2017-12-31

週刊俳句 第558号 2017年12月31日

第558号
2017年12月31日



2018年 新年詠 大募集 ≫見る

〔2017年週俳のオススメ記事
1月~3月 ご指名がおもしろい……上田信治 ≫読む
4月~6月 ただならぬことあれこれ……村田 篠 ≫読む
7月~9月 選と弔い……福田若之 ≫読む
10月~12月 文章にパワーを……岡田由季 ≫読む

週刊俳句2017年アンソロジー 6161 ≫読む
……………………………………………

【俳苑叢刊を読む】
第20回 森川暁水『淀』
どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(後篇)
 ……佐藤文香 ≫読む

【2017落選展を読む】
4. 今泉礼奈 熱がうつる
……上田信治 ≫読む

中嶋憲武西原天気の音楽千夜一夜】
第32回 バーナード・ハーマン「サイコ組曲」 ≫読む

〔今週号の表紙〕第558号 アンモナイト……岡田由季 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……岡田由季 ≫読む


第2回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ≫見る

新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
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【2017年週俳のオススメ記事 10-12月】文章にパワーを 岡田由季


【2017年週俳のオススメ記事 10-12月】
文章にパワーを

岡田由季


この時期の週刊俳句は通常運転で、落選展以外にはスペシャルなこともなく、基本的な、作品掲載→読む、の流れが続きました。週刊俳句の10句は、同じ方が繰り返しというよりは、初めて掲載される方が多いですから、今までに随分多くの作者が登場しているはずです。それでもまだ、登場していない魅力的な書き手はたくさんいると思います。これからもたくさんの出会いに期待します。と、いうか、出会えるようにしなくてはいけないですね。

10月から、彌榮浩樹さんの「肉化するダコツ」の連載が始まりました。毎回、テーマとなる飯田蛇笏の一句を、一語一語細かく検討し、一字変えてみたり、並べ替えたりしてゆき、最終的に、原句のゆるぎなさが示されます。「「神品」」「<霊>を感じさせる」といった表現からも、彌榮さんの蛇笏句への熱い想いが伝わり、驚かされます。例え同じものを読んでも、人の感じ方はそれぞれですから、彌榮さんと同じレベルで対象の句に感動できるかといえば、私の場合などはそうとも限りません。ただ、その細やかな着眼点に気付かされることも多いですし、蛇笏にこんな句があったんだ、と知ることもでき、楽しみに読んでいます。何より、対象への愛情の深さ、というのは文章にパワーを与えるように思います。この連載は、来年も続きます。どうぞお楽しみに。

9月から続いていた牟礼 鯨さんの連載「西遠牛乳」が10月29日号で最終回を迎えました。味わいのある文章に引き込まれ、なんとなく危なっかしい登場人物達に、ハラハラしながら読んでいました。この最終回を読んで私は、ようやく「あ、そういうことだったんだ」と気付くことがありました。(間抜けなことに、途中まで、Sは女性と思って読んでいました。)皆さんはいかがでしたか。

それから、手前味噌で申し訳ないのですが、10月18日号には小津夜景さんに海鳥のことをお聞きした「海鳥ダイアリー」を掲載しました。今改めて読むと、鳥との接し方も、小津夜景さんらしく、とてもユニークです。日本野鳥の会的なそれとは全く違います(野鳥の会がいけないと言っているのではありません、念のため)。気軽に読めますのでお読みいただければ嬉しいです。ところで、このインタビュー以来、私は鳥を見ることにはまっています。一番楽しんでしまったのは、自分だったかもしれません。

「句集を読む」では、上田信治句集『リボン』(11月30日発行)についての、トオイダイスケさんの記事が、早速、12月10日号に掲載されています。「愛おしく在る可く」という表現に、そう受け止めた読み手側の柔らかさ、繊細さを感じました。この記事のようなスピード掲載もネットならでは、なのですが、発行から時間がたった句集でも、読む記事は常に大歓迎です。この年末にかけて、また、たくさんの句集が上梓されました。どうぞみなさま、記事をお寄せください

【2017年週俳のオススメ記事 7-9月】選と弔い 福田若之

【2017年週俳のオススメ記事 7-9月】
選と弔い

福田若之


与えられた枠は、これからここに書かれるものにふさわしいものではないだろうということを、まずははっきりさせておかなくてはならない。この記事は、実のところ、いわゆる「オススメ記事」の紹介にはなりそうもない。

今年は、読者たちのための、あるいは、著者たちのための、卒のない、万遍ない回顧なんてしてやらない、と決めた。ここにこれから僕の書くものを読んでも、7月から9月のあいだに起こった出来事については、ほとんど何もわからないだろう。

だって、金原まさ子は6月27日には亡くなってしまっていたというのだから。



7月から9月の『週刊俳句』の目次を眺めていて、ああ、そうだった、と思った。7月30日更新の第536号から、月をまたいで翌週の第537号にかけて、金原まさ子の追悼特集が組まれている。

第536号の小久保佳世子による追悼文は、「金原まさ子に死は似合わない」と題されていた。死の似合わないひとだったからだろうか。僕は、『週刊俳句』のバックナンバーを眺めるまで、金原まさ子が亡くなってしまったことを、忘れていた。

