2007-08-19

週刊俳句 第17号 2007年8月19日

第 17 号
2007年8月19日

CONTENTS


岡田由季 代表句50句 良き日  →読む


成分表7 「自然」と偶然 …… 上田信治  →読む

喫茶・鍵 ……山本勝之  →読む

「愛」のあと ……大石雄鬼×なかはられいこ  →読む

第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)
                  遠藤 治・さいばら天気   →読む
              
後記+出演者プロフィール  →読む



………………………………………………既刊号の目次⇒こちら

haiku mp ページ右および下) 写真をクリックすると動画+音楽が始まります。
newsreel ページ右) 俳句を検索語にgoogleが新聞記事を拾ってきてくれます(自動更新)。

記事タイトル末尾の⇒読むをクリックすると記事が出てきます。
トップページ(各号コンテンツ)に戻りたいときは、ページ上のタイトル文字
週刊俳句 Weekly Haiku をクリックしてください。

「週刊俳句」推奨ブラウザー mozilla firefox
無料ダウンロード先 http://www.mozilla-japan.org/products/firefox/

岡田由季 代表句50句 良き日

第1回週刊俳句賞岡田由季 代表句50句

良 き 日     



朧 夜 の ぬ る き 水 に て 飲 む 薬

よ く 見 れ ば す こ し 下 り の 蜷 の 道

遠 足 の 別 々 に ゐ る 双 子 か な

温 泉 の タ オ ル 弱 り し 鳥 曇

蛍 烏 賊 皿 の ど ん ど ん 暗 く な り


シ ス タ ー が 棟 か ら 棟 へ 白 た ん ぽ ぽ

寄 居 虫 の 楽 園 を ゆ く 歩 幅 か な

誰 か 一 人 足 り な い や う な 花 疲 れ

白 木 蓮 姉 妹 の 声 の 重 な り し

順 々 に 良 き 日 を 選 び 鴨 帰 る


春 の 宵 い つ か ら そ こ に あ る ラ ー 油

マ ン ボ ウ に 壁 の や は ら か 夏 兆 す

母 の 日 の 地 下 街 よ り の 光 漏 れ

脱 ぎ し も の の 嵩 小 さ か り 海 開 き

自 動 ド ア 開 く た び 散 る 熱 帯 魚


ス カ ー ト の 膝 を 抱 へ て 毛 虫 焼 く

水 槽 の 中 の 棲 み 分 け 明 易 し

端 居 し て 恋 人 す こ し 味 音 痴

沖 の 灯 へ く ふ ん く ふ ん と 水 母 か な

自 宅 兼 事 務 所 の ま は り 田 水 沸 く


夜 盗 虫 夜 は 大 き く な つ て ゐ る

父 と 子 が 母 の こ と 言 ふ プ ー ル か な

喪 失 部 分 あ り て 土 偶 の 涼 し か り

梅 雨 晴 れ 間 袋 を 覗 く カ ン ガ ル ー

夜 濯 の ス ト ッ キ ン グ の も や も や す


唇 に 重 な る 字 幕 夜 の 秋

朝 礼 の 一 人 上 向 く 今 日 の 秋

西 瓜 か ら 大 阪 湾 の 出 て き た り

人 乗 せ て 象 立 ち 上 が る 秋 の 風

秋 海 棠 猿 の 手 の ひ ら 冷 た か り


鳴 き な が ら 気 化 し て ゆ き し 草 雲 雀

用 も 無 く 阿 佐 ヶ 谷 へ 行 く 秋 高 し

か な か な や 攻 守 の 選 手 す れ 違 ふ

豊 の 秋 部 屋 い つ ぱ い に 布 団 敷 く

コ ス モ ス や 腑 分 け さ れ ゆ く オ ー ト バ イ


霧 の 這 ふ 卓 球 台 の 上 と 下

運 動 会 静 か な 廊 下 歩 き を り

フ ル ネ ー ム 呼 ば れ 枯 野 に 立 つ て ゐ る

寒 流 の 身 近 に あ り て 毛 糸 編 む

左 手 が 探 す ス イ ッ チ 神 の 旅


流 水 に 冬 菜 の 色 を 滲 ま せ る

涙 腺 に ひ つ か か り た る 捕 鯨 船

犬 の 眉 生 ま れ て き た る ク リ ス マ ス

霜 の 夜 ナ ー ス 上 手 に す れ 違 ふ

み な 開 き し 図 面 の 扉 夜 の 雪


少 し だ け 手 伝 つ て み る 雪 ま ろ げ

水 仙 花 隣 の 島 の 見 え て を り

冬 日 差 す 鏡 に 触 る る 赤 ん 坊

初 夢 に 大 き な 顔 の 出 て き た る

公 園 の 奥 ま で 歩 く 二 日 か な

成分表7 「自然」と偶然  上田信治

成分表7 「自然」と偶然  上田信治初出:『里』2006年4月号・改稿



家の中の「自然」を、探してみよう。

養老孟司が、ある場所で「私は一日に一回は、人間がつくったもの以外のものを見ようと思っています」「一日十分でもいいから、人間の手に負えない「自然」なものを見ると、少しずつ頭が強くなるんです」と言っていた。養老氏自身は、毎日、昆虫の細部をルーペや顕微鏡で見ているらしい。

