ラベル 中山宙虫 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 中山宙虫 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016-06-12

【句集を読む】春はクリームパン 中山宙虫句集『虫図鑑』を読む

【句集を読む】
春はクリームパン
中山宙虫句集『虫図鑑』を読む

西原天気


カバーのグリーンは、虫がたくさん棲んでいそうな色。ただし、この本に虫の句がとりたてて多いわけではありません。俳号から来たタイトルでしょう。「図鑑」の少年期的・ジュブナイル的ワクワク感は、この句集全体を貫くトーンのひとつ。

判型は小ぶりな新書サイズ(103×172mm)。掌への収まりがいい。

本文は、活版印刷。

近年はほとんど見なくなった活版活字。目で見た懐かしさとともに、指の腹でさわれば、インクのうっすら盛られた独特の感触が味わえます。




活版印刷の句集は数少ない。管見の範囲で、閒村俊一『鶴の鬱』(2007年/角川書店)、『拔辨天』(2014年/角川学芸出版)、毛呂篤の数々の句集(≫こちら)、永島靖子『袖のあはれ』(2009年9月/ふらんす堂)。同人誌『晩紅』もそうでした。もちろん他にもあるのでしょうが。

例えば『拔辨天』の大きくて重厚な活字(≫こちらのブログ記事・参照)とは違い、軽やか。著者あとがきの追記に「ファーストユニバーサルプレスのみなさんが一文字ずつ拾い上げてこの句集は出来上がりました。(…略…)人の手で作り上げられた文字たちが呼吸をしているようです。僕の俳句の世界をこの文字たちが少なからず支えてくれるのではと密かに思っています」とあります。

さて、収録句へと話を進めましょう。ページ順に、気ままに。



もっと濃くなる青野にひとは追いつけぬ  中山宙虫(以下同)

人間(=私たち)が追いつける事象は存外少ないですね。意識や表現を超えてさらに濃くなる青野。


つま先から雨に濡れる夜枇杷は実に

湿度充分。足もとと頭上の枇杷の垂直。



紫陽花が濃くなるティンパニーの連打

それほどページを置かずに「濃くなる」ネタが出てくる。青野の句が概念把握(追いつけぬ)との取り合わせなのに対して、こちらは鮮烈な音との照応。二物に因果はないが(俳句の基本)、色(赤や紫)と音色が眼と耳に同時に届く(俳句の効果)。



なーるほどトム・ソーヤなんだ猫じゃらし

このあたりの語り口は作者独特だろうか。ライトヴァース的な軽みに猫じゃらしの軽量がよくマッチする。それにして「なーるほど」とは! なつかしいマンガの吹き出し、なつかしいテレビドラマのワンシーンのようじゃないですか。


焼き栗をむいて偽医者かもしれぬ

憎めない。


太刀魚を捌き明日から宇宙戦争

レトロフューチャーの感触は、太刀魚効果? あるいは俳句効果。下の7音がのどか。あ、この音数効果もありますね。


やわらかい雨を見ている雛を見ている

対句は、技巧ではなく、率直でシンプルな気分が、こうさせたのでしょう。感傷的でロマンチックな句も多いです、この句集。


秋色の東京父として歩く

中山宙虫さんとは、私が俳句を始めてまもない頃からの知り合い(住むところが離れているので、最初はネット上の知遇)。出張かなにかで東京を訪れた際に息子さんと会うこともあったようです。この句のシンプルさが実感、正直な実感を伝えます。

しんみりした、いい句。この句集の中にあって、この句集の主調に属するかといえばそうではないし、宙虫調かといえば、そうではないけれど、こうしたスタンダード曲のような句も、句集の幅や充実に大きく寄与する。



代書屋がたたまれ猫が恋をする

うちの近くだと、運転免許試験場のそばに立ち並んでいましたが、もうずいぶん前に軒並み店じまい。廃屋と化しております。猫の恋には、最適の場所。

「たたまれ」「する」と、動詞ふたつ、対句的な構成です。「をする」は、ある人に言わせれば冗長かもしれませんが、これが持ち味。軽みが(悪い意味じゃない)弛緩を伴って、読む人を和ませる。



桜三分厚切りにする明日のパン

今日食べるのではなく明日。フレンチトーストの仕込みなら、そう、厚切りがよろしいです。それにしても桜は主食(コメやパン)とよく合いますね。色のせいでしょうか。平和やめでたさのせいでしょうか。


バックミラーにいまふるさとが夕焼ける

おっと、これは感傷的過ぎるかもしれませんよ。でも、泣き所も必要。



ものしずかなくらしに雪がまぶしいぞ

ちょと骨太に「ぞ」締め。このあたりは、宙虫さんが所属する「麦」の麦調を感じます。



とろろすする生物兵器かもしれぬ

物騒。


波とおく夜を重ねるちゃんちゃんこ

重ねる(他動詞)がクセモノっぽく、句に微妙な雰囲気をもたらしています。


河口まで春はさみしいクリームパン

これ、いいなあ。この作者の牧歌的なスウィートネス、感傷を含んで甘美、心優しく平穏な作風がよくあらわれた句。河口まで歩く。クリームパンはリュックか鞄の中にあると見た。春=さみしいクリームパン、と等式的に読み、「なんだかわかる」句。


