2018角川俳句賞
「落選展」を読む(3)
岡田一実
>>(1) >>(2)
9. 街の動態 丸田洋渡
≫縦書き ≫テキスト
この作者はイメージとイメージの連なりを口語を多用して表現し、ややネオテニー的な作品世界の構築を目指しているように思う。
夏みかん小さな切手に小さい人
日本の切手の標準的サイズは「一辺が18 - 20ミリメートル程度」だそうだ(Wikipedia )。掲句、「小さな切手」と言ってもこの標準サイズより小さい、と言うことではなく、このサイズが「小さい」と作中主体が感じているように思う。
「小さい人」は文化人の肖像画かもしれないし、日本画のような図画かもしれない。「小さな切手」にぴたりと配置されている「小さい人」には作り手の律儀さも感じられる。
「夏みかん」の鮮明な色や形をまず想起させ、明るい雰囲気のなかそのささやかな意匠へイメージが移るときの不思議さと愉快さ。充足感が伺える句である。
地下鉄は核に近づく道で夏
この「核」は地球の「核」だと思った。地球の「核」は「直径約7,000 km(半径3,500 km)で、地表からは地下2,900 km以下にある」らしい(Wikipedia)。
普段地下鉄に乗るときに「核」を意識したりするだろうか。しかし言われてみれば地上の道よりも地下鉄は「核」に近い。「近づく」という動詞により、ぐんぐんと地下へ潜っていくような印象も与え、句末の「夏」という季語によって暑さが漲る展開となる。真理を言い止めながらもどこかファンタジックな世界である。
踊り子に天動説を信じる目
盆踊りを見ていると、踊り子の視線が一斉に天へ向くことがある。掲句はそのような場面を切り取っているように思った。
本当には「踊り子」が何を信じているかなど計り知れないのであるが、見ている側からすると彼らの「無」な感じが却って想像をかき立て「天動説」を信じているかもしれないというところまで思わせる。
「天動説」という意外性が句に膨らみを持たせ豊かな味わいを醸す。
10. 高気圧 クズウジュンイチ
≫縦書き ≫テキスト
人形の二月の硬き手をひねる
この作者は眇眇たる物事に目を凝らして微細な詩情を掬うところに特徴がある。
掲句、「二月」という季語の生かし方がいい。「二月」というのは月初めに立春となるため陽暦でも春に入るが、まだ寒さ厳しい折であり場所によっては雪がちらつくことさえある。「硬き手」というところに、寒さに強ばっているかのような様子が表出されるが、その寒さの中に春の華やぎの気配が少し漂うところが「二月」である。
「人形」の「ni」、「二月」の「ni」、「ひねる」の「hi」と「i」音を響かせた頭韻も句に硬質さを加えている。
らんちうの粒餌をすぱと吸うてをり
うすぬるく曇る茸の袋かな
音の感覚が冴えている句である。
前句、眼目は「すぱと」であろう。この「すぱと」が俳味であり、句の芯となっている。この開放的な半濁音を含む擬態語があることによって、「らんちう」の丸い口が愛らしく見えてくる。
後句、「茸」の呼吸だろうか。摘みたての「茸」の息吹そのものが「うすぬるく」という温度を伴って伝わってくる。全体的に「u」音が多く音が籠もり、生の不気味さ、死の不気味さが一体となって迫ってくる。
丸椅子の真ん中に穴冷し中華
竹馬のすつと収まる隙間かな
見過ごしがちな意外なところに着目している。
前句、「丸椅子」の「真ん中」の「穴」は軽量化、運びやすさ、蒸れ防止などのために開いている。その簡易な様態が、高級店ではない、「冷し中華始めました」とポスターが貼ってあるような大衆的な食堂を思わせる。尻を蒸らさないように涼しくしながら食べる「冷し中華」のなんと庶民的なことか。でも、結構美味しいよね、という声も聞こえてきそうである。
後句、「竹馬」は乗るときは立体的であるが、それが平面に近い形になる瞬間を捉えている。「収める」ではなくて「収まる」というところに「竹馬」の主役感が現れる。
11. 薪の断面 寺澤一雄
≫縦書き ≫テキスト
力士みな大阪にゐる涅槃西風
大阪で開催される三月場所のことだろうか。「涅槃西風」はお釈迦様の入滅の日の涅槃会(陰暦二月十五日)の頃に吹く風。現実的には休場者もいるであろうし「力士」の全員が大阪にいるとは考えにくいが、「みな」という措辞でそう言い切ることで名だたる「力士」が桃色に集う様子が迫力を伴って見えてくる。
このとき、客中主体はどこにいるのだろう。「大阪」にはいないように思われる。より東にいて、その「力士」達のいる「大阪」からの西風を感じているような雰囲気だ。大阪と「涅槃西風」は涅槃という意味でなく西という接点で括られ、因果がうまくずらされた配合となっている。
黄砂降るカメラの紐を首に掛け
この「カメラ」には重量感が感じられる。「紐」が必要なレンズの大きい「カメラ」なのだろう。「黄砂降る」烟った景色。日の暈は大きく感じられ、ものの色は鮮明さを失い黄味を帯びたトーンとなる。
まるでターナーの絵画のようなこの時期であるが、カメラを携えた客中主体はその世界に同化していないように見える。はっきりとした「紐」の確かさがそう思わせるのかもしれない。
風鈴を持てば鳴りけり竹の秋
「竹の秋」は晩春の季語。季語内の季が実際の季と逆になる俳人好みの季語だなとつねづね思う。掲句、「風鈴」の準備をしているのだろうか。手に「風鈴」を吊り、定位置へ運ぶときに鳴る。繊細な情緒だ。
