2024-09-15
谷村行海【週俳7月8月の俳句を読む】大人と子供
Posted by wh at 0:05 0 comments
2024-04-21
谷村行海【週俳3月の俳句を読む】ブレイバーンのような俳句を
Posted by wh at 0:04 0 comments
2023-03-19
谷村行海【週俳1月2月の俳句を読む】様々な存在
Posted by wh at 0:05 0 comments
2021-04-18
【週俳3月の俳句を読む】一読者の想像として 谷村行海
【週俳3月の俳句を読む】
Posted by wh at 0:06 0 comments
2020-07-12
【週俳6月の俳句を読む】アンチ丁寧な暮らし 谷村行海
【週俳6月の俳句を読む】
アンチ丁寧な暮らし
谷村行海
◆昼の金魚 安田中彦
一読し、ノスタルジーとまではいかないものの、どこか懐かしみを覚えてしまう一連だった。
いま欲しきもの叔母さんの白日傘 安田中彦
「いま」「さん」の記述から、大人になった今、叔母の持っていた白い日傘に思いを馳せていると読んだ。句では叔母の持つ白日傘にしか言及していないが、この道具を思うことで、所有者である叔母にも同時に思いを馳せることに繋がる。わざわざ「さん」付けし、表記も漢字にしているわけだから、よっぽど思い入れのあった叔母なのだろう。シンプルな作りの句ではあるが、回想はかなり深いところに及んでいるように思える。
骨格は螺子にてゆるぶ揚羽蝶 同
自由工作などで作られる模型としての揚羽蝶として読んだ。螺子が一つ緩んだからといって、全体が崩れることはない。一部が歪になりはするが、形自体はかろうじて保つことになる。しかし、そのいつもとは異なる形状の違和感は記憶に残り続け、年を経て想起する際にも、実像を伴って再生されることになるのだろう。ところで、模型として読んだ場合、この揚羽蝶は季語になるかどうか。工作自体に夏らしさがあるので、私は問題ないと思う。
教科書を踏まれてひるの金魚かな 同
誰に踏まれたのか、どこで踏まれたのかはわからない。教室でクラスメイトに偶然踏まれたのかもしれないし、家で兄弟・姉妹に踏まれたのかもしれない。かえってそれが書かれていないことで、私たち一人一人が状況を自由に想起し、教科書を踏まれることで生じる嫌な感情に思いを飛ばせるような気がしてくる。教科書は少なくとも一年間は通して使うものだから、使用と同時に愛着が湧いていく。それゆえ、踏まれたときの嫌悪感はひとかたならない。
狂ひつつたたかふ子ども立葵 同
そういえば、私が小学生の頃、緑色の両生類を投げあう遊びが仲間内で一時期流行していた。田んぼに入ってそれを捕まえ、敵チームに向けて投げあう。勝敗は敵陣地に伸びているその生物の数によって決する。今になって振り返ると狂った遊びだった。大人になった今ではしたいとも思わないし、仮にしたいと思っても実行には移せないだろう。狂うことは子どもの本質と言える。
◆画面内の 樋野菜々子
樋野さんは私も所属する「むじな」のメンバー。昨年の「むじな」掲載の句に〈実験室の床の焦げ跡梅雨の星〉があるように、上京後の学生生活を句に落としている。
子らに端食われたのかも花畠 樋野菜々子
「食われた」をどう解釈するか。断定調ではない「かも」の軽い言い回しからして、花畠の一部の花が子どもに詰まれ、そこだけぽっかりと空間が空いていると読むのが普通だろうか。だが、私は本当に子どもが花を食べたと読みたい。安田さんの句にもあったように、狂うことが子どもらしさでもある。子どもをかわいらしく書いている句より、子どもの狂気性が垣間見える句のほうが私は読みたい。
絵双六戻るマスにも止まってみたい 同
カイジのような人生を賭けたものでもない限り、双六は楽しい遊びに過ぎない。そのため、戻ったマスに止まると何が起きてしまうのかわくわくしてしまうことも多い。戻ったことでかえって良い効果を及ぼすマスに辿り着くかもしれない。「止まりたい」にすれば五音に収まるが、それをあえて七音にしたことで、のびのびとした楽しさも味わえる句になっている。
花の雨期限の切れた定期券 同
新型コロナウイルスを題材にした句を見かけるたびに「またコロナの句ですか」と辟易している。師匠の今井聖もよく言っているが、時事を詠むこと自体は悪くもなんともない。ただ、時事句は内容がストレートなものが多くてつまらないと感じてしまう。隠された形で時事が出てくる句、もっときわどい句が読みたい。その点では、配列からしてこの句もコロナ禍の今を詠んだもののようだが、前後の「オンライン授業」「URL」の句と比べ、時事の抽象度が高い。学校に通えなくなったことの象徴として定期券が使われていて、このさりげなさは悪くないと思う。
