは「夢」の外部の意識でその空間を「夢」と断定している。つまり主体はそれが「夢」だと知りつつ、「夢」のなかにいる。
自転車に引っかけ錆びてゆく日傘
雷に沿わせて指先のきれい
三角に折るバスの券夏つばめ
水星に憧れている金魚かな
河馬の背に乗りし河馬の子アマリリス
夏芝に入り演奏の止みしジャズ
夕焼けにぐらついている足元
樹に星の実って夏の終わりかな
これらの句の「~に」は、名詞や動詞の連体形に接続し、それによって世界を対象化する。対象化された「自転車」や「雷」は、その名詞が示すものとしてあからさまに全体像を提示し、その句の前提を司る。あたかも「夢」のなかにいながら、それが「夢」だと知っているように、主体は世界の側面を見つつ、世界の全体像を夢想する。
例えば、街のひとごみのなかで初恋の人のうしろ姿を見かけたとしよう。そのうしろ姿は、そのままひとごみに消えてしまい、それきり見えなくなったとする。
そのとき私は何を見たのか。
私は、私の視線としてそのうしろ姿が初恋の人のものだと認めるけれども、仮にそこにテレビドラマのように、向こう側から私自身を含めたその瞬間をとらえた、もうひとつのカメラがあったとする。そのカメラには私が見たうしろ姿の持ち主が、私の初恋の人とは全く別の誰かであることが映されていたとしたらどうだろうか。そのとき私は何を見たと言えるのだろうか。
私にあたえられた万能ではない眼は、その視野の限界で世界を限られた空間としてとらえていて、それゆえに、そこに見えていない部分を信じ、それに期待し、それを感じる。
私たちはテレビドラマのように自分の眼とは異なるもうひとつのカメラを持っていない。それゆえに、私が見た初恋の人のうしろ姿は、それが初恋の人のものであるものとして、私を信じさせ、私を期待させ、私を喜ばせる。俳句におけることばの使命は、それが見間違いであったことを暴き立てることではなく、その〈幻想〉を維持しつつ、「見る」という行為が、「信じる」ことに支えられているということにつながっている。
俳句は暴力的と言ってもいいほどに、ことごとく世界を名詞化し対象化していくが、その対象のなかに私たちの視野を逃れ、かすかに私たちを信じさせるものたちが含まれている。
その私たちの視野を逃れたものたちが、「ものを見る」という行為とは別のかたちで、私たちの視野を満たし、感性をざわめかせ、万能ではない眼をもった私たちをわくわくさせるのだ。
さて、私たちはその万能ではない眼で世界を見つつ、そこで視野からあふれた世界のある側面と、すでに知っているはずの世界との差異において、いかにして世界をあたらしく知るのだろうか。すでに知っている世界が、俳句を通して改めて知られる、という様相は、どのような性質をもっているというのだろうか。
〈第五章〉へつづく
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2015-02-08
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第三章〉 田島 健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第三章〉
田島健一
03.水のふくれる音(兼信沙也加)
俳句をつくるひとがいて、俳句を読むひとがいる。この二者の間をつないでいるものは俳句作品には違いないのだろうけれど、実際にそこでやりとりされているものはいったい何だろう。
磨ぎ汁のいつしか透けて花は葉に 兼信沙也加
まばたきの多き役者や桜桃忌
俳句はながい間「イメージの詩」として語られ、いまでも多くの句はそのようなものとして書かれている。ここで言う「イメージ」とは、「視覚的イメージ」であって、いまだに多くの句は作者の撮った写真を読み手がふたたび見るようにして、読まれ、鑑賞されている。
なるほど、この「磨ぎ汁のいつしか透けて」や「まばたきの多き役者」はそのような「イメージ」を確かに読み手に伝えている。けれども真に問題となるのは、それによって作者と読み手が「何をやりとりしているのか」なのである。
黒蜥蜴毛先のいたみ持て余す
夏帽子電車まつすぐ遠ざかる
マネキンのまつげやはらか半夏生
いたみを持て余した毛先も、まっすぐ遠ざかる電車も、やはらかなまつげをもつマネキンも、こうして句に書かれた瞬間に、それはすでにそこに「ある」ものとして読まれる。