「風鈴」の縦に長い様態と「竹」の縦に長い様態が重なり合って、季節のあわいの情感を織り込んでいる。
犢鼻褌の読みを調べる秋の暮
「犢鼻褌」、私も調べました。みなさんもお調べください。意味は「短い下袴」のことで、調べてみて「なーんだ」と思う、その心の動きが俳諧味とも言える。この「秋の暮」という季語の処し方!馬鹿馬鹿しさの中にメタ的な面白さがある。
他にも〈銅は屋根にコインに夏の雨〉〈月涼し絶滅危惧種絶滅す〉〈ぱつくりと麦藁帽子割れにけり〉〈花曇校歌に残る良き言葉〉〈未草開く直前萼開く〉など俳句的旨味に満ちており、興味深い作品であった。
12. 夜と昼のパレード 赤野四羽
≫縦書き ≫テキスト
鳳仙花やがては止まる昼の琴
この作者の魅力は写実と想念を観念も混ぜながら往還しているところである。
掲句、「やがては」とあるから今現在は「琴」が鳴り響いているのだろう。「やがては止まる」というのは推察であるが、止まらない「琴」はないので真理に近い。「昼」という明るさが「琴」の絢爛さをより一層引き立てている。
「鳳仙花」は別称「爪紅」なので「琴」とはツキスギ感もなくはないが、その花のあでやかさとの相性と取りたい。
友の子の耳は大きくよく踊る
「耳は」の「は」は限定であり、「耳」以外は「大きく」ないのだろう。子どもの大きな「耳」がひらひらと「よく躍る」。盆踊りの列の中でもひときわ目立ったのかもしれない。
「友の子」とは全く他人ではないがとりわけ親しくもない間柄だろうか。その「耳」だけがクローズアップされ、まるで「耳」に意思があり、「耳」の動きがすなわち「踊」であると思わせる。
洋梨日和いやな男と宿にいる
「いやな男」とは偶然「宿」で出会ったのであろうか。それとも同行の者であろうか。それはわからない。「宿」という寝食をともにする場所に「いやな男」といることを「洋梨日和」が包む。「洋梨」の甘くぬるりとした食感。さらに「日和」とあることで「いやな」という嫌悪感だけが際立たない妙な味わいがある。
群衆に蝶の過ぎゆく速さかな
「群衆」はどういった場面の人々なのだろう。一読「デモ」などの印象を持った。混み合って停滞した人々は個を剥奪され「群衆」という塊として見做される。そこに「蝶」が「過ぎゆく」。
この「蝶」のなんと解放されていることか。「速さかな」としっとりと速度に焦点を当てることで、滞っている「群衆」に対し実に鮮やかな対比となっている。
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2018-12-02
2018角川俳句賞「落選展」を読む(3) 岡田一実
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2018-11-04
■2018角川俳句賞「落選展」第3室■9. 街の動態 丸田洋渡 10. 高気圧 クズウジュンイチ 11. 薪の断面 寺澤一雄 12. 夜と昼のパレード 赤野四羽(*)
■2018角川俳句賞「落選展」第3室■
(*)一次予選通過作品
9. 街の動態 丸田洋渡
10. 高気圧 クズウジュンイチ
11. 薪の断面 寺澤一雄(*)
12. 夜と昼のパレード 赤野四羽(*)
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■2018角川俳句賞「落選展」第3室■ テキスト
■2018角川俳句賞「落選展」第3室■テキスト
(*)一次予選通過作品
9. 街の動態 丸田洋渡
陽だまりの象の歩数よ都草
立子忌の潜水艦の元気かな
たんぽぽや鳥来るように平らな屋根
囀を放っておいてみてもいいか
船の出て違う船くる春の湊
春暁や水深を表す海図
花の冷え御伽噺に牛が出る
鳥曇海を覆える蓋がない
初虹や魚の奥に魚のいる
送れば返る手紙のうれし春北斗
夏みかん小さな切手に小さい人
水を飲み干して葉桜の必要
筍やどこかで親が死ぬ気配
椅子捨てて机ひろびろ青岬
相槌を打つ翻訳家ところてん
マーガレット丘とスカート似合うひと
消火器をぐっと握って夏に立つ
花柘榴水の聞こえてくる二階
五月雨の博物館の象が骨
声で迫られ梧桐のある実家
蛍よりもっと光ろうとふんばる
花樗雨は大きなスプリンクラー
みずたまりに胸まで浸かる現の証拠
夕立の印刷室の無人かな
睡蓮やようやく釘のみな錆びる
心房に心室あって片かげり
発明にぱんと向日葵かがやく日
地下鉄は核に近づく道で夏
海と化すクックロビンや朝に鐘
花火師の先の花火を知る手つき
秋澄むや火の研究室の埃
脱ぐ靴の両足揃え稲光
天の川左右に空いている駅舎
鳥威し鉄骨の崩れて分かる
月や瓶に愛入れよ君が言うように
踊り子に天動説を信じる目
しとしとと覚めるひとびと葡萄園
水切りの石のかなしさ木染月
鵙逃がす大きな樹木これから死
断層に風吹きあたり金木犀
短日の鎖のたびに杭のあり
円柱の前と後ろや冬霞
首かしげて犬鷲は空考える
たっぷりと水仙を置き校長室
梟に友達はいないでほしい
枯草を蹴りながら歌を歌うな
海の減る鯨打ち上げられていて
冬かもめ空を点描する時間
「雪」声の聞こえて窓のいちめん白
街掛かる壁のうつくし青写真
10. 高気圧 クズウジュンイチ
調理器具買うて建国記念の日
人形の二月の硬き手をひねる
春泥の先へひよこを触りにゆく
春風は川に速まる榎の木
とぷとぷと混ぜてペンキが春の色
風船のひどく弱つて青畳
桶の田螺が知らず一周してゐたり
かりかりと青く目刺の背の乾く
