【週俳2月5月の俳句を読む】
一箱に十種類のお菓子
田中目八
初めに五作品の作者五人の方に感謝を。
それではゆきます。長いです。お付き合いのほど宜しくお願いします。
◆大炬燵 工藤 吹
菓子箱に菓子の模様や冬椿 工藤 吹(以下同)
上質な和紙様の紙箱のように思える。中の菓子も上等なものだろう。恐らく銘菓でその菓子の絵ではなく菓子の模様が漉きこまれているのではないか。或いは冬椿を模した生菓子かもしれないがそれではやはり絵であって模様とは言い表さないだろう。恐らく庭の冬椿、がこの家の模様とも言えるとしたらこの家に住む人はどんな人だろうかと想像してみる。
鳥といふ形が雪の山に残る
鳥の形ではなく「鳥といふ形」。誰か、例えばこの山に詳しい人などからあれは鳥の形の某だと聞き教わる。教わった人には余り腑に落ち無かったのかしら。しかし鳥らしき形、でもないわけだ。その鳥と言う形をとる物体、例えば岩、があったとして山に雪が積もっても形を保ち残っている…ナンか違う気がするな。しかし別の何かだとして(鳥といふ形は鳥といふ形としか言えないのだろう)多分雪山でも鳥が鳥であるように当然それはそれそのままで残るのだろう。
贈答のハムの転がる冬構
迫る冬に備えて慌ただしく冬構の作業中に届いたものか、この地方の事情など知らぬ人が携えてやってきたものか。まさか箱から出したものがその辺に転がってるわけではないだろうが、紐で縛られたあのハムであろう、と藪巻された庭木は通じている。
がつと掴んで牡蠣剥きぬ手のちから
殻の固さと掴む力こじ開ける力。そして柔らかい身と力を脱いた手。力加減。人間というのは無茶するものだなと思う。連作タイトル「大炬燵」を踏まえると炬燵から無理やり引き出されたようなものだ。
藁細工ほのと湿るや暮の市
新藁で作られた藁細工を手に取ると仄かに湿る感触がしたのだろう。新藁なのでまだ水分を多く含むがかと言って触れて湿るというほどではないと思われる。何しろ暮の市に行ったことが無いのでわからないのであります。触れた人の肌の冬の乾燥や水仕事等で荒れた手を思う。
橙は黒ずむ傷の硬さかな
なかなか治らない傷がカサカサに黒く固くなってしまうことはよくあるが、そう言われてみれば確かにあの固さ質感は橙と似てるかも知れない。鏡餅や注連飾りの橙が食べられないまま乾燥して更に固くなってゆく。
富士といふ喩よ大いなる寝正月
誰憚ることなく堂々たる大の字で寝る。動かざるごと山のごとし。まァ寝正月の半分くらいは炬燵のうたた寝ですよね。しかし富士山は恐るべき活火山なのだ。
砕氷の音続きゐるおそらくは祖母
炬燵で飲んで動かないのは息子か父か祖父かその全員か。焼酎か何かに使う氷が足りなくなり作っているところだろう。祖母だと思うのは音が「つづきゐる」からではないか。年老いて力の無くなった祖母では氷を砕くのは難儀なことではないか。
箸乾く餅の貧しく付きしまま
祝箸だろう、白木なので乾くのが早いし餅が引っ付いて取れにくい。お雑煮か何か食べて御酒など過ごしてるうちに乾いてしまったのだろう。然し餅はまだ乾いていない。貧しくというのは恐らくねぶったりこそいだりした跡ということではないか。
白鳥の白や水面のうすにごり
立つ鳥跡を濁さずと言うけれど白鳥ほどの大きな鳥であれば多少なりとも濁るのかもしれない。その水面のうすにごりに気づいたのは白鳥の白さゆえか、逆にうすにごりが白さを際立たせたか。連作として読むとどうもお酒のことのような気がしてしまうが。
連作タイトル「大炬燵」は冬籠そのもののことでもあるように読んだ。
◆あとの音 阪西敦子
春雪や触れたることのなき手摺 阪西敦子(以下同)
恐らく健常的な身体を持つ人ならば手摺を使わず階段を上り下りすることは珍しくないだろう。平坦な道にも手摺が付いている場合もある。手摺に降って、触れては溶けてゆく春の雪と触れたことが無かった、という感触。この後触れてしまうのだろうか。触れてしまえばその感触は消えて二度と戻らない。この春の雪のように。