三日ほど干しっぱなしの半ズボン 同
「ほど」に惹かれた句。一人暮らしの場合、洗濯のペースはだいたい週に二回くらいだろう。つまり、次の洗濯まで半ズボンはずっと干しっぱなしだったのだ。しかも、「たぶん三日前に洗濯してたよな?」と、いつ洗濯したかをはっきりと思い出せない姿も「ほど」からうかがえる。王様のブランチのような丁寧な暮らしより、ずぼらな生活のほうがかえって実感があって惹かれてしまう。
◆いへ 千野千佳
千野さんとは真芯句会で同席しているが、軽さが句の持ち味のように思う。
場所とりのミニーマウスの日傘かな 千野千佳
「ミニーマウスの日傘」とずいぶん具体的に見ているので、隣のまったく関係のないグループの場所とり風景を詠んだ句だろうか。シンプルな日傘であれば、どことなく相手のグループのつつましい場所とり風景が見えるのだが、ミニーマウスの日傘とあるから、わいわいとした場所とり風景がうかがえる。軽く詠んではいるが、物から相手の様相が想起できる強みのある句だ。
白南風や店員の私語たのしさう 同
臨時でバーテンダーもどきを数回したくらいしか店員としての経験がないが、店員間の会話は楽しかった。客の知りえない店のバックグラウンドのことなど、秘密の話ごとが多かった。その会話が客にも漏れ聞こえたのだろう。ついつい耳をそばだてて話を聞いてしまう。客としてドキリとする話も飛び出てくるのかもしれないが、隠されたものを知りえたときの楽しさは格別なものだ。あえてストレートに気持ちを書いたことで、この句はかえって成功したように思える。
平泳ぎしながら時計さがしをり 同
私はこの「時計」を実物として読んだ。四泳法をよく観察してみると、平泳ぎの呼吸の際、前を真っすぐに見ながら呼吸をするのではなく、隣のレーンなどの方向へ顔を向けながら呼吸をしている人がかなり多いことに気付く。呼吸がない背泳ぎは除外するとして、クロールは呼吸時の顔の方向が一定で時計を探すことはできない。バタフライも平泳ぎと同様に前を見る泳法だが、ストロークの激しさなどから、体感として顔を別方向に向けるのは厳しい。そのため、時計を見るためには平泳ぎである必然性があり、そのうえで、連続して泳ぎ続ける際の時間の気になり具合からプール内の時計を探してしまう。流すように軽く詠んではいるが、泳ぎの本質に迫っている。
夏きざすベンチに鳩の座りをり 同
以上のように軽さで成功している句が多い一方、この擬人は安易に思え、軽さのその先が見えてこない。軽さはもろ刃の剣になる気がするので、軽く詠むべきかしっかりと詠むべきか自分自身考えていかなければならないと思わされた。
■安田中彦 ひるの金魚 10句 ≫読む
■千野千佳 いへ 10句 ≫読む
Posted by wh at 0:03 0 comments
2019-11-24
【週俳10月の俳句を読む】認知とことば 谷村行海
【週俳10月の俳句を読む】
認知とことば
谷村行海
毎月第二日曜に「街」が行っている研究句会では、ここ半年ほど「○○を作ってみよう」と題して特定の俳人を取り上げている。その俳人の思想や生き方・生涯などを取り上げ、そのあとに作風の特徴を細かく見ていく。この「○○を作ってみよう」シリーズが始まってから鑑賞のことをいろいろ考え直すようになり、毎月参加するたびに自分がぐねぐねと変わっている気がする。
◆ありえない音楽が聞こえる 青本瑞季
一読して素直な作品だと思った。それと同時に、その素直さは自身に対する素直さであって、ときに読者を置いてきぼりに、ときに読者をこれまでの考えではありえなかった新たな世界に誘ってしまう魅力を秘めていると感じた。
夜ゆゑに文月は草木はれやかに 青本瑞季
「はれやかに」ということばは俳句に使うにはちょっと大胆で、ものに接したときの作者の心情が素直に表現されている。読者側にとっても、このことばからイメージはふっとわいてくる。一方で、「夜ゆゑに」は読者側(少なくとも私)にはわからない。「はれやかに」ときたから昼間の様子ならしっくり(すぎるほどしっくり)くる。それに対して「夜」だからイメージが崩れてしまう。しかし、作者にとっては「夜」こそがしっくりきたもので、「ゆゑに」の強い言葉・書き出しにそれが表れている。
焦がれては舟が芒となる夜か 同
ぱれーどよ棗が舌に瘦せてゆき 同
