【週俳2月5月の俳句を読む】
それぞれの私たち
中矢温
中矢温
◆工藤吹「大炬燵」
正月の帰省の頃の連作だろうか。実家や故郷という温かな概念が持つほの暗さが見える連作である。
馳走を馳走らしくなく詠んでいるのはこの二句。
贈答のハムの転がる冬構
がつと掴んで牡蠣剥きぬ手のちから
おいしいハムと新鮮な牡蠣を、「転がる」や「がつと掴」むという無造作な描写でリアルに描いている。
砕氷の音続きゐるおそらくは祖母
白鳥の白や水面のうすにごり
「祖母」が厨で氷を砕いていると読んでもいいが、私は「祖母」の呼吸(の苦し気な音)を「砕氷」に喩えた句だと読んだ。あるいは「砕氷の音続きゐる/おそらくは祖母」とここで深く切ってもいい。そして「白鳥の白」を際立たせる訳でもない、のっぺりとした水質にはどこかうす暗いものを感じる。
写真にも撮らないこういう景色が句になって「私」に残る。
◆阪西敦子「あとの音」
いつもの川に降る春の雪を詠んだ連作と読んだ。連作の途中で雪は止み、――もしかすると日を跨いでいるかもしれないが――作中主体は川に沿ってまた歩みを進める。作中主体は時世柄かもしれないし、現代的な都市生活が理由かもしれないが、人にも物にも少し距離を取っている。つまり見えるように見るし、聞こえるように聞くに留めて、よく見ようと手を伸ばしたり、聞き返したりはしない。それは例えば
春雪や触れたることのなき手摺
春雪を行き交ひ聴きとれぬ言葉
春雪の岸辺に走る音近き
に表れている。描かれているのは、一瞬すれ違って遠くなる他者の存在と、残る「私」である。
◆福田若之「面白」
作中主体は日々の世知辛い暮らしのなかで、頭のなかくらいはのらりくらりと適当に考えたいのかもしれない。ぼんやりとして切実な読後感を与える句群の裏には、丁寧な語の選択が潜んでいる。
灰色の時代酔い醒めほころぶ花
夜桜をカップラーメンタルな徒歩
日本で「失われた十年」という言葉が生れて、既に二三十年年が過ぎた。そんな現代に「ほころぶ花」を見れば、落ち込みもするし慰められもする。そして次に「カップラーメンタル」という新語が登場する。「カップラーメン」的「メンタル」のことだろうか。「夜桜」を背景に猫背で歩く作中主体が見えるようだ。
おぼつかなくて虻の複眼にばらける
手元も生き方も「おぼつかない」「私」の姿を、「虻」はばらばらに「眼」に映し、刺すこともなく、「私」の前から立ち去る。
◆山口優夢「戦場から電話」
新聞記者としての作中主体の多忙な日々と思索が垣間見える一連である。
新聞は墓石の色や青葉風
無料で読めるネットニュースの台頭等の影響で、新聞の購読者数が、減少の一途を辿っているのは、周知の事実であろう。このことを思うと、「新聞」の灰色を、「墓石」に喩えたこの句は、かなりシニカルである。しかし「墓石」は、なかなか壊れやしない目印であり、未来に参るための拠り所である。諦めから来るこの肯定が、「青葉風」の心地よさに託されているのかもしれない。
三十二階から一階まで夕焼けでさすがに草
友人が「ぴえんだね」で終わる俳句を詠んでいたのが懐かしい。「さすがに草」は初見である。この「さすがに草」は、夕焼けに染められたビルを前にした「あはれ」でもある。
夜が手を見せて戦場から電話
表題の句である。さて、この「手」は救いの手だろうか、首を絞めに来る「手」だろうか。そしてこの「電話」は今すぐに取らなければならない。ロシア-ウクライナ間の情勢を伝えるニュースは、少しずつ日常のものになってきている。報道にできること、俳句にできること、「私」にできること。
◆山田耕司「桐生が岡動物園にて」
「桐生が岡動物園」は群馬県桐生市に位置する動物園である。因みに桐生が岡動物園は県内唯一の公立動物園で、入場料は無料だそうだ。タイトル通り、動物園で見かけた動物や出来事の連作である。
詠まれる動物には、人間も入っている。
にんげんとおぼしき者らタヌキを囲む
服を着て佇てり〈準備中〉の檻の前
「タヌキを囲む」のは人間であってほしいし、「檻の前」に「佇」つ人間は「服を着て」いてくれないと困る。ここにあるのは当たり前を詠み直す姿勢である。
そして最後の
鍵束を見せペンギンにいとま乞ふ
「鍵束を見せ」ることと、「いとま乞ふ」ことは、少し論理の飛躍がある。つまり「飼育員は他にも仕事があるから、ペンギンだけを構っている訳にはいかない」というメッセ―ジである。例えば「カレーのル―買ってきてよ」に対して、「今日は雪だよ」と返すような意思疎通に近い。ペンギンと飼育員の間の高度なコミュニケーションである。
さて、動物園吟行の経験者なら共感するかもしれないが、少なくとも私が動物園で句作をすれば、12音で動物の舌や尾や糞を詠み、5音の季語を合わせて仕立ててしまうことが多い。しかしこの連作は、そういえば人間はかなり変な動物であり、動物園というのは不思議な施設だということを思い出させてくれる。(この少し妙な感じの面白さは、小説で言えば、ポルトガル人作家のアントニオ・ロボ・アントゥーネスの小説” Os Cus De Judas”の冒頭部分の動物園の描写を少し思い出した。)
透明人間のように、動物と人間を平等に眼差して、静かに去る「私」。
■阪西敦子 あとの音 10句 ≫読む
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