2007-07-29

週刊俳句 第14号 2007年7月29日

第 14 号
2007年7月29日

CONTENTS


村田 篠 「窓がある」10句  →読む

山口東人 「週 末」10  →読む

遠藤 治 「海の日」10  →読む


芭蕉自筆本真贋論争考 ……栗林 浩  →読む

夏ふよう 中上健次の問い ……五十嵐秀彦  →読む

〔俳句ツーリズム 第7回〕
 御嶽山篇 リセットする「水」 ……小野裕三  →読む

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第1回 週刊俳句賞(仮) 選考会場    →見に行く
お知らせ等、随時更新
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【俳句総合誌を読む】
『俳句』2007年8月号を読む ……上田信治  →読む

『俳句界』2007年8月号を読む ……五十嵐秀彦  →読む

後記+出演者プロフィール  →読む





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村田篠 窓がある


村田 篠 
窓がある



音 楽 の 流 る る ま ま に 浮 い て こ い

信 号 を 待 つ て ゐ る 間 の 揚 羽 か な

せ り あ が り く る や う 日 盛 り の 水 は

棘 の あ る 草 の ま は り の 梅 雨 晴 間

蛇 を 見 て ひ と り に な つ て し ま ひ け り

夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る

電 球 の 揺 れ を り 耳 の 涼 し か り

冷 房 の 効 い て ほ の か に 暗 い 部 屋

手 の ひ ら の ぬ く み に 夏 の 雨 降 り ぬ

ハ モ ニ カ に 息 の 音 あ り 夏 の 暮



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山口東人 週末


山口東人 
週 末



あ い の 風 映 画 の ビ ラ の 白 と 黒

芝 を 刈 る ボ タ ン ダ ウ ン の 男 か な

週 末 の ピ ア ノ の 音 や 麦 一 列

レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏

サ ボ テ ン や 仏 の 顔 が 玄 関 に

シ ー ア 派 の ビ デ オ 流 る る な す び 漬

分 身 の や う な 冬 瓜 も ら ひ け り

土 用 凪 木 の 電 柱 に 蓋 が あ る

皓 皓 と 父 大 正 の 跣 足 か な

メ ロ ン パ ン 喰 へ ば 火 葬 の 終 り け り



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遠藤 治 海の日


遠藤 治 
海の日



い ま だ 梅 雨 明 け ず や 海 の 家 あ ま た

愛 想 よ く 打 ち 据 ゑ る 砂 日 傘 か な

お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止

少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト

苔 藻 な す ブ イ や 深 ま る 潮 の 色

波 乗 り の 波 に 乗 る と き 陸 を 向 き

波 乗 り の 姿 勢 の ま ま に 呑 ま れ け り

浮 く も の の 紐 引 く 男 大 南 風

焼 き そ ば を 重 ね 持 ち た る ビ キ ニ か な

海 の 日 は 母 の 始 ま り 天 使 舞 ふ



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芭蕉自筆本真贋論争考 栗林浩

芭蕉自筆本真贋論争考 ……栗林 浩

初出:「琅」第20号(2007年7月・編集人宗内敦)


平成八年に、近世俳句史のうえで希に見る発見があった。芭蕉の『奥の細道』の自筆本である。世上を賑わした真贋論争の末、本物に間違いないとの斯界の判断が定まったかのように、少なくとも私には見えた。

 ***

その前に唐突だが、「狭山事件」のことを少しだけ書く。筆跡鑑定が絡んでいるからである。

昭和三十八年五月一日、埼玉県狭山市で女子高校生が殺された(善枝ちゃん事件)。その夜二十万円を要求する脅迫状が被害者宅に届いた。警察は金の受け渡しの際、犯人を取り逃がした。そのころ村越吉展ちゃん事件でも犯人を逃がす失態があり、国会で取り上げられ、警察庁長官が辞任。警察は面子をかけた捜査を展開し、二十三日近在の青年石川一雄を別件逮捕。自白の後、裁判で否認したが、脅迫状の筆跡鑑定が判断のひとつの材料となり、半年のスピード審理で浦和地裁は死刑を宣告。すぐに上告して最高裁まで行ったが、昭和五十二年に無期懲役が確定した。その後、再審請求・棄却・異議申立て・棄却・特別抗告・棄却・第二次審査請求・棄却・異議申立てを繰返し、平成十七年三月棄却判決が出た。被告側は目下、第三次再審申立てを準備中である。

脅迫状を石川青年が書いたのかどうかの筆跡鑑定が、ひとりの人間の運命を左右するのである。芭蕉筆の真贋鑑定より、ある意味で、より切実な問題である。

石川青年の筆跡鑑定は、異同判定不可能領域にあるというのもあるが、概ね白黒の真ふたつに分かれている、と言ってよい。弁護側は、十以上の鑑定および意見書がそれぞれ無罪を証明していると主張した。筆勢・筆圧・配字形態・字画形態・字画構成・筆順・誤字・文字の巧拙・書品・文字の大小・書体・運筆を精査し、かつ筆跡計測学の手法を使い、被告の国語能力不足をも考慮し、万全と思える弁護を行った。しかし、裁判官は、有罪を示唆する検察側が出した三つの鑑定を合理性あるものとし、特別抗告を棄却したのであった。しかし、「狭山事件」はまだ続くようである。

 ***

本題に入ろう。曾良を調べていたら、『奥の細道』の所謂「曾良本」が芭蕉自筆であるという村松友次氏の説に行き当たった。氏は、「曾良本『おくのほそ道』の研究」で学位を受けた俳文学研究者であり、元東洋大学短期大学学長を務め、芭蕉・蕪村・一茶らに関する論文を多数発表している。また俳句の実作者でもあり、虚子・素十に師事、結社「雪」の前主宰、新俳誌「葛」の現主宰である。

一方、冒頭に述べたとおり、行方知れずになっていた芭蕉の、これこそ自筆本だと信じられる本が平成八年に発見された。大発見である。この発見について、俳文学の世界でどんな議論がなされていたのかをも概観しよう。

芭蕉が奥の細道を書き、これを何度も自分で推敲した(これを「野坡本」と呼ぶ――後出)のだが、あまりにも手を入れ過ぎたので、読みやすくするため誰かに頼んで清書してもらった。この清書版を読み返したら、また気になるところがあったので、朱書きを入れた。それでもまだ気に入らない。墨で消したり加えたりした。この推敲本を旅の功労者である曾良に与え、それが回りまわって曾良の家系(信州諏訪の河西家)を通して伝わって来たので「曾良本」と言われている。曾良本は暫く日の目を見ず、昭和二十五年になってようやく議論の俎上に乗った。当初、曾良が清書したと言われていたが、字体が違うため、最近では、蕉門のひとり越後屋の手代池田利牛が書いた、とされている。

ところが、村松氏は、「曾良本は芭蕉自身が清書した可能性が高い」と主張するのである。この曾良本は、誰が清書したにせよ、蕉門の当時の一番しっかりした完成稿である、とされており、これをもとに素龍という能筆家が書き写し、柿衛本・西村本として今に伝わり、芭蕉研究の大きな礎となって来たのである。

曾良本が、村松氏の主張するように、真筆である、というのはむしろ少数意見であるが、朱書き訂正(第一推敲)の部分やそれに続く墨書き訂正(第二推敲)は、芭蕉の自筆である、とするのが定説になっている。さらに第三推敲まで議論されている。


では、芭蕉が初めに書いて何度も手直しをした自筆の『奥の細道』はどこにあるのだろうか。これは門人志太野坡(やはり越後屋の手代)が持っていたといわれているので、所謂「野坡本」と呼ばれてきたが、長い間行方不明で、半ば伝説的なものだった。

これが、平成八年に神戸で見つかった、というのだ。慎重な検討により、これを最初に、間違いなく自筆本で、しかも「野坡本」であると発表したのが、上野洋三氏と櫻井武次郎氏であった。近年まれに見る国宝級大発見である。この本、仮に所有者の名をとって「中尾本」と呼ぶことにするが、これが本物であることを、両氏は次のように説明する。なお櫻井氏はのちに芭蕉の研究における顕著な功績をもって、文部科学大臣賞を受けた。