草餅の包みへ風のわづかかな
虫食みの花やおもての公文式
蝌蚪の尾の泥を叩いてをりにけり
うらがはに道のあるいへ雪柳
蛤や緑色濃くオセロ盤
心臓は小さな臓器豆の花
きりぎしの躑躅に雨の痛むかな
住む人の変はれど庭のゆすらうめ
くしやくしやの鳥を拡げて夏隣
合宿所の硬きシーツや朴の花
らんちうの粒餌をすぱと吸うてをり
丸椅子の真ん中に穴冷し中華
日雷重みを増しておつとせい
とびうをのわつと出てくる高気圧
石垣に蟹の潜んで真昼なり
萍や風の終ひへ幾重にも
ソビエトの領土のやうに新生姜
白桃嗅げばみちみち満つる密なる毛
台風や塊肉を煮て過ごす
首吊りの縄の結び目あけびの実
秋の蚊の大きくなりて痩せにけり
庭先はバリカンの音菊日和
国と首都合はせて表にすれば秋
うすぬるく曇る茸の袋かな
どんぐりが崖の二段を落ちてゆく
檻の猪檻を揺らして廻りけり
みづぎはの胡桃みなみを向いて立つ
傾きの木へひよどりが来てをりぬ
末枯の高さに脛の長さかな
秋寒やトースト裂けば水蒸気
濡れてゐて道は短し朴落葉
竹馬のすつと収まる隙間かな
鯛焼や紙の袋にしたむきに
低音を閉ぢ込めてゐる枯葎
湯豆腐や硬き踵が板廊下
水使ふひとりと落葉掃くひとり
馴化して鶏は大きくクリスマス
タクシーの無線の寒き地名かな
クリームパン割つて渡して枇杷の花
白鳥の首打ちつけて戦へり
びぐびぐと寒鮒陸に口を開く
暗算の繰り上がる桁寒卵
11. 薪の断面 寺澤一雄
力士みな大阪にゐる涅槃西風
トラックの荷台広々桃の花
名月と同じところに春の月
天守からパパを呼ぶ声夕薄暑
銅は屋根にコインに夏の雨
木天蓼の花と教はり疑ひぬ
故郷の街の窶れや秋燕
庖丁は切れば汚るるそぞろ寒
焚口に薪の断面秋収
点滅の赤信号や首都の雪
冬麗は陸奥と常陸を分かたざる
冱つる夜のびつくり箱の狭さかな
春の来てもうすぐ花の雑木山
囀や山の形に木の生える
鉄橋の下の暗さや鳥交る
黄砂降るカメラの紐を首に掛け
遊船の進水せしは昭和末
月涼し絶滅危惧種絶滅す
ぱつくりと麦藁帽子割れにけり
栓を開け水が戻りぬ作り瀧
実柘榴や人に四本糸切り歯
セメントのサイロに名前曼珠沙華
筋肉は赤白模様小鳥来る
沸沸と蜻蛉湧き出る視界かな
枯れて立つ背高泡立草荒地
他人より分けてもらふ血古暦
もの食ふと頭に汗や鳥雲に
木は腐り立坪菫咲いてをり
玄室は荒れ花びらの吹き込める
風鈴を持てば鳴りけり竹の秋
湧きたての雲の白さよ夏休み
蟻歩く案内板の道の上
目の黒いうちは冷房最弱に
低気圧そこに停滞鱧の皮
太刀魚のぐにやぐにや動き釣り上る
やまかがし刈田のなかに迷ひけり
出来秋の背凭れ肘掛けあるベンチ
野球盤ゲームもつれる後の月
鉛筆の高さを揃へ春を待つ
風光る胡人と同じ鼻を持ち
クレソンを阿蘭芥子と言ひて摘む
花曇校歌に残る良き言葉
未草開く直前萼開く
夕立の雲は正午に生まれけり
目薬のほとんど流れ飯饐る
投げ易きつぶて少なし夏深む
犢鼻褌の読みを調べる秋の暮
銀杏散る大きな鳥が来て止まる
バイオマス発電所あり紅葉狩
川に手を浸し暖か寒土用
12. 夜と昼のパレード 赤野四羽
夏の雨珈琲淹れるひと静か
火を担ぐ女の臍に鉄の汗
硝子鉢うねる金魚の尾の暗さ
背をむけて語る母と子杜若
賑やかな浴衣なんだか熱がある
濡れた葉の額おさない夏の夕
蝸牛わけしり顔のあぶらかな
息を抜く女の顔や花あやめ
蝉の子の蝉としてある心かな
空蝉を素足に踏んで土黒き
被毛なき肌の湿りよ床涼み
郵便箱ひらく音する夜の秋
九歳のこえの高くに大花火
鳳仙花やがては止まる昼の琴
友の子の耳は大きくよく踊る
スープ冷える唇濡らし箴言す
ここにいます蛹を癒す月明り
靴下をゆっくり履いて秋の椅子
爽やかに犬も海賊服を着て
観音像すこし俯き秋の澄む
茸たちおいでおいでと吾を呼ぶ
十月の街をビニルで包む雨
洋梨日和いやな男と宿にいる
銀杏落葉己の陰も伸びいたり
鮟鱇の肝の来世にいろめくや
悦びのようにくらくら湯に豆腐
雪激しくて愛し方を間違える
鷹揚々腸の燃えあがる昼
白菜やああ心などわからねば
丁寧に嘘を吐きたる冬椿
鴨の血に金の盃やや卑し
枕よ枕凍土の夜を見ていたか
冬蜘蛛の愛に机のうえ狭し
寒月や珈琲あおく待つ夫人
縹渺と大気の音の雪を踏む
元日の夜は華やぐ傘に似て
初蝶や争わぬ身に蜜を吸い
朽ちてゆく家に朧を飼っている
水温む椅子も寝床も浮かぶへや
ナポリタン炒める春の歌謡曲
犬の眼に人間を呼ぶ桜かな
紫煙染む朝寝や卵焼くおとこ
少年に汚れた水のあたたかき
桜蕊降る君の帽子を被るひと
花冷えの硝子戸重くありにけり
群衆に蝶の過ぎゆく速さかな
壊れ易い体に水を春の雁
頬骨やこの春紙のように貧し
雉の鳴く頃にはいくさ頭抱く
花馬酔木ゆるり速度を落としけり
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≫縦書き
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2017-02-05
【週俳12月1月の俳句を読む】赤野四羽 キュビズムと映画
【週俳12月1月の俳句を読む】
キュビズムと映画
赤野四羽
闇白し幹が奥へと縦に続き 生駒大祐
落ちそしてとほく梢とかよへる葉 同
生駒大祐は豊富な技法を身に付けており、特定の手法を追求するタイプの俳人ではないが、比較的このタイプの句をよく見かけるように思う。限定された景を分割し、複数の側面を同時に提示する手法である。近い手法として、カメラのパンワークを思わせる視点の移動がある。たとえば