けれども、それに先がけて、これらの句がここに「書かれた」という事実が、それが書かれざるを得なかったために、「書いたこと」と「書かれたこと」との間で、書かれた内容以上のものを多かれ少なかれ読み手に感じさせる。
それこそが〈意味〉と呼ばれるものである。
読み手はこの〈意味〉を通して、それを生んだ「主体」をそこに見いだす。作者がどんなに何かのフリをしてみせても、ここで見いだされる「主体」をごまかすことはできない。
仮に作者が別の何者かを演じて見せても、読み手は、その句に含まれる「主体」が生みだした〈意味〉を読みとってしまう。言い換えれば、作者のあらゆる意図を超えて、「主体」は〈意味〉を信じてしまっている。
このとき、ここで句として書かれた内容と、そこに読みとられた「意味」との間に生まれた空間において、読み手の同一化が行われる。つまり「主体」にとってただならぬ〈意味〉は、読み手にとってもただならぬものとして働きかける。俳句を読んだときに発生する感興はこれだ。
気をつけなければならないことは、この〈意味〉と呼んだものは、読み手の感興の「原因」であって「対象」ではないということだ。〈意味〉は、そこに書かれた句の些細な部分に付着し、読み手の視野から消せないシミとして、読み手の視線を釘付けにする。
それ自身は、奇妙でまとまりのない言語化不能な混沌であるにも関わらず、ある種の思想的空間から見た場合にのみ形を成し、それによって読み手自身の「私」を構成する。
青岬水のふくれる音を聞く
「水のふくれる音」という表現は、視覚的イメージとは異なり、かと言って聴覚的イメージとしても、どこか「変な」表現である。それは経験的な音を離れ、それがどんな「音」なのか説明しろと言われても他の言葉で言い換えることが難しい、おぼろげな感覚表現である。
けれども、そのような説明不可能性こそが、この句の核になっており、読み手が出会うのはまさにそれである。
その核とは「水のふくれる音」が、経験的などの音と一致するか、ということではなく、この説明不可能性そのものが直接的に読み手にとって「謎」であり、その奥に何か意味ありげな読みの可能性を感じさせている、という一点において、一部の読み手の視線をとらえて放さないのである。
さて、この読み手にとっての「謎」は、実は作者自身にとっても「謎」であるのだが、では作者はどの場所からそれを見ているというのだろうか。俳句をつくるにあたって「ものを見る」とは、いったいどういうことなのだろうか。
〈第四章〉へつづく
≫〈第二章〉
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2015-02-01
【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第二章〉世界の向こう側のお話をきかせて 田島 健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第二章〉世界の向こう側のお話をきかせて
田島 健一
02.罅(葛城蓮士)
俳句をつくるとき、いったい「ことば」はどこからくるのだろうか。
私たちはすべての「ことば」の集合から、自分の求める「ことば」を選んでいるわけではない。そこには「ことばのかたまり」とでも言うべき大小の言語セットが存在していて、通常はその言語セットの内がわで、私たちは日常を生きている。
例えば看護師であれば、医療や看護に関わる言葉セットのなかで情報を交換しながら日々の仕事を遂行し、ひとたび家に帰れば家庭の言語セットのなかで家族と会話をするだろう。人は、そのような大小の言語セットの複合体である、とも言える。
隋道に昏き罅あり夏深し 葛城蓮士
萬屋に黄色の値札猫の恋
「隧道」は言うまでもなく「トンネル」のことで、「萬屋」はもしかしたら「100円ショップ」のことかも知れないし、そうではなくあたかも「萬屋」としか呼ぶことのできない趣をもった店なのかも知れない。私たちはよく「世界」という言葉を(worldではなくuniverseとして)使うが、その「世界」の質感というのは、そこを生きる主体の言語セットに左右される。
