俳句とは何だろう ……鴇田智哉
第10回 俳句における時間 10
初出『雲』2007年10月号(改稿)
先生は毛虫いいとか言つてゐる
女の子が毛虫いいとか言つてゐる
前回の句をさらに直した。とりあえず、ここで止めてみよう。一句目と二句目とで雰囲気が違う。一句目は青春の感じ。二句目はなんとなく意味ありそうな感じか。
一句目は、〈先生〉のことを詠んでいるというよりは、先生を見ている作者の気持ちが詠まれているようだ。「先生は毛虫がいいとか言っているけれど、そんなこと僕には関係ないさ」というどこか青臭い気持ちが読み取れる。言葉としては〈先生〉が主語になっているのだが、内容として、作者が主人公になっているのである。
二句目は「意味ありそうな感じ」と言ったが、意味には表の意味と裏の意味とがあり、その関係は時に「喩」とも呼ばれる。この句の場合、〈毛虫〉という言葉が何らかの隠喩となって働いていると考えるのである。毛虫の隠喩は、何かの物として即物的にも考えうるし、或いは女の子のもやもやとした暗い心の有り様とか、秘められた残酷性とかいった、抽象的なものにも考えうる。あくまで考えうる、ということなのだが、二句目の方をそう読んでしまいがちなのは、〈女の子〉という言葉がもたらす効果なのだろう。この句では作者の気持ちよりも、〈女の子〉そのもののことが強く詠まれているといえる。
一句目と二句目のこうした違いは、〈先生〉と〈女の子〉という言葉の違いがもたらしていると考えられるが、更に言えば、〈先生は〉〈女の子が〉という助詞の違いも微妙に影響している。この〈は〉と〈が〉の違いが割と重要なのだと思う。
さっき句を直したときに、二句それぞれに、別の助詞が使われたのはなぜか。それは、〈先生〉という言葉が必然的に〈は〉と引っ張ってきたのであり、〈女の子〉という言葉が必然的に〈が〉を引いてきたのだ言える。
これは、次のようなことによると思う。言葉として、〈先生〉というものは、そのものとしては詠まれにくい存在である。むしろ〈先生〉とは、それに対しているところの「自分」(ここでは作者)を照らし出すための言葉としてあるのである。この〈は〉は、「先生は毛虫がいいとか言っているけれど私は……」というように、先生以外の誰かを含意しているのである。一方〈女の子〉は、「女の子」そのものが詠まれるべき存在としてあるようである。
言葉には、いわゆる「意味」だけではなく、それを用いるときの話者の立ち位置とか、或る一定の匂いのする文脈への「導き」が、あらかじめ含まれていると思う。そうした「導き」をも含めた全体を、「言葉の意味」と呼んでしまってもいい。その「導き」が助詞をも引っ張ってくるのだと考えたい。ところで、一句目、
先生は毛虫いいとか言つてゐる 乱父
これはこれで、一句になったのではないだろうか。なので、ここで止めておこう。ちなみに、「乱父」(らんぷ、と読む)は走っていて頭に浮かんだ俳号である。
二句目〈女の子が毛虫いいとか言つてゐる〉の方は、もう少し変えてみたいと思う。この句の、なんとなくもやっとした雰囲気は残したい。どうすればよいか。少し理屈っぽく頭を使ってみよう。〈言つてゐる〉というのは、もちろん「口で言っている」のである。そこで、
女の子が毛虫いいとか口で言ふ
とする。句も少し理屈っぽくなった。しかし、〈毛虫〉と〈口〉の組み合わせは面白いと思う。そこで、〈毛虫〉と〈口〉は残すことにして、
口のある毛虫がいいといふ人も 乱父
となった。これで決定にしたいのだが、どうだろうか。人の意見が聞いてみたい。というのは、作者としてはこの句、ちょうどいい具合に意味がなく、ちょうどいい具合に意味がある、という辺りで止めたつもりなのである。そういう具合は人によって違うと思うので、第三者の読者の意見が聞きたいのである。
ただ、こういうことを考えていると、そもそもこの句のおおもとに戻って、
毛虫いいとか言つてゐる車かな
という形でも、句として成り立つのではないのか、と考えてみることもできる。この句に対して、〈車〉がものを「言う」というのはおかしい、と言われるだろうか。しかし、車がものを言わないとは言い切れないから、とりあえずこの句は成り立つだろう。
また、〈車〉が何か(たとえば「女性」)の隠喩になりうるのであれば、俳句として成立するだろう。「読む」という行為は、何らかの「補助線」(喩を読み解く鍵)をもって行われるものである。よって、この句は、その作者が、読者に対して、「俺の喩を読み解いてくれよ」という強い思いを込めて、〈車〉に或る「喩」をゆだねたのだとすれば、俳句として十分成立するのではないだろうか……。
それなのに作者は、最終的に〈車かな〉の句を残さず、〈口のある〉の句の方を残した。そう選択した理由は、実際に毛虫に口があるから、ということではない。また、〈口のある〉の句を何かの隠喩として作ったわけでもない。
作者は単に、〈車かな〉では、即物的な意味としても、或いは隠喩としても無理だと、主観的(或いは直観的)に判断したのである。〈車かな〉の句は「独りよがり」になると判断したということである。一方、〈口のある〉の句が「独りよがり」でないのかどうかといえば、現時点では作者にはわからない。作者は、「〈口のある〉の句は独りよがりではない」と、主観的(或いは直観的)に「信じている」に過ぎないのである。
ところで、さっきの推敲で、〈女の子〉という言葉は結局消えてしまったけれど、あの句は、可能性として、もっと別の方向でも直すことはできた。例えば〈女の子〉を〈女〉と変え、
毛虫いいといふ物知りな女かな
などというのもあっただろう。こういう方向で、さらに進めることもできたはずだ。ただ、そうしていくうちに、より面白い句にもなれば、より露骨な句にもなりうる。「隠喩」というものは、「たとえられるもの」が具体的な何かに特定されないほうが面白いのであるが、逆に、「たとえられるもの」が特定されてしまうような露骨な句、そんな句は時に、「ばれ句」と呼ばれる。
推敲をどこに持っていき、どこで止めるのかは、やはり作者の判断ということになる。
(続く)
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