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2024-06-16

柘植史子【週俳5月の俳句を読む】度肝を抜かれる

【週俳5月の俳句を読む】
度肝を抜かれる

柘植史子


傘いつか骨となりにし雛の間  加藤右馬

なるほど、と思い読み下していくと「雛の間」が登場。あわててもう一度前に戻り、そうか、雛の調度のことか、と思い直す。

調べると、仕丁(外出時の従者のこと)の持ち物に「台笠」と「立笠」があるという。そういえば3人の従者がそれぞれ何かを持っていた。長い方の台笠が現代で言う日傘、もう一つの立笠が同じく雨傘であるとあった。そしてもう一人の従者は脱いだ履物を置く台を持っているのだ。

そうか、雛道具の傘も時を経て骨だけになってしまったのか……そう思いながらも「傘」と「雛の間」との繋がり具合の微妙さが私の脳内に奇異な情景を描き出す。骨だけとなった雨傘で雛の間がいっぱいになっていく、ちょっとシュールな画がいつまでも頭から離れない。


花樗くちに口笛透けるまで  楠本奇蹄

昔は口笛が割合しっかりした音で吹けたのに、今では鴬の声に応えてホーホケキョと吹こうとしても、空気が漏れて頼りない音しか出せなくなってしまった。口の周りの筋肉が衰えたのだろうか。

「くちに口笛が透ける」という感覚は口笛を響かせたときの実感で、「透ける」の措辞が、口笛が繰り出す音の透明感を脳裏に蘇らせてくれる。

「くち」と「口笛」を畳みかけるレトリックが、口笛は人体のパーツである「口」を楽器として奏でるものであることに思い至らせる。

端正な紫色の樗の花と清澄な響きの口笛。床しい取り合わせである。


髪が減る新樹のまへをとほるたび  鈴木総史

打ち出しの五音にまず度肝を抜かれる。そしてああそうだった、何をどう言ってもいいのだ、詠むのも読むのもその人の自由なのだという、先ず以て当然のことを再認識する。
新樹の圧倒的な瑞々しさに気押されての「髪が減る」であろう。たとえば、囀りの真下を通るとき、私は自分のおでこが広くなる感覚に襲われることがある。眉間も心持ち広がるような感覚だ。新樹にしろ囀りにしろ、それに対するこちらの意識がとても先鋭的に働いているときに生じる反応である。おでこと囀りの句はまだ詠めていないので、先を越された、とちょっと思う。

「新樹の下」ではなく「まへ」であるところに、新樹と向き合う作者の眩しいほどの矜持を感じた。


五月闇釘のまはりに槌の跡  野城知里

これは確かに見たことのある景だ。DIYでトンカチを使うとき、手元が狂って釘を打ち損じることはままある。たまに釘を押さえている指も打たれることだってある。掲句の槌の跡は恐らく一つだけではないだろう。

「跡」とそっけなく言い切ることで、読み手にさまざまなことを想像させる。自分で作った槌の跡を自分で詠んだのかもしれないけれど、この句を支配するどこか他人事のような空気は見逃せない。作者と事象との距離感がこの句を屹立させている。季語の「五月闇」が確かに働いているのだ。

梅雨時の、湿度を含んだ暗がりが句に奥行をもたらしている。


白瓜のしろの平気の平左かな  上田信治

「平気の平左」という言い回しを久しぶりに目にした、というか、そもそもこのフレーズを今までの人生で使ったことがない。正確(?)には、「平気の平左衛門」で、「平気孫左衛門」というのもあるらしい。孫左衛門は初耳である。

「白瓜」の柔和で泰然としたフォルムに周囲を圧する存在感がある。そしてそれに刃を入れた時に現れる白の夢見るような風合。それはこれから奈良漬をはじめ、さまざまな漬物に変身していく、その原初の「しろ」である。

