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2024-09-15

谷村行海【週俳7月8月の俳句を読む】大人と子供

【週俳7月8月の俳句を読む】
大人と子供

谷村行海


先月、『それいけ!アンパンマン ばいきんまんとえほんのルルン』を鑑賞しました。今回のアンパンマン映画はアンパンマン映画の歴代興行収入一位を記録し、大人も鑑賞すべきだと話題を集めていました。大人が鑑賞しやすいようにアンパンマンナイトという夜間上映イベントも行われていましたので、鑑賞を決めたのです。結果、大傑作でした。誇張抜きに今年観た映画で今のところ一番です。そして、劇場で観てわかったことですが、大人は細部にも注目し、子供は主にアクションシーンに歓声をあげます。知識を得ることで鑑賞の視点が変わるのはどの分野にもあることですが、あらためてそれを実感させられました。俳句においても、大人は子供の視点を失いがちだと思います。しかし、童心に帰って句を味わう・作ることもやはり大切ではないかと思わされました。前置きが長くなりましたが、今回鑑賞した句にも童心を思い起こされたり、逆に大人だからこそ詠めたりする句を感じました。

ごはんやでカラーバットと捕虫網 喪字男

郷愁性の強い一句。バット(おそらく競技用ではないおもちゃのものでしょう)や捕虫網を携えて野原を無邪気に駆け回る光景は、それを経験していてもしていなくても脳裏に浮かぶことだと思います。そして、遊び終えて泥だらけの服で帰って来た時に親から言われる「ごはんやで」の一言。捻った言い回しではなく、日常で使う言葉をストレートに表現したことで、より共感性が高まったように感じます。泥だらけの服で家に入り、親に小言を言われる光景までもがセットで浮かんできました。

もうすでに次の花火を待つてをり 喪字男

花火の光景として新鮮に思いました。試みに家にあった歳時記をいくつか開いてみましたが、花火の例句として掲載されていたのはほとんどが花火自体のこと。花火を観ている側に焦点を当てた句が(私の持つものには)あまりありませんでした。ですが、花火の句として花火そのものにではなく、花火を観る側に焦点を当てることも当然できます。花火大会に行くとこの句のようなことは往々にしてあり得ることの一つではないでしょうか。それなのに、句にはされていない光景のように思われます。前述の「ごはんやで」の句と同様、日常の切り取りをしている句に魅力を感じました。

眠り足りぬ日々に睡蓮水を吸ふ 山中広海

寝不足な日に睡蓮が水を吸っているというだけの光景ですが、不思議な感覚をまとっています。「に」のおかげで主体の生命力が睡蓮に吸い取られてしまっているようにも思えてきます。もしも「に」ではなく「や」であったならば、この感覚は生まれていなかったのではないでしょうか。また、最初を「寝不足の」など五音に収める言い回しはいくらでもあります。しかし、あえて六音にして強調することで小さな切れが生まれているようにも感じられ、睡眠不足時の覚醒に時間がかかる感覚も味わえる句となっています。

経血は揺れて金魚となりにけり 山中広海

映像的な美を感じました。小説や映像で、前の段落・カットの終わりのものと次の段落・カットの始まりのものとで形状や色合いなどに類似点のあるものを出してシーンをつなぐ方法がありますが、それを活用しているように思いました。経血も金魚も色合いの点では似ている面もあります。シャワーなどの時に経血が水に流されてカットが水槽へと移り、金魚へと変化していく。どことなく、室生犀星の『蜜のあわれ』も連想しました。

亀鳴くや湖をただよふ旧字体 有瀬こうこ

旧字体は新字体に比べて画数が多いものが多く、厳めしい感じを受けます。そのせいか、漂うとなると海よりも湖のほうが感覚的に合うような気がします。海だと広すぎますが、湖だと広さ的にも丁度よく、画数が多くぎゅっと詰まったものが漂っている光景にも焦点が向かいやすいのではないでしょうか。全体的に実景ととらえるとあり得ないことなのですが、こう書かれると旧字体は湖をふわふわしていないといけないもののように思えてきました。

遺作ひらかれて少女の涼しい眼 有瀬こうこ

「ひらかれて」の使い方が巧い句だと感じました。この「ひらかれて」は遺作にも少女の眼にもどちらにもかかっており、遺作・眼がひらかれた瞬間の感情の機微に思いを馳せることができます。当然ながら、少女の眼の涼しさの意味は少女本人にしか分からないことではあります。しかし、その時に少女が何を思ったかを想像することで句の奥行きが生まれてくるように感じます。

秋の庭何かことりと音のして 若杉朋哉

さまざまに当たる音して秋の雨 若杉朋哉

どちらも音に注目した句ですが、一句目は何の音かは正確にはわからず、二句目は何の音かはわかっていながらも音全体の響きを楽しんでいます。また、一句目は音が聞こえた後に一瞬にして音が消えますが、二句目は雨が止むまではさまざまな音が鳴り続けています。第七回新鋭俳句賞受賞作「けむり」の中にも「二つ鳴く虫の遠くの方止みて」がありましたが、音への感覚の鋭さを感じます。人間は視覚で得る情報がどうしても多くなりがちですが、これまで以上に音に注目することで俳句世界はさらに広がりを見せそうだと感じました。