僕は、「金原まさ子百歳からのブログ」の熱心な読者ではなかった。だから、ほぼ毎日1句を更新していたというそのブログの更新が途絶えたとしても、それが僕の生活のリズムやそのほかに影響をおよぼすというようなことは、なかったのだ。

それでも、長いあいだ、うちには金原まさ子の第4句集である『カルナヴァル』(草思社、2013年)が2冊あった。西原天気邸でおこなわれたこの句集の発送作業を手伝ったときに、1冊をいただき、その後、しばらくしてから、なぜかもう1冊が郵便で届いたのだった。

そのうちの1冊を、ようやく、読みたいというひとに譲ることができたのも、たしか今年のことだったように思う。けれど、それはほんとうに今年だったのだろうか。僕にはそれさえ、もう、ぼんやりとしはじめている。



いずれにせよ、そうした具合だから、ついなんとなく金原まさ子はまだ生きているというような気がしてしまっていたことも、無理のないことと言ってしまえば、そうなのかもしれない。

そして、そんな僕には、きっと、金原まさ子を追悼するということについて、何かを語る資格はないのだろう。けれど、だからといって、年末の回顧記事でこの7月から9月までを任された僕には、もはや、それを語らずにすませてしまうなどという資格は、なおさらないだろう。そして、そんな僕だからなのだろうか。『週刊俳句』の特集に寄せられた追悼文の数々に、僕は、ほんとうの意味で共感することが、まだできないでいる。

ひとつ、ただちに書き添えておく必要がある。それらはもちろん、それぞれに気持ちのこもった追悼文には違いないのだ。すなわち、「分かりました。ヒミツは守りますから」と書く小久保佳世子の身ぶりだけでなく、「「一度でいいからインターネットで自分の名前を見たい」」と題された第537号に掲載の追悼文に「金原さんが美しいと思われる男性についてうかがっていて、あのとき、金原さんは、山中伸弥教授のルックスを絶賛されていたのだけれど、その部分は原稿から削除されてしまった」という秘密を書いてしまわずにはいられない上田信治の身ぶりもまた、そうした気持ちの表れには違いないのである。

しかし、金原まさ子という書き手が、ほどほどにあたたかく、ほどほどに淡々としたこれらの文章によって見送られてしまうということに、なぜだろう、僕は、なにかやりきれないものを感じずにはいられない。

この感情はたぶん僕の身勝手なのだろう。それでも、どうしても。



第536号に「金原まさ子・週俳アーカイブ」がまとめられている。アーカイブ化とは、記憶の保存であり、だが、それゆえに、忘却の過程でもある。僕たちは、さまざまのことを、覚えるようにして忘れてゆく。喪というのは、簡単にいえばそういうことだ。僕たちは忘れない、ゆえに、僕たちは忘れる。

僕たち、などと書くことの身勝手を、やはり許してほしい。喪について、僕が、僕自身を含めることなしに書くことができることなんて、何ひとつとしてないだろう。

僕は、いま、この場所から、第537号に掲載された金原まさ子「『カルナヴァル』以降250句」を読み返そうと思う。すべての句を取り上げるわけには、やはりいかないけれど。その選は、同号に追悼文を寄せてもいる上田信治によるものだ。



金原まさ子を追悼するために、上田信治が読み返し、書き写している。追悼文でも句集から7句を拾い、「これらの句を自分は記憶し、語り継ぎたいと思っています」と書いている上田信治が、ですがそれだけではまだ足りないのです、と言わんばかりに。

僕の知るかぎり、上田信治という選者は、「好き嫌い」を越えた「いい悪い」があるとする立場から、それを自らの選の基準に据えようとしているひとだ。たとえば、『クプラス』創刊号(2014年3月)の座談会、「「いい俳句」を馬鹿まじめに考える」では、関悦史が「つまり俳人は「いい」についてはおおかた共通の認識があって、意見が分かれるのは「嫌い」で受け入れられない部分によるのではないか」と問いかけたのに対し、「さっき関さんが、一致しないのは「好き嫌い」の「嫌い」の部分じゃないか、という話をされました。でもそんな「好き嫌い」、はじめに抑圧しておいてくださいよ、とも思うんですよ」と返している(43-45頁)。個人的な事情は極力抜きにして、ドライに、クールに。それが、上田信治の普段の選の手さばきであるはずだ。

けれど、彼がたとえば次に示す句を選んだとき、その選は、ほんとうに上田信治個人の救いに関わっていなかっただろうか。

共に死のうと赤貝と菜の花と
いましぬとむこうもふゆかサムゲタン
あさってからわたしは二階の折鶴よ
小鳥死んだら春夕焼と入れかわれ
霊界行バス白い椿で満席よ
死にたてよ八重桜きて包みこむ

もちろん、選者としての上田信治が、たとえば、金原さんはいまごろ白い椿で満席の霊界行バスに乗っている頃だろう、などといった想像に身をまかせ、それによって救われるためにこれらの句を採ったなどとは僕も思わない。そういうことではなく、むしろ、金原まさ子が、その生前に、こうしたユーモアによって死を笑い飛ばしていたということに、上田信治の救いがあったのではないか。