人として浮いて水母に囲まれる

晩夏の海で立ち泳ぎ。



秋風や歩いて埋まる人類史

歩くことはだいじ。この句集は、よく歩いている。歩くという動作があるのではなく、ね。



九五〇ヘクトパスカルこすもすはいま静か

かなり大きな台風。近づきつつあるというニュース。でも、まだ無風(まさか台風の眼という句ではないでしょう)。「こすもす」のひらがな表記で、なよなよ感が極まる。


雲は秋ベッドで動くのどぼとけ

艶っぽい句は、この句集に多くない。この句も、そのように読み取る必要はないのかもしれません。のどぼとけ(喉頭隆起)はもっぱら男の持ち物ですし。「雲は秋」の開放感もあって、あっけらかん。



ケルン積む人間霧を来て霧へ

かっこいいフレーズが「ケルン積む」できちんと現実に定位した。



旋律はラフマニノフなのに雪

ラフマニノフはピアノ協奏曲第2番が有名。出だしは雪っぽいと思うのですが、作者にとって、ラフマニノフと雪は「なのに」関係。



赤ワイン春はあけぼのなどという

夜通し飲んでいたわけです。高いワインではなく、赤玉ポートワインあたりのほうが「春あけぼの」感があります。このふわーっと気持ちのいい感じ、なんなんでしょうね。俳句の不思議、シンプルさの不思議。



想い出をすてれば部屋は蟬ばかり

想い出を捨てそうにない句集です、『虫図鑑』は。

捨てたら、蟬しか残らない。だから捨てないのか? あるいは、あえて捨てる、というのでしょうか?

視覚と聴覚に強烈に訴えてくる句。前半が強烈とは対照的に口語的なやわらかさに満ちているだけに、よけいに。


というわけで、1冊、楽しませていただきました。

この中山宙虫句集『虫図鑑』(2016年4月/西田書店/装幀笠井亞子)は、書店やネットで販売しないようです。頒価も記載がない。造本から装幀から中身まで1冊まるごと愛らしい。気取ったところがなく、カジュアルなやさしさに満ちた、この句集、土手の草むらに座って、ほおばって、「あっ、おいしい」とひと息つくクリームパンのような、この句集。手にしてみたいという方は、中山宙虫さんにアプローチしてみるといいかもしれません。


2014-09-28

10句作品テクスト 中山宙虫 時間旅行記

時間旅行記 中山宙虫

SF作家の年譜見ている昼ちちろ

ひとびとは頭でっかち鳥渡る

太刀魚を捌き明日から宇宙戦争

念じればいつでも月が赤くなる

売れ筋は時間旅行記ばった跳ぶ

地底人の影だと思う秋海棠

帰る星なくし秋刀魚に塩を振る

アインシュタインの子がぞろぞろと秋の蜘蛛

ロボットに愛される人木の実降る

また村が森にのまれる秋夕焼け

中山宙虫 時間旅行記 10句

画像をクリックすると大きくなります。

週刊俳句 第388号 2014-9-28
中山宙虫 時間旅行記
クリックすると大きくなります
テキストはこちら
第388号の表紙に戻る

2008-09-07

中山宙虫 虹は見えない

〔週俳8月の俳句を読む〕中山宙虫
虹は見えない



空耳と空の間に秋の虹   山田露結

昭和40年。
僕はまだ中学生。
九州の田舎の町で、毎日4kmの道のりをてくてくと通学していた。
この中学時代は、不思議なことにほとんど記憶がない。
自分が何を考え、どんなことを毎日していたのか。
いくら考えてもきちんとした思い出がないのだ。
今でも、帰郷した折は、必ずこの通学路の一部を通るのだが。
それはただの道で、そこに僕の足跡は何も残っていない。
中学校は、町のはずれにあって、当時はまだ木造校舎だった。
学校の中がどうなっていたか。
卒業後、中学校には立ち寄ったことがない。
何度か前を通ることがあるのだが、「ここが僕の母校。」と言える感慨はない。
そんななか、ただひとつ強烈な思い出があることに気づいた。
3年のときの教室だったように思う。
その教室からは、いつも杉林とそのうえに広がる青空を眺めながら、机に向かっていた。
ほんとうの青空が見えていた気がする。
現代のように、連日30度を超えることはなく、盆を過ぎればそれなりに涼しくなっていた時代だ。
夏休みが終わって、僕らはそんな青空を見ながら机に向かっていた。
風の音。
確かに聞こえていた。
冷房がなくても充分に涼しくなっていた教室だ。
それからしばらくしてあることが皆の話題になりだした。
朝から、ずっと聞こえているものがある。
それがもう数日続いていた。
なにやらか細いが動物の鳴き声のようだ。
やがて、皆の耳はその声に集中するようになっていた。
誰かが「猫」の声だと気づいた。
それも子猫のような。
どうも窓の外から聞こえてくる。
僕らの教室は一階だったので、窓の外は当然地面だが。
誰もその姿を見ていない。
声がすると、皆で外をのぞくのだが、誰も見つけられない。
そのうち、教室の中では「化け猫」ではなどと気味悪い話まで飛び出していた。
よその教室からも話を聞きつけてやってくるものまでいた。
やがて、その声も何日かすると聞こえなくなって。
僕らは秋の体育祭に向かってその練習などをやっていた。
あの声は、実際に聞こえていたのか。
集団幻聴では?
その話題も青空のもとの体育祭の練習でへたりながらの毎日でだんだん消えていっていた。
しかし、この話はそれでは終わらなかった。
教室中が大騒ぎになったのだ。
悪臭がする。
それもどんどんきつくなってくる。
練習で外に出ているときには何も感じないのだが。
教室のなかでにおうのだ。
気づいた二日目には、皆、教室にいることができない状態になった。
あるひとりが気づいた。
「ここだ!」
そのにおいは、窓の下の板壁からする。
外から確認しても同じ位置がにおう。
僕らの騒動は頂点に達した。
誰がはがしたのかはわからないが、その板壁ははがされた。
そして、その教室側と外壁の隙間に腐乱した子猫の死体があったのだ。

