【週俳4月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅱ
瀬戸正洋
雨漏りがしている。しないときもある。(雨量に関係はない)木と紙でできた不思議な家(木造住宅)である。アルゼンチンから遊びに来たバックパッカーは人差し指で障子をさすり「本当に紙でてきている」と言った。長いあいだ雨や風にさらされてきた家でもある。私たちが居なくなれば廃墟となる。家といっしょに朽ちていくものだと思っていた。しびれを切らした老妻は業者をよんだ。「ほっておけばいいだなんて風流ですな」といって帰っていった。費用は老妻が負担する(のだそうだ)。
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つちふるや八坂の塔を鳥かすめ 千鳥由貴
大陸の砂が偏西風に乗ってやって来る。文字通りの「土降る」である。不快であっても受け入れることしかできない。八坂の塔を鳥がかすめた。八坂の塔をかすめたのは鳥だけではないような気がする。鳥もひとも大陸からやって来たのかも知れない。
船便で届く木箱や花ミモザ 千鳥由貴
ミモザの花が咲いている。船便で木箱が届いた。何が届いたのかは船便、木箱から想像する。
三毛猫を見ぬこの頃や木瓜の花 千鳥由貴
木瓜の花は鮮やかである。まいねん、同じところで咲く。そのたびにその鮮やかさを確認する。三毛猫とは三色の毛の生えている猫である。
長き髪束ねて帰る花疲れ 千鳥由貴
長い髪には理由がある。疲れていてもがまんしなくてはならない。束ねるということは逃げるということではない。
歩みまだ殻の内なるがうなかな 千鳥由貴
がうなの漢字表記は寄居虫である。ヤドカリの別名である。居候は気楽である。殻の大小ぐらいはがまんしなくてはならない。
書く前の言葉つぶやくシクラメン 千鳥由貴
書くことにより言葉は存在する。書く前の言葉はふわふわしている。つぶやくことは過程である。言葉は眺めるものなのかも知れない。
低く飛ぶ孕雀を子は追はず 千鳥由貴
低く飛んでなくても雀を追いかけてはいけない。孕んでいなくても雀を追いかけてはいけない。低く飛ぶ孕雀を追うことなどもっての外である。
若芝や牛乳受けを置く戸口 千鳥由貴
家を建てる。芝を張る。勝手口に牛乳箱を取り付ける。新居である。おだやかな平凡な暮しが永遠に続くと思っている。
春暑し天井川の上に橋 千鳥由貴
ひとだけではない。自然も無理をしている。天井川に橋を架ける。暑い季節が近づいている。微妙な狂いが生まれはじめている。
どんたくの杓子を打ちて日照雨過ぐ 千鳥由貴
杓子を打つ。お囃子に加わる。日照雨が過ぎていく。お日さまだけではない。雨だけでもない。得体の知れない何かが祝ってくれている。
みやこ鳥春からのこと話し合ひ 田中木江
話し合っても何も決まらない。決めるのは自分である。ものごとは感と勘と観で決める。結論などどうでもいいことなのである。
花菜漬わたしも休みとれたると 田中木江
花菜漬を味わう。ひとりだけの休みではない。こころもからだもくつろいでいる。
ひらきだす梅々へ枝追ひつかず 田中木江
よくあることである。これもひとつの人間関係である。あまり気にせず流れていくに限る。
熊ん蜂とぶクレヨンの黒を引き 田中木江
クレヨンの黒を引いたのである。羽音に関係があるのかも知れない。熊ん蜂からは恐怖を感じない。
ものの芽の先につたはる工事かな 田中木江
「ひらきだす梅々へ枝追ひつかず」と似ている。偶然か必然かと考えれば必然である。偶然であるとすればそこで何もかもが終わる。
はなうたにちらほら歌詞や春大根 田中木江
歌詞を忘れたからはなうたなのではない。言葉が不要だからはなうたなのである。おだやかなこころはメロディーを奏でたりもする。
春日傘三種のおはぎ買ひ揃へ 田中木江
小豆を炊く。砂糖は控え目にする。小豆を食べるような感覚だ。糖分摂取も酒から菓子へと変わっていく。味覚は鈍感になったような気がする。
よき岩に足跡あまた磯遊び 田中木江
よき岩といわれている。岩にとってみれば不快なことである。ハラスメントなのかも知れない。赦したくないと思う 。いつか岩の気持ちを理解する方法が見つかるのかも知れない。
次会へるときには夏かさくらえび 田中木江
付き合いはこの程度がちょうどいいのかも知れない。長いとさびしくなる。短いと煩わしくなる。冷たいビールにさくらえびはあう。
この町の花時を見ず去りし人へ 田中木江
見たと思っても見てはいない。それは勘違いなのである。実際に存在してはいない。他人によりでっちあげられたものなのである。落ち着いて考えなくてはならない。
아이 우유 오이 なぞつてゆけば文字となり 原麻理子