「赤貝と菜の花と」の句が示唆するように、そして、「折鶴」の句や「小鳥」の句に明示されているように、金原まさ子にとって、死とは、何かその本性からして今とは別のものになることだった。それは消失ではなく、変身だった。だからおそらく、金原まさ子は、グレゴール・ザムザの虫への変身を彼の死と受け止めることで整理しようとする彼の家族に同意しただろう。ただし、その場合、虫はもちろん虫としての死によってもまた別の何かになるのでなければならない。それは「小鳥」が「春夕焼」と入れかわるようにして、なされるのでなければならない。

つまり、死とはまた転生でもあるのだ。第537号に掲載された柴田千晶による追悼文、「四度目の」に倣って、金原まさ子の「辞世の句」を記しておこう。上田信治の選には入っていないが、それは《転生三度目の脂百合ですよ》という句で、添えられた文章には「わたしは「やにゆり」」という一節も見える(「「金原まさ子さん 辞世の句。」」、『金原まさ子百歳からのブログ』、2017年7月5日更新)。

また、金原まさ子にとって、死は瞬間の出来事ではない。「八重桜」の句を見てみよう。死を通じての変身は、あたかも、羽化したばかりの昆虫が、すぐには飛びたつことなしに、そのやわらかい皮膚をそれ自身にとってふさわしいものにしていくのと同じように、その死後においてゆるやかに進む。《空蝉をゆさぶっている笑いかな》と詠嘆されるこの激しい「笑い」は、だからきっと、死を笑い飛ばすのと同様のユーモアに起因している。「死にたて」の状態はまだ途中経過に過ぎないのであって、たとえば「八重桜」に包まれることによって、ついに別の何かになるのだ。だから、「死にたて」とは、要するに、《永き日のまだ魚でなく鳥でなく》といった状態のことだろう。

さらに言えば、《雪の夜の痴れ虫となり徘徊す》、《絨毯にくるんで私が捨ててある》、《風のいちじく見にゆく途中すこし変》、《ハミングの男がふたり鹿になる途中》あるいは《血圧ゼロうすいむらさきクロッカス》といった句を読んでいると、書き手としての金原まさ子にとって、こうした意味での〈死〉――とまでは言わないとしても、〈臨死〉――は、日常茶飯事だったという気さえしてくる。

かつて、僕と生駒大祐は、古脇語というひとつの名のもとに身を隠して、あるアンケートの回答に次のとおり書いた。
金原まさ子が描き出しているのは、われわれ(それは金原まさ子本人も含む)にも知覚可能な、しかし、われわれの存在不可能な世界である。その中にあってわれわれに向かって情報を発信しているのは、言ってみれば、その世界における金原まさ子のアバターなのだ。彼女のアバターはその世界で、現実の物体の姿をした別のアバターたち(だが、それを操っているのは現実の人間ではない)との交流を繰り返す。故に、彼女の俳句はまぎれもなく前衛的でありながら、ほとんど思想的意味を持たない。
(「新調の原動者は誰か」、『クプラス』第2号、60頁)
いかにも古脇語が書きそうなことだ。思い返せば、古脇語という「アバター」を僕たちふたりで一度殺してみることにしたのも今年のことだったのだけれど、そのことはここでは脇に置いておくことにしよう。いま考えたいのは次のことだ。すなわち、引用した一節において、「アバター」を通じての「知覚可能な、しかし、われわれの存在不可能な世界」への主体の「発信」や「交流」として描きだされている出来事は、要するに、日常茶飯事としての〈死〉ないし〈臨死〉だったのではないだろうか、ということだ。

ただし、ここでは、金原まさ子のこのたびの死が、実際にそのようなものだったかどうかが問題なのではない。実際、単純にして絶対的な「消失」と本性的な次元での「変身」とを、外的に区別する手立てはない(もし虫がほんとうに《ほんとは人ではりがね虫ではないのです》などと語りだすとしたら話は別だが)。そして、まさしくこの手立てのなさこそが、カフカの『変身』においては、グレゴールの家族の決断を可能にしていたのである。

だから、重要なことは、むしろ、上田信治が、金原まさ子の句を選ぶことを通じて、彼女が死をそうしたものとして捉えていたということを再確認し、思い出したに違いないというそのことなのだ。このことは、上田信治のように金原まさ子の句に親しんできた選者にとっては、あくまでも「再確認」にすぎず、決して目新しい「発見」ではありえないだろう。けれど、そこに上田信治の救いがやはりあったのだと、そう僕は考えてみたいのだ。

それにしても、この僕の欲求はどこから来るのだろう。いや、それは僕にとっては問うまでもなくはっきりしている。要するに、上田信治が金原まさ子の句を読むことによって救われたとみなすことによって、つまり、そのように上田信治を読むことによって、僕もまた、きっと、かろうじて、いくらかは救われたいと思ってしまったのだ。

しかしながら、この思いの由来はやはり僕にやりきれなさを感じさせるのと同じ僕自身の身勝手に違いないのであって、だからこの文章は、金原まさ子の死に対して年忘れの機会を与えられるによってしか向き合えない僕の、どこまでも身勝手な、僕自身のやりきれなさに対する弔いでしかないのだろう。