たとえば、机の脇に、脱いだままのTシャツ。

もの自体は、どこかの工場で作られた人工物だが、その今ここに置かれてある状態は、人間がどうこうして作ったわけではない。偶然そうなった、強いて言うなら、なにかのエクトプラズムのような不定型なかたちをしている。いや、つい読者の便ということもあって喩えを導入してしまうのだが、人間の言葉や概念から生まれたのでないものは、すべて「自然」だ。

窓の外には、隣家の植込みが見える。それはツツジとカイヅカイブキという、名前のある植物であり、刈られて、概念そのもののような姿をしているので、「自然」というのとは、違う。

カレンダーのマス目に引かれた斜線が、味わい深い。

ある一日に「終了」を宣告するように引いた線は、日々、微妙に表情を違え、筆記具を違えながら、だいたい同じ角度同じ長さで、草のように並んでいる。別室にある、家人のカレンダーの斜線を見に行き、微妙に自分の斜線と違うことを確認し、満足して戻ってくる。

そういえば、電気のコードが、今日この形でうねっていることも、飲み干したカップが、乾いて珈琲の匂いを発していることも、もともと人知の及ぶところではないのだった。それらのものは、今日、草がたまたま生えたように、石がたまたま転がったようにして、そこにある。


草むらにトマト散らばる野分かな   岸本尚毅


あまり美しいとか、おもしろいとかではなく。なるべく概念化を経ずに、世界を受けとめ、受け渡す=書くこと。それは、子規以来の、俳句の典型的なありようのひとつである。それは偶然を絵にするということであり、また、俳句が、そこに生えた草のようにこの世に存在することを願って書くことだ。

目が疲れた。目をつぶって、耳を澄ます。遠くを車が通る。血管を血の流れる音がする。それは、偶然の音楽のように聞こえる。


秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴   高野素十




喫茶・鍵 山本勝之

喫茶・鍵 ……山本勝之

西原天気人名句集『チャーリーさん』(2005年)より転載



中島らも(*)が死んで、少し悲しい。ああいうおっさんが生きていてくれないと、僕らは、少し不自由で、世界はほんの少し堅苦しく、よそよそしくなる。

ボクは決して中島らものいい読者ではない。彼の小説を熱心に読むでもなく、エッセイや、その言動をげらげら笑ってた野次馬です。

それでも一度、雑誌のインタビュー取材で大阪の中島らも事務所で、会ったことがある。禁酒中だったらも氏と、ウーロン茶を飲みながら、最近中毒してるというチョコレートをバリバリ齧りながら、ドラッグの話を三時間。

酒を突然止めると、血中糖度が突然下がるので甘いものにハマるという経験は自分にもあったので、冷静に見ていたけれど、その食べ方にひやりとした。

その後、風の噂で、すぐ漏らしてしまうので大人用のオムツをつけて酒を飲み始めたとか、刺青を入れたとか、大麻所持で捕まったとか、いろいろあったさ。いろいろあるさ。

ボクが一番好きなのは、 ゴンチチのチチ松村さんとの対談で、二人で喫茶店をやろうというものだ。

店の名は「喫茶・鍵」。

木造二階建て、壁という壁はすべて大小様々な引き出しでできていて、そのすべてに鍵がかかっている。

客は扉を開けその店に入る。地方都市の図書館あるいは博物館のような澱んだ空気、天井には大きな三枚羽の扇風機がゆっくり廻っている。

ガラス窓から差し込む西日。BGMはもちろんない。ときおりコーヒーカップと皿が擦れ合う音、引き出しの鍵を廻す音、引き出しの中からなにかを取り出し、席に着く客の足音、そして深い溜息が聞こえるだけだ。

入り口の古い木のカウンターの向こうには、白髪の中島らも。深々とおじぎして「いらっしゃいまし」と、あなたに、引き出しの鍵を差し出すのだ。行きたいでしょ?