文字とは言葉のことである。訳してみれば「子供、ミルク、キュウリ」とあった。その先の意があるのかも知れない。「おぼえる」というタイトルの十句である。おぼえるには感じる、記憶するという意がある。아이 우유 오이の文字を眺め、何かを感じればいいのかも知れない。
ぼくが나(ナ)できみが너(ノ)かうして向きあつて 原麻理子
ひととひととが向き合うことはよいことである。何も話さない。感じるだけでよいのである。解りあうための半歩前の出来事なのかも知れない。
口が音をおぼえるこれは雨のはうの비(ピ) 原麻理子
耳が覚えるのではない。口がおぼえるのである。ひねりなのかも知れない。ひねりとは、古びること、変におとなびること、やっつけることとあった。「雨のはうの비(ピ)」。ことばは揺れている。
目(눈)と雪(눈)が同じでまぶしさの仲間 原麻理子
異なる文字が用いられる。同音異義語を羅列すれば何か新しいことがはじまるのかも知れない。まぶしさとは仲間のことなのである。目と雪とはからだにとってここちよい。
雪(눈)だつた水(물) 目(눈)の水(물)を涙(눈물)といふ 原麻理子
雪は過去である。目は現在である。涙とは時間のことである。時間とは心身を守ってくれる。
雨が来る(비가 온다) 春(봄)そして眠り(잠)を連れて 原麻理子
春と봄は似ている。文字のかたちが似ている。文字の意も似ている。同じであることは絶対にない。
春草にきみは솔솔(ソルソル)と風を吹かす 原麻理子
솔솔とそよそよは同じようである。(同じではない)ひとは春草に風をあたえることができた。そう考えることは傲慢であるのかも知れない。
教はつて呼ぶその花を개나리(ケナリ)として 原麻理子
개나리という花の名を知った。教えられたから知ったのである。呼ばれたから知ることができたということはない。
燕来る半島の国島の国 原麻理子
燕には国境はない。国境があると思っているのはひとだけである。自由にならなくてはならない。
読めてもう文字で花と葉いつぺんに 原麻理子
いっぺんにできることには危さがともなう。いっぺんにできると思うことなど間違いなのである。
出勤の足元たんぽぽは元気 うっかり
うんざりしている。うつむいているから足元のたんぽぽに気づく。見ることはこころにもからだにもやすらぎをあたえることがある。
メールも無く上司もおらず鳥雲に うっかり
メールの返信は億劫である。上司との会話も億劫である。ここにいたいわけではない。鳥雲にまぎれどこかへ飛んで行ってしまいたいなどと思っている。
例えばで始まる話四月馬鹿 うっかり
具体的なことをのべてもしかたのないことだ。たとえ話で十分なのである。それで気付いてくれるほど期待はしていない。
花曇内線電話番号表 うっかり
眼前の桜は満開である。内線電話番号表は短縮で表示されている。曇った日の桜は濃密である。曇る理由はそんなところにあるのかも知れない。
清明にそよぐティッシュの白さかな うっかり
清明はティッシュペーパーに生命を吹き込む。ティッシュペーパーはそよぐことにより白くなろうと努力する。
たんぽぽの花びら数え始めけり うっかり
やることがないからこんなことをはじめる。はじめるから途中で引き返すことができなくなる。この程度の数ならばしかたがないとあきらめてみたりもする。
亀鳴くや昼過ぎと思しき光 うっかり
亀はそこにいるだけなのである。亀は鳴かないから「思しき光」なのである。いつの間にか日暮が近づいている。
囀はしゃべりたそうな樹の元に うっかり
恋をすると饒舌になる。鳥もひとも同じである。本能のまま接すればいいのである。ひとは余計なことを考える。余計なことを話したくなる。その点、鳥は利口である。「しゃべりたそうな樹の元に」が間違いなのである。
川沿いに家々の裏夕永し うっかり
川にへばりついている。へばりつくには理由がある。湿気も感じられる。川へと降りる階段がある。表通りは閑散としている。春の日暮の気怠さを感じたりもする。
着信の明滅のみの部屋朧 うっかり
明滅とは暗示である。春の夜である。便利であるはずのものが余計なことを伝える。あわてる必要はない。珈琲を飲んでからでも遅くはない。
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サングラスをかけると紫外線から眼を守ることができる。サングラスをかけると異なる風景が見える。サングラスのことを色眼鏡ともいう。比喩的に、先入観、偏見をもって見ることあった。「色」とは危ないものなのかも知れない。
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よいこともあればわるいこともある。すべてのものごとは、ならしてみれば同じである。そうであるならば何もしない方がいいのかも知れない。
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