『ゴリラ』読書会 11号~15号を読む 〔後篇〕
黒岩■後半よろしくお願いします。時間が押してはいますが、「韻律」について扱いたいと思います。そもそも韻律が話題に上がったのは、この前回の読書会で韻律という語の定義について、また韻律をどれくらい重視するのかについて、それぞれ異なるのではということが見えてきたからです。今回中矢さんが「『ゴリラ』で気になる韻律」ということで、八句をピックアップしてくれているので、中矢さんに思っていることを話していただいて、そこから議論を始めるのはいかがでしょうか。
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photo by Tenki SAIBARA
『ゴリラ』読書会 11号~15号を読む 〔後篇〕
黒岩■後半よろしくお願いします。時間が押してはいますが、「韻律」について扱いたいと思います。そもそも韻律が話題に上がったのは、この前回の読書会で韻律という語の定義について、また韻律をどれくらい重視するのかについて、それぞれ異なるのではということが見えてきたからです。今回中矢さんが「『ゴリラ』で気になる韻律」ということで、八句をピックアップしてくれているので、中矢さんに思っていることを話していただいて、そこから議論を始めるのはいかがでしょうか。
第三回 ゴリラ読書会 十句選
小川楓子選
苔の羊歯の踏み心地なりノーヴェンバー 鶴巻直子
陽がどかんと懐へ仔牛の料理だ 鶴巻直子
乱雑な部屋にぽあーんと私空気 安藤波津子
紫木蓮円周率の自我すっくと 早瀬恵子
ガラスを抜けた小鳥抜け殻がきれい 安藤波津子
夜雨しきり部屋中にぬれた樹木が 猪鼻治男
君も同年なめくじの先の皮膚と肉 谷佳紀
満月や腹透きとおるまで画鋲うつ 早瀬恵子
パチと干すおしめ釈迦より明るいな 在気呂
兎の耳動きはじめて僕が近づく気配 久保田古丹
外山一機選
煙の中白色レグホンひるがえる 鶴巻直子
焼鳥の微光受信の母国語よ 谷佳紀
はればれと尻わかれゆく渚かな 原満三寿
こけし売り泡立つ海を後手に 安藤波津子
とある夜の空気しばしば左折する 荻原久美子
空家に帽子を濡している青空 久保田古丹
メガネ置きひとりのことを消せずいる 山口蛙鬼
石仏と海原いっしょに走り出す 早瀬恵子
青葉木菟遠く縫針行くごとし 在気呂
砂時計の刻絶え影につかまる兎 谷佳紀
中矢温選
緑園にくらげが来ているパラソル 久保田古丹
手のひらの砂ふりつづく家を買う 猪鼻治男
【韻律が気になる】
去年今年ヒロヒトヒロシマ墓地勃起 原満三寿
老人性感情失禁ああああ笑う 原満三寿
魚紋 ながすねひこのかちわたる 多賀芳子
マカロニ並列この夏の空っぽ 鶴巻直子
曇天ヴギウギ蟹も来たり 鶴巻直子
惜しみなく蝶に油の流れ 鶴巻直子
ひんやりと緋の非売品フラミンゴ 鶴巻直子
赤い釘ゆらりと「誰か居ませんか」 在気呂
三世川浩司選
鳥騒やひとりカルタひとり花骨牌 多賀芳子
偏西風にのって肉桂を嚙んで 中北綾子
遊女に夕陽は異教のブランコ 久保田古丹
白菖蒲あなたが咲いている九月の闇 久保田古丹
冬恍と河馬の脊中に縫目なし 鶴巻直子
走りすぎタイムトンネルの美のおかあさん 谷佳紀
夜はしずくで昼は椿に溶ける骨 谷佳紀
皿運ばれてゆく晩秋という部屋 久保田古丹
瓶に詰められた寒灯鳩の愛語 久保田古丹
マルコポーロの足踏何ぞ梨透けて 兼近久子
横井来季選
カナダの便りコスモスはくもる水 多賀芳子
砂漠立つ胃の腑のような映画館 多賀芳子
隣室に亡父がたまる弥生尽 多賀芳子
電球消して天体めく部屋のさすらい 山口蛙鬼
卵割る刹那北半球赤し 鶴巻直子
乱雑な部屋にぽあーんと私空気 安藤波津子
水匂う 見渡す限り積木の部屋 萩原久美子
笑顔ではないのだ蘭の花で埋めるな 多賀芳子
ピアノすでに脱水症状 怒ったよ 鶴巻直子
おとぎ話の左手は優しいはずだ 萩原久美子
小川楓子選
芭蕉忌や遊んで遊び足りないと思う
鯉が笑えば比良山系も俺もゆらり
粒もかんぴょうもひかりの穴だ鑑真
春なれや一村ぶらんとして春なり
白盲の海よ一私人として泡か
外山一機選
スカート巨大ならば南無三落下の鴉
突然に春のうずらと思いけり