喪字男 ごはんやで 10句 ≫読む 第898号 2024年7月7日
山中広海 本に紙魚 10句 ≫読む 第900号 2024年7月21日
有瀬こうこ 古語 10句 ≫読む 第903号 2024年8月11日
若杉朋哉 八月後半 10句 ≫読む 第904号 2024年8月18日

2024-04-21

谷村行海【週俳3月の俳句を読む】ブレイバーンのような俳句を

【週俳3月の俳句を読む】
ブレイバーンのような俳句を

谷村行海


私事で恐縮ですが、最近『勇気爆発バーンブレイバーン』というアニメ作品にいたく感動しました。地球を滅ぼさんとする外敵をロボットに乗った主人公が迎え撃つというお馴染みのプロットではあるのですが、タイトルにも出てくるブレイバーンという「ロボット」が新規性を生み出しており、そこに私は感動しました。ネタバレになるので詳しく書けないのが残念ですが、第一話だけでも未視聴の方にはぜひ見ていただきたいです。

さて、前々から思ってはいたことですが、ブレイバーンを見てからというものの、俳句にも新規性を出さないと駄目だと強く考えるようになりました。お決まりの「制約」の中でいかに新規性を出すかにブレイバーンは成功したわけで、俳句もその「制約」の中で新規性を出していく必要がある。そんなことを考えながら句を読みました。


猫柳弾けば大き雨雫  浅川芳直

猫柳に触れたことで思わぬ発見を得た。確かな写生によって世界が拡張されていく感動があり、子規の考えた写生のようである。「~ば…」の形は一種の定型ではあるが、定型であったとしてもそこにある新たな発見が読者へ新しい世界を届けてくれる。むしろ、定型だからこそこの発見に集中できるように思える。

服薬は菓子食ふやうに春の風邪  浅川芳直

比喩が抜群にうまい。私自身、この文章を書いている時に風邪をひいていたせいもあるかもしれないが、それでもこの感覚には納得させられてしまう。のどかに過ぎ行く春の世界において、春風邪(もちろん程度によるだろうが)は深刻ではなく些細なもの。薬剤師から渡された錠剤をラムネなどの菓子でも食うかのように口に含むことにより、ぼんやりとした頭でぼんやりとした春の世界全体に自分自身を溶け込ませていくかのような雰囲気もある。カロナールとデキストロメトルファン、カルボシステイン錠なる薬を処方されているので、私も菓子食ふやうに飲んでみようと思う。

きさらぎの銀河の果てのパイプ椅子   宇佐美友海

大きな世界から小さな世界への転換があり、そこに出てくるモノがいい。きさらぎという時間的に大きなものから、時間と空間を内包した銀河というさらに大きなものへ飛躍し、最後に何が来るかと期待させてのパイプ椅子。しかし、よく考えればパイプ椅子にも時間的な感覚はある。いつもそこにある椅子ではなく、急ごしらえの椅子であるがゆえにそこで過ごすわずかの時間に意識が向かう。また、パイプ椅子を置くことでそこに新たな空間が生まれ、長き銀河の果てにある私たちの世界にも視線が向く。

ぼたん雪大きな指の攫ふ塔   宇佐美友海

実景ととるか観念的ととるかで印象が変わる句だ。実景ととればレゴブロックなどでできた塔を片している景が想起され、観念的ととれば神の世界などの形而上学的なものが想起される。しかし、いずれにしても共通するのは何かを壊して創り直すということ。ぼたん雪が止んだ後に生まれる世界に思いを馳せることで句に奥行きが生まれる。

ミャクミャク 岩田奎

タイトルにもなっている「ミャクミャク」は2025年の大阪・関西万博のキャラクター。大阪・関西万博の公式サイトによると、“今まで「脈々」と受け継がれてきた私たち人間のDNA、知恵と技術、歴史や文化。変幻自在なキャラクターは更にあらゆる可能性をその身に宿して、私たち人間の素晴らしさをこれからも「脈々」と未来に受け継いでいってくれるはず”というコンセプトからその名前が付けられているようだが、異様なデザインが発表時から物議を醸してきた。Wikipediaにさえも“その怪異なキャラクターデザインからカルト的人気を集める”と記されているほどだ。そして、全句に共通して詠まれる「血沼海」は大阪湾の別名。古事記において、戦いで負傷した五瀬命が傷ついた手をここで洗ったとされることに由来する。

タイトルと歴史的経緯を考えると「血沼海かぢめ醜と女学生」が印象深い。怪奇的とまで言われるミャクミャクの姿と穢れを払う前の醜とがリンクするかのようだ。その後に「卒業の脛美しや血沼海」と来ることで、美醜に心惹かれてしまう私たちへの懐疑的な目線も浮かび上がってくるように感じられる。ひとたびそんなことを考えると「べとべとと桜餅あり血沼海」の「べとべと」などにもそういった目が加わっているように思えてくる。脈々と受け継がれてきた私たちの感覚が問われているかのようだ。

