■松田晴貴 巣箱 10句 ≫読む 第936号 2025年3月30日
■ おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 ≫読む 第939号 2025年4月20日
■ 超文学宣言 ハプスブルク家の春 ≫読む 第940号 2025年4月27日
■ 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 ≫読む 第942号 2025年5月11日
■ 上田信治 とは 15句 ≫読む 第944号 2025年5月25日
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俳句にまつわる諸々の事柄。
photo by Tenki SAIBARA
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【週俳1月2月の俳句を読む】
食べて空になって
羽田野令
冬の鹿ギターはすすり泣いていて 山本真也
十二月八日のドアノブを回す 同
ジョンが撃たれたのをラジオで聞いたことを思い出す。「ダブルファンタジー」がリリースされたばかりの頃だった。ヨーコのふわふわした声や、「スターティングオーヴァー」のジョンや、二人で歌うクリスマスソング等が渦巻いている中、その悲報はもたらされた。
「ギターはすすり泣いて」は鹿の悲痛な鳴き声をも思わせる。「十二月八日のドアノブ」は回してほしくないが、もう40年近く前に回されてしまった時は戻せない。
この一連はマジカルミステリーツアー+ジャパンと銘打っている通り、ビートルズと、初富士や猪鍋といった季語の中でもとても日本的なものとが取り合わせられている。掲句以外の取り合わせを見て、何だろうこれはと考えてみると、ビートルズが初めて日本へやって来た時の法被を着てタラップを降りてきた、あのイメージだと思い当たった。季語を着せてみました、という感じがどうもするのだが。
故郷がスキーのリフトより見ゆる 細村星一郎
スキーに来ている。たまたま故郷の近くに。スキーに来ているメンバーとスキーを楽しむという場があり、その時間を共有しているのだが、その中にいる作者は自分の故郷が見えた時ちょっとした一人の感慨を持つ。他人と共有しているものと自分の個人的なものとが自分の中に交差する。見えた一瞬を述べてそのことがよく表されていると思った。
列の子の一人振り向く枯野かな 田口茉於
たんぽぽを踏まぬやう母と離れぬやう 同
日本では幼児期から集団のなかで皆と同じ様に行動することがしつけられる。が、皆と同じことをしない子もいる。この列では、ほとんどの子が同じ様な行動を取っている中、違うことをしている一人の子にスポットを当てている。こういう子がいるから句になるのであろう。たんぽぽの句では、たんぽぽをよけて歩く可愛らしさが描かれ、はぐれない様に母親の手をしっかり握っている様子が浮かぶ。五七五におさまっていないのも子の歩みのようだ。
春埃ためてみているビスコ缶 前田凪子
ビスコという誰でも知ってる懐かしいもの。ビスコ缶というものは知らなかったのだが、非常食用にビスコが沢山入っていて長持ちする缶らしい。だからずっと置いてある缶なのだろう。或いは、食べて空になって何かを入れるのに使っている缶なのかもしれない。埃を拭おうともせずにじっと見ている。春の日の何をすることもない時間。「みている」というそれだけを言っているアンニュイな世界である。
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【週俳4月の俳句を読む】
当らぬも八卦
羽田野令
チューリップ散つて校舎の影が凸 金丸和代
凸の字を「とつ」と読むのか、「でこぼこ」の「でこ」と読むのか、影が出っ張っているということなのか、などと考えて何度も見ていたら、あっ!とわかった。この字の形が校舎なのだ。凸は、校舎を象っている様な字である。
チューリップは学校によく植わっている花だが、そのチューリップも散ってしまった春闌けた頃の夕方、校舎が大きく凸の字型に校庭に影を落としているという景が浮かぶ。
凸の字の機知が楽しい。
亀鳴くや易者の使ふ竹の棒 常原 拓
易者は竹の棒、筮竹(ぜいちく)を使う。映画などで見ていると、筮竹を何度も擦り合わせその音で煙に巻いて勿体をつけてご神託の様に何か言う。易は当たるのか当たらないのか。まあ、当たるも八卦当らぬも八卦と言うからには、元々わからないものなのだろう。
亀は鳴くのか鳴かないのか。易のような怪しげな場面では、筮竹の音に紛れてこっそり鳴いているのかも知れない。
#春(ハッシュタグはる)来にけらし人界に 佐藤りえ
電子画面上に誰かの投稿した春の景を見る、それで、「もう土筆の出る頃なのか」だの、「わあ、雲雀だ」だの思うという私たち。かつては自然界の中に人界もごっそり含まれていたから人は直接自然に接して春を知ったのだが、今の都会での忙しい生活では、気温の変化や日の長さぐらいの事以外は画面の中に知ることが多いのかも知れない。
#についてはあまりよく知らないのだが、ハッシュタグという語の最初の使用は、「ハッシュタグとはTwitterでのグループ化である」という2007年の記事に於いてとのこと。ツイッター等で「#」をつけておくと関連投稿を検索するのに便利であるらしい。
「#」という新しい記号を使った句に、「来にけらし」という古語を配しているのが巧みである。
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【週俳6月7月の俳句を読む】
あくまでも詩の世界の
羽田野 令
卯の花くたし面会謝絶の兄へ羽音 竹岡一郎
竹岡一郎さんの「バチあたり兄さん」三十句の一句目である。「面会謝絶の兄」とあるから、病篤い状態で入院しているお兄さんであることがわかる。三十句中に「兄」の出て来る句は何句もあるが、お兄さんの具体的な状態は他に書かれてなく、あくまでも詩の世界の中の作者の捉えている兄である。
身内の誰かの入院という非日常の事柄により引き起こされる諸々。そのことによって自分の内に広がってゆく暗い海を見ているようであり、そこに浮かんでは消える形象を捉えて言葉を着せていった、そのように受け取る。魅力的な表現は多い。
タイトルの中で兄に冠されている「バチあたり」とは、肉親ゆえの親しさのこめられた表現であるが、この語にある悪意の感覚が、「兄」の出て来る「守宮搗く兄のまたたくまの違背」「蟹斬る兄こそ崖の見世物だ拍手」「青田よりあふぐ暗愚の兄の址」などの「違背」「崖の見世物」「暗愚の」といった言葉から浮かんでくる。また、「二百年生きた金魚は兄と化す」では金魚が兄になっているし、「蛸に似るまで坂ころげ迫る兄」では、「蛸に似るまで」と、グロテスクと迄いかなくても美と対局にあるような表現がなされ、坂を転げる兄であったりする。それぞれの景は具体的に鮮やかに描かれているが、今ひとつよくわからないのは、それが兄との関係性を作者側から表すものとしての句自体がメタファーだからなのであろう。
どれくらい年の離れている兄弟なのかはわからないが共に成長する兄弟だと、弟にとっての兄はアイデンティファイの対象ともなって、また様々な反発や葛藤を経るものであるが、それら負の面が絵巻の様に並んでいる。
蛇となる途中の廊下拭き磨く 竹岡一郎
長い物としての廊下と蛇。廊下が突如鱗を持ちうねり始めるというような妄想を、人はその思考の一端に持つ事はあるのかもしれない。「拭き磨く」ことをしながら、無機物である廊下に邪悪な生物のイメージを重ねるという。
澪照らし合うて鵜舟とうつほ舟 竹岡一郎
闇の中に篝火を焚いて動いてゆく鵜舟はそれだけで不思議な世界を現出するが、掲句ではもう一つ水面を照らす明りがある。異界から漂着する「うつほ舟」である。現実の世界の中に見知らぬ世を含む妖しさが生まれる。