「隋道」「昏き」「罅」「萬屋」「黄色」「値札」がこれらの句の主体を構成する言語セットで、この世界に住む主人公たちである。そこに「トンネル」や「100均」などという言葉が含まれていないのは偶然ではない。それが偶然ではないために、実はその世界には平和が維持されていて、その限りにおいて暴力的なものは何も発動しない。
妹の檸檬を絞るとき殺意
言語セットによって守られている平和があるからこそ、ここで「殺意」と言ってみたところで、それによって世界のどこかで警報が鳴ることはないのだ。
世界が危機にさらされるのは、そのような言語セットを主体が横断したときに他ならない。看護師の妻が、仕事を終えて家にもどって、家族のために肉料理を作りながら、突然、肉の「血液」について語りだしたとき、はじめてうっすらと恐怖が生まれるのである。世界を構成する言語セットからゆったりと排斥されている言葉が、姿をかえて世界に再帰するとき、その言葉ははじめて「異物」として作用するのだ。
その世界がどのような言語セットで構成されているかを知ることはそれほど難しいことではないが、そこから何が排斥されているのかを知ることは難しい。わたしたちの眼は、見なれた日常の風景から不都合なものはゆるやかに排除してしまい、それを見ることができないからだ。
梟の飛ぶときそつと首しまふ
私たちには、そつとしまわれた梟の首を見ることはできない。世界が言語セットで構築されていて、その言語セットの外部にあるものを見ることができないということは、私たちの視線の限界を示している。それは言い換えれば、私たちの立っているこの場所が言語セットによって取り囲まれていて、私たちに別の視点を許さないということだ。
世界をみつめるカメラはひとつしかない。それこそが俳句における〈孤独〉の正体であり、深夜の静けさのように私たちをつつみこんでいるのである。
〈孤独〉な私に呼びかけてくるものは何か。深夜の静寂を破り、時間を騒がせる「カラフルなことば」はあるのだろうか。
〈第三章〉へつづく
≫〈第一章〉
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2015-01-25
【石田波郷新人賞落選展を読む】思慮深い十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第一章〉浮遊することばたちと許されたわたし 田島 健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈第一章〉浮遊することばたちと許されたわたし
田島 健一
01.花束(泉かなえ)
夜空に浮遊する星のいくつがつながって星座がつくられるように、俳句もまた浮遊することばがつながれて〈意味〉や〈イメージ〉を生成する。不思議なのは、この「ことばがつながれて」いる、ということだ。
誰からも見られたい夜百日紅 泉かなえ
この句の「誰からも見られたい夜」と「百日紅」とのあいだに「切れ」があるということは、逆に言えば「誰からも見られたい夜」の部分はつながっている、ということだ。このことにすべての読者は同意してくれるだろうか。
例えばこれを「誰からも見られたい/夜百日紅」「誰からも見られたい夜百日/紅」などと「切る」ことは、馬鹿げたことだろうか。仮にそれを「馬鹿げたことだ」と感じるとすれば、それは、私たちが「誰からも見られたい夜」という「つながり」の中に、それをつなげた「誰か」の声を聞いているからに他ならない。
「誰からも見られたい」のは誰か。
もちろん、その「誰か」というのは、読み手自身が生み出したひとりのキャラクターであるにちがいないのだが、大事なことはその「誰か」が語ることを許されている思想的空間が前提となっているということだ。つまり、それを言う誰かはそれを「言いそうな」誰かである。そして、その思想的空間が「信じられている」ということこそが、この「誰からも見られたい」という「つながり」に〈意味〉を与えている。
かつて中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句よりも前に、志賀芥子の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句があったことはよく知られているが、ここで「明治は遠くなりにけり」という同じことばの「つながり」から、異なる〈意味〉が生成されるのは(上五に置かれた季語のみならず)諸々の情報によって構成されたこの句の思想的空間の差異に他ならない。
