2024-06-16
柘植史子【週俳5月の俳句を読む】度肝を抜かれる
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2022-02-06
柘植史子【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】 くっきりとした輪郭
【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】
第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む
第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む
第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む
第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む
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2021-11-14
柘植史子【週俳7月9月10月の俳句を読む】ホイホイと
第752号 2021年9月19日 ■上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む
第756号 2021年10月17日 ■恩田富太 コンセント 10句 ≫読む
第757号 2021年10月24日 ■本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む
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2020-12-13
【週俳11月の俳句を読む】ほっとする 柘植史子
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2018-11-11
【週俳10月の俳句を読む】すっと入る 柘植史子
そのひとは自転車で来る豊の秋 なつはづき
「そのひと」というちょっと思わせぶりな表現にもかかわらず、自転車のカジュアル感のせいだろうか、そのひとが誰でもいいような気がしてきて、いつの間にか、そのひとを待つ気持ちを共有している私がいる。
そのひとが自転車に乗ってやってくる場面が映像として鮮明に脳裏に浮かんでくるのだ。日差しを受けて煌めく稲穂と銀輪の眩しさが増幅しあい、その映像は燦然と明るい。
待つ人も待たれる人も、そして自転車も、実りの秋に祝福されている。
鵙の贄希望ヶ丘の駅は谷 市川綿帽子
そのむかし、土地の名前はその土地の歴史を表すものであった。たとえば「蛇谷」という地名のリアリティはそのことを雄弁に物語る。
日本に「希望ヶ丘」という地名はいったいいくつあるだろうか。山を切り拓き開発されたニュータウンの、土地の来歴などとは無関係な名前の代表格のひとつが「希望ヶ丘」であろう。
タイトルから連想すれば、これは横浜の希望ヶ丘。横浜の地形は起伏に富んでいるが、なかでもここは帷子川の源流域で、川沿いの低地と丘陵部との高低差が顕著である。希望ヶ丘は丘ばかりではない。
すっかり干からびてしまった鵙の贄の存在感が、この句のブラックな味わいを確かなものにしている。
秋冷の闇どつぷりと一フラン 今井 豊
「いぶかしき秋」というタイトルが訝しい。実景を芯に詠まれた句のなかで、この一句に呼び止められた気がした。この句はタイトルと密やかに通じているのではないだろうか。
「どつぷりと」は「闇」に掛かると考えるのが普通だろう。となれば、一フランはどう読めばいいのだろう。ユーロの登場により、もう使われなくなったフランスの通貨のことであれば、もう価値のなくなった物の比喩としての一フランだろうか。いや、一という具体的な数詞は比喩にはなじまないだろう。この一フランには確かな物質感がある。
液体のような冷やかな闇のなか、一フランコインが鈍く光っている。
いぶかしきこの一句にどっぷりと浸かってしまった。
蓑虫にひびいてきたるハーモニカ 中岡毅雄
宙にぶらさがっている蓑虫には周囲に音を遮る障壁がないので、いろいろな音が届くのかもしれない。なかでも蓑虫を響かせたのはハーモニカの音色。今ではハーモニカにもいろいろな種類があるだろうし、奏法も多様だろうが、ハーモニカと言えば、まっすぐ心の中に入ってくる澄んだ音色が何といっても印象的だ。ハーモニカは郷愁を誘う楽器である。
「ひびく」という表現が、宙吊りの蓑虫のからだが実際に震える様子を連想させ、蓑虫がひとつの命を持った物として迫ってくる。発声器を持たぬこの虫が「鳴く」と詠まれる背景なども、ちらと頭をかすめた。
念力の角の欠けたる新豆腐 馬場龍吉
「豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ」というセリフがあるように、昔から豆腐は角のあるものと相場が決まっていた。今でこそ丸いのや楕円のものなど、形はいろいろだが、豆腐たるもの、きりっとした角があってほしい。
初物は縁起が良く、長寿を呼ぶと言われてきた。収穫されたばかりの新大豆で作った新豆腐も同様。豆腐好きにはたまらないだろう。
だがせっかくの新豆腐も角が欠けていると有難みも殺がれてしまう。「念力」という措辞が初物パワーを信ずる機微に触れている。
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2018-09-02
【句集を読む】ふくらはぎ 柘植史子『雨の梯子』の一句 西原天気
【句集を読む】
ふくらはぎ
柘植史子『雨の梯子』の一句
西原天気
ががんぼを見し夜の腓返りかな 柘植史子