「うつほ舟」とは、古事記で少名毘古那(すくなびこな)の乗ってきた羅摩(ががいも)の舟のことも言うし、神話で赤子を川に流す時に乗せると舟として記されていたりする。もうひとつ、江戸期の「はらどまり村」の記録にある舟は、それから澁澤龍彦が書き起した短編の「うつろ舟」があるが、光っているのでこの場合はこの舟の方が合うのだろう。
まらうどの晴の跫音のいづみ震(ふ)る 竹岡一郎
三十句目の句である。この少し前には、「橋は関なり」「征き」「終りちかづく」などの語のある句があり、土用波となっている兄、形代となっている兄がある。掲句の「晴の」は「儀式の」というように思い、儀式に訪れて来る人の足音がしていると読んだ。「跫音の」の後にちょっと切れがあり、「いづみ」が震えている。この「いづみ」はここならぬ泉と思えるのだが、そうではないのだろうか。連作として時間の推移を見るとするとそのように読めてしまうのだが、勝手な読み違いで作者には失礼なことなのかも知れない。
亀鳴けり刺子の驢馬がふえてゐる 高橋洋子
刺子で画像検索すると、紺地に白の糸で縫い取りのされたものが沢山出て来る。いろんな色の糸で刺繍する西洋の刺繍と違って、刺子とは元々そういう単色のものらしい。夜な夜な刺子で驢馬を刺している。ふと見るとその驢馬がどうしてか増えている。刺した覚えがないのにいつの間にか増えている。おかしい。しかし、亀が鳴いたのだからそれも有りなのだ。「亀鳴けり」がいい。刺子が勝手に増えるならば亀がもっと鳴いてほしいものだ。
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【週俳8月の俳句を読む】
承知の上で
羽田野令
夜の枇杷つまむ会へなくてつらい 宮﨑玲奈
会いたいのに会えない夜を一人で過ごしている私。そして私の前にある枇杷。手持ち無沙汰で枇杷でもつまんでみる。枇杷のあたたかな色とあまり大きくない大きさが程よい。「つまむ」は、他のりんごのような果物だと食べるという意味になってしまうだろう。枇杷だから細くなってる方の先をちょっと指先で挟む様にしている様子がわかる。人を思って一人で居る夜の絵として悪くはないのではないかと思う。「つらい」という直裁な言葉がいいのかどうかだが、俳句でこのような語がでてくるとよく言われることだが、「つらい」を使わずに書くということを作者も承知の上でやはりこの語を選んでいるのだと思う。どうしてもこう書きたかったのだろう。
夕菅や矢を射るごとく名を呼んで 青本瑞季
清々しい。すっと線が伸びて対象とする一点にだけ届く矢。矢を射ると喩えられて名を呼ぶことがとても美しいことのように感じられる。普通に伝えることがあって名前を呼ぶのとは違って、何か特別な関係や気持ちで名を呼んでいるのだろう。黄色いほっそりとした夕菅がよく合う。
みづからに百日紅の日々を課す 藤井あかり
百日紅の日々とは何か。百日紅は百日の長きにわたって咲くからその名が付けられたというが、そういう長さの日々ということではない様に思う。○○の日々と言われると「酒とバラの日々」を思うが、「酒とバラ」という言葉からは、耽美的とか爛熟や退廃とか耽溺というようなものを思うのは映画があるからであるが、百日紅だとどうなるか。紅の花が枝の先にびっしり咲きそろっている景、夏空を背景にした鮮やかな色で咲き誇る、花を毎日足元に散らしながら太陽に向かっている、という様な強さのあることなのか。何なのかよくわからない。
自分に何かを課すというのは確固としたことなのに、百日紅の日々というわけの解らなさを持って来ているところで力が脱けてしまう。このへなっと躱されているところが面白さなのか。
葡萄樹をゆけば船室のゆらめき 大塚凱
葡萄の木々の下は完全には閉じられていないけれど、棚のところで空と隔てられた別な空間を作っている。葉が外の明るさと温度を遮っているからちょっと違った部屋の様である。繁った葉を透かして入ってくる光、風にゆらめく光。船室というひとつの非日常の空間の趣は十分にある。地の恵みをもたらす果樹から海をゆく船の中への想像が新鮮である。
●
「薬」二十句、水の注がれた器からとめどなく水が溢れて零れている、そういう印象である。自由律でいうところの長律のようである。溢れるものを受け入れるには定型の器では適わなかったのだろうと考える。
悪口を言ふために呑む、鈴虫の相槌が上手い 中山奈々
5 ・7(5・2)、 5・8(5・3)と長律としてはリズムがよい。
読点で切られている二つの部分の出だしが「悪口を」と「鈴虫の」という、共にO音で終る五音であることが対句のような仕上がりをもたらしている。
「悪口を言ふために」は殊更自分を偽悪的に演出している感があり、そんなにまで自分を悪く言わなくてもいいよと読者は思ってしまう。小さき者の相槌というのも悲しげな道具立てだが、いたいけな鈴虫と通い合っているような童話的な情趣もある。
秋のてふてふ考へろみろブルース・リー 中山奈々
寺山修司がブルース・リーの言葉を書いていた。「頭で考えるな。肌で掴め」と。映画「燃えよドラゴン」の冒頭部分だという。昔随分流行った映画だが見てないのでyou tubeでその部分を見てみた。Don't think. Feel ! とブルース・リーが少年に言っている。「考へろみろ」はその逆だ。逆なのだがこの句を何度も読んでいると、だんだんブルース・リーの言った事とここでの「考へろみろ」は同じ事のように思えてくる。
秋の蝶という、春の明るさとは少し違う蝶を配しブルース・リーに呼びかけているととるのと、蝶に考えろと言っていてそこにブルース・リーを持って来ているとするのとの二通りに読めると思うが、どちらも自分に言っているようである。「秋のてふてふ」が自分と重なるとすると、「てふてふ」という儚げな平仮名表記になっているのはそのゆえか。
第432号 2015年8月2日
■宮﨑玲奈 からころ水 10句 ≫読む
第433号 2015年8月9日
■柴田麻美子 雌である 10句 ≫読む
第434号 2015年8月16日
■青本瑞季 光足りず 10句 ≫読む
第435号 2015年8月23日
■藤井あかり 黙秘 10句 ≫読む
■大塚凱 ラジオと海流 10句 ≫読む
第436号 2015年8月30日
■江渡華子 目 10句 ≫読む
■中山奈々 薬 20句 ≫読む
■中谷理紗子 鼓舞するための 10句 ≫読む
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【週俳・1月2月の俳句を読む】
その青を結ぼう
羽田野令
結昆布結び目の暗きをつまむ 小野あらた
昆布は黒っぽいものであるし、結び目はその黒が何重か重なっているところなのだけれど、黒くはあっても普通は暗いとは言わない。食べ物をあまり明るいか暗いか等とは考えないが、例えば、硝子の器に盛られてドレッシングや香草を掛けられたサラダと比べてどちらが明るいか暗いかと言えば、サラダは明るくて昆布は暗いと思う。
結昆布は縁を結ぶ、喜ぶ、に掛けておめでたいものとされ、伝統的なおせち料理の一品で新年を寿ぐ食べ物である。それを「暗きをつまむ」と言って、めでたさの反対にあるもの、裏側を見るというのは個人の感性である。表面のものだけを見るのではなく、自意識にめり込んだようなこの見方は惹かれるところである。作者の言う「暗き」のゆえんを考えてみるに、村社会のうす暗い廚で女から女へ受け継がれて来たことによる暗さを、醤油のしみ込んだ昆布の煮しめは表しているとも言えるのか。
蜜垂れる女(をみな)の背中県境 花尻万博
和歌山県の県境は変っている。紀伊半島の山中、和歌山県と奈良県と三重県が接しているが、和歌山県は県の一番面積の大きなところから離れて。陸地の中に島のように和歌山県である地を持つ。所謂飛地である、奈良県と三重県の接する所の間を裂く様にして、和歌山県から滴たれている様に飛地がある。そのことを詠まれているのではないかと思う。