「焦がれては」では、読者はなにに焦がれたかがわからず、それは作者のなかに秘められたままになる。同様に「舌に痩せてゆき」はどう痩せていくのかがカットされ、読者側としてはそれを想像していくしかなくなってしまう。これも素直さの表れで、具体性をカットしてでも自己の心情・感覚を描き出そうとしているように感じられる。今まさに舌のうえで棗が痩せていっているぞ、という体験をしているときにはいちいちそれをどう痩せていくのか記憶しておく暇などないのだ。大切なのはそのときの一瞬を味わうことなのだろう。
感光の渦の鰯よさやうなら 同
最後におかれたこの句も「さやうなら」が「はれやかに」以上に強く、自身を描き出そうという強い意志のようなものが感じられた。ここまで挙げた四句の内容に関しては作者のみ知る世界で、句に表れたエネルギーを味わう俳句といった趣がある。
孔雀から梵字あふれて秋の風 同
一方、この句だとその自己の放出が奇妙な普遍性を伴って読者のもとにやってくる。孔雀から梵字があふれてきましたなんて言われたら一瞬首をかしげてしまうだろう。しかし、そう言われたあとに自己のフィルターを通して孔雀を眺めてみると、形状から厳かな雰囲気に至るまで不思議なほどにしっくりとくる。これ以降に孔雀を見るたびに梵字のことを思い出してしまいそうだ。自身を表すことがそういった世界に読者を誘導してしまう力を持っている。
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす 同
この句も孔雀と同様にそのときの感覚を表しつつも読者を別世界に連れて行ってしまう。水がこぼれてしまうとか、ものがこぼれて崩れてしまうといったように、「こぼれ」はネガティブな雰囲気も伴っている。しかし、「歌ふ」とくるとイメージが変わり、こぼれることも別に悪いことではないなと妙に納得させられてしまう。この作品が掲載された号で上田信治さんがふれられていたリズムもイメージの転換に一役買っているのかもしれない。
◆水の回遊記 青本柚紀
瑞季さんの俳句はどちらかというと日常を生きての素直さ・感覚であったのに対し、柚紀さんの俳句はどこか日常と地続きの不思議な世界に迷い込んだときのような感覚・感動が出ているように感じられた。
わたくしを傾け壺に棲む獏は 青本柚紀
壺に棲むわけだから、動物園などで大衆の目に晒されている獏(壺に棲む大きさ的に子どもの獏かもしれない)だろうか。周知のとおり獏は夢を食べるなどと言われている。獏枕ではなく単に獏と表記されているから、現実世界で獏を見たと考えるとそのときに味わったのは傾けられているという感覚。像を見ているのか犀を見ているのかわからなくなってしまう獏独自のあのフォルムは認知をゆがませ、自身を傾けてしまうのに十分な迫力を持っている。
見えてゐる痣に芒がかかり笑む 同
痣は極力人に見られたくないものだ。「見えてゐる」とわざわざ書くということは見えていないところにも痣はあるのだろう。そこに芒がかかったというだけのなんともないことではある。しかし、それは心をくすぐられてしまうようにも思えてくる。ただでさえ痣は見られたくないのに、そこに芒がかかるともうどうしようもない。どうしようもないとき人は笑うしかなく、自分でも予期しない身体の深いところからこの笑いがやってきたのだろう。
ここは月の間千の夜がどしや降りで来る 同
この俳句も感覚的。田舎に帰ると星がやけにきれいに見える。その感じは都市部では味わえず、月の世界に迷い込んだような錯覚に陥る。これまで過ごしてきた夜が一瞬で自分の中をめぐり、今見ている夜の光景に辿りついていく。どしゃ降りということばは少し強いようにも感じられるが、そのくらいのインパクトがあったのだろう。また、三音(「ここは/月の」「千の/夜が」)でたたみかけ、それが変調するリズムもこの俳句の内容に対して効果的だと思う。リズムによってどしゃ降りらしさが味わえる。
明け暮れの散らかる川を骨は葉に 同
以上三句は感覚的な俳句に感じられたが、これは趣を別にしていると思った。川は確かに四方に流れ、散らばっているように思えてくる。「骨は葉に」のフレーズは最初よくわからなかったが、読み返していくにつれて不思議としっくりくるような気がした。輪廻転生を表しているようにも見えるし、人生を表しているようにも見えてくる。世界をどう認知しているかが表れた句で、読めば読むほど魅力的に思えてくるするめのような句だと思った。
◆はつ恋考 田中惣一郎
タイトルの通り恋に関する句もあるが、恋そのものを詠むというよりは恋からのイメージの広がりを意識された俳句が多いように思えた。また、十八字切字を使うことで句の内容を拡張しているようにも感じられた。
葦の舟神話のために未来あれ 田中惣一郎