●●○○の●●の・・・という反復は一つのパターンであるが、その類型の枠を白瓜が平気の平左でぶち壊した。一読でもう忘れられない句となった。


加藤右馬 アラベスク 10句 ≫読む  第889号

楠本奇蹄 白髪 10句 ≫読む  第890号

鈴木総史 汀と呼ぶ 10句 ≫読む   第891号
野城知里 槌の跡 10句 ≫読む

上田信治 平気 10句 ≫読む  第892号

2022-02-06

柘植史子【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】 くっきりとした輪郭

 【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】

くっきりとした輪郭

柘植史子


流れ星左右の耳に音 いまも     花島照子
ゆうぐれの焚火へ溜息のやわらか   

十句のなかにタイトルの「フェルマータ」という言葉を含む句はない。が、「音符や休符を程よく伸ばすこと」を意味するこの音楽記号が連想させるゆったりとした雰囲気は、身の回りへ静かな眼差しを向けて詠まれた全句にわたり煙のように漂っている。

一句目に注目したのは、流れ星を目にした一瞬の視覚的感動が音として感受され詠み留められている点である。夜空を走った星の「音」はまだいまも作者の両耳に留まっている。「音」の後ろに置かれたポーズはその音自体の余韻であると同時に、時空の広がりも感じさせる。

二句目の「やわらか」にはゆっくりと流れる時間の手触りがある。溜息は失望や心配を背景にすることが多いが、ここには深い充足感がうかがえる。身近に焚火を見ることは今ほとんどなくなったが、あの炎には人を惹き付ける不思議な力がある。日が落ちてからの焚火は人を内省的にさせる。


麦の芽を何度も風のやりなほす    田邊大学
がくがくと冬蝶の飛ぶ日暮かな

「やりなほす」という表現に何やらひたむきな実直さを思う。しかも「何度も」である。一方、冬の寒さの中、土を破って出てくる麦の芽の青さには、目にするだけで気分の浮き立つような逞しさがある。芽は伸びていくのが仕事であるのに対し、風は吹き当てるのが仕事。寒風に耐える健気な麦の芽を風の視点から捉え直して詠んだところが出色。読んだあとにどことなく充実感が残る句である。

二句目の冬蝶の飛び方は「がくがくと」という不穏な擬音が独自であり的確だ。もう死が近いのだろうか、ちょうど止まりそうな独楽が跛行気味に回転するように、断末魔の印象がある。日暮のもの淋しさとも相俟って哀れさを催すと同時に、蝶の最後の誇りというものをも感じさせる。生き物の矜持のこもった「がくがく」である。


冬の月旅に少しの化粧品       岡田由季
茶の咲いて文学館の混む日なし

言葉にすることでものごとにくっきりとした輪郭が生まれ、何でもない情景や今まで自覚されずにいたことが急に鮮明に見え始めることがある。それは私の場合、俳句を詠むときよりもむしろ読むときに多く自覚されるようだ。十句を読み、しみじみとした肯定感が滲み出してくるのを感じた。

一句目。ここを詠むか、とまず着眼の斬新さに驚く。これまで何回となく旅支度をしてきたがここを詠めずにいた迂闊さを思う。確かにそうなのだ。化粧グッズのコンパクト化は旅の必須条件である。生活実感であるのに俗からは遠い。化粧品という具体性が詩を呼び起こしているからだ。

二句目に登場する文学館はこれまで訪うたびに混みあった経験のない場所なのだろう。特別なことのない日の、これまたどうということもない地味な茶の花。けれどこの花はいったん知ってしまうと見かけるたびにそのなにげなさゆえにはっとさせられる。あの白い花弁と金色の蘂、そして葉の濃い緑を思いがけず目にすると、今日はもうこれでいいかな、と思えてくる。


無理やりにNEW蒲鉾の背はピンク      佐藤智子
淑気とは乾燥 ワイシャツ白すぎる

捉えどころのない切迫感、漠然とした焦燥感が投げ出すような言葉のリズムや寒々しさを醸し出す語彙から立ち上がってくる。真実を見極めようとする時に派生する身も蓋もなさが痛々しくも心に響く。

タイトル句である一句目にはNEWと蒲鉾から新年の雰囲気がある。だが作者は無邪気に新年を言祝ぐのではなく、新しい年のあたらしさに噓くさい不自然さを察知する。祝い膳の紅白蒲鉾は実はピンクと白であることはその茶番の証拠である。ピンクのチープさが際立っている。