多雨の中で青々と樹木の育つ一帯、緑の色もひときわ濃い様に感じられる地方であるが、その地の持つ生命感を女の背と見立てて詠む。そして蜜。乳と蜜の流れるところという聖書の言葉を思い出すが、小さなこの地形をこの地に住む作者は、豊饒を表す言葉によって表現している。
おふとんも雲南省も二つ折り なかはられいこ
紙を二つに折るならきちんと折り目がついて二つの同じ形の重なりになるが、蒲団の場合はそうはいかない。綿で膨らんでいるから、そのふくらみのまま丸みを持って折り重ねられる。その蒲団と雲南省。なんとも変ったものが並べられているのだが、読んでいて雲南省という語の面白さを言っている句ではないかと思った。
雲南省のなかにある雲はふわふわしたものだし、南という字も北とは違った温かな感じがする。「うん」「なん」という音は似ていて、ふっくら畳まれた二つの面のようだという気もしてくる。「うん」「なん」と音が往復しているような感。「うん」と行って、折り返される方が「なん」だろうか。というのは、全くの誤解かもしれないが、私には言葉の持つ音と字から浮かぶものとに着目した句に思われる。「うんなん」が蒲団へ結びついたところに一句が成った。
清流の写真束ねる青い紐 兵頭全郎
紐だけがあって、青い色、何に使う?もしとてもきれいなブルーなら、空のようであり、海のようでもあり、碧を湛えているそんな紐だったら何に使うだろうか。・・・婚礼のsomething blueとして花嫁の衣装の裏に縫い付けるのはどうだろう。いやいや、それでは紐本来の使い方ではないから、紐としての用途を中心に考えるとやはり、何かを結んだり束ねたりということになる。そう、花を束ねる、サフランを束ねるのに丁度いい。四つんばいになって摘む少年のサフランのためにある紐。ちょうど岩の間の碧い波から取り出したように見える。でもそれは駄目だ。少年に届ける手だてはない。紐は、明日或いはその明日かそのまた明日わたしが撮る清流の写真を束ねるため。もう写真は紙に焼くことはあまりないけれど、美しい流れに遭ったら、写真に撮って紙に焼いて、写真のその流れに触れながらその青を結ぼう。
とおくからひとをみているおおかみよ 赤野四羽
人間社会から離れて人間の営みを見ているこの狼の目は、なにか神聖なもののような気がする。狼という言葉は「かみ」の音を含んでいるのだが、そればかりではなく、人間を外から見続ける存在というのは、人間の創り出した神しかあるまい。その鋭い目には、人間の愚かしさがさぞかし写っているのだろう。
第405号
■小野あらた 喰積 10句 ≫読む
第406号
■花尻万博 南紀 17句 ≫読む
第409号
■なかはられいこ テーマなんてない 10句 ≫読む
■兵頭全郎 ロゴマーク 10句 ≫読む
■赤野四羽 螺子と少年 10句 ≫読む
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【週俳6月の俳句を読む】
詩の言葉として
羽田野 令
あららぎのこぼれ雀も子供の日 陽 美保子
高い所の巣からこぼれてしまった子雀のことなのだろう。飛ぶ練習をしている子雀をみたことがあるが、飛び上がってもよく飛べないときは、へなへなと羽ばたきながら地面へ落ちていく。そんな風にして落ちた雀の子だろう。子雀の飛ぶ練習を親鳥は近くで見ているらしい。「落ちている雛は拾わないで下さい」と野鳥の会などがキャンペーンをしているが、人間の姿が見えなくなると親雀が来て雛の世話をするそうだ。子雀も親に保護されてちゃんと飛べる様になって育ってほしい。「雀も」の「も」は、そんな願いのこめられた「も」であると思う。この句は「子供の日」がとてもいいと思う。
○○の日という季語は難しい。○○の日ということをベースにして何を書くかと考えると、実際その日にはあらゆる人があらゆることを出来るわけで、何を持って来ても成りたつなら、一体何を選べばいいのかわからなくなる。憲法記念日にしろ、子供の日にしろ、その日の本来の意図するところのものをそのまま書くと標語になってしまう。俳句は、忌日もそうだが、日というものが詩の言葉としてあるという不思議な詩である。
ソファーごと沈み宇宙で薔薇が浮き 髙坂明良
ソファーに体を沈ませて、まるでソファーごと沈んでゆくかのような感覚。それと対峙するように浮かぶ物としての薔薇。薔薇のあるところを宇宙とすることで、実祭に薔薇がある地球上の人間の生活域から切り離された、現実感のない空間が示される。そのことによって「沈み」が単に体が沈んでゆくだけでなく自分の内側へ下降してゆくベクトルのように感じられてくる。
塩崎敬子さんという画家に『浮遊している薔薇』という絵があって、その絵はがきを持っているのだが、個人的にはそれを思い出した。
http://www.keikoshiozaki.jp/ro_005.html
荒梅雨のなかで生まれた馬を抱き 髙坂明良
激しい雨のなか、雨音に世のすべてから切り離されたようにして馬と私だけが居る。抱いている馬の体温が体に伝わって来て、生まれた生命そのものを抱いているように感じられるのだろう。「荒梅雨」の中に馬と私だけが際立つ。リズムがよく音の重なりもいい感じである。
指いまだ箒の夢をみていたり 原田浩佑
箒の夢とは何であろうか。箒は掃く物だけれど箒で掃くことは夢見るようなことではないから、やはり、箒で空を飛んだことだろうか。でも空を飛ぶ時につかむであろう箒の柄は指というよりも手全体で掴むものの様だから、指だとちょっとそぐわないような気がする。指だと指先で箒草を一つ一つ揃えているような細かい動作のことを思うのだが。体の部分を捉えてそこが夢見ているとしているのが面白いと思う。
君だけを遺して暮れる枇杷匂ふ 井上雪子
日が暮れてゆく頃、薄暗くなってゆくのに「君だけ」は暮れのこっているという。枇杷はそんなに匂いの強い果物ではないから、仄かな匂いとあいまって君を思うことが感じられる。「遺して」と「遺」の字が使われているが、遺品などで使われるので死後に残るという意味にとってしまいそうなのだが、遺失物というときも使われるので、ここではこっちの方かなと思って読んだが、ちょっと字が強すぎる様な気がした。
波終わりはじまる所夏岬 梅津志保
岬とは陸の突端であり、陸の果つるところである。果つる所は異なる世界と接する所である。陸と海の境界としての岬。句の中の「終わりはじまる」はまさに、そういう境界性を語っている。海と岬だけのシンプルな景は、波、岬という具体性がありながらそれの表象するものの方へ委ねられるような気がした。
壁ちぎりちぎりゆくかに春のナン 西村 遼
バス一輛鯨の如く曲がりけり
比喩が巧みだ。ナンはお皿からうんとはみでて出される。それをちぎって食べるのは、言われてみれば壁をちぎっているようだ。インドでは年中食べるものであっても、「春のナン」としたことで、ふんわりとした、あたたかな気分が感じられる。二句目のバスを鯨にたとえるのも、なる程と頷ける。
第371号 2014年6月1日
■陽 美保子 祝日 10句 ≫読む
第372号 2014年6月8日
■髙坂明良 六月ノ雨 10句 ≫読む
■原田浩佑 お手本 10句 ≫読む
第373号 2014年6月15日
■井上雪子 六月の日陰 10句 ≫読む
第374号 2014年6月22日
■梅津志保 夏岬 10句 ≫読む
第375号 2014年6月29日
■西村 遼 春の山 10句 ≫読む
●
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【週俳10月の俳句を読む】
異形の世界のワンシーン
羽田野令
白金の坩堝に白蛇とぐろ巻き 高橋修宏
蝉穴を出れば黄金殺倒す 同
六道の辻にごろりと鯨の頭 同
金環蝕王子の巨根祀るべし 同
