第163回現代俳句協会青年部勉強会
「柿本多映俳句集成を読む」
現代俳句協会青年部で、今年上梓された「柿本多映俳句集成」を読み合います。
※テキストは持参いただかなくても参加可能です。
URL: http://gendaihaikukyokai-seinenbu.blogspot.com/2019/10/163.html
日時:12月7日(土)
13時30分ー16時30分
(受付13時〜)
場所:荻窪セミナールーム
(JR・地下鉄荻窪駅改札徒歩5分)
東京都杉並区荻窪5-15-7白凰ビル
4階 401
※参加予約いただいた方に会場アクセスのご連絡いたします。
基調報告
加藤絵里子(「山河」) 柳元佑太(「澤」)
司会
野口る理(現代俳句協会青年部)
テキスト
『柿本多映俳句集成(深夜叢書社)』
お二人の基調報告と100句選をもとに、
参加者の皆さんと読み合うことができればと思います。どなたでもご参加ください。
参加費
一般 1000円
学生 500円
参加申し込み
genhai.seinenbu@gmail.com
までお願いいたします。
皆様のご参加をお待ちしております。
2019-11-24
第163回現代俳句協会青年部勉強会「柿本多映俳句集成を読む」
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現俳協第162回勉強会「フキオとカキオ」告知
第162回勉強会「フキオとカキオ」告知
URL:http://gendaihaikukyokai-seinenbu.blogspot.com/2019/11/162.html
愛媛県松野町出身の芝不器男と、八幡浜市・保内出身の富澤赤黄男。同時期に南予で育ったフキオとカキオには、俳句の新しい時代を切り開く、みずみずしい詩精神がありました。
子規・虚子・碧梧桐以後にも脈々と息づく、愛媛のはぐくんだ俳句の力。
二人の俳句を読み解くのは、愛媛在住・出身の若手俳人たちです。
基調報告と二人の百句選をもとに、参加者のみなさんと自由に語り合ってみたいと思っています。
協会青年部の企画ですが、参加に所属や年齢などの制限はありません。どなたでも自由にご参加ください!
日時:11月30日(土)
13時半~16時半(受付13時〜)
場所:もぶるラウンジ
〒790-0005 松山市花園町4-9岡田ビル1階
http://udcm.jp/
第一部 勉強会 13時半~15時10分
基調報告:川嶋ぱんだ(松野町地域おこし協力隊)、神野紗希(現代俳句協会青年部長)
ディスカッション:家藤正人(俳句集団「いつき組」)、川嶋ぱんだ、脇坂拓海(「WHAT」編集部) (司会)神野紗希
第二部 公開句会 15時20分~16時20分
登壇の4名を中心に、当日投句(13時半締切)をもとに句会を行います。兼題「葛」or「落葉」で一句、持ち寄ってください。
参加費
一般 1000円
学生 500円
参加申し込み
genhai.seinenbu@gmail.com
までお願いいたします。
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2018-08-12
出会いで終わるとは思えない 2018年7月21日(土)関西現代俳句協会青年部勉強会『句集はどこへ行くのか』レポート 樫本由貴 序:久留島元
出会いで終わるとは思えない
2018年7月21日(土)関西現代俳句協会青年部勉強会『句集はどこへ行くのか』レポート
樫本由貴 序:久留島元
2018年7月21日(土)、関西現代俳句協会青年部勉強会『句集はどこへ行くのか』が
大阪、梅田パシフィックビル会議室で開催された。
話題提供は、田島健一、鴇田智哉、福田若之、宮﨑莉々香、宮本佳世乃、現代俳句協会から野口裕、歌人から牛隆佑、柳人から八上桐子。司会は関西現代俳句協会青年部部長の久留島元。
当日は、現代の出版状況の変化をふまえ、短詩型をめぐる書籍の出版、流通についてさ
まざまな視点から議論がなされた。このレポートは参加者のひとり、現代俳句協会の樫
本由貴による報告である。
樫本には当日レポートを依頼したため、録音などの正確な記録ではなく、記憶とメモに
もとづき執筆いただいたが、発言者の確認、校正をへて掲載するものである。
談論風発、多岐にわたる問題が提起された刺激的な議論の様子が伝われば幸いである。
以上、久留島記。
*****
敬称略。発言は適宜要約し、必要と思われた箇所には( )で注を付けた。
○句集を編集すること
まず、「オルガン」11号(2017年11月)について。
ここでは、座談会「宮﨑莉々香からの質問状~句集って~」というテーマ設定で、以下の三つの質問状が出されている(以下、質問文は当該箇所の引用)。
①(句集を編む行為について)横書きの俳句を意図的に句集に入れることについてどう思いますか。また、まとめるという行為には必然的に「らしさ」が付きまとってくると思うのですが、「俳句」らしさに抗いたいと思いましたか? どんな風にどのくらい抗いながら、どのくらい「俳句」らしさに乗っかろうと思いましたか。座談会では、これらを柱として様々な問題提起が行われた。いわゆる俳句らしさとは縦書き/横書きによって担保されている側面があるのではないかという疑問と考察、句集を出すことや句を書くことそのものが、自身を俳句表現史上に置く行為であること、そして、読者が俳句を読むときに、句集の果たす役割についてなどである。
②(句集として)句集を作った際に、その本がどのようなものとしてありたいと思いましたか。また、あえて自分で規定することを行いましたか。
③(句集を出すこと自体について)短歌の世界には書肆侃々房の「新鋭短歌シリーズ」があり、若手が本を出すことを支援する一つのプロジェクトとして成功しているのではないかと思います。俳句にはこのような仕組みはない上に、名刺としての第一句集を要求されます。これについてどう思いますか。
座談会時に提起された宮﨑の質問の①と②について、その意図が本人から次のように説明された。
①には、句集を編集する際には、それを一冊の本として差し出すことが意識され、句を並べることやどう見せるかといったことが俳句を書くうえで、あるいは俳句史としての立ち位置を表すことが付け加えられた。また、②には、宮﨑は句集とは自分の立ち位置を示すものだという認識を示したうえで、それがどんなものであれば読者に届くかということが聞きたい、と付け加えられた。
本にする際の編集について野口、牛、八上から次のように応答があった。
野口:見た目の話であれば、縦書き/横書きではなく、縦組み/横組みという言葉の方が正しいと思う。野間幸恵に『WATER WAX』(あざみエージェント 2016年)という横組みの句集があるが、手に取ったとき、それにはそんなに驚かなかった。もう横組みの本は受容される文化ではないか。ただし、俳句を横組みにする場合、左揃えは不格好になる。『WATER WAX』は中央揃え。縦組みは悪い意味での俳句らしさの残り、気取りであるような気がする。「本」としてどう作るかを中心とした応答に対し、田島・福田からは本を作る行為に関わる人々や読者を想像することも必要だという発言があった。
牛:(樫本注:「オルガン」11号の座談会では、宮﨑の質問の③で、俳句には短歌の「新鋭短歌シリーズ」(書肆侃々房)のように、若手が安く句集を出せる仕組みがないにもかかわらず、名刺としての第一句集を要求されるということへの不満が付け加えられていた。以下はこういった流れを受けての回答。)書肆侃々房の「新鋭短歌シリーズ」は玉石混淆。最初はあそこからは出したくないという人もいた。シリーズものだから全国の書店に全部が並ぶ。そして中でもいい人の歌集が売れて、賞も取った。そうなるとシリーズ全体への見る目が変わった。
八上:川柳はもともと句集を残さない、書き捨ての文芸だった。近ごろは、短歌同様シリーズで出版されることが増えた。自分自身の場合(樫本注:『hibi』(港の人 2018年))は、出版社への強いこだわりがあって、どうしても本の最後に「港の人」と入れたかった。どう句集を差し出すかというと、読まれるように届けたい、読み手に届いてほしい。私淑した方の遺句集を作ったときも同じ気持ちだった。自分の句集はあまり謹呈せず、買ってもらったが、それは売りたい(樫本注:利益を得たいという意)ということと同義ではない。葉ね文庫に自分の句集をおいてもらったら、歌人が買ってくれて嬉しかった。
田島:句集はもう出しちゃったもの。それをブックデザインとして語るのは俺たちの仕事じゃない。短歌は『サラダ記念日』(俵万智 河出書房新社 1987年)が1987年に大ヒットした。俳句も同じポジションの人を探したが、その頃の若手女流の中心は片山由美子さんらで、黛まどかも角川俳句賞の奨励賞を取ったりしたが、結局“俵万智”は出ずに、結社の時代に入った。句集は売れたことがないゆえに、“俳句らしさとは何か”という議論が出ないままになってしまった。昭和の時代には句集に関する話は出てこない。消費の時代に入ったから、句集というモノが語られるようになった。句集がどういう風に読まれていくのかが分からない。こういうことの方が気になる。
福田:俳句の場合、自費出版が多いこともあってか、句集のかたちを決めるにあたって作者の裁量に委ねられるところが大きいということが言えると思うが、それでも、一般的に言って、本は一人で作るものではないという点に留意する必要がある。編集、版元、流通、装丁、そして、喩えでなしに読者が作る部分だってある……どこまでを僕らが語るべきなのか?