別れゆく人人ごみに春の雨 星野立子
などだ。しかし生駒の場合はカメラの移動というよりは複数視点による空間のねじれ、歪みのような感覚が先行する。
これは絵画でいえばキュビズムに相当する手法といえる。某所に鴇田智哉の俳句はド・スタール的手法だと書いたが、写生から出発して絵画の抽象表現を俳句に取り込んでいくのがこれら現代俳句の特色といえるのかもしれない。とはいえ問題は、絵画においては表現を抽象化すればするほど質料という具象が立ち上がるのに対し、言語表現たる俳句ではそれがないことだ。その辺りにどう向き合っていくのかが楽しみである。
冬晴れて未来のやうな無人島 中村安伸
マフラーを編み国境の橋を編む 同
中村安伸の俳句にはいわゆる作中主体が希薄である。超現実的な描写のためもあるが、どちらかというと、映画の一シーンを観ているような感覚がある。たとえば揚句では007スカイフォールに出てきたような、捨てられた廃墟の島。未来と言われて廃墟が思い浮かぶのは残念だが、もはやドラえもんやアトムの未来を夢想できるほど人類は子どもではなくなった。あるいは海外ドラマ”ブリッジ”に登場するような、国境を隔てて係る巨橋の情景。少なくとも日本には国境の橋はないわけだから、異国の光景ではあろう。暖かい人間関係を思わせるマフラーと、巨大なシステムの裂け目である国境。橋を架けるどころか壁を築こうとする大国の時代に響く句である。
その質問大根煮ながらは違反 青柳飛
大根煮というと、
死にたれば人来て大根煮きはじむ 下村槐太
が思い浮かぶ。
どちらの句においても、大根煮は質問や死との対比に用いられている。つまりここでもなんらかの重大な、クリティカルな質問をしてしまったのであろう。そういえば短歌では缶チューハイがそういう役回りだったこともある。
百円で落つる神籤や枯柳 小関菜都子
考えてみれば百円チャリンと入れて運勢がカコッと出てくる自動販売機なんて、あまりに風情がなくてげんなりするが、慣れとは恐ろしいものである。
冬のベンチにも体が沿うてきた 西生ゆかり
待って待って待ちくたびれる、冬の冷たいベンチも温まるほど。姿勢もだんだん崩れてきて、あーもうこのまま寝てしまおうか。
脱ぎ捨てたものがかさこそ鳴っている 瀧村小奈生
いくら思い切りよく脱ぎ捨てても、ものごとは簡単には片付かないものだ。脱ぎ捨てられたものたちも大人しくはしていない。視界のすみでかさこそと蠢くのである。
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2015-02-22
10句作品テクスト 赤野四羽 螺子と少年
赤野四羽 螺子と少年
螺子としてひとの命よ国の春
牡蛎剥いて遠い砂漠の民と泣く
購いの羊郊外からは見えぬ
とおくからひとをみているおおかみよ
え戦争俺のとなりで寝ているよ
少年の空に蒲団のような爆煙
てろてろと歩めば春の戦場へ
紫陽花はつねにただしくあやまらぬ
なんとなく崖へとすすむ蟻の列
爆撃の後方支援に星の歌
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2014-12-14
【2014角川俳句賞 落選展を読む】 1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子
【2014角川俳句賞 落選展を読む】
1. ノーベル賞の裏側で
依光陽子
≫ 2014落選展
≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
1. 霾のグリエ(赤野四羽)
文学に夏が来れりガルシア=マルケス 赤野四羽
かな遣いの新旧混合やら何やらでいきなり頭を抱えてしまった50句なのだが、トップバッターということもあり、なんとなく捨て置けない気がして引き返してみた。
自己完結型作品群の中、この句はそのドサクサに紛れてスコンと突き抜けてしまった感がある。「文学に夏が来た」と大上段から振り下ろされた断定に軽く眩暈を起こしていたら、ガルシア=マルケスが置かれていたという…ある種かけ逃げ的な力技。今年4月にガルシア=マルケスが逝き、5月になって夏が来たなぁという感慨が、特に深い意味もなく合体したのだろう。偶然とはいえ一句は成ったのか。事実関係、意味憶測一切を吹っ飛ばし、いかにもカリブ海的陽光で句を照らしてしまったのである。
太陽の上に落ちけり田植笠
水を張った田に映ったギラギラの太陽の上に、田植えで前屈みになった人の頭から笠が落ちたのだ。
この人の句は明るさがはっきり見える。その点は評価できる。
2. こゑ(生駒大祐)
何故この50句が予選通過しなかったのか。マイナス点を差し引いてもこの作品が本選の俎上に乗らなかったのは、編集部の見落としとしか思えない。
慎重な句作りで、句の細部にまで目が行き届き、ブレなく安定しているので安心して読める。言葉に無理をさせず、かといって守りに入るわけではないところがよい。しかしさすがに芝不器男賞100句応募の後の数か月間で、50句粒を揃えるのは息切れしたか。
夏雨のあかるさが木に行き渡る 生駒大祐
渦の影立ち上りたる泉かな
人呼ばふやうに木を呼ぶ涼しさよ
風鈴の短冊に川流れをり
冒頭の四句。
