2020-12-27

【2020年週俳のオススメ記事 10-12月】今年もありがとうございました 上田信治

 【2020年週俳のオススメ記事 10-12月】

今年もありがとうございました


上田信治

 

702号、田中裕明がのこした短章を丹念に拾遺する連載「空へゆく階段」。今回は、裕明がはじめて爽波に相まみえたころのスケッチ。

選句がはじまるとひどく恐い顔をなさったので気難しい人なのかしらと思った。考えてみればいまでも選句中の爽波先生は紙巻き煙草をさしたパイプを噛むようにくわえて、きまって眉間に皺をよせている。こんな難しい顔で選句をして終われば「今日はいい句が沢山あって気持ち良く選句することができました。」とおっしゃることもあるのでこちらはだまされたような気がする。
対中いずみさんの解題には、掲載号の裕明作品が添えられる。

蓑虫や記憶のながれゆくところ 田中裕明

703号、「句集を読む」は、宮本佳世乃『三〇一号室』今井聖『九月の明るい坂』をとりあげます。

二階建てバスの二階にゐるおはやう」(…)この句には佳世乃句のすべてがある。ひかりに溢れているけど冷んやりしていて、呼びかけ(挨拶)がある。特定の誰かではなくみんなへの呼び掛け。(小林苑を「さみしいのかたち」
稲の中栞のやうに父立ちぬ」「捕虫網旗日の旗の前通る」追憶やら来し方やら、作者はみずからの(生きた)時間と(生きた)空間を、ドラマチックにとらえ、そのセンチメントが句をドラマチックにしている。俳句と〔私〕のあいだの距離を臆することなくつめる。(西原天気「まるで映画のように」

704号の「句集を読む」は、池田澄子『此処』

わたし生きてる春キャベツ嵩張る」キャベツの明るい色と嵩。芯は重いのに外側の葉の膨らみ具合は軽くてふかふか。嵩か。生命力なんていったら重過ぎるけど嵩なのか。句集『此処』の背景には身近な人々の死がある。されど此処で「わたし生きてる」。伝わるかな。 (小林苑を「かさばる」

705号は(と「句集を読む」の紹介がつづくのですが)瀬戸正洋『亀の失踪』

粕汁や四人掛けの席に五人」だからなんなんのよ! であるが、わざとなんだから知らんぷりしたくもある。こんな句をつぎつぎ繰り出す瀬戸正洋の第六句集『亀の失踪』が届く。封を切るなり受取人である同居人は「平野甲賀じゃないか!」と叫んだ。(小林苑を「暮れそで暮れない黄昏時」

706号の「空へゆく階段」は、「青」時代の、爽波から受ける選などについての追想。

俳句で師に学ぶというのは結局自分の自信のある作品と師の選がぴったりと重なるようにすることだと爽波先生が「青」に書かれていた(…)だから爽波選に入って嬉しいというのも、自分でどの句に自信があるのかもわからない頃のはなしで、しばらくすると選に入ってもただ嬉しいというのではなくなってくる。自分でもよくわからないような句が入選すると何故その句が良いのかが不思議で喜んでいられない。

707号 は「2020角川俳句賞落選展」。一次予選通過作品7作品を含む20作品のご参加をいただきました。来年は、鑑賞記事を掲載させていただく予定です。

708号から、瀬戸正洋さんの「週俳10月の俳句を読む」を。

ホームセンターでパイプ椅子を買いました。軽くて持ち運びの便利なものです。夕暮れになると、それを担いで出掛けます。気に入ったところで、腰を下ろし辺りを見回します(…)数年前までは、この時間、赤ちょうちんの揺れる駅裏の路地をうろついていたことを考えますと雲泥の差です。もちろん、どちらが「雲」でどちらが「泥」なのかは、よくわかりません。調べないこと、考えないこと、これも「考察」であると思っています(…)

蜩や誰も笑つてはいない」(田中泥炭)これが人間関係の真実です。笑っているように見えても、誰も笑ってなどいないのです。故に、他人を欺くのには「笑い」ほど便利なものはありません。蜩など好きなだけ鳴かせておけばいいのだと思います。

709号、髙鸞石さんが「落選展」の松尾和希さん(2013年生まれ、小学一年生)の作品の感想を書いて下さっています……と見せて、文末のリンクに、「落選展」についての評言が隠されている。どうしてそういう構成にされたのか。おそらく「グロ注意」ということなんでしょう(自覚はあるんだね)。

710号「中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜」は、ヤードバーズ「Train Kept A Rollin'」。日本語ロックの「レモンティ」の元ネタとして知られるこの曲、じつは、さらにいくつもの元ネタがあって、という話を紹介。

711号、 の「句集を読む」から、鴇田智哉『エレメンツ』評を。

句集をひとつの作品として編むのが当たり前になってきているのだろう。だから一句との出会いの悦びを味わうのとは違う。迷路に入り込むように頁を繰っていくことになる(…)句集全体を通して頻出しているように感じたのが団地と電柱なのだけれど、実際にはそんなに多いわけではない。現在と過去を二重写しにする存在として印象に残ったのだ。《うすばかげろう罅割れてゐる団地》《凍る地を踏みしだき団地をのぼる》《眩しくてこはい団地のハナミズキ》。これらの団地はときに賑やかで、ときに廃墟だ。(小林苑を「現在と過去を二重写しにする存在」

712号、「週俳11月の俳句を読む」から。

大塚凱「或る」10句について)これらの句は、作者が言い方を実に楽しんでいるのがよくわかる。言い方のためにできている句と言っても過言でない。実だとしても、虚と変らない。私はこれらの句を面白く読むが、十年後には作者自身がこういう狙いの見えた言い回しに飽きているのではないだろうか。(堀田季何「三者三様」

鯛焼や晴れただけでは見えない島」(大塚凱)島は、存在していないのかも知れません。晴れてさえすれば見えるというものでもありません。見るためには、自分自身が変ることが必要なのです。鯛焼は、鯛ではありません。口中でひろがる甘さが、見えない島を、よりいっそう見えなくしているのかも知れません。(瀬戸正洋「その月の感想」


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