○「俳句らしさ」について
田島から「俳句らしさ」という言葉が出たことに宮﨑、鴇田が反応した。
宮﨑:「俳句らしさ」というと、私の俳句は「川柳や短歌のようだ」といわれる。でも私は私が俳句と思えばそうだと思っている。見た目で作品を規定したくはない。俳句をどう思っていて、どう書きたいか、それを支えるための編集ではないか。何かが主張として現れているというのは俳句じゃない。俳句と対峙した時に見えるものが自分らしさになってほしい。宮﨑の経験について、野口から「マウンティングみたいなものだ」という発言があった。田島はそこから話題を出版に至るまでの文化に広げた。
鴇田:俳句らしさは人それぞれ。僕の場合は、五七五が俳句だと思っている。いや、俳句とわざわざ言わなくてもいい。五七五をやっていると思っている。複数の句をどう見せそれがどう読まれるかは、一句一句を詠み、それがどう読まれるかということとは、違う部分がある。句集は作り方、つまり編集が大事。その人の句らしさ、はその編集の仕方からも伝わるだろう。もちろん、句集の中の一句一句が詠まれるここと、それはいつも連動しているけれど。
田島:マウンティングはそもそもある。関係性の話になってくることだから。句集も、「先生に評価されたものを提示する」文化。書きおろしが文化としてないのも、先生優先の文化があるから。他に「俳句では、加藤郁乎に、その名も当て字で『佳氣颪』(コーベブックス 1977年)というタイトルの、書き下ろしの句集がある。逆に言えば、それがひとつの特色になるぐらい、書き下ろしの句集というのは珍しいように思う。書き下ろしは川柳や短歌にはあるか」と福田から質問があった。八上・牛ともに基本的には「ない」という返答だったが、短歌では『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(木下龍也・岡野大嗣 ナナロク社 2017年)が挙げられた。川柳ではとあるテーマでまとめられたものはあるが、それは書きおろしではないということだった。
宮本:マウンティングの関係では、そもそも「句集を出すのに順番がある」という雰囲気がある。句集を出せばたとえば俳句協会の新人賞の対象になりもするから。しかし、こういう結社内・結社間の話だけで納められないものが多くあるのでは。
福田:「俳句らしさ」とは何かという問いかけは本質的じゃないと思う。このぼんやりしたもの、みおぼえのあるものに、「抗う」ということに、宮﨑の問いかけの核心があるように思う。たとえば、「タンクローリー」を題に一句を書くとする。厳格な有季定型の立場をとるなら、この七音に加えて、取り合わせる季題にも音数を取られるわけで、付け加えられる言葉はほとんどなくなる。必然的に、取り合わせの妙で勝負をせざるをえない。無季の立場をとるなら、一物仕立ての句も可能になるだろうし、季題に費やされたはずの音数が余る。その音数は、何かほかに費やすか、そうでないなら、音数そのものを減らさざるをえない。このように、形式というのは、ある点を変えれば、他の点も自ずから違ってくるもので、諸要素が相互に複雑に絡み合っている。ある点を新しくしようとすれば、他の点も自ずから変化する。だから、俳句らしさに抗うというのは、本当は、明確な一点のもとでの抗いではありえない。たとえば、句集の組み方を縦組みから横組みにした場合、文字のかたちがそうなっている(樫本注:ひらがなは横書きにしたとき、連綿が起こりにくい)がゆえに、「の」で切れる型の俳句をすこし作りやすくなるということがあるかもしれない。つまり、字の組み方を変えるという選択が、おのずから、書かれる句の切れ字にまで思わぬ変化をきたすということ。こうした変化は、作者の意図しないところで無数に起こる。
また、俳句、短歌、川柳すべてに言えることであるが、賞や結社への投稿を考えると、一冊全て書き下ろす行為は、もったいないという考えもあるのではないかということが確認された。
ここまでで二時間。あとの一時間はフロアからの質問の時間となった。
①「オルガン」11号の座談会で宮本さんが「私の『自生地』になっていく」と発言されたようなことについて、句集を読むことそのものの快楽を聞きたい。また、句集を出したことで出会えた読み手、嬉しかった経験などはあるか。
宮本:「私の~」の発言は愛着という意味。本になり、紙になることで、開き癖がついたり、時間的にも物質的にも所有することができる。自分から本に近づくことができる。句集を出して良かったことは、自分の知らない読者に届くこと。一冊となることで作者としての顔を示しやすくなること。ここで田島から、「さっき、俳句は消費の文化に入ってしまったと言ったが、俳句の消費は“作る”ことだと思う。短歌はどうか」と牛に対して質問があった。
田島:「〈西日暮里から稲妻見えている健康〉という句があるが、それを「自分のことです!」といった人がいた。そんなことは全くないのだが(笑)、その人に句が実体化することがあるというのが面白かった。
福田:句集を出した側からは、読み手の顔はそれについて語ってくれる人以外基本的には見えないことを一つ言っておきたい。Twitterで、ディスレクシア(識字困難)の子供に家族の方が『自生地』を薦めたら、「どハマリ」したというツイートがあった。それを聞いた時、この句集をこのかたちで出すことができてよかったと思った。
鴇田:第二句集『凧と円柱』は、句の並べ方を工夫した。連作風に数句を並べ、それに一つ一つタイトルが付いているというのを基本形にして、そのうえで本全体を三つの大きな章に分けた。だから、冒頭の目次には、たくさんの短いタイトルが詩みたいに、だーっ、と並んでいる。そのあたりを、面白い、と言ってくれた人がいて、それはよかった。もちろん、一句一句を読んでもらえて、それぞれの句について感想をもらえるのは、嬉しいに決まっているが、本を作ったからこそ、そういう編集や、組みの部分に感想を言ってもらえると嬉しい。そういえば、第一句集は、本を持った手触りがいいと言われた。表紙の加工は、自分で選んでそうしていたので、それを言ってもらえたのはよかった。
野口:版元が送った、知らない人から反応がきて驚いた。
八上:いろんな人から感想を貰ったこと。句集を出すと今までを振り返って何をどう書いたかが分かる。尻尾を切り離したような気持ち。
牛:短歌に純粋読者かどうかみたいな区別は要らないと思う。
田島:俳句に穂村弘や枡野浩一がいないのはなぜか。自分としては、虚子がいて、虚子がいたから結局みんな彼に戻ってしまったことがあると思う。短歌は、歌壇が俵万智や穂村弘も「短歌ですよ」みたいな顔をする。それはなぜかというと、売れているからでは。
②そもそもなぜ句集を出したのか
八上:どうせ出しても反応はないと思っていた。葉ね文庫さんでの「葉ねのかべ」(樫本注:葉ね文庫の壁面を利用して行われる、詩歌×アートの作品発表プロジェクト)で、「句集ないの?」と言われて出そうと思った。句集を出さないと一人前じゃない、みたいな言葉からは、子供を産まないと、と同じような印象を受けていた。
牛:歌集を出していないのは、歌人でありながら短歌の部外者でもありたいから。結社無所属、歌集を出さない、新人賞に出さないことをスタンスにしている。
野口:句会などではできるだけテクニカルタームを出さずに話したいと思っている。しかし、「句集にあったら○○だね」と言ってしまうことがあって、それなら句集を出さないといけないだろうと。
鴇田:僕の場合は、第一句集でも、第二句集でも、今出そう、と思えるタイミングがあった。自分がこれまでにやってきたことを一回まとめておこう、ということを急に思い始めるタイミングというのがある。自分の句のやり方や形が定まってきて、ある程度やり尽くした。で、このままいくと形が固まりすぎて、自己模倣の停滞へ陥ってしまう。だから自分を一回、本で客観視して、次に行こう、そういうタイミングだと思う。
福田:個人句集を出そうという考えを持ったのは、『俳コレ』(邑書林 2012年)の時に自作がまとめて掲載されたのがきっかけ。いつ第一句集を出すかとは考えていて、でも、ずっと現実的な問題があると感じていた。縁があって、そこからはあっけないくらいとんとん拍子に行ってしまった。
宮﨑:出すときがあれば出す。試したいことはある。句集を出すことによって作家像を規定されたくはない。
田島:俳句史的な位置取りは知らないつもり。家族に勧められたから「みんながいいなら……」と結婚式と同じような感じで出した。
宮本:2012年に現代俳句協会青年部で「句集のゆくえ」という勉強会を開催した。そのときに、山田耕司さんが「たまっちゃったから出した」と仰っていたのが印象的だった。句集出版について改めて考える機会となり、若手の句集を出す企画が現俳協で立ち上がったときに、現俳協の多大な協力を得て出版することができた。
③なぜ句集という媒体なのか。纏めて読んでもらうなら、100句でも200句でも、電子書籍やメールマガジンでもいいように思う。「紙の意義」を知りたい。
田島:電子は読まれない。所有するという感覚が、さっきも愛着という話が出たが、大事なのでは。というか、別に句集もそんなに読まれてはない。大事なのは作者が何を書こうとしているのかというところと、何を書いたのかというところ。句集は書かれたもの以上にはならない。
福田:情報として句を伝えるのであればネットでいいが、それ以上のものを届けたいと思うときに、句集を本として出すことに意義が生まれるのではないか。
鴇田:持つことができて、ページを繰ることができるということ。身の周りにある皿とか、電気スタンドとかと対等に、一つの手に触れられる物としてある、っていうことが大事だと思う。単なるデータとしてでなく、読んでもらえる感じがする。
野口:ネットは情報量が膨大で編集がいまいち追いついていない。故人のFacebookがまだあったりするのには違和感がある。