▼「中尾本」が自筆本「野坡本」であるとする根拠

 上野・櫻井両氏は、「中尾本」の筆跡が芭蕉真筆とされている他の資料と比較して、筆跡・書き癖・書体・書風・用字などのどの点からも芭蕉の特徴が顕著に出ている、という。たとえば「予」という字を芭蕉は「箒」のように書く癖がある。いくつかを示そう。

 予→箒  佳→隹  府→苻  
 聞→門の中に「歹」を書く
 直→「置」のように書く  
 求→求の上に余計な「一」を書く

などである。上野氏は「中尾本」のすべての文字を、一文字ずつ写真に取り、比較検討した。一万六百枚におよぶ単文字の比較検討のほかに、文字どうしのつながりや、全体的な書風などを精査した。慎重に慎重を重ねた議論の結果、芭蕉真筆に違いないとの結論に達し、マスコミに発表した。今や、両氏の真筆説は俳文学の世界の定説となったと言って良いように思える。

大きな発見には必ず疑問を投げる向きがいる。学会で科学的に議論され、大勢の意見が収斂してひとつになるのが望ましいのだが、それには時間が必要なようだ。

▼「中尾本」が芭蕉自筆ではないと主張する意見

最初に異論を唱えたのは山本唯一氏である。その根拠は、芭蕉のものとして伝わっているものに偽物が多いという事実を重要視し「中尾本」を調べたが、まったく教養のない者が書いたような誤字が多いと言うのである(平成九年五月)。例を挙げる。

正    中尾本(原) 中尾本(推敲後)   曾良本(原) 曾良本(推敲後)
道祖神    道岨神               道祖神
縁起     縁記                縁記
開基     開記                開記  →  開基
白妙     白砂  →  白妙         白妙
西の木    栗の木               西の木
討死     射死                射死  →  討死
永平寺    平永寺 →  永平寺        永平寺

芭蕉自身の筆であるとすれば、確かに酷い。「曾良本」が三度も推敲されていることは前に書いたが、「中尾本」も張り紙があったり、墨で直したり、刃物で削ったりされている。右の表中の矢印「→」は訂正を示している。このような誤りを芭蕉が犯すであろうか、というのが山本氏の疑問である。さらに氏は想像を逞しくして、芭蕉の甥の桃印が書いたのではなかろうかという。

▼反論

櫻井氏は山本氏へ反論する。要旨は、「思いもよらぬ誤記は、芭蕉の書簡などにも例が少なくなく、私どもの体験の中でもよくあることで、誤記が多いからといって、芭蕉の自筆であることを否定する根拠にはなりません」という俳文学会の大御所の言葉のとおりであり、筆者が甥の桃印である証拠も無い、と主張した。

桃印の筆跡資料が残されていないし、彼が労咳で間もなく他界してしまうので、少なくとも桃印清書説は少し無理があるように私は思う、がどうだろうか。

▼さらなる否定論

続いて自筆論に異論を出したのは増田孝氏であった。「新潮45」(平成九年九月)にセンセーショナルな見出し「『奥の細道』芭蕉真筆の大ウソ」として……国文学者の先生方は「書」の真贋をみきわめる眼をお持ちなのですか……と挑戦した。結論的には、書跡史研究家でプロの「書」鑑定者である増田氏から見れば「中尾本」は「書」としての魅力のない、程度の低い「写本」だという。日ごろ偽物の書画骨董を扱い慣れているひとの意見として、貴重であろう。

氏はいう。一般論として、偽物書きは必ず原本の書き癖をまねて書くから、書き癖が似ているからということだけでは判定できない。「書風」が自然かどうかを第一の眼目とすべきである。字間の自然な脈絡・安定した字体などである。

たとえば、あるひとつの字母に基づく仮名をみてみると、「中尾本」の「は」(「盤」を字母とする)のように、素直なものから大きく歪んだものまで様々な「は」を含んでいる。これは、お手本を必死に写したものであるという証拠である、という。

また、以前から、あの有名な山寺の一節で、「岩歩院々」と「岩上の院々」のどちらが正しいかの議論があった。字のくずし方が微妙なので素人には判読できないが、上野氏は、「中尾本」では「岩上の院々」と読めるので、これが真筆の決定的な証拠であると、いう。一方、増田氏は、「中尾本」は「岩歩院々」としか読めないので、これこそ決定的な偽物の証拠であると主張する。平成十年には、三重大学の先生も自筆論を疑っている。

さらに平成十二年、「同志社国文学53」で、山村孝一氏が「芭蕉自筆を否定する文字たち」として、自筆説を批判する。上野氏が、芭蕉に特有な字体として挙げた「葦」や「佳」など二十三文字のうち、十九文字が「曾良本」にも出ており、「曾良本」を芭蕉自筆でないとするならば、上野氏は自らの二十三文字中十九文字を否定せねばならなくなるのである、と山村氏はいう。つまり、曾良本が真筆でないなら、中尾本も真筆ではない、というのだ。

▼再び反論

上野・櫻井両氏は反論する。ここでいう「書き癖」とは、他人が真似することのできる表層的なものではなく、本人が無自覚に身体で覚えてしまった「癖」を分析的科学的手法で見つけようとしているのである、という。最近の言葉でいえば、「DNAのような書き癖」というべきであろうか。

また、「書風」という「感じ」のみで筆跡鑑定するのは、それはそれで大切だが、細かい分析的研究の積み重ねによって、裏づけされるべきである、という反論である。
また、「は」についても「岩歩院々」についても丁寧に答えている。

私は個人的には、「中尾本」を美術作品として鑑るのか、あくまでも文学作品の下原稿として見るのかで、判断が分かれるように思えてならない。

▼では、「曾良本」はどうなったか?

簡単にいえば、「中尾本(=野坡本)」の発見後、「曾良本」の朱書き第一推敲と墨書きの第二推敲部分に関する限り「中尾本」の筆跡と一致するし、原文作者でないとできない修正があるので、芭蕉のものであることが再確認されることとなった。一方、「曾良本」の本文の方は、上野氏の推論により、利牛という芭蕉一門の俳人が書いたものである、と決め付けられた。数少ない利牛の筆跡を参考にしたものだった。

その上、この「曾良本」をもとに、「柿衛本」「西村本」が素龍の手で遺されるのであるが、第三推敲を入れたのは、この素龍ではなかろうかと、言われ始めた。芭蕉の文には、送り仮名が省略されている例が多いのだが、和歌に詳しい素龍が藤原定家の「仮名文字遣」に則って歌の世界で確定している送り仮名を、この「曾良本」に取り入れたのだという。これは、藤原マリ子氏の「『おくのほそ道』本文研究」(新典社、平成十三年)による。

「曾良本」の第二推敲までの芭蕉真筆が再確認されたことは、村松氏にとっては当然のことであったが、本文が利牛筆であろうとの説には、大いに反論した。「中尾本(=野坡本)」の出現がむしろ「曾良本」芭蕉自筆説の裏づけになるのだという(「東京新聞平成十年五月二十・二十一日夕刊」による)。

第一の根拠は、癖字が両本に共通しているからだ。「予」が「箒」、「佳」が「隹」となることである。これは、もともと村松氏が最初に学会に発表したことであった。

第二の根拠は、「中尾本(=野坡本)」を手本に「曾良本」が書かれたのだが、手本にはまだ誤りの箇所が残っていた。ところがこの箇所が「曾良本」本文には正しく書かれているのである。本文にである。しかも手本は訂正されていない。手本はあくまでも下書本であり、後で捨てるであろうから、訂正はいらないのだ。芭蕉本人でないとできない清書行為であるという。「中尾本(=野坡本)」をそばに置きながら、しかし一字一句正確に写すというのではなく、頭の中にある文章をすらすらと書いて行ったのである。たとえば、「中尾本(=野坡本)」→「曾良本」への変更の例は、