だから、僕にできるせめてものことは、今後も、金原まさ子に対して身勝手な読み手として振る舞いつづけることでしかないだろう。普段は彼女のことをのうのうと忘れておきながら、ほんのたまに、ふいに、それまで忘れていたことさえ忘れたかのようにして、都合よく思い出してみせたりする、そんな読み手として、僕は振る舞い続けるしかないだろう。

金原まさ子の名を見ると、僕は、あの発送作業を手伝った午後に、西原天気が何か僕の知らないミニマル・ミュージックを流したことを思い出す。僕は、そもそも、ミニマル・ミュージックなんてよく知らないのだけれど、そして、そのとき流れた旋律のひとつとして僕はもう思い出すことはできないけれど、とにかくそれは、たしかに何らかのミニマル・ミュージックで、それが発送作業をする僕たちの動きに、ひとつのリズムを与えていたということだけは、はっきりと思い出せるのだった。僕はそんなふうにして金原まさ子の名を読む、まったく身勝手な読者にほかならない。
そして、そんな身勝手な読者である僕は、たとえば、上田信治が250句を選ぼうとして、どうやら厳密に数えることができなかったらしい、ということに救いを求めたりさえしてしまうのだ。

実は、掲載されている句は延べ数で257句ある。そして、僕の数えまちがいでなければ、そのうち、紙媒体で公表された作品とブログに掲載された句との完全な重複は5組(《ウェットティッシュ百箱うかぶ春の海》、《絨毯にくるんで私が捨ててある》、《人のかたちに砂掘っている月夜の子》、《あさってからわたしは二階の折鶴よ》そして《見えるので葱のむこうを視てしまう》)、表記のみ違う句が1組(《星踏んだらし土踏まずの青痣》と《星踏んだらし土ふまずの青痣》のぶれ)で、これらをすべて重複とみなして差し引いたとしても、251句あることになる。もしかすると、上田信治は《藤がじぶんを白い足だと思いこむ》と《藤はじぶんを白い足だと思いこむ》を同じ句とみなしたのかもしれないが、この助詞の違いを違いとみなさずに、たとえば、《山羊の脳入りカリースープをイエズスと》と《山羊の脳入りカリーゴートをイエズスと》の名詞の違いを違いとみなしているのだとすれば、それは、仮に一見正当な基準によることに思えたとしても、おそらく、厳密には正当なことではないはずだ。

上田信治の選のドライさやクールさが、金原まさ子の死を前にして、この数えまちがいにおいてほんのすこしだけほころびをみせているような気がするとき、僕は、やはり、かろうじて、彼の選に救われる気がしてしまうのだった。こんなことを書かれるのは、選者としての上田信治にとって、もしかしたら、くやしいことなのかもしれないのだけれど。

【2017年週俳のオススメ記事 4-6月】ただならぬことあれこれ 村田 篠

【2017年週俳のオススメ記事 4-6月】
ただならぬことあれこれ

村田 篠


「週刊俳句」は今年創刊10周年を迎え、4月16日に記念パーティを開催しました。その開宴前の会場で、興行のひとつとして行われた「歌仙 水の春」が、若い俳人の方々のご参加を得て、みごとに4時間で完成しました。詳細は第522号「歌仙「水の春」始末記」をご覧いただきたいのですが、切れの良い展開具合は、36句を4時間で巻き終わるという即吟のスピードと無関係ではないと思います。捌きの佐山哲郎さん、8人の連衆のみなさん、お疲れさまでした。

1月から始まった「「俳苑叢刊」を読む」は、初めてその俳人の句に触れる、ということも多く、楽しみに読んでいます(シリーズは今も続行中)。このシリーズの面白さは、〈担当する俳人のどこに(何に)書き手が注目するか〉がそれぞれ違うというところで、もちろんどれが正解というのはありません。4月から6月にかけて掲載されたなかでは、作家の年譜を追いながら丹念に読んだ小誌・上田信治の「第10回 長谷川素逝『三十三才』 若者の人生の物語」 (第519号)、ほかにも村上鞆彦さんの「第13回 石塚友二『百萬』 粗雑と純粋」 (第522号)、山田露結さんの「第15回 栗林一石路『行路』 春の花屋になって」 (第524号)が印象に残りました。

びっくりしたのが、第526号の「まるごと『ku+ クプラス3号』(終刊号)」。雑誌をまるごと1冊、しかも「(終刊号)」です。終刊に驚きつつも読み応えはたっぷり、なかでも楽しかったのは「ku+メンバーピッ句で遊ぶ」という記事。「ピッ句」とは「新しい俳画の試み」だそうですが、この記事では、俳句に同人のみなさん自身が描いた絵を組み合わせて紹介、解説されています。絵が俳句の解題になってしまうこともありますが、それも含めて楽しむのが正解ですね。絵から想像される人柄にも思いが及びます。また、阪西敦子さんの「季語に似たもの 五郎丸と真田丸」は、現代の世相の中にある言葉から季語を連想し、日本語の「クセ」のようなものに話が展開していて、面白く読みました。

