【2021年週俳のオススメ記事 4-6月】
言葉が現れてくる村田 篠
4月-6月の東京はほぼ緊急事態宣言下で、旅行も句会も行かず、ときおり映画館に行くくらい、ほんとうにのっぺらぼうな毎日でした。その期間ももちろん、『週刊俳句』は変わらず毎週更新を続けておりました。印象に残った記事を挙げてみます。
第728号は、竹岡一郎の〈錯乱の地霊よ 髙鸞石「痴霊記」を読む〉。「痴霊記」は108句の連作でした。
この作者の句は、評者を昂らせる筈だが、なぜか言及する評が少ない。このような複眼的な視点の句は評しにくいのだろうか。一見、意味不明でも、とにかく情景が立つ事は、今まで論じて来た通りだ。何よりも、血をたっぷり含んだ肉の、生々しい熱量がある。
第731号には、松本てふこ〈美味しさと明るさについて 岡田一実『光聴』読書会へのお誘い〉。「ポジティブさ」とはちがう「明るさ」について。
彼女が厭う「明るさ」は闇雲なポジティブさ、鈍感さとイコールかと思われるが、私が彼女の句に感じる「明るさ」とはもっと多面的で流動的なものだ。ポジティブ/ネガティブを超えた強さ、柔軟さ、強いこだわり、そしてそのこだわりを深く慈しむ優しさ。今まで上手く言語化できなかったが、『光聴』を読んで気づき、そしてようやく人に伝えられるようになった。
上田信治の「成分表」が第732号〈83主観と客観〉と第737号〈84 正義とフィクション〉に。毎回楽しみに読んでいるシリーズのひとつです。近く書籍になるということなので楽しみです。
本当のところ、この自分にとって、この世が「いい場所」であるかどうかは確率的事象であると、大人も子供も分かっている。
だから、部族の神話の昔から、この世界が誰にとっても生きる意味のある、正しい場所だと信じさせてくれることを、人はフィクションに望む。〈正義とフィクション〉
第733号、第734号、第738号には田中裕明の残した文章を掲載するシリーズ「空へゆく階段」。第738号掲載の〈俳句探訪:飯島晴子『花木集』〉では、飯島晴子の評論「言葉の現れるとき」の文章を引用しながら、晴子の句が読まれています。
詩はありふれたものでしたがって詩の言葉もまたありふれたものである。たとえその言葉がどれほど力をもっていたとしても言葉がありふれているという場所から見ればほかの言葉と変わるところがない。朝起きてみると晴れていたり降っていたりすることほどありきたりのことはないけれども寝床の中で日差しをながめたり雨の音を聞いたりすることなしに生きてゆくことはできなくてそれならば言葉はありふれてなければならない。めずらしい言葉が詩になるのではないことは知っていてもありきたりの言葉があらわれてくるときに気づくというのはこれは誰でもがすることではない。
「句集を読む」は第734号の小沢麻結〈葵祭の魅力 共に待つ楽しみ 西村和子句集『心音』の一句〉と第736号の西原天気〈S氏のゆくえ 瀬戸正洋『亀の失踪』を読む〉。
句集を読むことは、作句者としての作者に向き合うよりもむしろ、そこに生きている人間としての作者と付き合うことであったりする。『亀の失踪』もそのたぐいの句集だ。〈S氏のゆくえ 瀬戸正洋『亀の失踪』を読む〉
第740号は、高松霞プロデュースによる「岡田一実『光聴』特集」。選句に携わった若林哲哉の〈『光聴』選句譚〉から。
それからすぐに、一実さんから、句集を編むにあたっての問題意識を伺った。一言で言えば、「『報告』の可能性を問い直す」こと。言い換えれば、「写生を基本としながら、『単なる報告』を超える」ことだ。COVID-19 を挟んだ期間の句を纏める上で、「記録の報告」という面を削ぐことなく、「表現」として俳句を見せたい、そして、原石鼎に代表される大正主観写生と、その流れを汲む客観写生を踏まえつつ、些末を恐れずに理想化前の事物を書き留めることが、その方法になるのではないか――
ぜひ特集のほかの記事も、とりわけ高松霞の〈それぞれの頂を目指して 岡田一実『光聴』インタビュー〉を読んで欲しいと思います。
この期間に掲載させていただいた10句作品は2作品でした。
■姫子松一樹 上顎にまんぢゆう 10句(第730号)
■横井来季 吐き気 10句(第731号)
ご寄稿下さったみなさま、ありがとうございました。
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