新年のめでたさ、荘厳さを表す「淑気」も、冷徹な目には単なる乾燥のことと思える。この淑気=乾燥という把握には、しかし説得力がありはしないか。じめじめ感がまったくないということをめでたいとする感覚には共感を覚える。世間のおおかたを敵に回しても自分の感性を信じる一途さがザックリとした文体と相俟ってかもしだす切実さに胸を打たれた。


眠らむとして動くはらわた霜の声       大室ゆらぎ
冬の日を集め眉間を燃え立たす

体感する寒さだけでなく心理的な寒さをも含めたあらゆる寒さを集めた十句に心底寒くなった。なかでも一句目の臓器を介しての極度の寒さに実感がある。起きている間、長時間にわたり直立していた腸は寝る段になってようやく横に伸べられる。自分の大腸を意識するのは案外布団に横になったときかもしれない。眠りにつく自分と自分のはらわたはまさに一心同体。しんしんと音のしそうな寒い霜の夜にはことさらそんな一体感が胸に迫る。
二句目には習字で書いた墨の文字に虫眼鏡で日を集めて燃やした子どものころの思い出がよみがえった。この句では燃えるのは眉間なのであるが、じっと凝視しているうちに、視線の先にある物と眉間とがいつの間にか同一化していくような錯覚に陥ることがある。集めて燃え立たす、という行為がなにか象徴的な意味を持つようで、作者の強い意志のようなものを感じさせる印象的な句である。


ポインセチア付箋はづして本戻す      野崎海芋
待春やマリンバに打つ三連符

用済みとなった付箋を本から外すとき、たしかに心が動くように感じる。時を遡って、その付箋を貼った時点での自分を思い起し、なおかつその時の想いもろとも付箋を残らず剥がすのだ。一連の何気ない動作であるが、過去を消去することには微かな淋しさがある。ポインセチアの赤はそんな心の動きを照らす赤。初期化することにより、その同じ本とまた新しく出会うことも可能になるのである。
二句目では待春という季語が所を得て生き生きしている。二分音符、四分音符など二等分をした場合にくらべて三等分された音は印象をがらりと変える。三連符の突破力には格別のものがあって曲の様相が大きく変わるのだ。マリンバの妙なる余韻が三連符の快活な音色に加わり、春を待つ心がますます浮き立ってくる。




第761号 2021年11月21日 花島照子 フェルマータ 10句 ≫読む

第764号 2021年12月12日 田邉大学 優しい人 10句  ≫読む 

第765号 2021年12月19日 岡田由季 宴 10句 ≫読む

第769号 2022年1月16日 佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む 

第770号 2022年1月23日 大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む 

第771号 2022年1月30日 野崎海芋 三連符 10句 ≫読む 

2021-11-14

柘植史子【週俳7月9月10月の俳句を読む】ホイホイと 

【週俳7月9月10月の俳句を読む】
ホイホイと

柘植史子


生きかたが尻とりの彼氏  湊 圭伍

長く生きてきたが「尻とりの(ような)生きかた」というものについて考えてみたことがなかった。「生きかた」というふわっとした概念と、言葉遊びのひとつである「尻とり」とは普通は結びつかない。

周囲の反応に左右されて行動するタイプなのだろう。しかも、尻とりという遊戯の連続性を考えると、この彼氏は何につけても自分の本意ではなく、他人の言動を指針としている男と想像する。

そんな彼氏に作者は歯がゆさを感じているのだろうか。「生き方が尻とり」と、「ような」抜きのコンパクトな表現に、「彼氏」への批判より寧ろそんな生き方を面白がって客観的に見ている傍観者の立ち位置を感じた。

ホイホイと一面に載るG7  湊 圭伍

昨年から今年にかけて、日本産のごきぶりの新種が3種も発見されたとのニュースに接した。「ホイホイ」からはどうしてもあのゴキブリ駆除商品を連想してしまう。GはゴキブリのGで、餌に釣られてあの紙の家にホイホイと進入し接着面から動けずにいる七匹のGたちの姿が脳内に浮かぶ。

実際、議場ではどんなに激しい意見の応酬が展開されようと、新聞の一面に載るのはにこやかな笑顔を浮かべたメンバーたちの写真である。政治が世界へ発するメッセージにはいったいどれほどの真実があるのだろう。「ホイホイ」の胡散臭さには作者の強烈な皮肉が込められている。