春雪を行き交ひ聴きとれぬ言葉
聞き取れなかった言葉は聞き返したのだろうか。聞き取れなかったのはお互いか、作中主体だけだろうか。然し聞き返されなければそれはわからない。発した言葉は春の雪と一緒に溶けてしまって、たとえ聞き返したとしてももうそれは同じ言葉ではなくなってしまっているのだ。
春雪の岸辺に走る音近き
走る音は何も足音とは限らないだろう。規則正しい呼気の音かもしれない。音が近づいてくるのではなく近いということと前の句を踏まえれば並走しているようにも思える。だとすれば走りながら言葉を交わしていたのか。走る音は近いが言葉は聞き取れないことがある。言葉とはそういうものだろう。
草に積み草より解け春の雪
草に積もった雪は春の草の萌えるエネルギーで溶けてそれがそのまま草の栄養となる。雪解け。
春雪のあとの音なき川辺まで
春の雪の降った後は増水して音が賑やかそうな気がするけれどここでは音が無い。それは物理的な音の事かもしれないが、何か精神的なものの影響があるように思える。二つ前の句を踏まえるならば走る音がしないということではないかしら。この人はもう既に音がしないことを知っているが、その川辺まで行くのは恐らくそれが日課でもあるからではないか。
早春の犬の白さや吹かれけり
白い毛並の犬ではあるけれど早春の日の元、早春の気分で見れば一層目に眩しいのだろう。「や」と「けり」の二句切れの句であることに最初気づかなかったのだけれど、それは私の迂闊さだけだろうか。何に吹かれたのか、風だとは思うが敢えて二句切れにするだろうか。二句前、次句を踏まえれば芽吹きということもあるか。
下萌や犬が引かねばすぐ迷ひ
下萌の枯草などに隠れて見えない様と道は見えているがゆくべき道がわからなくなること。犬の散歩は基本犬の行きたいように進むのがよく、結局そうしてる内に道は覚えないまま。越してきて間もないのかも。
橋と日と鴉を残し春の川
夕方と読んだ。川沿いにはもう誰も居なくなって自分一人。春の川の上に橋、その上に日、その上に鴉、という配置だろう。そしてまた春の川に戻り、その私も橋と日と鴉更には春の川を残してこの場を離れる。
パンらしきものも映れり春の川
橋の上に人が立っているのかしら。その人の持っているパンらしきものも一緒に川面に映っている、のだろうか。ものも、だからそのパンらしきものを持っているらしき人も当然映っているはずで、寧ろ見ているのはその人のことだろう。
春の日の枝にかかりて傾ける
春の日が差している木の枝の下、若しくは側を通ったら服を引っ掛けたのだろう。引っ掛けたら意外に木そのものが傾いたのか、引っ掛かったのを外そうと身体を傾けたものか。ん、もしかしたら傾いているのは日ですか。
と、ここまで書いた後にふと気づく。これらは全てに犬の存在と不在があるのではと。三句目までは春の雪が降っている。ここまでは犬は存在していたと思われるが既に過去の残響かもしれない。タイトル「あとの音」に引っ張られ過ぎかしら。四句目で雪解けが始まり、五句目では雪の止んだ後が描かれている。既に犬は不在だ。六句目の二句切れは彼岸と此岸か、そういえば迂闊、舞台は川沿いでした。七句目は犬が不在ゆえに起こること。八句目はどうやら夕方では無いのかも。犬が居たときから橋と日と鴉が今も変わらずある、しかし犬はそれらを残して行ってしまった。パンは正直よくわからないけれど、前句からすると鴉が咥えているのかもしれない。その影が川面に映り、犬に棒か何かを投げてそれを咥えて持ってくるときの姿を思い出しているかもしれない。枝に引っ掛かって身体を傾けたときに犬に抱きつかれて身体を傾けたときのことを思い出したのかもしれない。
