俳句とは何だろう ……鴇田智哉
第11回 俳句における時間 11
初出『雲』2007年11月号(改稿)
実験の五日目。
走っている。すると、見えている風景に関係なく、こんなフレーズが口をついて出た。
客席で歯ごたへのあるお味見を 乱父
五・七・五にぴたっとはまった、と思った。ただ、季語がない。
しばらくしたあと、もう一つ、二つ出た。
とらいちのだぶるねんどのどびんむし
ゆるしてよ水より暗いぼんやり坊や
〈とらいち〉とは何か、ふと見た看板だっただろうか、或いは以前どこかで見た店の名前だろうか。今ではわからない。〈だぶるねんど〉も、「ダブル粘土」なのだろうと思うけれど、それにしても、そういう粘土はないだろう。その点、〈ゆるしてよ〉の句の方は、言葉として、少し意味がわかる部分もあるようだ。ただ、どちらの句にも、季語がない。どちらの句も、意味よりも、音感が優先のフレーズであると言える。
五日目のこの三句には、今までにない奇妙な手応えがあった。この手応えは、五・七・五あるいはそれに相当する長さのフレーズが、一つらなりに、いちどきに、するするっと口から出てくる、という体験によるものである。どうしてそういうことが起きるのかといえば、それは、五・七・五が口や舌のいわば癖となっていたところに、その日のそのときの「息」が重なって、たまたま言葉として出てきた、ということになるだろう。
私は前(第3回)に、俳句の生まれる源泉となる時間、言い換えれば自分が生きている時間というものを「湖」にたとえ、俳句というものを、その湖から掬い取った「藻屑」にたとえたが、この日の三句は、この藻屑を掬い取る作業の、或る側面が表れていると思った。それは、俳句として一つらなりの言葉を掬い取るためには、そこに、「息」というものが必要だということである。
この「息」とは、いわゆる「五・七・五という器」とは、違ったものである。湖のたとえでいうなら、「五・七・五という器」は「網」である。それとは別に、ここでいうところの「息」とは、網をもって藻屑を掬い取るときの「タイミング」とか「合わせ方」「呼吸」といったものに当たると思う。「息」には、偶然に近いものから、かなり意識的なもの、理屈を通したものまで、いろいろな段階のものが存在すると思う。
私は今は、どちらかといえば、偶然に近いもの、空っぽに近いものを求めているので、この方法で、もう少し作ってみようと思った。意味があるかないか、「無季」でよいのか、といった考え方をとりあえず横に置いておき、しばらくこれを続けてみようと思ったのである。条件として、「走って作る」。それだけにする。
実験の六日目以降も、同じ方法で句を作っていった。
うまい蒸しパンがらんとした踏切 乱父
夕暮れの先がとがつて道となる
われてゐる一見ふつうの磯料理
後頭部だね盛り上がる部活動
あなくろや横並びにもほどがある
ある程度放つたままヤリイカのまま
ノートに書かれた句には、まず、走っている間に覚えてきて、そのまま書いた句がある。また、それをもとにできた句もある。後者は、できるだけ初めに思いついた味が残るように、できるだけ少ない推敲(無理に季語を入れ込んだりしない)を加えた。推敲といっても、基本的には一回だけ、それもなるべく走ってきた直後に行っている。走ってきた直後は、まだ頭が空っぽになりがちであり、体も同じ「息」を保っているような状態だから、そのまま行ったほうがよいと考えた。
吊るす糸いつもばつてん印だよ
吊るす神様ストレスとれる鼻とれる
C82イエローQ 箱になるなら東向き
石がしきりに下さいと吹いてくる
やつぱり組だとよ そら見たことよ
次のように、季語があるものもできた。
くすぶつてすすつと来たよ新てふてふ
おつくうな めくれめくれる障子かな
たるんでる次の晩からひなあられ
ここはここでも西瓜の水びたしだよ
こうした句がノートに増えていく中で、気づいたことも幾つかある。たとえば次の句。
野菜ねるのか夕焼かもなんばん
ここには、〈ねるのか〉の「寝るのか・練るのか」、〈かも〉の「かも(知れない)・鴨」、〈なんばん〉の「南蛮・何番」といった、二重の意味を、読もうとすれば読むことができる。この、二重の意味は、作者の意図とは関係なく偶然に発生したものである。また、次のような句にも、二重、三重の意味を読むことが可能である。
くしろ出現さあ屋上へ出てくれ
穴あつてんぼろう泡ぶくと共に消ゆ
紙粘土噛めるんです亀ないしセメダイン
もちろんこれらの句が、そうしたダブルミーニングの効果を狙って作り出された大した句なのだと言いたいのではない。単に、出てきたばかりの言葉であり、いわば舌足らずな表現であるが故に、意味が曖昧になっているというだけのことである。
ただ、ここで注目したいことが二つある。
一つ目は、これらがひと息で出てきた言葉の一つらなりであること。しかもそれが「五・七・五という器」に乗らんとして出てきたものであるということである。俳句とは、或る特有の長さをもった一つらなりの言葉であり、そういう意味でこれらの句は、よきにせよ悪きにせよ、俳句の原初の姿なのである。
二つ目は、俳句にはもともと、言葉の「いわゆる正しい意味のつながり」ということとは違った、「いわゆる正しい意味ではないところの意味の広がり」が存在している、ということである。俳句がいわば、湖から巧みに掬い取った藻屑であるということ、阿部完市氏の言葉でいうなら、俳句はゲシュタルトであるということ、の一つの側面がここにある。
(続く)
第1回 俳句における時間 1 →読む
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