くらい日の水に日のゆれ半夏生  上田信治

一読で気が滅入るような気分にさせる力を持った句である。まず、「くらい日」のひらがな表記に得体の知れぬ不気味さがある。二つ目の「日」は水に映る太陽の「日」であるが、このふたつの「日」をさりげなく並べて置くことで、名状しがたい不吉さが一句の表面に浮上する。

この不穏な空気は「半夏生」に拠るものである。俳句は短いから一目で全部が目に入る。「半夏生」という言葉が、最後に置かれているにもかかわらず最初から読み手を支配するのだ。物忌みの日の鬱陶しさが一句を循環している。

犬はけだもの苦瓜の種赤くあり  上田信治

むかし、子供の私に祖母が言った言葉を思い出した。飼っていた犬を可愛がり、じゃれ合っていたとき、それを見ていた祖母が私にこう言い放ったのだ。「かわいいねぇ。でもみこちゃん(私のこと)、所詮は犬畜生だからね」と。

いつ気が変わるかもわからないから用心しなければいけないよ、というもっともな助言だが、その時の私には衝撃的な言葉で、思い切り引いた。

苦瓜は完熟すると表面が黄色に変わるだけでなく、種の色も鮮やかな赤になる。身も蓋もない正論が苦瓜の種の赤をひときわ際立たせる。

人は自分を奏でて秋のコップかな  上田信治

虫は鳴くことで縄張り争いをし、メスを呼び寄せて子孫繁栄を実現する。思えば人間とて同じようなものである。人もそれぞれの考えをめぐらせながら自分を主張して生きている。持って生まれたものを駆使して、ひとりひとり死ぬまでの持ち時間を演奏しているようなものである。と、ちょっと大仰な鑑賞をしてみた。ともすれば説教臭くなりそうなところを、「秋のコップ」のカジュアルな物質感がさりげなく救っている。

ベランダがペリカンに似て秋の空  上田信治

ペリカンの特徴はなんといってもあの「のど袋」であろう。彼らはこれを網として使い、群れで協力して魚群を囲い込むのである。長いくちばしの下にたるんだこの大きな袋とペリカン本体との関係は、ちょうど家の端から外側に張り出したベランダと家屋との関係に似ていなくもない。

視覚的に腑に落ちる相似関係だが、言われなければ誰も気付かない発見である。高く澄んだ秋空がこの奇想天外な発見を導いてくれたに違いない。

ちなみに、のど袋にはエアコン機能もあるそうだ。夏の暑い時期に彼らはのど袋を盛んに揺らし、そこに通っている血管を流れる血液の温度を下げ、体全体の温度を下げているという。のど袋はペリカンのベランダでもある。

配線をこぼして秋の兜虫  恩田富太

日本の兜虫は基本的に越冬できず、夏に生まれ秋には死んでしまうという。成虫としての生涯は3カ月ほどらしい。この句の兜虫は作者の生活圏内で飼われているのだろう。角(オスであれば)でも引っかかったのだろうか。室内の配線コードをめちゃめちゃにしてしまったようである。

粗忽な兜虫の姿に間もなく終末を迎えるあわれさが一層色濃く浮きあがる。

鶏頭の何であらうと怒らない  恩田富太

鶏冠に似ていることからその名のついた鶏頭は、はっきり言って花には見えない。濃厚な花の色といい、花びらとは言い難いうねうねと連なる特殊な形(脳のようでもあり拳のようでもある)といい、香りは?といわれてもイメージの湧かないこの花は、花よりも寧ろ人間臭いと思う。鶏頭には人間の存在感に近いものがある。

がしかし、ここにそんな鶏頭にひたすら傾倒している人がいる。脳みそと言われようと、げんこつと言われようと、なんのその。鶏頭への愛は怒りを超越し、揺らぐことがないのだ。と、ここまで書いて、怒り心頭に発する、といった場合に「鶏冠に来た!」という表現がかつてあったことを思い出した。