俳句以外の記事が多いのは「週刊俳句」の特徴ですが、第527号から「中嶋憲武×西原天気の音楽千夜一夜」が始まりました。草創期から後記にYou Tubeの動画を貼り付けて音楽を紹介していた「週刊俳句」ならではの企画です。それにしても、第1回で取り上げているザ・ビーチボーイズの「想い出のスマハマ」は彼らが思う〈日本〉的な楽曲で、私はてっきり「砂浜」を「スマハマ」と間違えてタイトルにしたのだと思いましたら、兵庫県の地名を入れ込んだ「須磨浜」なのだそうで。

不定期掲載の「成分表」は私の好きなシリーズのひとつですが、第530号には贅沢に3つ掲載。「人にはたくさんの自分に見えない何かがあって、変な服とか、心が勝手に泣いてしまう話とかを「当てて」みると、それがあらわれる、そういうことであるらしい。」「似合う」より)

今年もたくさんの句集が話題になりました。そのなかの1冊、田島健一さんの『ただならぬぽ』をテキストに、田島健一論を展開したのが柳本々々さんの連載「『ただならぬぽ』攻略 」です。句集の周辺をぐるぐるして句集への読みの態度から書き始められた第527号「攻略1 ふとんからでる」第528号「攻略2 おいおい多摩図書館に行くのにそんな装備でだいじょうぶなのか?」のただならぬ面白さに牽引されて、第534号の最終回「攻略7 奴らはどこへ行ったのか。探しているのさ、復讐の為に!」(掲載は7月)まで読了しましたが、この最終回の、息をもつかせぬ文体がなんだかすごい(内容もすごいのですが)。壺の中から言葉が湧いてあふれているようなこの文章を柳本さんに書かせたのが、柳本さんをこの場所へ連れてきたのが『ただならぬぽ』だとすると、それはやっぱり、ちょっとものすごいことなんじゃないか、と思います。

【2017年週俳のオススメ記事 1-3月】 ご指名がおもしろい 上田信治

【2017年週俳のオススメ記事 1-3月】
ご指名がおもしろい

上田信治


2017年の第1号め第506号は、1月1日。前年10月に『フラワーズカンフー』を上梓した小津夜景さんと飯島章友の対談「〈身体vs文体〉のバックドロップ 格闘技と短詩型文学」から始まります。「動けるデブ」に関する考察、プロレスの型と短詩の型などなど。

第507号は、新年詠特集です(今年もやります。よろしくお願いいたします。)

第508号10句作品は、青柳 飛さん。小関菜都子さん。「終わらない散歩」は、西原天気さんによる『フラワーズ・カンフー』評。

第509号 西原天気さん「描写と抒情から遠く」岡村知昭句集『然るべく』評。福田若之さん「言葉の培養」田島健一句集『ただならぬぽ』評。去年今年と、ほんとうに句集が豊作でした。10句作品は、中村安伸さん、西生ゆかりさん。

第510号から、新シリーズ「俳苑叢刊」を読む」がはじまります。第1回は冨田拓也さんによる松本たかし『弓』評。10句作品は瀧村小奈生さん。

第511号 10句作品は岡村知昭さん「ひよこふたたびふたたびひよこ」中嶋憲武さん「空想科学女子」タイトルがおもしろすぎる。「「俳苑叢刊」を読む」第2回は生駒大祐さんによる星野立子『鎌倉』評(この企画、誰が誰を書くか、すべて福田若之さんが考えていて、そのマッチングの妙に、毎回驚かされます)。

第512号 10句作品、藤本る衣さん。藤田哲史さんの「評論で探る新しい俳句のかたち」は、たとえば、切れ字の「や」に代わる構文の発明に、文体革新の可能性があるという指摘。この連載、毎回充実でした。「俳苑叢刊」を読むは、仮屋賢一による石橋辰之助『家』評。

第513号10句作品、坂入菜月さん。「「俳苑叢刊」を読む」日野草城『靑玄』は、神野紗希さんの担当回。日野草城の視覚的描写について。

第514号 北大路翼さんの「「俳苑叢刊」を読む」加藤楸邨『颱風眼』評「観念の実体化」は必読。10句作品は田島健一さん、野住朋可さん。

第515号 10句作品は榮猿丸さん、佐藤智子さん。「俳苑叢刊」は三村凌霄さんによる皆吉爽雨『寒林』評。皆吉爽雨は、今となっては非常に分かりにくい作家では?  柳本々々さんの「あとがきの冒険」は、穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』と太宰治『人間失格』のあとがきが、ともに、登場人物との関係の位相を増やしていることを指摘。おもしろい。

第516号 10句作品は丑丸敬史さん。「俳苑叢刊」は、中村汀女『春雪』を浅川芳直さんが。

第517号 10句作品は伴場とく子さん。「俳苑叢刊」は池内友次郎『結婚まで』を外山一機さん(なるほど)。

第518号 10句作品は木田智美さん。「俳苑叢刊」は東京三(秋元不死男)『街』を関悦史さん。最後、ちょっと駆け足になりましたが、作品、記事ともに、たいへんな充実ぶりでした。

