2019-11-17

【週俳10月の俳句を読む】雑読雑考2 瀬戸正洋

【週俳10月の俳句を読む】
雑読雑考2

瀬戸正洋


「人それを俳句と呼ぶ―新興俳句から高柳重信へ―」今泉康弘(2019年10月10日沖積舎刊)を手にしている。山田千里から「購入したら」といわれ代金を渡しておいた。しばらくして、本人から、この本が届いた。葉書くらいのおおきさの、松本竣介の「街」のコピーも、挟まっていた。

茅ケ崎市立図書館での「湘の会」のとき、はじめて、彼と、ことばを交わした。三十歳くらいだとおもって尋ねると「五十歳代です」といわれ驚いた記憶がある。略歴には、1967年生まれとあった。そのとき、「地獄絵の賦―地獄絵から戦火想望俳句へ―」を読ませてもらった。

後記の日付が、2019年8月15日であったことに興味を覚えた。



はや草とは、トウダイグサ科トウダイグサ属の多年草で日当たりのよい山地の道ばたや草原に生える。六月から七月ごろにかけて黄色い花を咲かせる。

はや草の露白しとふ歩みけり  田中惣一郎

秋のひと日、花の終りのころのはや草を足もとに見つけた。あさ露のおりたはや草を足もとに見つけた。雑木林を散策していたのかも知れない。自問自答をしていたのかも知れない。自分は歩いている。これからも、同じように歩きつづけていくのだとおもっている。

わが睨み別烏や退りをる  田中惣一郎

自己嫌悪なのかも知れない。それとも、自分のことを知りたくなったのかも知れない。こころがゆれると自分がわからなくなる。ゆれることが生きているということなのかも知れない。自分のことがよくわからなくなることが生きているということなのかも知れない。

よく考えてみれば、別烏が睨んでいたのである。侮ってはいけないとおもう。

葦の舟神話のために未来あれ  田中惣一郎

神話とは、「世界が始まった時代の神などの超自然的、形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの物語」だという。神話は古代人が信じたように信じるべきだとおもう。現代人にとっての神話は未来につながっていくものなのである。歴史は現代史であると誰もがいう。その通りなのかも知れないとおもう。

葦の舟のためだけの、個人のためだけの未来があってもいいような気がしないわけでもない。

野も花も新しからず秋茜  田中惣一郎

赤とんぼ(秋茜)といえば三木露風である。とんぼのSTARである。私のくらす集落には、どこにでもいる。いつでも見ることができる。新鮮であるのは秋の野でもなく、秋の花でもなく、秋茜である。

初恋よどこ澄む水の夕つ方  田中惣一郎

そのひとのことをよく知らなかったからこその「澄む水」なのである。初恋にかぎらず、恋は「盲目」だという。人生にとって「盲目」であった時代とは危険な時代なのである。すり抜けて来ることができたということは偶然なのである。奇跡的なことなのである。「どこ澄む水の夕つ方」などと感傷にひたれることは幸せなことなのである。 