一句目の光度。夏雨の綺羅が行き渡る一木の清々しさ。二句目、泉の中で渦の影が立ち上がるという描写は、作者の心理描写とも受け取れ印象深い。
三句目「人を呼ぶ」ではなく「人呼ばふ」と書いたのはその後に「木を呼ぶ」の中に「を」が出て来るからで重なりを避けたのだろう。その工夫一つで類句に一線を引いた。○○を呼ぶやうに○を呼ぶ涼しさよ、であれば類句がある。
四句目の風鈴の短冊に画かれた川も仕掛けが凝っている。画の川は風鈴に流線型で続くことで、川のイメージや揺らぎを想起させる。鳴っているか鳴っていないかに関わらず風鈴自体に涼やかさを持たせることに成功した。
残念なのが5句目の<薔薇の枝の夥しさを座して見る>。この「薔薇」だが、ここでは季題の働きはない。薔薇の花は見えてこないしこの人物が見ているのは枝だ。まあ無季俳句だとしてもよいのだがさほど作者の心持ちは伝わってこない。5句目にこの句が来たことは惜しかった。
製図室ひねもす秋の線引かる
「秋の線」とはやや強引であるが悪くない。季感がある。澄んだ空気。すーっと幽かな音を立てて引かれる線。製図室の一日。「ひねもす」の一語で、朝の爽やかさから釣瓶落とし、さらに夜業への伏線も引かれている。
針山の肌の花柄山眠る
唐代の墨飛び立たばつばくらめ
一句目、古びた針山だろうか。肌という言葉からいくぶん色あせたサテンの花柄の生地の針山を思う。そこに刺された金や銀のまっすぐな針。裸木が樹影を落とす遠景の冬の山。針山の花柄の温かみと色彩のない厳格な冬山の対比。しずかに流れてゆく時間がある。
二句目、燕の黒から唐代の墨へ想が飛んだ。墨匠が登場した唐代、日本にも墨が伝わった。毛筆の撥ねの勢いの如く飛び立った燕という小さな命が、悠久へと誘う。
一句一句は完成度が保たれている。だが、既視感のあるフレーズが多少目につく。なるべく手垢のついた言い回しや言葉は使わないことだ。<しとやかに><べつとりと><たやすく><ひとつごころ>は描写になっていないし、イメージも受け取れない。<今はなき><のぞまれて>は感情の落としどころがない。<うすみどり><天さびし><飼ひならす><世の中は>は先行句がすぐに浮かんでしまうので損だ。
力のある作者だけに、来年は本気で賞を狙って欲しいと思う。
3. 線路(上田信治)
この50句は、細かいショット(句)が連なって一つの全景(統一された色)を生んでいる。映画的な作り方だと思った。
餃子屋の夕日の窓に花惜しむ 上田信治
餃子屋にいた。それは夕方で、夕日が窓に映りながら店の中に差し込んで、窓の外にはもうほとんど散ってしまった桜が見えている。ああ桜ももう終わりだなぁ、としみじみと桜の木を見ているのだ。
作者は見ている。日常の中の非日常、いつも見ていること、見落としてしまっていたこと、ちょっとした変化、ちょっとした面白さ。フィルムは長回しである。
晩夏の蝶いろいろ一つづつ来るよ
雨樋を石蕗の花へとたどり見る
蒲の穂の先からなほも伸びるもの
夏の終わり、そこに居たら蝶が来た。また来た。一つづつ。でも同じ蝶じゃないいろいろな蝶。これもひと夏の出来事。
ふと仰いだら庇に雨樋が走っていた。雨が降ればそこを雨水が流れる。雨樋の中には朽葉や埃などが溜まっているかもしれないが下からは見えない。その雨樋を何気なく目で辿っていくと庇の端でカクッと曲がった縦樋になり、途中で切れた縦樋の下に石蕗の花があった。目の動きの終点が石蕗の花明り。見えないものを辿った先の明るい黄色。
蒲の穂の先にちょんとある緑色の禾のような部分。写実だけれど、作者は見たモノをただ書き留めようとしているわけではない。その逆だ。モノから言葉を取り出して、そこではない異空間の「なほも伸びる」何かを凝視している。
俳句で個性を出すということは可能だろうか。私はこの作者ならばあるいはそれが出来るのではないかと思っている。独特の文体がある。助詞や副詞の使い方にその特徴がある。
桜さく山をぼんやり山にゐる
靴べらの握りが冬の犬の顔
一句目の「を」は到達点を想定していない移動時の経路の「を」。二句目の「が」は普通に主体を表しているのだが、使い方に少し仕掛けがある。
「桜さく山を」の「を」も「靴べらの握りが」の「が」も切字としてその語の後ろにかなり大胆な省略が入っていることに気が付く。「桜さく山やぼんやり山にゐて」と一般的な作り方に変えてみると違いがわかってくると思う。一読明解な俳句からほんの少しだけ距離を置いている。さらに「ぼんやり」の効果。副詞を日常語のままさりげなく一句の中に入れる。この置き方がこの作者独特の方法。「を」、さらに「山」の繰り返しによって「ぼんやり」が花霞のように全体に懸る。
靴べらの句は、握り=冬の犬の顔、と読むのがごく普通だが、「が」で軽く切ってみる。すると、靴べらの握りがどうも手にゴツゴツしてるなぁ、何かの顔の形みたいだなぁ、と思って顔を上げたところに犬の顔があった。そこで初めて靴べらと犬に偶然の関係性が生れるのだ。どこかキリリとした冬の犬の顔と靴べらのひやりとした冷たさ。ジャック・タチのようなシュールでとぼけた面白さ。
手に水の触れる速さに春の雪
この「速さに」の「に」は切れずに「春の雪」に繋がる。実際の内容としては掌に受けたときの春の雪が水になる速さのことを書いているのだけれど、であれば「に」で混乱する。この複雑な内容をどう一句にまとめるか。ふと流れ出た語順がこれだろう。春の雪独特の質感がリアルになった。
地には霜やさしい人たちの自転車