この話を、30年後の中学校の同窓会でしたことがある。
覚えていたものは少なかった。
僕の強烈なこの思い出は、当時教室にいた皆の共通の思い出ではなかったのだ。
空耳で終わっていたら、たぶん僕の記憶には残らなかった事件。
さらに、ただぼんやり仰いでいた空の記憶もよみがえらなかったのかもしれない。
その空に溶け込むことのなかった子猫の死。
年を重ねるにつれてこの話は具体的に思い出している。
僕はその記憶に虹は見なかったが、他人事のような空の青さが記憶になっている。
板壁という具体的な境ではなく、子猫の死とその青空の距離は大きかった。
年齢を重ねるごとにこの思い出には「真っ青な秋の空」が強烈な背景になっているのだ。


西川火尖 「敗色豊か」 10句 →読む 山口優夢 「家」 10句 →読む 津久井健之 「蝉」 10句 →読む 中原寛也 「あなた」 10句 →読む 小林鮎美 「帰省」 10句 →読む 山田露結 「森の絵」 10句 →読む 関 悦史 「皮膜」 10句 →読む
田口 武 「雑草」 10句 →読む

2008-01-06

12月の俳句を読む 中山宙虫

【週俳12月の俳句を読む】
中山宙虫燃えたよ 



人は火を怖れざりけり枯野原  冨田拓也


年末、毎年のことながら、火事のニュースが急に増える。
空気が乾燥している時期なので、しかたないのだろうが、「年末なのに・・・。」という思いで見ている人たちがたくさんいるのだろう。
確かに火は恐ろしいもの。
僕にも幼いながらの火の記憶がある。
めらめらと燃える炎。
ぱちぱちと音をたてる枯草。
そして、枯草が燃える独特のにおい。
すべて覚えているのだ。
小学校低学年の僕が擦ったマッチの火が。
その火は、冷たい風にふっと消える。
消えればまた擦る。
マッチがうまく擦れなくて。
こっそり家から持ち出した徳用マッチ。
家の近くの道端で擦り続けた。
何本も擦っては消える。
その繰り返しだった。
そのうちだんだんうまくマッチが擦れるようになった。
そうなると。
次はその火で何かを燃やしてみたくなる。
僕は、自分の足元に散っていた枯葉を集めてマッチの火をつけてみた。
ほんの一枚の枯葉に火がついた。
めらめらと燃える。
その火を大きくしたくなる。
枯葉を足す。
だんだん大きくなってゆく炎。
そのとき。
風が。
枯葉を巻き上げた。
いくつかの枯葉が燃えながら舞い上がったのだ。
そのうちのひとつが土手のうえに降りたのだ。
その火は。
消えることなく。
枯草に燃え移った。
さほど背丈はない草だったので、あわてて足で消そうとする僕。
どんどん広がる炎。
円状になって広がってゆく。
消したはずの火がまた燃える。
最初はなんとも思っていなかった僕だが。
ほんのマッチを擦ってみたいという思いだけだったのだが。
一瞬、どこかにこのまま燃え広がるとどうなるのか見てみたくなってもいた。
今思えば・・・・。
少し悪魔の声を聞いたのだ。
しかし、現実は・・・・。
僕は、火が怖かった。
なんとか消そうと必死になった。
足でもみ消しながら。
近くの砂をかけてみたり。
僕の力ではどうすることもできなくなっていた。
父が駆けつけた。
火の記憶はあるが。
父がどうやって消したのか覚えていない。
燃え跡は、5メートル四方はあったと思う。
父にこっぴどく叱られた。
その前を通るたび。
春が来て夏が来て火事のあとはまた草たちが生い茂ったが、火の記憶は消えなかった。

現代を生きる若者たちは、自分で火をつける機会をどんどん失っているのではないかと思う。
どういう風に火がひろがるのか。
マッチの火で、何かに着火して、その火を大きくして。
キャンプの薪に火をつけたり。
実際できない若者も多いのだろう。
いまや、家庭の火も電気が中心になっている家も多いのだろうから。
火は怖いもの。
いや怖れるものでもないこと。
そのことを知ることなく「火」を使う。
そういう若者たちが増えているのではないかと思う。



浜いぶき 「冬の匂ひ」10句 →読む 小池康生 「起伏」10句    →読む 田島健一 「白鳥定食」10句  →読む 太田うさぎ 「胸のかたち」 10句  →読む 冨田拓也 「冬の日」 10句  → 読む 相子智恵 「幻魚」 10句  →読む 笠井亞子 「page」 10句  →読む 中原徳子 「朱欒ざぼん」 10句 →読む 矢羽野智津子 「四〇二号室」 10句 →読む 仲 寒蝉 「間抜け顔」 10句 →読む

