2021-01-31

週刊俳句 第719号 2021年1月31日

 第719号

2021年1月31日



【空へゆく階段】№38
「ゆう」の言葉……田中裕明 ≫読む
解題……対中いずみ ≫読む
 
中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
トニー・メイデン:楽器屋の店頭で ≫読む

〔今週号の表紙〕水仙岡田由季  ≫読む
 
後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
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【空へゆく階段】№38 「ゆう」の言葉 田中裕明

【空へゆく階段】№39
「ゆう」の言葉

田中裕明


「ゆう」2000年5月号

料峭や見舞ひて齢高き人  満喜子

春になってからまだ寒いこと、とくに春風を寒く感じることを料峭と言います。歳時記では春寒の傍題となっています。唐の詩にもある言葉ですが、俳句で生かすのは難しいかもしれません。この句はあえてそれに挑戦しています。いままで自分の使ったことのない季語の本意を確かにつかむことが大切です。


古の土に触る根も朧の夜  麻

ものをよく見て俳句を作ることが基本です。適格なデッサンを身につける努力が、まだまだ私たちには必要でしょう。その上で、はじめて右のような作品にも取組んでみたいもの。大木が深く地中に張った根に思いをはせるというのも、朧という季語の一側面。散文で説明できないところに詩があります。


貝寄風に向かひて大地鋤き返す  昭男

季語の発見というテーマの中には、今まで敬遠してきた季語の見直しということも含まれています。私個人にとっては、貝寄風は草田男の一句があるために取付きにくい季語です。作者は「大地鋤き返す」という能動的な措辞で季語を発見しました。季語そのものを新しくするという働きがあります。


畦焼の煙私塾に滞る  明澄

この作品の眼目は私塾という言葉でしょう。そしてそれはいまの現実の景色、畦焼の煙とも強く結びついているのです。

私塾で学ぶ志士の卵が顔を出すような、そういう想像をさそう面白さがあります。


板東は梅の盛りの西行忌  尚毅

忌日の季語についても、いままで偏狭にすぎたように思います。もちろんむやみに濫用しないということは気をつけないといけません。しかし、より深い気持で俳句を作ってゆくには忌日の季語をよく理解することも必要でしょう。右の作は板東という言葉が、板東武士も連想させてたくみです。


寒明や赤くおとろふ犬の爪  敦子

長く飼われてきた老犬の表情が読者の心象に浮かびます。あるいはその犬のすがた自体が回想の風景なのかもしれません。

その犬の爪が赤いということが、春をむかえた万物の中で強く印象に残ります。


淡雪をへだて札所を目の前に  刀根夫

この作者の十年以上前の作品に「中腹の雪の札所を目指しけり」があります。一読これを思い出しました。

「淡雪をへだて」に年輪を感じます。


雨雲の中に城あり猫柳  やよい

低く垂れこめた雨雲に天守閣がかくれているかのよう。城の大きさがよくわかります。猫柳の細かい毛に雨粒がきらきらと光っているのも、春先らしい情趣が感じられます。


風花や喪の帯解きてすぐ冷ゆる  洋

俳句は説明してしまうと詩情が失せます。この句の場合、風花と喪服の帯とのかかわりあいについて何も言っていませんが、読者にはよく伝わってきます。

できるだけ鍛えられた言葉で一句をなすこと。それを言葉を惜しむと言います。


奔放に生くるも一つ野火走る  石火

俳句で胸の思いを述べることはできないかというと、そうではないでしょう。ただ、ナマな感情というのは類型的なものです。おさえておさえて出てきたところに真実があるように思います。でも精神衛生上、そういう句を作っても悪くはないでしょう。俳句として成功するかどうかは別ですが。


【空へゆく階段】№37 解題 対中いずみ

【空へゆく階段】№39 解題

対中いずみ



「ゆう」5号には、「漱石の夏やすみ」という田中裕明の小文が載っている。
 高島俊男さんの近著『漱石の夏やすみ』を読んでいろいろと考えました。この本は夏目漱石が第一高等中学校の生徒だった夏休みに書いた『木屑録』という漢文紀行について書かれたものです。
 高島さんは中国文学者です。その文章は漢字がすくなくて読みやすいのが見どころでしたが、この『漱石の夏やすみ』ではさらに進めて和語はほとんどかなで書いています。それがたいへん新鮮でした。
『木屑禄』という文章は、正岡子規というたった一人の読者を目あてに書かれました。高島さんは子規を『多少上っ調子なほど、陽気で快活な人であった。ひとにはむしろ、軽い、薄い、という感じをあたえるタイプである。』と評しています。これも新鮮です。
 明治の一側面の伝わってくる本でした。