「地には霜」硬質な表現だ。だがそのあとに柔らかい言葉が続く。何万本もの氷の針を崩して停められたたくさんの自転車。その自転車を「やさしい人たちの自転車」だと感じた。霜の朝の煌めきによる魔法だろうか。ほんわりと仕合せな気持ちになった。だがこうも思う。この自転車に乗って来て、働きに、あるいはそれぞれの一日を始めた人たちに比べたら、自分はやさしくない、利己的な人間かもしれないな、と。地の霜の上に立っている自分は、そう思う。
その年は二月に二回雪が降り
この句は「二月」「雪」と大きな季題を二つも置きながら、季感を意図的にずらしている。この句は年の瀬の句だ。「その年は」と一年を振り返り、その年の二月に二回降った雪に思いを馳せている。
なんだかどこかで感じた不思議さだ。そうそう、アキ・カウリスマキが映画『ラヴィ・ド・ボエーム』のエンディングに「雪の降る街を」を流したのと同じような、どこかナンセンスでベタでないペーソス。
視点を自由に設定する。この作者の作品は、「俳句らしさ」ではなく「作者らしさ」によって成り立っている。今までの俳句にはなかった何か別の方法を摑もうとしている。
4. 魂の話(大中博篤)
「18歳一人でやっております」となれば応援したくなってしまうが、作品は作品。基礎がしっかりしてこそ、破調やその他の崩しは成功する。ピカソでさえゲルニカを描くために45もの習作と多くのデッサンを描いたそうだ。まずは基礎づくりをし、誰かに句を見てもらうことをお勧めする。章立て、分かち書きの一文字空けと二文字空け三文字空け。どれも効いていない。
だが、口あたりのいい上手なオバサン俳句が横行する昨今、何か問題意識を持って書いている点は評価できる。18歳なのだからこれからいくらでも化ける可能性があるだろう。
一句だけ引く。
旧寺院裸者の懺悔の音静か 大中博篤
寺院としての機能を失った旧い建物の中に懺悔の音が微かにしている。「裸者の懺悔の音静か」は東南アジア的でもある。実か虚か。暗がりの中の裸身が見えて来る。悪くない。
5. 最初の雨(小池康生)
去年、俳人協会賞の予選委員を引き受けてみた。51歳以上、おもに60代から70代の作者の句集を百冊以上読んだのだが、とにかく闘病俳句と旅行俳句が多い。自費出版の個人句集には自分史的傾向が多いのは否めないが、角川賞のような公募の賞に闘病俳句で応募するということは、自分にとってそれが何事にも替え難い出来事であったからだと思う。
しかしごまんとある闘病俳句を超えるには余程腹を据えて客観的に句を検証する必要あるだろう。<あの世へは少し遅るる日向ぼこ><癌のことなかつたことに万愚節>こういう句は常套中の常套である。
病と別のところで詠んだ句には味わい深いものがあった。
シーソーに妻から浮いて夕桜 小池康生
巣箱掛け最初の雨が降つてをり
夕方、子供たちが帰ったがらんとした公園。幼いころを思い出してシーソーに乗ってみた。まず夫が沈み、妻が浮いた。ふわりと浮いた妻のはにかむような笑顔。暮れ残って淡い夕桜の背景も悪くない。
作ったばかりの巣箱を掛けた。まだ白木だ。樹皮の鈍色に巣箱の白さが遠目にも際立っている。どんな鳥が来るだろう。入ってくれるだろうか。ふと見ると雨が降っていた。白木に滲んでいく雨。巣箱にとっては最初の雨だ。
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2014-11-23
【2014落選展を読む】その年の事実 堀下翔
【2014落選展を読む】
その年の事実
堀下翔
読む。
1 霾のグリエ(赤野四羽)
涅槃吹黄色いふうせん西より来 赤野四羽
という句、初めに読んで、気になっていた。飛ばされて、離れていくものとしてある風船が、自分の方に向かってくる。これは、なかなかない。しかも、黄色くて、西から。この二つの情報に意味はないだろう。黄という色が春の明るさを示している、だとか、そういう指摘は要らない。無意味さのリアリティがある。……と、思っていたところへ、そういえば涅槃吹は西から来る風ではないかと気づいた。ごりごりの理屈じゃないか。
総体に、ちょっと、理屈っぽい。〈姥桜花見するひとをみてゐる〉〈大揚羽地球の端にとまりけり〉など。
文学に夏が来れりガルシア=マルケス
時事ネタで、思考から飛び出した句だけれど、意味不明なところがあって、面白い。季語を取り合わせるのと同じような顔をしていきなり「ガルシア=マルケス」を置く無手勝流に、ちょっとドキッとする。「文学に夏が来れり」も、何のことかよくわからない。だから、ああガルシア=マルケスは夏の人だったのか、と、そんなことをぼんやりと思う。彼が死んだのは4月。いったいどうして夏だったのか。
少年が西瓜を抱いて待っている
には、あ、それだけか、という安心がある。これもまた、なにか具体的なことは言っていない。そういうことがあったんだろうな、とぼんやり思う。ぼんやりと、いうのが、50句の印象としていつもあった。
2 こゑ(生駒大祐)
品詞分解をしたくなる。〈ものうげに寒鯉匂ひはじめたり〉(形容動詞「ものうげなり」連用形、名詞、ハ行四段連用形、マ行下二段連用形、完了の助動詞終止形)……と。この直観はおそらく、50句の発話が擬古的であることを示している。
製図室ひねもす秋の線引かる 生駒大祐