これらのおどろおどろしさは何だろう。白金、黄金殺到、金環蝕のきらめき感。白蛇、とぐろ、六道の辻、鯨の頭、王子、巨根、祀るという民俗学的な素材。言葉の持つイメージを追うと一句一句に一つの宇宙が出来上がっているようであり、異形の世界のワンシーンが現れる。一句一句が合わさって曼荼羅をなしているような面白さがある。
松岡修造氏に
瀧口のはうの修造的きのこ 西原天気
「瀧口修造の詩的実験」というおそらく広告が現代詩手帖か何かに昔毎号のように載っていて、覚えてしまうぐらいその字面を見ていたので、瀧口修造というとそれぐらいしか知らないのだが、何かとても詩的であるようにその名前だけで思ってしまう。そんな私にとって瀧口修造的きのこというだけで幻覚でも起る様なきのこが想像出来る。名前が同じというだけで、あんたの方の修造じゃないのよ、とわざわざ引き合いに出された、ハーッピーで仕方がないというような面差しのテニスプレイヤーが気の毒である。
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉
赤茄子を二三歩離れものおもふ 上田信治
茂吉の赤茄子からこのように書かれると、細見綾子の「鶏頭を三尺離れもの思ふ」も果たして茂吉が下敷きにされているのではなかろうかと思ったりしてしまう。というか、掲句は茂吉よりも細見綾子なのではないだろうか。
他の作品からの発想では、西東三鬼「夜の湖ああ白い手に燐寸の火」、富澤赤黄男「一本のマツチをすれば湖は霧」、「めつむれば祖国は蒼き海の上」から寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 」が有名であるが、そういう作りの作品を見かける事はある。
俳句から短歌というのもあって、佐藤弓生「そのとき人は生きているのだ ひとは、と口ひらくとき卵食うとき」はどうしても三鬼の「広島や卵食ふ時口ひらく」を思い出すし、栗木京子は以前自分の歌を、渡辺白泉の「包帯を巻かれ巨大な兵となる」から発想したというような事を書いていたことがあった。
絵画ではコラージュということがある。他の絵や写真を張り合わせて別の新しい作品を作るというものである。その時の他の絵や写真はあくまでも材料であり、元の作品とは全く異なった画面が構成されている場合が多い。言葉の数の少ない短歌や俳句に於いてはどうなのであろうか。
爆発以後豚が育ててゐるコスモス 荒川倉庫
豚という主体をおくことでいろんなことが描けるものだと思う。豚はこの世界の中で自由に闊歩している。こういう書き方もできるものなのだなあと思う。コスモスを育てるというごく普通の事と並べて「爆発以後」と書かれ、原発事故以後の世界の中の豚を描く。
虫籠を鏡台に置く響きけり 髙勢祥子
「響きけり」がすてきだ。鏡の前なのだから音が反響するだろうなと納得できるのだが、実際には響くという程ではないだろう。「響きけり」は自分の感覚である。そう言い切っているのがここちよい。
第337号 2013年10月6日
■高橋修宏 金環蝕 10句 ≫読む
第338号 2013年10月13日
■西原天気 灰から灰へ 10句 ≫読む
■上田信治 SD 8句 ≫読む
第339号 2013年10月20日
■山口優夢 戸をたたく 10句 ≫読む
■生駒大祐 あかるき 10句 ≫読む
■村越 敦 秋の象 10句 ≫読む
第340号 2013年10月27日
■鈴木牛後 露に置く 10句 ≫読む
■荒川倉庫 豚の秋 10句 ≫読む
■髙勢祥子 秋 声 10句 ≫読む
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【週俳6月の俳句を読む】
からくりの構造
羽田野 令
未亡人下宿春雷鳴りやまず 閒村俊一
「未亡人下宿」とは、一時代前の、いかにも男にとってあらまほしきしセッティングである。昔は大学の近くには沢山下宿屋があったから、実際にそう呼べるものもあったのであろうが、ここで言われる未亡人とは年を経て伴侶に先立たれた人ではなくて、若く且つ妖艶な人である。夏の大きな雷とは違う春雷が、ゴロゴロと妄想の中にも鳴っている。春雷とこういう取り合わせはちょっと可笑しいような可愛らしいような……。
覺めぎはのかうかうとしろはちすのしろ 同
夢ともうつつともつかぬ間の白。それは、蓮の花の色。蓮だからかなりな大きさの花びらであるわけだが、煌煌と輝く様な白であるという。その白の印象のままに目覚めて、その白にまだ引っ張られている目にうつつの景が重なりつつはあるのだが、夢の中の白の印象にすっぽり捕われているといった状態。「覺」以外が全てひらがなで書かれているのは、現実感の希薄な、まだ覚めやらぬといったところを思わせる。
首飾りはづすまはひや梅雨の月 秦 夕美
あまり言葉にしない事柄も、頭の中ではいろいろ気にしている場合がある。色々な行動の「まはひ」は、自分の外に人が居る場合は誰しも無意識に考えている。掲句では首飾りを外すシーンである。かなりもう二人は接近していて、コトを妨げないように外すべく「まはい」をはかる微妙な心の動きに、梅雨のじっとりとした季節の月がいい案配である。
酢と塩とあとしらなみのほととぎす 永末恵子
思わず、くすっと笑ってしまうような句である。掛詞が面白い。「しらなみ」から「知らぬ」を引き出す事は、昔からあって、例えば万葉集では巻三、巻十一に、
見吉野之 瀧乃白浪 雖不知 語之告者 古所念があり、どちらも「白浪 雖不知」である。まだこの時代には「しらなみ しらね ども」「しらなみ しらずとも」と重ねてあって、白波のように知らないけれど、と説明的である。後になると「雖不知」の部分は省かれて、「しらなみの」と言うだけで波と知らないという事のどちらもを表す様になってくる。謡曲や歌舞伎やいろいろな語りにもそのように登場する。
みよしのの たぎのしらなみ しらね ども かたりしつげば いにしへおもほゆ
淡海〻 奥白浪 雖不知 妹所云 七日越来
あふみのうみ おきつしらなみ しらずとも いもがりといはば なぬかこえこむ(『萬葉集』桜風社1993年発行より)
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「ねむらん会」参加録
羽田野 令 子供が何かで遊ぶように
今月の23日、24日と岡山の和気鵜飼谷温泉でねむらん会が開かれた。今年が四回目で私は二回目の参加。ねむらん会とは川柳人を中心に二年ごとに開かれる会で、眠らずに句を作り、言葉で遊ぼうという会である。「ねむらん」と言っても就寝時間も少しある。集まったのは16人。うち一人は参加者のお子さん、一人が夜十時前に退出。深夜に及んでの参加は14人であった。私を含む三人が俳人、あとは川柳人という構成である。
ともかく皆のパワーに感心させられる。何でもやってやろうという心意気と、事実なんでもこなされるのに圧倒される。私はついていくのに精いっぱい。ついていけてないのもある。三分間吟など二句しか出せないという有り様なのだが。
まず七月に来た会の案内に兼題の五題が書かれてあった。各二句づつ持って行かなければならない。宿題の形であるが、道中考えたり着いてから作ったりする人が多い。松本仁さんの車での京都からの四人は一時過ぎに到着。集合時間の三時までに間があるので、兼題句を考える。一つは笠付(=冠句)。石部明さんから兼題の選者を割り当てられる。この会では互選はなくて、題ごとに一人か二人の選者が決まる。全員が何かの選をすることになる。題ごとに二人づつ兼題の選者名が書かれた紙が貼られる。
広間の床の間に題を書いたA4ぐらいの封筒が並べられ、できた句はそこに入れる。「句箋ある?」「はい、句箋!」と、細長い紙が配られる。俳人三人は、これは短冊やなあ、と。俳句では短冊と言ってるものを川柳では句箋と呼ぶそうだ。選者が二人の場合は、同じ句を二枚書かなければならない。