ウエハースに鉄カルシウム小鳥来る  本多遊子

そう言えばウエハースをずっと食べていない。最後に食べたのはコロナ以前、ランチのデザートのアイスクリームに添えられていたウエハースだったろうか。各種クリームなどを挟んだものもあるけれど、このお菓子はみんなに日常的に食べられているとは思えない。それに、ウエハスではなくウエハースと辞書にもあるのに、ずっとウエハスと言っていたことにも少しうろたえる。どう見ても実の感じられない、儚げなウエハースに実は鉄分とカルシウムが含まれていることを、きっと多くの人は知っているのだろう。

遠くから長い旅をして飛んできた小鳥が元気そうに枝を飛び回っている。長期間の飛翔にも耐えうる、軽くて強い鳥の骨格にもふと思いが至った。

迷つたら人にすぐ訊く牛膝  本多遊子

季語からの連想で、道に迷ったときの対処法と読んだ。そんな時、私も人がいればすぐ訊く、作者と同タイプである。でも世の中にはいろいろな人がいて、そこに地元の人が立っていても、知らない人には断固として道を訊かない人間もいる。人に頼らず地図だけを手に目的地に到達する達成感には格別なものがあるのだろう。その満足感を多分一生知らぬまま、手近の人に訊きまくる。

だが一つ注意したいのは、ちゃんと知っている人(知っていそうに見える人)に訊くこと。そこを外すと、訊いた相手と一緒に困り果てることになる。
牛膝をたくさん付けて野山を歩きたくなった。


第741号 2021年7月4日 湊圭伍 あまがみ草紙 10句 ≫読む

第752号 2021年9月19日 上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む 

第756号 2021年10月17日 恩田富太 コンセント 10句 ≫読む

第757号 2021年10月24日 本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む

2020-12-13

【週俳11月の俳句を読む】ほっとする 柘植史子

【週俳11月の俳句を読む】
ほっとする

柘植史子


連禱の如く冬星座をわたる  田中目八

冴え冴えとした冬の夜空に光る星は大気が澄んでいる分、輝きが鋭い。張り詰めた空気のなか、星の瞬きから祈りを連想した「連の如く」という直喩は胸にすとんと落ちる。星々が瞬き合う様子は人々が交互に祈りを交わす連禱の情景を確かに連想させる。主語の明示されていない「わたる」が時空の広がりを現出させ、天空の大聖堂から寒気を貫く祈りの声も聞こえてきそうだ。


氷瀑は異なる知性を記しけり  同上

凍滝に知性を感得するというのだ。想像を超えた文脈から突然飛んできたような言葉が読み手に説明を拒みつつ、毅然と立っている。だが、氷結することで厳冬をやり過ごそうとする滝、と考えてみればそこには確かに「滝の知性」があるのかもしれない。「記す」という措辞も凍滝の硬質な肌触りを鮮明に想像させ、氷瀑へ憑依した詠みには納得がいく。
それにしても、タイトルの「青」とは何だろう。作者の希求するものの象徴であって、「岸辺」とは反対のベクトルを持つイメージなのだろうか。或いはもっとシンプルに、「私」から「青」への呼びかけであるかもしれない。強いメッセージ性を感じさせる句群である。

吟味された言葉同士がぶつかり合い醸し出される独自な世界に作者の実験工房の一端を見たように思う。


冬蜂めりこむ泥のみるみる乾く  大塚 凱

もう刺す力もなく、ぬかるんだ地べたを力なくさまよう蜂。作者はそれを踏んだのだ。異物を埋め込まれた泥は急激に乾き始めたのだ(と作者は感じたのだ)。

屈み込み、現場検証でもするように冬蜂のめり込んだ泥を凝視する作者の姿が見える。死にそうな蜂に止めを刺した負い目はあったとしても一瞬のこと。だがそれは「乾く」という言葉の発見に多少なりとも寄与しただろう。確かな言葉の選択だと思う。ガクガクとした不器用なリズムが弱肉強食の自然界が孕む底なしのエネルギーを想起させ、奏功している。

水を轢くまぶしい車輪だが寒い  同上

夜、部屋にいると、通りを車が通過する音がはっきりと聞こえることがある。とりわけ寒くて静かな雨の夜には音が際立ち、あぁ、雨が降りだしたんだな、と気付く。雨を轢くタイヤの音はどこか寒々しい。

