2022-06-26

近恵【週俳2月5月の俳句を読む】あーたんって誰

【週俳2月5月の俳句を読む】
あーたんって誰

近恵


今回の週刊俳句の俳句を読もうと思いよくよく見ればなんだか若手の実力者ばかりである。ああやりにくい。自分の知っている彼らの情報が逆に鑑賞の邪魔をする。でも評価するわけではなく鑑賞するだけなら特に問題ないよね、と思い直す。そうそう、いつも通りに勝手に深読みすればいいのだ。


■工藤吹『大炬燵』
:正月休みの帰省時の連作とみた。タイトルの大炬燵は作品には登場しないが大炬燵に象徴される田舎の正月の光景。それは特別な大家族という事ではなく、昔からそうだったように三世代四世代が一緒に暮らし、独立して出ていった家族親族の集まる正月の姿ということだろう。

贈答のハムの転がる冬構  工藤吹

コマーシャルで随分昔から目にした贈答品の塊のハムは実に象徴的なアイテムである。俳句においては転がっているだけで様になる。そして転がっている場所はやはり茶の間の畳の上なのである。転がっているという時点でさほど丁寧に扱われていないと感じる。塊のハムが珍しくもない家なのだ。そもそも塊のハムを贈られる状況を考える時、相手は割と近くの同じ地域の人だと思うのだ。その地域の産物は互いに珍しくもないのでわざわざ見栄えのよい高価そうなものを購て届ける。冬構という季語もなんとなく立派な大きなお宅を想像する言葉だ。そう考えると地域の人に一目置かれている人がいる一家なのである。例えば仲人さんを頼まれたり地区長さんを頼まれたりするような。完全に想像だけど。

箸乾く餅の貧しく付きしまま  同

雑煮などと食べた後に箸を放っておくと箸にくっついたままだった餅が箸と一緒に乾いて硬くなる。正月用の祝い箸だろうか。箸にくっついてしまった餅を歯でこそげるのは行儀が悪い。しかし箸に餅がくっついている様はなんとなく貧乏くさい。さっさと水に付けないのは祝い箸だからだろうか。箸に付いた餅を貧しくと表すあたり、餅に困るような生活とは無縁の暮らしぶりのお宅だったのだろうと思うと同時に多少窮屈な感じもする。


■阪西敦子『あとの音』
:読み始めるとのっけから否定形が使われ、しかも10句中4句とかなりの割合。しかしそれはおそらく無意識に構成されているだろうと思うのは、10句を読み終えても意図的に気分を上げ下げされるような構成ではなく、自然体で詠まれているからである。

春雪を行き交ひ聴きとれぬ言葉  阪西敦子

東京に珍しく雪が降った日、川沿いの遊歩道には雪見がてらに散歩する人などが出てきて、作者もそんな風に歩きながら人とすれ違ったりするが何を話しているのか言葉が聴き取れないというのだ。外国語だろうか。それとも小声なのだろうか。「聴」の文字を使うということは、意図的に聴き取ろうとしているが聴き取れないということだ。薄く積もった雪が音を吸収してしまうのか。まさか人に解らないように暗号化した言語とか、ヒトの形をした宇宙人だったりとか。いやいや、時期的にみんなまだマスクをしたままの散歩ということだろう。一緒に歩いている人に届けばそれでいい言葉。すれ違っただけの赤の他人には聴き取れなくてもいい言葉。そう考えると、すれ違う他人が何を話していてもどうでもいい事なのだが、人との距離が言葉が聴き取れないという事だけで遠くなったような気がして何故か少しだけ寂しい気分になる。

下萌や犬が引かねばすぐ迷ひ  同

犬は雪だろうがなんだろうがいつもの散歩コースを覚えていて、どこを曲がり、どのあたりの土や木や草を嗅ぎ、どの家の近くにマーキングをし、どこで主が一休みするか、たまに変な物を見つけると寄り道をしたりするが己に必要なことは大概全部解っている。犬の主はその辺が解っていなくて犬的にはどうでもいいと思う方へ連れて行こうとしたりするのだ。その度に主は犬に引かれて犬の望むコースへと戻る。という事はこの「すぐ迷ひ」とは犬の視点からみた主の散歩の様子と読める。そう考えると季語の下萌は土ばかりの匂いだったところに新しい草の芽の匂いがする訳だから人よりも犬の方が先に発見し確かめにいく場所でもあり、まさに犬の視点を裏付ける季語である。