(*)中島らも 1952-2004 兵庫県尼崎市生まれ。本名中島裕之。1992年「今夜、すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞を受賞。94年「ガダラの豚」で日本推理作家協会賞受賞。

「愛」のあと

「愛」のあと
なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 大石雄鬼「裸で寝る7句   →読む


大石雄鬼


「愛」というテーマでの作句。困ったなあ。誰もがそうであるように、たしかに生まれてこのかた、「愛」というものにいつも何らかの形で関わってきたが、それをテーマにして俳句を作るとなると、さてどうすればよいか。まあ、恥ずかしい。それに、俳句を作り始めてから、「テーマで俳句を作って、発表する」などということを一度もしたことがない。一句への集中以外に、作品群のテーマ性、全体の方向性など、今まで考えたことがない部分に気を使わなければならない。ということに悩み、そして、結局、あきらめた。

なかはられいこさんの作品。正直言って、よくわからない句もあるのだが、その自由さにちょっと驚いた。というか、自分の俳句の不自由さに驚いたという方が正しいかも知れない。自分の句を見ると、景色にしよう、しようという意識が強いことに気づく。俳句への切り取り方が、とても額縁的である。いつも、四角にしようとしている。だから、類想性を意識せねばならず、結局類想性がまつわりつく。

一方、なかはらさんの作品は、切り取り方が自由だと感じた。額縁的な切り取り方をしていない。その形は、自由、というより切り取る形そのものを意識していないように見える。

  ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に

  い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛

  二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く

  隙 あ ら ば ふ た り で つ く る ふ か み ど り

私が、私なりに理解出来たのがこの4句。ほかの3句はその句意が、形がどうにもわからなかった。それは、私の理解の仕方が、景色、姿として捉えようとしていることによるからであろう。この4句は、それでなんとか捉えることができる。

わからないほうの3句。

  空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神

  母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が

  や く そ く の 木 綿 豆 腐 を 持 っ た ま ま

となると、どうしてよいかわからなくなる。そのまま受け取ればよいのだ、という声も聞こえるようであるが、しかし、それでは私の気持ちが落ち着かない。その落ち着かない気持ちは、もちろん私の詩への感受性のなさ、理解力のなさによるものだろうけど、俳句に長く関わることによって得てしまった習性によるものかもしれない、とも思うわけである。

17音という景色の形に切り取り、そして伝えようとするのか。自分の意識を17音というものに(形にこだわらず)切り取ろうとするのか。川柳とか、俳句とかではなく、「愛」のあと、そのようなことを考えはじめている。





なかはられいこ

テーマは「愛」ときいた瞬間、かたまりました。そして二秒ほど後、ぎゃーっ!!と叫んでのけぞりました。俳句や川柳に携わっているひとならばおのずとおわかりのように、困ってしまうテーマではありました。ところがじたばたしたわたしとは違って、大石雄鬼さんの七句は、あまりにすずしい顔で並んでいて、筋力のある俳人だなあと感じました。

  蝸 牛 の 肉 の 透 け い る 愛 が あ る

「かたつむり交めば肉の食い入るや(永田耕衣)」を下敷きに書かれたのでしょうか。耕衣の句にある、エロティックな生々しさがないかわりに、精神的なというか、スピリチュアルなかたちの「愛」が書かれているように思います。それが俳句という形式の特質なのか、大石さん個人の資質なのかはわからないけれど、「愛」というものの持つある種の生々しさを回避するような傾向は、ほかの作品にもほのみえて、

  愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り

この作品など、「あいのす」と「あななす」という<音>に位相をずらすことで意味よりも映像が先立ち、不思議な効果を発揮していると思いました。「エンジンの音」と「燕の子」、「如雨露」と「自閉」、「大花火」と「財布」など、人工的なモノと自然(季語)との取り合わせから推察すれば、俳句音痴なわたしの目には大石さんはどちらかといえば正統な作風の、筋力のある俳人にみえるのですが、どうなんでしょう。

同じフォルムを持つ俳句と川柳ですが、一句ずつ並べたときには淡くてあいまいな差異も、こうして七句ずつ並ぶとすこし見えやすくなりますね。近くて遠い関係がずっと続いてきた俳句と川柳。もっと交流がさかんになれば見えてくるものがあるのではないかと思っています。



「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)

第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)
遠藤 治・さいばら天気

なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 大石雄鬼「裸で寝る7句   →読む


四童
=遠藤 治 天気=さいばら天気
※以下の対話は2007年8月15日深夜、チャット機能を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。

天気::まず、なかはられいこさんさんの7句「二秒後の空と犬」から行きましょう。いかがでしたか?