牛:ネットは消せてしまう。なかったことにできる。ただ、最近の発達を見ていると、手書きでiPad上に書けたりもして、紙と電子区別なくできるようになるのではと思う。
④句集は売れない。書店で売ることについて作者はどう思うか。
⑤「新鋭短歌シリーズ」など、短歌は棚で映える。俳句はそこをどう思うか、売られるときのことを考えたりはするか。
田島:大事なのは何を書こうとしているのか。ここを書店にもアピールしてほしいが、本当か総合誌がやればいいこと。売れないからできないというのが……。ここで時間となった。
福田:発信についての質問だと思う。売る、という言葉だと議論が卑近になってしまうと思う。むしろ、市販という言葉の、とりわけ“市”の字の意味を考えることに意義があると感じる。“市”というのは、多様なひとびとが行き交う空間。句集を市販するというのは、その多様なひとびとに向かってそれを投げ出すということ。まちがって届くということに、句集を市販することの可能性はあると思う。書店は、そこを支えてくれている。
「オルガン」メンバー含めて総勢8名が、それぞれの言葉を拾いながらの対話だったので、話題は常に転換・拡張した。句集について、何か一つに対して集中的に議論があったというわけではないので、話題を取り上げる一助となればと思い、フロアからの質問について付け加えておく。実はフロアからの発言の一つ目、読むことの快楽、出会えて嬉しかった読み手についての質問は筆者によるものだ。
週刊俳句に掲載された、「遺句集じゃダメなんですか 現代俳句協会青年部勉強会「句集のゆくえ」雑感」(週刊俳句 第257号2012年3月)で、西原天気氏が、関悦史氏の「ひとりでも奨めてくれる人、自分の句集が読みたいという人がいれば、出すべき」という発言を受けて、「これはこれで説得力があった。ひとりの人の「読みたい」という欲望にできるかぎり応えるという態度は、「句集なんて出さないよ」と粋がるよりも、はるかに心優しく、きよらかで、少なくも自分中心ではない」と述べたことや、「個人句集の300句を読めば、それは300の句を経験するという以上に(あるいは同時に)、句と作者の直接的/間接的関係を300句ぶん経験することだ。一句一句の俳句を楽しむのとは、また別の、格別の句集の楽しみがある」と示唆したような、「誰かの〈読む〉欲望と関係を結」ぶことについての発言を期待してのものだった。「オルガン」のメンバーが、書き手としては非常に強い意識のもとで俳句や句集に関わっていることは勉強会の中でも、あるいはそれ以前の活動を見ていてもわかる。前半の対話の中で、すでに宮﨑からは見た目レベルの編集で、それがなにか俳句を規定する/されることになるのは避けたい、という旨の発言も出ていた。一方、田島からはブックデザインの話は「俺たちの仕事じゃない」とし、句集がどう読まれていくのかということを考えるほうに興味があるという趣旨の話もあった。
筆者は、となれば、パネラーのうちすでに句集を出した7人は、どのような「読まれる」経験をし、その中で特に何を喜びとしたのかということを聞きたかったのである。筆者としては、「オルガン」メンバーは、読者側に高次の読解能力であったり、書き手の編集の苦心をくみ取ったりできることを要求する思いがあったのではないかと考えていた。「出会えた読み手」というくくりが甘かったかとも思うが、結果的にこの質問には、鴇田だけが句集を作るときにある種の“スキル”が必要な目次づくりや紙の選定を“読まれた”ことを挙げた。
これは本当に意外だった。筆者は句集を出したことがないし、連作を誰かに読まれるという経験もわずかしかない。しかし、その僅かな経験のなかで、連作を表面的・内面的に(それを筆者自身が意図していたかは別として)読み明かされたときの喜びは鮮烈だったからだ。快感といってもいい。だから、句集を読み明かされることの経験があれば、それを一番に挙げるのでは、と思っていた。想定していた回答は出てこなかったわけだが、かえって、句集が結ぶ書き手と読み手の関係を思わされた。読み手は「〈読む〉欲望」を潜在的に持ち、あるいは句集を読むことでさらなる「〈読む〉欲望」を引き出される。そして書き手は欲望を原動力としたさらなる読みによって照らされることがあるはずだ。もちろん、意外な人まで届いた、想定しなかった人がかけがえのない経験をしてくれた、という出会いの体験は、読む/読まれるの経験と優劣がつくものではないが、筆者には、句集を出すことの喜びが出会いで終わるとは思えないのである。
「句集はどこへゆくのか」という問いの一つの答えは「読者のもとへゆく」だろう。田島からこの読者や句集を読むことについての示唆があったことが、この勉強会の大きな収穫だと感じている。
2014-08-31
第136回現代俳句協会青年部勉強会〔俳句の科学 子規「俳句分類」について〕のお知らせ
第136回現代俳句協会青年部勉強会
俳句の科学 子規「俳句分類」について
正岡子規の「俳句分類」は、その晩年まで続けられ、約十年の間に十二万を超える近世の句を収集・分類している。単純計算では、一ヶ月あたり平均一千句を分類し続けたことになるのだ。この間、子規は重篤な病床の人となったことを考えれば、これはおそるべき数字だといえるだろう。巷間知られる子規の病状を考えれば、そのペースは尋常ではない。普通なら、その子規の情熱について思いをめぐらせるべきかもしれない。が、私は逆に、なぜ子規が俳句の分類をやめられなかったのかにひっかかるのだ。子規はいったい、何をやろうとしていたのだろう。子規の文学=科学について改めて考えてみたい。
●基調報告 橋本 直
【日時】2014年9月27日(土)13時40分~16時40分(予定)
※終了後懇親会を予定しています。
【会場】国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟小研修室3A(三階)
〒151-0052 東京都渋谷区代々木神園町3-1
TEL 03-3469-2525
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d6-1.html
【参加費】500円
【定員】20名(受付順)
●お申し込み、お問い合わせ: 現代俳句協会青年部
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
〔E-mail〕genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
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2014-05-04
第134回現代俳句協会青年部勉強会 俳句と住まい 根岸の里の侘び住まいをリノベーションする
第134回現代俳句協会青年部勉強会
俳句と住まい
根岸の里の侘び住まいをリノベーションする
芭蕉や山頭火の例を出すまでもなく、俳句という文芸は「旅」とセットで語られることが多いものです。そして兜太の「定住漂泊」という言葉を思い起こさなくとも「旅」と「住まい」は表裏一体であり、一日の生活様式、四季の過ごし方、人生の苦楽、それらはすべて住まいとともにあります。
今回の勉強会では、住まいを軸に俳句に詠み込まれた暮らしに思いを寄せ、日常生活と表現行為の関わりを考え、現代における生活の変化がどのように詠まれたかについて検討したいと思います。また、大災害によって住まいが奪われたとき、どのような表現行為が可能となり、また不可能となるのか。非日常の表現もまた、日常の生活に支えられていることを忘れてはならないでしょう。
当日は、住まいをモチーフとした作品や、俳人と住まいの関わりについてサンプルをとりあげ議論します。また、標準的な「間取り」を逸脱した最新の住宅づくりの実例をご紹介する予定です。
●基調報告 中村安伸
●日 時 5月24日(土)13時30分~16時30分(予定)
※終了後懇親会を予定しています。
●会 場 池袋勤労福祉会館 第四会議室
(〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-37-4 電話 03-3980-3131)
●会 費 500円
●定 員 30名(申し込み先着順)
●お申し込み、お問い合わせ先 現代俳句協会青年部
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
<E-mail>genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
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2014-02-09
第134回現代俳句協会青年部勉強会 変態俳句 異常ないし病的であること
第134回現代俳句協会青年部勉強会
変態俳句 異常ないし病的であること
何を普通・正常・健常と見做すかが時代・文化・集団によって異なるように、何を普通でない・異常・病的に見做すか、つまり、何を「変態」と見做すかも時代、文化、集団の所産である。「変態」は非常に狭い意味では性と結び付けられやすいが、ここで言う「変態俳句」は、破礼句や性的倒錯の句に限定されない、内容、句材、感性、型、語彙、言い回し、表記等、何かしらの点で普通でない、異常、病的などの特徴が認められる俳句と考える。奇想、異端、前衛、禁忌といった要素が多分に含まれていよう。
今回は、松本てふこ、堀田季何の2名が、変態だ、変態ではない、どこが変態なのだ、なぜ変態なのか、変態俳句として作られたのか、変態俳句として価値があるのか、俳句が変態でも作者が変態でない、何々の変態の歴史的薀蓄、変態俳句は句会で取るべきか、などなど……大いに、真面目に、熱っぽく語る予定である。また、Web上のアンケートで募った変態俳句から、ベスト変態俳句を選ぶ毒舌選考会も開催予定! 乞うご期待!
