【週俳3月の俳句を読む】
頭と身体の休息
田邉大学
訳あって一週間ほど入院した。慣れない環境もあって句作は捗らなかったが、句集を読んだり、映画やドラマを観たり、のんびりすることができた。普段それほど忙しい生活を送っているわけではないが、一週間丸々のんびりするということは稀で、頭と身体のいい休息になり、心もすこしスッキリした気がする。今回の休息が、今後の俳句づくりにおいて生きてくることを期待したい。
対岸の飛び地へ続くいぬふぐり 篠崎央子
市町村の境目は山や川を基準にすることが多いようだが、この場合は対岸にもこちらの町の飛び地があり、それを示すかのように犬ふぐりが群れている。川を挟んで同じ植物が群生することはよく見る光景で、いわば当たり前だが、飛び地という認識があれば、どこか特別なものに思えてくる。
やきそばは半額梅が枝は湾曲 篠崎央子
縁日が出ているような梅見の光景だろうか、一句の中の勢いと韻が心地良い。描かれている内容は至ってシンプルで簡潔だが 韻文の視点で切り取ることでどこか楽しげで賑やかな雰囲気までしっかり見えてくる。個人的には焼きそばのソースの茶色、梅の少し濃い桃色、といった、一句の中の色の掛け合わせの俗っぽさが好きだった。
笛吹きて猫の貌なる明治雛 篠崎央子
雛人形が猫の貌というのは言い得て妙。子供の頃はあの薄い目と小さな口がどことなく不気味で苦手だったが、猫の貌と言われるとどこか可愛らしくも思えてくる。
苗木売雲の匂ひの荷をほどく 篠崎央子
作中主体はおそらく雲を嗅いだことはないし、僕自身もないが、苗木の瑞々しい感覚は、苗木の時期の雲にも繋がってくる。苗木売の表情や様子は直接描かれていないが、どこかゆったり、のんびりと作業をしているのだろうといった想像も働く。
山葵摺る夜や探査機の着陸す 篠崎央子
一見脈絡のない取り合わせにも見受けられるが、普段それほど馴染みのない作業と、探査機が着陸する非日常はどこかで響き合うところがあり、不思議な空間を一句の中に作り出している。料理に添えるだけの山葵を、わざわざ自分で摺るところから始めるこだわりも素敵。
水温む机の脚を組み上げて 中西亮太
引越しか、模様替えか、新しく購入した机を組み立てている。まだ未完成で、脚だけがある机のフォルムが少し不思議で面白い。季語の水温むと木製の机のほんのりあたたかな雰囲気がよく合い、どちらも新しい季節、生活、静かな始まりの気分に満ちた句だ。
永き日や黒鍵白鍵より軽く 中西亮太
黒鍵が白鍵よりも少し軽い、といった気付き、作中主体がひとつずつ鍵盤を押してみて確かめている様子もすこし浮かんでくる。鍵盤の黒と白のコントラストと、だんだん長くなっていく日中の時間との対比も素敵だと思った。
掃く人の椿壊してしまひけり 中西亮太
箒の先が当たったのか、それとも掃くうちに身体が椿に触れたのか、さまざまな様子が想像されるが、「壊してしまひけり」という表現がミソだと思う。散らす、落とす、ではなく壊す、少しわかりにくい表現にも思えるが、椿の複雑な造形や鮮烈な紅の色味を考えると、これくらいが適切なのかもしれない。
祝祭のあとしづかなる春の村 中西亮太
村だから、何か伝統的な行事だろうか、インターネットや交通網が発展した今では、都会の暮らしと田舎の暮らしにそこまで大きな差はないように感じるが、それでもこの祝祭のときだけは、普段の日常から隔絶されたような、独特の雰囲気があるのだろう。それらが終わって、また村に普段の生活が戻ってくる。一句全体が雄弁過ぎないのが良い。
勝てる気の全然しない猫柳 近恵
どこかぶっきらぼうな感覚が魅力。あくまで猫柳との取り合わせと受け取った。猫柳は普段見る植物とは一風変わったフォルムだが、猫柳ならではの親しみやすさ、穏やかな空気感があるように思う。全体のフレーズの中に猫柳だからこその心地の良い諦観が漂っている。
牛乳を零し春泥おいしそう 近恵
歩きながら飲んでいたのだろうか、誤って少し零してしまった牛乳をポジティブに捉えている。おいしそうに見えるくらいだから、春泥はチョコレートかコーヒーか、いささかファンタジーの度合いが強すぎるようにも感じるが、あたたかくなり、外で牛乳を飲みたくなるような春の空気感があるなら、これもありだと思った。
木蓮が光って海をひとが来る 近恵
木蓮が光ること、海から人がやってくること、それぞれがセットのように描かれている。日本人の祖先は、中国大陸や朝鮮半島といった大陸方面から海を渡ってやってきたようだが、この句の季語、木蓮も中国大陸原産だそう。シンプルな景だが、どこか神秘的にも読み取れる。
雪柳墓石わずかにずれている 近恵
随分と時間が経ち、誰もこなくなってしまった墓か、正しい位置にあったはずの墓石がすこしずれている。とはいえ、さびれた墓地の悲しい雰囲気はこの句にはなく、雪柳が咲き誇るなかで、ゆっくりとした時間が流れ、春のあたたかな陽気まで感じられる。
ぬけがらの何処かで燃えている野焼 近恵
燃えているぬけがらが、いったいなんのぬけがらかなのかは示されていない。だが、野焼の静かに煙が上がる様子、すこし温かな空気、どこかさびしげな様子もあり、ぬけがらが燃えている、という捉え方は確かにわかる。野焼き自体は、新しい植物の成長のために行うもので、さびしすぎるだけの句に終わらないことが良いと思った。
雪下ろす黄色の屋根は我が家のみ 須藤 光
雪が積もれば、屋根の色に関わらず、一面真っ白であるが、すこし雪を下ろすと、自分の家の黄色い屋根が露出する。白い世界にほんのすこしだけ、黄色が顔を出す描写がユニークで楽しい。わざわざ俳句に詠むぐらいであるから、作中主体はよほど黄色い屋根を気に入っているのだろう、そんなところまで想像が及ぶ。
夕燕雑木林に鳴るラジオ 須藤 光
雑木林とラジオの取り合わせが良い。どちらもすこし煩雑な雰囲気があり、濁音が調べのアクセントになっている。一日の終わりにラジオを聴きながら雑木林の道を戻る。身体は疲れていても、心は充足感がある、そんな雰囲気を感じることができる。
ただ一重一重に漆里燕 須藤 光
漆器の製造過程では何回かに分けて漆を上塗りする。現代では合成樹脂による漆器も多いようだが、この句では昔ながらの木製の物を想像したい。漆塗の伝統文化を受け継ぐ職人と里山に暮らす燕、どちらにも丁寧な空気感が流れている。朱色や黒色の光沢を持つ漆器と、つるりとしたフォルムの燕、どちらも相性抜群に感じられた。
米屋には亭主が一人春の雨 須藤 光
商店街だろうか、他の店舗には複数の店員がいるのに、米屋には亭主がただ一人居るのみ。店先に米の詰められた袋が沢山積み置かれ、中もやや薄暗い。一人でどっしりと構えているわけでもなく、かといって寂しそうでもない、そんな様子が、春の雨の季語から読み取れる。
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