【週俳3月の俳句を読む】
一読者の想像として
谷村行海
やきそばは半額梅が枝は湾曲 篠崎央子
主体が今どこにいるのかは読者によって意見がわかれるだろう。スーパーの中から外への移動の動きがある句だと私は思った。助詞「は」を使っているため、他にもさまざまな惣菜が売られていることが想起できる。そして、逆を言えばやきそば以外は半額ではないのだ。個人的な感覚では、寿司が半額なら嬉しいが、やきそばが半額になっていても少しも嬉しくない。家に食材がなく、おまけに料理を作る気力もないときに半額のやきそばしか見切り品がなかったらがっかりする。しかし、それでも買わねばならない。そんな気持ちを抱えたまま店外に出ると、湾曲した梅の枝に気付く。発見は良い気分のときばかりに起きるものではなく、このようなときにも起きるのだと教えてくれるような句だ。
服を縫ふ指にんにくを分解す 篠崎央子
現代へのアンチテーゼのように思えた。現代ではファストファッションが流行し、服が破れたらすぐに買い替える。憶測だが、「服を縫ふ」人間は確実に少なくなっていることだろう。つまり、「服を縫ふ」行為は時代との逆行であり、大量消費社会における貧しさのようなものをも象徴しているように見える。そのうえ、その指でにんにくを分解までしている。にんにくは刻んだり潰したり、分解すればするほど臭みを増すのだが、それを素手で行うとは。臭いも何も気にしない潔さがなんとも清々しい。できることなら、これは手を洗わないで分解していてほしい。
山葵摺る夜や探査機の着陸す 篠崎央子
探査機がどこかの星に着陸すると確実にニュースになる。しかもかなりのトップニュースに。しかし、そんなことはどうだっていい。探査機が着陸したからといって、私たちの生活がすぐに変化するわけではない。それよりもむしろ、今眼前に存在する山葵をどうにかするほうが重要だ。現代ではチューブタイプの山葵を使うことが多く、山葵を摺る機会はあまりないように思う。それに摺らなければならない山葵は高い。だが、その分チューブ山葵とは比べ物にならないくらい美味で、山葵だけで充分に飯が食える。要するに日常におけるハレのような存在だ。そう考えると、人類にとってのハレよりも今目の前のハレのほうが一般感覚では重要なはずだろう。
艸魚忌や午後がまつたく暇であり 中西亮太
漢字をひらがなにしている句を見るたび、本当にひらがなにする必要があるかどうかを考えてしまう。この句は漢字かひらがなかで印象が180度変わり、ひらがなだと視覚化された促音ののどやかな調子から、暇を楽しんでいる趣がある。一方、漢字であると無骨な印象が先行し、苛立ちが句の奥に滲む。他の句の並びから見ると、これは暇を楽しんでいる句でなければならず、そのため、ひらがなの必然がある。しかし、このようなやわらかみを出すためにひらがなにするのには抵抗がある。短歌ならまだしも、俳句では季語がその役割を担保することができるのではないかという思いが個人的にはあるからだ。だが、この句の季語は艸魚忌。忌日句はそこに込められた作者の思いも読み取りたい。そう考えると、季語は他のものに変えることなどできず、やはりひらがなにして暇の楽しみを出す以外にないのだろう。これは良いひらがなの開き方を示した句だと思う。
永き日や黒鍵白鍵より軽く 中西亮太
音楽に関して疎いため、軽く調べてみたところ、黒鍵は白鍵よりも短く、その関係で通常であれば白鍵よりも重いものらしい(http://www.art.hyogo-u.ac.jp/hrsuzuki/DOC/trade/vol.31.pdf)。しかし、その黒鍵が白鍵よりも軽いとはどういうことか。単なる整備不良や経年変化によるものととる向きもあるだろうが、軽いという錯覚を覚えてしまう人間の感覚のほうを推したい。普段は重い黒鍵でも、その日の気分によっては軽く感じるのは十分にあることだろう。季語からもそれはうかがえる。
掃く人の椿壊してしまひけり 中西亮太
第三者的な凝視がたまらない。日常の感覚からして、清掃員を見てもそこまで凝視することはないだろう。しかし、この句では清掃員の掃除がある場所からある場所へと移り、やがて椿を破壊してしまう様をありありと見ている。かなりの時間経過がありそうだ。見ることで行為を追体験し、だからこそ「けり」による後悔にも似た念が読者にも強く響く。この凝視の視線は波多野爽波にも通じるところがあるように思えてくる。
勝てる気の全然しない猫柳 近恵
木蓮が光って海をひとが来る 同
雪柳墓石わずかにずれている 同
何かの気配がある句が多い一連だ。「勝てる気の全然しない猫柳」では、何に勝てる気がしないのかが明示されてなく、「木蓮が光って海をひとが来る」では「来る」という現在形で動きのある動作のためにまだ完全に何かが自分の側に到着したわけではなく、それは人かもしれないし、人ではない何かのようにも思えてくる。また、「雪柳墓石わずかにずれている」も何かが墓石を動かしたという奇妙な雰囲気が漂っている。つまり、一句単体で成り立っているというよりも、「その一句+読者が想像するその句の前後にある何か」で句が成り立っているように思える。これは映画であるシーンの前後を切り取り、あらかじめ鑑賞者に提示してから話を進めていくような感覚で、読者としてはその先を知りたい気持ちが募る。しかし、この一連ではそれらの「何か」がいくら読んでも示されることはなく、最後まで読者の想像にゆだねられている。だからこそ、「どこかで」この句群を見た読者によって如何様にも内容は変化しうる。
日当たりは良いが廃屋燕来る 須藤光
人間の思考は変えにくい。廃屋でも、リフォームすれば住む分には困ることはない。それに、これは住居を探している段階で、一戸建てに住もうとしている以上、ある程度の軍資金はあるわけだ。リフォーム費用も捻出することはできるはずである。しかし、廃屋であるがために心の内には抵抗感が生まれてしまう。以上、この句をそのように読んでみた。一方、新たな住居を買うのではなく、たまたま出くわした見ず知らずの家を眺めているともとれる。その場合、主体の異常さに目が向く。どちらにせよ、この句は書かれた光景よりも人間の心理的側面に踏み込んだほうがおもしろく読める気がしてくる。
残雪や仏具映すブラウン管 須藤光
地上デジタル放送が映らないためにブラウン管はすっかり番組視聴用としての現役は引退したが、小売店にとっての広告的な商業面での役割はまだまだ引退していないのだとはっとする驚きがある。確かに、不動産会社などはテレビモニターを店先に置き、内覧可能なおすすめ物件の間取り図などを表示していることがある。薄型でも、ブラウン管でも、その用途なら役目自体は変わらない。目の付け所として実におもしろいところをとらえている。ただ、仏具店にしたのは本当にそんな店があったのかといささか疑問には思う。本当にあったのだと言われればそれまでだが、この句はブラウン管テレビがまだまだ商業的な面では現役だというだけでおもしろいのだから、現実にあったことだとしても多少いじって別のお店に変えたほうがしっくりとくるような気もしてくる。
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