■ゲスト 松本てふこ
■基調報告・進行 堀田季何
■第一部
変態俳句って何だろう
変態俳句の種類(バリエーション)と境界(バウンダリー)
■第二部
変態俳句に対する認識―公募した変態俳句を毒舌鑑賞
ベスト変態俳句選考会
変態俳句の可能性withフリーディスカッション
※アンケートに応募された方でなくても勉強会に参加できます。
※終了後懇親会を予定しています。
■日 時 3月16日(日)13時30分~16時30分(予定)
■会 場 池袋勤労福祉会館 第四会議室
(〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-37-4 電話 03-3980-3131)
■参加費:500円
■定 員:30名(受付順)
■お申し込み、お問い合わせ: 現代俳句協会青年部
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
<E-mail>genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
変態俳句アンケートご協力のお願い
あなたが「変態俳句」と思う俳句を一句、下記要項で青年部宛にお送りください(自作他作、未発表既発表不問)。当日の資料とさせていただきます。また、結果は青年部のブログに掲載する予定です。
要項
■変態俳句 1句
■作者名
■出典
■そう思う理由(100字程度でお願いします)
■あなたのお名前(匿名の場合はBNやペンネームなどを)
■〆切 2月末日
■送り先 genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
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2013-11-03
現俳協青年部勉強会「水原秋櫻子の系譜―文学芸術としての俳句」(11/23)のお知らせ
第133回現代俳句協会青年部勉強会
水原秋櫻子の系譜―文学芸術としての俳句
秋桜子の残した仕事をひと言で言えば、虚子の専心する客観写生や花鳥諷詠の「俳句」とは違う「俳句」を探究する水脈を拓いたということになるでしょうか。今回は、その中から四人の作家達を取り上げ、そこにはぐくまれた俳句の諸相を見てゆきたいと思います。
第一部
基調報告 水原秋櫻子概説&山口草堂 橋本 直
高屋窓秋 鴇田智哉
馬場移公子 宮本佳世乃
鷲谷七菜子 田中亜美
第二部 フリーディスカッション
総合司会 堀田季何
※終了後懇親会を予定しています。
日 時 11月23日(土祝)13時30分~16時30分(予定)
会 場 高円寺北区民集会所(和室です)(JR中央線高円寺駅 徒歩6分)
〒166-0002 高円寺北3丁目25番9号
※場所がわかりにくい方は高円寺駅で合流の予定です。
詳細は下記青年部のブログにて告知します。
http://genhai-seinenbu.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html
参加費:500円
定 員:30名(受付順)
お申し込み、お問い合わせ: 現代俳句協会青年部
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
<E-mail>genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
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2013-08-18
「俳句ヴァーサス 第2回 視覚vs聴覚」レポート 感覚をあやつる 今泉礼奈
「俳句ヴァーサス 第2回 視覚vs聴覚」レポート
感覚をあやつる
今泉礼奈
第132回現代俳句協会青年部勉強会「俳句ヴァーサス 第2回 視覚vs聴覚」
2013年8月3日(土)13時30分/於・池袋勤労福祉会館
パネリストは視覚側に九堂夜想さんと小山森生さん、聴覚側に四ッ谷龍さんと関悦史さん、司会は田島健一さん。
まず、司会の田島さんも含め、皆さんが感じていた前提として、視覚や聴覚といった感覚は完全に切り離して考えることができない。そもそも、ヴァーサスにできるものではないということです。
「写生」の句(この勉強会では「写生」は禁止用語であり、どうしても使わざるを得ないときは写ピーということになっていましたが…)は、視覚的な俳句、つまり視覚からつくられる俳句であるといえると思います。ただ、読者に映像としてイメージさせるだけの俳句は少なくとも秀句ではない。また、聴覚に限らず、視覚以外の感覚も刺激されるべきであり、そうでなければ、よりリアルな映像は立ち上がらない、と思うのです。それは聴覚からつくられる俳句でも然り。
水仙の跫音水仙は聴けり 宗田安正
実際には聞こえない「水仙の跫音」を私たちは聴覚を頼りにたどろうとする。しかし、それは水仙のイメージがあってこそのもの。この句は、関さんから、「音がたつことによってひとつのイメージが立ち上がる」俳句の一例として取り上げられていました。
しかし、わたしは、四ッ谷さんの「クロスモーダルな句」についてのお話を聞いて、俳句という形式を利用すれば、その感覚を切り離すことも、無理矢理にくっつけることもできるかもしれない、とも感じたのです。クロスモーダルとは、感覚をまたがること、らしいです。
蛋白石(オパール)の中なる水もぬるむなり 関悦史
オパールの中にある水に実際に触れることはできない。しかし、実際に触れているかのように「水もぬるむ」がはたらき、確かな皮膚感覚を読者に与える。視覚を触覚であらわした俳句、つまりクロスモーダルな句といえるでしょう。
敷石をしろがねとしぬ落葉掻 斉木直哉
天網は冬の菫の匂かな 飯島晴子
これらもクロスモーダルな句といえるとのこと。わたしは「感覚を無理矢理にくっつけている」といってしまいましたが、その乱暴さに魅力を感じたのです。
四ッ谷さんは強く主張されていませんでしたが、クロスモーダルな句に対立するものとして紹介された「同一モーダルな句」も、わたしにはかなり新しく感じました。
たんぽぽの黄が目に残り障子に黄 高浜虚子
蛇逃げて我を見し眼の草に残る 同
目が痛くなってしまうほどの映像、というより残像。視覚以外の感覚をはたらかせることを忘れてしまいます。
感覚ってこんなにも自由自在に操れるものだっけ、と、これらの俳句を並べられてみて思いました。作者も読者も無意識的に感覚をはたらかせて、俳句をつくり、読んでいるのだけれど、エクリチュールとしての俳句は、ひとりでに、その感覚を自由に操作しているようにもみえます。
自分の俳句が、自分とははなれたところに行ってしまうのも、それはそれでよいのかもしれない、とわたしは思っているのです。
●
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2013-07-21
第132回現代俳句協会青年部勉強会のお知らせ 俳句ヴァーサス第2回 視覚vs聴覚
第132回現代俳句協会青年部勉強会
俳句ヴァーサス第2回 視覚vs聴覚
俳句に関する二項の対で対論する新企画の第二回。今回のテーマは「視覚vs聴覚」です。わたしたちはいま、従来のメディアをはるかに超え、インターネット、 なかでも、いわゆるソーシャルメディアによって、膨大な視覚・聴覚情報に囲まれています。現代に置いて明らかに突出したこの二つの感覚について、あらためて議論の俎上にのせてみたいと思います。
視覚 九堂夜想氏 小山森生(青年部)
vs
聴覚 四ッ谷龍氏 関悦史氏
司会 田島健一(青年部)
●日時 8月3日(土)13時30分~16時30分(予定)
●会場 池袋勤労福祉会館第三・第四会議室
●会費 1,000円
●お申し込み、お問い合わせ
現代俳句協会青年部E-mail:genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
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2013-04-07
第131回現代俳句協会青年部勉強会のお知らせ 新企画 俳句ヴァーサス 第1回 地方vs都市
第131回現代俳句協会青年部勉強会
新企画 俳句ヴァーサス 第1回 地方vs都市
今回から、俳句に関する対立する二項の問いを立て、対論する形で進める新企画をはじめます。第1回のテーマは「地方と都市」。俳句における地方と都市の問題は、媒介としての郊外も含め、作品論、作家論、風土論などの近代文学のタームで論じられるだけではなく、ポストコロニアルやカルチュラルスタディーズ的視座、あるいは近時の震災詠など、多様な問題系をはらんでいるはずです。
地方 堀本裕樹 神野紗希 vs 都市 福田若之 堀田季何
司会 田中亜美
●日時 5月19日(日)13時30分~16時30分
●会場 コア・池袋(豊島区民センター)
〒170-0013 東京都豊島区東池袋1-20-10
Tel 03-3984-7601
●会費 1,000円
●お申し込み、お問い合わせ 現代俳句協会青年部
E-mail:genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
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2013-02-24
三句集合同批評会のお知らせ
第130回現代俳句協会青年部勉強会
三句集合同批評会のお知らせ
今回は、昨年刊行された若手協会員の句集から、三作品の批評会を行います。ぜひご参加下さい。青年部では、今後とも継続して句集の批評会を行っていきます。
【今回取り上げる句集】
大石雄鬼「だぶだぶの服」 評者 鴇田智哉氏
神野紗希「光まみれの蜂」 評者 榮猿丸氏
宮本佳世乃「鳥飛ぶ仕組み」 評者 関悦史氏
●日時:平成25年3月17日(日)午後13時30分~17時30分(予定)
●会場:ルノアール新宿区役所横店マイスペース5号室
●会費:1,500円(ワンドリンク付き)
●定員:30名(先着順)
●お申し込み、お問い合わせ
現代俳句協会青年部E-mail:genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
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青年部機関誌『In Situ (イン サイトゥー)』 第二号「特集 俳句と教育」
2013年2月26日発売予定
橋本 直 教科書に俳句が載るということ
小山森生 リバティ・アーツとしての俳句
言葉との健やかな距離感について
田島健一 教えたがる俳句
堀田季何 日本の教育の外から
中村安伸 わからない俳句難解俳句を教えるということ
宮本佳世乃 俳句の教え方教師用指導書を読む
内藤独楽 義務教育に対する俳人協会のアプローチ
座談会「俳句と教科書」 藺草慶子・外山一機・高野ムツオ 司会 神野紗希
資料 「教科書に載せたい俳句」アンケート
資料 現行教科書に掲載された俳句一覧
定価 1,000円+税
お申し込み・お問い合わせは insitu201112@gmail.com
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2012-12-16
第129回現代俳句協会青年部勉強会 四ッ谷龍講演会 俳句は音韻をどう利用してきたか
第129回現代俳句協会青年部勉強会
四ッ谷龍講演会
俳句は音韻をどう利用してきたか
静塔・虚子・誓子・草田男をコンピュータ解析する
鶏頭はなぜ「十四五本」なのか? 大根の葉はなぜ「早く」流れるのか?