みんな化粧の烏に迎えられ恐わし
榛の木へ止れ蝗よ暗いから
春なれや一村ぶらんとして水なり
中矢温選
鱧の皮提げて祭の中なりけり
大釜の水張って国ありというか
あるぷす溢れだして老人は花とよ
1749799の銃番号は肺である
白盲の海よ一私人として泡か
三世川浩司選
へんぽんと植物と毛のたのしさ
芭蕉忌や遊んで遊びたりないと思う
鯉が笑えば比良山系も俺もゆらり
粒もかんぴょうもひかりの穴だ鑑真
白盲の海よ一私人として泡か
横井来季選
草の中の浅蜊芽ぶくも春の皺
あるぷす溢れだして老人は花とよ
ほしや純粋喉から雨が降るように
暗くなるまでまてない少女は苔科
ハチュウルイであつただろう鳥の泡たち
宿題 シーツみたいな海だな鳥たちは死んでしまった、四ツ谷龍『セレクション俳人 四ツ谷龍集』
この目でおがむ 毛呂篤の本いろいろ
西原天気
いま私が持っている毛呂篤句集は4冊。
悪尉 昭和50年 端溪社 限定200部のうち第92番
灰毒散 昭和52年 端溪社 限定部100部のうち第93番
白飛脚 昭和54年 季節社 限定222部のうち第81番
俳白 昭和57年 季節社 限定300部のうち第207番
まず、『悪尉』。
函が頑丈。象が踏んでも毀れないのでは?と思うほど頑丈。
見返しは、真っ赤な腰巻きみたいな赤。化粧トビラが重厚。
序文は金子兜太。
栞も重厚な意匠。栞文は、堀葦男ほか。
次は、『灰毒散』。
頑丈な函に、商標を模した意匠で書名が入る。
曰く、
<効能>俳熱冷し・句癰・其の他諸毒降し
<用法>毎觸後さゆにて服用・注類似品
にしても、この句集名、灰毒散は、インパクト、あるなあ。
本体は表紙の四隅と背表紙に皮革を使い、重厚。
どの本にも言えることだが、函も本体もがっちり硬く頑丈な造り、にもかかわらず、本体の出し入れがスムーズ。びっちびっちでなかなか出てこなかったり、逆にゆるゆるだったり、と、ここは難しい造作なのだが、毛呂篤の本は、名工が誂えた抽斗のように、函と本体の関係が良い。職人さんがていねいに造本しているのかも。
本文は、1ページ一句。毛呂篤の句集は、基本、こう。
太い明朝体で、紙のどまんなかに、ずどんと一句、収まる。
なにかで、毛呂篤は、句を捨てない、と読んだ(本人の弁)。多作多捨の逆。毛呂篤という作者と一句一句が濃厚な関係。句への(愛息・愛娘のような)溺愛。1ページに二句以上を収めるなんて、とうていできないのだろう。
奥付の意匠。これには、シビれる。
『白飛脚』は、クロス張りの帙(ちつ)と本体。栞2部を挟み込み、ここで紹介する他3冊とは、趣が異なる。
和モノのカラーリングが、渋い。
一句一句が、ここまでていねいに晴れ着を着させてもらっている。どの句も幸せにちがいない。
『俳白』は、本体、革装。赤と黒のトーンが、たまらない。
書籍への物質的な愛情(フェティシズム)で所有するなら、この一冊、かもしれない。美しいとしか言いようのない本。
蔵書票(エクスリブリス)を気取った銅版画一葉を挟み込む。
んんん、ぜいたく。かつ、おしゃれ。
トビラ。書名2文字のライトグリーンが、映えまくっております。
本文組版は、さらに重厚に。
紙質をお伝えできないのが残念でなりません。触れるたび、めくるたび、指の腹が、うっとりとなります。
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というわけで、毛呂篤の本4冊を紹介してまいりました。微妙な色合いや質感は、ここに並べた写真では伝わりきらないと思います。
ご興味のある方は、ぜひ手に取ってみてはいかがでしょう。本って、こんなに美しいものなのかと思われるにちがいありません。古書で、安くはないでしょうが、法外な値段でもなく入手できるはずです。
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その他もろもろ毛呂篤
西原天気
祖母と母の浮名ぼろぼろその古墳 毛呂篤(以下同)
話のはじめなど、なんだっていいのだ。「何処より来たりしか」といった大いに物語的な問いにはじまってもいいし、そうでなくともよい。ある男には、母があり、祖母があり、その意味で、私たちとは、ひとり残らず、≪母≫より来たる者であって、そして、最後は灰になる。あるいは塵となる。