九州からの人も到着した頃、イメージ吟の題の発表。イメージ吟とは、題が言葉以外のもので示され、それからイメージすることを詠むというもの。伏せられたガラスコップの上に醤油せんべいを乗せたもの、紺色の折畳み傘、黄色いプラスチック製の靴ベラの三つ。これも各二句。提出は食事の後。兼題句の〆切が過ぎ、兼題の作品の入った袋は各選者に渡される。選の発表は食事の後だし、このあたりの進行はゆっくりしているのだが、日頃川柳に慣れていない者は選に大いに悩む。
食事が始まりお酒も入って一段落すると誰かが尻取りをしようと言い出した。これは予定外であったらしく、どういう風にするかがその場できまる。上五を次の人が上に持ってきて繋ぐということになり、ホワイトボードに書くことになる。一番端に座っていた石田柊馬さんが最初に詠むことに。集まった私たちを巧みに詠み込んだ句を即座に発表される。皆ほんのわずかな時間で次々に付けてゆき、最後の句が最初の句に繋がって、循環する形に終わるまで30分もかからなかった。
この尻取りの形が、笠段々付(かさだんだんづけ)だと言ったのは小池正博さん。小池さんは雑俳に詳しい方である。
出来上がって、一人が三回挙手での選。写真の赤字が右の句の得票数だが、十人が選んだ最高点句は前の句からの転じ方が鮮やかである。<秋の風隣を覗く竹帚>に得票がないのが不思議だが、皆最初にどどっと上げてしまったからなのだろう。手を上げるべきだった。地味だけどこれも前の句からすっきりと転じている。
中ほどにある「夏の滝」が俳人は気になるだろうが、川柳人は季語を意識していないから自然と出てきたのだろう。滝が季語になったのも後藤夜半以来らしいし、芭蕉だって<ほろほろと山吹散るか滝の音>とあるくらいだから。
夕食後、本格的に始まる。兼題、イメージ吟の選の発表があり、三分間吟も。数字を二つ入れた句、動物と数字を入れた句、などの題が石田柊馬さんから出される。深夜の三分間吟は、全員が一つづつ出題し、出題者は作らずストップウォッチを持って計り、その後みなの句箋を集め、後でその題の選者になる。題は「本陣」「バカ」「ことば」「キ」「通過」「紫式部」など14題。句は下書きをせずに書いて出してしまうので、手もとには残らない。だから、自分の句も覚えていない。石部明さんが後でまとめて下さるのを待つことになる。今、下記掲示板に順次発表されている。
http://8418.teacup.com/akuru/bbs
選からもれた句が今こちらのブログにも少し発表されているが、いい句がある。
http://moon.ap.teacup.com/senruu/
小鳥には小鳥のことば光あう
あけっぱなしになった北京の鍋の蓋
散文を書くという時間もあった。これらのメニューを考えているのは石田柊馬さん。『悪魔の辞典』に倣って書けという課題。まず『悪魔の辞典』からの抜粋がプリントされた紙が一枚配られてお手本が示される。そして、出された題について、自分の『悪魔の辞典』を書いていくのだが、物事を悪魔的視点で見ることが難しい。選ばれた文章はどれも、なるほど!と感心してしまう。
今回の新しい試みに長歌があった。いきなり長歌というのではなく、行程がとてもうまく考えられていた。最初は口語現代詩や、寺山の長歌が出てきて、いくつかの言葉が四角て囲んであって、その言葉を必ず使わなければならないというルールである。それらキーになる言葉をそのまま使って、その言葉と言葉の間を考えて創作してゆくという作業。でも、出てきた現代詩も寺山もむずかしかったので私は難渋した。
その後に、人麻呂の万葉の長歌「靡けこの山」の後半部分が渡されて、この音数で長歌を作れというもの。これは使わなければならない言葉は何もなく、時間も八分と長かったのでやや書きやすかったか。同じように恋をテーマにして五七調で文語で書いた。長歌を作ったのは初めてである。
間に何度か運動会があるのもこの会の特徴である。眠気覚ましのためらしい。行く時から柊馬さんの大きな紙袋の中にはピンクのボールが見えていた。ボールを蹴ったり、プラスチックの洗面器を蹴ったりして、二つのチーム対抗で競う。句も全部チーム対抗戦である。選に入ったら点が入るということになっている。
吉澤久良さんはサッカー選手のような服装で、ボール蹴りなどのお手本を見せるのに大活躍。樋口由紀子さんは私の横でどんな題にも即座にさらさらと鉛筆を滑らせているし、柊馬さんはいつも次々に何枚も何枚も手が止まることなく書かれる。途中ふっと顔を上げると皆うつむいて必死で書いている。
二つのチームの接戦となったが、3時半頃には終わった。女子五人は別室に引き上げたが直前まで言葉と格闘していたせいか、なかなか寝付かれない。翌朝は短歌二首で〆。卵とTシャツという題で一首づつ。たんかー?!、七七はよう付けん、等と言いながらも短かい時間内でちゃんと作るすごい方ばかりである。
がむしゃらに言葉を探し、言葉を連ね、子供が何かで遊ぶように言葉で遊んだねむらん会であった。
野口 裕 未完といえども必死に
岡山県和気鵜飼谷温泉で行われた「ねむらん会」に参加。毎回愚息を連れての参加となる。実は、一度この会に連れて行ってから、愚生よりも彼の方が参加に熱心である。会場はそのたびごとに変わるが、必ず泳げるのが彼にとっての魅力となるようだ。その間、「配愚う者」は母子の関係から解放されることもあり、参加を結構歓迎している。
今回は、私鉄・JRを乗り継いで会場に向かう。相生から和気までのJRが非常に混んでいた。土曜日のせいだろうか。会場到着後、すぐに温水プールに向かう。愚息は約三時間みっちり泳いだ。こちらは夜眠らない予定なので、体力温存のため泳がずにひたすら水中歩行。
プールを切り上げて、会場に向かうと、当日の課題が出ている。と、思ったら、事前のメールに兼題として出ていたといわれる。完全に忘れていた。しばらく顔を見ていなかった珍しい人もいたのだが、挨拶もそこそこに、締め切りまでとにかく作句。愚息がテレビを見たそうなので、途中で会場を抜け出してロビーで作句を続ける。
ロビーは、大勢の人がいる。愚息はチャンネルを切り替えられないのが不満そうだが、とにかくおとなしくは見ている。たまに、奇声を発したりして思わぬ注目を浴びることもあるが、今回はそのような事態にはならない。まあ、我慢してテレビを見ていろよ、と念じながら五七五を考えているところへ、緊急連絡。句会の開始が早まったからすぐ来いとのこと。えらいこっちゃ、と思いつつ会場に戻る。
今回の場合、一題に二句提出。選者は二人。互選はやらなかったので、一句一句に対する議論は行われず進行は速い。兼題が六、当日のイメージ吟(オブジェが示されて、それからイメージされる句を作る)が三だったかと記憶する。この句会の持ち方では作句量が膨大になる。よく、「どしどし作って、どしどし捨てる」と云う言い方をされるが、必然的にそうなってしまう。
愚生も選者になっていたので、作る方はそこそこに選にまわるが、さて今になってみるとどんな句を選んだのか覚えていない。題すらも覚えていない。今、以前のメールを確認してみると、
「素通り」「躊躇」「魔王」「タオル」 笠句「飛び立って」
と、なっていた。さきほど、兼題数が六と書いたが、やはり記憶は当てにならない。兼題はわかったが、どの題の選者だったかは記憶にない。かわりに、イメージ吟の題は覚えている。伏せたコップの上に丸い醤油煎餅が一枚載せてあるのと、折りたたみ傘、長い柄の黄色いプラスチック製靴べら、の三題だった。愚生は、現物が脇に置いてあるのを知らず、会場の鴨居にぶら下がっていた紙に書いてある絵がイメージ吟の元だと思っていた。伏せたコップの上の醤油煎餅を線画で描いてあったものから浮かんだのが、
砥石研ぐ砥石だという映写技師
これが、特選になった。現物を見ていたら、思いつかなかっただろう。他に作った句は、覚えていない。
話は前後するが、披講自体は食後にあった。食事中は、体重九六キログラムの愚息が食べ過ぎないように気は使うが、愚生自身の食が進むのであまり効果はない。たっぷり泳ぎ、たっぷり食べて満足のようだ。