覚めがてに秋水が流るるものか  田中惣一郎

禅問答のような作品である。「がてに」とは、できないでという意である。「秋水」とは、秋のころの澄みきった水である。曇りのないよく研ぎすました刀という意もある。

「秋水」とは、かつて、日本の対B29迎撃のためのロケット戦闘機名でもある。

火不入の一献いかに秋の暮  田中惣一郎

いかにと問われれば頷くしかないとおもう。秋の暮も、それにはふさわしい時候だともおもう。

はたらいていたころ「唎酒師」を招いて講演会を企画したことがあった。神奈川県の地酒をテーマの講演、交流会である。三崎の鮪の解体もメニューに入れた。

まさしく、秋の暮であった。予算はオーバーした。地酒の飲み過ぎが原因であった。上司は、日本酒好きだったので何もいわず決済してくれた。

後の世の業にぞ後の村雨は  田中惣一郎

「業」とは、精神的生活をささえるしごとのことである。「村雨」とは、急に降ったり止んだりする雨のことである。「後の」とあるので、季節は秋となる。

「後の世」とは、あとにくる時代のことである。死後の世界のことでもある。

てのひらを懐しうする火もがな  田中惣一郎

「てのひら」とは、手くびから先の握ったときの内側になるところである。「懐しうする」とは、昔が思いだされてこころがうごくことである。「もがな」とは、願望である。

火もがなの「火」について考えればいいのだとおもう。消えかかっている残り火しか持っていない老人にとっては難問なのである。

もみぢ且つちる桜木の巷かな  田中惣一郎

巷とは、世間のことである。にぎやかな通りのことである。桜木とは、「花は桜木、ひとは武士」の桜木である。

私は、すこしずれているのかも知れない。紅葉しながら散っていく晩秋の山村でのくらし。生き急ぐ必要もなく、生き遅れる必要もないと考えている。

真夜やこの水を怖るる彼岸花  島田牙城

子どものころ、彼岸花を忌み嫌っていた。球根には毒があり死人花ともよばれていた。老人たちが、そういっていたからだ。都会のひとが摘んでいるのを見て驚いたものだ。最近は、あぜ道に咲く彼岸花に、ひとびとはカメラを向けたりしている。

「水」について考えればいいのだとおもう。枯れた彼岸花は棒のようなものが突き刺さっているだけなのである。せせらぎは聞える。

かなそれからの流れにも澄むことを  島田牙城

かなとは、表音文字である。かなには、万葉仮名、平仮名、片仮名等がある。かなとは、感動、詠嘆をあらわす。かなとは、自問自答する、念を押す、願望の意がある。理解できない、納得いかないという意がある。

流れとは何であるのかは知らない。だが、澄むことを願っているのである。澄むとは、不純なものを含まず清くなるということである。

天才の二の句ぞつくつく法師さん  島田牙城

天才とは、努力では至らないレベルの才能を秘めたひとのことである。二の句とは、つぎに言いだすことばのことである。「ぞ」とは、強くいいきるのにつかう。「さん」とは、一般的な敬称である。蔑視の意がふくまれることもある。

つくつく法師は、カメムシ目、ヨコバイ亜目、セミ科に分類される。

ほれそれと言ふに飽きたり秋の風  島田牙城

ほれとは、何かを指し示して、相手の注意をひくときに発する声である。それとは、心理的に自分から少し離れたものを指し示す語である。要するに、「声」と「語」なのである。

秋の風とは多種多様である。歳を重ねたいま、かかわり合うのはもういいだろうとおもっているのかも知れない。

薔薇よ秋世の不倫与の不倫  島田牙城

「よ」と「世」と「与」である。「よ」とは、呼びかけたり訴えたりするときに発する語である。「世」とは世間ということでいいのだろう。「与」とは、いっしょに力を合わせて何かをする。仲間になるということである。

不倫を否定もしないし肯定もしない。不倫とは文学にとって必要なものである。不倫に薔薇は似合うにきまっているとおもう。

秋のしほふたりをぬらすなくもがな  島田牙城

自分たちだけが特別であるとおもうのが若者である。「ふたりをぬらすなくもがな」と考えるのは老人である。老人は、さめているのである。老人は、からだがうごくだけで十分なのである。老人は、濡れるとからだにこたえるのである。

この人のベッドの秋の蛾を追ひつ  島田牙城

この人が何ものであるかがすべてである。煩わしいことは真っ平ごめんである。おだやかな老後を送りたいと願っている。それでも、いろいろなことがやってくる。「escape」とは、老人にとって究極の生きるための知恵なのかも知れない。

それでも、たまには、老体にむち打ってベッドの秋の蛾を追ってみたい気もしないわけではない。

茸獲るけ樵一刀の痕か  島田牙城

樵が茸を獲ることは、本来のすがたではない。刀を一回振りおろせば、すべては終わるのである。その痕を見ただけなのである。痕を見ただけで何もかもがわかってしまうのである。生きているということは、そういうものなのかも知れない。

ながながと秋はありけり水たまり  島田牙城

水たまりとは地面に浸透したり蒸発したりしてなくなってしまうものである。ながながと秋はあったのである。ながながと水たまりはあったのである。ながながとした人生はあったのである。

そこにあるかなやけりやや秋の風  島田牙城 

そこにあるものは、「かな」「や」「けり」だったのである。それがどうしたのか、だからどうなのか、といわれても、どうでもいいことなのである。ただ、秋の風が吹いている。ただ、それだけのことなのである。それで十分だったのである。