5号の裕明句は以下の通り。太字は句集収録句。

 木と人と

白雲の迅く過ぎたる野焼かな

蘆原を焼くや大淀澄みわたり

書きかながら涙のわけり雪間草

磧(いしがはら)人去りて春来りけり

木と人と親しくありて春の風

眉白う白うに麥を踏みにけり

雛の間を覗けば人の寝てをりぬ

芝を焼くまでの日月いま焼けり

東風の妻幼きもののごとくなり

菜の花や三児をもちて眉うすく


【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】トニー・メイデン:楽器屋の店頭で

【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】
トニー・メイデン:楽器屋の店頭で


天気●ギター屋さんの店頭で、そこで売ってるギターを誰か、まあ腕のたつ人なんですが、弾くという動画。こんなもの、ギターをやってる人間しか見ないんですが、ライブとかでは観られない・聴けない演奏が観られる・聴けるという意味で面白かったりするのです。


天気●トニー・メイデンはルーファス、あのチャカ・カーンのバックバンドにいた人です。チャカ・カーンって、あのシャウトがちょっと懐かしい。


天気●で、これね、もう、身体に備わったファンクリズムが、ほとばしりまくっているというか。喋りながら、左手でワンノート(1音)を鳴らすそのリズムからして、グルーヴに満ちている。

憲武●これ、ギターですよね? 親指の動きが派手で、チョッパーみたいに見えます。

天気●チョッパー、今はスラップって呼ばれる奏法は、もともとベース、例えばスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンにいたラリー・グラハムが有名ですが、いま、ギターで演る人も多いんです。トニー・メイデンは、ふだんはピックも使うのですが、この動画では、指だけ。指が別の生き物というのではなくて、心臓と連動していきいきと動く。

憲武●最近は打ち込みが主流ですけど、ナマの演奏って細かな感情の揺れみたいなことも表現出来るんじゃないでしょうか。

天気●前半のリズムが強調されたくだりも、後半のちょっとメローなくだりも、どっちもしぶい。

憲武●なんなんでしょうね、音楽で伝わってくる事って。譜面通りの正確な演奏に感動しているのか、速弾きに感動しているのか、テクニックに酔うのか、それ以外のものがありそうです。

天気●音楽ってアンサンブルの素晴らしさ、練り上げられた楽曲の素晴らしさの一方、楽器ひとつで、ちょろちょろっと遊びで鳴らす面白さもある。もちろん、これは達人が弾いているからなんですが、それにしても、音楽にはいろんな楽しみ方(奏でるほうも聴くほうも)があるんだな、と、あらためて。


(最終回まで、あと823夜)
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

〔今週号の表紙〕第719号 水仙 岡田由季

 〔今週号の表紙〕
第719号 水仙

岡田由季



 

水仙が地中海原産であることは、ナルシスの神話などからも、知識としてありました。それでも、日本水仙は、元々日本にあったもののような気がしていました。それほど日本の風景に溶け込んでいます。冬の季語としても代表的なもののひとつですね。

実際には日本水仙も、平安時代に中国経由でもたらされたとのことです(諸説あるようですが)。外来種と言うと何かと目の敵にされますが、考えてみると曖昧なものですね。

 


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後記+プロフィール 第719号

 後記 ◆ 村田 篠

(under construction)



no.719/2021-1-31 profile

■対中いずみ たいなか・いずみ
1956年生まれ。田中裕明に師事。第20回俳句研究賞受賞。句集に『冬菫』『巣箱』『水瓶』(第68回滋賀文学祭文芸出版賞、第7回星野立子賞)。「静かな場所」代表、「秋草」会員。
 
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。  

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter 

■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。「炎環」同人。「豆の木」「ユプシロン」参加。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」

2021-01-24

週刊俳句 第718号 2021年1月24日

第718号

2021年1月24日



本の署名を考える……四ッ谷龍 ≫読む

【空へゆく階段】№37
「ゆう」の言葉……田中裕明 ≫読む
解題……対中いずみ ≫読む

【句集を読む】
海の明るさ
石井清吾水運ぶ船』を読む……小林苑を ≫読む
 
中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
The Modern Folk Quartet「This Could Be the Night」 ≫読む

〔今週号の表紙〕枯れ西原天気  ≫読む
 
後記+執筆者プロフィール……西原天気 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
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【句集を読む】海の明るさ 石井清吾『水運ぶ船』 小林苑を

【句集を読む】
海の明るさ
石井清吾水運ぶ船

小林苑を


今がわが家族の旬か祭笛  石井清吾(以下同)

清吾さんとはいちど吟行をご一緒した。穏やかな笑みと長身が印象に残った。所属する「青垣」代表の大島雄作氏による序には、石井清吾が俳句に出会ってからのことが詳しく書かれている。「退職して自由の身だった」「平明さを求めている『青垣』で句を磨いてきた」、そして俳壇賞を受賞。なにより清吾句の魅力は「日向性」にあると。