2007-11-04

中山宙虫 家族のかたち

〔週俳10月の俳句を読む〕
中山宙虫 家族のかたち



あ り し 日 の 文 法 歪 む 鶏 頭 花  五十嵐秀彦

テレビをぼんやり見ている。
妻とふたりきりの生活がもう随分になる。
子供たちが一緒に暮らしていたのは何年前だろう?
時々、ふたりで数えてみる。
5年?6年?
暮らしの中から子供の姿が消えた時間を。

バラエティ番組で空虚な笑いが流れる。
僕らもつられて笑う。
ほんとうにおかしいのだろうか?
妻は読みかけの時代小説に目を落とす。
秋の夜長。
数年前までは、子供たちの話題で時間がつぶれていた。
それもここにきて、話題にあがることが少なくなった。

アルバムがほこりをかぶっている。
あの日あの頃。
この写真はいったい何を残してきたのだろうか?
集散する家族の記録。
そこまでは大袈裟なものでもないのだろうが。
笑顔の写真も随分貼られている。
僕らは心底笑っていたように思うのだ。
家族という括りのなかで、僕らは笑っていた。

家族として築いてきたものがすっかり姿を変えてしまった。
子供を送り出したあとの僕ら。
話すことばひとつひとつとってみても。
どこか違っている。
大人の会話なのだ。
お互い分かりきったことは喋ることはない。
それを踏み台にした場所から話は始まる。

ふと気づくのである。
その踏み台にあるものは何なのか?
分かり合っているつもりで、口にしないもの。
あの日、子供たちが家庭のなかにいた日。
僕らが笑いながら話していたこと。
家族の形に少しだけ見えていた可能性。
希望とでもいえるもの。
ふたりの目の前から大きくこぼれてしまった。
いま、ふたりきりで過ごす夜。
窓明かりに、昼間の赤さとは違う鶏頭が浮かぶ。
どす黒いと言ってもいいくらいの鶏頭。

いつかまた。
僕ら家族は形を変える日がくると思う。
そのとき。
どんな色の鶏頭を見ることになるのだろうか?
そして、どんなテレビを見ているのか?




齋藤朝比古「新しき夜」10句  →読む振り子「遺 品」10句 →読む五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む柿本多映 「いつより」10句 →読む津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む

2007-09-02

中山宙虫 どーん

中山宙虫 どーん


大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る 大石雄鬼


「花火。花火だ。確かに音を聞いた。」

自宅にいた僕は、音のする方の窓を開けてみる。しかし、見えない。また「どん」と聞こえる。今度は違うほうから。いったいどこから。マンションやアパートが林立しているこの場所では、ビルの壁に音が反射しているのだ。まるで四方で花火大会が開かれているように。

結局、音で位置は特定できない。外に出てみる……。しかし、ビルたちで花火の片鱗さえ見えない。「どん」「ぱちぱちぱち……」「ばらばらばら……」「ひゅーん」「ばばばばば……」音だけは華やかに聞こえる。さほど、花火を見たかったわけではない。

数人の人たちが音のするほうに顔を向けながら。夜空を見ている。「○○町の花火大会たい。」誰かがそう言っている。間断なく花火の音は続く。さほど見たいわけではなかったのだが……。車を走らせてみることにする。○○町なら、郊外に出れば。そう考えたのだ。エンジンをかける。そして、アクセルを踏んだ。

少し走るとビルなどの谷間にぱっと開いた花火が見える。花火を少しでも見てしまうと、ここまできたのだから、見なくてはという決意めいたものが湧き出てくる。頭の中で、よく見えそうな位置を探している。こころなしか花火大会の方向の道は混んでいてうまく進まない。ぱっと空が明るくなり、さまざまな色がフロントガラスに映る。次には。赤い車のテールランプの列に「どどどどん」と音が降ってくる。いまや、僕の気持ちは焦りに近いものになっている。この渋滞のなかで花火が終わってしまうんではないかと……。

花火はいつもこうやって見てきた。花火大会の日に場所取りなどしたことはほとんどない。若い時分は、花火大会の日くらいはチェックしていたのだが。今では、花火の音で気づくのが常。仕事帰りなどで花火大会の会場に出かける人の列を避けているこのごろなのだ。浴衣姿の少女たちが夜店の前で大きな笑い声をあげていたりする姿を最近見ることもなくなった。ブレーキとアクセルを踏みながら。そんな他愛のないことを考えている。

ますます花火は佳境に向かってゆく。僕は渋滞を避けるために郊外の畑地帯を目指す。ちょっと道は悪いが。人も少ないし。案の定、人もいない。少々遠いが、くっきりと花火が見える場所が見つかった。花火があがる。「ばばばばばば……」。車のエンジンを切って外へ出てみる。ああ、来てみてよかった。次々とさまざまな花火が打ちあがる。遠いながらも、空気を伝わってくる音。次々……。

ふいに光が消えた。「どーん」闇に遅れて音が来た。次の花火を待った。しかし、待っても待っても花火は揚がらない。終わってしまったんだ。 いつになく心躍らされた花火だったが、結局、徒労に近い花火になってしまった。心満たされたというより。ひとりぽつんと畑の中に立っていた自分。花火は僕のうえに降る事はなく、より深い闇を残して終わった。花火を見た記憶はあちこち刺された蚊のあとばかりとなってしまった。現実は擦り切れ気味の日常を持っている僕。花火のしたの人たちも少なからず「終わったね~。」ため息をつきながら現実に帰っているのだろうと思う。まずは、会場を出るための渋滞のなかで。