2017落選展を読む 4 「今泉礼奈 熱がうつる」 上田信治

2017落選展を読む 
4「今泉礼奈 熱がうつる」

上田信治

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白木蓮や病院の窓ひとつ開き
蜂蜜は光溜りや春の風邪


作品とは「あこがれ」なのだ、と考えてみる。

つまり、自分とひとに、なにか「いいもの」を贈るわけだけれど、その「いいもの」は、無限に遠くあって、まだ自分のものになっていないものでなければならない。

人が人にあげられる最良のものは、そういうもので、それが「あこがれ」なのだ、と。

(どろどろのげちょげちょの作品も、誰かにとって必要な「いいもの」あるいは「おくすり」として「あこがれ」られているはずだ)。


白木蓮」の句。はくれんが咲くむこうに病院があって、ひとつだけ窓が開いているので、そこに心が行ってしまう。見上げている人は「病院から外を見ている人」の心にあこがれている。

あるいは、風邪の人が、テーブルか棚にある「蜂蜜」のびんを見上げているという「あこがれ」。

春から夏の光線、あたたかさ、上向きの視線といったモチーフが繰り返しあらわれる50句だ。

風船を朝の光の滑りをり
若楓薄く冷たく光りけり
葉桜や友ほつそりと欲少な


挙げた句は、みな、明るいものに、かすかなマイナス要素を組み合わせて構成されている。テクニックとして使えば、単調になるし、意図を見透かされるけれど、これらの句は、マイナスとも言えないほどのかすかな陰りを得て、それが心理的な具体性や奥行きになっている。

風船」の句。光の動きが意識されていることから、朝早く、部屋にころがったそれを(なんなら布団から)見ている場面を思った。

葉桜」の句。この人は、その友だちのことを、とても「いいもの」だと思っている。自分は、それほど、ほっそりともしておらず、欲も少なくないのかもしれない。葉桜の、生命力とか光とか影の要素が、自分と友だちに行ったり来たりしながら、分けもたれている。

春暑し手鏡に顔収まらず
退屈な顔が窓辺に花は葉に


陰りが可笑しさに転化したような句に、両方「顔」が出てくるのは、なんなんだろう。可笑しい。

この人は、あたたかく好ましい、この世の「いいもの」を価値として書いている。

しかし書かれたものは「いいもの」そのものではないので、受け取ってもらうためには、それが「あこがれ」の高さにまで高まっていなければならない。

その抽象性のレベルを得ているかどうかが、作品になっているかどうかの分かれ目だ。

白木蓮の木の黒々と曇りけり
遠雷や浮世絵のみな肌白し
白日傘に囲まれ歩く男かな


構図で書かれている句がいくつか。それぞれいい句だけれど、この人にとっては、その「いいひと」性を押し進めることのほうが、遠くまでいくという意味で、チャレンジなのではないかと思う。

あをぞらのけふを愛して山法師
ふらここのおくれてひとつ高くゆく


明るいばっかりの絵に見えるじゃないですか。でも「山法師」ったら、暗い植物ですからね。ああ「あこがれ」ているなあ、いいなあ、と思った。高くゆく「ふらここ」のあぶなっかしさも、ふくめて。

2017角川俳句賞「落選展」

【俳苑叢刊を読む】 第20回 森川暁水『淀』 どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(後篇) 佐藤文香

【俳苑叢刊を読む】
第20回 森川暁水『淀』

どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(後篇)

佐藤文香


前回の原稿で「また来週」と書いておいて2週間経ってしまった。新宿駅の中央本線(特急)の9・10番線のホームには、何人かの鉄道オタクらしき人がカメラを構えている。我々が乗る特急スーパーあずさ11号は、12/23に運転を開始した新型車両なのだとわかった。友人の香織さんとの日帰り甲府旅行。行きの特急は隣の席がとれず、香織さんが13C、私が14Cの席に座っている。私の隣の30代男性は鉄道オタクらしく、各席についているコンセントの写真まで撮影している。スーパーあずさは時間になると前触れなく走り出し、後ろを向いた香織さんと「なんかにゅるんと走り出したね」と言い合った。私はピンクのリュックの上に『淀』を開く。
『淀』は、昭和十二年の時「八代」に始まる。田鶴の連作19句だ。

  残月のひかりつ呆(ほ)きつ田鶴のそら
  田鶴舞へりつまうしなひしひとつ鶴も
  とぶ田鶴の羽おとす見えて去ぬ日あり

恍惚としたかんじがある。そして、ぽかんとしたことをよく言う人かと思いきや、案外激しい一面もある。

  羽蟻翔つて憤怒のわれに家がなき
       吉凶譜
  優曇華の咲いて鬼畜の極暑來ぬ

こうやって今スマートフォンで書いていると、西村麒麟さんのことを思い出す。(句を写し一言添えるスタイルはスマートフォンぞ得意なりける、いや、そんなことはどうでもいい)

