【週俳3月の俳句を読む】
鳥の自信、春を貫く
岡村知昭
春光をも貫いてゐる瑞鳥図 中西亮太
部屋の掛軸の瑞鳥、鳳凰や鶴が描かれている絵を眩しい春の光が照らしている。いつもの見慣れた掛軸が、春の光によって新たな装いとなっている。この設定を目の当たりにしたとき、まずは「春光に貫かれたり瑞鳥図」と、春の光をメインに一句をものにしそうになる。絵は年中あるが、春の光はこのひと時、この一瞬だけだ。しかし、この一句においては主役はあくまでも絵の瑞鳥たち。春の光に対峙して、己が姿を眩しく輝かせている、鳳凰に鶴。季節の移り変わりに対して揺らぐことなく、いつもの場所でいつも通りたたずんでいる鳳凰に鶴。春の光が教えてくれたのは、吉事の前兆とされている瑞鳥たちの絵からあふれてやまない、生物としての眩しい生命力なのであった。
やきそばは半額梅が枝は湾曲 篠崎央子
梅園での梅見の一コマである。そろそろ夕暮れ時。閉園の時刻が近づいてきて、売店は売れ残りを少しでも減らそうと商品の値引きをアピールしている。やきそばに至っては半額である。売れ残った食べ物が捨てられてしまうのはもったいないし気が引ける。そうはわかっていても、じゃあ買おうかという気持ちにはならないまま、ぼんやりとやきそばをはじめとした値引きの商品たちを眺める。売店の前の梅の枝はなかなかの湾曲ぶり。眼はこちらに向く。日が傾きはじめてきた今になって眺めてみると、梅園に来てすぐに見たときより面白く感じられてくる。もうすぐ梅園を出るので、名残惜しさがあるのかもしれない。そろそろ閉園時間、家に帰るときが来たようだ。やきそば、やっぱり買わないでおこう。
勝てる気の全然しない猫柳 近恵
「勝てる気が全然しない」と思っているのは、猫柳自身なのだろうか、それともヒトである自分についてなのだろうか。いや、どちらが思っているのか、という話ではなさそうだ。この一句では「勝てる気の全然しない」と思っている同士が、草木とヒトの間柄を超えて向かい合い、ため息をこぼし合っているのだ。それにしても両者ともにあまりにも自信がなさげ。せめて少しでも「負けてもともと」の気持ちがあるなら「全然しない」などとは思わないだろうから、どちらも謙虚を通り越して卑屈に近づきつつあるみたいだ。猫柳からもヒトからも、ため息がいくたびも発せられ、春の空気に溶けてゆく。「勝てる気の全然しない」とのうつむき加減な気持ちを、猫柳とヒトが共に分かち合う交歓のひととき。ため息が、どちらからとももなく、またひとつ。
ただ一重一重に漆里燕 須藤光
漆塗りの職人の丁寧な仕事ぶりが「一重一重」と書かれていることによって、読み手に映像となって伝わってゆく。手の動きの滑らかさ、刷毛の滑りの鮮やかさ、そして完成へと近づいていく漆の器の、色と形の重み。確かな技を駆使する職人の仕事ぶりへの取り合わせで「里燕」が選ばれたのは、漆の器の色合いからの連想なのだろう。「燕」「つばくらめ」ではなく「里燕」となったのは、器に漆を塗る職人の朴訥さと、完成間近の漆の器が持つ、鮮やかにして素朴な風合いへの思い入れがあってのものなのだろう。里の燕もまた、一重一重を重ね合わせた色合いと、朴訥さと素朴さを併せ持ちながら、里の空を駆けめぐっているのだろうか。そんな思いに、街からやってきた旅人はどうやら、心めぐらせているみたいである。
第724号 2021年3月7日 ■篠崎央子 猫の貌 10句 ≫読む
第725号 2021年3月14日 ■中西亮太 祝祭 10句 ≫読む
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