大阪・関西万博が閉幕した後に読み返してみるとまた違った感慨も出てきそうな一連だった。

火を点し火を拝み火へ春の雪  若林哲哉

火のリフレインが印象的だが、最初の火は無から有への転化であり、二回目の火は心のなかで火への思いを寄せる、つまり、目の前にあっても見てはいない火になる。そして、最後は拝み終えてぱっと目を開いた時に見えた光景。拝む前にはなかったものであり、能動的か受動的かの違いはあるが、最初の火と同じように新しいものがその場に出現している。新しいものが生まれる光景から始まり、最後にまたそこに回帰していくのが火のリフレインと共に効果的に機能しているように感じられる。

その部屋のひねもす灯る雪柳  若林哲哉

前出の浅川さんの雪柳の句とはまた異なる発見の句である。こちらの句では雪柳はあくまでも小道具に徹しており、季語は動く。だが、別にそれは問題ではない。重要なのはその部屋に一日中灯がついていたということのほうだ。また、一日中灯がついていたということを知っていたということは、この主体自体がその部屋を一日つい気にしてしまっていたということでもある。日常の微かな不思議とともに、人間の心理的な側面が見えてくる句である。


浅川芳直 寝返り 10 読む  第880

宇佐美友海 背中 10 読む  第881

岩田奎 ミャクミャク 10 読む  第883

若林哲哉 ひとひら 10 読む  第884


2023-03-19

谷村行海【週俳1月2月の俳句を読む】様々な存在

【週俳1月2月の俳句を読む】
様々な存在

谷村行海


水滴のやうに蠅をり日向ぼこ 山口遼也

「水滴」で画像検索をかけると、複数の水滴が点在する画像がたくさん出てくる。だが、この比喩としての水滴は複数の水滴ではなく、一滴のものと思われる。個人的な感覚かもしれないが、蝿がじっとしている場合には、その存在はそこまで気にならない。飛び回るからこそ煩わしい存在に感じられる。同様に、水が一気に飛び跳ねてしまうと煩わしいが、たった一滴だけであれば気にもならない。つまり、この蝿は煩わしい存在ではなく、日向ぼこを共にするようなほほえましい存在。長い時間蝿がそこにじっとしているようで、のどかな午後のひと時を感じさせてくれる。

底冷や魚拓は目玉まで写し 山口遼也

きわめて残酷な句に感じられた。魚拓をとる場合、目玉には墨を塗らない。魚拓に描かれた目の絵は筆によるものとなる。そのため、目の絵を描くまでは、目の部分のみがぽっかりと空くことにある。また、魚拓をとった後の魚は人の胃袋に収まってしまう。このようなことを考えると、ぽっかりと空くように写された魚拓の目玉の部分は、その魚の無念さを印象付けてくれる。人の目と同様、魚の目も多くのものを語ってくれるのだ。


階段を上る恋猫時間のやう 山岸由佳

猫は非常に気まぐれな生き物。ぱっと移動することもあれば、ゆっくりと移動することもある。ふと見た時に階段にいて、またふと見た時にはそのさらに上の段にいる。それは集中しているときには短く、何もすることがない時には長く感じられる時間というもののようにも思えてくる。この猫にはぷくぷくとしていてほしい。

ふりかけの酸つぱい春の夜のラジオ 山岸由佳

ラジオは表現コードが緩い。一昔前のテレビのような会話が繰り広げられる番組もあれば、やけに政治色の濃い番組もある。だが、それらに共通するのはリスナーとの距離の近さ。だからこそ、ラジオからふと聞こえてきた内容にどきりとさせられてしまうことも多い。ふりかけを酸っぱく感じてしまうのは、単にそのふりかけの味のせいだけではない。ラジオを通してはるか向こうにいる他のリスナーとも感覚的につながっているのだ。


雪晴れて棘よく刺さるからだの端 佐々木紺

言われてみると、確かに棘が刺さるのは指先や足先などのからだの端のほうだ。腹や胸など、からだの中心には棘が刺さることはほとんどない。見方を変えれば、棘が刺さるということは、意志でもってそれだけその指先などを動かしているということにもなる。そのことに気付いた時、からだを動かすということがまた楽しいことのようにも思えてくる。

陽炎や老人になる息子たち 佐々木紺

単純に読めば、自分の子どもが自分と同じように高齢になったと読める。だが、どうにもそう読んではいけない句のように思う。息子たちを眺めているのは、そもそも人間なのだろうか。人間以外のもっと大きな存在のように私には思えてくる。神や仏のような、神羅万象の世界観がある不思議な句だ。


寄居虫の砂を巻き込みつつ歩く 藤井万里

やどかりの殻大揺れに波に入る 藤井万里

このやどかりの二句には映像的な感覚がある。まず、一句目では砂の上を歩いているわけだが、この景を見るためには視点をやどかりに接近させる必要がある。つまり、映画などであれば、やどかりの足から次第にカメラが離れていき、やどかりの全体像を徐々に見せていくことになる。続く二句目では、全体像から再びやどかりにカメラが接近し、そしてまたカメラは離れ、波にのまれるやどかり全体を映す。要するに、この二句では「近づく→離れる→近づく→離れる」とカメラがいったりきたりを繰り返す。これにより、やどかりの存在感というものを読者に強く印象付けることになる。また、一句目では砂粒(小さいもの)を描き、そのうえで二句目で波(大きいもの)を描くことにより、これまたやどかりの存在を強調させているように思えた。


