2020-12-13

【週俳11月の俳句を読む】その月の感想 瀬戸正洋

【週俳11月の俳句を読む】
その月の感想

瀬戸正洋


神無月眩暈こそが証なり  田中目八

眩暈には、いろいろな症状があります。前庭系に、何らかの原因で異常がおこり、バランスが崩れたときに起こるものだそうです。神無月とは、旧暦の十月のことです。神が不在であったことに、バランスを崩す遠因があったのかも知れません。

空想を繰返せよと枯葉かな  田中目八

現実にはありえないこと、何ら関係のないことを、思いめぐらせるのが「空想」です。足もとの枯葉を目にしたときに、そう言ったのです。「想像」せよと言ったのではありません。「空想」を繰返せよと言ったのです。枯葉には、にんげんのこころを惑わす、何かがあるのかも知れません。

旅夢想布団に初時雨の音に  田中目八

夢のこと、あてもないことを思うことを「夢想」といいます。つまり、憧れるということです。「空想」に、似ているような気もしますが、意識するか否かの違いだということです。布団にくるまれば、旅に憧れ、初時雨の音を聞いても、旅に憧れます。布団にくるまれて聞いた初時雨の音に、郷愁を感じさせる何かがあったからなのかも知れません。

知ることや愛することや朽葉微光  田中目八

朽ちている葉にかすかな光が差し込んでいます。差し込んでいる理由を考えても、よくわかりません。神のみぞ知るといったところなのでしょうか。「知ること」「愛すること」に、かすかな光に対して、にんげんの知ることのできるヒントがあったのかも知れません。

錘状体捨てて寒林かがやきぬ  田中目八

「錘状体」とは、網膜内に存在し、明るいところで、主に色を感じる細胞である、赤、青、緑の三種類があるのだそうです。

寒林が輝く否かにかかわらず、「視力」、つまり、見えるということは重要なことです。年を取りますと、尚更、そのように考えます。

それでも、捨て去ることは、大切なことなのだと思います。

連禱の如く冬星座をわたる  田中目八

「祈る」とは、世界の安寧や、他者への想いに願いを込めること、自身のなかの神と繋がること、何かの実現を願うこと、だそうです。「実現を願う」というところに興味を覚えました。連禱とは、キリスト教の祈りのかたちのひとつとありました。

冬の星座とは、十二月から二月にかけて、夜に見やすい位置にある星座のことなのだそうです。「夜に見やすい位置にある」ということに、なるほどと、合点がいった次第です。

沈思から鳥から燃ゆる天狼星  田中目八

天狼星も冬の星座です。天狼星とは、シリウスの中国名で、シリウスとは、焼き焦がすもの、光り輝くものをあらわす言葉から生まれとありました。「沈思」とは、深く考えることです。鳥に対する思いが、天狼星を深く考えるきっかけになったのかも知れません。

黒鳥の科学に夜は彩られ  田中目八

夜は、色や物で飾られました。黒鳥(ブラックスワン)を科学するには、彩ることが必要だったのかも知れません。

一定領域の対象を客観的な方法で系統的に研究する活動を「科学」というのだそうです。

氷瀑は異なる知性を記しけり  田中目八

異なる知性を得ることができるのならば、試してみる価値はあるのだと思います。氷瀑とは、滝が氷ることです。そこには、思いもかけぬ知性が隠れていると考えたのかも知れません。

ものの名を捨てて樹氷の弟子となる  田中目八

ものに名のあることは、不自然なことなのかも知れません。ものの名を捨てるということは、自分を捨てるということです。何も、弟子になる必要はないとは思います。それでも、弟子にしてくれるというのならば、それも悪いことではないと考えます。

白息やよく燃えさうな小屋の中  大塚凱

小屋のなかには、乾いた藁束などが無造作に置いてあります。小屋そのものも、火を放てば、すぐに燃えてしまいそうに思いました。吐く息が白いのは寒いからですが、その寒さのなか、自分自身も、燃えてしまいそうな気がしたということなのかも知れません。

冬蜂めりこむ泥のみるみる乾く  大塚凱

他の力によって、くい込むことを「めりこむ」といいます。既に、冬蜂は、死んでしまっているのです。冬蜂が、めりこむと、泥は、みるみるうちに乾いていきました。

冬蜂を踏みつけて歩いていきます。にんげんは、踏みつけた冬蜂には気がつきません。それが、にんげんの、日々の暮らしなのだと思います。

火事が遠くてなけなしの葉を降らす  大塚凱

「なけなし」ということばが、内に向かって発したことでないことに興味を覚えました。さらに、火事は、近くでではなく、遠くであることに面白さを感じました。「なけなし」の葉が降っているのは、火事が遠くであるからだとすれば、それも、ひとつの真実であるのかも知れません。

鯛焼や晴れただけでは見えない島  大塚凱

島は、存在していないのかも知れません。晴れてさえすれば見えるというものでもありません。見るためには、自分自身が変ることが必要なのです。鯛焼は、鯛ではありません。口中でひろがる甘さが、見えない島を、よりいっそう見えなくしているのかも知れません。

枯蟷螂日のかたむくと水に塵  大塚凱

草が枯れるにしたがい、蟷螂も緑色から枯葉色に変わっていきます。目立たないという一点に執着することには共感をおぼえます。水平線より太陽がうえにある状態を「日がかたむく」と言います。水面に塵が浮いている風景は、日のかたむくあたりかと言われれば、そんな気がしないわけでもありません。

