2025-06-15

上田信治【句集を読む】俳句の中で「自由」 黒岩徳将『渦』

【句集を読む】

俳句の中で「自由」
黒岩徳将『渦』 


上田信治 

 

書きたいと思った句集が、たまってしまっているので、少しずつでも書いていこうと思う。



黒岩徳将句集『渦』(2024・港の人)

上田「句集よかったです、「週刊俳句」に書きたい」
黒岩「いや、でも、信治さんが考える俳句の未来について書くことを、優先してください」
上田「何言ってるんですかー、書きますよー(笑)」

と、先日、そんな会話があって、その時は、ただ「黒岩さんは世慣れているなあ」と思った。
つまり上田のことを嬉しがらせつつ、謙遜をされているのだ、としか思わなかったわけですが。

よくよく考えると、彼は「自分の俳句は、信治さんの評価軸から、はずれてるでしょ」ということを、言っていた気がしないでもない。

たしかに、以前、

生駒大祐『水界園丁』
https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/09/blog-post_44.html
藤田哲史『楡の茂る頃とその前後』
https://weekly-haiku.blogspot.com/2021/02/blog-post_20.html
安里琉太『式日』
https://weekly-haiku.blogspot.com/2021/03/blog-post_73.html

について、続けて書いたときは、その三冊に共通する方法について書いていたし、
黒岩徳将さんの『渦』と、それとは、ベクトルが違うかもしれない。

しかし、誰かのやっていることをいいと思ったら、それは「その試行」のための評価軸が生まれた、ということであり、
また、何をいいとするかの更新を求められるのが、本当に面白いということなので。

一句ずつを読みながら、黒岩さんのどういう句が、どう面白いのか、
この人が何をしていることに、自分は可能性を感じるのかを、かたちにしていきます。


1.物語と俳句の接続

私見だけれど、俳句に物語を接続することが、黒岩さんの所属する『街』と今井聖主宰の方法だと思っていて、この句集の主軸もそこにあるように見える。

司書さんが栞をくれしクリスマス 

○○さんといえば「龍の玉升(のぼ)さんと呼ぶ虚子のこゑ 飯田龍太」があるけれど、それはしゃべり言葉としての「○○さん」。
地の文で「司書さん」と書けば、それは私との関係性にどっぷりと染められた「司書さん」その人のこととなる。
それは、半分、固有名詞であるような呼び名の俳句への持ち込みである。

町の図書館でも、学校の図書館でもいいのだけれど、その人を「司書さん」と呼ぶことで、エピソードの感情が確定する。
それはやさしい思い出、といったものだろう。

この「司書さん」は、ワンフレーズで、一句を人生の場面として、立ちあがらせている。
非常にエレガント。

雪搔のフードを脱げば友の母

「雪搔のフードを脱げば」は、季語に無理なく場面を呼び込んで、小さな成功は約束されたような、それだけに常套を感じさせるフレーズでもある。
けれど、この「友の母」には、あ、と思わせる美しさがあった。

なんでだろう、と思ったら「雪搔」と「友」が同じ空間にあって、だとすれば、これ実家で地元なんですよね。

この句の物語を語ろうとしている人が、人生上のどの地点にいるのかはわからないし、この句自体、記憶であるか現在であるか分からないけれど、
地元で「友」とくれば、語り手のごく若い年代の感情が、この場面に重ねられていることは確定している。

つまり、この句の映像のなかで、主人公は若く「友の母」もそれなりに若い。フードを脱いだら、上気したその人が「あ、黒岩くーん」とか言うわけでしょ。雪晴れでさ。なんとも、晴れ晴れと美しい、幸福な光景だなと。


幸福といえば、この句集には、いくつかの恋の句がある。

冬麗や泣かれて抱けば腹突かれ
どちらからともなく凭れ冬の海


ちょっとアニメの恋愛みたいだ、と思ってしまったのは、ここに、あまりにも「恋愛」しか描かれていないからなんだけど。

水仙や電車が見えて小走りに
椎茸やパーマがかつこいいつてさ

こういう句は、逆に「恋愛アニメのように」きれいな俳句になってると思う。自分の恋愛だけではなく、もうすこし広いところまで、理想化しえているというか。

ごんずいを眺めて胃腸薬が効く

へんな句。でも、しっかり腑に落ちる句でもあって、この人は、胃腸の不調(たとえば胃痛)をなだめようとしている。「ごんずい」というのは、その「なだめ」の対象でもあるわけですよね。背びれに毒があって、暴れてほしくない、黒いかたまり。