兼題とイメージ吟の披講後から夜の部に入る。まず、「笠段々付け」というのをやる。五七五の最後の五を頭に持ってきて次の五七五を作るのだが、愚生には「落ちる子等」というのがまわってきた。前の句が、夏の瀧を滑り台にして遊んでいる風景なので、がらりと場面を変えて、
落ちる子等口あけたまま秋の風
とやった。困ったときの「秋の風」である。場面転換の点では、さらにあざやかな句が多かった。残念ながら記憶にございません。
地元の帰宅組が帰ってから、徹夜の本番(とは言うものの、参加メンバーにお年寄りが多くなり四時前には寝たのだが)。愚息は会場の隅に布団を敷いて就寝。
さきほどから、記憶にない、というところが多いが、すべて徹夜のせいである。レクリエーションをはさみつつ、様々の題をこなす。最後の三分間吟(出された題を元に、三分間でできるだけ多くの句を作る。慣れた人は、三分で十句以上を作る。)までは、五七五を離れて様々なパターンの文を作る。ビアスの「悪魔の辞典」を参考に、それ風の文を書いてみたり、現代詩や寺山修司の長歌の部分部分を残して、その間を埋めてみたりというようなことをやった。
いつもながら、この五七五を離れて様々なパターンの文を作るところで、「ねむらん会」のこの部分を担当している石田柊馬の情熱を感じる。参加メンバーの中にはこれらの課題に音を上げる人も結構いる。選者は交代交代にやるのだが、愚生が選を担当したところ(寺山修司の長歌)では、結局課題をこなしきれず、未完のものもあった。大げさに言えば、この課題をこなせないようでは川柳の未来は来ない、と課題提出者は考え、その考えをしっかりと受けとめているからこそ、未完になるとはいえども必死で課題に取り組むのだろう。未完のものも、推敲の跡が歴然としている。
稿起こし 一年たっても墨摺らず 五年たったら一行詩 十年後には抹消し 百年後には酸性雨 元の紙をば消し去りぬ
雨々降れ振れ雨よ触れ 雨々降れば 言葉消ゆ
このときの愚作(多少違っているかも知れない)だが、一年、五年等が元の寺山の部分。元の歌を探してくる情熱は凄いと愚作を書きながらあらためて思う。
深更にいたり、三分間吟。参加メンバー交互に題を出してタイマー係を務める。題を出した人以外は三分間ひたすらに作句。参加メンバーの平均は三分間で六、七句というところか。慣れた人は、十句以上を作り平然と提出し、またその句が良く抜ける。愚生の方は平均三、四句、多くて六句というところ。「あと三十秒」のかけ声を聞いたところで頭が働かなくなる慣れの差もあるが、よく作れるなあと、つくづく感心する。
愚生の場合、三分間吟の障害の一つに漢字を書けなくなっていることがある。途中で「墓」がどうしても出てこず、「碁」を書いたり、「基」を書いてみたりで結局「ハカ」と書いてしまったのがあった。発想段階で、この漢字思い出せないからやめておこうというのも結構あり、日頃PCの漢字変換に狎れすぎているのを痛感した場面でもあった。
ところで、どんな句が出たかは、さっぱり覚えていない。自作もそう。いまだに睡眠不足による頭痛が残っているのだから仕方がない。これは、記録が出てきた時点で確認しなければいけないだろう。
前述したように、就寝が四時前。以前はもっと粘ったような記憶もあるが、翌日のことも考えると終了時間はこんなもんだろう。七時に目が覚めたが、皆さん寝ている。もう一度寝ようとして、十分とろとろしてはまた目が覚めを何回か繰り返した。よく寝ている愚息をたたき起こして、朝食に向かったのが八時をまわっていただろうか。朝食時に、朝の課題として五七五七七が出たが、まあ付け足しの感じ。十時の解散まであまり時間もなかった。
解散後、石部明さんの車におじゃまして、愚息共々、備前焼の美術館まで送ってもらう。以前愚息の描いた「火星」という油絵が、最初に「ねむらん会」に参加したときに見学した備前焼の印象に基づいているのではないかとの疑問があった。それを確認しようとしたのだが、入った途端に油絵にそっくりの桃山時代の大きな壺が受付近くに置いてあった。疑問氷塊。やはり、火星ではなく備前焼だった。もう売れて手元にはないが、あの絵は「ねむらん会」の副産物だったのだ。もう一度あのような絵を描くかどうかは、本人が返事をしないのでわからない。ひたすら、「ねむらん会、楽しかったです」を繰り返し言っている。
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〔週俳7月の俳句を読む〕羽田野 令
事物が他者として在ること
箱庭や地球の夜は影なりき 丹沢亜郎
暗い日曜日、ダミアだ。十句に被せられているこのタイトルのイメージが強く、どうしてこのタイトルがついたのだろうかと思いながら読んでいくことになる。「暗い日曜日」は、自殺者が続出したのでフランスでは放送禁止になったという、厭世的なメロディーの、自分の死後の瞠いた目を想像している悲しい歌である。やはり一連の中には陰膳、香典返し等の語があり、死にまつわる句であることがわかる。
掲句は、夜というものは太陽に照らされている地球の影の部分であるということを言っているのであるが、地球をそのように巨視的に眺め、箱庭という季語が配されている。そして、過去の助動詞「き」を使って「なりき」と書かれているから、地球の夜は影だったなあ、と言っていることになるが、これは普通に読めばヘンである。が、題が示しているように、死後の想像の中で地球を見ていると考えるといいのだろうか。
緑夜私(ひそか)に骨から肉を剥がす音 中田剛
骨から肉を剥がすという行為は、日常の調理や食事の時によくあることである。だが、「私(ひそか)に」がつくことによって、食卓の上の平和なナイフの音から、なにか怪しげなものを含むものとなる。私という漢字を「ひそかに」に使っているのは、私だけの秘密のようなニュアンスがある。「青ひげ」や「黒塚」のような恐ろしさまでもその延長線上に思わせるという意図があるのか。緑夜と肉、緑と赤という色彩の中で隠微な音が響く。
夕風のなかなか迅し夏桔梗 千葉皓史
7月に、あ、もう桔梗が咲いている!と、専らよその庭に目をとめるのは、桔梗が秋の季語だと知るようになってからのことだ。夏の草花に混じって咲いている桔梗は、白であれ、紫であれ、きちんと襟を正して凛として立っている。
風が「迅し」と表現されている。水の流れに言う言葉だ。風だと普通は強い弱いだろう。はやい風おそい風とは言わない。また、「迅し」に「なかなか」がついているから、実際にはそう強い風ではない。或は、強いとも弱いとも判断つき兼ねるような風なのだろう。そんなに速度のない風だけれど、よく味わってみると「なかなか」はやいよ、ということなのだ。「はやい」は、変換では「早い」「速い」と出てくるが、「迅い」とは出てこない。そんな一般的ではない字の「迅し」に籠めた、風を讃える気持ち。さわやかな心地よい風なのだろう。風がそのように表現されることによって、桔梗の美しさが際立つ。
素裸になりどこからも遠くなる 北川あい沙
衣服を全部脱いでしまった時の、身ひとつの寄る辺なさ。誰も居ない部屋であってもちょっと不安な感じがよぎる。次に例えば風呂に入るという行為が待っていても、それまでの少しの間の裸は不安だ。まぐはひの前だとしてもそうだろう。それを「どこからも遠くなる」と言った。自分以外の事物が他者として在ることを、裸になったとき直接的に感じ取った。身体を通して得たふとした感覚を捉えて巧みである。
■ 丹沢亜郎 「暗い日曜日」 10句 →読む
■ 中田 剛 「有象無象」 10句 →読む
■ 白濱一羊 「ゴールポスト」 10句 →読む
■ 奥坂まや 番号順 10句 →読む■ 千葉皓史 夏桔梗 10句 →読む
■ 北川あい沙 柿 の 花 10句 →読む
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俳句の置かれる場所
「五・七・五のポスターデザイン展」
羽田野 令