津田このみ 空 蝉
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_2112.html
谷口智行 おんどれ
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_26.html
中嶋憲武×さいばら天気 「一日十句」より31句×31句
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/3131.html
なかはられいこ 二秒後の空と犬
大石雄鬼 裸で寝る
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/77.html

2007-08-05

週俳7月の俳句を読む(上)1/2

週俳7月の俳句を読む(上) 1/2

媚 庵 「三 汀」10句   →読む 菊田一平 「オペラグラス」10  →読む
田中亜美 「白 蝶」10句  →読む 鴇田智哉 「てがかり」10  →読む
佐山哲郎 「みづぐるま」10  →読む
寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句  →読む
村田 篠 「窓がある」10句  →読む 山口東人 「週 末」10  →読む
遠藤 治 「海の日」10  →読む


…………………………………………………………………………
中山宙虫 



蛇 を 見 て ひ と り に な つ て し ま ひ け り    村田 篠

小学生の頃、田舎育ちの僕は、良く蛇に出会った。僕らの集落にはなぜか男の子しかいなくて、蛇にいたずらして遊ぶこともしばしば。道路に出ている蛇を捕まえて振り回したり。穴に逃げ込もうとする蛇を引きずり出したり。蛇は怖い存在ではなかったのだ。蛇にとっては災いかもしれなかった。僕らは、ちょっとした勇気を見せつけることで胸を張っていた。

まだその頃は、僕らの同級生に兄さんがいて、けっこう一緒に遊んでいた記憶がある。田んぼの中を、縦横無尽に走り回ったり。めんこやビー球で遊んだり。川で泳いだり。そこにはその兄さんたちから受け継がれた遊びがたくさんあった。昭和30年代なかばのことだ。

やがて、その兄さんたちも中学生になり、僕らと遊ぶことも少なくなる。そして、僕らの生活にテレビが登場する。テレビは、友達と遊ぶ時間を奪った。僕の家は、友達の家まで歩いて10分以上かかるし、当時電話もなかったので、出かけてみなければいるかどうかわからなかった。「○○君、いる?」問いかけても家から返事がないこともしばしばだ。そうなるとますます足が遠のく。みるみる友達と遊ぶ時間は少なくなっていった。

大人になって、帰省をする。僕らの集落に当時の同級生はほとんどいない。一旦都会へ出ていった兄さんたちが帰ってきたという話を耳にする。けれど、それはけっして明るい話と一緒には聞けない。体を悪くして両親の元に帰って来ただの。借金を抱えているだの。女に騙されただの。そんな話を聞かされるのだ。彼らの帰郷はけっして明るいものではない。一度は都会で何かを目指したのかもしれないが。

帰省しても、もう誰とも会うことはなくなった。実際、そういった兄さんたちや同級生の話も聞くことが少なくなった。自分たちの集落で、いつも遊んでいた仲間たちに会うことはない。

蛇を振り回して「お前、なかなかやるあー。」。そう言って仲間に迎えられた日。それは遥か遠い日。




…………………………………………………………………………
羽田野 令

肌 脱 ぎ て 久 米 三 汀 の 書 な る と ぞ    媚庵

三汀とは久米正雄の俳号。郡山で育った人である。昨年郡山で時間があって町を歩いた時、句碑を見つけた。それは小学校に建っていて明朝体で彫られていた。この句では三汀の書のことが言われているが、どんな字だったのだろうか。

肌脱ぎの人が軸か何かを見せているのだろう。肌脱ぎは暑い時のくつろぐ格好だが、何かことに向かう時の「もろ肌脱ぐ」や「一肌脱ぐ」を連想するからか、書を持っていることを誇る人の勢い込んだものを感じる。肌脱ぎも着物の場合のことなので最近はあまり見ることもない。一連はそのような一時代前を彷佛させる道具立ての中に作家の名や猫町が登場する。往事の文人たちへの作者の思いを思う。


さ み だ る る わ け て そ ね さ き あ た り は も    菊田一平

「そねさき」と濁らないで言うとなんと優しい響きだろう。どこかはかなげでもある。昔は濁らないで言ったそうだ。曾根崎村は今の大阪駅前のビル群の辺りまでを含んだらしい。さみだるる、本当にあの辺りはそうだなあとこの句を読んで思う。お初徳兵衛の頃は草深い湿地だったことを思うと隔世の感がある。それに今の駅前ビルの以前の町、戦後すぐからあったという密集した町が全くなくなってしまったことも私にはさみだるることである。場所への思いは個々に違うが、「そねさき」はやはり近松で読んで、お初天神界隈の様相にさみだるるのがよいのかもしれない。


あ  橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま    佐山哲郎

空白があるので切って読むと、それで時間的経過を読んでいくことになる。一文字、スペース、二文字、スペース、という小さな切り方は訥々とした感じだが、声に出しでみるととてもリズムがよい。言葉の頭の音にあ段の音が続き、夏、内耳と「な」が重なっているのも心地よい。外界の風景である橋から体に感じる風へ、そして自分の内側へ入る。最後の「みづぐるま」はその回る音を余韻として残す。さっと風が吹いてきた、おそらく一瞬の間のことだろう。川のさわやかな風とともに自分の中の音を聞いた作者が、その時を反芻しているような感が伝わる。