  かすかに見えて→幽かに見えて
  栗といふ字は栗の木と書きて→栗といふ字は西の木と書きて
  いかなる故ある事にや→いかなる事にや
  箕張の庄→三春の庄

である。たしかに芭蕉自身か、あるいは、そばに芭蕉がついていないとできない直しである。

第三は、利牛の筆跡とされている「利牛詠草」と「曾良本」の字が似ていると言われるのだが、決して似ていない。むしろ「利牛詠草」の字は芭蕉のに似ていやしないか……と村松氏はいう。また、兵庫県の柿衛文庫に利牛の自画賛があるのだが、それにある「利牛」の署名と「利牛詠草」のそれとは、はっきり別物と見える、とも主張している。

両者の写しを見ると、私にも別物に見えるのである。「曾良本」利牛筆説は、「中尾本(野坡本)」真筆説と同じように慎重に精査されて出た結論なのだろうか。
 

議論はまだ継続している。山本唯一氏は『芭蕉の文墨―その真偽』を平成九年十月に思文閣出版より出版し、批判を緩めなかった。勿論、櫻井・上野両氏を擁護補強する研究が圧倒的に多い。雲英末雄・深沢真二・藤田真一・尾形仂らの各氏である。田中善信氏は『芭蕉の真贋』をぺりかん社から平成十四年に出して、真筆説を強化している。

しかし、増田氏はさらに異論を吐く。『書の真贋を推理する』を平成十六年一月に東京堂出版から出した。その中で興味あることは、
「中尾本」が騒がれ始めるずっと前に、実は三人の専門家が否定的な判断をしていた。
さらに、四人目として、柿衛文庫のあるじ岡田利平兵衛氏(芭蕉の筆跡の鑑定家・蒐集家として著名、昭和五十七年年逝去)に見てもらったが、結果は「黒」であったらしい。

とある。

▼自筆説・村松氏に聞く

さて、「曾良本」本文は芭蕉の自筆ではないと宣告されたが、自筆説の村松友次氏は、肝心の「中尾本」の方は本物、つまり「野坡本」だと思っておられるのだろうか。
平成十七年の秋のある日、東村山市の自宅を訪ねた。一階応接間は壁面すべてが蕉門関係の文献で一杯である。二階も地下室もそうだという。本の重みで家が傾きそうだと心配していた。机の上には書きかけの原稿や、手紙や本が所狭しと置いてある。

氏は私の早速の質問に、
「『中尾本』は自筆だと思いますよ」
と答えてくれた。根拠は、「曾良本」が芭蕉自筆であると思う根拠と同じだという。

「『曾良本』の方は、今でも芭蕉自筆とお考えですか」
と訊くと、
「そうです。『中尾本』が真筆で、あの『野坡本』だったということですよね。だが『曾良本』も真筆です。しかも『中尾本(=野坡本)』に誤りのまま残されている部分を、『曾良本』ではただしく(推敲まえの)本文に書かれているのです。つまり原作者でないと書けないような転記をしているのです。字体や全体雰囲気が違うという意見もありますが、芭蕉が罫線入りの下敷きを敷いて、机に向かって正座して……つまり、色紙や巻紙を宙に浮かして書くやり方ではなく……書いたおそらく唯一のものなのです。多くの研究家は、色紙や巻紙の字ばかりを鑑ておられますから、ちょっと違和感があるんでしょうねえ。それに紙が『中尾本(=野坡本)』と違って、墨をあまり吸わない質のものですから、流麗な筆跡になっているんですね」

「上野先生が『曾良本』=利牛筆説を出して、多くのひとびとが同意しているようですが、『利牛詠草』の利牛の署名が、素人の私でも別人ではないかと思うのですが……」

「そのとおりです。筆跡鑑定すれば良いのでしょうが……どうも水掛け論になりそうですからねえ。別の角度からの状況証拠が必要です。時間が必要ですねえ」

「蕉門文学の世界に『真筆奥の細道』がふたつあると、学会は困るのですか」

「いや、そんなことはない。ただ、このことに限らず、世の中で定説が罷り通ると、すべてがその通りに整理されて、それを前提に次の研究が展開されるでしょう。だから路線変更は大変なんですよ。素龍清書本が『奥の細道』の定本として、斯界の研究のベースが出来上がっていますから、いまさら『曾良本』が完成稿で、すべてこれに基づいてやり直しとなると……」

「学会のヒエラルキーを感じますが、それはどこにでもあるんですね。ところで、先生の説を支援している方は……」

「いやあ、あまりいないです。そう、作家の嵐山光三郎さんくらいですかねえ」
といって、読売新聞平成十一年十一月二十八日の記事を見せてくれた。嵐山氏は、

『奥の細道』は私にとってまぎれもなく「事件」であり、事件現場に残されたのは、野坡本、曾良本、素龍本の文字である。芭蕉探偵団となった村松氏は、書き文字のひとつひとつを拾い出して読みくらべ、推理を重ねている。その作業を続けるうちに、曾良本がまぎれもなく芭蕉自筆の最終本であることが見えてきて、感動的である。なるほど国文学者というものはこういう愉しみがあるのだな、とわかった。
と、村松氏が発表した『芭蕉翁正筆奥の細道』(笠間書院、平成十一年)の読後感を書いている。

▼科学的年代測定法

文化財の年代測定に科学的な方法がある。先の増田孝氏は名古屋大学の年代測定研究センターと古文書年代測定に関する共同研究を行っており、科学的に「中尾本」の紙の年代を測定しようと思った。「中尾本」側にその旨の申し入れの手紙を出したが、丁重な断りの返事を受けた。その必要はない、ということである。「中尾本」の紙質については、その道の権威が、あの時代の高級なものであるとのお墨付きを与えているので、もう十分だというのであろうが、折角科学的な年代測定方法=炭素同位体法があるのだから、試みて欲しかった。もっとも、測定のための試料=紙は極微量でよいのだが、燃やさねばならず、断られて当然かも知れない。

ただし、注意しなければならないことがある。年代測定法には誤差がある。私は、前記研究センターの鈴木・小田両先生に尋ねてみた。その結果は、鎌倉時代のものは精度良く測定できるのだが、江戸中期以降の紙は難しい、と言われた。それに、元禄以前の紙であると分ったとしても、芭蕉真筆の十分条件は満たされないということである。もし江戸中期より若い紙であるとすると、大変なことになるのではあるが……。

▼筆跡鑑定技術

さて、私は好奇心に駆り立てられて、プロの筆跡鑑定人を取材した。根本寛氏である。氏は遺言状や契約書などの鑑定に当たっており、マスコミでも活躍している。民間では遺言状の鑑定が一番多い。筆跡心理学をも研究しており、大阪の池田小学校の犯人の文字からその性格を推察したり、芭蕉の文字からの性格診断も行ったそうだ。取材の目的は、筆跡鑑定の精度高い科学的な方法が、現時点で確立されているのかどうかを訊くためであった。

答えは否定的であった。本格的なデータベースが確立されていないというのである。たとえば、「口」という文字の場合、書くひとによって、右上を丸く書くとか、第一画が斜めだとか、最後の横棒が長く延びているとか、いろいろな特異点の頻出度を、大掛かりな調査を行ってデータベースを作らないと、真に説得力のある鑑定にはならないという。たとえば、百人にひとりしか書かないであろう得意点が三つ重なったとすると、百万人にひとりの確率ということになる。それがデータの裏づけを持って説明できれば、多くのひとを説得できる。しかし、そのような、稀少な筆跡個性のデータが揃っていないのが現状であるそうだ。

ただ、このような統計確率論的手法といえども、もし誰かが故意に、十分な訓練の後で似せて書いた場合、それをどう見抜くかが問題となる。

勿論、自分では自信を持って真贋を見抜けるが、それを、司法関係者を含む第三者に納得させることが難しい、という。現在は経験と勘で個別の文字の特異点を抽出し、じっくり解析して結論を出すのだが、この方式では、いくら自分で自信があっても、相手にその理解力がなければ、鑑定結果が割れることになるという。

