【週俳2月5月の俳句を読む】
「コメダ珈琲店大井松田店」にて
瀬戸正洋
菓子箱に菓子の模様や冬椿 工藤吹
てのひらの指のぬくもりまでもが感じられる。菓子箱には菓子の模様が描かれている。菓子箱とは、こころを動かすものである。こころを動かすには、やさしくなくてはならない。庭に冬椿、今にも雪の降りそうな気配である。
鳥といふ形が雪の山に残る 工藤吹
ひとは、雪の山に何か形を残そうとしている。鳥は無邪気に自由に「鳥といふ形」を残した。鳥はどこかへ飛び去っていった。ひとは、どこへも行くことができないでいる。
贈答のハムの転がる冬構 工藤吹
寒さの厳しい地方では冬にそなえて家の周りに風除けや雪除けなどを施す。
ハムは不快だったのである。理由は解らない。ただ、転がることで折り合いがつけばいいと思ったのである。
がつと掴んで牡蠣剥きぬ手のちから 工藤吹
がつと掴むことなど、とうの昔に忘れてしまっていた。そんなことをしたら、からだに痛みがはしる。七割ぐらいの力でしか対応することしかできない。がつと掴むことができるということは羨ましいことなのである。
藁細工ほのと湿るや暮の市 工藤吹
暮の市の藁細工とある。その地方の正月用のものを扱う市なのかも知れない。「ほの」とは、かすかに知覚されるさまをいう。藁を細工するのに湿気は必要だったのかも知れない。
橙は黒ずむ傷の硬さかな 工藤吹
新旧の実がひとつの木になることから橙(代々)という。傷は黒ずみ硬くなっていく。橙の木は「私」である、橙の実は「私」である。傷をかたくすることは生きるための知恵なのだと思う。
富士といふ喩よ大いなる寝正月 工藤吹
富士を喩えたのである。正月なので勘違いしたのかも知れない。正月だから許されると思ったのかも知れない。大いなる寝正月。富士はそこに悠然とある。
砕氷の音続きゐるおそらくは祖母 工藤吹
子どもの頃から慣れ親しんできた独特のリズムである。邪魔だから氷を砕いている。母ではない。父でもない。それは祖母のリズムであると思った。
箸乾く餅の貧しく付きしまま 工藤吹
餅が箸にこびり付いている。他の食器はしっかりと洗ってある。箸は損な役割なのだと思う。
箸にしがみついている餅はあわれに思う。何故か、貧しさを感じたりもする。
白鳥の白や水面のうすにごり 工藤吹
余計なものが浮いている。水底へ近づけば近づくほど透明になる。逆らっても無駄なことなのである。白鳥もにごっている。水面と同じようににごっている。いくら白さを際立たせようとしても誤魔化すことはできない。
春雪や触れたることのなき手摺 阪西敦子
感染症のため手摺に頼ることはやめた。下半身だけで十分に歩くことができると思った。手摺は、ひととひととが触れ合うことのできる唯一の場所だったのかも知れない。
手摺はひとを守るためのものでもある。手摺は手摺を守るためのものでもある。春の雪が降っている。
春雪を行き交ひ聴きとれぬ言葉 阪西敦子
春雪のなか言葉を聴きとることが難しい。ひとが行き交っているのである。尚更に難しい。ひととひととが理解し合えることを期待してはいけない。春になっても雪は降ることはある。
春雪の岸辺に走る音近き 阪西敦子
うごき、こすれ、ぶっかってできる空気の震えを音という。その震えを湿った春雪は吸い込んでしまう。音が近くなったのではない。近くの音しか聞こえないのである。
岸辺に走る音を聞いた。走るものなど何もないのに走る音を聞いた。
草に積み草より解け春の雪 阪西敦子
草は何かを感じている。春の雪は何かを感じている。何も考えないことが大切なのである。余計なことは考えない。草と春の雪に任せておけばいいのである。
春雪のあとの音なき川辺まで 阪西敦子
春雪は音を隠そうとしている。音は春雪の中に紛れこみたいと願っている。自分を隠すことは大切なことなのである。音にしてみれば春雪は神様のようなものなのかも知れない。
浅瀬の近くの水の流れないところを川辺という。音は、川辺に足跡を残したいと思っているのかも知れない。
早春の犬の白さや吹かれけり 阪西敦子
早春のことである。それは迷いなのかも知れない。迷いを大地が感じたからなのかも知れない。迷いが風をおこしたのかも知れない。そのとき、犬の白さは際立つ。大気は動きはじめたのかも知れない。
下萌や犬が引かねばすぐ迷ひ 阪西敦子
枯草の下から芽が出ている。それに引き換え、ひとは迷っている。どこへ行けばいいのかわからない。犬に引いてもらわなければ困るのである。何をすればいいのか皆目見当がつかないのである。