四童::意味の宙づり状態のあり方が俳句とはずいぶん違うようで面白かったです。

天気::
「意味の宙づり状態」、俳句でこのところよく使われる用語ですね。ひとこと、説明を。

四童::
散文的な意味の解決を持たず、ことばとことばがただそこにあり、読まれるのを待っている状態のことです。

天気::
明快です。俳句においては、「意味の宙づり状態」に価値を置く人々と、置かない流派の両方があります。なかはらさんのそれが、俳句のそれと違う。そう指摘されたのは、例えば、どういう点でしょうか?
ちなみに、雄鬼さんは、あきらかに前者。「意味の宙づり状態」に価値を置く派だと思います。簡単に言えば、「一読でわかる句」「意味の伝わりすぎる句」を避ける派。今回の7句は、どちらのタイプも入っているように思いますが、ひとまず、俳句全般との対比で話しましょうか?

四童::
俳句って、二物衝撃という技法をひとまず忘れてというのが、私などには難しいのです。雄鬼さんの句でいえば、「川 べ り の 川 の 見 え ざ り 行 々 子」とか「ペ ル セ ウ ス 座 流 星 群 や 裸 で 寝 る」みたいな作り方が、わりと誰でも容易に、あるいは安易にできてしまって、それが、そこから先に行き来するののバリヤーになっているような気がすることがあるのです。
なかはらさんの7句でいえば、だめ押しをするように意表をつく、という技法はどうでしょう。例えば、「ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に」。「ちゅうごくと鳴く鳥がいる」というだけで、そうとう変です。

天気::
「みぞおちに」はダメ押し。よくわかります。

四童::
たぶん、九官鳥なのかも知れない。でも、なぜ「ちゅうごく」なぜひらがな、という次に「みぞおちに」が来るわけです。

天気::
「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」もそうですね。

四童::
その句に関していうと、主体の移動という、これまた俳句ではほとんど禁じ手の技を繰り出しています。この句と「母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が」の、たった二句のせいで、七句全体が、非常に不思議な世界に陥っています。「ぼくの女神」の句は、「ぼく」の立場で詠んでいるし、「母 さんはすでにここまで」は「母さん」の立場で詠んでいる。

天気::
詠む主体の問題。簡単に言えば、なかはらさんという(現実的には)女性が「ぼく」という主語を使う。なるほど、俳句ではあまりやりませんね。まったく違和感なく読んでいましたが。「母 さ ん は す で に こ こ ま で」は娘の立場と読みましたが、それはそれとして、句のなかの主体が、比較的自由。たしかに俳句にはあまりないことですね。

四童::
雄鬼さんの句は一貫して、デフォルトで雄鬼さんの視点で詠まれるわけです。

天気::
俳句は、多くの場合、そうですね。ただ、「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」の「ぼく」が、詠み手(なかはらさん)かというと、そんな感じがしないんです。不思議なことに。作者とは別の地点にいる「ぼく」がいる。ある種、小説として読める。

四童::
イコール作者でなくて、別の地点でもいいのですが、そういう自由度が俳句の場合、あまりないと思うのです。

天気::
ないですね。俳句における「作者デフォルト」のしがらみ?

四童::
「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」の「ワタシ」という表記についてはいかがですか。
天気::まず、違和感のなさを挙げます。「ワタシ」に必然があるように思える面白さ。俳句で「私」「ぼく」「われ」などの語が入ってくるのは、個人的に苦手なんです。ところが、この句は、ぜんぜん嫌じゃない。それが不思議。

四童::
そうですねえ、「俺僕私」を排し、しかもデフォルトの一人称は作者、というある種の俳句のスタイルはいつの時代に確立されたのか定かでないのですが、変ですよねえ。なんか、なかはらさんの句を読んでいると、俳句の変さが際立ってきますねえ。

天気::
俳句がヘンかどうかは別にして、俳句のルールに干渉されない五七五の可能性みたいなものは、満喫できました。

四童::
はい、大人のまとめ方です。

天気::
ただ、不自由さがあるとして、それを「俳句」の因習のせいにしてもつまらない。自由度が欲しいなら、それを生み出していくのは、俳句作者個人の課題という気がします。

四童::
はい。その点、川柳の師弟関係というか、技の伝承というのは、どのように伝えられてゆくのでしょうね。ひとりひとりの作家が自分独自の技法を持って、のびのびと作句しているように見えるのですよ、川柳の方たちは。隣の芝生なのかも知れないけど。

天気::
私には、川柳一般のことを論じる資格がない。だから、今回の7句について言うと、「ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に」「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」の2句がとりわけ好きです。気持ちのいい虚構、あえて言えば、掌編小説のようなおもむきで、作者からも読者からも離れたところに浮遊している虚構のように読めます。それと「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」がいい。