去る六月の前半二週間、富山の画廊で「五・七・五のポスターデザイン展」が開かれた。高橋修宏氏プロデュースの、俳句と平面デザインのコラボレーションの展覧会である。今回で16回目だそうだ。今年は思い切って富山まで見に行った。
高橋氏は最初はご自身の俳句作品を対象とされていたそうだが、このところ毎年違う俳人とのコラボレーションを展開されている。今年の俳人は柿本多映。「非時(ときじく)」というタイトルである。20代~50代のデザイナー達が思い思いの世界を見せてくれている。
俳句と絵とが同じ画面にあるという形は昔からあるが、この展覧会はそういうものとは違うものだった。概して抽象度の高い作品が多い。個々の俳句からデザイナーたちが受け取ったもの、彼等の頭の中を巡ったイメージが色と形の世界として表されている。句をいかにデザイナーが咀嚼し、膨らませ、広げ、飛び、また諸々をどこまでそぎ落とし、どのように単純化された形へ行き着つくかなのであろう。
ジャンルとしては俳画ではなく、あくまでもポスターなのだそうである。ポスターというと印刷された宣伝媒体であるが、この展覧会の作品も町で見かける所謂ポスターのサイズであり、印刷物である。
画廊に入ってパッと見ると、グラフィックデザインの作品が並んでいるという印象である。俳句の文字は小さく書かれているものが多い。それぞれの前に立って、句を画面の中に読む。しばらくそうしている。なかなか今までになかったような時間だ。大きいのも感動的だ。体が作品に向き合う。絵の前に立った時には驚きの方が多いかしれない。句を読んで自分では別段絵にして理解していたわけではないから、絵になるということ自体への驚きが咄嗟に来るのだと思う。それがとても新鮮である。
春うれひ骨の触れあふ舞踏かな
…は、真ん中の空間があってその周りを取り巻く幾つもの丸で構成されている。骨の断面の丸か。なかなかこうは描けないなあと、見入ってしまう。その右側にあるのは「空気より淋しき蝶の咀嚼音」。
赤いのは、右上の黒い墨のしたたりのようなところから文字があって…
ひるすぎの美童を誘ふかたつむり
…と。
別に色を想像して読んでいたわけではないが、迫ってくるような鮮やかな赤には驚く。
死角とは生国に桃熟れさうな
これは、画面が×に四等分された作品。上の逆三角形の黒が効いていて、死角ということがこの黒かな等と思って見る。
揚羽が半分見えているのは、「黒揚羽あやふき昼を残したる」。
画廊の外に貼ってあるのは、展覧会のタイトル等が大きく入れられて文字通りこの展覧会のポスターとなっている作品。モノクロの海と空の写真を90度回転させて、水平線が縦にあり、飛び出して見えている。そして写真では分かりにくいが、真ん中の海と空の際の部分にピンクの文字で「出入口照らされてゐる桜かな」と句がある。はじめに天地が分かれた所のような万物の始まりの様な又生命の出口であるかもしれない様なところに、ぴたりと桜色が収まっている。
画廊に来た人の中には、こんな俳句があるんですか!という声も多かったという。
結社誌や同人誌や商業誌や句集の中以外、ネット上以外、短冊や色紙に書かれて部屋の飾られている以外に、なかなか俳句の置かれる場所はないが、そういう普通にない場所に置かれるのもいい。そしてそういうことを一地方で続けられているのも凄いことである。
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【週俳5月の俳句を読む】
羽田野 令あれは何の音なのか
首刎ねよ首を刎ねよと百千鳥 菊田一平
「聞きなし」だろうか。有名なのでは、時鳥の「東京特許許可局」や「テッペンカケタカ」があるが、時鳥を最初に聞いたときは、キョキョ、キョキョキョキョーと美しい声がしたので、ああ、これが特許許可局なのか、と思った。
春、小鳥が囀るのはいかにも楽しく長閑な光景であるが、そういう中で「首刎ねよ」と聞いてしまうとは何と言う聞きなしだろうか。光り溢れる中に潜んでいるその正反対のものを感じ取ってしまったのか。百千鳥だからたくさんの鳥なのだろうが、たくさんの鳥が「首刎ねよ」と言うのは、かなりすごい。一度そう聞いてしまうとなかなかそれが離れなくて、そのようにしか聞けないものであるが、春が来る度その鳥が鳴く度、作者は「首刎ねよ首を刎ねよ」と聞き続けるのだろう。
春暮れて枕の底にある鼓動 玉簾
眠れない時枕に耳をつけていて、幼い頃よく耳の奥で鳴る音を意識した。あれは何の音なのか。脈を打つ音なのか、血液の流れる音なのか、心臓の音なのか。いずれにしろ自分の音なのであるが、ここでは枕の底にある鼓動だと言っている。そう、確かに枕の底からする音だ。その一定の間隔をおいてくる音にじっと聞き入っている真夜中の孤独。それは寒夜ほどの厳しい弧絶ではなく、夏の夜の寝苦しさでもない。春の終わりの頃のだと言う。「春暮れて」には春闌けた憂さの感じがある。枕の底から聞こえてくる鼓動も、もの憂く響いているのだろう。
泉見に行つたきりなるおばあさん 杉山久子
行ったきりで帰って来ないのはちょっと怖い。「行つたきり」という言い方には神隠しに遭ったようなニュアンスがあり、そういう不思議さを含んだ物語性を感じさせる。神隠しの伝承は各地に残されていて、近代以前にはよく人の口の端にのぼったようだ。柳田国男の『遠野物語』にサムトの婆という話があるが、それは若い時に神隠しにあった女が三十年以上経って帰って来るという話である。
泉とはきれいな水の湧き出るものだから自ずから聖なるものの象徴のようなものであるが、その泉を見に行くとは何なのかと考えていて、黄泉という語の中に泉の字があることを思い出した。そうするとあっけなく謎解きされてしまったような気がした。このおばあさんは黄泉の国へ行ったのだ。すんなり納得できたら怖さが減ってしまった。
■伴場とく子 「ふくらんで」10句 →読む■杉山久子 「芯」10句 →読む■一日十句より
「春 や 春」……近 恵/星 力馬/玉簾/中嶋憲武 →読む
縦組30句 近 恵 →読む /星 力馬 →読む
/玉簾 →読む /中嶋憲武 →読む■菊田一平 「指でつぽ」10句 →読む■Prince K(aka 北大路翼) 「KING COBRA」 10句 →読む
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【週俳4月の俳句を読む】
羽田野 令
本当は歩んでなんかいないから
朧夜を卵をなぞるごと歩む 守谷茂泰
朧夜とは朧月夜の略された言葉だから、この句には月がある。「朧夜と朧月夜とは同じものである」(平井照敏編『新歳時記春』)と書かれていても、朧月夜というと月の美しさが前面に出ているような気がするし、朧夜には茫とした雰囲気の方が強くあるように感じる。
掲句は朧にかすんだ月の夜を舞台に、比喩として登場する卵と歩む私とが、さらに朧そのものを再構成しているような感じがする。つまり、「卵をなぞるごと歩む」ということ全部が作者の内なる朧の喩となっているように思うのである。
というのは、「歩む」と言っているのだが、本当は歩んでなんかいないからである。「歩む」はじっとしているのではないことを表すためにだけ選ばれた言葉のようで、歩むという言葉の本意からは遠い。「卵をなぞるごと」ということは、曲面をあっちへ行ったりこっちへ戻ったりしてぐるぐる回ることだろう。
歩むは、本来移動のための明らかなベクトルを持つ語であり、先には目的となる地がある筈である。最初からそうでなくても結果的にそうなるのが歩むということだ。しかしその様でない、卵に添う歩は、曖昧模糊とした中をたゆたっているだけのように思える。作者の思考のありようのように。丸い面をたどりながら移動してはいるが前へ進んでいかない作者の逡巡。
この「歩む」は楸邨の<おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ>の「ものおもふ」に近いのかも知れない。朧夜という世界に自らのもの思う渾沌が重ねあわせられていて巧みだ。