また、総合的な書体の風合いなどは、とても科学的に扱うことは困難で、経験豊かなひとの眼識に俟たざるを得ない。

いま日本に五十人ほどの筆跡鑑定者がいるが、その八割は科学警察研究所の出身者で、その鑑定能力はさておき、民事事件の関係者に理解できる鑑定書をまとめるひとは少ないそうだ。根本氏の想定する高度な鑑定水準から見ると、現状は鑑定技術も伝達技術もまだまだであるという。

芭蕉筆真贋論争は、狭山事件の有罪無罪と較べても、平和な議論なのだが、まだまだひとの生身の眼が物を言う舞台であるようだ。

▼最近の知見

ここまでは平成十八年三月までの調査である。その後、私はしばらくこの問題から離れていた。ところがある日、別件で俳句結社「創流」主宰の宗内数雄氏を訪ねる機会があった。氏との会話のなかで中尾本の「芭蕉自筆本真贋説」が出てきたのである。歯に衣着せずに語る氏の話は強烈であった。あれは偽物で、俳文学会としても、定説となった自筆説を今更覆せず困っているらしい、と言うのである。私は驚いた。多くの研究者は、冷静であるべき真贋議論が、どろどろした個人攻撃的論争になることを好まず、だれも火中の栗を拾わないようだ。

氏が紹介してくれた文献は、「落柿舎」百六十九号(平成十六年六月刊行)である。私の調査から漏れていたものである。芭蕉研究の第一人者である富山奏氏が、次のように書いている。

岩波書店発行の雑誌「文学」平成十二年三・四月合併号に、この「中尾本」に関して論評した記事の中で、こうした資料の用紙に就いて、これは極めて高価な上質紙であって、「そもそも種本自体に斯様な上質紙を使用すること」は「非常識である」と評している。とすると、貧しい芭蕉にはとても考えられないことである。また、芭蕉は未完成の草稿は破り捨てることはあっても、それを上質紙に記して保存するような趣味はなかった。従って、その内容からして、これは極めて初期の(恐らくは最初の)「おくのほそ道」全巻を通して書き上げた芭蕉の自筆草稿を、その門弟が極めて忠実慎重に模写したものであろう。芭蕉を尊敬している門弟であれば、その自筆原稿を宝物として常識はずれの高級料紙を使用して模写しても不思議はない。要するに偽物だということだ。

「中尾本」の紙質については、その道の専門家が鑑定し、元禄時代の上質紙であるとの結論を得ていたのであるが、芭蕉が高級紙を使うはずがない、と断定した人はいなかったように思う。

この点はさておき、重要なのは、真贋論が「真筆」に落ち着いたと思っていた平成十六年のこの時機に、以前からの贋作説の山本唯一・増田孝両氏ならいざ知らず、学会の重鎮である富山氏がこのようなことを書いている事実である。なお、山本氏は平成十二年に逝去されていた。

これに刺激されて、私は最近の真贋論をインターネットで探してみた。驚いたことに議論がまだ燻っているのである。インターネットの記述は一般に公正さを欠くおそれがあるので、そのまま引用はできない。しかし、その記事は、奈良女子大学の井口洋教授が退官記念の講義で、「中尾本」についてチャレンジングな講義をした、とあるのである。

私は、富山・井口両氏を取材したいと思っている。しかし、この真贋論は冷静な学術論をはずれて、人間関係をも損ねかねないレベルに成り下がっているので、とても応じては貰えないであろう、とも思っている。

もうひとつ追記する。平成十八年五月二十四日の新聞に「狭山事件の石川さん第三次再審を請求」として、短い記事が出た。脅迫状を書いたのは石川氏ではないとの新証拠を、金沢大学の半沢英一助教授が提出した。「脅迫状には一筆書きされたひらがなの出現率が高かったが、石川さんが当時残した文字では極めて低かった」として、無罪を主張した。

さらに二ヶ月が過ぎた。私はひとを介して前記の井口洋氏の論文のひとつが載っている同学国語国文学会の論文集「叙説」三十三号(平成十八年)を送ってもらった。先に、「中尾本」についての講演のことを書いたが、論者の井口氏がその論のごく一部をまとめたものである。

その論点は、自筆真贋に直接触れるものではないが、「中尾本」の張り紙部分の下に書かれている本文を吟味して、その張り紙訂正が芭蕉ではなく、森川許六を含む誰かによってなされたものである、と井口氏は言うのである。筆跡鑑定以外の証拠によって推理したものであり、その推論手法を手短に説明することは、私の能力を超えているが、結論的には、
「中尾本」の『壷の碑』部分の本文では、当該の碑の高さを「七尺」となっていたが、これに張り紙がなされ、「六尺」と訂正された。このような訂正ができたひとは、それ以前に編集された許六の他の史料に同じ「六尺」という表現があるので、芭蕉以外の許六を含む誰かであろう。
という趣旨である。

氏の他の研究論文もあたってみた。「国語と国文」(東京大学、七十八巻二号)、「国語国文」(京都大学、六十九巻三号)である。その論考は、芭蕉なら書かなかったであろう誤記が存在することを論じているのだ。たとえば、『曾良旅日記』『曾良書留』『自筆句文』『猿蓑』などにある「名取郡」「左」の記載が、中尾本・天理本・西村本では、すべて「笠島の郡」「右」と記されている。「左」が正しいはずである。これを芭蕉本人の単純な誤記として良いのだろうか、と疑問を投げるのである。「中尾本」には芭蕉自筆にしては不可解な校訂が多く、また本文もそうなので、『中尾本』はおそらく『奥の細道』の現存の本の中では成立の最もはやい一異本ではなかろうかと、いうのである。

真贋論は結局迷宮入りなのであろうか? 「曾良本」は、どう考え直したらよいのであろうか? 俳文学会に、公正に白黒をつけて貰えないものであろうか。

                                        
後記 櫻井武次郎氏(神戸親和女子大学名誉教授)は平成十九年一月二十二日逝去された。大切な真筆説主張者を失った。ますます迷宮入りするのであろうか。



夏ふよう 中上健次の問い 五十嵐秀彦

夏ふよう 中上健次の問い ……五十嵐秀彦


先日のニュースで、中上健次の直筆俳句色紙が茨木和生から新宮市の市立図書館内中上健次資料収集室に寄贈されたことを知った人は多いだろう。

その色紙に書かれた句は

 あきゆきが聴く幻の声夏ふよう   健次

である。

この句については以前から知られている作品であり、特別な発見ではない。だから考えてみればなにも重要性のないニュースのようではあったが、しかし健次と俳句との関係をあらためて考えさせてくれる話ではあった。

健次はかつて熊野大学で、俳人を呼び句会をしていた。硬派の私小説作家である中上健次がなぜ俳句なのかという疑問を一般には持たれていたのではないだろうか。しかし彼はかなり早い時期から俳句に興味を持っていた。

私は、中上健次という作家について、これまで少しずつあちこちに書いてきた。彼の発言がどうも気になってしかたがなかったからだ。そうはいっても没後16年経った今、彼がすでに過去の人になっているのは、書店などでの著書の扱いの様子を見てもわかる。

しかし過去の人だからといっても、彼には何かまだ片付いていないものを今なお感じている。たとえば、寺山修司にしてもそうだし、中上健次にしても、彼らの発した問いかけに私たちが今もって回答をしないからなのではないだろうか。

俳人の多くはこの二人を敬遠するか無視するかしてきた。いや、寺山の話はまた次の機会とし、今回は健次についてだ。健次と俳句との関係といえば、初期の文芸エッセイの「小説の新しさとは何か」(『鳥のように獣のように』)と「鳥獣に類ス」(『夢の力』)の2篇が長く私の心にひっかかってきた。

どちらも1970年代に書かれたもので、森澄夫、角川春樹との交友が始まる数年前にすでに書かれていたものである。長くなるが「小説の新しさとは何か」から重要な箇所を引用したい。