掲句は雨でなく「水を轢く」。情趣を一切切り捨てた即物的な把握が寒々しさに拍車をかける。「まぶしい車輪」の省略も鮮やかだ。まぶしい、だけど寒い。いや、まぶしい、だから寒いのかもしれない。

日常のワンシーンを切り取った句群には低く静かに語りかけられるような味わいがある。タイトルの「或る」の無名性がどの句にも通底している。不特定のなかにある確かなもの。そこへ向けられる俳人の冷徹な眼差しを感じた。


冬の夕指につながる水の音  鈴木春奈

月一でお茶の稽古に通っているのだろう。炉点前の様子とその日いちにちが過不足なく詠まれている。

掲句の「水の音」は柄杓から茶碗へ注ぐ水の音と読んだ。手指から柄杓へ、そして水へと続く一連の動きを表現した「つながる」に実感がある。割箸を使って毛虫を捕る時、その割箸がどんなに長くても、何も介さず直に毛虫を摘んでいるような嫌悪感を感じることがある。突飛な連想であるが、その場に漲る緊張感が恐らく両者に共通しているのではないだろうか。毛虫のことは頭から振り払い、掲句に戻ろう。程よい緊張のなか、お点前の所作もきっと自然で無駄がなく、流れるように進んだのであろう。「冬の夕」という暮れ方のしみじみとした情感にもどこか通じる「つながる」である。

冬の灯を消して冬の灯のほうへ  同上

句の構成のシンメトリーが季語の反復と相乗効果をあげ、口誦性を齎している。姿のよい句である。

一連の句の配置から想像するに、稽古から帰った一人の部屋の灯から、団欒の部屋の灯へ移ろうとしているところだろうか。或いは、もう休むために自分の部屋へ戻るところかも知れない。いずれにしても、人の気配のする暖かな灯が人懐かしさを感じさせる。穏やかで幸せな光景にほっとした。


田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
大塚凱 或る 10句 ≫読む
鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む

2018-11-11

【週俳10月の俳句を読む】すっと入る 柘植史子

【週俳10月の俳句を読む】
すっと入る

柘植史子


小さな文字の本を読まなくなって久しい。普通サイズの文字の文庫本などは長い間読んでいると目の疲れのせいか、気持ちが悪くなることがあって、読まなくなった。そればかりか、最近は長い文章を読んでも意味が頭の中にすっと入ってこなくなった。俳句が短くて本当に良かった。


そのひとは自転車で来る豊の秋    なつはづき

「そのひと」というちょっと思わせぶりな表現にもかかわらず、自転車のカジュアル感のせいだろうか、そのひとが誰でもいいような気がしてきて、いつの間にか、そのひとを待つ気持ちを共有している私がいる。

そのひとが自転車に乗ってやってくる場面が映像として鮮明に脳裏に浮かんでくるのだ。日差しを受けて煌めく稲穂と銀輪の眩しさが増幅しあい、その映像は燦然と明るい。
待つ人も待たれる人も、そして自転車も、実りの秋に祝福されている。


鵙の贄希望ヶ丘の駅は谷       市川綿帽子

そのむかし、土地の名前はその土地の歴史を表すものであった。たとえば「蛇谷」という地名のリアリティはそのことを雄弁に物語る。

日本に「希望ヶ丘」という地名はいったいいくつあるだろうか。山を切り拓き開発されたニュータウンの、土地の来歴などとは無関係な名前の代表格のひとつが「希望ヶ丘」であろう。

タイトルから連想すれば、これは横浜の希望ヶ丘。横浜の地形は起伏に富んでいるが、なかでもここは帷子川の源流域で、川沿いの低地と丘陵部との高低差が顕著である。希望ヶ丘は丘ばかりではない。