製図室という手に慣れない素材、秋の線という捏造的な季語。これらの無理を一句としておさめるときに作者が選んだのは擬古の文脈であった。「ひねもす」「引かる」という言葉が用いられる世界に「製図室」も「秋の線」もあるのだ、と示すことで、これらの無理は隠され、むしろ肯定されている。「引かる」という正しさが眩しい。「引かれ」でも「引かるる」でもない「引かる」は、どこか散文的なほどに古典の中にある。
副詞の多さは指摘しなければなるまい。その中でたとえば〈降る雪やただ重たさの肥後守〉の「ただ」、〈しとやかにあやめの水の古りゆけり〉の「しとやかに」、〈おそろしく真直ぐ秋の日が昇る〉の「おそろしく」、〈富士低くたやすく春日あたりけり〉の「たやすく」は、「真直ぐ」や「低く」とは違って実際的なことは述べていない。多くはやはり擬古的な文脈にある。作者のこころざす古典的な記述は、それ自体が無理の中にあるしかけではなかったか。あらゆる無理の混在を作者は肯定し、読者はその肯定を知ったうえで、違和を覚えている。読者の違和感を作者は喜んでいるだろう。
3 線路(上田信治)
その年は二月に二回雪が降り 上田信治
客観写生をほめる人がよく言うことに「掬い上げられた些事は意図せずして詩となる」というのがある。この言にならいたい。二月に二回雪が降ったことがどうしてこんなに詩になるのだろう。もちろんレトリックは精緻である。何も指さない代名詞「その」、「その年」を感動的に特定する「は」、余韻を残して流す連用形「降り」。けれどもそのしかけをまったく黙殺しても構わないほどに、二月に二回雪が降った事実は、言挙げされることによって、ごくリアルに、こちら側へと手渡されている。
秋の山から蠅が来て部屋に入る
これなんてほとんど嘘かもしれない。ほんとうに山から来たのを見たのか。がしかし〈秋の山から蠅が来て部屋に入る〉と言われることで、たしからしくなる。
言葉にすればなんでも本当のことのように思われるのであれば、どんな俳句だって名句になってしまうだろう。ある一句にあるリアリティがどこから来るのか、ということを、作者は模索し、ときとして核心に触れている。
4 魂の話(大中博篤)
たとえば、
〈山を焼く〉僕が傷つかないように 大中博篤
という句を取り上げて「自分が傷つくことの代替行為として山焼をする。括弧に入れられた山焼は季語としての意味から解放されている。自分が傷つかないための行為であるにも関わらず、おそらくこの「僕」は自分よりも大きなものを燃やす痛みにさいなまれている」といったことを言うのはたやすい。どの時期の俳句史であれこのような(言ってしまえば恰好をつけた)文体はあったはずだ。
〈虎の檻閉園のベル鳴り続け〉の緊迫感や〈狼に真昼の匂い 雨激し〉の孤独感は、どこかで誰かが書いているだろうという、いわば大いなる類想として感ぜられる。また同時に〈グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ〉や〈街に海鯨が鳴いている 泣いて〉は、俳句以外のどこかで描かれているだろうな(たとえば早川書房あたりで)、という別ベクトルの類想感もある。
それでもこの恰好よさに惹かれる気持ちは分からないでもない。〈グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ〉を指して俳句以外でも書けるであろうと言ったが、俳句にしか書けないことに意味があるとも思わない。
手袋の中は暗黒 犀通る
異様な縮尺のイメージに唖然とする。その犀がただ手袋の中にいるのではなく「通る」のだという。極度に縮んだ犀が真暗い手袋の中をゆっくりと通るその景は、大きさのみならず時間の縮尺まで狂ってしまっているように思われる。
ところでこれは蛇足なのですが、〈診察を待つワラビーよ夏の果て〉のどこに作者が恰好よさを見出しているのか、読みながらついぞ見当がつかなかった。この50句の文脈としては異質だが、ワラビーが診察される状況に妙な面白さが出ていて、ちょっと忘れられない。
5 最初の雨(小池康生)
一句目〈良性か悪性なるか小鳥来る〉は、はじめに読んだときには性善説か何かの話だと思った。読み進めて、病院関連の用語が頻出し、〈癌のことなかつたことに万愚節〉にいたって初めて察しの悪い筆者は、ああ一句目は癌の話だったのかと気づく。ここまで察しの悪い読者はなかなかいるまいが。
自身の闘病をテーマにした50句。
古暦病ひを得ると記しあり 小池康生
七草の日や絶食と告げらるる
癌のことなかつたことに万愚節
このような句は、季語のモノボケといった印象が強く、あまり入り込めない。直接的な言及よりもむしろ、下のような句に強さを感じた。
巣箱掛け最初の雨が降つてをり
表題句。術後にひと息ついた気分が「最初の」という一区切りの語に結実している。〈無傷なり蝶々にまとひつかれても〉も同じ気分だろう。「無傷なり」の断定がうれしい。と思えば〈眠りへの入口しれず春逝きぬ〉と死への連想もある。いずれも喜怒哀楽が活写されている。
麻酔にて知らぬ一日室の花
はとにかくうまいな、と思った句。どれほどの麻酔だったか、そしてそこから、どれほどの手術だったかというところが想像される。
6 パズル(加藤御影)
どこにも体重がかかっていない、軽いタッチの句群。〈チューリップ玩具のやうに汚れたる〉から持ってきて「まるでおもちゃのような」という言い方をしようと思ったら、そもそもタイトルが「パズル」だった。〈眼が穴の動物パズル星月夜〉から取ってきたのだろうが、作者自身、自分の軽さは承知の上だろう。〈山茶花の散ればリズムの生まれけり〉は軽すぎると思いつつ、全体としては、読んでいて楽しい。