橋と日と鴉を残し春の川 阪西敦子
橋も日も鴉も淋しいのである。取り残されてしまったものは淋しいのである。
雪解け水を湛え春の川は滔々と流れている。岸辺ではあらゆる草木が芽を吹きはじめている。
パンらしきものも映れり春の川 阪西敦子
川面にはいろいろなものが映っている。そのなかにパンらしきものも映っている。パンではないのである。あくまでも「らしきもの」なのである。
春の日の枝にかかりて傾ける 阪西敦子
枝に春の日が差している。ただ、それだけのことである。枝にかかったから春の日は傾いたのである。
姿なす春の泥からヌートリア 福田若之
獣は苦手だ。獣を目の前にすると不快になる。庭を歩いている狸と目が合った。その独特の臭さには閉口する。
水辺から現れたヌートリアを可愛いと思ったのかも知れない。田舎暮らしと都会暮しとでは、獣に対する感情は異なって当然だと思う。
春めくということにする吹き出物 福田若之
偶然などというものは存在しない。ものごとには何らかの理由がある。何故そうなったのか、原因を捜し出さないと落ち着かない。春めいてきたから吹き出物ができたのである。何の矛盾も感じない理由だと思う。
枇杷男の死の何をも知らず暮れなずむ 福田若之
知っているなどと思うことは自惚れなのである。自身のことでもよく解らない。ましては他人のことなのである。春の暮れ方、何も思わず、何も考えず、その風景に埋没していく。そして、枇杷男の作品を読む。それでいいのだと思う。
灰色の時代酔い醒めほころぶ花 福田若之
天然色の時代など存在しないのである。灰色の時代でも十分なのである。何も知らずに生きていくことは幸せなことである。酒に酔うことは幸せなことである。花に酔うことは幸せなことなのである。
夜桜をカップラーメンタルな徒歩 福田若之
歩いている。ただ、ひたすら歩いている。夜桜、カップラーメン、メンタルな徒歩。カップラーメンタルとは文字を重ねた遊び。もしかしたら、屈折した心象風景なのかも知れない。
きんぽうげ面白に抱きかつ飢えて 福田若之
面白いのである。空腹に酔っているのである。きんぽうげは何もかも知っている。ひととひととが理解できないことを知っている。
白すぎて雲は浮かぶよ四月馬鹿 福田若之
赤い雲は浮かぶことができない。黒い雲も浮かぶことができない。白い雲でさえ容易く浮かぶものではない。「過ぎる」ということは大事なことなのである。
四月一日に嘘をついても許されるという風習がある。その騙された人のことを四月馬鹿という。一年中、四月馬鹿でありたいと願う。
風船がときどき電球に当たる 福田若之
電球といえば昭和の時代である。天井に吊り下げられていた。電柱のてっぺんに傾きがちにくっ付いていた。熱を持った電球に風船は当たる。何かが起こりそうな気がしない訳でもない。
春の夢か電子レンジのさざなみも 福田若之
小さな動揺、あるいは小さな争い、そして、不和。これらのことはひとだけの特権ではないのかも知れない。電子レンジとひととの関係も思い当たる節はある。「春の夢か」としたことで、けむに巻こうとしているような気がしない訳でもない。
おぼつかなくて虻の複眼にばらける 福田若之
おぼつかないからばらけるのである。たよりないからばらけるのである。複眼とは多数の小さな個眼が束状に集まった目のことをいう。複眼とは対象をいろいろの見地から捉えようとする努力のことをいう。
報道陣どこまで歩いてもつつじ 山口優夢
目的があるのではない。だらだらと歩いている。どこまで歩いて行ってもつつじが咲いている。つつじが咲いていることに安堵感を覚えている。だが、それは違和感であるのかも知れない。
しやぼん玉割れてあくびの涙ほど 山口優夢
しゃぼん玉は割れるものではない。永遠に続いていくものなのである。それがいつの間にか割れてなくなるもの、儚いものになってしまった。その戸惑いの涙なのである。あくびの涙とあるように、その程度のものなのである。深刻になることを止めた涙なのである。
休日出勤明日も出勤髪洗ふ 山口優夢
世の中のできごとを自分のことのように考えなくてはならない。だが、肝心なことは髪を洗うことなのである。それが、唯一、今、やらなければならないことなのである。休日出勤をした。振休を取ることができない。明日も出勤しなくてはならない。
死者自身訃報読みたしポピー咲く 山口優夢
生きているときは当然である。死んでからも知りたいのである。ポピーのなかには毒のあるものもある。それは自分を守るためのものである。自分を知るために毒は必要である。自分を守るために毒は必要である。
