【週俳2月5月の俳句を読む】
即興的抒情
弓木あき
私が一読者として俳句に期待するのは抒情だ。それは俳句形式や文体に対する意識、季語や素材への視点を通してこそあらわれると考える。たとえばある写真について、計算のうえで撮られたものでも、勘や勢いで撮られたものでも、そこに何か切実でかけがえのない記憶のようなものを見出したい。
菓子箱に菓子の模様や冬椿 工藤 吹
贈り物の菓子折りだろうか。私は、たとえばクッキーの缶を想像した。缶の蓋に側面に細かな模様が描かれていて、目にしただけで気持ちが上向く。個性的なデザインよりも少しクラシカルなものがいい。蓋を開ける前から、ときめきに似たみずみずしい感動を覚える。視覚的な喜びが、生活の中の一コマと早咲きの椿とを軽やかに結びつけている。取り合わせのバランス感覚が魅力的だ。
「菓子」という語を二度用いている点を、私は好意的に捉えたい。声に出してみると、このリフレインが何とも心地よく響くことに気づく。
また、「菓子の模様」から想起されるイメージは読者に委ねられている。その曖昧さが、句に読者ごとの「菓子の模様」像を広く許容するだけの懐の広さを生んでいる。
がつと掴んで牡蠣剥きぬ手のちから 同
大胆な句またがりにより、調べに豪快さ力強さがあらわれている。だからこそ、明快かつわかりやすいが類型的にならない。「がつと掴んで」という一瞬の身体性を切り取る優れた観察眼。
草に積み草より解け春の雪 阪西敦子
中七「草より解け」に、春の雪の手触りや、解けていく雪のきらめきが感じられる。早春のやわらかなひかりを捉えた、動的な映像。幻想的なノンフィクション。写実的でありながらも、どこか抒情詩の気配をもつところに心惹かれた。
風船がときどき電球に当たる 福田若之
空へ引き寄せられるように、あるいは僅かな空気のふるえに手を引かれるように、ゆらゆらと移動する風船。対して、決して移動しない電球。その両者が出会うところにドラマが生まれる。電球の高さまで軽々と届く風船を、ひたすら眺めている人間がそこに存在する不思議。「ときどき」という時間的な幅のある把握が面白い。
風船も電球も何かの象徴のようで、しかしそれを読み込むにはあまりにも余白が大きい気がする。
新聞は墓石の色や青葉風 山口優夢
店頭に置かれた朝刊の束。新聞紙の青みがかった灰色を眺めるうちに、整然と並ぶ墓石を思い浮かべたのだろうか。新聞紙と墓石は、その色はもちろん、無機質さやどんよりとしたイメージにも通じるものがある。諦念にも似た儚げな雰囲気をまとう一人の青年が見える。
新聞を廃れつつあるメディアだと捉えると、青葉風がなんともシニカルな存在感を放つ。
緑陰が吐き出すものにフラミンゴ 山田耕司
おそらく動物園で、動物ではなく木陰に注目している少し変わった人が想像できる。
緑蔭。明るい夏の日差しが生み出す、木々の陰の暗がり。似た意味をもつ季語に「木下闇」がある。木の下闇は古くは『万葉集』に用例が見られ、長いあいだ日本の歌の伝統の中で親しまれてきた語だ。対する「緑蔭」は用例が比較的新しく、どこか近代的な性格をもつ。鬱蒼とした樹下の闇そのものを想起させる木下闇よりも、眩しい日差しと木陰とのコントラストを鮮明に切り取った緑蔭が、この句の躍動感をより演出している。
掲句を読むにあたり、フラミンゴについてネットで調べてみた。すると、一口にフラミンゴといってもいくつかの種類が存在することを知った。鮮やかな赤色から、淡いピンク色、白っぽいものまで。種類ごとに体の色が異なるのだ。夏の光を浴びる木々の深緑色とのコントラストがより際立つのは、白いフラミンゴの一群かもしれない。
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