2007年「週刊俳句」的10大ニュース・拾遺
(記事の延着をおわびします)
今年一年、印象的だった単発記事を、ピックアップ。
●消えた一句 京極杞陽の「八百屋お七」 ……田沼文雄(no.6 2007 年6月3日)
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初出「麦」1972年1月号。2006年逝去された「麦」前代表・田沼文雄氏による小文。氏が「古今を通じてのあらゆる俳句のなかで、私のもっとも親しい作品」という〈性格が八百屋お七でシクラメン〉が、杞陽の句集『くくたち』に掲載されていたはずなのに、原本にあたってみたら消えていた、という話。
それはさておき、私は「お七」偏愛の想いを、最近まであまり口外にしたことはない。なぜかといえば、私の周囲には、あまりにも教養主義的な俳句や、権威主義的な俳句を信奉するひとが多かったからだ。酒をのみながらでも、重苦しい俳句談義をやる。それはそれで立派であろうが、そんななかへ、私の「八百屋お七」を持ちだすのは、お七がかわいそうである。
この件について杞陽が書いた葉書を、ぐうぜん櫂未知子氏が入手したことが『セレクション俳人 櫂未知子集』所収の「京極杞陽ノート」に記されています。奇なり奇なり。
●金玉の寂しさ 或いは子規居士の睾丸供養 ……ロビン・ギル robin d. gill(no.13 2007年7月22日)
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俳諧についての著作を持つ米国人による、子規の金玉句コレクション。
睾丸をのせて重たき団扇哉 子規
我もACなしの夏を何十年も体験し、一度二度ちょうど同じことをした思い出が、かすかにある。ひとりのときか、より幸せなときか、それさえはっきりとしないが、したはした。病身なる子規が、弱って夏ばって、しかも身をうまく曲げられなかったかもしれない。すると柄の端にちかいところで握って、 leverage つまり要の配置が持ち上がるものから遠くて、金が鉛玉と化けてしまったでしょう。
冗談をいうが、真面目に貴方に訊きたい。この句は、どうおもう?
私に言わせれば、鶏頭の十四、五本もありぬべき句、同様、問題になってもいい、傑作だ。ぶらりとしなければ、又その辺に空気を送ることがなければ、その行動あるいはその動機も生まれないから、季節もばっちりぞ。「暑さ」という語のない暑さの内の句です。
ああ、こんな日本語を、書いてしゃべれたら素敵。
●前田英樹氏講演「芸術記号としての俳句の言葉」を再読する……関悦史(no.24 2007年10月7日)
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2006年10月14日、「大南風忌」(摂津幸彦追悼)における前田英樹氏による講演を、現場で採られたメモと、『豈』に発表された講演原稿(メモとは相当部分が異なる)、さらに前田氏の著書によって、その理路を追う労作。さるSNSで限定的に公開されたそのメモを読んで、ほとんど感動してしまった上田が、お願いした原稿です。
そしてその生の全域にも等しい包括を芸術表現に転ずるのに、『失われた時を求めて』のように享受に長大な時間を要する「連続展開型」と俳句のような「凝結型」の二種類があり、俳句は凝結型であると話は続く。
なんと、すばらしい大風呂敷。
●「エレガントな解答」と現実 高山れおな「俳句本質論、ではなく」を読んで ……野口裕 (no.27 2007年10月28日)
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前掲・前田氏講演と対になるような(主張するところは真反対かもしれない)高山氏による「澤」2007年7月号掲載の論考の紹介と、考察。
全句前書付きの句集『荒東雑詩』をもち徹底的な形式優先主義者とも見える高山氏が、俳句固有の形式を、俳句の本質とみなすことを忌避し、むしろ主題こそが重要であるとするところが、たいへん興味深い。
なぜ俳句本質論を避けるべきなのかといえば、そもそも俳句本質論など不可能ではないかと疑っているからだし、不可能ではないとしても有害だと思っているからでもある。(高山)
「私たちは主張する、主題こそが決定的なものであり、しかも悲劇的で永遠的なそれのみが正当な価値をもつものなのだ」(高山氏に引用された 2007年VOCA展図録に引用されたマーク・ロスコとアドルフ・ゴッドリーブの言葉)
本質論的な構えからは、主題という問題系が引き出されることはないだろう。主題の問題は、つまるところ個々のつくり手の側に属しており、形式の側には属していないのだからこれは当然だ。(高山)
俳句本質論も、「エレガントな解答」に似たところがあるんじゃないか、と言いたくはなる。よくできた俳句本質論を読めば、確かに気分爽快になる。しかし、あまり読み過ぎると、だんだん退屈してくるのも事実だ。現実はすぱっとは、割り切れない。(野口)
高山氏論考より、野口氏が引かなかったところをもう、一文、引用。
では、主題の問題がそんなに大事な理由は何か。表現という行為においては、主題を獲得することがそのまま自由を獲得することと同じだからだと、今は答えておく。あるいは自由という言葉を、世界という言葉におきかえてもいいかもしれない。
もちろんそれは、むっちゃ本質論である。俳句ではなく表現一般の本質論。
高山氏の論点は、俳句の固有性を絶対化すること、つまり「俳句は、小さいから、季語があるから、伝統詩だから、かくかくでしかありえない」とする、今日、支配的な論調に対する、拒絶あるいは軽蔑にある。
●『俳句研究』2007年7月号「新鋭俳人競詠」を読む ……上田信治×さいばら天気
→前編 →後編
手前味噌ながら。ほうぼうで「『パス』って、すごいね」と言われました。
あと、思いっきり番外編ですが、
●小特集 北大路翼のすべて(no.29 2007年11月11日)
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について、天気さんが、ご自身のブログに書かれた一文が、忘れ難いです。
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「週刊俳句」2007年のご愛読を、感謝いたします。
(上田信治・記)
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2007-12-30
十大ニュース・拾遺
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1 comments:
>ほうぼうで「『パス』って、すごいね」と言われました。
同じく。
でもね、パスせずに、ぐだぐだ言うなんて、どっかの俳句のセンセみたいでしょ? そんなのイヤじゃないですか。
って、説明しました。
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