《直観だが、今、鮮明に、短篇小説が他の小説と違う貌を持って現出しはじめたと思う。能、謡曲が、室町期に、土俗芸能から一つの芸能、文学として自立したように、である。俳句が俳句として自立したように、である。何故だか、わからない。現代の作家の一人一人の、短篇をテキストに述べてもよい。能、俳句、短篇、という血脈が、ぼくには見えるのである。短篇とは、西欧の、コントでもレシでも、ノベルでもない。》
《短篇とは、私小説である。私小説は、コードの破けたコードと思える。私小説は、コードを考え続けているぼくには、新しい小説のスタイルに見える。そして、私小説=短篇は、死、死穢を一等低い音として、鳴らしているのに気づくのである。いや死穢の音が、中篇や長編よりも強く鳴る。そして短篇とは、花鳥風月の側のものでもある。現代の作家や批評家に、ことごとく無視され、愚弄されたものによって、新しく現われた貌の正体はある、と思える。何人の作家が、花鳥風月の、そのなまぐささを知っているだろうか?》

《短篇が、死穢を踏まえてあると言うなら、俳句もそうである。季語、それがつまり花鳥風月であるなら、それも、死穢の形を代えたあらわれではないか? 季語=死語によって、死の音が鳴る。そして俳句を読むたびに、五七五の音が定形なのでなく、季語=死語が、型を決定していると思えるのである。それは短篇もそうだ。死穢の姿によって型がきまる。》

中上らしい直感的な文章で、理解しにくい部分もあるが、言いたいことは十分伝わってくるだろう。私小説=短編は俳句に似ており、能、俳句、短編の血脈というものがある。ともに花鳥風月に属するものなのだ、ということ。そして花鳥風月とはなまぐさく、また死の音でもあるということ。

そして、もうひとつのエッセイ「鳥獣に類ス」がある。この題名は芭蕉の『笈の小文』の中の《像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス》によっている。この中で中上は芭蕉の自然観を「自然=文化」ととらえ、それに対して自分自身は《壊れた造化としての自然、壊れ破砕された私である》ゆえに《芭蕉の言うとおりこの身すべてが、夷狄であり、鳥獣におちる》と考えた。《私が眼にしたのは花の吉野ではなく、セイタカアワダチソウが群生した秋の吉野である》とも言う。

彼は、芭蕉の「夷狄・鳥獣」という言葉にするどく反応しているのだ。まず自分は鳥獣だという前提があり、そこから芭蕉の自然観をとらえ、その裏側に自分の自然観を構築してみせたのだろう。中上は奇妙なほどに、あたかも芭蕉が同時代の文学者ででもあるかのように厳しく反論をぶつけている。私はこの「鳥獣に類ス」を読むことで芭蕉の心底を覗き込む思いがした。

専門俳人の書く俳論が往々にして人畜無害であるこのごろゆえに、中上が遺した言葉にあらためて耳を傾けてみる価値がある。

このどちらの作品にも、花鳥風月とは何かという強い問いがある。そしてこの問いが、その後の中上文学の底にあり続けたのだろう。晩年の俳人・俳句との出会いや、熊野大学なども、この問いから始まったのではないか、とも思う。

実は、私はこのふたつのエッセイから俳句を見直すことになった。私にとって、それほど根本的な問いであった。また、俳人がこれまで発することのなかった問いでもあった。日本人の心の中にひそむ思念としての定型。死としての花鳥風月。そして、無名のワタクシというもの。

室町期の俳諧登場をはるかに遡る「うた」の源流を考えてみたくなったのである。それを考えなければ、なぜ俳句なのか、なぜ花鳥風月なのか、という問いに答えられない。中上の問いに答えられない。

私は、中上健次の俳句色紙が出てきたからといって、彼を俳人として検証しようとか評価しようとか思っているわけではない。この「あきゆき」の句にしても、他の句にしても、中上が作ったということから受ける感慨以上のものは感じられない。

私は今回のニュースで、再び中上の若き日のエッセイ2篇を思い出し、自分が答えたいと思っている問いをあらためて自分の眼前に置いてみたくなったのである。

リセットする「水」 小野裕三

俳句ツーリズム 第7回

御嶽山篇 

リセットする「水」
 ……小野裕三


台風明けの海の日、早起きをして新宿駅へと向かった。新宿駅からは、ホリデー快速おくたま号という電車が出ている。8時19分、新宿発。意外に混んでいないのは、いつもこんなものなのか、あるいは台風直後(というより、まだ去りきってなくて朝はまだ風が強かった)だからか、それとも「海」の日にあえて「山」に行こうと思う人が少ないからなのか。それでも、電車の中にはハイキング姿の人や、何かスポーツ用具(例えば折り畳み式の自転車など)を鞄に詰めて持ち運ぶ人、あるいは地図やガイドブックを広げて眺めている人、などなど、それなりに行楽気分が漂っている。

中央線沿線は、学生の時に住んでいたことがある。阿佐ヶ谷駅から歩いて十分くらいの小さなアパート。アパートというか、正確には普通の住宅の二階部分が二室だけのアパートになっていて、一階は大家さん夫婦の住居。しかも、そのアパート部分の二室のうちの一室には大家さんの娘さんが住んでいたので、要するに大家さん家族以外の賃借人は僕だけであった。南向きの部屋は窓を開けると女子高だか何かのグラウンドがあってとにかく陽当たりはよかった。窓越しに女生徒たちの黄色い声もよく聞こえてきた。

そう考え出すと実は、阿佐ヶ谷だけではなく、中央線沿線はいろんな駅にそれぞれの不思議な思い出がある。吉祥寺駅は、どういうわけか初めて東京に来た時に訪れた街。マルグリッド・デュラスの不思議な映画を見たのだ。今でもよく覚えているが、『ヴェネチア時代の彼女の名前』というその映画は、延々と映される建物の廃墟の映像に『インディア・ソング』という別の映画の音声を重ねただけという奇妙奇天烈なものだった。今になって思えば、学生ででもなければそんな風変わりな映画を見ようとは思わないだろう。そう言えば、中野(正確には東中野)にも小さな映画館があって、何度か来た記憶がある。

荻窪の駅前には健康ランドがあって、どういうわけか二十代後半の時に何度もやってきた。そう言えば確か国分寺にもラドン健康センターなるものがあった。中央線のそれぞれの駅に、不思議な思い出がいろいろある。インド雑貨などを中心とした雑貨屋『むげん堂』も(一時期、この手の店にものすごく凝っていた)、ねじめ正一氏の民芸品店『ねじめ民芸店』も沿線のどこかにあった。弟が昔、中野に住んでいて、その商店街にあった超レトロなクラシック喫茶にもよく来た。思い出せばきりがない。

学生時代、独身のサラリーマン時代、そして結婚した三十代、それぞれの思い出が散発的に折り重なるように存在している中央線。そのような思い出の中を、文字通りまっすぐ(この表現が誇張でなく使えるのは中央線だけだ)走り抜ける「海の日」。

台風直後のためだろうか、窓から見える青空がやけに綺麗だった(写真1)。真っ青な空に白い雲。これが本当に綺麗なコントラストで広がっている。電車は相変わらずそれほど混雑するわけでもなく、ひたすらまっすぐ西へと進む。立川を過ぎると、だんだんに奥多摩が醸し出す雰囲気が忍び寄ってくる。

下りたのは御嶽駅である。文字通り、御嶽山に登るには一番近い駅。駅前には川が流れていて橋が架かっている。ここからの川の眺めは広々としていて気持ちがいい。川原に下りると、ぱらぱらと釣り人の姿も見える。台風の後なので水量が増え、川原の雑草が水没して水の中で揺れている。

見上げると、左手の大きな橋の上で二人組が佇んでじっと景色を眺めている。右手の吊り橋を見ても、やはり二人組が二組、会話をしながら景色を眺めている。一人の観光客や、三人以上の家族客などは、橋の上でもすぐに立ち止まるくらいですたすたと歩き去っていくのに、どうして二人組ばかり橋の上で佇んでいるのか。そして、橋の下の川原では釣り人が二人、離れた位置に立ってそれぞれ黙々と釣りを続けている。