音韻という側面からこれらの句を見ると、従来の解釈とはまったく違った理解が見えてきます。大量の俳句をコンピュータ解析することで、俳句の中にはどのような音の形が隠れていたかがくっきりと浮かび上がります。スライドや音楽を使用して、俳句の音韻とはどのようなものかをわかりやすく説明する、これまでの俳句の解釈法を根底から問い直す新研究です。2012年9月に宇都宮で行われ、大好評を博した講演を、その後の成果を加えて再演します。
■日 時 平成25年1月26日(土)18時30分~21時(予定)
■会 場 豊島区立舞台芸術交流センター あうるすぽっと会議室B
170-0013 東京都豊島区東池袋4-5-2 ライズアリーナビル3F
TEL.03-5391-0751
■参加費 1,500円(学生1,000円)
■お申し込み、お問い合わせなどは、現代俳句協会青年部まで
(お申し込みは、Eメール・FAX・はがきでお願いいたします)
E-mail:genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191(当日のお問合せは不可)
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2012-06-24
第127回現代俳句協会青年部勉強会 素十の主観というピース/「客観写生」というパズル
第127回現代俳句協会青年部勉強会のお知らせ
素十の主観というピース/「客観写生」というパズル
虚子の「客観写生」の代表作家として、高野素十は現在においても一定の評価を得ているといえるだろう。一方で、かつて同時代に水原秋櫻子が〈甘草の芽のとびとびのひとならび〉に対し、「無味乾燥な科学的描写にすぎない」と厳しく批判したように、無感動俳句・瑣末主義というような批判が同時進行で行われてもきた。今回の勉強会では、歴史的には評価が二分されていると見える高野素十の句に対し再検証を行なうと共に、俳句において「客観写生」とはどのようなものなのかについて討議してみたいと思う。
■第一部 基調報告:内藤独楽
■第二部 ディスカッション
■日 時 平成24年7月22日(日) 12時30分~16時(予定)
■会 場 小石川後楽園涵徳亭 別間
■参加費 500円
■定 員 20名(受付順)
お申し込み、お問い合わせなどは現代俳句協会青年部まで
(お申し込みは、メール・FAX・はがきでお願いいたします)
<E-mail>genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191(当日のお問合せは不可)
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2012-03-25
現代俳句協会青年部勉強会「句集のゆくえ」雑感 西原天気
遺句集じゃダメなんですか
現代俳句協会青年部勉強会「句集のゆくえ」雑感
西原天気
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「え? いまのボクでもカドカワから句集が出せるんですか? オカネさえ払えば」と、24歳の若者が訊くので、びっくりした。
自費出版とは、まさにそういう意味だと思うが?
じゃあ何か? カドカワには、クオリティやらキャリアについて審査のハードルのようなものがあって、ふらんす堂や邑書林ほかにはそれがないとでも言うのか?
違うと思う。
句と資金さえあれば、句集は出る。逆にいえば、句集を出すには、句も必要だが、資金が必要だ。
ついでにいえば、句はあっても、資金がない、あるいはそんなことに自分のカネを使う気がなければ、句集は出ない。
というわけで、現代俳句協会青年部勉強会「句集のゆくえ」に出かけ、話を聞いてきた、そのことをここで書くわけですが、話の流れというだけの理由で、まずは、制作費の話。
1
第2部のパネリストは最近句集を出された山田耕司さん(句集『大風呂敷』)、関悦史さん(句集『60億本の回転する曲がった棒)、中本真人さん(句集『庭燎』)のお三方。制作費をかなりの部分、包み隠さず公表された。出版に到る経過・形態などは三者三様なのだが、共通していたのは、一般に思われるよりもかなり安価。
歌人の田中槐さんのブログにもこうある。
(…)三人ともかなり相場よりは安い金額で出せているようで、まあ、どこにも抜け道があるということなのか。
http://ameblo.jp/katamaritamashii/entry-11200525419.html
金額をここで私から申し上げることはしないが、このお三方のケースと歌集の相場とは、スズキアルトとトヨタカローラくらいの差(いずれも下位モデル。為念)がある。ほぼ倍の開き(当然ながら造本やページ数・部数によって費用は違う)。
ただ、「どこにも抜け道があるということなのか」という部分は、ちょっと違っていて、抜け道などはなくて、紙代・印刷代・製本代の合計の相場がだいたいあって、そこに出版社の粗利を乗せても、ほぼスズキアルト並みに収まるはず。
(ここで、歌人=富裕層、俳人=貧困層というまとめ方はまちがっている。偶然だからしかたがないが、パネリスト3名のケースが低い水準に偏ってしまった。カローラくらい費用のかかる句集はざらにある)
(ちなみに私も昨年10月、自費出版で句集を出した。176頁・500部。かかった費用は、アルトとカローラの間で、アルトに近い、であった)
2
オカネの話は実際のところ多くの人の関心事だと思うが、そればかりだと少々下品だから、話題を変えよう。
第1部は、橋本直、中村安伸、宮本佳世乃3氏の話。
橋本直氏は、個人の自選による句集(現在の形態に近い)の発生を明治期に遡り、歌集・詩集と比べて10年以上遅れていたことを指摘。個人句集を重視しない心性・環境が江戸以来あったことが大きな理由ではないかと推論。「文台おろせば則反古」(芭蕉)が連句の伝統。今で言えば「作り捨て」を粋とする伝統が俳句にはあるのかもしれない。
これは美しい伝統です。
自分の作品!作品!と気張りまくり、それが後世にどう残っていくのか、なんて大仰なことを考え、それに腐心するのは、どう見たって「俳句的」ではなく、あまり格好のよいものではない。
3
現在多く刊行される「自選句集」の「自選」という部分には、但し書きが要る。結社所属の場合、第一句集は師(主宰)の選を仰ぐのが原則らしい。
そういえば、ページのはじめのほうに、師(主宰)による「まえがき」的な一文が入る句集をよく目にする。忖度するに、この一文は(とりわけ第一句集の場合)、「この句集の作者は、どこの馬の骨ともわからない輩ではなく、初心者でもない」という意味だ。保証のようなものだろう。「私ンとこで一所懸命俳句の勉強に励み、他人様に見せても恥ずかしくない句がある程度溜まったので、このたび第一句集を上梓することと相成った。ひとつよろしく」というわけ。
ちなみに私は、この「まえがき」は読まない、飛ばす(一冊を読み終えてから読むことはあるが)。読者である私は、句集(そこに収められた句)と出会いたいのであり、いくらエラい先生とはいえ、自分とは別の読者の「解説」や「選句」を、句集を読む前に読む気には、ぜんぜんなれない(句集の最後の位置にしませんか、あれ)。
ついでに言えば、師(主宰)による選句と寄稿への謝礼は、ケースによって結社によって、また支払う側の意識や事情によって、そうとう大きな差があることも、この「勉強会」(含:二次会)でわかった。
具体的な金額はここで申し上げないが、八王子駅からバス10分・木造6畳+1K・ユニットバスと下北沢駅徒歩8分・4LDKマンションくらい、差がある。
後者の場合は、なかなか大変だ。不動産屋とちがって、結社に入るときは、そんな数字はどこにも書いてないから。
って、また、オカネの話に戻っとる。
4
中村安伸氏は、電子書籍による句集出版を取り上げ、そのメリットを製作・流通コストの削減、余剰在庫・絶版の回避、紙媒体の限界にとらわれない表現、デメリットを、機器の必要、複製の不可避とまとめ、場合によっては、メリット・デメリットが逆転すると指摘。つまり、例えば、製作が容易であることが「読まれること」を阻みもする(「苦労して作った句集だから読んでやろうじゃないか」という紙の句集への労りとは逆の心理)。また、複製を防ぎにくいという特徴は、「多くの人に読んでもらいたい」作者にはメリットとして働く。
ちなみに人名句集「チャーリーさん」という本を紙と電子の両方でつくった経験から言うと、電子書籍にオカネを払ってまで読む人は少ない(それが数百円と安価でも)。
電子書籍については、関悦史氏に示唆深い発言があった。曰く、既存の権威が句集と認めれば、電子句集は定着する。逆にいえば、そうならないうちは一般の句集とは同列に論じられない。俳句総合誌に電子句集の書評が載るようになれば(現時点では見たことがない)、あるいは例えば田中裕明賞の対象が電子句集にまで広がれば(現時点ではそうではないと思う)、句集の電子出版を取り巻く状況は一変するだろう。たしかに。
5
宮本佳世乃氏の「いま句集とは?」の報告では、中村安伸氏の一文「句集を作っていない者は俳人としてまだ生まれていない」を出発点にしたせいで、やや茫洋と、またロマンチックになりすぎた。この一文のあとに「そのように考えることは私にとってたいそう魅力的である」と続くからには、この把握がやや夢想的なのであり、実際には、句集を出そうが出そまいが、俳人は俳人なのだ(自称他称にかかわらず)。同時に、句集が出たからといって、一人前になるわけでも、扱われるわけでもないと思う。
宮本氏の報告で興味深かったのは、句集を対象にした賞が年間29を数えるという部分。どう調べ、どうカウントしたか詳細は聞き漏らしたが、ほんとうだろうか。この「29」という厖大な数字は。
句集が毎年たくさん出ているのは知っている。500点か1000点か。わからない。だとしても、29という数字は驚きべき多さだと思う。
余談、また二次会で仕入れた情報だが、よく知られる蛇笏賞をもじって「イグ蛇笏賞」を設けてはどうかとうアイデアは笑えた(「イグ」の意味がわからない方は、イグノーベル賞:wikipediaを参照)。
6
全体の感想を言うと、第1部の報告、第2部のディスカッションを通して、句集を出す側の事情に焦点が当たりすぎて、「読まれること」を含めた事象として全体への言及が少なかったように思う。個別ケースの具体的な事情が伝わる面白さはあったものの(例:はじめに触れた制作費の話など)、それはあくまで個別。
何を思い、どう考えて、どんな句集を出すかは、作者個別の問題だ。そこにユニークネスを求める方向、ユニークネスの可能性を探る方向でもいいが、それならそれで、旧来の制度と比較する必要もあろう。結社から出てくる句集にまつわる制度的な側面を押さえておく必要がある。
句集の存在がどのように知られ(あるいは知られず)、どう読まれるのか(あるいは読まれないのか)、欲を言えば、句集というイベント/慣習/制度を、流通・消費を含めて動的に捉える視点があってよいのではないか。
あるいは、逆に、「句集」と大きく網を打つのではなく、また「ゆくえ」とロマンチックに未来を見晴るかすのではなく、自費出版が生まれる契機だけに絞る手もある。
7
句集を出そうと思い立つ契機については、パネリストの3氏がそれぞれ触れた。山田耕司氏がそこに「遺句集」という選択肢を含めたことが、私の心に残った。
俳人のほとんどは、句集を出すことを既定のこととしているように見える。とりわけ、あの日の勉強会に集まるような人は、過去に句集を出し、近い未来に句集を出すことを、ほぼ当然視している。
遺句集じゃダメなんですか?