夜ゆゑに文月は草木はれやかに  青本瑞季

こころにわだかまりはないのである。「夜ゆゑに文月は草木」とは作者自身のことなのかも知れない。このようなこころがうごきは幸せなことなのである。

文月の由来とは、中国から伝わったもので、七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからなのだという。

澄む秋はあばらのこゑで軋みつつ  青本瑞季

不純なものなどなにひとつない秋の大気である。大気にもあばらはあるのである。発声器官は、声帯、口腔、鼻腔だけではない。肋骨も歌うことはできるのである。肋骨は、軋むことで意思表示することができるのである。「ありえない音楽」とは、このようなものなのかも知れない。

「意思表示」とは、相手に自分の意志を示すことである。

荻の袖眼の奥を歌たちのぼる  青本瑞季

荻とはイネ科ススキ属の植物である。「袖眼」がよくわからないが、裁縫、編物に関係があることばなのかも知れない。それにしても「荻の袖眼の奥」はわからなかった。

わかるには、分かる、解る、判るがある。わかったつもりでも何もわかっていないことは多々ある。そもそも、わかるとはいったいどういうことなのだろうか。ただ、「荻の袖眼の奥」ということばは、記憶してしまったようだ。

てのーるてのーる小鳥来るくちびるは熱  青本瑞季

てのーるてのーると繰りかえしている。繰りかえすことに作者にとっての何かがあるのだろう。tenoreとは男性歌手による高い声域のことである。熱とは囀るためのエネルギーなのかも知れない。何かをするためには、エネルギーは必要なのである。

萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす  青本瑞季

こぼれるには、欠けたりくずれたりして完全なすがたを失うという意もある。完全なすがたとはうごくものである。完全なすがたとは一瞬にしか存在しないものである。

おだやかな秋の日差し。むらさきいろの萩の花がこぼれはじめている。「ありえない音楽」が聞こえはじめている。

孔雀から梵字あふれて秋の風  青本瑞季

孔雀から梵字があふれることはない。だが、作者は「孔雀から梵字あふれて」といっている。だから、そうなのだろう。

作者は、「孔雀」を見ているのである。「梵字」を見ているのである。「秋の風」を感じているのである。ただ、それだけのことなのである。

菊日和まばたくたびに褪せて背は  青本瑞季

菊のさかりのころ、よく晴れて菊の香がしみとおるように澄んだ秋の日のことを「菊日和」という。ひとの胸、腹の反対側、首から尻までの部分を「背」という。

ひとの顔を見ることは煩わしい。ひとのうしろすがたばかり見ていることはさびしい。どちらも見ないでくらすことができればとおもう。

背も顔も、まばたくたびに褪せていくものなのである。菊も秋の日も、まばたくたびに褪せていくものなのである。人生も、まばたくたびに褪せていくものなのである。

パラフィン紙ひよの盛りを入日して  青本瑞季

沈む太陽と、どこからか舞いおりてくるひよどり。その数の多さに何かを感じたのかも知れない。パラフィン紙とは、パラフィン蝋を塗布、浸透させた紙である。

パラフィン紙にも「何」かを感じた。パラフィン紙に「何」かをさせたくなった。「何」かについて知りたいとおもったのである。

焦がれては舟が芒となる夜か  青本瑞季

舟は芒になることはできない。夜になってもできないのである。何故、いちずに、そうおもっているのかは知らない。ところが、世のなかというものは不思議なもので、ひたすら、そうおもっていると、不可能が可能になってしまうことがあるのである。故に「焦がれる」ということばが存在するのである。