山口遼也 叡電 10句 ≫読む 第821号 2023年1月15日
山岸由佳 おのづと 10句 ≫読む 第825号 2023年2月12日
佐々木紺 声と暴力 10句 ≫読む 第826号 2023年2月19日
藤井万里 青 空 10句 ≫読む 第827号 2023年2月26日

2021-04-18

【週俳3月の俳句を読む】一読者の想像として 谷村行海

 【週俳3月の俳句を読む】

一読者の想像として

谷村行海


やきそばは半額梅が枝は湾曲  篠崎央子

主体が今どこにいるのかは読者によって意見がわかれるだろう。スーパーの中から外への移動の動きがある句だと私は思った。助詞「は」を使っているため、他にもさまざまな惣菜が売られていることが想起できる。そして、逆を言えばやきそば以外は半額ではないのだ。個人的な感覚では、寿司が半額なら嬉しいが、やきそばが半額になっていても少しも嬉しくない。家に食材がなく、おまけに料理を作る気力もないときに半額のやきそばしか見切り品がなかったらがっかりする。しかし、それでも買わねばならない。そんな気持ちを抱えたまま店外に出ると、湾曲した梅の枝に気付く。発見は良い気分のときばかりに起きるものではなく、このようなときにも起きるのだと教えてくれるような句だ。

服を縫ふ指にんにくを分解す  篠崎央子

現代へのアンチテーゼのように思えた。現代ではファストファッションが流行し、服が破れたらすぐに買い替える。憶測だが、「服を縫ふ」人間は確実に少なくなっていることだろう。つまり、「服を縫ふ」行為は時代との逆行であり、大量消費社会における貧しさのようなものをも象徴しているように見える。そのうえ、その指でにんにくを分解までしている。にんにくは刻んだり潰したり、分解すればするほど臭みを増すのだが、それを素手で行うとは。臭いも何も気にしない潔さがなんとも清々しい。できることなら、これは手を洗わないで分解していてほしい。

山葵摺る夜や探査機の着陸す  篠崎央子

探査機がどこかの星に着陸すると確実にニュースになる。しかもかなりのトップニュースに。しかし、そんなことはどうだっていい。探査機が着陸したからといって、私たちの生活がすぐに変化するわけではない。それよりもむしろ、今眼前に存在する山葵をどうにかするほうが重要だ。現代ではチューブタイプの山葵を使うことが多く、山葵を摺る機会はあまりないように思う。それに摺らなければならない山葵は高い。だが、その分チューブ山葵とは比べ物にならないくらい美味で、山葵だけで充分に飯が食える。要するに日常におけるハレのような存在だ。そう考えると、人類にとってのハレよりも今目の前のハレのほうが一般感覚では重要なはずだろう。


艸魚忌や午後がまつたく暇であり  中西亮太

漢字をひらがなにしている句を見るたび、本当にひらがなにする必要があるかどうかを考えてしまう。この句は漢字かひらがなかで印象が180度変わり、ひらがなだと視覚化された促音ののどやかな調子から、暇を楽しんでいる趣がある。一方、漢字であると無骨な印象が先行し、苛立ちが句の奥に滲む。他の句の並びから見ると、これは暇を楽しんでいる句でなければならず、そのため、ひらがなの必然がある。しかし、このようなやわらかみを出すためにひらがなにするのには抵抗がある。短歌ならまだしも、俳句では季語がその役割を担保することができるのではないかという思いが個人的にはあるからだ。だが、この句の季語は艸魚忌。忌日句はそこに込められた作者の思いも読み取りたい。そう考えると、季語は他のものに変えることなどできず、やはりひらがなにして暇の楽しみを出す以外にないのだろう。これは良いひらがなの開き方を示した句だと思う。

永き日や黒鍵白鍵より軽く  中西亮太

音楽に関して疎いため、軽く調べてみたところ、黒鍵は白鍵よりも短く、その関係で通常であれば白鍵よりも重いものらしい(http://www.art.hyogo-u.ac.jp/hrsuzuki/DOC/trade/vol.31.pdf)。しかし、その黒鍵が白鍵よりも軽いとはどういうことか。単なる整備不良や経年変化によるものととる向きもあるだろうが、軽いという錯覚を覚えてしまう人間の感覚のほうを推したい。普段は重い黒鍵でも、その日の気分によっては軽く感じるのは十分にあることだろう。季語からもそれはうかがえる。

掃く人の椿壊してしまひけり  中西亮太

第三者的な凝視がたまらない。日常の感覚からして、清掃員を見てもそこまで凝視することはないだろう。しかし、この句では清掃員の掃除がある場所からある場所へと移り、やがて椿を破壊してしまう様をありありと見ている。かなりの時間経過がありそうだ。見ることで行為を追体験し、だからこそ「けり」による後悔にも似た念が読者にも強く響く。この凝視の視線は波多野爽波にも通じるところがあるように思えてくる。