■福田若之『面白』
:いろいろと仕掛けのある句が並んでいる。

春めくということにする吹き出物  福田若之

何を見て春の兆しを感じるのかは各自の自由だし、春めいていると決めるのも各自の自由だ。作者は自分の肉体のどこかにできた吹き出物をもって春めいているという事を決めたのだ。おそらく顔のどこかだろう。鏡をみていてあれっと気付いたのだ。それにしても吹き出物だなんて若いわ~。いやいや私にだって吹き出物が、、、いやこれは汗疹だった。

夜桜をカップラーメンタルな徒歩  同

まさかの堂々の尻取り。「カップラーメン」「メンタル」と言葉を繋げながら夜桜を歩いているのだ。小学生の頃に流行った替え歌のように。思わず続けてみたくなる。カップラーメンタルタルソース焼きそば粉もんじゃ焼きイカトックリセーター…あれれ、冬になってしまった。ま、どうでもいいのかもしれないな。彼はつぶやきながら言葉のリズムに合わせて夜桜を歩いているだけなのだ。


■山口優夢『戦場から電話』
:新聞記者である彼の日々なのだろう。そして様々な事から嫌でも知ってしまい感じてしまう事なのだろう。

死者自身訃報読みたしポピー咲く  山口優夢

死者自身が訃報を読みたいとはなんということだろう。それは他者によって伝えられることができない訃報だ。例えば戦場と化したウクライナのどこかの町で掘られた大きな穴に投げ込まれる誰か解らない遺体。「私何某はxx年xx月xx日xx時xx分、男に銃で側頭部を打たれ死亡しました。」と死者自らが申告しなければ、何処でどうやって亡くなったのかすらわからないという現実。咲いたポピーは希望かそれとも追悼か。

三十二階から一階まで夕焼けでさすがに草  同

この最後の「(さすがに)草」はネットスラングだ。どこのビルか分からないけれど、32階から1階まで見事な夕焼けで、なんだかこれだけ夕焼けだらけだとさすがに笑っちゃったという感じか。言うまでもない。ずっと戦争だったり事件だったり誰かが亡くなったりと、そんなことにばかりに触れて日々仕事をしているのだ。気分は殺伐とやり切れない思いにもなるだろう。そんな時に遭遇した夕焼け。赤くてまぶしくて大きくて儚い夕焼けに思わず見とれる。人間は自然の前では実に小さく、宇宙の塵にすらなれないのだ。そんな事を思ったかどうかは解らないけれど。


■山田耕司『桐生が岡動物園にて』
:タイトル通り、動物園での連作である。しかし詠まれる動物園のシーンとしての切り取り方は独特だ。そしてざっと見ると密な漢字が少なく全体的に文字面が柔らかく動物園という場所に相応しい。この辺りも作者の狙いなんだろうな。

クモザルへ手は乳母車のくらきより  山田耕司

クモザルへ伸ばす手が、作者から見ればベビーカーの陰のくらがりから出て来たのだ。このように書かれると何か物語があるように思えてきてしまうから不思議だ。乳母車には赤子がいる。女はクモザルへ手を伸ばす。同時にクモザルも女へ手を伸ばす。二人は通じ合っているのだ。乳母車の赤子はただただ母とクモザルの逢瀬を目にしている。。。などと妖しい妄想をしてしまう。

あーたんのぽんぽん出てるライオン舎  同

あーたんって誰の事だろう。明らかに幼児言葉なので子供が発した言葉だと考える。とりあえずあーたんの腹が出ていることは間違いない。子供は不必要な時こそ正直だ。ただしこの出ているというのが出っ張っているのか、腹が丸見えの状態を指すのかは不明である。しかし私にはなぜかライオン舎で呑気にごろごろと腹を見せて転がるライオンを想像してしまう。そういう風にこの句は作られているのだ。

工藤 吹 大炬燵 10句 ≫読む

第773号 2022年2月13日

阪西敦子 あとの音 10句 ≫読む  

第784号 2022年5月1日

福田若之 面白 10句 ≫読む

第785号 2022年5月8日

山口優夢 戦場から電話 10句 ≫読む

第788号 2022年5月29日

山田耕司 桐生が岡動物園にて 10句 ≫読む

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