燃えるたび鹿は麓をかきくらす  青本瑞季

恋い焦がれるたびに悲しみにくれる。すそ野いちめんに暗雲がたちこめる。鹿は、神か、恋人か、それとも害獣か。

私のくらす集落では、イノシシ、ニホンジカを捕獲した者に対して、8,000円の補助金が交付される。鹿に襲われて入院したひともいる。

恋い焦がれることと、ひとを傷つけることとは紙一重のことなのかも知れない。

泪声ほやほやと野の鶉なる  青本瑞季

「涙声ほやほやと」とは、やさしさのことなのである。「野の鶉」とは、やさしさのことなのである。

ベートーベンの「月光」とドビッシーの「月の光」を聴いている。「ピアノ」は、やさしいのである。「夜」は、やさしいのである。「月」も、やさしいのである。

来る鶴に糸巻きなほすぬるい部屋  青本瑞季

恩は返さなくてはならないのである。できる範囲でいいのである。誰かに返さなくてはならないのである。なにがあっても返さなくてはならないのである。ぬるい部屋で糸を巻きなおしてみればいいのである。

秋虚ろ祝祭の首重くのべ  青本瑞季

ぼんやりしたこころでいるのは秋である。ぼんやりしたこころでいるのは作者自身でもある。祝いと祭り、祝日と祭日、おもいことばである。何を、そうしようとするのか。何を、そうしたいと願っているのか。とある秋のひと日、身もこころもがらんどうになっていく自分を見つめている。

ぱれーどよ棗が舌に瘦せてゆき  青本瑞季 

見物人のための行列をパレードという。棗の果実は乾燥させると菓子の材料になる。舌でころがされているのは行列をしているひとなのである。あるいは、見物しているひとなのかも知れない。もちろん、棗そのものであるのかも知れない。パレードをしたからといって何かが変わるなどとおもうことはやめたほうがいい。

感光の渦の鰯よさやうなら  青本瑞季

鰯にしてみればいい迷惑なのである。感光の渦にいること事態いい迷惑なのである。鰯はさよならといわれているのかも知れない。だが、さよならといいたかったのは鰯自身のほうなのかも知れない。

「回遊」とは、諸方をめぐり遊ぶこと。魚などが群れを作り季節的に移動することとあった。

浮舟よ口に棗の緋を交はし  青本柚紀

愛されることも遊びなのかも知れない。悩むことも遊びなのかも知れない。死ぬことも遊びなのかも知れない。何かを書くことも遊びなのかも知れない。

たすけられることは、偶然なのかも知れない。出家したことは、偶然なのかも知れない。俗世の愛を拒むことは、偶然なのかも知れない。棗の緋を交わしたことは、偶然なのかも知れない。

仮枕手を流れ出て色は葛  青本柚紀

葛の葉のおもては濃く、うらは淡く、野性的なたくましさをかんじるとある。旅先のできごとなのである。手を流れ出て葛となるのは「おもい」なのかも知れない。それとも、そのひとの「たましい」だったのかも知れない。

忌の薄い鐘をとほして木槿にゐ  青本柚紀

境内には木槿が咲いている。「あたりが暗くなったころに、鐘を撞きます」と副住職はいった。

鐘がなっている。「忌」には、清浄の忌もあれば穢れの忌もある。「忌」には、濃い忌もあれば薄い忌もある。

くだる身のあなたを波になる菊が  青本柚紀

堕落しているのである。そんなときだからこそ、波となるのである。そんなときだからこそ、「こころ」は、おだやかでなくていはいけない。このまま、ずっと、波にゆられ、菊の香につつまれていることができればとおもっている。

秋蛍食べては砂の弧をうつし  青本柚紀

食べるとは、ありがたくいただいて食すという意がある。砂の弧をうつすことなど、誰もできないし無意味なことなのである。生きるということに、似ているのかも知れない。

ただ、「うつす」には、しっかりと、こころに焼きつけておくという意もある。「秋の蛍」からは、よわよわしく放つひかり、季節はずれのわびしさを感じる。

藻に代へてとどまる鮎を藤の香  青本柚紀

木造りのベンチに腰かけて藤棚をながめている。そのとき、鮎は、私の前を通りすぎた。藤棚のまわりを鮎はおよいでいたのである。鮎は、藻を否定したのである。水の流れを否定したのである。藤の香はひとのこころを不安定にする。鮎のこころを不安定にする。藤の香は、ひとのこころを惑わす。鮎のこころを惑わすのである。

明け暮れの散らかる川を骨は葉に  青本柚紀

「朝夕の整理整頓されていない川、汚れている川」としたら味も素っ気もないだろう。
「骨」とは、脊椎動物においてリン酸カルシウムを多分に含んだ硬い組織とある。「葉」とは、根・茎と共に、高等植物の基本器官のひとつであり、枝・茎からはえ、葉緑素をもち炭素同化作用をおこなうとある。