勝てる気の全然しない猫柳  近恵

木蓮が光って海をひとが来る  同

雪柳墓石わずかにずれている  同

何かの気配がある句が多い一連だ。「勝てる気の全然しない猫柳」では、何に勝てる気がしないのかが明示されてなく、「木蓮が光って海をひとが来る」では「来る」という現在形で動きのある動作のためにまだ完全に何かが自分の側に到着したわけではなく、それは人かもしれないし、人ではない何かのようにも思えてくる。また、「雪柳墓石わずかにずれている」も何かが墓石を動かしたという奇妙な雰囲気が漂っている。つまり、一句単体で成り立っているというよりも、「その一句+読者が想像するその句の前後にある何か」で句が成り立っているように思える。これは映画であるシーンの前後を切り取り、あらかじめ鑑賞者に提示してから話を進めていくような感覚で、読者としてはその先を知りたい気持ちが募る。しかし、この一連ではそれらの「何か」がいくら読んでも示されることはなく、最後まで読者の想像にゆだねられている。だからこそ、「どこかで」この句群を見た読者によって如何様にも内容は変化しうる。


日当たりは良いが廃屋燕来る  須藤光

人間の思考は変えにくい。廃屋でも、リフォームすれば住む分には困ることはない。それに、これは住居を探している段階で、一戸建てに住もうとしている以上、ある程度の軍資金はあるわけだ。リフォーム費用も捻出することはできるはずである。しかし、廃屋であるがために心の内には抵抗感が生まれてしまう。以上、この句をそのように読んでみた。一方、新たな住居を買うのではなく、たまたま出くわした見ず知らずの家を眺めているともとれる。その場合、主体の異常さに目が向く。どちらにせよ、この句は書かれた光景よりも人間の心理的側面に踏み込んだほうがおもしろく読める気がしてくる。

残雪や仏具映すブラウン管  須藤光

地上デジタル放送が映らないためにブラウン管はすっかり番組視聴用としての現役は引退したが、小売店にとっての広告的な商業面での役割はまだまだ引退していないのだとはっとする驚きがある。確かに、不動産会社などはテレビモニターを店先に置き、内覧可能なおすすめ物件の間取り図などを表示していることがある。薄型でも、ブラウン管でも、その用途なら役目自体は変わらない。目の付け所として実におもしろいところをとらえている。ただ、仏具店にしたのは本当にそんな店があったのかといささか疑問には思う。本当にあったのだと言われればそれまでだが、この句はブラウン管テレビがまだまだ商業的な面では現役だというだけでおもしろいのだから、現実にあったことだとしても多少いじって別のお店に変えたほうがしっくりとくるような気もしてくる。

第724号 篠崎央子 猫の貌 10句 ≫読む

第725号 中西亮太 祝祭 10句 ≫読む

第726号 近恵 どこかで 10句 ≫読む

第727号 須藤 光 故郷 10句 ≫読む

2020-07-12

【週俳6月の俳句を読む】アンチ丁寧な暮らし 谷村行海

【週俳6月の俳句を読む】
アンチ丁寧な暮らし

谷村行海



◆昼の金魚 安田中彦

一読し、ノスタルジーとまではいかないものの、どこか懐かしみを覚えてしまう一連だった。

いま欲しきもの叔母さんの白日傘  安田中彦

「いま」「さん」の記述から、大人になった今、叔母の持っていた白い日傘に思いを馳せていると読んだ。句では叔母の持つ白日傘にしか言及していないが、この道具を思うことで、所有者である叔母にも同時に思いを馳せることに繋がる。わざわざ「さん」付けし、表記も漢字にしているわけだから、よっぽど思い入れのあった叔母なのだろう。シンプルな作りの句ではあるが、回想はかなり深いところに及んでいるように思える。

骨格は螺子にてゆるぶ揚羽蝶  同

自由工作などで作られる模型としての揚羽蝶として読んだ。螺子が一つ緩んだからといって、全体が崩れることはない。一部が歪になりはするが、形自体はかろうじて保つことになる。しかし、そのいつもとは異なる形状の違和感は記憶に残り続け、年を経て想起する際にも、実像を伴って再生されることになるのだろう。ところで、模型として読んだ場合、この揚羽蝶は季語になるかどうか。工作自体に夏らしさがあるので、私は問題ないと思う。

教科書を踏まれてひるの金魚かな  同

誰に踏まれたのか、どこで踏まれたのかはわからない。教室でクラスメイトに偶然踏まれたのかもしれないし、家で兄弟・姉妹に踏まれたのかもしれない。かえってそれが書かれていないことで、私たち一人一人が状況を自由に想起し、教科書を踏まれることで生じる嫌な感情に思いを飛ばせるような気がしてくる。教科書は少なくとも一年間は通して使うものだから、使用と同時に愛着が湧いていく。それゆえ、踏まれたときの嫌悪感はひとかたならない。

狂ひつつたたかふ子ども立葵  同

そういえば、私が小学生の頃、緑色の両生類を投げあう遊びが仲間内で一時期流行していた。田んぼに入ってそれを捕まえ、敵チームに向けて投げあう。勝敗は敵陣地に伸びているその生物の数によって決する。今になって振り返ると狂った遊びだった。大人になった今ではしたいとも思わないし、仮にしたいと思っても実行には移せないだろう。狂うことは子どもの本質と言える。