  梨を剝いて晝のむ酒はわびしいぞ

梨と酒はあうけれども、たしかに昼だとつらい。幸薄さがある。

また、これはほかの句集からもわかるが、砂丘に行く人らしい。

  砂丘ゆくわがまばたきに月荒き
  砂丘寒く折れば乳噴く花黄なり

スーパーあずさは砂丘ではなく立川に着く。
昭和十三年。

  風邪わるく誣言に應ふすべもなし

風邪の句からはじまる。第一句集にも「風邪わるく」の句があったが、風邪といったら大概体調が悪いものなので、重言くさいのが滑稽味になっている。

  鳥交る野を喜捨しつつ妻の里へ
  海市消えてただ烏賊そだつ海ありぬ

こう言われるとこの海では烏賊しか育たなそうである。
ここで和布が出てくる。全部で16句ある。

        焙り食ふもの
  和布とはうれひぐさなりまなうみの

この和語のつらなりはよいなぁ。

  和布焙つて目つぶれなばと思ふ日あり
  この和布われがおもひを千々にさせぬ
  焼いて食ふ和布に骨のあるを知りぬ

和布に思いを添わせすぎていてよい。
私は第一句集を『海藻標本』というタイトルにして、池田澄子に見てもらったら、少し海藻の句もあってもいいんじゃない、と言われて、あわてて二句くらい入れたのが懐かしい。父が海苔を炙る句などはそのとき追加したものだ。
なお、この文章のタイトルは「どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ」だが、作品は「若布」ではなく「和布」であった。ご海容ください。

スーパーあずさは八王子に着く。この原稿を依頼してくれた福田若之は八王子に住んでいる。ここまででも少し旅をした気分なのに。若之は新宿に来るたびに旅をしているのか。

  青梅に夏毛の鹿にそらは雨
  おしろいは日に咲きふえて喪正し
  掛稲は黒く月蝕雲のうち

青梅に、の句は好きだ。この電車は青梅駅には行かない。高尾駅を通過。
車内販売が来て、隣の男性は桔梗信玄餅アイスを購入、販売員に「少し溶かしてからお召し上がりください」と言われている。男性、執拗に信玄餅アイスの写真を撮る。

昭和十四年。「醫にかよふ」四句からはじまる。この人は体が弱いのだ。

  花暮れて葬のもどりの数珠を袂

「数珠を袂」がイカす。
隣の男性、掌で信玄餅アイスを包み溶かしてから蓋を開けるが、カチコチのようでまだ食べられない。信玄餅アイスの薄いフィルムの上にスマホを置き、その上に天然水のペットボトルを置いたりしている。ようやくフィルムを開けた。

  船降りるわれらに桔梗りんりんと

桔梗信玄餅アイスだけに。いや関係ない。信玄餅アイスは真ん中に黒蜜が入っているようだ。日差しがきついのでカーテンを閉めてほしいが、男性は外の景色も楽しんでいる様子なので我慢しよう。

昭和十五年。
  寒禽の嘴(はし)のとがりに手嚙ませつ

飛んでいない鳥の句はだいたいいいなと思ってしまう癖がある。
  海苔に酌めば海苔のちりばむ貝おもしろ
  海苔に酌めば海苔も目刺も海の魚(さかな)

見たことがあると思ったら、さきに読んだ第3句集『澪』に

   結婚記念日二句
  海苔に酌めば海苔の塵浮く盃(はい)おもしろ
  海苔に酌めばさらに目刺は青き魚(さかな)

とあって、それを前回の原稿に書いた。微妙に違う。こちらも結婚記念日の句なのだが。

  梅どつとちりくもるとき淵もくもる
  おほみゆきかしこ緑蔭むかひあふ
  けけと鳴く水の蛙に蛇のびたり

大月を通過。冬の山間部といった景色になってきた。常緑樹と落葉樹がまだらに低い山々を構成する。ここで隣の男性は信玄餅アイスを食べ終わり、『淀』もラストの「黴」抜粋の章にさしかかった。

  凍てめしもまたおもしろく食ひにけり

おもしろく食うとはどういう様子だろうか。よっしゃ飯やでー! 凍てメシやけどな! といったような「おもしろく」ではないと思う。心が凍てめしという素材をおもしろいものとして見ているようなことだろう。おもしろく食わねばやってられないようなところも少しあるのだろう。

  冷凍酒旅にしあれば妻ものむ

本来ならこの甲府日帰り旅も、行きの特急から飲み、昼は蕎麦屋で飲み、ふたつのワイナリー見学で試飲し、夜はほうとうと日本酒、の予定だったが、私がヘルペスで腿を腫らし、医者に食べ飲みすぎぬよう言われたのが昨日、酒は最小限に抑えるべきとの考えから、特急では駅で買ったぬるいほうじ茶しか飲んでいない。
妻の句はほかにもたくさんあるのだが、なかなか書き写す気分にならないのは、今日は女二人旅だからということもあるかもしれない。

  おしろいの夕の食事に犬もあり
  葉づき柿かくもとどきぬ誰ぞ來ずや

『淀』は読み終わった。トンネルを多く通る。耳が詰まる。晴れた外に出る。左は盆地である。盆地の向こう側に、八つ橋を並べたように山が連なる。隣の男性は写真を撮る。右のビニルハウスは果樹園であろうか。今は枯れている。住宅地に入り、山梨市駅を通過。もうすぐ甲府である。

第2回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ

第2回 円錐新鋭作品賞作品募集のお知らせ

未発表の俳句作品20句をお送りください(多行作品は10句)。※今年は20句を対象とします。ご注意ください!