四童::
「母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が」がこの句群に置かれた時の、言外に機能しだす若い二人の認め方も好きですけど。

天気::
句としての肌理が魅力的ですね。意味を宙吊りにした句(なんだかわからない句)は、俳人だろうがナニ人だろうが、作れますが、語のかもし出す肌理をきちんと操作することは、資質であり技術。そこにこそ作家性があるということでしょうが、その部分で、私は読者として、先に挙げた2句に、ずっぽりはまることができる。好きな音楽を、つべこべ言わずに、うっとり聞いている感じです。

四童::
音楽のようでもあり、スポーツのようでもあります。「い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛」「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」が並んだ時の、スピードコントロールの巧みさも好きです。

天気::
「い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛」は、ぜんぜんダメだと思っています。わかった気にさせすぎる。キャッチフレーズとして流通しやすい「意味の甘さ」がある。この一句は、なんでだろう?と思いました。きっと「愛」というとんでもないテーマだったので、「愛」という語も入れておかなければ、といった感じだったのかもしれません。

四童::
ダメさを配列が救っていると思います。連句でいうところの遣句という感じです。七句で勝負するところに、遣句、置くか、という気も、まあ、しますが…。

天気::
ところで、四童さんは、なかはらさんの句について、『WE ARE!』第5号(2002年10月)に書いていらっしゃいます。※記事はこちら→http://www.asahi-net.or.jp/~xl4o-endu/hajime.htm
その頃から、なかはらさんの句に変化はありますか? どう思われました?

四童::
あの頃よりも、落ち着いた印象を受けます。一句一句がぜんぶ意表をついていなくてもいいではないか、というゆとりのようなものを感じました。

(次号につづく)

後記+プロフィール 017

後記

「週刊俳句賞」第一回受賞者、岡田由季さんの50句を、お届けしました。

もっとも支持された作者の句を、思いっきり読んでもらうことを、prizeとする。それは、たいへんよきアイデアであったと、こればっかりは自賛させていただきたい。

文学賞というのは、どんな大きな賞でも、つまるところ「読む」ということのイベント化なわけですから。

ところで、今日『週刊俳句』17号のリリース日は、「俳句の日」なのだそうです。8月19日、ハ・イクの日。坪内稔典さんの提唱になる、ということらしい。

おととし2005年、ネット上で「記念日俳句」という遊びをやっていたことを思い出しました。いまや365日すべての日が、何らかの記念日とされていることに鑑み、有志が、1年間にわたり、記念日を「季語」として句をひねるという試みでした。ひさしぶりに過去ログを当ってみたら、おお、なんと。

8月19日は「バイクの日」。なのでした。

 走りつつ白桃を剥けバイクの日 櫂未知子

愛媛県松山では、この日にちなみ(そうなんです)、高校生による俳句バトル「俳句甲子園」の本戦が行なわれています。『週刊俳句』は、現地レポートをお届けする予定です。

では、また、日曜日にお会いしましょう。

(上田信治 記)


no.017/2007-8-19 profile


■岡田由季 おかだ・ゆき1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。ブログ「ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記」 http://blog.zaq.ne.jp/blenheim/

■山本勝之 やまもと・かつゆき舞鶴出身。「月天」「百句会」所属。

■大石雄鬼 おおいし・ゆうき
1958年生まれ、埼玉県育ち。現代俳句協会会員、「陸」同人、「豆の木」所属。1996年現代俳句協会新人賞。ブログ「ゆうきはいく」http://sky.ap.teacup.com/ukiuki575/

■なかはられいこ

岐 阜県生まれ、岐阜市在住。1988年、時実新子の『有夫恋』がきっかけで川柳をはじめる。98年、文芸メーリングリスト「ラエティティア」に参加。著書 『散華詩集』(93年、川柳みどり会)、『脱衣場のアリス』(2000年、北冬舎)、共著『現代川柳の精鋭たち』(2000年、北宋社)。サイト「短詩型 のページμ」http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/

■遠藤 治 えんどう・おさむ
俳号四童(よんどう)。1958年生まれ。1994年より作句開始。「恒信風」同人。
ブログ「四童珈琲店」 http://navy.ap.teacup.com/yondoblog/

さいばら天気 さいばら・てんき
播磨国生まれ。1997年「月天」句会で俳句を始める。句集に人名句集『チャーリーさん』(私家版2005年)。ブログ「俳句的日常」 http://tenki00.exblog.jp/

■上田信治 うえだ・しんじ 
「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。ブログ「胃のかたち」 http://uedas.blog38.fc2.com/