もう句集を出してしまった私がこんなことを言うのはおかしいかもしれないが。
私が「遺句集」を選択しなかったのは、死んだとき、誰かが出してくれそうな気がしないし、出してくれたらくれたらで、その人に迷惑がかかる。死んでまで迷惑はかけたくない。だから、自分でひとまず出しておこうという発想は、たしかにあった(大きな部分ではないかもしれないが)。
でもね、遺句集どころか、句集のない俳人だって、いいじゃないですか。
(私自身、句集を出しておいて、こんなことを言うのは、おかしいですか?)
人に向かって、句集は「あったほうがいい」と、考えもなしにいう気にはなれない。
なくたっていい。
8
関悦史氏は、「ひとりでも奨めてくれる人、自分の句集が読みたいという人がいれば、出すべき」と発言。これはこれで説得力があった。ひとりの人の「読みたい」という欲望にできるかぎり応えるという態度は、「句集なんて出さないよ」と粋がるよりも、はるかに心優しく、きよらかで、少なくも自分中心ではない。
だが、この「読み手の欲望」というもの、数多く出版される句集において、果たして強く意識されているのだろうか。これは「読まれたい」「読んでもらいたい」という作者の欲望とは、言うまでもなく別物だ。
関氏は、誰かの句を一句読むのと、句集で300句を読んだのちに、その一句を読むのとでは、〈読み〉が明らかに変化すると述べた。それは「作者」の社会的背景や師系を知るといったこととはまったく無関係に、300句のいわば〈読み〉の重ね合わせがもたらす〈読み〉のことがいわれている。
何も特別のことではない。句集を読むことは、集合的(コレクティブ)に読むことだ。個人句集の300句を読めば、それは300の句を経験するという以上に(あるいは同時に)、句と作者の直接的/間接的関係を300句ぶん経験することだ。一句一句の俳句を楽しむのとは、また別の、格別の句集の楽しみがある。
関氏が、句集を出した人(読まれる人)としてディスカッションに招かれながら、句集を読む人として語ってしまうことは、私たちにとって「光」のようなものだ。〈読む〉欲望は存在すると信じるうえで。
9
誰かの〈読む〉欲望と関係を結べるような句集であれば、その句集は幸せだと思う。なんとなく。
〈読む〉欲望があらかじめ存在すると限らなくてもよい。ある句集を読んで、みずからの内に〈読む〉欲望を発見する。むしろそのほうがケースとしては多いだろう(読書一般と同様に)。
ただ、どうなのだろう?
他人の句にはあまり興味がないという俳人は少なくない。公言する人までいる。彼らは、〈読者〉をどう捉えているのだろう? 彼らが句集を出すとき、自分は人の句を読まないにもかかわらず、他人は自分の句集を読むと信じるのだろうか。そのあたり、謎だ。
10
句集はどのように作られるか。もっぱらそこ(プロダクト部分)に焦点を当てたこの勉強会は、すこしネガティブに捉えると、作られたその先に(広い意味でのマーケットに)、不毛の土地、無明の闇が広がっていないとも限らないなあ、と。
そんなことも考えたですよ。
〔参考〕拙句集『けむり』については、例えば、以下の座談に。
http://spica819.main.jp/yomiau/5544.htmlhttp://spica819.main.jp/yomiau/5554.html
●
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2012-02-19
現俳協青年部勉強会「句集のゆくえ」のお知らせ
第125回現代俳句協会青年部勉強会のお知らせ
シンポシオンⅤ 句集のゆくえ
ある作家の俳句をまとめて読むためには、句集に当たることになるだろう。句集は毎月のように出版されているが、一般の書店では、ほぼ決まった作家の句集が並んでいるようにみえる。では、あまたの句集はいったい誰のために、何のために出されているのだろ
う。
『新撰21』のように若手作家中心の俳句選集が話題になり、他ジャンルの雑誌で俳句の特集が組まれ、今冬には、紀伊国屋書店新宿本店で俳句フェアも催されるなど、近年、出版社や書店から戦略的な取り組みもなされている。では、個人句集はどうなのだろうか。
実際のところ、句集はいかにつくられ、どのように流通し、どのように読まれ、評価されているのだろう。電子出版という選択肢も加わり始めた今日、句集には、どのような可能性があるのだろう。最近句集を出版されたゲストをお迎えし、句集の今を考えたい。
第一部 いま句集とは何か
・個人句集の発生史 橋本直
・いま句集とはなにか 宮本佳世乃
・電子書籍について 中村安伸
第二部 句集のゆくえ
ディスカッション
ゲスト 関悦史氏 中本真人氏 山田耕司氏 (進行 宮本佳世乃)
●日 時 平成24年3月20日(祝) 14時~17時
●会 場 コア・いけぶくろ(豊島区民センター)第2会議室
東京都豊島区東池袋1-20-10 Tel 03-3984-7601
●参加費 1,000円
●定 員 40名(受付順)
お申し込み、お問い合わせなどは現代俳句協会青年部まで
(お申し込みは、メール・FAX・はがきでお願いいたします)
<E-mail>genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191(当日のお問合せは不可)
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2012-01-08
第124回現代俳句協会青年部勉強会 謎について―攝津幸彦研究
第124回現代俳句協会青年部勉強会
謎について―攝津幸彦研究
「謎解き」という言葉があるが、解くことのできる謎は本物の謎ではない。そして、解くことのできない謎は、癒えない傷のようにいつも新鮮な痛みと快楽をもたらしてくれる。
攝津幸彦の俳句には、さまざまな謎が仕掛けられている。正面にぽっかりと大きな口を開けていたり、隠し味のようにじわじわと効いてきたり、ひとつめを解いたと思ったらふたつめの謎が顔をのぞかせていたり……。
謎を内蔵した俳句作品は、動き続けるオブジェのように眺めていて飽きることがない。そんな奇妙で愛らしい作品の数々を鑑賞しながら、攝津幸彦と は、俳句とは何かを考えてみることも、興味深いことかもしれない。
基調報告 中村安伸
●日 時 1月28日(土)14時~17時
●会 場 協会事務室
●参加費 500円
●定 員 30名(受付順)
お申し込み、お問い合わせなどは現代俳句協会青年部まで
(お申し込みは、メール・FAX・はがきでお願いいたします)
<E-mail>genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191(当日のお問合せは不可)
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2011-11-13
【お知らせ】平明と難解 正木ゆう子第三句集『静かな水』をテキストに
【お知らせ】
第123回現代俳句協会青年部勉強会
平明と難解 正木ゆう子第三句集『静かな水』をテキストに
「水の地球すこしはなれて春の月」。何ら難しい言い回しではないのに、地球と月のある空間が句の中に凝縮されている。この掲句に代表されるように、平明な表現で巨大なスケール感を持った句こそ、正木ゆう子の醍醐味のひとつと言えよう。
そして、ここでポイントとなるのは、「平明な表現で」というところである。スケールの大きな句から足元の蒲公英に着目した句まで、常にわかりやすく、理解しやすいことを目指しているように思われる。俳句はとかく難解になりがちだが、こういった親しみやすい作風は一般の方々に俳句を理解してもらう上で大いに参考にすべきと考える。
今回は、掲句が収録されている第三句集「静かな水」をテキストにし、その魅力とテクニックに迫っていきたいと思う。
●基調報告:内藤独楽
●日時:12月10日(土)14時~17時
●会場:現代俳句協会分室(文京区湯島3-10-10吉澤・川辺ビル4階)
●参加費 :500円
●定員:30名(受付順)
●お申し込み、お問い合わせなど:現代俳句協会青年部
E-mail:genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL:03-3839-8190 FAX 03-3839-8191(当日問い合わせ不可)
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2011-07-10
【お知らせ】現代俳句協会青年部勉強会 「俳句と翻訳」
【お知らせ】
第122回現代俳句協会青年部勉強会
「俳句と翻訳」
近年、「Haiku」の存在が広く認知されるようになり、今では多くの日本語以外で詠まれた「Haiku」を読むことができます。その中には、作者の国籍に関係なく、はじめから日本語以外で詠まれたものや、日本語の作品が他言語に翻訳されたものも存在します。例えば、日本語話者からみた場合、日本語から翻訳された「Haiku」にはどのような内容が含まれているのでしょう。翻訳は創作であるともいわれますが、俳句のエッセンスはどのように表現されているのでしょうか。今回は実際に翻訳された作品を読みながら、異言語間における俳句の固有性を探ります。
●基調報告:宮本佳世乃 ゲスト:木村聡雄
●日 時 7月18日(月休日)14時~17時 ※終了後に懇親会を予定しています
●会 場 現代俳句協会分室(文京区湯島3-10-10吉澤・川辺ビル4階)
●参加費 500円
●定 員 30名(受付順)
●お申し込み、お問い合わせなど 現代俳句協会青年部
(お申し込みは、メール・FAX・はがきでお願いいたします)
<E-mail>genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191
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2011-07-03
現代俳句協会青年部勉強会 『番外編』 レポート 三鬼、語りぬ 生駒大祐
現代俳句協会青年部勉強会『番外編 』レポート
三鬼、語りぬ
生駒大祐
2011年6月26日(日)13時00分
於・小石川後楽園涵徳亭