万 物 に 石 を 見 立 て る 夏 休 み    寺澤一雄

石を様々に見立てることは原初よりあったに違いなく、何かの形だとするとそこに霊(たま)が宿ることになる。そのようにして注連縄が巻かれたり、祠に入れられたりして人の祈りのよりどころとなってきた石がたくさんある。掲句ではアニミズムに行かず、現代の夏休みの景を浮かばせる。子供が工作で石に色を塗って動物を描いている場面でもいいし、山や川を歩いて面白い形の石を見つける家族でもよい。季語できまった句である。


信 号 を 待 つ て ゐ る 間 の 揚 羽 か な   村田 篠

信号の変わるのを待つ人の前にどこからか現れる揚羽蝶。垂直に立つ人達と蝶の縫う曲線の軌跡。皆ちょっと目で追う。その小さな出来事の主人公は“あ!”と言われたり、句に書かれたり、そのまま忘れられたりするのである。


あ い の 風 映 画 の ビ ラ の 白 と 黒    山口東人

多色刷りでないビラは、小さな自主上映会を思わせる。60年代後半から70年代のガリ版刷りのビラではないだろうか。そうでなくてもやはり、商業主義に則ったものではないだろう。

あいの風とは、「あゆ」「あい」と呼ばれて様々の漂流物をもたらし入船を容易にする海からの風。古来よりこの国は海から様々な文物がやってきたが、流木などの海に寄りくるものも生活にいろいろ役立った。あいの風はそんな幸いを与えてくれるものであった。小さなビラをあいの風が大きく包んで守ってくれているようである。



…………………………………………………………………………

吉田悦花 


音 楽 の 流 る る ま ま に 浮 い て こ い       村田 篠
蛇 を 見 て ひ と り に な つ て し ま ひ け り
ハ モ ニ カ に 息 の 音 あ り 夏 の 暮

今回、拝見した9作品の作者のうち、初めて作品に接する機会を得た方もいらっしゃいました。九人九色の作品集の最初、「窓 がある」は、繊細で、どこか内省的な世界を感じさせる10句。「浮いてこい」季語に力強さがあります。いつのまにか「ひとりになつてしまいけり」。「ハモニ カ」からもれる、ためいきのような音。たしかに「夏の暮」に通じています。


芝 を 刈 る ボ タ ン ダ ウ ン の 男 か な       山口東人
土 用 凪 木 の 電 柱 に 蓋 が あ る
メ ロ ン パ ン 喰 へ ば 火 葬 の 終 り け り

「週末」というタイトルのように、気負いのない10句。「ボタンダウン」から、アイビー・ルックとかスノッブという言葉も彷彿として、妙に面白い。「木の 電柱」も懐かしい。しかも、「葢」があるとは。納得させられます。「メロンパン」の質感に似て、乾いた感覚に軽く驚きました。忘れられない一句になりそ う。


波 乗 り の 波 に 乗 る と き 陸 を 向 き       遠藤 治
波 乗 り の 姿 勢 の ま ま に 呑 ま れ け り
焼 き そ ば を 重 ね 持 ち た る ビ キ ニ か な

「海の日」の連作中、「波乗り」2句に好感を持ちました。「焼きそば」は、一読したとき、「重ね打ちたる」と勝手に読んでしまい、「ビキニ」姿の日焼け ギャル(死語)が、屋台の鉄板で豪快に焼いている様子かな、と思ってしまいました。透明の容器の「焼きそば」を持って砂浜をくる健康的なイメージ、でしょ うか。


草 刈 機 な れ ば な ん で も 刈 つ て を り     寺澤一雄
水 流 れ 落 ち れ ば 滝 と 感 嘆 す
船 虫 の た く さ ん 出 て た く さ ん 去 る
夏 祭 毎 年 常 の こ と を な す
竹 婦 人 竹 を 編 ん だ る だ け の も の
仕 方 な く 水 争 に 混 ざ り け り
心 臓 が 止 れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ
扇 風 機 売 り 場 か ら い ろ い ろ な 風
虎 が 雨 株 主 総 会 集 中 日
燃 え 尽 き て 蚊 取 線 香 渦 残 す
大 蚯 蚓 伸 び 切 つ て を り 進 ま ざ る
日 本 に ゐ る ア メ リ カ の 兵 士 か な
虫 の 名 も 人 の 名 前 も 疎 覚 え
風 鈴 は 吊 さ れ な が ら 鳴 り に け り

「なれば」「落ちれば」「常のこと」「だけのもの」「仕方なく」など、いっちゃった感というか、よくぞいってくれたという感じ。この、身も蓋もない感じ、 いいなあ。だからなんなのと突っ込んだり、ホントホントと共感したり、なんだか愉快になる。大雑把なようで、良質な詩性に支えられ、なんとなく考えさせら れてしまう。とくに、「船虫の」「扇風機」「虫の名も」が好き。淡々としているように見えて、微妙なところで変化する。読み手を煙に巻くような50句。


帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑         田中亜美
し づ か な る 拳 緑 蔭 過 ぎ る 鳥
白 日 傘 真 空 管 と し て あ ゆ む

