【2024年週俳のオススメ記事 7-9月】
その感情
村田 篠
7-9月は、下記の10句作品をいただきました。
第898号 喪字男 「ごはんやで」
〈生前は金魚が世話になりました〉
第900号 山中広海 「本に紙魚」
〈海を見に行けずきらきら本に紙魚〉
第903号 有瀬こうこ 「古語」
〈青嵐の絹を孕んでゐる棺〉
第904号 若杉朋哉 「八月後半」
〈親戚にまじりて一人盆休み〉
第907号 村上瑠璃甫 「ままこのしりぬぐひ」
〈なにかもの言ひだしさうな真葛原〉
第909号 マブソン青眼 「火焔土器に蛍(五七三)」
〈飛び立てば火焔型なり鵠〉
「師・金子兜太にささぐ」と前書のある連作です。
第902号には弊誌上田信治による不定期連載の「成分表93」。テーマは「感謝」でした。
なぜ人は、その感情を、相手に見せなければならないのだろう。
人は、そこに世界に対する「贈与」と、そのようなことを可能にする根源的な「好意」(善性と言ってもいい)の存在を認めて、それに対する返礼を感謝という様式で示したのだ。
レジの人に「ありがとう」を言う人は、人がするサービスの全てが、その同じ善性の分かち合いであると、どこかで分かっている。
第903号と第910号には、詩人の小笠原鳥類さんからご寄稿いただきました。
第903号の「聴いて、ミツクリザメを思い出していました」は、CD『湯浅譲二 作品集』(Camerata)の「箏歌、芭蕉五句」(1978)を聴いて書かれた作品。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
木、というものが、塗られているのであれば、そこには板が、ありました料理は、魚のようなものだ。乾燥……している……魚を……油と……絵の具で(絵の具で)絵の具で、タオルのように、踊っている(大きなウミウシの一種なのだろう)布ぬの布ぬの(ぬのぬの、と繰り返しているだろう)・版画が、遊んでいる。公園を、いつまでも(迷って)キジバトのように歩いていただろうアオバト、アオサギ。そこには宇宙から来た人たちと、別の人たちがいた、ここは宇宙ではないんだとエビのような生きものは、金属を楽しみながら、言っている象、象を思い出していた
また第910号の「鯨頭鸛は、ハシビロコウで、あるのだろう」は、榎本櫻湖『Hanakoganei Counterpoint』(七月堂、2024)の中の、「鳥がいるところ」に付された言葉からなる作品です。
同じく第910号には、【俳人インタビュー】として「阪西敦子さんへの10の質問」を掲載。阪西さんは、今年の3月に第一句集『金魚』を上梓されました。
最後に、弊誌西原天気によって書かれた【句集を読む】と、読まれた句集をご紹介します。
「船出のただ中に 足立枝里『春の雲』の一句」(第901号)、「ちょっと一服 田口武『煙草』を呑む」(第908号)、「コーヒーにミルク 蜂谷一人『四神』の一句」(第909号)、「たっぷりとひとり 瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その1」(第909号)「事件性の有無 瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その2」(第910号、以下「その7」まで連載)、「土地との親和 佐藤文香『こゑは消えるのに』の一句」(第910号)。
形態的な特徴を言えば、切字がない。「よ」は出てきますが、切字というより呼びかけの「よ」。季語を内容に取り合わせる句はそこそこあるが、二物衝撃的ではない。すらっと、いわゆる平句な感じが大勢を占める。
考えてみれば、私(たち)は、そこそこの気持ちよさや、そこそこの驚きを、日々享受しながら暮らしている。その「そこそこ」さは、切字や鮮烈な切れ、巨大な詩的飛躍とは、無縁なのでしょう。
しつかりと見ておく非売品の雛 田口武
(「ちょっと一服 田口武『煙草』を呑む」より)
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