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2011年6月26日の正午過ぎ、僕は後楽園駅を降りて小石川後楽園は涵徳亭に向かった。
現代俳句協会青年部による勉強会の番外編として、西東三鬼の肉声を聞きながら宇多喜代子氏のお話を聞くという会に出席するためである。
塀に沿って少し歩いて涵徳亭につくと、すでに宇多氏と現俳協の広報の前田弘氏、および青年部の数人は既に席についていた。青年部の面々の表情からはわずかながら緊張の色が伺えた。
時間になるとメンバーも揃い、会は始まった。
今回の三鬼の肉声とは昭和30年代に短波放送用に吹き込まれたもの。カセットテープに収められたそれをCDに復元したものだということだった。
宇多氏は音声を再生させる前に、「自分の中に作家の肉声を蘇らせながら句を読むと楽しい。それが今はみんな分かってしまっているから味がない。だから想像する力が失せていきますよね。それが詩歌に繋がるところだと思うから」と述べた。これは、今から声を聞く前に、「三鬼の肉声をそれぞれ自分の中に持っていたか」という暗黙の確認のように思えた。それは、「三鬼が生きていた」という当然の事実を本当に「事実」として飲み込んで句を読んでいますか?という質問にも変換できよう。それは続いて述べられた三鬼の句作りの理念、宇多氏の理念に繋がっていくものであったと、あとで気づいた。
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三鬼の肉声の内容は以下のようなものであった。
「俳句は575のリズムを持つ17音から成っている。また俳句には季節が含まれる。これらには色々複雑な議論があるが、ここでは省きます。俳句は17音で季節が含まれるものとお考えください。」
「俳句が盛んになったのは、戦後人々が心の拠り所を求め、風土的なものからそれを発見した。心の拠り所を失ったのは青年であるから、俳句はいまや青年のものとなったのであります」
「俳句は短いので、時間に追いまくられている現代の人にも容易に近づける」
「人には表現したい欲望がある。しかし、表現するにあたって、短いから容易だとはじめた俳句を、短いから難しいと思うようになるのであります」
「自分の何を表現したいのかが問題。自分と他人と共通のことで、自分と他人に重大なこと、これが俳句を作る上での態度でなければなりません。自分が生きているという自覚、それが大切」
「自分と自然との関わり合いを捕らえ。17音に表現することによって作者は今このとき生きているということを自覚する。これがなぜ俳句を詠むかの答えである」
「俳句につきまとってきた誤った先入観がある。俳句は風流なもの、俳味のあるものといわれてきたが、それらには現代生活から逃げ出したいという消極的な思いがある。ところが自分が生きているという自覚はより積極的なものでありまして、風流という観念とは縁の遠いものでありましょう。よって現代の俳句は社会生活からもなにものからも逃げなくて、立ち向かってゆくものでありましょう。」
「(無花果を食ふ百姓の短かき指 山口誓子 に対して)いちじくをむしゃむしゃと食う百姓の無骨な短い指だけを掴み取れば作者の感動が読む者に伝わるわけであります。俳句は引き算。作者に強い印象を与えたものだけを残してあとは消してしまうものであります。」
「(一湾の潮しづもるきりぎりす 山口誓子 に対して)作者が対象になった夏の海を厳しく見つめて、今生きている自分を厳しく掴んでいる。作者の生きている自覚はそのまま読む者に同じく伝わるわけであります。」
「(久里浜少年院の院生の句、久里浜の霜焼け一手に引き受けた 寒雀震えて止まる鉄格子 に対して)このように俳句を作るには学問は問題ではないんではありまして、言葉を飾らず真実の感動を直に表現すれば誰にでも作れるのであります」
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この後に宇多氏に色々とお話を伺えたのだが、その具体的な内容を記述することは避け、宇多氏の話を踏まえて、三鬼の述べたことについての僕の感想をさらさらと述べることにする。
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三鬼の話の中で特に重要なのは、
俳句につきまとってきた誤った先入観がある。俳句は風流なもの、俳味のあるものといわれてきたが、それらには現代生活から逃げ出したいという消極的な思いがある。ところが自分が生きているという自覚はより積極的なものでありまして、風流という観念とは縁の遠いものでありましょう。よって現代の俳句は社会生活からもなにものからも逃げなくて、立ち向かってゆくものでありましょう。という言葉であると僕は感じた。
僕が驚いたのは、三鬼が「社会生活から逃げない」と言って例に出してきたのが、
無花果を食ふ百姓の短かき指 誓子
一湾の潮しづもるきりぎりす
だったということだった。
僕が俳句を詠む/読むときに、「この景が現実に存在するだろうか」ということはあまり問題にしていない。それは三鬼の句を読むときはもちろん、虚子、芭蕉の句を読むときもそうだ。また、いわゆる写生句を詠むときも、実際に見たことがあるかどうかということは実は気にしない。よって、これらの句を読んだときに、「作者の生きている実感」というようなものを特に感じることはなかった。
つまりは、ごくごく当たり前のことながら、社会生活を詠むことと社会生活を読み込むことは全く異なる。三鬼の言う社会生活に立ち向かうということはあくまで社会生活を詠むことであり、単に社会生活におけるモノを詠み込むことではない。
その意味では、社会生活を詠んでいない俳句というものはありえない。僕が社会生活を営んでいる以上、社会生活から全く逃れた俳句を作ることは不可能であるし、僕の俳句が読まれるときに現実社会におけるコンテクストにある程度巻き込まれることは避けられないだろう。
結局、三鬼の言うことは読者の問題に立ち返るのだ。いくら社会生活を詠んでいても読者がそれを読み取らなければそれは伝わらない。逆に、社会生活から一見離れた句を詠んでいるように見えても、読者がそれを読み解けば社会生活は必ずそこに反映されている。
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先日のポスト造型論の勉強会において、テクスト論の話が出た。ロラン・バルト「作者の死」(花輪満訳『物語の構造分析』みすず書房、1979)においては
批評」に対して「実際、多元的なエクリチュールにあっては、すべては解きほぐすべきであって、解読するものは何もないのだと述べられる。また、
読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間に他ならないとも述べられる。
読者の誕生と作者の死。作者という「解答」が失われたとき、読者は答え探しから解放されたと同時に、常に「回答」を示す者としての責任が課せられる。
作者の生きている自覚はそのまま読む者に同じく伝わるわけであります。という三鬼の言葉を空虚と感じるか希望と感じるかどうかは人によってさまざまであろう。
一つの価値観を元に句を作り、句を読み解く。それで充足することは僕にはもうできない。複数の価値観を理解つつその作品にとって適切な読みを「選択」していくことが必要なのではないか。そうなったときに「好きな作品」「共感できる作品」という言葉がいかなる意味を持つのか。
そのときにこそ、「読みとれないけれど好きで共感できる作品」という、「読み」の価値観を超越した存在が僕を癒してくれる。それをもたらしてくれる一人が三鬼であることを僕は嬉しく思う。
滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し 三鬼
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参考
虚子の肉声:http://www.haiku.jp/takahama/index.html
三鬼の肉声:http://tsuyama-city.musicfactor.jp/saitousanki/sano/
2010-08-08
現代俳句協会青年部勉強会 シンポシオンⅡ『俳句における自動機械』 レポート 太田ユリ
現代俳句協会青年部勉強会 シンポシオンⅡ『俳句における自動機械』 レポート
人と呼ばれる自動機械
太田ユリ
2010年8月1日(日)13時30分
於・せたがや文化財団ワークショップ室
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8月1日、現代俳句協会青年部主催のシンポシオン『俳句における自動機械』に参加した。
私は俳人ではなく、ふだんは短歌を作っているけれど、「歌人です」と言えるほどの経歴もなければ度胸もない、という素人に毛が生えたような、生えてないような、なんともふわっふわした立場である。
そんな私が俳句のシンポシオンに参加したわけは、単に、友人の歌人・佐々木あららがゲストに呼ばれているのでなんとなく冷やかしに行ってやろう、というか、まぁ、半分はいやがらせだ。
会場は、三軒茶屋キャロットタワー内のひろびろとした一室で、20脚ほどの椅子が円形に並べてある。
予定時刻をすこし過ぎて、シンポシオン開始。
第一部。
最初に、俳人の中村安伸さんが、俳句界で古くから伝わる「天狗俳諧」と、佐々木あらら氏が制作した「星野しずるの犬猿短歌」(http://www17.atpages.jp/sasakiarara/)の仕組みについての説明をする。
このふたつはランダムに言葉が選ばれる、というところが共通していて、言葉の並びに人間の意図が介入しないという意味で、どちらも「自動機械」という風に定義された。ほかに、現在インターネット上に存在している自動機械、三島ゆかり氏制作の「ねここ」(http://yukari3434.web.fc2.com/nekoko.html)等の紹介。
続いて、俳人の宇井十間さんによる発表。タイトルは「俳句の自動機械」。
三枚の紙に、ちいさな字でびっしり書かれた資料には「アクションポエム」「コンテクスト」「オートマティズム」など、難しそうな言葉が並んでいて、それを見た瞬間、すこし不安になる。
宇井さんの音読を頼りに、文章を読み進めていく。
よ、よくわからない……!