新聞は墓石の色や青葉風 山口優夢
新聞は墓石の色である。そう言われれば、そんな気がしない訳でもない。
新聞は墓石の色であると気付いた。青葉風であることが救いなのかも知れない。世の中は滅亡に向かって歩いているような気がする。
海底に山中にそのうち月面にかばね 山口優夢
地球は「かばね」で溢れかえってしまった。「かばね」は、月へと送ることになった。現実のことは知らなければならない。これは決して未来のことではないのだ。「そのうち」という表現は作者のやさしさなのかも知れない。
三十二階から一階まで夕焼けでさすがに草 山口優夢
前提とする条件を認めつつその限りではない。その前提する条件とは、三十二階から一階まで夕焼けであるということだ。「草」とは大地のことである。「さすが」とは太陽のことである。
マスク外し肉のにほひや夏の月 山口優夢
肉に匂いのあることなど知りもしなかった。知ってしまえば考えなくてはならない。月の涼しさを感じる。感染症の行く末など興味はない。いつの間にか、消え去ってしまうものだと思っている。
タンバリン抱きカラオケのおぼろなり 山口優夢
気のりしないひとたちがタンバリンを抱いている。そんな自分は悲しいのだと思う。おぼろとは、ものの姿がかすんではっきりしないさまのことをいう。自己嫌悪に陥っているのかも知れない。
夜が手を見せて戦場から電話 山口優夢
夜は夜の手を見せる。手とは、凶手、毒手の類である。戦場とは戦闘のある場所である。電話の内容については、ここで、とくとくと述べる必要はないと思う。
プチトマト潰れてゐるや孔雀吼ゆ 山田耕司
潰れたプチトマトがある。潰したのはひとなのである。ひとは余計なことばかりしている。それを孔雀の吼えたことだとした。そんなところにやさしさを感じたりもする。
まほろばや水漬くカピバラ薄眼のカピバラ 山田耕司
カピバラの檻の前で幸福感に浸っている。カピバラは水に漬かっているのである。カピバラは薄目をあけているである。
ひとが檻の中からカピバラを見ているのかも知れない。水に漬かってカピバラを見ているのかも知れない。カピバラは薄目をあけて檻の外からひとを見ているのかも知れない。
にんげんとおぼしき者らタヌキを囲む 山田耕司
タヌキはにんげんとおぼしき者たちに囲まれている。にんげんであるとはいっていない。もしかしたら、「タヌキとおぼしき者らにんげんを囲む」なのかも知れない。にんげんとおぼしきにんげん、タヌキとおぼしきタヌキ。タヌキがにんげんに化かされている。にんげんがタヌキに化かされている。
クモザルへ手は乳母車のくらきより 山田耕司
乳母車の中に手が見える。よく見ると、手はクモザルを指している。クモザルは、くらいところから見られている。不気味さを感じたりもする。
おむすびを出しキリンの目を見てゐる 山田耕司
なに気なくおむすびを出してしまったのである。目が合ったことで、キリンがおむすびを食べたいことを知ってしまった。目など合わせるのではなかったと後悔している。他者を思いやることは疲れる。ひとは下を向いて生きていくに限ると思った。
寝そべりてカンガルーたる五月かな 山田耕司
カンガルーは飛び跳ねていなければならない。だが、寝そべっていても十分にカンカールなのである。俳人は俳句を作っていなければならない。だが、作ることを止めたとしても十分に俳人なのである。
あーたんのぽんぽん出てるライオン舎 山田耕司
ライオンを眺めていたら「あーたんのぽんぽん出てる」が耳に入った。幼い子どもと母との会話なのだろう。文字にしてみたいという衝動にかられたのである。
服を着て佇てり〈準備中〉の檻の前 山田耕司
服を着ていることに意義がある。檻の中の住人(?)に敬意を払ったのである。分け隔てなく接したいということなのかも知れない。生きるということは不自由なことなのである。
緑陰が吐き出すものにフラミンゴ 山田耕司
緑陰はフラミンゴを吐き出す。そう決まっているような気がする。吐き出されたフラミンゴの歩き方まで目に浮かぶようである。
鍵束を見せペンギンにいとま乞ふ 山田耕司
離れたいと思っている。相手はペンギンではない。鍵は、ひとつで十分なのである。鍵の束を持つのは不幸なことなのである。余計なことは避けなければならない。深入りしてはならないのである。
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