すっかり干からびてしまった鵙の贄の存在感が、この句のブラックな味わいを確かなものにしている。


秋冷の闇どつぷりと一フラン    今井 豊

「いぶかしき秋」というタイトルが訝しい。実景を芯に詠まれた句のなかで、この一句に呼び止められた気がした。この句はタイトルと密やかに通じているのではないだろうか。
「どつぷりと」は「闇」に掛かると考えるのが普通だろう。となれば、一フランはどう読めばいいのだろう。ユーロの登場により、もう使われなくなったフランスの通貨のことであれば、もう価値のなくなった物の比喩としての一フランだろうか。いや、一という具体的な数詞は比喩にはなじまないだろう。この一フランには確かな物質感がある。

液体のような冷やかな闇のなか、一フランコインが鈍く光っている。

いぶかしきこの一句にどっぷりと浸かってしまった。


蓑虫にひびいてきたるハーモニカ   中岡毅雄

宙にぶらさがっている蓑虫には周囲に音を遮る障壁がないので、いろいろな音が届くのかもしれない。なかでも蓑虫を響かせたのはハーモニカの音色。今ではハーモニカにもいろいろな種類があるだろうし、奏法も多様だろうが、ハーモニカと言えば、まっすぐ心の中に入ってくる澄んだ音色が何といっても印象的だ。ハーモニカは郷愁を誘う楽器である。

「ひびく」という表現が、宙吊りの蓑虫のからだが実際に震える様子を連想させ、蓑虫がひとつの命を持った物として迫ってくる。発声器を持たぬこの虫が「鳴く」と詠まれる背景なども、ちらと頭をかすめた。


念力の角の欠けたる新豆腐       馬場龍吉

「豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ」というセリフがあるように、昔から豆腐は角のあるものと相場が決まっていた。今でこそ丸いのや楕円のものなど、形はいろいろだが、豆腐たるもの、きりっとした角があってほしい。

初物は縁起が良く、長寿を呼ぶと言われてきた。収穫されたばかりの新大豆で作った新豆腐も同様。豆腐好きにはたまらないだろう。

だがせっかくの新豆腐も角が欠けていると有難みも殺がれてしまう。「念力」という措辞が初物パワーを信ずる機微に触れている。




なつはづき 自転車で来る 10 読む
市川綿帽子 横浜 10 読む
今井  いぶかしき秋 10句 読む
中岡毅雄 底 紅 10句 読む
ウラハイ  馬場龍吉 豊の秋 読む

2018-09-02

【句集を読む】ふくらはぎ 柘植史子『雨の梯子』の一句 西原天気

【句集を読む】
ふくらはぎ
柘植史子雨の梯子』の一句

西原天気


ががんぼを見し夜の腓返りかな  柘植史子

ががんぼといえば肢が思い浮かぶ。そこから(作者の)ふくらはぎへの展開は、順当でムリがない。とはいえ、ががんぼと私(人間)は違うものだし、ひょっとしたら、まったく順当でもなく、ムリがないとは言えないのかもしれない。ただ、このときの感興とは、脚/肢を支点とした、ががんぼと私の互換性、別の角度からいえば、ががんぼと私の(非言語的)交信から来るものだ。

句集『雨の梯子』には、

薔薇守へ育つ百万本の棘 同

草いきれ壁にボールの跡積もり 同

といった的確な彩をまぶした句も多い(前者の「棘」、後者の「積もり」)。また、

液晶のページをめくる青葉の夜  同

エンドロール膝の外套照らし出す  同

といった鮮やかな映像(とりわけ光)を伝える句も、この作者の特徴(後者は角川俳句賞の連作タイトルになった句)。

こうしたなか、掲句は、彩を凝らしたわけでも、なにかをあざやかに映像化するわけでもない。或る夜の出来事をただ綴ったふうにも読めるこの句にとりわけ惹かれるのは、(前述を繰り返すことにはなるが)、ががんぼと私が、この句において、悦ばしく隣り合う、あるいは一体化する、その作用によってである。