川原から道に戻ると近くにある川合玉堂の美術館を少しばかり覗き、また駅前に引き返してバスに乗る。バスはすぐにケーブルカーの駅に着く。ケーブルカーというのも、結構好きな乗り物のひとつだ。山の中をケーブルに引きずられて斜めに走っていく(よく遊園地などにあるビックリハウスみたいな雰囲気でもある)、どこかしら玩具めいた雰囲気のある乗り物。と言いつつ、この日はケーブルカーでなく歩いて登ることを選択した。

山の入り口には鳥居とケーブルカーの軌道を支える橋桁が並んでいるのだが、なんだか不思議に遠近感が狂ったような風景だ(写真2)。とにかく、その鳥居を潜って山道を歩き始める。時折、後ろからTシャツと短パン姿の人が走りながらやってきて、すぐに過ぎ去っていく。こちらには走って登るほどの体力の自信はないので、ゆっくりと歩いて登る。

山道にも場所によっていろんな名称があるらしく、案内板が立っている。例えば、こんな具合(写真3)。「あんまがえし」とは山道の途中ながらそこからいったん下り坂になっているので、「あんま」の人がそこを頂上と勘違いして道を引き返してしまったという場所。そのまま「日本昔話」みたいだ。

勿論そこから引き返すことなく、しばらく登るとやがて民宿などが並ぶ一帯が現れる。この辺りの宿は民宿というか、宿坊という雰囲気に近い。御嶽山は日本の多くの古い山がそうであるように(東京周辺では高尾山や大山などもそうだ)もともと修験道系の山である。白装束が庭に干してあるのは、そういう山ならではの光景だろう(写真4)。少し先に行った食堂兼土産物屋で月見うどんを昼食に食べる。そのまま古い昭和の時代にタイムスリップしそうな雰囲気の店だ(写真5)。

さて、山頂には武蔵御嶽神社が建っている。創建の古い神社だそうだ。山の歴史とともに、神社の歴史も古い。神社の前は樹もあまりなくて見通しがよい。正面に少しぼこぼこ建物が建っているのが新宿、やや右手に行って飛び出しているのが横浜のランドマークタワー、左手に行くと丸いぽっこりしたものがあってそれが西武ドーム、と神社の人が説明してくれる。そんな遠くの建物も意外にはっきり見えるのに少し驚く。

神社からいったん坂道を下ってまた進むと、ちょっとした広場と茶屋があったり、あるいはさらに歩むと神社の奥の院があったり、さらに進めば綾広の滝という滝(滝行なども行われる神聖な場所とされている)があったり、といろいろ見所は多い。滝は台風直後ということもあって水量も多く、迫力があった。

午後になってまた天気が崩れて、時折雨も降り出した。夕方にはすっかり霧がかかり、奥の院のあたりなどはほとんど幽玄な雰囲気すら漂っている。帰りはケーブルに乗って帰ったのだが、なんとケーブル駅に向かう道の途中に参院選の選挙ポスターが貼り出してあって、少し驚く(写真6)。まさか、こんな山中に選挙ポスターがあるとは、「あんまがえし」よりもびっくりである。

                   *

ところで、今回の小旅行は考えてみれば「水」尽くしであった。台風、雨、霧、川、そして滝。

  滝の夜少女のような和室かな

この句は御嶽山ではなく伊豆で作ったものではあるが、滝を見たあとに旅館の和室に入ったときにふっとできた。滝の余韻と和室の印象が不意に渾然となったのだろうか。滝は古くから神道などの宗教にも深く関係しているとされるが、宗教を引き合いに出すまでもなく滝は確かにどこか神秘めいてもいる。そして、どこか若々しいというか清々しい感覚と、一方でどこか荒々しい感覚とを併せ持っている。一言で言えば、何か「物事をリセットする力」みたいなものがあるような気がする。「水に流す」という言葉もあるように、日本では「水」が物事を浄化する役割を果たすものと思われてきた。記憶も物体も地層のように次々と溜まっていく浮き世のもろもろを、水はまるで吹き払うようにリセットしてしまう。

そして、そもそも日本という国自体が水に恵まれた国でもあり、その四季は水によって豊かに彩られる。川や雨や雪や霧や滝や、そのように常に姿を変える水によってリセットされながら季節を更新していく国土。そしてそのような国土を俳句は長くその対象としてきた。そう考えると、俳句の季語には「水」関係のものが結構多い。水がつく言葉でも「逃げ水」「打ち水」「水温む」「水の秋」「田水沸く」など。雨や氷なども含めると、水絡みのものはもっといろいろある。どの言葉もかなり詩的にイマジナティブな言葉で、日常生活ではあまり使わないような独特な言い回しも多い。

俳句を始めた頃に印象的だったのが、「水の秋」という言い方だった。「秋の水」ではなく、「水の秋」。「水」に対する感覚、そしてそれも含む空間や季節に対する感覚が鋭敏でなくては、このような言葉は生まれない。この一言だけでも充分に詩たりうるポテンシャルを持っているが、そのような言葉を所与の季語として織り込んでしまった俳句という文芸は、考えてみると恐ろしいほどの幅を持った存在であるとも言える。


写真撮影:小野裕三

『俳句』2007年8月号を読む 上田信治

『俳句』2007年8月号を読む ……上田信治




●大特集「古典となった戦後俳句」p59-

70代から20代までの20人の俳人が「古典となった」戦後俳句30句を選び、500字ほどのコメントをつける、という特集記事。

ページの大半はそれぞれの選出句なのですが、そのほとんどが、超有名句であるうえに、重複しています。宗田安正さんが一句めとして選んだ〈炎天の遠き帆やわがこころの帆 誓子〉を、20人中8人が挙げている。作者として林田紀音夫をとりあげた9人中8人が〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉を、挙げている。

「古典」というのは、自分のセンスや勝手で選ぶものではないので、これは当然の結果ですが、残念ながら、大半の句が「また、あれか」なわけです。これでは、いかな論客20人といえ、力のふるいようがない。

せっかくの大特集なので「戦後」と「古典」についてのコメント集として、読んでみました。

「「戦後俳句」は六十年です。芭蕉と蕪村の七十年差、蕪村と一茶の五十年差と比べても短くはありません。」(岸本尚毅「総論 淘汰と増殖」)

「私の付けた条件は、戦前すでに評価の定まった作者は割愛する、存命者は外す、の二点だ。その結果、戦後に活躍の中心があり、作句人生を完結(その中には夭折という完結も含むが)した作者の作品ということになる。」(高橋睦郎)

「ものの本によれば、古典とは、すぐれた著述や作品で、過去の長い年月にわたって多くの人々の模範となり、また愛好されてきたもの、ということらしい」(中嶋鬼谷)

それは「ものの本」ではなく、辞書なのでは。

「「古典」とは、個々の読者の思いを超越し、普遍の世界に仲間入りした作品のこと」(加藤かな文)

「古典とはあまりに有名で、もう本当にいい句か、そうでもないのかわからないような句をいうような気がしてきた」(正木ゆう子)

「30句の冒頭は、誓子の〈こころの帆〉の句とすぐに決まった。終戦のその日から一週間後に詠んだというこの句には、今日や明日は見えないけれど、明後日はクリアに見えるという奇妙な視力が働いている。(…)戦後俳句史を、この誓子的視力が変容していく過程ととらえてみたらどうだろう。(…)平成の作品はどこか朦朧としており、(終戦時の ※筆者注)放心の復活とも思われる。だが足下の水面を凝視する湘子(〈あめんぼと雨とあめんぼと雨と〉※同)には、誓子的視力のかけらもない。」(加藤かな文)

「かつてのような青春詠を詠める若者は果たしているだろうか。既存の価値観や道徳への不信と諦念が深まっていく中、若手の作は伝統から遊離した独特の浮遊感を持つようになっている。」(高柳克弘)