川のある地階七〇年のスラム
毛呂篤という俳人は、尼崎に住んだ。少し行けば淀川の、その河口近くは、スラムと呼んでいいかどうかは知らないが、あまり上品な土地柄ではない。
ここらですでに京都府だろう獨活すかんぽ
淀川を越え、大阪を過ぎって北へ。京都府はすぐだ。国鉄(いまのJR)、阪急電車、京阪電車、あるいは道路。
隠密韋駄天峠の蛭は眼を盗られ
いや、街道を歩いて、国境いを越えていく。蛭に眼があるのかないのか。盗まれたから眼がないのか。隠密などという数百年前の事物も、毛呂篤の句には居心地よく収まり、時機を見て大暴れする。
いろは歌留多のおわり都の天から金ン
キン。
テンション高いなあ。キンの二音で、読んでる僕らの体温も脈拍も、くくんっ、と上がる。
ちなみに、いろは歌留多の終わりは「す」ではなく「京」。「犬も歩けば棒に当たる」ではじまる江戸式なら「京の夢大阪の夢」で終わる。
京に水あり悉皆屋ありその名「もんや」
「そこ」に連れていってくれるのが俳句。
松は一月そして繪金の鯉ほしや
そして、ここにも金色がある。
金色は、上がる。アッパー系。いわゆるアゲアゲだ。
つぎからつぎから白いビルから鯛とびだす
さて、と、毛呂篤の句は、黄金の国ジパング時代の日本だけが舞台ではない。20世紀。
鯛も、上がる。白いビルからとなると、よけいだ。
黄道吉日とかやさざなみは鯛
うん、鯛は、否応なくアッパー系。
堀川の猿の甚平の銀行員
同じく20世紀。
花札を揃える娼婦は晝のコンクリート
昭和の日本。
誰れの人形だろう時雨の基地の角
戦後の日本。
漁港ですぼつぼつみんな晝寝でしょう
田舎もあるぞ、と。
夕立や有為轉變のところてん
なかなか調子がいい。
これはこれはどうもどうもの落花落花
繰り返し三連発。
同慶のいたりへちまと胡瓜に雨
はい、どうもどうも。
朝ぐものひらり單衣のひとりもん
舐めた口をきくと思ったら、ひとりもんなのだ。
あいつと夫婦(めおと)になるぞらっきょう畑全開
ほうほう。結婚?
しかし、どんだけ嬉しいのか、この人は。結婚が。
らっきょう男がこちらへポスターはハワイ
全開のらっきょう畑を、らっきょう男がやってくる。新婚旅行はハワイで決まり。
スカート巨大ならば南無三落下の鴉
空が一枚のスカートならば。
箱男らしきや澁谷百丁目
箱男もいるぞ、と。
むかし箱男あり三様の赤眼玉
否、箱男もいたぞ、と。
生姜男の朝寝へ朝の日の余滴
生姜男もいるぞ、と。
アルミ人間の発毛バクテリヤを殖し
アルミ人間もいるぞ、と。
才覚であらん阿礼ー助けてー
いや、あの、「阿礼ー」て。
春の橋からこれほどの景あるかハアー
「ハアー」て。
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毛呂篤は、もうこの世にいない。大正生まれ。親交のあった金子兜太よりも、たしか年上。もっと詳しく知りたい人は調べてください。
●
さて、と。また句に戻る。
天に塔あり老鶯を白と決め
白。
白道や侠客に似て枯かまきり
白。
白色峠で白い飛脚とすれちがう
白。
猿楽と申すは白の夜(よる)なりけり
白。
マシマロに梯子左官屋の昇天
なんだか、白っぽい。
晴天へ喝采ああセールスマン的な
的な。
しんきろう的な高松市横状
的な。
俳諧に殺され霧と猫的な奴と
的な。
えあーぽけっと的な欒から朝日
的な。
ぼあァんとアラビヤそして妃がもうひとり
「ぼあァんと」て。
ミュウジックへ溶ける夕鳥のそれは
音楽ではない。ミュージックではない。ミュウジック。
惡場所が火事ニューミュウジックを買おう
2800円ほど。
松や松や凹凸組の大うたげ
大騒ぎである。
白鳥と鯉トーストいちまいの亂調
同じく、大騒ぎである。
召しませ鰻と花と三角地帯は雨
テンション、高い。まあ、だいたいの句がテンション、高い。
ことほどに左様ロレンスはつばき
けれども、声がでかい、というわけでもない。
ほしや純粋喉から雨が降るように
ときにポエティック。
卵黄というあけぼののあなたかな
ときにゆったりと。
開口やすっぽんにして花の欠伸
のんびりと。
福助のあいかさなりてQの意識
なんだか文学的?