水を轢くまぶしい車輪だが寒い  大塚凱

オートバイの車輪のような気がしました。水をはねたのではありません。轢いたのです。まぶしく感じたのは水ではありません。車輪を、まぶしく感じたのです。さらに、「だが寒い」としたことで、まぶしい車輪を強調しているような気がしました。

橋に鳩マフラー貸してそれつきり  大塚凱

「それっきり」というのは、日常茶飯事です。とくに、本を貸したときなどは、貸した方も、借りた方も、すっかり忘れてしまっています。返す必要などないと思っているのかも知れません。読むために捜したのに見つからない。そんなときに、貸したことに気づいたりします。橋に「鷹」ではなく、橋に「鳩」なので、揉めることもなく、マフラーは戻ってくるのだと思います。

しりとりは冬ざれいつのまにか壁  大塚凱

しりとりとは、ことばあそびのひとつです。冬ざれとは、冬の荒れさびれたころのことです。壁とは、家の四方を囲うものです。あるいは、建物を仕切る平板状のものです。

ことばを、いくら繋いでも、さびれたこころは、もとには戻りません。とどのつまり、にんげんは、壁のなかでしか生きていく術がないということなのかも知れません。

駅に立つみんなだんまりみな木の葉  大塚凱

駅に立っているのは、にんげんではなく、木の葉であるということです。ホームに立つのではなく駅に立つのですから、電車から降りて帰るところなのかも知れません。ことばなど発したくない、ゆらゆらと、風にゆれていたいと思っています。木の葉も、にんげんも、とどのつまりは風しだい、悲しいものなのだと思いました。

冬しんしん隣は何味のシーシャ  大塚凱

雪などがしずかに多く降っている様子を「しんしん」といいます。冬しんしんとは、冬がしずかに多く降っていることです。

シーシャとは、水タバコだということですが、イスラム圏の文化です。エキゾチックな空間をイメージします。多少の、不気味さも感じられます。ただ、「隣は何味の」とあります。何をするにしても、どんな場所にいても、にんげんは、他人のことを気にするということなのだと思います。

遠くより木の折れる音冬の山  鈴木春菜

現実として、冬の山で、木の折れる音を聞いたのではないと思いました。冬の山のイメージが、「遠くより木の音がする」ということなのです。カーンという澄みきった音ではなく、バキッというような複雑な音が、冬の山のイメージであるということに、「屈折」ということばが思いうかびました。

月一度会う人のいて炉のまわり  鈴木春菜

月に一度会う人に対して、どう思っているのかということに興味を覚えました。ひと月など、あっという間に過ぎてしまいます。心待ちにしているのか、しかたないと思っているのか、飽きてしまっているのか、嫌で嫌でしょうがないのか。いろいろ、あるとは思いますが、そんな感情も、回数をかさねるごとに、微妙に変化していくものです。炉のまわりとありますので、季節、および、感情も絡みあい、その人に対する印象も、微妙に変化していくものだと考えます。

湯気立てて畳の上の端と端  鈴木春菜

畳の上に鍋敷きを置き、そのうえに鍋を置きます。座卓の上に置けば、鍋のものも取りやすいだろうなどと考えています。畳の端と端ではありません。畳の上の端と端という表現が面白いと思いました。

襖開けまた手をかえて襖閉め  鈴木春菜

誰もいない部屋の襖を開けたり閉めたりしています。眺めていましたら、開ける手と閉める手が異なっていることに気づきました。にんげんの無意識の動作は、面白いものだと思います。

水運ぶ白足袋のかかとの丸み  鈴木春菜

かかととは、足の裏の後部です。白足袋のかかとの丸みに気づいたのです。おそらく、旅館、あるいは料亭の階段の下から眺めたからだと思います。コップの水をお盆にのせて、階段を駆けあがっていった風景が目に浮かびます。

冬の夕指につながる水の音  鈴木春菜

台所で夕餉の支度をしていたのかも知れません。水の音が聞こえています。この水の音は耳で聞いたのではありません。指が感じているのです。当然、耳が寒さを聞いているのだと思いました。

袂より手の美しく炭をつぐ  鈴木春菜

炭をつぐ和服の女性は美しいに決まっています。それも、袂よりのびた手を美しいと感じたのです。そのときには、既に、その女性は奥へと去っていってしまったのに違いありません。

短日の浮かんで消える今日のこと  鈴木春菜

よほどいいことがあったのでしょう。思い出しては微笑んでいます。寒かったからこそ印象に残ったのかも知れません。明日になれは、すっかり忘れてしまうことです。思い出すことのできるうちに、思いきり思い出しておくことは、大事なことだと考えます。

冬の灯を消して冬の灯のほうへ  鈴木春菜

今日のことが、何度も、思い返されます。何をしていても、そのことを考えてしまいます。もっと、仕事に集中しなければならないと思っても、ままなりません。所詮、にんげんの意志など弱いものです。そんなときは、冬の灯のほうへ、明るいほうへ行っても、咎められることはないのだと思います。

花柊一人乾かすセミロング  鈴木春菜

髪は自然に乾くものだと思っています。要するに、私が、ずぼらであるということなのだと思います。二年以上も、理髪店へ行っていません。それなりに伸びています。髪を洗いバスタオルで拭き、そのままにしておけば、いつのまにか、乾いてしまいます。洗い髪は、柊の白い花を眺めていさえすれば、自然に乾いてしまうものだと思っています。


田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
大塚凱 或る 10句 ≫読む
鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む

0 comments: