2007-10-28

週刊俳句 第27号 2007年10月28日

第27号
2007年10月28日



CONTENTS


津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む

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「エレガントな解答」と現実
高山れおな「俳句本質論、ではなく」を読んで ……野口裕 →読む

俳句と詩の会(2)「吉岡実を読む」 →読む
    佐原怜/松本てふこ/上田信治

【俳句総合誌を読む】
『俳句』2007年11月号を読む ……さいばら天気 →読む

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角川俳句賞
 落選展2007
 
→読む

飯田哲弘 石原ユキオ 上田信治 岡田由季 金子 敦 
さいばら天気 澤田和弥 すずきみのる 谷 雄介 中嶋憲武 
中村光声 中村安伸 藤 幹子 山口優夢 山田露結
 

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現代俳句協会創立60周年記念行事のお知らせ →読む

後記+出演者プロフィール →読む





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津川絵理子  ねぐら

津川絵理子  ねぐら



秋 草 に 音 楽 祭 の 椅 子 を 足 す

げ ん こ つ で ほ ぐ す 足 裏 蓼 の 花

漆 黒 の コ ー ヒ ー い れ む 秋 灯

秋 風 や 薄 焼 菓 子 を 舌 の う へ

噴 水 に 釣 瓶 落 と し の 音 の こ る

秋 の 潮 し づ か に 船 の は こ ば る る

天 高 し 雑 穀 飯 の か み ご た へ

霧 の な か 灯 と も し て 家 目 覚 め け り

病 室 は 梢 の あ た り 緋 連 雀

雀 ら の ね ぐ ら に ぎ や か 秋 曇






落選展2007 感想ボード

落選展2007
感想ボード 


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「エレガントな解答」と現実 野口裕

「エレガントな解答」と現実
高山れおな「俳句本質論、ではなく」を読んで ……野口裕



ダーウィンが進化論を打ち立てる際、マルサスの『人口論』からヒントを得た。古生物学者S.J.グールド(カンブリア紀の進化の爆発を描いた『ワンダフル・ライフ』の作者として有名)の書いたものによると、ダーウィンが最初に読んだのは『人口論』のダイジェストだったらしい。『種の起源』をまとめる前段でさまざまな進化のデータをどうまとめるか悩んでいた時期で、ダイジェストを読んだだけでこれは使えるとなったようだ。

少数のデータだけで、それを説明するもっとも適切な仮説を立てると、他のいろいろなデータを一気に説明できることがある。哲学者パースはそうした思考方法をアブダクションと名づけた。ダーウィンがマルサスから得たものは、アブダクションの典型的な例かもしれない。

先日、本屋で『俳句界』の九月号を立ち読みしていた。澤好摩の時評は、小澤實主宰『澤』の創刊七周年記念号(2007年7月号)の特別企画「二十代三十代の俳人」という特集についてだった。澤好摩は、特集で取りあげられた二十代三十代の俳人のうち、高山れおな、鴇田智哉、冨田拓也、高柳克弘に注目し、特に高山れおな、冨田拓也の二人の俳句を高く買っている。と、ここまでのところは、ほうほうと口には出さないが、まあそんな感じで読んでいた。神戸六甲の裏手に住む五十代の人間からすれば、皆さん頑張ってますねえ、である。

ところが、俳句の論評が終わり、高山れおなの評論を紹介しているところにさしかかり、むむむとなった。思わず、衝動買いした。『半七捕物帖』には、「むむ」と言うセリフが頻出するが、「むむ」ではなく「むむむ」である。「本質論、ではなく」と題された評論の一部が紹介されている。「むむむ」のところだけ抜き出すと、

なぜ俳句本質論を避けるべきなのかといえば、そもそも俳句本質論など不可能ではないかと疑っているからだし、不可能ではないとしても有害だと思っているからでもある。つくり手の精神に、享受者の論理をしのびこませてしまうゆえに。俳句本質論とは要するに俳句に固有な性質を、即、俳句の本質として抽出しようとする態度であろうが、固有性といってもじつは相対的なものでしかない。五七五の音数律、季語、切れ、挨拶、即興、滑稽など、俳句の固有性として措定されてきた要素のどれひとつとっても、他の詩形式(川柳・連歌・短歌・自由詩・日本漢詩・中国古典詩・西洋詩)と共有されていないものはないのである。
 そして本来、形式の相対性をひきうけることの方が、俳句をゆたかにするはずなのだ。一方、主観的な意図はどうあれ、擬制的な固有性を限定するはたらきをしてしまうところに、俳句本質論の罠がある。(高山れおな「俳句本質論、ではなく」『澤』2007年7月号)


 ここ十年ほどの「俳句=切れ」論の流行は、渡辺隆夫に、

切れとはぷっつんぞなもし(『都鳥』1997年)

と、揶揄されてもとどまるところを知らなかった。私自身も「俳句=切れ」に影響されつつ作句していることは否定しようもないが、そうした論に飽きが来ているのも事実である。

澤好摩は、「俳句本質論の罠」とは、「主観的な意図はどうあれ、擬制的な固有性を限定するはたらきをしてしまうところ」にあるとする指摘の意味するところは大きい。(時評『俳句界』2007年9月号)と、評している。

私自身は、「形式の相対性をひきうける」というところにも感銘を受けている。昨年から、川柳の小池正博と『五七五定型』という雑誌をやっているが、なぜ一緒にやっているか、と言われると、私にも分からないところがある。だが、「形式の相対性をひきうける」とは、まさに私の無意識の部分を突かれた。マルサスの『人口論』を与えられでもしたような気がする。

『俳句研究』(2007年2月号)の仁平勝『俳句の射程』の書評で、高山れおなは「俳壇広しといえども仁平理論を自分ほど忠実に履行している者はいないかもしれない」としつつも、「仁平の俳句本質論は何かが決定的に駄目なのである。」と書かざるを得なかった。仁平が「金子兜太の造形俳句論を完膚なきまでに批判している。」とし、金子の誤りを「<「主体」という神話への信仰>であるとする仁平の説明には間然するところがない。」と続けるが、

しかし、金子はまさにその「信仰」によってこそ、あれだけ多産たり得た。ひるがえって仁平の理論の生産性について考える時、評者は懐疑的にならざるを得ない。(高山れおな書評『俳句研究』2007年2月号)

と書いている。これはかなり深いところからの発言だと、「本質論、ではなく」を読んであらためて感じた。私は造形俳句論というのをよく知らないが、間違った理論が多産であり、正しい理論が何も生みださないというのはよくあることだろう。間違った理論が、現実はこうでなければならないと切り込んでいくのに対し、正しい理論はつじつま合わせに走りやすいからだ。科学理論におけるパラダイムの交代の時代には、新しいパラダイムは荒削りであり、古いパラダイムは精緻であることが多い。例を上げれば…、となると話があっちに飛んでしまうので、取りやめ。

「第二芸術論」以降の、社会性俳句や前衛俳句の運動も、俳句否定論なる「本質論」に対する抵抗という側面が相対性を引き受けることを自動的に保証していたのかもしれない。

高山れおなは、筑紫磐井の弟子を自称しているらしいが、「俳句本質論、ではなく」は、確かに筑紫磐井『定型詩学の原理』を消化吸収した上での、鮮やかな言上げといった趣がある。『定型詩学の原理』では、詩一般の定義をしない。かわりに詩を、詩と異なるもの、たとえば日常文や散文から差別化する意識が生みだすものとしてとらえる。

実は詩の定義は常に時代に裏切られてきたのであり、新しい詩、詩ではない詩が生まれてきた。アリストテレスは決して、イタリア未来派、ダダやシュルレアリズム、ビート派詩人の作品を詩と呼ばなかっただろう。(筑紫磐井『定型詩学の原理』ふらんす堂2001年)

ちなみに『定型詩学の原理』では、意味の差は一切考えず、同一の定型は同じ分類として処理する。したがって、俳句と川柳、和歌と狂歌は同一のレベルで論ぜられる。桝野浩一が角川短歌賞の予選の段階で最高点を取りながら、最終選考では短歌のジャンルと狂歌のジャンルを区別する議論が持ち上がり、受賞できなかったことなどが思い浮かぶがこれも脇道になりそうなので割愛する。

私はダーウィンほど勤勉ではないので、元の論文に目を通さないままに『俳句界』の時評だけを頼りに書こうかとも思った。しかし、その機会を得ることができたので、ここから時評を離れて元の論文に即して見ていくことにする。

時評のみを読んでいたとき、「つくり手」と「享受者」の峻別ははたして必要か、という疑問があった。論文の全体を読むと、高山れおなにとって、「つくり手」の主題喪失が大きな課題としてあるようだ。論文の前半は、最近見たいくつかの美術展の感想が綴られる。日本の中堅若手美術家が、「洗練にこそ欠けていないが、あまりに小さく弱々しく」なっていると言い、「主題こそが決定的」だという言葉が引かれている。

大正八年組(文脈上、八、九年生まれの六林男、鬼房、兜太、澄雄、敏雄、龍太に十二年生まれの重信を含む)のあの存在感というのも要は彼らが俳句界において例外的に主題を持ち得た人たちだからではないかというのが、現在の僕の見通しなのだった。逆に僕たちはほとんどの場合、主題なきままにその時々の素材の処理に熱中しているだけではないのか。そんな疑いを払うことができない。(高山れおな「俳句本質論、ではなく」)

素材と主題が対立的に語られ分かりにくい面があるが、主題を持ち得た作家に重信を含むことから、おぼろげに見えてくるものもある。重信は発想(主題)ないままに言葉を書くと言っているにもかかかかわらず、「それを無効にしているほどの過剰さがあったから、不毛におちいることはなかった。」と高山れおなは判定する。そして、重信は「俳句本質論におちいることを慎重に回避している。」として、冒頭の話につながっていく。

しかし、高山れおなの切実な主題喪失感はわかるとして、やはり「つくり手」と「享受者」は峻別されねばならないだろうか。「つくり手」と「享受者」は、論文後半、この文で引用したところに唐突に登場してくる。澤好摩は、

<何を書くか>ということにのみ「主題」を設定するのも、私はどこか違うような気もする。(時評『俳句界』2007年9月号)

と、「つくり手」と「享受者」の峻別に疑問あるような口ぶりだが、高山れおな自身は、

本質論的な構えからは、主題という問題系が引き出されることはないだろう。主題の問題は、つまるところ個々のつくり手の側に属しており、形式の側には属していないのだからこれは当然だ。(高山れおな「俳句本質論、ではなく」)

とする。わからない。「つくり手」でない者にとっても「俳句とは何か?」は存在すべき問いと思えるからだ。そこで、あえて「享受者」の立場に立つと、「俳句本質論」について次のようにいうことも可能ではないかなと、愚考する。

五次以上の方程式に、四則演算や根号だけを使って表せる解が存在しない、あるいは定規とコンパスだけで角の三等分が作図できないのと同様に、

 「俳句とは何か?」に答える論は存在しない。

より、詳しく言うと、

「俳句とは何か?」に対する答は存在するかもしれない。しかし、その答を論にすると、とたんに何かがはみ出てしまう。

ゲーデルの不完全性定理などを持ち出して議論するのも可能だろうが、そこまでしなくても、仏教の哲理が最終的に否定形の文でしか語れないことからでも議論できるだろう。しかし、それは私の手には負えない。

五次以上の方程式は置いておくとして、角の三等分の方は、実はできるのである。やり方は覚えていないが、大工さんがよく使う曲尺、あれなら角の三等分はお手のものらしい。では、なぜ角の三等分が難問だったかというと、定規は点と点を結んで直線を引くだけ、という厳格なルールがあったからだ。ギリシャ時代に、すでに厳格なルールを外した答はあったが、ルール違反という気分があったようだ。厳格なルールに則ってやれば、できないということがわかったのは1837年のことになる。おそらく、厳格なルールに則って問題を解くことには、美的感覚がともなっていたのだろう。数学ではよく、「エレガントな解答」などという言い方がされる。定規のルールと同様の感覚がはたらいているはずだ。

俳句本質論も、「エレガントな解答」に似たところがあるんじゃないか、と言いたくはなる。よくできた俳句本質論を読めば、確かに気分爽快になる。しかし、あまり読み過ぎると、だんだん退屈してくるのも事実だ。現実はすぱっとは、割り切れない。

俳句と詩の会「吉岡実を読む」

俳句と詩の会(2)「吉岡実を読む」




吉岡実の詩における無気味な言語……佐原怜 →読む

リハビリ開始……松本てふこ →読む

吉岡実「過去」「桃 或いはヴィクトリー」「わだつみ」
                        付記・上田信治 →読む




俳句と詩の会(1)「高浜虚子を読む」




吉岡実「過去」「桃 或はヴィクトリー」「わだつみ」

吉岡実 「過去」「桃 或はヴィクトリー」「わだつみ」

クリックして拡大してお読みください。



「過去」(『静物』1955)













「桃 或はヴィクトリー」(『静かな家』1968)











「わだつみ」(『ムーンドロップ』1988)















吉岡実の数多い代表詩のうち3篇を、縦書きで掲載します。

あきらかに横書きにすることが不可能と思われる「わだつみ」を、ぜひ掲載したかった。そこで、この際、吉岡の前期を代表する2作(ここに「僧侶」を加えれば完璧ですが)「過去」と「桃 或はヴィクトリー」も、縦書きで。

佐原さんの文中に横書きで引用されているそれと、読み比べてみました。

いかがです? あらためて読む横書きの同じ作品から、自分は、予想以上に、冗舌な印象を受けました。それは、ある意味、この詩人の本質が露わになったようで、おもしろかった。

縦書きのほうが、訥々とつぶやくようで、行間が「深く」感じられるのです。
横書きの一行が、あわただしく折り返して終るのに対して、縦書きの一行は、下方へ、奈落へとむかって終る。

いやいや、あながちこじつけではないかもしれないというのは、「わだつみ」を含む『ムーンドロップ』とその前の『薬玉』(1983)の2冊における、行頭下げの手法のことがあるからです。ここでは、明らかに「文字面もじづら」が縦書きであることが、書くことの出発点(到着点?)になっている。

ある一行の終りが、すぐ横の行の頭につながっていて、ふたつの行の「ずれめ」には、下方へのベクトルと、その流れがひっかかるときの、上向きの反作用があり、言葉がくきくきと見た目通りに屈折している。

「ヨーロッパ詩の真似でしょう」(大岡信)と言う人もいるし、交流のあった高柳重信の影響を見ることもできるでしょうが、自分には、あれは、和歌や俳句の「散らし書き」に見えます。

あの2段または3段に、ずらして書かれる一行一行が、かすかに途切れながら繋がってゆくタイポグラフィーのダイナミズム。

その裏では、575や77の、切れたり、繋がったり、跨いだりする拍子がとられているんじゃないか。詩の言葉の「多声化」を、伝統詩への本卦還りに織り込むようにして、試みていたんじゃないか。

…なんて、それは、俳句好きの牽強付会かもしれませんが。

(上田信治・記)



リハビリ開始 松本てふこ

リハビリ開始 ……松本てふこ


問=こわいもの、こわい状況がありますか?
答=毎日がなんとなくこわい。何が一番こわいかというと、それはなってみないとわからないな。
(「吉岡実氏に76の質問」より、『現代詩文庫14 吉岡実詩集』思潮社、1968年)

今まで帽子でかくされた部分
恐怖からまもられた釘の箇所
そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす
(「過去」より、同上)

わたしはいつも考える
ドアのノブのやわらかい恐怖
(「滞在」より、同上)
 
吉岡実について分かったようなことを書こうとしたが、いやむしろここは分からなかったと正直に書くべきだ、と思い直した。

詩を読んでも分からないことは怖い。いや、詩を読むときにどんなことをどれほど分かっているべきなのかが分からない、それが怖い。本当のことを言えば、私は詩を通して人と交流するのが怖い。

大学一年の頃、非常に良くしてもらった年上の詩人から田村隆一の『腐敗性物質』を借りた。

読み始めたら頭が混乱して、苦しかった。そのことを友人に話すと「詩とはそういうものだから」と言われた。どこか失望したような表情をしてそう言われたので、私はああ、自分は「分かっていない」ようだ、と直感してさらに頭が混乱した。この本を読み終われば、詩とは何か分かるのかもしれない、というか、この本を読み終わらないと、きっと私は彼に友人と認めてもらえない。そう思うと、私はこの本を読み終わらなければならなかった。

読み終わったときは借りてから一年以上経っていた。だが達成感は皆無で、何も分からなかった。一語一語をかみしめて読んでも、それをつなげるポエジーの在処が分からない。「どうやら読み終わったようだ…」と他人事のようにとらえていた。気合いを入れて読んでいたはずなのに、読むだけで精一杯で、返すときに彼に感想を問われたが、ひどくお粗末なことしか言えなかった。

本の内容はほとんど覚えていないのに、少し汚れたクリーム色の表紙を開くときの何とも言えない重苦しい気持ちは今でもはっきり思い出せる。

彼はその後も詩集を数冊貸してくれたが、どれも読み通せなかった。彼とは今も年賀状のやりとりをするが、詩の話はしない。

「俳句と詩の会」のお話を頂いた時、面白そうだなと思ったけれど、恐怖も感じていた。私の中のもう一人の私が「お前はまた読むだけで何の感想も持てず、『はあ』とか『そうですね』とか相づちを打って終わるんだろうが!!」と悪態をつく。

そうだね、きっとその通りだね。恥かいてるとこしか想像できないよね。まあでも恥かいて得られるものもあるだろうし、他の人がしゃべっているのを聞いたら、何かしゃべりたくなるのかも?…そう考えてみようよ、ということになった。自分の中で。

吉岡は読んでも、苦しくならなかった。むしろちょっと可笑しかった。

「僧侶」の「一人は死んでいてなお病気」とか、「下痢」の「歴史の変遷と個人の仕事の二重うつしの夜にまぎれて /僕は下痢する」とか、シリアスなのに笑ってしまう言葉のせいだろうか。

ふんだんに盛り込まれたエログロ描写にも心和まされた。

卵や球形へのこだわりを知って「あ、桃」「あ、テーブルの円」「わの字ってちょっと球形を思わせるな」などと詩の中に球形のものを探して喜んだりした。死者を実にいきいきと描いているけれど、これは俳句では出来ない、と思った後で、じゃあ何で出来ないと思うんだろう、と考えたりもした(まだ考え途中だけれど)。

あと、恐怖に関する、または恐怖を感じさせる描写が何となく心に残り、冒頭に抽いてみた。毎日がなんとなくこわいという感覚には非常に共感するところがあった。いつの頃からか一句の中に閉じ込めたいと思い続けているけれど、出来ていない。やっぱり、共感を抱けると一気に詩が近しいものになっていくんだな、と思う。これは進歩だろうか。

そんな訳で、私は今、詩を読むためのリハビリ中なのである。分からないなりに卑屈になりすぎず読んでいこうと思っている。当面の目標は『腐敗性物質』の真の読破だ。



吉岡実の詩における無気味な言語 佐原怜

吉岡実の詩における無気味な言語 ……佐原怜




吉岡実(1919〜1990)の詩を読むことは、ある種独特な体験である。私は吉岡の詩を読むといつもそこにスリルを感じるのだが、いざ彼の詩について語ろうとすると困難が生ずる。その理由は何だろうか。

本論では、吉岡実の詩を幾つかとりあげながら、彼の詩、そしてその言語の特質について簡単に論じてみたいと思う。

まずは吉岡実の第一詩集『静物』(1955)から一篇、「過去」を引用したい。「静物」とは言うまでもなく、花や果物や器物などを描いた絵画のこと。


過去

その男はまずほそいくびから料理衣を垂らす
その男には意志がないように過去もない
鋭利な刃物を片手にさげて歩き出す
その男のみひらかれた眼の隅へ走りすぎる蟻の一列
刃物の両面で照らされては床の塵の類はざわざわしはじめる
もし料理されるものが
一個の便器であっても恐らく
その物体は絶叫するだろう
ただちに窓から太陽へ血をながすだろう
いまその男をしずかに待受けるもの
その男に欠けた
過去を与えるもの
台のうえにうごかぬ赤えいが置かれて在る
斑のある大きなぬるぬるの背中
尾は深く地階へまで垂れているようだ
その向うは冬の雨の屋根ばかり
その男はすばやく料理衣のうでをまくり
赤えいの生身の腹へ刃物を突き入れる
手応えがない
殺戮において
反応のないことは
手がよごれないということは恐しいことなのだ
だがその男は少しずつ力を入れて膜のような空間をひき裂いてゆく
吐きだされるもののない暗い深度
ときどき現われてはうすれてゆく星
仕事が終るとその男はかべから帽子をはずし
戸口から出る
今まで帽子にかくされた部分
恐怖からまもられた釘の個所
そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす


吉岡が詩集に『静物』と名づた理由は、この一篇からも感じ取れるのではないだろうか。

ほそいくびをした料理衣を着た男。尾の長いぬるぬるとした赤えい。釘の個所から流れ出す血……。

こうした物体は詩人の鋭い眼でしっかりととらえられているので、物体は「充分な重さ」−−異様な重量感を持ち、読者の心に沈みかかってくる。このことはすぐさま感じとれるのだが、この詩をどう受け取ってよいのかと考えると、急に何とも言い難くなる。

何か恐ろしいことが起こっているのは確かなのだが、その意味はわからない。作品世界が現実世界とどんな関わりをもつのかについては、この詩は禁欲的に黙しているからだ。だが現実世界と無関係だと言い切るにしては、作品世界はあまりに生々しい手触りを伝えてくる。

ある程度の解釈は成り立つだろう。

この詩が書かれたのは戦後十年も経たない頃だ。情景を取り囲む冬の景色は、荒廃した戦後世界を背景としていると言えそうだ。

赤えいが男に過去を与えるということは、戦争によって時間の流れが切断されてしまった詩人が、時間の全体性を再獲得しようとすることなのではないか。

……しかしこうした「人間的」な解釈は途中ではねつけられる。「意志がないように過去がない」男、「その男に欠けた/過去を与えるもの/台の上にうごかぬ赤えい」などの物体は、絵画であれば死んでいる(静物画のことを、フランス語で「nature morte死んだ自然」と言う)のだが、詩の中では生きているようでもあり死んでいるようでもある。

そんな物体が粛々と作業を執り行ってゆくさまは無気味で恐怖を感じさせる。こうした吉岡の詩の世界は、生きているもの中心で、意味が与えられている現実世界からすれば、言わばそのネガのような世界だ。

吉岡の詩が単一の解釈の網ではとらえられない理由は他にもある。

詩の中には、男が赤えいを切る光景だけではなく、蟻や便器や釘などの意味ありげな要素が多様にある。加えてそれら全体に展開をもたらす切断の動きがある。(吉岡の詩は、絵画的でありながらも時間の進行が含まれているわけだ)。よって詩の統一的な見通しは乱される。

こうした特質をもつ吉岡実の詩は、戦後の詩を考える上でひとつの考え方を呈示している。

「狭義」の戦後詩は、隠喩的な詩だというくくられ方がされることがしばしばある。それは、詩の言葉が、それとは示さずとも何か別のことを喩えているということだが、この言語の状態を、言語平面のすぐ裏にそれに対応した意味が貼り付いているとイメージできるのではないだろうか。

そのうえで、作品「過去」を、そのまま表象空間として考えてみたい。

台の上に置かれたエイは、静物画の中に描かれるオブジェ、つまり言語平面上で語られる対象と考えることができる。しかし赤えいを切っても、つまり言葉の裏を探しても、「吐きだされるもののない暗い深度」があるばかりで、それ固有の意味が見つかるわけではない。

意味を探そうとすると、それは赤えいの切り口からはズレた場所に探さねばならないし、かつ意味は言葉からは遅れてやってきて「おもむろにながれだす」のだ。つまり、詩の言葉が半ばは物体を描くだけのものでもあるが半ばは意味を伝えるものでもあり、その意味は伝えられるにしても、言葉に密着してはおらずに言葉とはズレたところから遅れてやってくるわけだ。吉岡の詩を読む時の奇妙な感覚は、こうした言葉の奇妙な宙吊りの感覚である。この点で吉岡の詩、とりわけ初期の詩は、何を喩えているのかが不分明な隠喩であり、「狭義」の戦後詩の言語パラダイムからは外れている。

吉岡実の詩は、『静かな家』(1968)や『神秘的な時代の詩』(1975)になると、以前の詩とはやや雰囲気が異なってくる。言語平面は緊密ではなくなり、絵画の平面に波が走るような感じになってくる。『静かな家』から一篇、「桃」を引用したい。



或はヴィクトリー


水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
挽かれた肉の出るところ
金門のゴール?
老人は拍手する眠ったまま
ふたたび回ってくる
桃の半球を
すべりながら
老人は死人の能力をたくわえる
かがやかしく
大便臭い入江
わ ヴィクトリー
老人の口
それは技術的にも大きく
ゴムホースできれいに洗浄される
やわらかい歯
そのうごきをしばらくは見よ!
他人の痒くなってゆく脳
老人は笑いかつ血のない袋をもち上げる
黄色のタンポポの野に
わ ヴィクトリー
蛍光灯の心臓へ
振子が戻るとしたら
カタツムリのきらきらした通路をとおる
さようなら
わ ヴィクトリー

この詩の「狭義」の意味を考えることは、もはやあまり可能ではないしあまり大きな意味をなさない。

吉岡の作品世界が積極的な統一性を形作らないようになったからだ。(それは「戦後」という概念でくくられうるような均質な風景の終わりと関連しているだろう。)

先に挙げた二詩集の時期は、一般的には吉岡の模索期あるいは停滞期だとして否定的にとらえられるが、私はそれは、この時期の吉岡を初期詩集のイメージでとらえようとするところから生まれる一面的な評価だと考える。吉岡はあきらかに別の次元に入りつつあるのだ。

この詩の意味は何かと考えるよりも、この詩はどう働くのかと考えたほうがよい。確かに初期と同じく陰惨・無気味な雰囲気は続いているのだが、もはやそれは現実世界のネガを形作らない。

言ってみれば脱世界的になったのである。

だが作品が読者と無縁になったわけではない。むしろ読者は積極的に詩に身を浸さねばならなくなったとも言える。初期作品のように、絵画を見るように詩から与えられるイメージを読者が受動的に受け取ることはもはやはできないからだ。

そして先に引用した詩には、以前にはなかったある運動性が感じられる。運動性といっても、リズムやメロディーといったかたちで詩に内在されている運動ではない。

「マラソン選手」「回転する桃」といった運動を表わすものが詩の中に描かれてはいるが、描かれる運動だけでもない。詩行そのものが数行立っては倒れ立っては倒れする運動、イメージや意味や文体が小刻みに移り変わる運動だ。

「わ ヴィクトリー」
のリフレインは心地よいリズムを作るリフレインではなく、不規則に差し挟まれる違和感である。何だろう、この「わ ヴィクトリー」という感嘆(?)の奇妙さは。つまり、読者の感性の規範が詩によって小刻みに相対化されることによって読者が詩に感じる運動性であるのだ。
「そのうごきをしばらくは見よ!」−−その時、詩の言葉は読者にとって、意味を呈示する通常の役割から変質して、あたかも自力で動くかのような見なれぬ存在となってくる。

見知ったものであるのに別のものでもある存在、本来動かないのに動くようにも感じられる存在に言語が変質するのだ。それはフロイト的に言って「無気味なもの」であろう。

そうした言語は不安や恐怖をよびおこすのだが、同時に独特の快楽−−スリルももたらす。私は吉岡実の詩を読んで時々「笑い」を感じることがある。それは別に面白い意味で笑うのでも、イメージで笑うのでもない。笑いにならない「笑い」だ。

ひとは、自分の言語−−ひいては世界−−に未知の震えが走る時、笑うのではないだろうか。



現代俳句協会創立60周年記念行事のお知らせ 橋本 直

現代俳句協会創立60周年記念行事のお知らせ


今週末11月3日(土)午後1時よりアルカディア市ヶ谷で現代俳句協会創立60周年記念行事があります。わずかなのですが残席があります。参加費は1000円で、どなたでもご参加いただけます。

メインテーマは「日本語と俳句のゆくえ」。井上ひさしさんと金子兜太さんの一茶をめぐる対談や、三宅やよいさん、五島高資さん、高原耕治さん、マブソン青眼さんとわたくしによるメインテーマについてのシンポジウムがあります。良かったらお運びください。

橋本 直 記


※メールでのお申し込み・お問い合わせ先 genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
※その他詳細は下記リンク先の「第20回現代俳句協会青年部シンポジウム」告知記事を御覧ください。
http://www.gendaihaiku.gr.jp/intro/part/seinen/benkyo/benkyo76.htm



落選展2007

落選展2007
第53回角川俳句賞・落選15作品(作者名アイウエオ順)


飯田哲弘 「標本瓶」 →読む


石原ユキオ 「不合格通知」 →読む


上田信治 「そとばこ」 →読む


岡田由季 「仮眠室」 →読む


金子 敦 「チェシャ猫」 →読む


さいばら天気 「愛書家」 →読む


澤田和弥 「妻がをり」 →読む

一次予選通過作品
すずきみのる 「日々録」 →読む

一次予選通過作品
谷 雄介 「故郷」 →読む 


中嶋憲武 「夜濯」 →読む


中村光声 「奥の細道」 →読む


中村安伸 「多面体」 →読む


藤 幹子 「ドアノブ」 →読む

一次予選通過作品
山口優夢 「ただよふ」 →読む  


山田露結 「輪転」 →読む




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落選展2007
感想ボード →行く




上田信治 そとばこ

上田信治 そとばこ       


春の空びつくり箱のにせのへび
はくれんに風強き日やペンキ塗る
山焼く火自動車道より見上げたる
鶏糞のにほへるところ春の雪
測量の一人は梅の下に立ち

鳩のゐることに気づくや薮椿
ひとたびは青空を見し朝寝かな
花散るや象のかたちの滑り台
佃煮の飴のあかるさ春惜しむ
はらはらと仔細をつくすしらすかな

はまぐりの殻片方の上のそら
ころがると見え寄居虫の歩きだす
低木の葉むらに日あり虻のこゑ
横に寝たまま玉葱の芽吹くなり
りゆうりゆうと川藻のなびく端午かな

昼顔はほんたうにどこにでも咲く
じゆんさいのひとつをつまむ日の光
優曇華の空にきれいにそろひける
夕刊を薄しとおもふかたつむり
家よりもおほきな雲や百日紅

青柿やトタンの屋根のただ広く
扇風機土のはうまで吹いてをり
極端な大小のあるトマトかな
ほていあふひ石鹸皿にたまる水
サーファーら後ろを気にしつつ浮ぶ

上のとんぼ下のとんぼと入れかはる
とほくから颱風の来て木を折りぬ
あさがほの種置かれあり庭の石
へうたんの向う側にも人のをり
空港に降りれば秋の夜なりけり

温和しい犬のゐる家たうがらし
まだ外の明るいうちの秋灯
玄関の戸の開きをりぬ月は西
二鉢のかまつか伸びて相寄りぬ
木目かたき机に秋の麦酒かな

側溝に雨の紅葉の打ちかさなる
雲低くいつそう低くひよどりは
水涸るるやモニターに地下駐車場
音楽のなくて雪ふるホテルかな
山茶花や刺身ぼんやり口に入れ

枯菊のかくあれかしといふかたち
校庭にゐて霜焼の子に叱られ
貸部屋を求めし冬のよき日あり
葱に吹く風やはらかや雨のあと
花きやべつ配電盤が家のそと

晴れたればビニール袋朽葉充ち
見晴しの坂みつけたる二日かな
へこへこの本の外箱雪降りさう
ガラスから木枠を外す冬の雲
野水仙咲いて海とは古びぬもの



中村光声 奥の細道

中村光声 奥の細道
          

月隠れ海の音聞く芭蕉の忌
冬霞国境をも包みけり
冬夕焼旅人の背も染めにけり
行き止まりのこの道照らす冬の月
山寺に辛夷の冬芽うれしかり

橋ふたつ濡らす時雨を歩きけり
老い歩む時雨の色のこの道を
ほの蒼き白さまで透く寒の月
標なき来た道帰る冬木立
けものみちただひとすじに冬木立

塀越しの花いちもんめ冬座敷
日輪へ自転緩やか冬の鳶
極月や無住寺の庭掃かれけり
纏うもの還し冬木の芽のひかり
生まれ還るこの星止まず去年今年

そこばかり光零れて福寿草
寒林やその一木を標とす
はるかなるものの力や冬の月
冬の雷去りいちまいの青残す
森の香を四方に放ち春の月

ふらここや漕げば真青な海展け
里山は花菜の海となりてをり
囀りのなかにひかりと眠りたり
春昼や画布にはいまだ色置かず
奥州路分け入り余花に遇いにけり

一湾のたゆらに寄せる卯波かな
九十九折腰を下ろせば花いばら
沙羅の木を標としたる角の家
葉脈に力溢れて花菖蒲
平らかに空色零し額の花

峡の底ありとも見えぬ鮎の宿
地の酒を振舞い山車の動き出す
浮雲のひとつなき空石榴咲く
青き風捉え風鈴鳴り出しぬ
海境の空深きより夏かもめ

良寛の見据えし佐渡へ天の川
夏祭り所言葉の輪に入りぬ
旅の日のゆつくりありぬ菊日和
風啼けば紅葉乱舞す五大堂
霧襖峡の一村消しゆきぬ

独りならこのゆびとまれ赤とんぼ
日溜りの石に蜻蛉の翅透けり
水涸れし橋までつづく曼珠沙華
鬩ぎ合う陸地と海や秋の声
釣り人の身じろぎもせぬ秋時雨

一木を撫でれば繋がる秋の空
層々の蒼き高さに鳥渡る
くくられて軒に忘らる唐辛子
黄落の道がつづきて遠嶺まで
月の道果てなむ辺り色の浜



山口優夢 ただよふ

山口優夢 ただよふ 
 

芝居小屋からうつくしき火事になる
月冴えて顔のさいはてには耳が
葉牡丹や夜を飛び交ふものおそれ
蝋燭を蝋燭立てに置く手套
雪しまくいつもの位置に信号機

読初の絵本に森の深きこと
ゆずり葉や窓際に来て歯を磨く
かがやいて七草粥といふ野原
地上より地下の明るし冬帽子
西鶴のくずし字の中よりしぐれ

寒禽の声に暮れゆく畳かな
京は夜に沈みゆくなり猫の恋
川うすく梅は哲学して開く
腕に腕からめて春は忌日多し
目のふちが世界のふちや花粉症

春雨や木の階段が書庫の奥
鳴り出して電話になりぬ春の闇
おぼろ夜の着物は展翅されしまま
壷焼の内はぼんやり濡れてをり
卒業の海のひかりの床屋かな

風船が羊のやうに逃げ出しぬ
花虻やポンプを押して井戸吐かす
夕桜湯舟の中を波立てる
男根の飢餓おそろしき干潟かな
まつさきに目玉の老いて柏餅

父の日の父に電車の匂ひかな
はつ夏の鉄塔に風通ふなり
みなみかぜ葉の翳さして馬の腹
あぢさゐの広がつてゆく水中り
白日傘首ゆるやかに肩になる

午後五時の柳田国男忌のチヤイム
箱に手を泳がせて取るラムネかな
その中に太古の森のある神輿
水中花あかりは絶え間なく散りぬ
運ばれてビールただよふビヤホール

どこも夜水羊羹を切り分ける
夏暁や壁の集まる部屋の隅
のど元を光にさらす残暑かな
鰯雲土手にいろいろ花咲けり
手が煙草欲しがつてゐる夜学かな

ほうぼうに海の音する美術展
沖に出て船白くなる秋真昼
鳥渡る水といふ水置き去りに
革靴がひとつ年とる月夜かな
やはらかき椅子にもたれて文化の日

缶詰の崩れ尽して冬ざるる
大根が芯から冷えてゐてこはい
本棚の闇より詩集冬鴎
マフラーのとりとめもなき長さかな
海といふ淋しき故郷花アロエ

山田露結 輪転  

山田露結 輪転


日向から日向へ雪の橋かかる
春近き衣裳包みの鬱金染
野の吐息もて初蝶の湧き出づる
人類にして類想のあたたかし
梅林を抜け来し風の文目なす

手に伸びる仕掛けありけり蓬餅
菜の花に表裏なく日あたれり
風光る湖面は空をまねびゐて
野遊びや少女らにストローの立つ
猫の恋頬杖に顔歪めたる

光陰に遅日の驛舎置きにけり
水源に花を浸して昼の酒
惜春の鍵盤に指残しある
つばくろの濡らしゆく空ありにけり
夜の新樹までの襖の無数なる

ふるさとを捨てざる幟立ちにけり
影を発ち影に着きたる揚羽かな
たはやすき縁なりけり泥鰌鍋
やはらかく風鈴に触れ吾に触れ
滝となる水に慌てる刹那あり

休日は電話に出ぬ日竹婦人
目をあけて魚眠りたる暑さかな
姿見に布掛けてある肝試し
王将の涼しき方へ逃れけり
吊るしおく一日の疲れ衣紋竹

病む父や土用鰻の肉厚し
爆撃機やって来さうな雲の峰
蜩や途方といふは暮れやすき
秋暑し掃除機と妻動き出す
古池に音とはならず一葉かな

風評のはや木犀のあたりより
帯解いて五体崩るる鰯雲
鏡店出でて一人にもどる秋
虫の闇からはいろいろ見えてゐる
いづくにも正面を向く月なりぬ

秋風と口の間にハーモニカ
穂芒の光はなさず揺れにけり
牛の眼に映る両岸曼珠沙華
秋の雨ひたぶる海を濡らしけり
あともどり出来ぬ林檎を剥いてをり

テレビつけて消して文化の日なりけり
受け入れてゆく玄冬を少しづつ
折鶴のひらき朽野はじまれる
綿虫のなかのひとつを思ひけり
押しくらまんじゅう子の魂ときに入れ替はる

代代にして団長の火事羽織
冬銀河仰ぎて九九を唱へけり
押入れに突き当たりたる枯野かな
雪降るや人行き交ひて相触れず
騙し絵の階段を行く去年今年



澤田和弥 妻がをり

澤田和弥 妻がをり


蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり
船長の遺品は義眼修司の忌
修司忌や火に包まるる星条旗
ハーメルンの笛吹き男修司の忌
修司忌の妻は手紙を推敲す

空色のTシャツを手に修司の忌
預言者の真黒き瞳修司の忌
貧しさに清らかはなし啄木忌
永き日のわざと忘れし手帳かな
追伸に「子が生まれた」と麦の秋

咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜
無銭無職や向日葵に見下ろされ
外せども赤き名残の水眼鏡
夕立にいきなり透ける肩の紐
母の日の花を片手に蕎麦屋行く

チャイムなりけり教室に青嵐
水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す
帰省子に吠えたる犬のおじけづく
時の日の一代限りの寿司屋かな
新妻のきつぱりしたる祭髪

金貨一枚沈みゆく泉かな
泉あり老女眠れるごとく浮く
失脚の暴君の墓泉わく
父無言故郷の滝落ちにけり
五月雨や旅館街には旅館の灯

とびおりてしまひたき夜のソーダ水
へなへなに炒められたる茄子のごと
紫蘇の葉に包めぬほどの刺身かな
ゆでたての蚕豆があり妻がをり
夕陽より真つ赤な蟹を食ひにけり

我輩はぬるきビールに手を出さず
六本木にも青黴の生えてをり
火の島の神に捧げるバナナかな
滴りて滴りて帰り道忘れる
夏闇や霊安室のベッド空く

春愁や吾が名を百度タイプする
病葉をほどきて過去を修正す
卓袱台を春の畑の真ん中に
鰄を細く細く焼きあげにけり
佐保姫は二軒隣の眼鏡の子

放課後の教師種芋選りてをり
尼寺の春の仏の長き腕
春宵の仏教美術史学者かな
清和なりシーツ大きくひるがへる
開帳の仏の髪が見えるのみ

太宰忌やびよんびよんとホッピング
甘藍を剥ぎて剥がして何も残らず
折りたたむ白きパレット修司の忌
廃屋に王様の椅子修司の忌
男娼の錆びたる毛抜き修司の忌


中嶋憲武 夜濯

中嶋憲武 夜濯


海ちかき町に子供のゐない初夏
一丁の豆腐の重さ夕薄暑
青嵐地図のばさばさしてゐたり
朝の麺麭ほろほろこぼれ梅雨寒し
ソーダ水何も置かない広き部屋

水音の扉をひらき炎天へ
夕立のあと一枚のパステル画
夜濯やねずみのやうな恋をして
青草の中央分離帯にをり
てんとむし独立記念日のピアノ

雷去つてジャズの譜面のまばらかな
灯の涼し歩幅の広きウエイトレス
手の込みし料理運ばれ盆の月
衣被はじめいきほひよきをとこ
秋燕鄙のおほきな映画館

秋の蚊帳ひよつこり起きて胡座かく
秋分の日やもの言はぬ九官鳥
品書きのたよりなき文字秋の磯
野分あと数へし星の風に揺れ
秋の蝶むらさきいろと混じりたる

電気屋の電気あかるし秋の雨
吊し柿奥のひと間へ通さるる
芋嵐小道まつすぐ行くと駅
酔つてゐる瞳と瞳月の雨
烏瓜引けばかなたの飛行船

石蕗の花庭を巡りてもとの場所
銭湯のぽこんかつんと初時雨
夜の骨の透き通りけり鮟鱇鍋
一木は影となりたる冬木かな
息白し言葉無きとき沖のあり

冬の菊ひとすぢひかるカタン糸
年惜しむ用なき昼の豆電球
冬田道つぎの電柱まで暗記
冬の雲得体の知れぬ魚食ふ
化粧品売場を過ぎし寒さかな

清潔なからだ触れあひ夜の雪
楽の鳴る横断歩道冬旱
なんとなく街赤きバレンタインの日
春陰や油彩ひとつの喫茶室
口論に負けて畦火を見てゐたり

鳥曇先づエックスと置く答
冴返る楽団すつと弾く構へ
鳥小屋の鳥の逆さま卒業す
諸葛菜斜面駆け降りたき高さ
春光へ大きな返事返しをり

童心に眠りて蜂の腰うごく
ヒヤシンス道濡れてゐる朝帰り
放ちやる青きざりがにかぎろへる
花衣指の長さを比べ合ふ
飛行機のちひさくひかり汐干狩




谷雄介 故郷

谷 雄介 故郷


落ち柚子の真白き黴や大旦
辛うじて酒屋にもらふ初暦
吹きすさぶもののひとつに梅の花
白魚に腸といふかげりあり
とりどりの漬物並ぶ余寒かな

料峭やマリネとなりし魚介類
春深し折鶴卓より落ちゆくとき
大いなる椿となりし椿かな
祖母は棒で犬を叩けり昔の春
門限の頃の桜のうつくしく

春のくれ馬糞は馬を離れけり
ひらひらと挨拶かはす更衣
はつなつの畳にあれもこれも出す
そこで私を振り返る扇風機
麦秋に取りおとしたるペンは赤

夏夕べ牧場に点る煙草の火
草笛の父に夜空のありにけり
火のいろをせし鳥籠を夏の暮
山の端の都市の明るし秋隣
夏芝居先づ暗闇を面白がる

恥づかしきもののひとつに半ズボン
花茣蓙に母の一族収まらぬ
はんざきといふときめきに石渉る
いつも手の届かぬ位置に花水木
水喧嘩あをき言葉を探すなり

青田風カレーライスの膜漲る
趣味のなき部屋まで黴の及びけり
据付の鏡をはづす晩夏かな
秋立つや金属製の仏たち
母の足裏しろくて鷹の渡りけり

祖国とはさみしきひびき稲の花
林檎より重たきものを思ひをり
奥山に曙光いたれり鳥兜
雁の胴体しろきこと云はむ
落鮎の骨かんたんに抜かれけり

秋彼岸みづうみに指浸してゐ
葡萄園支柱かたむきかたむきかたむく
おほどかに陽をかへしをり葡萄園
こだはりのなき葡萄酒を醸しけり
冬の草すなはち雨の上がりけり

枯園に取り嫁取り婿とならむ
ネクターに糖分多し葱畑
老人や葱畑とはつまびらか
枯葱が青葱に寄りかかりをり
柿色の着物いただく寒夜かな

球体のごとくに年の暮の街
侘助に石垣といふ高さあり
錠剤に英字刻まれ冬ふかし
水仙のとほくに煙上がりをり
着膨れてこれは私の入る墓




藤幹子 ドアノブ

藤 幹子 ドアノブ


連れて欲しさうな顔してポピーかな
乾板の酸くにほひけり薄暑光
掃除機は赤いリボンを噛み遠雷
虹立ちてカスタネットは右手にあり
天井のカビ擦るわれは手長猿

ひとつ伸びひとり居りたい蝸牛
緑雨かなトンネルは首もたげたる
火蜥蜴の腹踏むやうに夏の砂
お砂場に蟻の墓あり赤い汽車
孤独など愛しはせぬに短夜や

窓ごとに八月団地父子の声
日焼け跡おしつけてゐる硝子窓
呼ばれない二百十日の待合室
秋思ありふりかけにして飯にしよう
薄紅葉深山の目蓋ふるへけり

爽やかに犀は尿を後ろにす
秋気澄みメレンゲの角ほこらかに
詩歌では虫も殺さぬ男郎花
父はただ愛すべきもの熟柿落つ
雁渡し高天原へ子は跳ねる

人恋ひの果てなむ国の穴惑ひ
すがれ虫すてた上着の夢を見し
釜底の固き飯粒そぞろ寒
豚抱いて夫は寝ねけり惜しむ秋
カピバラは目を閉じてゐる神の留守

案外に薄汚れてら山茶花ら
三島忌や切手を貼つてさやうなら
すき焼きに滅法よわき若さかな
人参のスヰートなる日口つぐむ
象といふ象こぼれてはクリスマス

おほかたは面罵の記憶年忘れ
念入りにオムレツ閉ぢて年詰まる
大年が目測を誤りて落つ
人日の温水プール煮凝れる
国境を愛撫してはや松過ぎぬ

ため息を吸ふ役目なり竈猫
純愛がひつそり蜜柑箱の中
小春日を裏ごしにしてふくらはぎ
春立つやコップの中にある潮
森動くやう大試験開始せり

はうれん草ほどの違和感夜歩く
フリージア家族会議にある無言
蠅生まる浮気未遂と言ひきかせ
川の街泣くかはり吹くしやぼん玉
三分の一揺らぎをる春の河馬

鳥帰る荷物の多き地平線
レントゲンだけ撮りに行く白木蓮
いらへ待ち苦き茶となる春の夜半
犯人は中指といふ桜餅
花曇味などしないドアのノブ




飯田哲弘 標本瓶

飯田哲弘 標本瓶


発酵の一部屋しんと東風待てり
一湾を視界に余す山の春
若鮎を先づ氏神へ奉る
桜鯛割くや微かに刃の軋む
栄螺得て獣のやうに水を切る

大栄螺抉りて海を吐かせけり
発狂の日にも沈丁かほりけり
げんげ田の赤子むづむづ笑ひけり
なづな野に腹見せて舟干されけり
島遙か寄居虫の一揆壮んなり

春深し標本瓶の濁りかな
新緑や象の鼻孔に毛の固き
同窓会欠席通知夏燕
墨汁の匂ふ一間の薄暑かな
洋館を閉ぢ込めてゐる緑雨かな

爽やかに拳法の子ら立礼す
ほろほろとグッピーに仔の生まれけり
柿青き天文台の高さかな
夏帽子三人武州養蜂園
新刊書得て風鈴の下に座す

知らぬ間に逝きたる友や梅焼酎
夏の夜のぼてりとしたる湯呑かな
薫風や白きレガツタ担がるる
耳遠き人と涼みし波止場かな
巴里祭猫の欠伸を貰ひけり

夏潮にブイ打ち込まるるや赤し
製氷の音を飛び交ふ螢かな
三本の大根引いて帰りけり
昼はせぬ川の匂ひや盆用意
新涼のくらやみにある花鋏

従容と歩く犬なり敗戦日
良夜ミシン無駄なき音の続きをり
梨食つて帰るやピアノ調律士
乾電池換へて閑かな素十の忌
河豚釣つて俺が捌くといふ男

大教室一円玉の凍へをり
葱を持つ人に越さるる夜道かな
くり返し短編めくる雪の宿
胸像磨く真冬の水を絞りけり
声高の漁師の顎や雪催

古代魚の腹に原色ありて冬
温室に入りて順路に随はず
はらはらと倒してみたき聖樹かな
二部屋をまたぐ聖誕祝ひかな
薄氷と水のあはひや西行忌

労咳の文人日記日脚伸ぶ
白菜を作りすぎたる畠かな
大掃除果つ熱帯の花活けて
初夢に我を捨てたる谷と遭ふ
大時計止まりて街の淑気かな




岡田由季 仮眠室

岡田由季 仮眠室


お雑煮のまるき具のみな浮きたがる
手に薄くクリームのばし初仕事
閂をはづして入る芽吹山
飛び石のひとつぐらつく春浅し
唇のほんのり開く雛かな

春昼や大樹裾より石となる
山羊が目を細めてゐたる霾ぐもり
鯉の上に鯉の出たがる花の昼
飽きられて風船ほつとしてゐたる
ガーベラを一輪挿して仮眠室

春眠し車窓に城のおほきかり
向うからも覗く人ゐて花御堂
ジュラルミンケースのをとこ花水木
緋の躑躅休暇じりじり減りゆけり
糸蜻蛉出てきし立体駐車場

遊園地内大通り夏立ちぬ
はつなつの板滑りゆくオットセイ
いちにちを小声で過ごし卯波立つ
息継ぎの顔すべすべと平泳ぎ
ががんぼに空気の重たすぎるなり

祭の夜ひんやりとある地下のバー
マラカスをばつてんに置き明易し
ふんころがしの点で支へてゐる地平
道幅に広がり帰る花火の夜
帰省してきらびやかなる箸使ふ

時計台内部へ夏の月あかり
秋の海ゆつくり動くものばかり
木登りの限界に来て秋気澄む
落し水痒きところに触れてゆく
月白の大樹の洞を覗きけり

秋水にやんごとなき手映りたる
虫の鳴く柱に添ひて人を待つ
前触れの雨粒ひとつ獺祭忌
星明り団地の壁の匂ひあり
風吹けば尻の浮きたる青ふくべ

歪みつつテレビの消ゆる夜寒かな
くちなはの影引き連れて穴に入る
日の溜る時代祭の仕度部屋
はつふゆの分銅つまむピンセット
投函をしに来たやうな冬の海

テーブルに直にパン置く日短か
寝台車毛布の少し毛羽立ちぬ
雪原をぽたぽた歩く子役かな
ロマンチストかたちのままに煮る蕪
働かぬ日の寒潮を見てゐたり

冬薔薇花瓶の水をどつと吸ふ
院長の私服のコート横切りぬ
柱時計に羊隠るる聖夜かな
ひと笑ひして雪吊りに雪無き日
柊を挿し湖の街猫の街




中村安伸 多面体

中村安伸 多面体


千葉は春高速道を空に架け
春塵のすべて光りぬ狡休
君よりも僕が愉しく青き踏む
春は曙肛門に湯を当てる
如月の湯気をみだして女の手

卒業子卵のごとく集ひをり
一生を棒に振らんと野遊びす
たんぽぽや友より取りし手数料
花鳥皿降ることもなき春の雪
飯田龍太たること春の山のごとし

大学も動物園も朧かな
毛を刈られ羊は多面体となる
春昼の村よりぬつと種子島
仲春の城を枕に寝過ごしぬ
九州に文鎮を置く桃の花

菜の花や速達の印ぬらぬらと
風光る仏足石に水の壜
三叉の銀の食器や花曇
花人のけもののやうに煙草吸ふ
花衣脱いでゐるとき行進曲

闇を吸ひ光を吐けり夜櫻は
花人を墓石のうらへ導ける
印に彫る文字を選びて遅日かな
花散るにかかはりのなき球技かな
十薬のかがやく路地を人力車

漢方薬局漢字多くて水引草
テーブルをパスタごと拭く水の秋
コスモスや働かずして美男美女
暗黒大陸の写真を壁に冬館
冬館ひねもす猫は移動して

太りたくなつて太りぬ冬の猫
冬ぬくしバターは紙に包まれて
健康な裸木がある総武線
からつぽの関東平野冬茜
取りかへしのつかぬ北窓塞ぎけり

暖房や絵硝子の濃き緑色
暖房やけものは夜の耳使ふ
ぬるぬると冬の陽のあり観覧車
絨毯に落ちて掃かれる冬の蝶
猟犬の緋の絨毯を深く踏む

六法の紙の薄さよ冬木立
海抜十メートルの寝室寒に入る
寒月を歌舞伎の人のあやつれり
雪の夜の組立式の茶室かな
急行列車過ぎてふたたび雪催

猫は尾を塔のごとくに日脚伸ぶ
イタリアの靴買ひにゆく四温かな
尖塔の影に寒鯉沈むかな
初芝居晴れ着の女海老に見ゆ
国宝のあまり動かず初芝居




金子敦 チェシャ猫

金子 敦 チェシャ猫


鳥雲に入るや微糖の缶珈琲
花吹雪浴びながら行く神経科
効能の行間細き余寒かな
てのひらに載せて抗鬱剤おぼろ
しやぼん玉の中に閉ぢ込められし僕

花散つて脳下垂体乾きけり
とりあへずメール確認春の風邪
チェシャ猫のにやにや笑ふ春の闇
春愁を詰めたる箱の置きどころ
蒸籠より出したばかりの春の月

短夜の森の上飛ぶ一角獣
真夜中に開く水中花の蕾
彼の世よりうすむらさきの海月来る
紫陽花の髑髏のごとく萎れけり
下闇に転がる目玉らしきもの

炎昼やどこへ行くにも影連れて
頓服の薬たしかめ炎天下
水打つて誰とも口を聞かぬ人
寂しさはこの噴水の高さほど
昼寝覚自分が遠くなりにけり

夕立に睫毛の先を打たれけり
虹消えてわが分身の戻り来る
能舞台よりひらひらと黒揚羽
迎火の煙をよぎる烏猫
ティーカップに秋夕焼の沈殿す

終点に降りて色なき風の中
秋の海なにか喋つてくれないか
耳奥に月光溜まる渚かな
銀漢の渡舟乗り場はどこですか
月よりも遥か彼方の吾を呼ぶ

鈴虫のこゑに鏡の震へけり
鶏頭の襞の深さを思ふべし
曼珠沙華橋のたもとを焦がすほど
難解な詩の終連に蚯蚓鳴く
パソコンのマウスさまよふ夜長かな

秋蝶にこの森暗過ぎはせぬか
銀杏散るベンチは吾の予約席
神の留守棒線で消す一氏名
冬の蠅こゑはバリトンかもしれず
髭を剃る鏡の中のしぐれけり

わが胸に枯枝の影刺さりけり
空缶を蹴飛ばし十一月となる
北窓を塞ぐ手首の軋みけり
人よりも猫あたたかき枯野かな
ぎんいろの風に磨かれ冬の月

寒月の小さきかけら拾ひけり
裸木に星の触れたる微音かな
冴ゆる夜に発芽する詩のやうなもの
スパイスの利き過ぎてゐる聖夜かな
パソコンの唸り続ける去年今年




石原ユキオ 不合格通知

石原ユキオ 不合格通知


夜行バス降り囀りに囲まれる
ぶらんこの下の水たまりのあぶく
春愁を絞り上げたるコルセット
青年誌ぜんぶ焼かれる竹の秋
校庭に夜露死苦と書く日永かな

白子干し生徒みんなが主役です
歯磨きで吐きそう聖母御告祭
春の月立体駐車場上る
ジーンズの穴を拡げる啄木忌
行く春や天窓を押す猫の腹

新緑の谷へバンジージャンプする
不合格通知にのせるさくらんぼ
初恋と書く半袖の老教師
書きかけの日誌に蜘蛛の下り来たる
元彼と会う満員の弱冷車

虹の根がそこにあるから逃げなさい
リクルートスーツもうすぐ黴びる
遠雷や倉庫の裏で焼く手紙
カタログで祖母の水着を選びけり
裸子の腰まで浸かる足湯かな

夏痩せてあばらの裏を触れそう
オーディション前夜冷蔵庫の唸り
着信拒否夜は冷蔵庫に眠らせる
ぶつかった壁に逆立ちせよ大暑
八月の花壇直立するシャベル

冷やされていよいよ重き西瓜かな
ペディキュアの足で積乱雲を揉む
バイバイの後は絵文字で笑う夏
ゴダールがいるから夏の湖になる
チェーンソーをギターのように生身魂

魔女たりし祖母の南瓜雑煮かな
月影を溶かすコンタクトの水に
欠席の机に載せる彼岸花
空っぽの電話ボックス小鳥来る
廃ビルの窓見えている雨月かな

国文科八重樫ゼミの菊枕
一晩のかたちに沈む菊枕
太陽は盗まれたまま冬木立
玄関でピザ屋を待っている湯冷め
ぬいぐるみの熊にかぶせる毛糸帽

ベッドから手が出てサンタ捕まえる
すっぴんの美輪明宏がいる炬燵
小春日や観音さまの二重あご
ゴミの日を真っ赤で囲む初暦
傀儡師と傀儡の口の半開き

ニッカボッカ膨らんでいる淑気かな
和菓子屋のがらんどうなる寒の入り
筮竹を分けて易者の白い息
節分や足指で割るエアキャップ
水鳥は溺死できないぼくできる




すずきみのる 日々録

すずきみのる 日々録


大寒の南拓けて京の町
蓑虫を数年見ざる青き空
厳寒の甍の一部となりて鳩
風鐸を首と吊して凍て厳し
水中に枯れ切る蓮の千の茎

冬麗や駅屋上のヘリポート
春浅き朱塗りの門に花天井
梅林に青きホースの長々と
千体に余る一体あたたかし
朧夜の誰かに尾行されさうな

菜の花を壺に咲かせて京都駅
春霞西と東に本願寺
末黒の薄昔お歯黒婆の家
李氏の墓朴家の墓や竹の秋
路地奥に鐘楼見えて沈丁花

光源はいづこ古雛の面
東西に本願寺置き春霞
涅槃図に人の顔して泣ける象
涅槃図に左右より雲棚引きて
涅槃図に顔赤きもの青きもの

悲しむは言祝ぐに似て涅槃の図
花御堂昏の空より雨少し
花祭昔牛馬の通ひ道
遠景にエナメル引の春の川
雷神の三指が掴む春の闇

細殿に春の落ち葉の留まりて
一木の落花の芯に黒き鳥
口中に炫夏の朱あり阿修羅像
葉桜の影が背中を流れゆく
風薫る蹄の跡が草の上

青き実を付け馬出しの桜かな
小さき蜘蛛腕に這はせて神の宮
緑さす素駈の馬が眼前を
白馬が素駈の二陣つとめけり
馬の血を五月の水で流しけり

新緑の舟形左大文字
くらがりに三人の婆玉露摘む
新緑の渓を繋ぎて嵯峨野線
青葉闇より発光の捨て便器
実りつつ金鈍ゆけり麦畑

秋の初風屠死を待つ合鴨に
三俣の幹のひとつに法師蝉
軒燈を透かしてゐたる秋簾
秋の雲昔旅宿のパスタ店
月天心京都タワーはビルに乗り

使はざる普通教室秋日満つ
焔の色が照らして通る火の祭
秋の闇捲り捲りて焔立つ
菱取りの水に手首を失いぬ
菱取りの小暗き道を下りて来し




さいばら天気 愛書家

さいばら天気 愛書家


ゆびさきが電気に触れて春の月
探梅の両手あそんでをりにけり
早春の海から遠くミシン踏む
春障子はづれて鳥を威しけり
釘箱にいろんな釘と桜貝

引力の圏内梅の香の満てり
若草のあはひに犬の私生活
底辺に高さを掛けて山笑ふ
春燈の湿りぐあひをなんとせむ
龍天に登る欄間にちりほこり

大鵬の時代のソメイヨシノかな
名画座の四月まひるの雨が降る
風に濡れひかりに濡れて初燕
温室に父あり虻を手ではらひ
ペリカンが風に揺らいでゐる遅日

よく笑ふ人と暮らして豆の花
風船をもてば所在のなくなりぬ
桃ひらく薬たくさん飲み過ぎて
夕凪や椅子どこからか出てきたる
大学の鉄扉にからむ青あらし

ゆふぐれが見知らぬ蟹を連れてくる
港あかるしハンカチの干してあり
雪渓のいくつと言へぬ景色かな
蜘蛛ひとつ畳を這ふや風の音
驟雨くる母といふ字の筆順に

ぢりぢりと蠅に夕日のさしてをり
玄関に水鉄砲のころがりぬ
もみがらの枕のなかの旱かな
紙魚走りをり活版のずれてをり
よぢれつつ水着の干され昼の月

足で戸をあけて西瓜を持つて来し
枝豆の袖の下へと転がりぬ
ぱさぱさと法衣の来たり菊日和
秋澄むや巻き貝にある黄金比
二科展へゴムの木運び込まれをり

ひんやりと消防服の吊るさるる
水槽のごとし夜長の美容院
つゆくさは朝のピアノの音がする
秋燈のひたひた満ちてゐる畳
蟷螂の古式ゆかしく揺れてをり

歌うたふとき葉牡丹のやうな顔
立冬や猫のかたちに雲がとぶ
感涙のあと鯛焼をひとつ買ふ
初しぐれ紙の匂ひのする町に
夕映や落とせば割れる寒卵

電球をかちりと灯す寒さかな
対岸に崩るる冬の日のひかり
冬の蠅紙のお城のてつぺんに
東京の雪のはじめのマンホール
愛書家の机に小さき鏡餅




『俳句』2007年11月号を読む さいばら天気

『俳句』2007年11月号を読む ……さいばら天気



11月にもなって、こんなところに目をとめるなんて、ヘンかもしれないが、表紙にある「戦後俳句とともに創刊55周年」のロゴ。5の倍数でゾロ目ではあるが半端といえば半端な「55」という数字には、何か意味があるのだろうか? ご存じの方、教えてください。

さて、大特集から。

大特集・日本のしきたりと季語 p59-

儀礼と儀式とが密接に関連するにしてもあくまで異なるものであるにもかかわらず、しばしば無分別に語られる事情に似て、「しきたり」と行事も区別を欠いて語られることが多い。この特集の15篇の各論も同様。もっとも、編集意図がそもそも、行事その他にまつわる季語へと話題を広げてもらって結構といったスタンスとも想像されるので、テーマの拡散などと野暮を言ってもしかたがない。そんななか、櫂未知子による総論「究極のしきたり文芸」が話題の広がりへの抑制がよく利き、「しきたり」の核の部分をきちんと押さえる。

俳句はモノ重視の文芸である点においてかなりユニークだが、相手に対する感謝の気持をすぐに品物であらわす国民性も多少かかわっているのではないかと思える時がある。(櫂未知子前掲)

納得性のある指摘。ただし、「感謝の気持をすぐに品物であらわす」のは日本人に限ったことではない。「感謝の気持をすぐに品物であらわさない」文化を挙げるのはむずかしい。それほどに普遍的である (註1)

総論は、いくつかのエピソードのあと、「しきたり」を「幸福を願う生活の知恵であり、人々の祈りを具現化したもの」と結論づけ、俳句を次のように「しきたり」に関連づける。

俳句はその季語と定型を柱とする究極の「しきたり文芸」であるといってもよい。季節と向き合い、折々の行事をこなし、その喜びをわれわれは一句にする。季語を面倒と思い、窮屈と思う人は(極言すれば)俳句と関わる資格はない。季語も定型も、俳句が俳句として存在するために先人が残してくれた「先例」なのだから。(同)

しきたりについての、また季語についての(肯定的)正論として読みやすく、まとまりがよい。


小川軽舟 くびきから放たれた俳人たち第11回・岸本尚毅

まず誰からも訊かれていないのに自分から白状してしまうと、私は、岸本尚毅俳句の大ファンである(あ、やっぱり要らないことでしたか?)。それもあって、たいへん興味深く読んだ。

岸本の妻の岩田由美が面白いことを書いている。岸本は「言葉で景色を追いかけても絶対に追いつかない。言葉を罠のように立てて待っていると景色の方から飛びこんでくる」と言っていたそうだ。

(…)岸本は既に見てきたように、物の存在そのものを描くことを目指す。季題がまとっているのは、岸本が消し去ろうとした意味の世界だ。岸本はそれに取り囲まれるのではなく、写生によって季題という意味の世界を揺さぶろうとするのである。

このスタンスは俳句の世界において稀なものと言っていい。季題が称揚されるとき、その(意味の)豊かさ、イメージ喚起力、情緒的な了解性にしばしば言及され、その季題の「力」を引き出した句が高く評価される傾向が強い。それはある意味では、季語への「依存」に過ぎないともいえる。季語に負荷をかけすぎないよう一句をハンドリングするという手際を超え、「季題という意味の世界を揺さぶ」る。小川軽舟のこの記事、的確な引用と的確な把握に溢れ、さまざまのことに思いが到る。岸本尚毅ファンは必読。


大輪靖宏・筑紫磐井・櫂未知子・合評鼎談11「選と句会は俳人を鍛えるか」 p221-

冒頭、インターネット句会やらの話から、筑紫氏が「週刊俳句賞」を話題として取り上げる。

『週刊俳句』関係者のひとりとして、ここで大声で申し上げる。「誠にありがとうございます!」

安倍内閣と同じで、お友達句会のような気がする(笑)。(筑紫)といった揶揄にも、にこにこと親愛をこめて「時の内閣を話題や比喩に使うなんて、懐かしい昭和の香り(笑)」と反応しつつ、「週刊俳句賞って、句会じゃないんですけどー?」と注意を喚起しておく(ただ、句会のような雰囲気もありましたね、たしかに)。鼎談の流れでしかたのないところもあるが、インターネット句会と『週刊俳句』そのものとがなんだか密接に関連するかのような印象を醸し出してしまっているのは奇妙な感じも少々。

まあ、そんなことより、ともかく、『週刊俳句』という名前を露出していただいたことが関係者としてはなによりうれしい。何度でも高らかに申し上げる。「筑紫さん、櫂さん、誠にありがとうございます!」

…と御礼申し上げたところで、ちょっと正気に戻ると、インターネットと『週刊俳句』の関係といったことも、私自身(あるいは私たち自身)、すこし整理して、それを外にわかるかたちにしないといけないかもしれない。


第53回角川俳句賞決定発表 p110-

津川絵理子さんの「春の猫」が受賞。あらためて「おめでとうございます」とお祝い申し上げます。

余談めくが、この11月号表紙にある「9年ぶりに30代女性が受賞!」の感嘆符付きの文言を、どう受け止めていいのか。読者にとってなかなか複雑でコクがある。


(つづく、かも)


(註1)俳句言説における「日本」「日本人」
一般論へとやや話題が逸れるが、俳句に関する言説には、「日本の」「日本人の」という観念があまりに大きくアタマに覆いかぶさりすぎる傾向が強い気がしている。わざわざ日本と限定する必要のないことのほうが多い。多くの場合、「人間の」と置き換えられる。つねづねそうした俳句の言説を奇妙に思っているが、俳句を「日本」「日本人」と結びつけずにはいられない性向は根強く広く存在するようだ。この特集の各論部分に、こんな一文があった。

日本の四季は春夏秋冬に分かれているが(…後略…)(大場鬼奴多「美しい庭園」)

あのー、日本でなくても、四季は春夏秋冬なんですけど?

言葉尻を拾い筆の滑りを誹るのが本旨ではない。〔日本→四季→季語→俳句〕という思考のセットが、俳人全般に染みわたっていることのひとつのあらわれであると言いたいのだ。

季節のない国・地域は、ない。季節に対する思いや関心の存在しない文化は、ない。にもかかわらず、俳句の言説の多くが、「季節」を日本の、「季節感」を日本人の「特徴」のように扱う。このことは稿を改めたいが、じつに不思議なことである。