先ずは馬の頭あり蚊柱の直情
スピーディーだ。
大牛が三角法で来た並んだ
牛のスピード。
卒塔婆へ雪とんできて大雪
雪のスピード。
僧兵無情消えてしまえば美の鳥鳥
ともかくスピード。
伊勢走る大変春の人と馬鹿と
走れ。走れ。
石あって新鮮うぐいすは近い
もうすぐだ。
蜩が吹かれる今日だもう来るな
え?
五月惨惨たり鶯の顔が五つ
鶯が、いきいきと。
澤蟹の器器楽楽の自閉症
サワガニの内面。
草淵というか百足の炎えている
ムカデの風景。
楽章「3」のこおろぎ芋豊作
音楽もこおろぎも芋も、総じて元気。
なまずのようないもりのような腹上深夜
どっちやねん?という。
菜の花が一番である・寝たか
いいえ、まだ。
銀百貫で遊ぶそのついでに伊勢も
つまり、遊べ、と?
雁かえる九月三十三日の夕方
その他もろもろ。
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某日。某大型書店の詩歌コーナーに西村麒麟氏を見つけた私は声をかけた。「おお!」と、おそれおののくようなリアクションを見せた麒麟氏。二、三度しかお目にかかっていないが、私のことがわかったらしい。しばし歓談。
実は、毛呂篤のことを週俳誌面で紹介したいのだが、どうも「麒麟スタイル」になってしまいそうだと打ち明ける。
「問題ないっすよ」
と麒麟氏からは許諾をいただいたが、句に短いコメントをつけて、どんどん紹介していくというスタイルは真似てみたものの、感じや雰囲気はまるで違うものになった。そりゃそうだ。書き手が違えば、書くことは違ってくる。
じつは、タイトルが先。これも麒麟スタイルの重要なところ。
例:もつと、モジロウ
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/10/blog-post_17.html
もんでもみやま梓月かな
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html
(シリーズ)ホントキリン(spica)
http://spica819.main.jp/kirinnoheya/kirinnoheya-hon
そこも真似てみたが、悲しいかな、オヤジ臭ぷんぷんの「その他もろもろ毛呂篤」となってしまった。
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毛呂篤という俳人は、大畑等さんの記事で知った。多大なる感謝。
大畑さんの毛呂篤は、ウェブで読める。
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/hatabow/kesamohaikukaa%20moro%20atushi.html
こちらもぜひ。
私みたいにいいかげんな書き方ではなく、きちんと毛呂篤を扱っていらっしゃる。
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ひとつ、当たり前すぎることを言っておくと、毛呂篤の句の大きな魅力のひとつは、韻律というか、リズムというか、調べというか、そうした音楽的な要素だ。しっかりとした音楽に、イメージの跳梁跋扈が乗っかっている。ひとなつっこい口調が、悦ばしくこちらに伝わってくるのも、その土台にある音楽の豊かさのせいだ。
俳句は、まず、調べである。音楽である。
調べのない五七五定型も、調べのない非定型・破調も、私には魅力がない。ただ、意味を、あるいは非=意味を「伝え」ようとする短文に過ぎない。逆に言えば、調べがありさえすれば、それでいい。満足なのだ。
毛呂篤の俳句。ああ、なんと音楽的な!
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毛呂篤という「作者」(詠い手)は、その俳句の中で息づいている。毛呂篤とう存在自体がドラマのように、私には映る。この人が句の中で何をするのか、何を言うのか、目が離せない。これは「ブンガク」とは、ちょっと違う。毛呂篤という人のアクチュアリティが、一句一句のアクチュアリティが、そのまま、音と映像になって、私たちを直撃する感じだ。総天然色、ワイドスクリーン、ドルビー。
これは、読むというのではない。私たちは毛呂篤を「浴びる」のだ。
ま、そんなわけですから、機会があれば、たくさん読んでみてください。毛呂篤を。
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≫100句ほど毛呂篤の詰め合わせ
≫この目でおがむ 毛呂篤の本いろいろ
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Posted by wh at 0:08 0 comments