白い帆、それは「祈りの位置」という断定に魅かれます。ダイナミックな広がりのある構成だけに、「夕薄暑」という季語は、すこし情感に傾いてしまって、 もったいない気がします。「真空管としてあゆむ」は、「白日傘」を傾かせている身が、真空になったかのような、透明で繊細な、どこか虚ろな心情を表現。


う す う す と 電 気 の な か を 羽 蟻 来 る      鴇田智哉
蚊 の と ほ り 抜 け た る あ と の 背 中 か な
が が ん ぼ の ぐ ら つ き な が ら ゐ る ば か り

なんでもないような、意識の空白をくぐりぬけたことば。だれもが目にしているけれども、視ていない、そんな表層をすくい上げている感じ。とくに「ぐらつき ながらゐるばかり」のひらがな表記にはあやうさも。淡淡としているけれども真顔過ぎて、もう少し茶目っ気漂う句も見たいなあ。そんな気もします。


半 夏 生 魚 は 鱗 を 脱 ぎ に け り           佐山哲郎
鯵 と し て 熱 く 激 し く 皮 膚 匂 ふ
籐 椅 子 の を ん な 魚 の 卵 抱 く

「鱗」「皮膚」「卵」と、かなり生々しい。でも、幾重にも塗りこめられた絵画を観るようで、納得させられます。とくに「半夏生」の句は季語も効いていて、 するりと脱皮する「魚」の「鱗」のきらめきが見えてきます。「籐椅子」は、「魚の卵」をすでに孕んでいるようなイメージ。ドキッとさせられます。


年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子            媚庵 
画 面 か ら ビ リ ー の 叱 咤 川 開 き
箱 庭 の フ ィ ギ ュ ア 置 き 変 へ 太 宰 の 忌

「年金」「ビリー」「フィギュア」で三題噺ができそうですね。「確かめに行く」にリアリティ。ビリーズブートキャンプの「ビリーの叱咤」でしょうか? 隅 田川花火大会の打ち上げ花火の最中、黙々とエクササイズに励んでいる風景は、一種凄みがあるような。「置き換へ」としたところにこだわりが感じられます。


青 水 無 月 鯉 に 大 き な 鼻 の 穴           菊田一平
豆 ご は ん 厨 揺 ら し て 噴 き 上 が る
夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場

池の面をせり上がってくる「鯉に大きな鼻の穴」が面白い。「厨揺らして」のインパクト。「炊き上がる」香り、ふっくらとした「豆」まで見える、幸福な夕 餉。歌舞伎の舞台は一気に盛り上がり、愁嘆の場に雪崩れ込む。身を乗り出すようにして「オペラグラス」に見入っている作者。熱中している姿が目に浮かびま す。



…………………………………………………………………………
猫 髭


 麦 粉 菓 子 林 房 雄 を 再 読 し   媚庵

【画面からビリーの叱咤川開き】を除けば、みなレトロな句で、特に【明治時代の死語「帰省子」】(飯田龍太曰く)を使った【帰省子の渡り廊下を渡りけり】などは恍惚としているが、明治生まれが週俳に句を掲げることはないから、ヘルマン・ブロッホ×色川武大的に言うと「老境に入りつつある懐古趣味の男」の手遊びという趣きになる。だから、そのつもりでつきあうことになるが、まあ、週俳始まって以来の珍句がある。揚句である。
麦粉菓子?「麦焦がし」だっぺよ。

  麦焦がし林房雄を再読し

が正しい。と言っても、「麦焦がし」など今の人たちにはなじみがないだろう。

【麦焦がし:大麦を炒って粉にひいたもの。砂糖を混ぜ水で練って食べたり、菓子の原料にしたりする。はったい。香煎。麦炒り粉。[季]夏。】(大辞林)。戦時中の食料難で、水団が主食で「麦焦がし」がお八つという時代もあったので、戦争が終わっても親父がよく作って、相伴させられたが、まあ、うまいものではない。ただ、切迫した中にも楽しい団欒の思い出もあったのか、あんときはひどかったと戦時中の暮しを語りながら、やっぱりまずいなあと笑いながら食べる父の記憶は、貧乏を香ばしくしたようなねちょねちょした甘味を蘇らせて、懐かしい味ではある。水団と「麦焦がし」はおやじの味なのかもしれない。

取り合わせは林房雄。投獄中にプロレタリア文学から転向(平凡社の思想の科学研究会編『共同研究 転向』参照)した作家で(この時の小林秀雄の友情は彼の『林房雄の「青年」』によくあらわれている)、『大東亜戦争肯定論』で物議を醸し、三島由紀夫が非常に尊敬し、その対談『対話・日本人論』と三島の『林房雄論』は70年代当時話題になったが、彼の書くいわゆる中間小説との落差が腑に落ちなかった。しかし、揚句で彼の小説は「麦焦がし」の味だと言われたようで、四十年来腑に落ちなかった気持にストンと来たので、実に絶妙と感心した。くどいようだが「麦粉菓子」といったビスケットのような洒落た味ではない。冬に食う蕎麦湯の夏の大麦ヴァージョンといったところか。

余談ながら、マキノ正博の戦前の映画に『鴛鴦歌合戦』という抱腹絶倒のオペレッタ映画の大傑作がある。何と片岡千恵蔵、志村喬が歌い踊るのである。ディック・ミネの♪ぼっくはお洒落な殿様~♪のバカ殿役なぞ絶品で、志村喬がこれがまた歌がうまい!♪さ~て、さてさてこの茶碗♪なんぞと、実に軽妙にしてなかなか。貧乏長屋の落ちぶれた浪人役で、毎日麦焦がしを食べている。しかし、その麦焦がしを入れている壺が、実は驚くなかれ、という物語で、こんな馬鹿馬鹿しいほど楽しい映画を見ないで、みんな死ぬなよ。


 夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場   菊田一平

まるで、ルキノ・ヴィスコンティの絢爛豪華な映画の一シーンのような豪華な句である。『夏の嵐』で、アリダ・ヴァリが地を縫うようなドレスに身をつつみ、若い恋人の元へ訪れんと嵐の予感をはらんだ黒雲の下の道を横切る姿すら見えてきそうだ。まさしく『オペラグラス』十句は恋の連作であり、揚句を題に掲げたことで、この恋が「嘆きの場」に終わる夏の嵐のような予兆を告げている。

初句【青水無月鯉に大きな鼻の穴】のどこが恋かと言われれば、鯉が詠まれているからと言えば読者は笑うだろうか。この句は「青水無月恋に大きな落し穴」とも読める。続いて【ニッケルの灰皿重ね太宰の忌】と、玉川上水における愛人山崎富栄との入水心中で死んだ太宰治が詠まれている。「桜桃忌」ではなく「太宰の忌」なのは、「桜桃忌」だと攝津幸彦も【国家よりワタクシ大事さくらんぼ】で下敷きにした『桜桃』の【子供より親が大事、と思いたい】がちらついて邪魔だからだ。「ニッケルの灰皿重ね」てある場所は、ざっかけない銀座の裏の飲屋であり、【家庭の幸福は諸悪の本】(『家庭の幸福』)と吐き捨てることができる場所であり、【人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ】(『ヴィヨンの妻』)と片隅でつぶやける場所でもある。間違っても女房子供と行く店ではない。

【つゆ寒の引けばかたかた厠紙】は、恋とは無縁な、恋の墓場でもある【家庭の幸福】という場所であり、一読、便座に座れば誰もが口ずさみたくなるようなリズムをもっているのが妙味というものだが、繰り返しにたるものだけが生き延びることができる生活の場で、恋は生き延びる事はできない。それが「つゆ寒」の寒さである。リラダンのように【生活、そういうものは召使にくれてやれ】と恋に命をかけるわけにはまいらない。
【さみだるるわけてそねさきあたりはも】は、大阪は曽根崎新地に場を移す。と来れば近松浄瑠璃『曽根崎心中』、【色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音】で始まる徳兵衛お初道行の【此の世のなごり、夜もなごり、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づゝに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ】の義太夫が響く、一の糸が鳴る。

舞台は一転、【東京の恋はつれなしうつぼ草】。弓を入れる靫に似ているから靫草。しかし、恋の矢はおさまらなかったようだ。忸怩たる「つれなし」だが、巧妙に前句で浄瑠璃の【まばたきて人を戀せる傀儡かな 加藤三七子】という人形の仕種で生身の生臭さを隠しているから、重くは見えないが、実は心情はこの一句で吐露されている。【啜りたる枇杷の滴が枇杷の上】。この枇杷は涙の形をしている。

【豆ごはん厨揺らして噴き上がる】。厠にあらず、今度は厨。恋など役立たずなものは微塵も生き延びる余地のないこのたくましさはどうだ。蒸気機関車が轟くような台所だ。
そして、【夏至の日のオペラグラスに嘆きの場】。日本の心中を太宰、近松とたどれば、ここはさしずめ、竹本座を空前の大入りにした近松半二の時代物浄瑠璃『妹背山婦女庭訓』の「吉野川」を置く。親の不和から死に至る悲恋の清舟、雛鳥の、これは和製『ロミオとジュリエット』、その雛鳥の【また逢ふこともあらうとは、別るる時の捨て言葉、たとへあの世のとと様に御勘当受くるとも、わしやお前の女房ぢや。とても叶はぬ浮世なら、私は冥土へ参じます。千年も万年も御無事で長生き遊ばして、未来で添うて下さんせ】と、吉野川へと見得切れば、加賀屋高砂屋と大向こうから飛ぶ声も、桟敷の涙にかき消され、丈夫も汗を拭うふりして涙をぬぐう嘆きの場。女には見せぬ涙も、歌舞伎とあれば思う存分涙川、嘆きせきとむるすべもなければ、今日もまた俳句を詠みて遊び暮しつ。【ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ。たれかは殺すとするものぞ。抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ】(萩原朔太郎『純情小曲集』)。

しかし、未練は残るもの。【南風鯉にかまけてゐるらしく】。この句を「南風恋にかまけてゐるらしく」と風に心を託すのは、【冬来たりなば、春遠からじ】で知られるシェリーの『西風に寄す』に見るように、古今東西詩人の習いで、しかし、そこは湿度の高い大和の国、【月見草おーいおーいと手を振れり】と、それでもつとめて明るく手を振る男がここにいる。【忘れねばこそ思ひいださず候】とは名妓高尾が恋の手管なれど、春水『梅暦』では稀代の色男丹次郎【おもひ出す所か、わすれる間があるものか】と二兎を追って二兎を得る珠玉のくどき言葉、女房に吐けば、比翼連理の契り間違いなし、帰る場所があるのは嬉しいと You’d be so nice to come home toが流れる都会のBARへ寄り道してゆく男心よ。