締め切り2018年215日(木)

年齢・俳句歴の制限はありません。

受賞作品は「円錐」77号(2018年4月末日刊行予定)に掲載。

選者
澤 好摩
山田耕司
樋口由紀子(川柳作家)

宛先 「円錐編集部」 ensuihaiku@gmail.com 

ホームページ http://ooburoshiki.com/haikuensui/

2018年 新年詠 大募集

2018年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2018年11日(月)0:00~15日(金) 24:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

週刊俳句2017年アンソロジー 61名61句

週刊俳句2017年アンソロジー 
6161


みづかきの昏さにたんぽぽの綿毛  青本瑞季  第524号

外套のボタンの取れし日のニュース  青柳 飛  第508号

虫籠の中の日暮や爪楊枝  生駒大祐  第526号

茅舎忌の天象儀から光の粒  伊藤蕃果  第544号

朝はパン飛んでゐる白鳥を見る  上田信治  第557号

晩春の唾液を溜めるかたつむり  丑丸敬史  第516号

ちぎれそうな月が男の上にあり  上森敦代  第547号

関節の音立てている立葵  岡田耕治  第537号

湯ざめしてキシワダワニとなる背中  岡田由季  第557号

ひよこやめなくてよろしい四畳半  岡村知昭  第511号

あたたかき指もて拾ふ朴落葉  小関菜都子  第508号

引き鶴を仕込みし甕にござりけり  小津夜景  第521号

富有柿対角線の走りけり  小野あらた  第551号

空蟬がゐて被爆樹の添木かな  樫本由貴  第537号

おほさじの砂糖を均す昭和の日  上川拓真  第522号

鶴眠る紅絹の色なる夢を見て  岸本由香  第554号

チューリップにやにや笑う星野源  木田智美  第518号

暖房のゆるく実験控え室  桐木知実  第554号

何度でも切られてままごとの人参  西生ゆかり  第509号

くちびるをたどりて冬の森のなか  西原天気  第557号

文明や野焼を遠くキスをして  坂入菜月  第513号

屑籠に捨て風船やなほも浮く   榮 猿丸  第515号

大きくて軽くて遠足の鞄  阪西敦子  第526号

けさらんぱさらん黒くない外套を着て  佐藤智子  第515号

枯草の隙間を細く氷りけり  佐藤文香  第526号

枯れ草や日差しは白くなる琵琶湖  柴田 健  第553号

船酔ひののこるからだに蝶の影  杉山久子  第526号

あをぞらは花鳥を育て神の留守  鈴木総史  第555号

朝霧は置き傘の柄に及びをり  鈴木陽子  第541号

亜細亜にてマネキン並び黴び始む  関 悦史  第521号

そとうみに澪の失せたる薊かな  瀬名杏香  第520号

おぼろ夜の浴槽ほそながい画集  高橋洋子  第531号

旧暦一月六日
ゆふぎりき たれ を なには の ゆめ で まつ  高山れおな  第526号

廃屋をこはさぬやうに照らす月  滝川直広  第556号

歯科衛生士野村さんとの関係性  瀧村小奈生  第510号

卯の花くたし面会謝絶の兄へ羽音  竹岡一郎  第535号

鶯が浴室うずまきのホテル  田島健一  第514号

天井へとどく棚の書夜の蟬  柘植史子  第538号

家ありて町の始まる落し水  豊永裕美  第541号

空想科学小説おでん煮てくださる  中嶋憲武  第511号

狐から鍵をもらつてゆつくり回す  中村安伸  第509号

栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟  第551号

春雪のやうにペンネームを使ふ  野住朋可  第514号

進めなめくじ芸術はお前のために  野名美咲  第523号

錠剤の刻印文字のおぼろにて  伴場とく子  第517号

去る鯨焚書の火がたわむからむ  福田若之  第557号

鴨川の澄んで何となく平凡  藤井なお子  第548号

うつくしき帯を垂らしてみせ朧  藤本る衣  第512号

篁に蜂あつまりて濃うなりぬ  堀下 翔  第519号

フラメンコスタジオに置かれた兎  松井真吾  第554号

爪を切るあいだ背中にある泉  三宅桃子  第539号

手袋を脱いで握手のあたたかき  村田 篠  第557号

青空の青が剝がれる烏瓜  牟礼 鯨  第545号

鳶色に地球は老いぬ女郎蜘蛛  森澤 程  第543号

陶土あたためる向かひに山眠る  安岡麻佑  第552号

首都おのが光に照りぬ秋の雨  柳元佑太  第542号

黙読のときにほほ笑む夜長かな  矢野公雄  第540号

あたらしい記憶きつと鶫だらう  山岸由佳  第546号

夏痩せの妻と喧嘩や殴らねど  山口優夢  第539号

にんげんに育つて浮いて秋の岸  山田耕司  第526号

臘月の日にあらはれし蚊それから  依光陽子  第526号


(西原天気・謹撰)