亀鳴けば前向きに豚生きるといふ 二輪 通
「豚の春」にはどれにも豚が出てくる。動物が人格を持って動くのは、童話のようなお話の世界のことだろう。俳句でそういう世界を作ろうとしているのだろうか。営林署の中を逃げ回る豚を容易に想像することはできるし、どれも人間界の中で順当に動作している豚であって、人間界の人間の誰かと置き換わっても不思議のない豚である。が、豚と密接な村落社会を想定して書いているわけでもないようだ。
豚が人間界とリンクして、一種異界と交錯しているような映画があった。沖縄を舞台にした「ウンタマギルー」という映画だ。その中では豚の化身の妖艶な女が怪しげな水煙草をふかしたり、アメリカ人の高等弁務官は、豚の血を輸血する装置から管を自分の血管に繋いで日光浴をしていたり、と全くシュールな豚の扱われ方があったが、この一連の豚はそうではない。
何かを主人公にして描くということは、小説、戯曲などではごく当たり前のことである。主人公がありストーリーがある。俳句でのそういう試みなのだろうか。
前向きに生きると言う豚は、なにかマスコットの小さな豚が言っているような可愛らしさはあるし、花見の宴の重装備の豚や、ガガーリンと隣り合っている豚というのも、イラストレーションになれるような感じはある。句に書かれている状況のそれぞれは、クスッと笑えるようなものを狙っているらしいのもあるが、実のところあまりよくわからないのである。
■寺澤一雄 「春の服」10句 →読む
■松本てふこ 「不健全図書」10句 →読む
■二輪 通 「豚の春」10句 →読む
■守谷茂泰 「春の坂」10句 → 読む
■佐藤郁良 「白磁の首」10句 →読む
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【週俳3月の俳句を読む】
羽田野 令
待つということ
目つむるといふ待ちやうも梅の花 佐藤文香
待つということ、今から先の時間に何かがあって、あるだろうと思って心をその先へずっと向かわせていく、その待つというかたちの一つに目をつむることを挙げた作者。何も見えない自分の内なる世界は、待つということに一番ふさわしいのかもしれない。まなうらの闇に結句の梅の香。美しい。恋の句なのだろう。
佐保姫に寄る年波の紐の数 横須賀洋子
佐保姫は山々を青ませ暖かな風を吹かせる古代の春の女神だから、天地にわたる大きさを感じさせる季語である。それに「寄る年波の」という如何にも人間臭い既成語句が来ていて、絶妙な神と人為とのバランスがある。もちろん、姫という擬人化のための語がつくことによって人になぞらえた捉え方をされているのだが。
佐保姫はまた、作者自身のことをそういう風に言ってみたととれて面白い。幾つになっても自分にまつわってくる色々な紐やら枷やらのことを言っているのだろう。「年波の紐」だから、花衣の“紐いろいろ”とはまた違っている。古代大和の春を遠くに置いて自身の日常の像が描かれている。
空に置き去りの蹄鉄梅咲いて 中村安伸
空にあるはずのないものを置く、言葉はそういうことができる。言葉は表象であり、言葉と言葉の組み合わせによる喩として提示される作品世界をそのまま受け取りたい。
本当は持って去るべきだったのだが置いてきてしまったという、置き去りという言葉にある悔いの感じが、梅咲く頃のまだ冷たい空気感と一体になって少し痛々しい。重くて堅い鉄のものを空に幻視している作者の意識、小さな梅の花と蹄鉄との作り出す世界の超現実性に惹かれる。
啄ばめる音の小さくあたたかく 陽 美保子
谷地坊主、何なのだろうかと検索してみた。カブスゲという地下茎の発達した植物で、冬に凍って株ごと持ち上がり、春先に雪解けで根元がえぐられるという何年もの繰り返しによって、高さ4~50センチのかたまりになる釧路湿原特有のものだそうだ。その盛り上がった株のかたちがお坊さんの頭に似ていることから谷地坊主と名付けられたそうだ。谷地眼(ヤチマナコ)という穴もあるそうで、一句目の「穴釣の穴の残れる遅日かな」はそのことなのだろうか。谷地坊主がわかると、見たこともない釧路湿原が一連の後ろに広がって全体が生き生きと見えてくる。
掲句は湿原に来ている小鳥のことを詠んでいるのだろう。小さな生き物の飲食の小さな音が作者のまなざしの中にある。「あたたかく」見ているのは作者である。
蝶の口しづかに午後を吸ひにけり 山根真矢
小さなものに注目している句。小さな、あるかないかわからぬような蝶の口が、午後というものを吸っているという。午後という言葉の表すものは、昼を過ぎた時間帯であり、目に見える実体のないものである。私たちがその中に居て過ごしている時間そのもの、その漠とした大きさと抽象性が、微小な蝶の口に収束してゆくようである。昼の明るさと「しづかに」音もなく行われているということの不思議さが漂う。
キスをする春の地震の少し後 小倉喜郎
「キスをする」と初句で切れているからそこに焦点が当たるのだが、最後に「少し後」という時間を示す語が提示されていることで、時間的経過をなぞることに意識が転換されるように思った。そしてキスがうんと軽くなって伝わってくる。春に起こった地震からキスまでの少しの間を読者は物語で埋める。おそらく大きな地震ではなかったのだろうと、恐かったね等の会話もあったのだろうと。「少し後」が効いている句だと思った。
■ハイクマ歳時記 佐藤文香・上田信治 →読む■大牧 広 「鳥 雲 に」10句 →読む■横須賀洋子「佐保姫」10句 →読む■中村安伸 「ふらここは」10句 →読む■陽 美保子 「谷地坊主」10句 →読む■山根真矢 「ぱ」10句 →読む■小倉喜郎 「図書館へ」10句 →読む
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【週俳2月の俳句を読む】
ガラスの向うの無音の世界羽田野 令
空を飛ぶものしずかなり室の花 宮嶋梓帆
ものが何なのか。飛行機か飛行船、それとも子供の手を離れた風船、あるいは鳥なのか、何なのか分からないが窓の外が見えて、冬日が差込む部屋に居る作者。葬儀のために実家に帰ってきたことが詠まれている一連の最後にあって、葬儀の諸々のことがふっとガラスの向うの無音の世界と重なるようでもあるのだろう。亡くなった人を含めて何もかもが現実とは隔絶したものになってゆくような虚無感が飛ぶもののしずかさを見ている目にある。
この連作は映像として浮かんできて、短編映画のような味わいがあった。冠婚葬祭の中のおしゃべりな家族もわかるし、マフラーをしたお坊さんも効いている。
桃咲くや骨光り合う土の中 神野紗希
決して見えないものを見ている。人間にしろ動物にしろ、生きていたものの体の一部だったものが地中にあり光り合っているという不思議な光景。そういう土の中が描かれることで、地上の桃のがより生々しく感じられる。
安吾の桜の下の死体がこれの延長線上にあるのかもしれないが、桜の爛漫とはまた違う。桃は、空へ向かって伸びる枝に沿って縦に並んで花がつくから、何本もの木がある林でも疎らである。桃の木自体よりも桃という言葉からの方が大きいかもしれない。
すばらしき世界の果てへ消防車 さいばら天気
赤子の目、そう思った。何も知らなくて初めて消防車が走るのを見た子は、きっとこう思うだろう。道を走っている車を全て脇へ寄らせて、信号も何も無視して、サイレンを鳴らしてすっ飛ばしてゆくのだから。色も真っ赤で、他にあんな車は見たことがない、どこへゆくんだろう、どんな素晴らしい世界へ向かってるんだろうと。
私たちは知り過ぎているから、見えないことが多くある。なかなか身についてしまったものをふるい落として見ることは難しい。消防車の先にあるものを知っているから、なかなかこうは書けないのである。
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