「私が生きてきた現代は、空虚でどこかさみしい。」(神野紗希)

加藤、高柳、神野の三氏は、「古典」うんぬんは、脇へおいて、現在から見た「戦後俳句」についてコメントしています。その立論は、やや、強引だったり紋切型にかたむくとはいえ、役どころを外していないのは、さすが。

いちばん、印象的だったのは、冒頭の総論の中の、つぎの一文でした。

「極論すれば、戦後俳句史は有力俳人の加齢の過程だったのかもしれません。」(岸本尚毅)

なんと、身も蓋もないことを。「芭蕉と蕪村の七十年差、蕪村と一茶の五十年差」、戦後60年をはさんで、バトンは受け渡されるのか、どうか。

選句がおもしろかったのは、小澤實さん。
一句めに〈しぐるゝや駅に西口東口 安住敦〉を置き、昭和20年代〈抽斗の国旗しづかにはためける 神生彩史〉〈深雪晴非想非非想天までも 松本たかし〉、昭和30年代〈怒らぬから青野でしめる友の首 島津亮〉から、昭和50年代〈じゆぶじゆぶと水に突込む春霰 岸田稚魚〉、昭和60年代〈だから褞袍は嫌よ家ぢゆうをぶらぶら 波多野爽波〉などをへて、〈たたずめる我と別れて秋の風 田中裕明〉で〆るという構成。それがある意味、戦後の「精神史」と見えて、あざやかでした。

●合評鼎談「小さな大発見のある句」大輪靖宏・筑紫磐井・櫂未知子 p179-

大輪「(一茶は)当時はそれほど注目されてはいないんです。江戸の三大家とか天保期の三大家とか言われた人たちは他の人ですから」
筑紫「蕪村も今の突出した評価に比べれば当時はずっと低いですね。いろいろな人がいたから」
(略)
大輪「だから蕪村や一茶のような光の当たり方が今後、現代の作家にもあると楽しいですね」

おや、話がつながっていました。大輪さん、同時代の評価なんて当てにならないんだ、ということを、暗に言われているようで、過激です。


『俳句界』2007年8月号を読む 五十嵐秀彦

『俳句界』2007年8月号を読む ……五十嵐秀彦




「『俳句界』を読む」なのだけれど、今回はいきなり脱線しながらゴロゴロと砂利の上を走ろうかなと思う。
前号の天気さんの「『俳句研究』を読む(下)」を読んで考えさせられてしまったのである。
俳句総合誌って、なんじゃい、というのは私もこのシリーズを書き始めたときから気になってきたことだ。
冒頭で上田信次さんの 「ある意味、俳句総合誌を読もう運動、あるいは俳句総合誌を機能させよう運動である」 という言が天気さんによって紹介されているが(孫引きでごめんなさい)、そういう思いも皆無ではないながら、それ以上に現状の総合誌への疑問のようなものが、私の場合には強かったように思う。
天気さんは、俳句総合誌ははたしてそんなに読まれているのか、と疑問を呈している。

「俳句研究の休刊が決まったそうだ……読んでないけど」
「歴史ある俳句総合誌の休刊、まことに残念……読んでないけど」
「いつこうなっても不思議じゃなかったよね……読んでないけど」
「俳句愛好者は多いのに、ね……読んでないけど」


天気さんのこの皮肉はなかなか強烈だ。

私と俳句総合誌との関係はどうだったか。
今回そのことを少し考えてみたい。(『俳句界』に話を戻せるかどうか自信ないなぁ)
一番最初に読んだ総合誌は角川の『俳句』であった。
そのときのことを今、思い出している。
何か新しい世界に触れる楽しみや期待のようなものがあったかというと、今思い返すと不思議だが、実はほとんど無かった。
書店で『俳句』を立ち読みしての第一印象は、「素人臭い」「ジジ臭い」であった。
そのとき私はすでに俳句を作ることを決めていた。
知り合いに俳人は一人もいなかった。もちろん結社なんてその存在も知らなかった。
それでも私は俳句を作ろうと決心していた。

これから言うことは、実に愚かで、はなもちならない話になるけど、そのころの自分は間違いなくそう思っていたので、隠すことなく書いてしまう。
当時、他の人の俳句を参考にしようとは思ってもみなかった。
『俳句』などの総合誌に載っている俳句は全てくだらないものに見えた。
私はこんな俳句は作らない、それだけを思っていた。
ただ、創作というものは誰かに見せないことには始まらないということぐらいは知っていたし、まわりに俳句を見てくれる人はいなかったので、総合誌の読者欄に投句しようと思った。
恥の上塗りを言えば、私の句は注目されるだろうと思い込んでいた。
なぜなら総合誌に載っている句はどれもこれも、有名俳人の句も読者の投句も実にばかばかしく見えていたからだ。
それで『俳句』読者投句欄に投句したのである。
どうして『俳句』だったかというと、投句ハガキが付いていたというそれだけの理由だった。
こうして当時のことを書いていると、本当に愚かで赤面する。
投句の結果はどうだったか。
案外、根拠のないうぬぼれを増長させる結果になることが多かった。
ふむ、やっぱり私は俳句に向いているのだ。私を認める人も少数ながらいるのだ。なんて思っていた。
そのあとのことを言えば、そこで出会った俳人の結社に入れてもらったのである。
このあたりから自分の根拠のないうぬぼれということに少しづつ気づきはじめた。
この変化には、師の存在が大きかったようだ。
数年をへて、私はうぬぼれを(おおむね)捨てることに成功した。
少し謙虚になり、総合誌も当初とは違う読み方ができるようになった。
とはいえ、どの雑誌が好き、というようなことは無い。
最初の「素人臭い」「ジジ臭い」という印象は今もどこかに張り付いていて、常に眉に唾をつけて読む癖がついてしまっている。
そう言いながらも『俳句』『俳句研究』は、しばらく毎月読んでいた。
楽しいから読んでいたかというと、そうではなく、資料になるものがたまにはあるかもしれないという思い、もっと言うと、大事なものを見逃してしまうことがあるかもしれないという脅迫観念から読んでいたとも言える。
ただ、それもそのうち「見逃して大いに後悔するほど大事なことが載ることなんて、まずない」と思うようになってしまって、「俳句研究の休刊が決まったそうだ……読んでないけど」状態に私もいつのまにかなっていたわけだ。
そういう意味では、この「俳句総合誌を読む」を書く資格のない人物だよなぁ、と今更のごとく気づいている。

ここで『俳句界』について書かせてもらっているのは偶然で、特に意味はなかった。
でも、総合誌の中でもマイナー誌であるこの雑誌をウォッチするのは面白いかな、とは思った。
『俳句』も『俳句研究』も、おおむね同様の企画をたらい回しにしている傾向が見えるので、マイナー誌のほうが何かをしかけてくる可能性があるかも、とも考えているのである。

さて、今月はいつもと趣向を変えて、最後のページから読んでみることにしたい。
(ここから、ようやく本題、です)
何か別なものが見えてくるかもしれない。

●裏表紙
まず裏表紙を開くと、 「文學の森祭のお知らせ」 がある。
文學の森社が出している各賞の受賞式・懇親会が11月27日に開かれるとの案内だが、この授賞式・懇親会は、申し込みをして会費を払えば誰でも参加できるのだそうだ。
授賞式として、これは面白いやり方だと思う。

●出版案内
「新刊句集・近刊予定」のページ。
48冊が、著者名・書名・紹介句2句の形でギッシリと並べられている。
ほとんどが自費出版句集である。
これは文學の森社の事業の柱のひとつ。

さらに「企画句集シリーズのご案内」。
これは買ってくれというよりも、このシリーズで出版するか、参加しませんか、という誘いらしい。

●結社広告
そして延々40ページにわたっての結社広告。
各結社で掲載料を払って宣伝というわけだ。
これを入念に読む人はいないだろう。
けど一度ぐらい試しにチェックしてみると、ちょっと面白いものを見つけたりする。
五島高資の「俳句スクエア」が広告を出しているのには、軽く驚いた。