ががんぼといえば肢が思い浮かぶ。そこから(作者の)ふくらはぎへの展開は、順当でムリがない。とはいえ、ががんぼと私(人間)は違うものだし、ひょっとしたら、まったく順当でもなく、ムリがないとは言えないのかもしれない。ただ、このときの感興とは、脚/肢を支点とした、ががんぼと私の互換性、別の角度からいえば、ががんぼと私の(非言語的)交信から来るものだ。
句集『雨の梯子』には、
薔薇守へ育つ百万本の棘 同
草いきれ壁にボールの跡積もり 同
といった的確な彩をまぶした句も多い(前者の「棘」、後者の「積もり」)。また、
液晶のページをめくる青葉の夜 同
エンドロール膝の外套照らし出す 同
といった鮮やかな映像(とりわけ光)を伝える句も、この作者の特徴(後者は角川俳句賞の連作タイトルになった句)。
こうしたなか、掲句は、彩を凝らしたわけでも、なにかをあざやかに映像化するわけでもない。或る夜の出来事をただ綴ったふうにも読めるこの句にとりわけ惹かれるのは、(前述を繰り返すことにはなるが)、ががんぼと私が、この句において、悦ばしく隣り合う、あるいは一体化する、その作用によってである。
ががんぼを見ると腓返りを起こすという迷信も呪術も存在しないのだろうけれど、その夜から、その呪術が始まるのかもしれない。
ふくらはぎ固く風鈴吊りにけり 同
この句は、ここで述べてきたこととは無関係だけれど、ちょっと引いておきたくなる。
なお、同句集について付け加えるに、
鶏頭の四五本とゐる雨宿り 同
百本もあれば鶏頭には見えず 同
の2句は、愉快な本歌取り。
かように作風は幅広く、全体に軽やか。言いぶりや措辞には抑制が効いている。
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2017-08-13
10句作品 発掘作業 柘植史子
発掘作業 柘植史子
水を打つそばから乾く水を打つ
天井へとどく棚の書夜の蟬
底紅やバックで帰る送迎車
返されし雨傘を提げ星月夜
虫の夜の電子レンジに火花散り
灯火親しむ本編を凌ぐ補遺
桃香り桃の形を思ひだす
秋日傘発掘作業の脇を抜け
鵙啼くやミドル・ネームの長き墓碑
石榴割る海馬のなかに声の匣
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2014-12-14
【俳句を読む】 柘植史子の受賞一句について 吉田竜宇
【俳句を読む】
柘植史子の受賞一句について
吉田竜宇
戦争と野菜がきらひ生身魂 柘植史子
断定は詩歌の華である。
直情に基づいた偏見は、時に鋭く世情を穿つ一徹となる。しかし紅旗征戎非吾事と嘯いた貴族には支配階級としての屈託も矜持もあったと察せられるが「戦争と野菜がきらひ生身魂」の句には、どうか。
批評がない、という評がまるで意味を成さないほど、ここに描かれたものはあまりにもそのままでありすぎる。型と中身の違和によって生まれるゆがみが俳句の妙味であろうが、ここで俳句に注がれたものは、注がれる前もそのまま同じかたちで存在したであろうし、また隙間無く注ぎつくされたであろう。周囲からなにかを呼び込む空虚も、型に嵌らず抹殺されたなにものかもない。
ところで、野菜を嫌うのと同じ基準で戦争を嫌うのであれば、野菜は健康に良いのだから味が嫌いでも、と同じ理屈で、外交戦略上不本意ながら戦争を遂行する、との決定に逆らえないはずだ。
これは理屈といっても屁理屈だが、そういった批判を誘発することにまるで無自覚なように見えるのはなぜであろうか。季語がなんらかの相対化の役割を果たすかと思えば、それも覚束ず、単に感覚を是認しているだけである。
いや、巧みな斡旋と言えなくはない。長寿を敬うことにより、戦争から距離を置いてきたこれまでの経験を、ひとつの可能性として提示してはいる。しかしそれは、追従ではないのか。これまでまったく野菜を絶つ食生活が営まれてきたとはとても思われず、であれば句中において戦争の立ち位置は明白である。
にも関わらず全く屈託を感じさせない寿ぎで済ませるのは、なにか不気味なものさえ感じられる。
おそらくそれは戦後民主主義的ともいうべきもののある側面、国家の現実が単なる市民意識に左右されることを是とし、理想とさえする根拠なき自信であろう。そしてその自信は、あまりにも普遍的なものとして取り扱われ、それに反する一切を目撃すらしていない。
かつて台所俳句と誹謗された句群は、しかし生活という人間の生身に関わる細部から切り込んで世相を明らかにした。優れた句作は素材の反映たるにとどまるを乗り越えて、表現と呼ばれる領域に昇華した。
では前掲の句はどうか。これが単なる素材の反映かといえば、そうでもないように思われる。しかし表現かと問われれば、もっとそれ以前のものであろうし、型の一言で済ませたくもある。
とはいえひょっとすると素材そのもの、現実そのものであるのかもしれなく、ならば優れた作品というべきであろう。これほど直截な発露、不意に露わになってしまった現実は時代の刻印となり得る。
野菜を嫌うのと同じように戦争を嫌う、心優しい市民たち。優しい心は、なんの衒いもなく、そうするのがこの世で最も自然なことであるかのように歌われる。
それが受け入れられ、顕彰されるには、どれほどのものが必要であったか。どう褒めても皮肉で言っているようにしかならないはずなのに、なぜかそうはならない。
時代の花はやがて枯れ、その思い出をどこかでふり返る日が来るだろう。けれど、この句を前にして、いったいなにを悼み、どう弔えばいいのか見当もつかない。
掲句は(「俳句」2014年11月号 角川俳句賞受賞作「エンドロール」より)
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吉田竜宇
1987生。第53回短歌研究新人賞受賞。
「翔臨」所属、竹中宏に師事。
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