何もかもが生きているということなのかも知れない。

萩は目に奥をひづめの澄みながら  青本柚紀

視覚はてまえに、聴覚はそのうしろに、としたら身もふたもないのかも知れない。萩の花は咲きみだれている。どこかで馬の蹄の音がきこえる。のどかな秋の日の昼下がりである。

萩は、マメ科ハギ属の総称、落葉低木、秋の七草のひとつである。萩の花言葉は、「思案」「内気」「柔軟な精神」である。

わたくしを傾け壺に棲む獏は  青本柚紀

獏は悪夢を食べてくれる伝説の動物である。その獏は壺に棲んでいるという。「わたくしを傾け」とあるので食べつくしてくれたのではないのである。そのことに対して不満をいっているのかも知れない。もちろん自分自身の見た夢の獏に対してである。要するに、自分自身に対して不満をいっているのである。

いろは坂昏くてとどく雁の呼気  青本柚紀

いろは坂とは、日光市街と中禅寺湖、奥日光を結ぶ観光道路である。はじめていったのは小学校の修学旅行であった。記録的な大雨が降り車中泊をした思い出がある。半世紀以上もまえのことである。東照宮も華厳の滝も何もかもが雨のなかであった。

「昏い」とは日暮れどきの暗さ、道理がわからないことなどの意をもつ。だから雁の吐きだす息が聞えたのかも知れない。

まばたきをうすももいろの鵙の木々  青本柚紀

まばたきとは、まぶたの開閉運動のことである。まばたきには、「周期性まばたき」、「反射性まばたき」、「随意的まばたき」、とがある。このまばたきは、鵙をうすももいろに見るためのまばたきであったのだとおもう。

「随意」とは、強制がなく自由であること、自分のおもうままとあった。

見えてゐる痣に芒がかかり笑む  青本柚紀

にこにこしていたのは誰なのだろう。痣であるのかも知れない。芒であるのかも知れない。他人であるのかも知れない。わたしであるのかも知れない。痣が見えていること。芒が風にゆれていることだけは確かなことなのである。

満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が  青本柚紀

野の花が咲きみちている。池の水の輪の消えかかるところに鳥が。「いる」のか「下りてきた」のか。とにかく、その鳥は「何か」をしたのである。池に水の輪ができた原因も気になるところである。

ここは月の間千の夜がどしや降りで来る  青本柚紀

鄙びた温泉宿の、とある部屋の名を「月の間」という。徳利の首をつまんで差しつ差されつ、障子をあけると上弦の月とくれば、岡本おさみの世界である。

ところが、「千の夜がどしや降りで来る」である。青春の淡い思い出など一瞬でかき消されてしまう。どしや降りとは、土と砂が降ることである。加えて、千の夜が来るのである。そして、ここは、どうしても「月の間」でなくてはならなかったのである。

木犀をはなれて舟の野に覚める  青本柚紀

野原にある湖、その湖にうかぶ舟のなかで眠りからさめたのである。そのとき、こころの迷いも何もかもが消えたのである。木犀からはなれたことが、そうさせたのかも知れない。

はなれることとは、たいせつなことなのかも知れない。距離がひらく、分かれることを「離れる」という。束縛がとけることを「放れる」という。誰からもはなれて生きていけたらいいとおもっている。自分からはなれて生きていけたらいいとおもっている。



梅の剪定をした。枝と落葉をあつめてたき火をする。晴れて風のない午後の半日仕事である。通りがかりのひとは、ふたこと、みこと、ことばをかけ立ちさっていく。いつもの十一月の風景である。

神奈川県西部の山村にくらす、生産性など皆無の老人で、何かをいう資格など全くないことを承知なのだが。

テレビのニュース番組で、デモの終わった歩道に座りこんでいる放心状態の老人のすがたを見た。若ものだけではないのだとおもった。

無力なのだから、余計なことはいわず黙っていたほうが分相応なのである。自分のからだの心配でもしていればいいのだとおもう。

それにしても、日のくれた、残り火の美しさは格別であるとおもった。


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