ここで与えられる〈意味〉を支えている思想的空間とは、ことばとして書かれた句の文面に「主題化」されたものとしては表れない。それは「泉かなえ」「中村草田男」という作者の署名やプロフィール、「百日紅」「降る雪」という季語、時事性、国民性、血液型…など知りうる情報すべてを足がかりとして構成された〈無意識〉であり、仮に「私は余計な情報に左右されず、そこに書かれたものだけで俳句を読む」と宣言したとしても、そのような宣言にさきがけて思想的空間は「読み」の前提として読み手自身を捕捉するのだ。
つまり、俳句においてことばを「つなげた」誰かの〈声〉とは自分自身の〈声〉だ。俳句を読んで「おどろく」とき、それは、そのとき聞いた自分自身の〈声〉が、まるで別人のように聞こえたときに他ならない。
見逃してはならないことは、詠み手自身も作品を書きながら、そこに自分自身の〈声〉を聞いている、ということだ。
鉛筆を削るにほひや夏座敷 泉かなえ
砂壁をたどる踵や冬に入る
あつち向いて頬の黒子や冬銀河
日向ぼこ何度でも初めての気分
ひこばえや上唇のはうが好きよ
ミントまで食べてしまへよ夏の星
これらの句の「鉛筆を削るにほい」「砂壁をたどる踵」「あつち向いて頬の黒子」「何度でも初めての気分」「上唇のはうが好きよ」「ミントまで食べてしまへよ」といった部分が差し出しているものは、それらが〈意味〉することが許されている思想的空間そのものである。
「にほい」「初めての気分」「見られたい」という感覚表現、「踵」「頬の黒子」「上唇」という身体表現、「好きよ」「食べてしまへよ」という呼びかけ。それらに共通した「身振り」は、これらの作品があるひとつの幅のなかで世界から承認されていることを示している。
それは、そこで〈声〉を聞きとった私自身が生きる世界の広さであり、私自身に許された〈限界〉である。
俳句を書くときに問題になるのは、その〈限界〉に楔をうつことに他ならない。私の〈声〉がひびかせる私以上のもの。それはいったい何なのか。どのようにすれば、私は私を過ぎ越すことが可能なのか。
〈第二章〉へつづく
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2015-01-18
【石田波郷新人賞落選展を読む】思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈序章〉 田島健一
【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈序章〉
田島 健一
不思議なもので、2015年の年明け早々、自分よりも十歳以上若い作者たちがつくった十二編の作品が目の前にある。
いずれも石田波郷賞に応募された作品だという。プロフィールを拝見すると、中には私と二十歳以上離れた作者もいるようだ。世代の違いがどのような意味をもつのか判りかねるが、それでもこの十~二十年以上の年齢差というのはなかなかのもので、おそらく自分が考えている以上に彼らとの間にはさまざまな点で深い断絶があるだろう。
これだけ歳の離れた作者たちの作品について、何をどう鑑賞したらよいのか。正直なところ、戸惑うばかりである。刻々と移り変わる時代状況のなかで、自分よりも十年以上を遅れて生きていく作者たちの作品を通して、まだ何も成し遂げていない私のような能天気な者が、何を言うことが許されているだろうか。過酷な未来を予言したり、道徳についてしたり顔で説教したりするのは、まっぴらごめんである。
若い彼らの作品は、総じて思慮深く、思いやりに満ち、優しい印象を受ける。
一方で、これらの作品には、何者かへの気づかいが行き届いており、俳句という文芸がもっている独特の文化や習慣に常に配慮しているような気配も持っている。これは、彼らに共通した、彼ら独自の身のこなしであるようにも思える。
実はそのような配慮は、私自身がこれまでもっとも自分自身から遠ざけてきたものだ。
自分を野放図にしておくと自然と湧き出してしまう、そのような気づかいを、私自身はずっと抑え込もうとしていたのではなかったか。この違いは、世代の違いなのかも知れないし、単純に、私という個人と、彼らとの個性の違いなのかも知れない。
