2016-11-20

【自薦記事 500号を振り返って】 また、はじめから、何度でも 上田信治

【自薦記事 500号を振り返って】
また、はじめから、何度でも


上田信治



スタート

ハイクマシーンと私 …上田信治 →読む

誰かと組んでなにかをすることは、まったく正当なことなので、みんなもっと真似すればいいのに、と思います。LOVE。


インタビュー 

■ 池田澄子 16000字 インタビュー「前ヘススメ」も「バナナジュース」も
聞き手 佐藤文香上田信治

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上田 池田さんは、三橋敏雄が「自分の」恋を書かなかったことについて、書かれていて、

完璧な表現への志が、自己の気分の告白を切り捨てた。このニヒルなシラケはどこから来ているのか。それは怨念あるいは絶望に近いものであったかもしれない。p16

この本の中で、最高にかっこいいところの一つなんですが、池田さんご自身は、その「気分」ていうものを捨てないじゃないですか。

池田 捨ててないねえ。むしろ、気分を書きたいところがある。

上田 そこが、三橋さんから見て、羨ましかったところじゃないかと思うんですよ。


岸本尚毅インタビュー
聞き手 生駒大祐+上田信治

(3)俳句はどこまで「馬鹿になれるか」の競争です(笑)

──ところで、芸術作品の価値をはかる基準に「唯一性」というものがありますよね。似たようなものがたくさん出来るものは、価値が低い。一方で、純度を上げるために単純化した表現は、互いに似たものになりやすくなる。単純化を押し進めながら、唯一性を獲得するっていうのは、どうやって可能になるんでしょうか。

岸本:こういうふうには考えられないでしょうか。複雑な世界には、選択肢が100、101、102、103…とあると。単純な世界には、選択肢が1、2、しかない。

しかしその選ばれた2というのが、2.001でも2.002でもない、純粋な2を選択しているのだとしたら。1.999の俳句は誰でも作れる1.998や 2.001も誰でも作れる。しかしぴったりの2。そこまで最適化された言葉の配列というのは、先人の句を見ても、そんなにたくさん、実現されているわけで はない。


■特集 三年目の3・11 斉藤斎藤インタビュー
「なにをやってるんだろうなーおれは(笑)と、思いますね」
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斉藤 だって、怒られたら反論の余地はない。理由は分かりますからね。ですよねーすいません、っていうしかない(笑)。

分からないんですけどね、五年十年したら、やっぱり私がアホだったと、私自身そう思うかもしれない。でも必要な気がするんだよな、っていう……けっきょく、被災してない人が震災の歌を作るとしたら、そこしかないんじゃないかと思ったんですよね。

そしてそれは確実に自分の「担当」だな、と。やるか、やらないかだと。

他にやる人がいないのだとすると、やらないということが、不作為に思えてくる。やるという行為をするか、やらないという行為をするか。

明らかに私、ここ担当なんですけど。やったほうがいいのか、あえて、さぼったほうがいいのか。

——不作為の罪という言葉がありますしね……あのう、よく、人間やったことと、やらなかったこと、やらなかったことのほうが後悔が深いって言いますけど、あれ嘘ですよね。

斉藤 (笑)嘘だと思います。


金原まさ子さん101歳お誕生日インタビュー

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金原 たけしが、こんなことを言ってるんですよ。人に「おやすみなさい」っていうのと「ばばあ殺してくそして寝ちまえ」っていうのは、同義語だって。

上田 はい。

金原 それが、私のねらいです。

上田 ああ、なるほど! 本当だ。それこそ悪人正機じゃないですか。いいですねえ!


論考

 深いとか浅いとか……いや言い出したのは自分だ、すまん
  『現代詩手帖12月号 現代詩年鑑2009』高柳克弘氏記事に応答して ≫読む

ところで、猿丸さんの句は、そんなに「浅い」だろうか。

たしかにこれらの句は、現代的なミクロの景を描いている。でも、取るに足らないものを描くことは、古来、俳句の定法だし、これらの景の情趣が、自分にはとてもよく分かる(むちゃくちゃ青春映画じゃないですか)。つまり、そんなに「浅く」ないと思うんだ。


俳句は、もっと「浅く」「薄く」なってみせることができるよ。


週俳9月の俳句を読みつつ、季語という「ルール」について又 …… 上田信治 ≫読む

季語は俳句のルールだというのが、自分の基本的な考えです。
芸術行為である俳句に、ルールがあるのは、俳句がゲームから派生した文芸だから。

ただごとについて

(上) ≫(中) ≫(下)


かって「ただごと」でありえたものが、すでに規範の、それも下位の一部として、登録されて久しい。

とすれば、「ただごと」は、いまや、もっとダメで、何を言い出したか分らないようで、ほとんど失敗そのものでなければ「ただごと」たりえない。

つまり、ひと言で言うならば。

全国のただごと者、失敗せよ。


ポストモダンについて 今言えそうなこと ≫読む

ところで。

・俳句に、ポストモダンがなかった、とか来なかったという話は、自分には、もうひとつ面白くない。それは、俳句が80年代にサブカルになり損ねた、というだけのことではないのか。

・それは「なぜ日本には市民革命が起きなかったのか?」とか「どうしてウチにはカラーテレビが来ないの?」といったような話にきこえる。「よそはよそ!ウチはウチ!」「なんでも欲しがるんじゃありません!」と言われて終わり、のような。

・ところで、坪内稔典が志向していたのは、正にその、俳句のサブカル化だったように思えてならない(ここは、ちょっと、分かる方だけ分かって下さい)。さっき、ねじめ正一の名前をあげたのは、そういう意味。


アンソロジー

【テン年代の俳句はこうなる】
私家版「ゼロ年代の俳句100句」

作品篇  ≫読む   解説篇  ≫読む



作家論

ほとんど作家本人の言葉からなる、阿部完市小論 ≫読む

いったい、これほどの矛盾とケッペキを道連れに、書くとはどういうことか。

それは既知の言葉への固着から、身をよじるようにして逃れることの連続である。身をよじりつつ反らせつつ、いかにしてそのステップを踏みおおせるかという運動、その軌跡「として」書くこと。

それは、言葉による一つの舞踏である。


[追悼・今井杏太郎]自己消失のよろこび ≫読む

私的であることを突き詰めることは、鏡となりつっかい棒となる他者を消してしまうことで、それは、自分がどこの誰だか分からなくなることでもあります。

消えたいと望むくらいなら、始めから何も書かなければいい、と思える人は、シアワセです。書かずにどうやって、この厄介な自分を消すことができるでしょう。



(自分でも、信じがたいことに、ほんとは、まだまだあげたい)自分が好きすぎるほうなのでね。きりがないです。

でも、たくさん書けてよかった。

ぜんぶ、俳句をとおして知り合えたみなさんのおかげ。

また、はじめから、何度でもやります。

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