それを「眺め」る時間が薬の効き具合をたしかめる時間とパラレルになっていて、白いぱらぱらした胃腸薬との対称で、黒くて暴れだしそうな対象の実在に触れている。

物語と俳句の接続といいながら、自分は、物語よりも、その接続部分が、言葉としてどうなっているかばかりを気にしているわけだけれど。


2.素材主義に対する批判

ここで、ちょっと脇道にそれる。

X(ツイッター)で「「街賞」受賞作を起点とした、おもしろみの隘路について」https://posfie.com/@h0sseu/p/o5Z85n4?page=4 というまとめを知った。

谷村行海さんの『街』賞(結社誌の同人賞)受賞作に、岩田奎さんが「おもしろくない」とずいぶん直截な絡み方をして、一連のやりとりがあったらしい。

岩田さんの批判は「おもしろすぎておもしろくない」「ここがおもしろいでしょう?というポイントがあまりに明確」「こういうタイプのおもしろさを目指すのが果してどうなのか」ということで、それは、作品の未熟さを指摘しつつ、『街』や今井聖の方法論についても、届いてしまうような批判でもある。

岩田さんはまったく「そう」は言っていないのだけれど、「おもしろすぎておもしろくない」を、自分がより広く敷衍するなら、素材を評価の入り口とすることに対する批判ということになると思う。

目に見ることのできるナマの「現実」を起点とすること(…)そこに「今」と「私」を滲透させたい。そう思って作っている。

(今井聖句集『九月の明るい坂』(2020)「あとがき」より)

『街』主宰・今井聖の句の「現実」は、しばしば素材を突破口として「現実」の写像たろうとする。

「私の現実」「今の現実」の唯一性を求めて、面白すぎる領域に踏み込むことも多い。〈夏逝くや勝利のごとくブラ干され〉とか。こうなってくると、面白すぎておもしろい。今井さんが(『九月の明るい坂』も面白い)。

しかし、誤解をおそれず言えば、俳句に限らず、表現において素材主義は、第一級の方法ではありえない。

表現行為というものそれ自体が、原理的にメタな価値を志向するように出来ているからだ。
素材も言葉も、もう一つ別次元の何かを実現することに、奉仕するためにあると、自分は考える。

しかし同時に、今井聖や黒岩徳将の書くものを、自分は面白いと思う。

それは、たぶん、彼らが俳句の中で「私」であり「今」であろうとするとき、
その欲望が無理なお願いに過ぎれば過ぎるほど、
言葉は軋み、俳句は拡張され、そこに立ち現れる作者の実存などを含めて、何か素材以上のものが、実現されているからだ。



3.その人の「自由」が見たい

俺と牛の頬に黒子や冬青空 黒岩徳将

同句集の巻頭句として〈泣き黒子水鉄砲を此処に呉れ〉があって、自己の戯画化が面白いし、俳句ジャーゴンとしての「呉れ」もオシャレだ、と思ったけれど「水鉄砲」が季語であることが、不自由だとも思った。見るからに席題の句で、趣味性が強く、らしくない。

でも、同じ黒子のこの句には、俺と牛が顔を並べていること、そして、この冬青空がじつにどうでもいいことの、自由を感じる。

「俳諧自由」今井さんの言う「諧諧、諷逸、風雅、枯淡などの意匠から「写生」を先ずは解き放ち」(同あとがき)も、畢竟そういうことではないか。

その人の才質のおもむくまま、やりたい放題を見せてくれるのでなくては、何も面白いことはない。
私たちは、俳句というしばりの多い奇妙な詩型で遊びながら、
それでも、こんなにも自由でありうる、というかたちで、人間にとってよきものを示そうとしている。
そうでしょう?

自分は、句集『渦』を読みながら、その人の「自由」を見て楽しんだ。

というか、自分が、そういう俳句の読み方、書き方をしていたことを発見した。俳句の中で、どれだけ人が「自由」であることを、見せられるか。

青胡桃木登りをせず死ぬだらう

何を言っているんだ、君は。すれば、いいじゃないか、木登り(笑)。

でも、彼がそう言ってるんだから、仕方がない。
ここには、きっと何か深い悲しみがあって、
うわごとのように他人に分からないことを言うという、身ぶりを通して、彼はその感情を表現している。

青胡桃は、単なる青春性という以上に「人にまだ手渡せない何か」の表徴でもあろう。

自転車のハンドルに鷺立ちゐたる

それは、きっと詩ではなくて、ただの偶然なんじゃないかな(笑)。めちゃくちゃ、面白い、不安定で。「ゐたる」の未定っぽさ、くねくねしてる字形もぴったり。

神々が跳び箱を待つ立夏かな
電線のある日本の芋嵐
噴水が何も濡らさず落ちにけり
春昼の貝の散らばる地蔵かな


ふつうにいい句はいくらもある。
とはいえ、たとえば、裕明ばりだと誰もが思うような句は、彼の体現する「自由」だとは思えないから、ひかれない。

けれど、上にあげた四句のような句は、非人称的で匿名的な(つまり、黒岩くんの顔が浮かぶわけではない)語りでありつつ、ある時、ある人が、こう書きたくて書いたのだ、という感触を伝え得ていると思う。