ごちやまぜにされて昔や未草 加藤御影
そうだなあ、その通りだなあ。自分のことも周りのことも、昔のことはいつのまにかこんがらがってしまう。「ごちやまぜにされて」とかなり口語的にやったあと、「昔や」と一気に文語脈に回帰するキュートさ。
50句のなかで一番ぐっときたのは、この一連。
十一月散歩のやうに文字つづく
目離すと鳴りだしさうな冬日向
この二句、対になっている気がする。「十一月散歩」までを来た筆者は、この時点で実際に外に出て散歩に出ている。「のやうに文字つづく」と示されて、いま見ていた風景が嘘だったと知る。寒いけれど日はさしているあの散歩のあかるさを、もう一度、文字の上に再現する。そうして次の句へ移れば、「目離すと鳴りだしさうな」と来て、ほとんど錯覚として、前の句の残像である文字を思う。あかるく日がさして、ずっと続いているあの文字が、鳴りだしそうなのだ、と。言葉はつねに音になろうとしているから。そしてこの句が「冬日向」のものであったことを知るとき、筆者は、まだ文字の残像を忘れきれていない。十一月の散歩には、冬日向が付きまとっているがためである。「やうに」「さうな」と、構造も似ている。隣接したこの二句は互いに自分の世界を見せ合っている。もっとも、隣接に意味を見出す読みは本筋から外れているが。
7 脱ぎかけ(栗山麻衣)
ちょっと面白過ぎるんじゃないか、というのが印象。〈脱ぎかけの衣からやあと蛇出づる〉いや、やあとは言わないだろ。〈目配せを交はして蟻の擦れ違ふ〉いや、交わさないだろう。
大根に味染みるころ帰りたし 栗山麻衣
帰りたし、まで読んで、あっ、ここは自宅ではなかったのか、とびっくりさせられる。ではこの大根は他人の家のものか。あるいは、一人暮らしの人。自分一人で調理した大根を食べて、実家に帰りたくなる。そういう素朴な気持ちは「たし」というひねりのない述べ方にかなっている。
人恋ふる心小出しにインバネス
そうか人を恋うる心は小出しにできるのか。生きるのが上手な人にしかできないのかもしれない。人情の機微が「小出しに」の一言で電光のように伝わってきてうれしい。粋な句と思う。
8 クレヨン(倉田有希)
初夢はもらはれてゆく猫のこと 倉田有希
夢の句は全部嘘でも構わないからずるい。作者がふだん猫と暮らしているのかすら定かではない。この句の猫は初夢において初めて登場したキャラクターかもしれない。そういった夢の気味の悪さを、この句は書いている気がする。猫がいなくなる初夢なんて、かなりグロテスクだ。
もっとも50句の多くは、そうではなく、以下のように穏やかである。
蝌蚪の国豆腐のパックが沈みをり
春深し雲の絵皿のオムライス
小鳥来る解体される給水塔
一句目、蝌蚪の国に侵入する異物として豆腐パックは絶妙にちんちくりんで、言い得ている。二句目、ゆるめの取り合わせに気持ちのよさがある。これは全体の特徴としても思われる。三句目の「解体される給水塔」は最後の字余りが気になりつつ、しかし上の初夢と似た違和感がある。給水塔というものの見慣れなさもあるが、あの奇妙な塔がどのような姿で解体されるのか、惹かれる。そんな非日常の入り口に小鳥がきている。ある場所からある場所へ移動する小鳥は、読者が目撃する「解体される給水塔」という非日常と巧みにイメージを同じゅうしている。
2014-11-02
落選展2014_1 霾のグリエ 赤野四羽_テキスト
1 霾のグリエ 赤野四羽
姥桜花見するひとをみてゐる
未来への河に滴る灰汁の春
軒下に現地集合春の蚊よ
霾のグリエに春闇ジュレ添えて
箱庭にたんぽぽひとつ咲きにけり
春月や高架の下のモンドリアン
雑踏に夜の桜の涼やけき
花曇雀のつがふ螺旋かな
上下左右街を歩かば絵踏かな
春闇に溶けてゆきたるハイソックス
土現る鬼も天使も膏として
理非もなし吾子を守らん春嵐
指の傷いまだ残りて水温む
春光の匂ひをたどる緑かな
死の根っこ掘りかえしたるも花ばかり
海豹や腹を擦りても牙捨てず
山上に蜘蛛の子散りて春疾風
涅槃吹黄色いふうせん西より来
青葉より澄みたる精の飛沫(しぶき)たる
つばくらめ排水管に子を残し
大揚羽地球の端にとまりけり
七色の絵の具溶かして夏の闇
少年が西瓜を抱いて待っている
文学に夏が来れりガルシア=マルケス
修羅場みて胡瓜涼しや絵金祭
麦わらの老婆にふたつ氷菓かな
スタンド・バイ・ミーが真夏をつれてくる
虹の根で跳ねる子見やる日が射した
白物や骸百態夏百夜
夏の砂烟る轍や波高し
瑠璃蜥蜴虹の筆先尻で曳き
コンクリの塀に爪たて蝉の子や
太陽の上に落ちけり田植笠
鰯雲誰も居ぬとびらが閉じる
三日月に暗く膨らむ体育館
魂失せし裁きうつろに鬼灯鳴る
夜歩けば朱き月影たぷたぷと
坂道を下る蜻蛉の高さかな
野分去るパンの耳塩がきいてる
冬鵙や抱き上げし子に脈打てり
切り捨てし大根首に蕾の黄
みすがらに老人を待つ鯨かな
人形よ糸断ち歩め細雪
冬闇に十字切りたる警備員
地の霜をざくざく踏みて役所かな
牡丹雪すずめ垣根にひそみおり
雨宿る鳩の襟元山めぐり
稽古場に天道虫の眠りたる
独楽震え少し迷うて座りこみ
鼻欠けた狛に影揺る初燈
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Labels: 2014角川俳句賞落選展, 赤野四羽, 落選展