画面内の 樋野菜々子

樋野さんは私も所属する「むじな」のメンバー。昨年の「むじな」掲載の句に〈実験室の床の焦げ跡梅雨の星〉があるように、上京後の学生生活を句に落としている。

子らに端食われたのかも花畠  樋野菜々子

「食われた」をどう解釈するか。断定調ではない「かも」の軽い言い回しからして、花畠の一部の花が子どもに詰まれ、そこだけぽっかりと空間が空いていると読むのが普通だろうか。だが、私は本当に子どもが花を食べたと読みたい。安田さんの句にもあったように、狂うことが子どもらしさでもある。子どもをかわいらしく書いている句より、子どもの狂気性が垣間見える句のほうが私は読みたい。

絵双六戻るマスにも止まってみたい  同

カイジのような人生を賭けたものでもない限り、双六は楽しい遊びに過ぎない。そのため、戻ったマスに止まると何が起きてしまうのかわくわくしてしまうことも多い。戻ったことでかえって良い効果を及ぼすマスに辿り着くかもしれない。「止まりたい」にすれば五音に収まるが、それをあえて七音にしたことで、のびのびとした楽しさも味わえる句になっている。

花の雨期限の切れた定期券  同

新型コロナウイルスを題材にした句を見かけるたびに「またコロナの句ですか」と辟易している。師匠の今井聖もよく言っているが、時事を詠むこと自体は悪くもなんともない。ただ、時事句は内容がストレートなものが多くてつまらないと感じてしまう。隠された形で時事が出てくる句、もっときわどい句が読みたい。その点では、配列からしてこの句もコロナ禍の今を詠んだもののようだが、前後の「オンライン授業」「URL」の句と比べ、時事の抽象度が高い。学校に通えなくなったことの象徴として定期券が使われていて、このさりげなさは悪くないと思う。

三日ほど干しっぱなしの半ズボン  同

「ほど」に惹かれた句。一人暮らしの場合、洗濯のペースはだいたい週に二回くらいだろう。つまり、次の洗濯まで半ズボンはずっと干しっぱなしだったのだ。しかも、「たぶん三日前に洗濯してたよな?」と、いつ洗濯したかをはっきりと思い出せない姿も「ほど」からうかがえる。王様のブランチのような丁寧な暮らしより、ずぼらな生活のほうがかえって実感があって惹かれてしまう。


いへ 千野千佳

千野さんとは真芯句会で同席しているが、軽さが句の持ち味のように思う。

場所とりのミニーマウスの日傘かな  千野千佳

「ミニーマウスの日傘」とずいぶん具体的に見ているので、隣のまったく関係のないグループの場所とり風景を詠んだ句だろうか。シンプルな日傘であれば、どことなく相手のグループのつつましい場所とり風景が見えるのだが、ミニーマウスの日傘とあるから、わいわいとした場所とり風景がうかがえる。軽く詠んではいるが、物から相手の様相が想起できる強みのある句だ。

白南風や店員の私語たのしさう  同

臨時でバーテンダーもどきを数回したくらいしか店員としての経験がないが、店員間の会話は楽しかった。客の知りえない店のバックグラウンドのことなど、秘密の話ごとが多かった。その会話が客にも漏れ聞こえたのだろう。ついつい耳をそばだてて話を聞いてしまう。客としてドキリとする話も飛び出てくるのかもしれないが、隠されたものを知りえたときの楽しさは格別なものだ。あえてストレートに気持ちを書いたことで、この句はかえって成功したように思える。

平泳ぎしながら時計さがしをり  同

私はこの「時計」を実物として読んだ。四泳法をよく観察してみると、平泳ぎの呼吸の際、前を真っすぐに見ながら呼吸をするのではなく、隣のレーンなどの方向へ顔を向けながら呼吸をしている人がかなり多いことに気付く。呼吸がない背泳ぎは除外するとして、クロールは呼吸時の顔の方向が一定で時計を探すことはできない。バタフライも平泳ぎと同様に前を見る泳法だが、ストロークの激しさなどから、体感として顔を別方向に向けるのは厳しい。そのため、時計を見るためには平泳ぎである必然性があり、そのうえで、連続して泳ぎ続ける際の時間の気になり具合からプール内の時計を探してしまう。流すように軽く詠んではいるが、泳ぎの本質に迫っている。

夏きざすベンチに鳩の座りをり  同

以上のように軽さで成功している句が多い一方、この擬人は安易に思え、軽さのその先が見えてこない。軽さはもろ刃の剣になる気がするので、軽く詠むべきかしっかりと詠むべきか自分自身考えていかなければならないと思わされた。


685号 202067
安田中彦 ひるの金魚 10句 ≫読む
樋野菜々子 画面内の 10句 ≫読む
686号 2020614
千野千佳 いへ 10句 ≫読む

2019-11-24

【週俳10月の俳句を読む】認知とことば 谷村行海

【週俳10月の俳句を読む】
認知とことば

谷村行海



毎月第二日曜に「街」が行っている研究句会では、ここ半年ほど「○○を作ってみよう」と題して特定の俳人を取り上げている。その俳人の思想や生き方・生涯などを取り上げ、そのあとに作風の特徴を細かく見ていく。この「○○を作ってみよう」シリーズが始まってから鑑賞のことをいろいろ考え直すようになり、毎月参加するたびに自分がぐねぐねと変わっている気がする。