◆面白 福田若之
姿なす春の泥からヌートリア 福田若之(以下同)
ヌートリアというのは面白い響きの名前だなあと常々思っているが、この句も恐らくぬーっと出てくるヌートリアというアレではないかしら?毛色が茶色いので最初はわからなかったものがまるで泥が姿成してヌートリアの形を取ったような気がしてくる。
春めくということにする吹き出物
芽吹く春。そういうことにしておけばこれから先もイイ感じ(奥田民生作詞これが私の生きる道より)
枇杷男の死の何をも知らず暮れなずむ
私のような初学者でも河原枇杷男の名前は勿論知っているが人物の詳細など、ましてやその死に纏わることなど知る由もなく…で当然検索するも全くわからず。然し死を詠んだと思われる句が多いように感じる。恐らく枇杷男その人の死ではなく枇杷男における死のことを言っているように感じる。《何もなく死は夕焼に諸手つく/河原枇杷男》
灰色の時代酔い醒めほころぶ花
灰色の時代が何を、又は何時を指すか。恐らくは現代、今我々の、ではないかとして。このほころぶは酔い醒め、花の両方に掛かっているに違いない。黄金時代の酔も灰色の時代となって醒まされてしまったという涙(綻ぶ)。しかし同時に酔の内に閉じ込められていた精神は解け(綻ぶ)それまで目に入らなかった花、その蕾が開こうとしている(綻ぶ)。それはまた新しい時代が開く(綻ぶ)ことでもあると思いたい。
夜桜をカップラーメンタルな徒歩
カップラーメンタルとはカップラーメンが食べたい精神状況なのか、所謂豆腐メンタル様に精神がカップラーメンのようなのか。後者ならば乾いておる。湯を注がれるのを、或いは注がれる湯を待ちわびておるのだ。袋のラーメンと違って受け入れる器も最初から備わっておる。そんな徒歩。夜桜に恋を思うが面白を求めてるのかもしれない。
きんぽうげ面白に飽きかつ飢えて
飽きるのが先か飢えるのが先か。面白とは自らを愉しむことではなく齎されるものだとしたら飽きもしよう飢えもしよう。乾いておるのだ。前句を踏まえればやはり受け身、受動的な態度を感じる。そんな人には金鳳花のような花は面白く無いのかもしれない。
白すぎて雲は浮かぶよ四月馬鹿
面白の一つに過ぎたるものがあると思う。過剰、極端、逸脱、そういったものの面白さ。然しそれも余りにも甚だしければ白けてしまう。しかし白すぎて雲は浮かぶよと言われて信じる人はまあいないだろう。四月馬鹿とは騙された方のこと。わかって騙された馬鹿を演じる滑稽さか。面白過ぎて笑い疲れたときに雲が浮かんだような心地よい疲労感てありますよね。
風船がときどき電球に当たる
家の中か何処かの屋内か。野球場の可能性もあるが連作の中で読むと屋内でぼーっと風船を見ているだけのように思える。誰かの手から離れた風船が生きてるように動いてそれが時々電球に当たる。当たってはまた離れる。傍目からは何が面白いのかと思われてるかもしれない。電球に灯りは付いているのかでまた違ってきそうだ。いつか風船が割れてくれることを願っているような、そんなふうにも。
春の夢か電子レンジのさざなみも
我が家には電子レンジが無いのでどういう仕組みなのかイマイチよくわかってはいないがさざなみが見えないのは知っている。火や蒸気の様に直接熱源、エネルギーが見えないが、物に熱が伝わり、それは確かに食べることが出来る。春の夢か…なんて独り言ちてるけれど多分本人は深い意味で言ってるわけでなく、回る食材をぼんやり見てたらふとそんなことを思っただけだろう。しらんけど。
おぼつかなくて虻の複眼にばらける
人としてという存在がというか…覚束ないのだ。複眼に映るどれが私でどれが私で無いのか。最初は恐らく複眼にばらけた自分が覚束なくなったのが、そもそも覚束ないから複眼にばらけて映っているのではないかとこれは春夢の続きだろうか……。面白とは半歩外に踏み込むことすれば内からあぶれてゆくことでもある。虻だけに(スミマセン)