これはやばい、と資料をもう一度読み直していると、参加者のひとりから、「そもそも、この文章の中の俳句の定義ってどういうものですか?」という質問があがる。
それに対して「それは、私じゃなくて俳人に聞いてくださいよ」と、宇井さん。会場すこし沸く。
このとき、資料を必死になって理解しようとしている私としては、まったく笑えず、むしろ寒い。
それからやりとりは「たとえば有季定型とか……?」「そんなことはない」という風に続いていったが、宇井さんは「こういう風に定義しました」という答え方をしないのでなかなかグダグダな空気に。
結局、私の理解力では,宇井さんの言う俳句の定義は最後までよくわからなかったのだが、やりとりを見ているうちに、この発表の重要なポイントとして、宇井さんは「主体の貼り付いていない『純粋なテキスト』との対話」を理想としていることがなんとなくわかってくる。
だから、そういう意味では機械の作った俳句は理想的なのかもしれない……という話の流れで、まえまえから持っていた疑問をぶつけてみる。
「短歌は『私性』の詩型と言われていて、歌の作者の性別や年齢によって読みが変わったりすると思うんですが、俳句にはそういったことはあるんですか?」
この質問に宇井さん「それは私じゃなくて俳人に聞いてください」と、まさかの天丼……。
笑う余裕もなく「えーと、私は宇井さんに質問しているので、宇井さんが答えてください」と言うと、
「私は作者の情報は気にしませんし、作者の情報があっても、純粋にテキストを読むことは可能だと思う」と、今度はちゃんとお答えをいただく。
ここで参加者数名から反論があり、その中のひとりである、俳人の藤田哲史さんから
「神野紗希さんの「起立礼着席青葉風過ぎた」は、俳句甲子園という開かれた舞台で優勝した句で、あれを女子高生ではない人が詠んだとすると、印象が変わると思う」という意見が出て、おー、たしかに、という空気。
やっぱり俳句でもそういうことはあるのか。
このあたりでぼちぼち、資料を読んだときに自分が感じた違和感の正体がわかってくる。それは、「機械」と「人間」が、ごく単純に対比されていることだ。
星野しずるにしても他のシステムにしても、自分でクリックして出てきた短歌を目にした場合、前提として、「機械が作っている」ということを私たちはわかっている。それは、「女子高生が作っている」ということと、実はまったく同じなんじゃないか。
星野しずるの作った短歌をなんの前情報もなく目にすることがあった場合、そこには「純粋なテキストとの対話」が成立する。でもそれは、機械が作った短歌だろうが人間が作った俳句だろうが、変わらんわけで。
誰かがぽつりと「『機械』っていう言葉が持っているイメージに踊らされているところはありますよね……」と言った。
休憩をはさんで、第二部。
歌人の佐々木あららと、詩人の藤原安紀子さんを中心とした、フリーディスカッション。
佐々木あららが、休憩中に質問されたという「星野しずるを作った動機」について話す。
「短歌初心者は、意外な言葉の組み合わせを使ってそれらしい短歌を作ると、もう作品ができた気になってしまう。でも、そんなことなら辞書を適当に開いて言葉を選べばいいわけで、それはもはや創作とは言えないんじゃないか。そんなことは機械にやらせればいい」とのこと。エロ歌人、意外にまじめ……。
そうして作られた星野しずるは、今ではインターネット上の絵書きさんによって、緑の髪に黒縁メガネの萌えキャラと化している。(→参考)佐々木あららは、それを「意外な方向に進んでいってうれしい。おもしろければなんでもいい」と言う。
話はまた、いつしか「私性」のことに。
そこで、思い出したかのように「現代詩ではどうですか?」と、詩人の藤原さんに話がふられる。
藤原さんは、この日まだ一度も発言していなかったのだ。
それにしても「どうですか?」って……。なんて漠然とした質問なんだ。
藤原さん、関西なまりのあるゆっくりとした喋り方で、
「なんか、定型があるのとないのとだけで、こんなに違うもんなんやーって、びっくりしました。詩を書くとき、私はそんな難しいことは考えてない。強いて言えば、言葉が言葉を引き連れてくる感覚。みなさん、すごいですね。こうやって定期的にお勉強会をして、それを作品に生かして……」と、言う。
誤解のないように言うと、この藤原さんの発言は皮肉っぽいところが一切なく、ただただ驚いているという感じだ。
私は手を挙げて「いや、みんな、ここでこうやって話したからといって、『じゃあこういう風に作品を作ろう』という風にはたぶんならないんですよ」と言った。この日にした話を生かすとしても、それは作品ではなく、評論を書くときではないか。
藤原さんは、ますます驚いた顔をする。
会場が微妙な空気に包まれたとき、佐々木あららがすかさず「今、突然自作の詩を朗読してくださいと言ったら、してもらえますか」と藤原さんに提案。「いいですよ」とほほえむ藤原さん。……佐々木、ナイス!
藤原さんの朗読がはじまる。第二詩集『フォ ト ン』より。
意味をつかまえられそうでつかまえられない言葉が、ゆっくりとした声で発音されていく。
朗読が終わると、会場はますます変な空気になっていた。みんなの頭に「?」が浮かんでいる。
それがたまらなくおかしくて、余韻に浸っていると、すぐに、
「今のはどうしてそういう読み方をしたのか」
「詩人たちのなかではそれは共有できる感覚なのか」
「現代詩は外の世界に伝わるのか」
など、質問が飛び交う。
私はそれを、すごく不愉快だと思って、そう言った。その場にいた藤原さんの詩集の担当編集者の方が「いま藤原さんが朗読したことが表現で、これで全部なんです」と言った。その通りだと思う。
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私の実感では、どれだけ理屈をつけて作品を読み解いてみても、実作をするとき、それはほとんど意味をなさない。
だとしたら、なぜディスカッションをするのか? なぜ評論を読むのか?
それはたぶん、趣味のようなものだと思う。もちろん自分も含めて。分析することが楽しいのだ。思考が整理されるとほっとする。
私にとってディスカッションは、「どのように分析するか」というセンスを表現し合う場所だ。
「自動機械」がどうとかこうとか、正直なところ、そんなに重要だとは思わない。
ただ、この意見は決して一般的なものではないだろうし、いろいろ台無しになるので、今回のシンポシオンのテーマについて、今一度しっかり考えてみよう。
週刊俳句のホームページで概要を読み直す。
現代俳句協会青年部 第二回シンポシオン。テーマは「自動機械」。
「俳句にとって、私たちは必要なのか」。
……って、あたりまえだろ。
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