神々が跳び箱を待つ立夏かな

学校の体育の授業風景を、まず思えばいいか。つぎつぎと跳躍をするために、並んでいる子ども。
宙に放たれるように、ぽーんぽーんと跳ぶだろう、その運動の可能性を、書き手は「神々」と呼んだ。
なんて、きれいで、健康な認識なんだろう。

電線のある日本の芋嵐

里芋の大きな葉が強風にひるがえれば、これが「芋嵐」かと思う。

モンスーン気候も芋も、その言葉が生まれた当時から、ずっと変わらないものだけれど、今は、空中を電線が通っていて、家でテレビが見れたりするのだ。

作者がこう書くとき、かつてあった「電線のない日本」が、今この空間に二重写しになるのだけれど、
「芋嵐」はある大きさの空間(芋畑の連なりとその上空)を連想させる言葉なので、
その範囲が「きっちり二重になる」という、あまりないイメージ上の経験ができる。


4.物語と、その人の現実

以前、松本てふこさんの俳句について、「本人いいやつだ」っていう内容の文学作品があったっていいじゃないですか、ということを言った(『俳コレ』合評座談会)。

俳句に物語が接続されるとき、今井聖のいう俳句の「カメラアイ」は、何らかの形でその人を映している。

不可避的に自己演出とか演技性というものが、発生するわけだけれど、そこでカッコをつけてほしくないというか、カッコをつけることの馬鹿馬鹿しさも含めて、読む人のお楽しみに供してほしい、と自分は思う。

黒岩さんは誰よりもクレバーで、如才ない人だと思うけれど、同時にめちゃくちゃ人がいいというか、自分の「抜け味」をよく知っている。自分の可笑しさを、読者といっしょに笑ってくれているのが、気高いというか、一周回ってかっこいい、そういう書き手だと思う。

俳句が、言葉遊びにとどまることに対する拒絶が、楸邨に連なる人たちの原点にあり、
『街』の俳句は、俳句の言語空間の外にある「現実」を導入することで、「今」であり「私」であろうとする。

とはいうものの、書かれた「現実」は、十中八九、既成概念の域を越えない。

今井さんが「街宣言」で拒絶する「俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱(以下略)」といったものは、
俳句にあっては、無人称的な具体の把握として実現される。
そういう蓄積があるゆえに、俳句の外の「現実」の持ち込みは、しばしば(人らしきものが登場するというだけの)単なる「お話」に見えてしまう。

けれどそれが、他でもない「黒岩さんの現実」だという手ざわりを、俳句の言葉が伝え得たとき、
そこにウソっこではない「人らしさ」が生まれる。

それが楸邨の言う「俳句の中に人間が生きること」なんじゃないか。

名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫 (24)今井 聖 
https://weekly-haiku.blogspot.com/2016/04/24.html

 

スイミングキャップ撫づれば毛の痛し

ほんと、どうでもいいんだけどさ、あなたの髪が、短くて硬いっていうことは(笑)。
でも、誰かの髪が短くて硬いっていうことは、それこそ、生の一回性でもあって。
 

俳句の物語性というのは、小説とか、流行歌の歌詞のような、振れ幅の大きな感情のことでは必ずしもなくて、
「その人の現実」のまぎれもなさが、フィクションに見まがう豊かな生活史への接続を予感させるとき、
人はそれを「物語」があると感じるのだ、と気がついた。

土手は春野球の声におーと言ふ

「土手は春」と切り出したということは、そこで野球をやっていることは、たぶん、さっきから見えている。
そして、あらためて「野球の声」があがるのをきいて、心動かされたこの人は「おー」と言った。

これ、俳句に、よく書かれる光景であり、感情だと思うのだけれど、それでもこの句は「その人の現実」って感じがするでしょう?

とぼけていて、人よさげで、微量の淋しさがあって。

むこうは集団で、こちらは一人で。この人は、自分にだけ聞こえる声で、独りごちたのだけれど、
どちらの声も、大きな春の空間に消えていく。

その構図がいいのと、平凡な風景を描こうという、ある種の無防備さがいいのだと思う。


黒岩徳将『渦』は、読んでいて楽しい句集で、前々から思っていた黒岩さんのいいところを、たくさん見ることができた。

人のよさとか、向日性とか、笑われやすさとか。

けっこう、いろいろの傾向の句が入っているので(これは多くの人の句集に思うことだけれど)自分が見ている可能性を、作家が自分の方法だと思っているのかどうか、正直、分からないところもある。

けれど、俳句に人間とか内容があることは、やはりいいものなのかしら、と、新美南吉の狐のように思ったことだった。


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