何はともあれ、もはやほとんど接点を持たないと感じられる彼らと、おなじ俳句をつくる者として共感しあえるものが何かあるだろうか。ひとつだけ、これだけは共有できるかも知れない、と思いあたることがある。それは、
「俳句は、天才がつくる文芸である」
ということだ。これは、私にとっても、彼らにとっても大事なことだ。
けれども、さまざまな気づかいの結果、誰もこのことを声高に言うことを控えている。このことについては、本鑑賞の最後でもう一度触れる必要があるだろう。
その前に、いま目の前にある十二編の作品について語らなければならない。しかし、すでに述べた通り、それら「について」語ることはとても難しい。
そこで、この十二編の作品「を通して」あるいはそれら「のために」、十二編の断章を書こうと思う。断章としての現実世界の様相のなかで、この思慮深い十二編の作品を構成する一句一句が、どの様な位置をとるのかについて自分なりに見ていきたい。
念のため言っておくが、それらの断章はこの十二編のためのものであって、その他の誰のためのものでもない。つまりは、それによって俳句が上達したり、えらい俳人になれたりするものではない。ましてや石田波郷賞の受賞に益するものでもない。あしからず。
〈第一章〉へつづく
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2014-12-07
2014石田波郷賞落選展 1 泉かなえ 花束 テキスト
花束 泉かなえ
鉛筆を削るにほひや夏座敷
ハンカチの刺繍うらがはよりなぞる
誰からも見られたい夜百日紅
夕食はオムライス蠅取リボン垂れ
白鷺の羽落ちてゐる踏まずに歩く
秋めくや糊色の麻婆豆腐
まつすぐに田の刈り跡や父が立ち
筆先の墨やはらかく天の川
砂壁をたどる踵や冬に入る
まとふ身にセーターが合ふやうになり
ほつかぶりしてけと祖母に見送らる
あつち向いて頬の黒子や冬銀河
日向ぼこ何度でも初めての気分
七人が七人掛けにゐて春日
さくらしべふるiPhoneをよけながら
ひこばえや上唇のはうが好きよ
たんぽぽの花束作つてゐるところ
はつなつののど飴をうらがへす舌
成田行快速のなか葉桜のなか
ミントまで食べてしまへよ夏の星
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2014石田波郷賞落選展 2 葛城蓮士 罅 テキスト
罅 葛城蓮士
萬屋に黄色の値札猫の恋
雪解けて蛇口の水の甘味かな
電灯の錆降りそゝぐ春の闇
雨女しづかに死せり竹の秋
踝の土を払へり花曇
深呼吸夏野に平行線の腕
吊橋の苔を洗ふる驟雨かな
夏蒲団畳んで昼の居場所とす
旱星喉を伸ばして釦解く
隧道に昏き罅あり夏深し
稲光地球儀の夜を写しけり
重陽や舌のやり場はなく眠る
教習車より手信号鰯雲
妹の檸檬を絞るとき殺意
短日や母の不揃ひなる錠剤
買ひ物の袋傾く冬茜
手作りの郵便受けや散紅葉
梟の飛ぶときそつと首しまふ
盛大な嚔の後の声に老ひ
春近し湿布の四隅切り落とす
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2014石田波郷賞落選展 3 兼信沙也加 水のふくれる音
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2014石田波郷賞落選展 3 兼信沙也加 水のふくれる音 テキスト
水のふくれる音 兼信沙也加
大陸へ向かふ飛行機夏兆す
磨ぎ汁のいつしか透けて花は葉に
金魚らに国の名付けて遊びけり
空つぽの古墳吹き抜け青嵐
リラ冷えの書庫にぞろりと聖書かな
夏館出る人のみな白き服
まばたきの多き役者や桜桃忌
黒蜥蜴毛先のいたみ持て余す
千手観音拝みしのちに蛇の殻
明易し胎児の頃の話され
納豆をいつまで練るか日の盛り
砂日傘影閉ぢ込めるごとたたむ
夏帽子電車まつすぐ遠ざかる
赤ん坊の笑ふが如く泉湧く
マネキンのまつげやはらか半夏生
葛切りをすする口より愛語る
抱き上げていつの日か刃を入れるキャベツ
旱星無声映画を借りて見ず
青岬水のふくれる音を聞く
ポケットに切符の冷ゆる晩夏かな
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