◆戦場から電話 山口優夢
報道陣どこまで歩いてもつつじ 山口優夢(以下同)
こういう読み方がよいものかどうかはわからないけれどつつじの漢字「躑躅」は「てきちょく」とも読み、足踏みしてなかなか進まない意味がある。つつじと平仮名に開いたのはそれを避けるためであるなら申し訳ない。或いは連なって咲くことから「つづき」転じて「つつじ」となった由も踏まえればやはり詰め掛ける押し寄せる報道陣の多さや、報道陣が取材しても取材しても終わることの無い取材対象、この場合連作タイトルから戦争の泥沼を思わされる。
しやぼん玉割れてあくびの涙ほど
しゃぼん玉は大きく膨らんだものでも含まれる石鹸水は微々たる、まさにあくびの涙ほどだ。しかし連作タイトルを踏まえれば戦争で多く失われた人々の一人ひとりの命や人生を思わざるを得ない。戦争を起こした者たちがあくびをしてる間にどれだけの犠牲が生まれていることか。いや、疲れていれば眠たければ戦場に居るものであろうとなかろうと生きていればあくびは出てしまう。その悲しさ。
休日出勤明日も出勤髪洗ふ
休日出勤手当とかあるのかしら。最悪の場合タダ働きということも少なくないだろう。仮に報道関係者で戦争を取材しているのであれば尚の事休みなどハナから無いものなのかもしれない。連作タイトルからすれば戦場に身を置いている人ではなさそうではあるが。休日出勤してきて明日も出勤なのか、休日出勤=明日も出勤なのか。どちらにせよ髪を洗うも乾く間もなくまた出勤なのだろう。お疲れ様です。
死者自身訃報読みたしポピー咲く
そういうものかもしれない。他人の書いた自分のプロフィールとか気になるし面白いですよね。この場合は訃報なので面白いとか言っては不謹慎でしょうけれど、何となく落語の粗忽長屋なんか思い起こしたりもして。ポピー、ケシ科の植物は医療麻薬の原材料として現代医療に欠かせないものであるけれど、イギリスでは戦没者への感謝の念を表すのに用いられるとか。それと関係があるのかはわからないけれど訃報が届くということは死亡が確認され個人が特定されたということである。誰も訃報など読みたくは無いだろうけれど戦争に於いてはそれすらも叶わないことは珍しくないと思われる。
新聞は墓石の色や青葉風
なるほど、墓石の色と言っても色々な種類があるけれど、確かに一般的な、誰もがパッとイメージする色は灰色に近い、新聞のような色合いのものだろう。しかしここで大事なのは色そのものでは無い。前句を踏まえてみてもそうだと思うがこの新聞には訃報が載っている。いや、恐らくは毎日のように載っている。そこでこの新聞が墓石の色だと気づいたのだ。転じて新聞の色こそが墓石の色であり、更に言ってしまえばやがて墓石そのものにもなるのかもしれない。
海底に山中にそのうち月面にかばね
屍というのは葬られていない死体のことだ。そういう無数の屍が海底に山中にある。やがて地球を出て月の上でも戦争が始まるのか。それとも地球上に積み重なった屍が月まで届くか。戦争でなくても人がいれば様々な理由で人は死ぬ。最初に月面で死亡を確認された人は名前を残すだろうが屍は葬られていない死体である。
三十二階から一階まで夕焼けでさすがに草
連作を読んできてここでギャップに戸惑った。今や三十二階建てのビルなど珍しくもないが(三十二階建てとは書いてないのでそれ以上かもしれない)それでも大変巨大な建造物であるのは疑い無い。しかしその巨大な建造物がまるっと夕焼けで照らされているのを見て思わず「ちょ、ヤベー」と笑ってしまったのではないか。何となく、生きているというのはそういうことではないか、とか。ビル群が時折墓標に見えるというのは私だけでなく現代に生きていれば珍しい感覚ではないだろう。ですよね?