◆ありえない音楽が聞こえる 青本瑞季

一読して素直な作品だと思った。それと同時に、その素直さは自身に対する素直さであって、ときに読者を置いてきぼりに、ときに読者をこれまでの考えではありえなかった新たな世界に誘ってしまう魅力を秘めていると感じた。

夜ゆゑに文月は草木はれやかに  青本瑞季

「はれやかに」ということばは俳句に使うにはちょっと大胆で、ものに接したときの作者の心情が素直に表現されている。読者側にとっても、このことばからイメージはふっとわいてくる。一方で、「夜ゆゑに」は読者側(少なくとも私)にはわからない。「はれやかに」ときたから昼間の様子ならしっくり(すぎるほどしっくり)くる。それに対して「夜」だからイメージが崩れてしまう。しかし、作者にとっては「夜」こそがしっくりきたもので、「ゆゑに」の強い言葉・書き出しにそれが表れている。

焦がれては舟が芒となる夜か  同

ぱれーどよ棗が舌に瘦せてゆき  同

「焦がれては」では、読者はなにに焦がれたかがわからず、それは作者のなかに秘められたままになる。同様に「舌に痩せてゆき」はどう痩せていくのかがカットされ、読者側としてはそれを想像していくしかなくなってしまう。これも素直さの表れで、具体性をカットしてでも自己の心情・感覚を描き出そうとしているように感じられる。今まさに舌のうえで棗が痩せていっているぞ、という体験をしているときにはいちいちそれをどう痩せていくのか記憶しておく暇などないのだ。大切なのはそのときの一瞬を味わうことなのだろう。

感光の渦の鰯よさやうなら  同

最後におかれたこの句も「さやうなら」が「はれやかに」以上に強く、自身を描き出そうという強い意志のようなものが感じられた。ここまで挙げた四句の内容に関しては作者のみ知る世界で、句に表れたエネルギーを味わう俳句といった趣がある。

孔雀から梵字あふれて秋の風  同

一方、この句だとその自己の放出が奇妙な普遍性を伴って読者のもとにやってくる。孔雀から梵字があふれてきましたなんて言われたら一瞬首をかしげてしまうだろう。しかし、そう言われたあとに自己のフィルターを通して孔雀を眺めてみると、形状から厳かな雰囲気に至るまで不思議なほどにしっくりとくる。これ以降に孔雀を見るたびに梵字のことを思い出してしまいそうだ。自身を表すことがそういった世界に読者を誘導してしまう力を持っている。

萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす  同

この句も孔雀と同様にそのときの感覚を表しつつも読者を別世界に連れて行ってしまう。水がこぼれてしまうとか、ものがこぼれて崩れてしまうといったように、「こぼれ」はネガティブな雰囲気も伴っている。しかし、「歌ふ」とくるとイメージが変わり、こぼれることも別に悪いことではないなと妙に納得させられてしまう。この作品が掲載された号で上田信治さんがふれられていたリズムもイメージの転換に一役買っているのかもしれない。


◆水の回遊記 青本柚紀

瑞季さんの俳句はどちらかというと日常を生きての素直さ・感覚であったのに対し、柚紀さんの俳句はどこか日常と地続きの不思議な世界に迷い込んだときのような感覚・感動が出ているように感じられた。

わたくしを傾け壺に棲む獏は  青本柚紀

壺に棲むわけだから、動物園などで大衆の目に晒されている獏(壺に棲む大きさ的に子どもの獏かもしれない)だろうか。周知のとおり獏は夢を食べるなどと言われている。獏枕ではなく単に獏と表記されているから、現実世界で獏を見たと考えるとそのときに味わったのは傾けられているという感覚。像を見ているのか犀を見ているのかわからなくなってしまう獏独自のあのフォルムは認知をゆがませ、自身を傾けてしまうのに十分な迫力を持っている。

見えてゐる痣に芒がかかり笑む  同

痣は極力人に見られたくないものだ。「見えてゐる」とわざわざ書くということは見えていないところにも痣はあるのだろう。そこに芒がかかったというだけのなんともないことではある。しかし、それは心をくすぐられてしまうようにも思えてくる。ただでさえ痣は見られたくないのに、そこに芒がかかるともうどうしようもない。どうしようもないとき人は笑うしかなく、自分でも予期しない身体の深いところからこの笑いがやってきたのだろう。

ここは月の間千の夜がどしや降りで来る  同

この俳句も感覚的。田舎に帰ると星がやけにきれいに見える。その感じは都市部では味わえず、月の世界に迷い込んだような錯覚に陥る。これまで過ごしてきた夜が一瞬で自分の中をめぐり、今見ている夜の光景に辿りついていく。どしゃ降りということばは少し強いようにも感じられるが、そのくらいのインパクトがあったのだろう。また、三音(「ここは/月の」「千の/夜が」)でたたみかけ、それが変調するリズムもこの俳句の内容に対して効果的だと思う。リズムによってどしゃ降りらしさが味わえる。

明け暮れの散らかる川を骨は葉に  同

以上三句は感覚的な俳句に感じられたが、これは趣を別にしていると思った。川は確かに四方に流れ、散らばっているように思えてくる。「骨は葉に」のフレーズは最初よくわからなかったが、読み返していくにつれて不思議としっくりくるような気がした。輪廻転生を表しているようにも見えるし、人生を表しているようにも見えてくる。世界をどう認知しているかが表れた句で、読めば読むほど魅力的に思えてくるするめのような句だと思った。


◆はつ恋考 田中惣一郎

タイトルの通り恋に関する句もあるが、恋そのものを詠むというよりは恋からのイメージの広がりを意識された俳句が多いように思えた。また、十八字切字を使うことで句の内容を拡張しているようにも感じられた。

葦の舟神話のために未来あれ  田中惣一郎

一瞬平易な句に見えたが、読み返してみると「未来あれ」がおもしろい。確かに神話として残り続けるためには未来がなくてはならない。また、すでに神話化されたものも未来がなくては永遠に失われてしまう。そういった意味では神話も無力感のあるものだ。それはどことなく初恋の感覚にも似ている。恋をしている際は全能感を感じていても、すぐにもろく崩れ去ってしまう。よくよく考えると神話にも恋をベースにしたお話が多い。

初恋よどこ澄む水の夕つ方  同

掲載時の後記を拝見すると十八字切字を多く使うようにとのオーダーに基づいて作られた作品群だとわかるが、この「よ」は実に効果的だと思う。呼びかけのようなかたちにすることで読者の興味をぐっと引き付けてしまう。その後に来るフレーズには時間帯に水と感傷に浸るに十分すぎるアイテムが配置されていて、初恋に対した思いが一挙に伝わってくる。「や」で切ってしまうよりも「よ」のほうが思いの伝わり具合がよく、後からもじわじわと効いてくる感覚がする。

てのひらを懐しうする火もがな  同

「火もがな」が非常に巧いと思った。字足らずになってはいるが、声に出して読んでみるとこの前に来る「しう」の伸ばしたような印象から「火」も「ひぃ」と伸ばしたように言え、五音になりはしないにしてもそれに近い音数のように体感させられる。十八字切字を多く使うようにというオーダーがあったにせよ、一応はそのままストレートにほしいと詠むこともできはする。しかし、「もがな」だと声にしたときの不思議な感覚も相まって、先ほどの「初恋よ~」のように余韻があとに残り続ける。それによって火に対する思いについてしばらくの間考えさせられてしまう。やはり「もがな」でないとこの句はいけないと思う。


◆風 島田牙城

惣一郎さんと同様に十八字切字を多めに使うとのオーダーによってつくられているが、牙城さんの俳句はことばそのものに対して真剣に向き合い、そのおもしろさを抽出するとともに世界に対しての振り返りの機会を提示しているような印象があった。

かなそれからの流れにも澄むことを  島田牙城

「かな」はもちろん切字の1つ。切字に対してはさまざまに語られてきた。その切字の歴史、つまり流れをみてみると議論はどれも真剣そのもので、ことばに対して澄んだ心で向き合い続けている。それは何百年、何千年と時代を経ても変わることはなく、2019年の今を生きる私たちにも生き続けているものだ。

ほれそれと言ふに飽きたり秋の風  同

ながながと秋はありけり水たまり  同

とはいっても同じことばに向き合い続けていると飽きてしまう瞬間がふとやってくる。しかし、それも一瞬のことで、時間が経てばまたそれまでのように澄んだ気持ちで向き合えるようになる。四季を通じた風のなかでも「秋の風」はしみじみとした感慨が深く、そうしたことばに飽きてしまった瞬間には最適だろう。一度これまでの自分と向き合って世界をどう見てきたかを考え直してみると同じことばが別の姿を見せてくれる。「水たまり」はこれまでの堆積の1つでもある。

そこにあるかなやけりやや秋の風  同

そして最後にまた秋の風がくる。この句を見たときに永井陽子の「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」という短歌が頭をよぎった。永井陽子のこの歌は一度聞くとこのリズミカルな韻律が頭を離れなくなってしまう。この句も同様に中七のフレーズが心地よい余韻を残し続けてくれる。また、現代でよく使われる「かな」「や」「けり」の切字で構成されているため、読者は同時にこれまでに自分が使ってきたこれらのことばと向き合うことにもなる。世界を今後どう見ていくかあらためて考えなおさせられる機会に出会えて幸福だった。


以上、四名の作家の作品をみてきた。これらの感想は2019年11月の私によるものであって、来月にはまた別の感想を持っているのかもしれない。ちなみに「○○を作ってみよう」シリーズ、12月は三橋敏雄を扱うとのことだ。



田中惣一郎 はつ恋考 10句 ≫読む
島田牙城  10句 ≫読む
651号 20191013
青本瑞季 ありえない音楽が聞こえる 15句 ≫読む
青本柚紀 水の回遊記 15句 ≫読む

2019-06-16

谷村行海 群れ 10句

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谷村行海 群れ

流れゆく柳絮邪馬台国の譜系

恋猫は糞踏み舐めて見つめをり

船酔ひやディズニーシーの春夕焼

ヒヤシンス一本コロッセオの記憶

ガチャポンで出たもの母の日におくる

蛙らを潰して進むトラクター

廃業のカフェの網戸を交換す

メンヘラの多くはアイス最中好き

和歌を句と言ふガイドをり山葡萄

ライブハウス出でて毛皮の群れとなる