一瞬平易な句に見えたが、読み返してみると「未来あれ」がおもしろい。確かに神話として残り続けるためには未来がなくてはならない。また、すでに神話化されたものも未来がなくては永遠に失われてしまう。そういった意味では神話も無力感のあるものだ。それはどことなく初恋の感覚にも似ている。恋をしている際は全能感を感じていても、すぐにもろく崩れ去ってしまう。よくよく考えると神話にも恋をベースにしたお話が多い。
初恋よどこ澄む水の夕つ方 同
掲載時の後記を拝見すると十八字切字を多く使うようにとのオーダーに基づいて作られた作品群だとわかるが、この「よ」は実に効果的だと思う。呼びかけのようなかたちにすることで読者の興味をぐっと引き付けてしまう。その後に来るフレーズには時間帯に水と感傷に浸るに十分すぎるアイテムが配置されていて、初恋に対した思いが一挙に伝わってくる。「や」で切ってしまうよりも「よ」のほうが思いの伝わり具合がよく、後からもじわじわと効いてくる感覚がする。
てのひらを懐しうする火もがな 同
「火もがな」が非常に巧いと思った。字足らずになってはいるが、声に出して読んでみるとこの前に来る「しう」の伸ばしたような印象から「火」も「ひぃ」と伸ばしたように言え、五音になりはしないにしてもそれに近い音数のように体感させられる。十八字切字を多く使うようにというオーダーがあったにせよ、一応はそのままストレートにほしいと詠むこともできはする。しかし、「もがな」だと声にしたときの不思議な感覚も相まって、先ほどの「初恋よ~」のように余韻があとに残り続ける。それによって火に対する思いについてしばらくの間考えさせられてしまう。やはり「もがな」でないとこの句はいけないと思う。
◆風 島田牙城
惣一郎さんと同様に十八字切字を多めに使うとのオーダーによってつくられているが、牙城さんの俳句はことばそのものに対して真剣に向き合い、そのおもしろさを抽出するとともに世界に対しての振り返りの機会を提示しているような印象があった。
かなそれからの流れにも澄むことを 島田牙城
「かな」はもちろん切字の1つ。切字に対してはさまざまに語られてきた。その切字の歴史、つまり流れをみてみると議論はどれも真剣そのもので、ことばに対して澄んだ心で向き合い続けている。それは何百年、何千年と時代を経ても変わることはなく、2019年の今を生きる私たちにも生き続けているものだ。
ほれそれと言ふに飽きたり秋の風 同
ながながと秋はありけり水たまり 同
とはいっても同じことばに向き合い続けていると飽きてしまう瞬間がふとやってくる。しかし、それも一瞬のことで、時間が経てばまたそれまでのように澄んだ気持ちで向き合えるようになる。四季を通じた風のなかでも「秋の風」はしみじみとした感慨が深く、そうしたことばに飽きてしまった瞬間には最適だろう。一度これまでの自分と向き合って世界をどう見てきたかを考え直してみると同じことばが別の姿を見せてくれる。「水たまり」はこれまでの堆積の1つでもある。
そこにあるかなやけりやや秋の風 同
そして最後にまた秋の風がくる。この句を見たときに永井陽子の「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」という短歌が頭をよぎった。永井陽子のこの歌は一度聞くとこのリズミカルな韻律が頭を離れなくなってしまう。この句も同様に中七のフレーズが心地よい余韻を残し続けてくれる。また、現代でよく使われる「かな」「や」「けり」の切字で構成されているため、読者は同時にこれまでに自分が使ってきたこれらのことばと向き合うことにもなる。世界を今後どう見ていくかあらためて考えなおさせられる機会に出会えて幸福だった。
以上、四名の作家の作品をみてきた。これらの感想は2019年11月の私によるものであって、来月にはまた別の感想を持っているのかもしれない。ちなみに「○○を作ってみよう」シリーズ、12月は三橋敏雄を扱うとのことだ。
Posted by wh at 0:05 0 comments
2019-06-16
谷村行海 群れ 10句
![]() |
| 画像をクリックすると大きくなります |
谷村行海 群れ
流れゆく柳絮邪馬台国の譜系
恋猫は糞踏み舐めて見つめをり
船酔ひやディズニーシーの春夕焼
ヒヤシンス一本コロッセオの記憶
ガチャポンで出たもの母の日におくる
蛙らを潰して進むトラクター
廃業のカフェの網戸を交換す
メンヘラの多くはアイス最中好き
和歌を句と言ふガイドをり山葡萄
ライブハウス出でて毛皮の群れとなる
Posted by wh at 0:04 0 comments