マスク外し肉のにほひや夏の月
マスクをしていても肉の匂いであるなら十分わかりそうではあるが、今肉は眼の前にあるということか。次の句でカラオケに行っているので道すがらではあるまい。しかし夏の月がよい屋外、バーベキューや焼肉のあるビアガーデンで飲み会か。暑苦しく息苦しいマスクを外し香ばしい肉の匂いを嗅ぐ。しかし同じ肉の匂いでも戦場であれば全く違う意味になるだろう。
タンバリン抱きカラオケのおぼろなり
仕事の後の飲み会更には二次会三次会…でのカラオケだろう。もはや深夜と言ってよい時間、お酒も飲んでいれば休日出勤までしている身であるから朧になるのは当然至極でいやはやご苦労さまです。でもまだ完全には寝てなくて、時たま思い出したように起き上がってタンバリンを叩くのでしょうね。
夜が手を見せて戦場から電話
そしていつ帰ったのかもわからず、恐らく電気もつけず着替えることもなく倒れ込むようにベッドへ。泥のように眠っていたところ。携帯を握ったままだったのか着信の光が手を浮かび上がらせる。最初わからなかった「夜が手を見せて」というのはそういうことだと読んだけれどどうだろう。
◆桐生が岡動物園にて 山田耕司
プチトマト潰れてゐるや孔雀吼ゆ 山田耕司(以下同)
孔雀は雑食なのでプチトマトも食べるのかもしれないが心無い客が投げ入れたものかもしれない。孔雀は交尾の前に鳴くらしいがモテるフリをするのに一人で鳴く時もあるとのこと。イメージよりかなり大きい声で、鳴くというよりは吼えるという措辞も納得がゆく。ところで孔雀の羽の模様はゼリー状のものに包まれたトマトの種に似ていると思うのだが。
まほろばや水漬くカピバラ薄眼のカピバラ
温泉ですよね?と思ったけれど桐生が岡動物園では温泉無いらしい。普通に水場があるだけのようだ。まほろばとはそういうものだろう~それでもこの園のカピバラは気持ちよさげ。いや、温泉を知らぬ故にここが彼らのまほろばなのかも。檻の中ではあるが。
にんげんとおぼしき者らタヌキを囲む
にんげんとおぼしき者らは狸の仲間か狐か狢か。等と思う自分ももしかしたら自覚が無いだけでその中の一人、なのかも。SF作家北野勇作氏の狸SFマイクロノベルと共鳴するようだ。
クモザルへ手は乳母車のくらきより
俳人はなぜ乳母車を詠むのか。は置いておいて。クモザルといえば長い手と四本指、もう一つの手足のような尾が特徴。クモザルへ伸びる手。その持主は暗きに居てよく見えない。しかし当然手は見えている。その手は少々長くはないか?指は四本ではないか?毛むくじゃらではないか?
おむすびを出しキリンの目を見てゐる
おむすびは出したもののまだ食べていない。或いは食べる気などハナから無いのかもしれない。此方はキリンの目を見ているわけだがキリンは此方を見ているのか。キリンの目は上半分を瞼が覆っていて上は余り見えないが下はよく見えるというので恐らく見えてはいるだろう。おむすびが三角形としてその辺の延長線上にキリンの目がある、とか。
寝そべりてカンガルーたる五月かな
寝そべっているカンガルーの姿は何というか、キマっている、印象だ。この人に取ってはこれこそカンガルーなのだろう。この姿を観たかった、観に来たのだ。外出に最適な五月。寝そべるカンガルーの水平と立って観ている私の垂直が五月の景を拡げてゆく。カンガルーも私も目を細めている絵が浮かぶ。
あーたんのぽんぽん出てるライオン舎
あーたんというのはお子さんの名前として、ぷくっとしたお腹がズボンとシャツの間から出てしまっていた。子供あるあるですよね(かわゆい)そのことに気付いたのがよりによって肉食の強いイメージのライオン舎でとは。別にお腹が出てたからと言ってライオンが何かするわけではないと思われるけれど子供のことだけに何となく落ち着かない気分になってもおかしくない。
服を着て佇てり〈準備中〉の檻の前
人間であれば服を来て佇っていることに何の不思議もないわけだが。恐らく準備中の札か何かが掲示された檻があって、今は中に何も居ない。その檻の前に服を着た何者かが佇っている。準備ならもう出来ていて後は折の中に入るだけ……?
緑陰が吐き出すものにフラミンゴ
桐生が岡動物園には行ったことがないけれど、調べると三種類のフラミンゴがいるとのこと。フラミンゴといえば水辺のイメージだがこの園の池は意外と緑豊かなようだ。まず緑陰の緑と影の黒、それからフラミンゴの紅、ピンク、白。フラミンゴの羽の色ははっきりと分かれて無くてちょっとマーブルぽい斑な感じがあり、吐き出すという措辞に吐瀉物に見えてくる。
鍵束を見せペンギンにいとま乞ふ
鍵束を見せているのは飼育員さんか来園客であろうか。前者ならペンギンに異様なほど好かれてる人かもしれない。後者ならペンギンが異様なほど好きな人かもしれない。鍵ではなく鍵束であるのはやはり飼育員さんのように思えるけれど客であっても家の鍵や車の鍵など束で持っていても勿論不思議ではない。暇を乞うという言い方はどうも後者のように思えるけれど。
ここでもしかしたら、と園内地図を調べるとペンギン舎は隣接の遊園地に繋がる北門の直ぐ側、つまりこの動物園の最終地点に当たる。その手前にフラミンゴの池がある。つまり連作の並びは吟行の、移動の順になっていたのだと気づく。となればやはり客がまた来るから、と暇を乞うたものだろう。
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