ががんぼを見ると腓返りを起こすという迷信も呪術も存在しないのだろうけれど、その夜から、その呪術が始まるのかもしれない。

ふくらはぎ固く風鈴吊りにけり  同

この句は、ここで述べてきたこととは無関係だけれど、ちょっと引いておきたくなる。


なお、同句集について付け加えるに、

鶏頭の四五本とゐる雨宿り  同

百本もあれば鶏頭には見えず  同

の2句は、愉快な本歌取り。

かように作風は幅広く、全体に軽やか。言いぶりや措辞には抑制が効いている。


2017-08-13

10句作品 発掘作業 柘植史子



発掘作業 柘植史子

水を打つそばから乾く水を打つ

天井へとどく棚の書夜の蟬

底紅やバックで帰る送迎車

返されし雨傘を提げ星月夜

虫の夜の電子レンジに火花散り

灯火親しむ本編を凌ぐ補遺

桃香り桃の形を思ひだす

秋日傘発掘作業の脇を抜け

鵙啼くやミドル・ネームの長き墓碑

石榴割る海馬のなかに声の匣


2014-12-14

【俳句を読む】 柘植史子の受賞一句について 吉田竜宇

【俳句を読む】
柘植史子の受賞一句について

吉田竜宇


戦争と野菜がきらひ生身魂 柘植史子


断定は詩歌の華である。

直情に基づいた偏見は、時に鋭く世情を穿つ一徹となる。しかし紅旗征戎非吾事と嘯いた貴族には支配階級としての屈託も矜持もあったと察せられるが「戦争と野菜がきらひ生身魂」の句には、どうか。

批評がない、という評がまるで意味を成さないほど、ここに描かれたものはあまりにもそのままでありすぎる。型と中身の違和によって生まれるゆがみが俳句の妙味であろうが、ここで俳句に注がれたものは、注がれる前もそのまま同じかたちで存在したであろうし、また隙間無く注ぎつくされたであろう。周囲からなにかを呼び込む空虚も、型に嵌らず抹殺されたなにものかもない。

ところで、野菜を嫌うのと同じ基準で戦争を嫌うのであれば、野菜は健康に良いのだから味が嫌いでも、と同じ理屈で、外交戦略上不本意ながら戦争を遂行する、との決定に逆らえないはずだ。

これは理屈といっても屁理屈だが、そういった批判を誘発することにまるで無自覚なように見えるのはなぜであろうか。季語がなんらかの相対化の役割を果たすかと思えば、それも覚束ず、単に感覚を是認しているだけである。

いや、巧みな斡旋と言えなくはない。長寿を敬うことにより、戦争から距離を置いてきたこれまでの経験を、ひとつの可能性として提示してはいる。しかしそれは、追従ではないのか。これまでまったく野菜を絶つ食生活が営まれてきたとはとても思われず、であれば句中において戦争の立ち位置は明白である。

にも関わらず全く屈託を感じさせない寿ぎで済ませるのは、なにか不気味なものさえ感じられる。

おそらくそれは戦後民主主義的ともいうべきもののある側面、国家の現実が単なる市民意識に左右されることを是とし、理想とさえする根拠なき自信であろう。そしてその自信は、あまりにも普遍的なものとして取り扱われ、それに反する一切を目撃すらしていない。

かつて台所俳句と誹謗された句群は、しかし生活という人間の生身に関わる細部から切り込んで世相を明らかにした。優れた句作は素材の反映たるにとどまるを乗り越えて、表現と呼ばれる領域に昇華した。

では前掲の句はどうか。これが単なる素材の反映かといえば、そうでもないように思われる。しかし表現かと問われれば、もっとそれ以前のものであろうし、型の一言で済ませたくもある。

とはいえひょっとすると素材そのもの、現実そのものであるのかもしれなく、ならば優れた作品というべきであろう。これほど直截な発露、不意に露わになってしまった現実は時代の刻印となり得る。

野菜を嫌うのと同じように戦争を嫌う、心優しい市民たち。優しい心は、なんの衒いもなく、そうするのがこの世で最も自然なことであるかのように歌われる。

それが受け入れられ、顕彰されるには、どれほどのものが必要であったか。どう褒めても皮肉で言っているようにしかならないはずなのに、なぜかそうはならない。

時代の花はやがて枯れ、その思い出をどこかでふり返る日が来るだろう。けれど、この句を前にして、いったいなにを悼み、どう弔えばいいのか見当もつかない。

掲句は(「俳句」2014年11月号 角川俳句賞受賞作「エンドロール」より)




吉田竜宇
1987生。第53回短歌研究新人賞受賞。
「翔臨」所属、竹中宏に師事。