●編集後記
ここでようやく「編集後記」になる。
清水哲男編集長を先頭に、編集者が実名で短文を書いている。異色なのは、企画出版部という自費出版事業の部門と思われる部署の人も書いているところ。
自費出版事業になみなみならぬ力が入っていることが、ここからもわかる。

●「俳句界雑詠」
これは読者投句欄で、選者は、坊城俊樹、中原道夫・高橋悦男・齋藤愼爾・加古宗也・岩城久治の6氏。
巻末に投句ハガキ付き。共通選(角川『俳句』平成俳壇方式ですなぁ)。
複数選者に特選でとられていた句を一句紹介しておく。

 人形を抱いて万朶の花仰ぐ    松本榮子(宮城)

齋藤愼爾特選の次の句には、やや疑問。

 能面くだけ末黒野を旅はじめ

この句を見て次の句を思い浮かべてしまうのは私だけではないだろう。

 能面のくだけて月の港かな   黒田杏子

選者も杏子句を知らぬはずはなかろうが、あえて選んだのであろうか。

●「俳句ボクシング」
このコーナーも読者投句による。
応募句の中から16句を予選し、それを8組に分けて優劣を競いながら「チャンピオン」を決めるというユニークな企画だ。
しかし、辻桃子、田中陽の二人のレフェリーが、それぞれ独立して2つのトーナメントをしている形式なので、本来の勝ち抜き戦の面白さは、あまり出ていない。
選者の選考過程が透けて見えるという興味はあるが。

●「俳句研究所」
大牧広による添削コーナー。
このあたりまでが読者参加ページというあつらえのようだ。どの総合誌も巻末近くに置いてあり、本誌も例外ではないけれど、今回あらためて見渡してみると(いつもこの辺は読んでないので・・・)他誌より力を入れているのがわかった。

●「文學の森句会報告」
この後は(前は?)「告知板」という情報欄、「出版ダイジェスト」というブック・レヴューを挿み、再び読者企画の「文學の森句会報告」 になる。
同社で定期的に開催されている読者参加のナマ句会の報告である。
これも総合誌としてはユニークな企画。
参加型の雑誌を目指しているのか。そこにある本当の目的は?、などと思ってしまう。

さて、最後のページから遡りながら読んできた。このあとは連載もののエッセイや評論が並ぶ。
こうしてうしろから天邪鬼に見てくると、出版社としての経営方針がけっこう丸見えになるから面白い。
座談会形式をとっている 「句集制作の現場から 装丁とこだわり」 (中原道夫・池田澄子・姜琪東)も、その目的が透けて見えてくる。

●坂口昌弘「ライバル俳句史」
毎月たのしみにしている連載評論の第20回は 「この世の浄土 茅舎と朱鳥」
このふたりに共通する祈りについて、かなり突っ込んだ考察が見られる。
特に茅舎の代表句「金剛の露ひとつぶや石の上」の解釈は秀逸であった。ご一読いただきたい。

●松尾あつゆき「原爆句抄」
今月号の特集は 「めぐりくる敗戦忌」 である。
その中で、天野正子の 「死者に支えられた老い『原爆句抄』再読」 に注目した。
そして、参考資料としてつけられた、松尾あつゆきという「層雲」俳人の「原爆句抄」 は、これまで読んだ原爆俳句の中で特筆すべき作品と感じた。

 この世に生存していた事実、石一つ置く

 子の墓へうちの桔梗を、少し買いそえて持つ

 名づけて平和の泉、ただの水として流れてゆく


今回『俳句界』をうしろから逆に読んでみて、総合誌の仮面の裏を覗き見たような妙な味がした。
これは『俳句界』に限ったことではないはずだ。
たまにはこんな読み方も、出版のホンネが見えてきて面白いかもしれない。

最後に高橋睦郎の特別作品50句から5句を挙げておきたい。

 白芙蓉底紫と申すべし

 大花火近く奈落にわれら逢ふ

 一魔群通過する如(な)す霧奔る

 山深く後架を霧の流れ次ぐ

 鯊釣れて腥くなること迅し


後記+プロフィール 014

後記

この「週刊俳句」、いったいどこがやっているサイトなのか? あるいは、どんな人間が運営しているのだ? と思う方がいらっしゃるようです。なんか、はっきりしない。

そうかもしれません。べつにどこがやっているというわけでもない。更新(記事アップ)当番とも言うべき私と幾人かの人たちは、同人というわけでもない。ふだんからよく知っている仲かというと、そうでもない。

信治さんと私は交代で「後記」を書いていて、「週刊俳句」の「お笑いコンビ」のようだから、「ふだんからツルんでいるのでは?」と想像する人がいらっしゃるかもしれませんが、じつは、これまで数回しか会ったことがない。これでは、コンビどころか、知人といえるかどうかさえ怪しい。

そんなこんなで、「どういう人間たちが?」と問われても、うまい答えがありません。でもね、そんなこと、どうでもいいじゃありませんか。逆にお聞きしたい。ところで、記事はどうでした? おもしろかったですか?

「どこの誰が?」といった関心は、皿を裏返す行為にも思えます。LimogeとかWedgewoodとか香蘭社の文字が見えれば「ほお!」と感心するような、何も書いてなければ、10枚ひとからげの安物か、とか……。その気持ちもわからないではありませんが、「そんなことより、料理を食べましょうよ」ということ。

「週刊俳句」は、ふつうの単なる皿です。裏返してみても、何の文字もありません。でも、毎週日曜日には、新しい料理が載るのです。

今週も、ボリュームたっぷり。味も格別。

それでは、また、次の日曜日にお会いしましょう。

あ、そうそう、来週はいよいよ「週刊俳句賞」決定!です。心当たりの人も、そうでない人も、ドキドキしながら来週号をお待ちください。

(さいばら天気 記)


no.014/2007-7-29 profile


村田 篠 むらた・しの
1958年、姫路市生まれ。2002年、俳句に出会う。「魚座」を経て「雲」同人。「月天」「百句会」会員。

山口東人 やまぐち・とうじん
横浜市生まれ。20歳代半ば大野林火に惹かれ俳句を齧りだす。一時、「澤」に所属。現在「月天」「百句会」に参加。
ブログ「東人雑記」 http://blog.livedoor.jp/guen555/
遠藤 治 えんどう・おさむ
俳号四童(よんどう)。1958年生まれ。1994年より作句開始。「恒信風」同人。
ブログ「四童珈琲店」 http://navy.ap.teacup.com/yondoblog/

■栗林 浩
 くりばやし・ひろし
北海道生まれ。結社「握手」所属、現代俳句協会会員。地球温暖化防止にボランティア的に協力している技術者あがりで、鎌倉時代の歴史にも興味があり、著書に『頼朝とその弟たち』(新人物往来社2007)がある。
ブログ「栗林浩のブログ」 http://ht-kuri.at.webry.info/

五十嵐秀彦 昭和31年生れ。札幌市在住。現代俳句協会会員、「藍生」会員、「雪華」同人、迅雷句会世話人。第23回(平成15年度)現代俳句評論賞。
サイト「無門」 http://homepage2.nifty.com/jinrai/

小野裕三 昭和43年、大分県生まれ。神奈川県在住。「海程」所属、「豆の木」同人。第22回(平成14年度)現代俳句協会評論賞、現代俳句協会新人賞佳作、新潮新人賞(評論部門)最終候補など。句集に『メキシコ料理店』(角川書店)、共著に『現代の俳人101』(金子兜太編・新書館)。
サイト「ono-deluxe」http://www.kanshin.com/user/42087

■上田信治 うえだ・しんじ 
「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。
ブログ「胃のかたち」 http://uedas.blog38.fc2.com/

さいばら天気 さいばら・てんき
播磨国生まれ。1997年「月天」句会で俳句を始める。句集に人名句集『チャーリーさん』(私家版2005年)。
ブログ「俳句的日常」 http://tenki00.exblog.jp/