そうなのだ。句集から受けるイメージは海の明るさ。長崎育ち、明石暮らしの所以だろうか。辛いはずの事柄さえもどこかおおどかなのだ。それは覚悟なのかもしれず、なんだか羨ましくもある。

掲句、「旬か」の「か」に滲むのは人生。祭笛は郷愁のアイテムであり、であれば作者を知らなくともさまざまな経験をして「今」があるはずと伝わる。難しいことはなにも言わず、サラッと「旬」なんてことを言う。祭笛が明るいのに哀しくも聞こえて、穏やかな「今」が沁みる。

パエリアを炊く大なべや南風吹く

どうってことない句だけれど大好きな句。あ音の繰り返しによる明るさ、パエリアからなんとなく連想されて、南風吹くで海からの風が鼻先にまで吹いて。美味しそう。なんて気持ちのよい日なんだ。

清吾句はどこか初々しい。それが働き詰めの人生の中に見え隠れしてこちらも嬉しくなるのです。

切抜きし書評古りたり百舌の贄

桔梗や弓引く前に正座して

おくんちや笛聞けば撥おのづから

海峡の夏へルアーを飛ばしけり

身長の少し縮んでお正月

風光る未決の箱をからつぽに

器具寄せて実験台の夜食かな

葉桜や真水ですすぐ試験管

新生児覗きに来たり祭髪

水族館へ水運ぶ船夏はじめ


石井清吾『水運ぶ船』2020年12月/本阿弥書店

本の署名を考える 四ッ谷龍

本の署名を考える

四ッ谷 龍


1. 署名は公開されうるものと考える

自分の著書をはじめて出版した人にとって、読者や知人から「本にサインして~」と言われるのは、鼻がぴくぴくするうれしい出来事だろう。それは相手が自分を尊重してくれている、少なくとも悪意は持っていないということの何よりの証拠なのだから。

世の中には本に署名するのもされるのも好きではないという人がいる。たとえば、


これはこれで一つの見識であるが、この文章は署名をするのもされるのも嫌いではないという人のための原稿である。

さて、では署名はどんなことを書けばいいのだろうか。自分の名前だけ? 相手の名前を書いたほうがいい? 句集だったら自句を一句書いてあげようか? 

それについて、正解はありません。自分が好きなように書けばいい。

だけど、何をどう書いてもいいのか、と言われれば、待った、そこはちょっと慎重に考えたほうがいい、と申し上げます。

たとえば本の扉に

 てんきさま はあと ゆみこ

と書いたとする。このサインに相手が喜んでくれたとしても、本というものはリサイクルされて古本として流通する可能性があるということを、よくよく考えなければいけない。のちに古書店でこの本を手に執った人は、「てんきさんとゆみこさんはいったいどういう関係にあったのだろう」と妄想をふくらませることになる。

「尊敬するあの人に限って、私の本を古本屋で処分したりするはずがない」と思うかもしれない。しかし人間には寿命というものがある。その人が亡くなったら、家族が古本屋に蔵書をまとめて売るというのはよくあることなのである。あるいは、その人が認知症になったら、周囲の人が蔵書の整理をやり始める。そうなると、本がオークションなどに出されて署名までネット上で晒される可能性がある。だから本の署名というのは、社会になかば公開されるものと覚悟して行う必要があるのだ。

私自身、贈呈した著書がサインとともにオークションサイトに上げられ、しかもこちらが添えた手紙の画像までサイト上に載せられているのを見て、非常に嫌な思いをしたことがある。この場合は、ご当人が高齢のためにお世話した人間が見境なく本を処分したもののようだが。

2. 謹呈カード? 恵存? 挿架?

私の俳句の師匠である藤田湘子から、いちどこう言われたことがある。
今の奴らは物を知らないから、句集を贈るときに「謹呈」のカードを挟むだけで済ませてしまっている。本を贈るときは、一冊一冊に相手の名前を書いて、「恵存」と添えて署名して送らなければいけない。
いろいろな方から句集を贈っていただくけれども、それらはほとんどすべてが謹呈カードで処理されていて、いまどきサイン本をいただくのは稀である。自費出版の場合、印刷所に宛先ラベルと謹呈カードを預けて、寄贈本は工場から直接一括発送してもらうというシステムを採用することが普通になってきているから、そういう傾向になる。

これには本を何人に寄贈するかということも関わってくる。数十冊しか送らないのなら全部に署名することも可能だろうが、何百冊も寄贈しまくるという人には、それは無理というものだ。湘子先生は何冊ぐらい寄贈していたのだろう。本当に全部に署名していたのかな?

社会的儀礼に関しては、飯島晴子さんほど間違いのない人はいない。句集『寒晴』を出版されたときには私にも一冊贈ってくださり、そこには写真のように立派な署名がされていた。どう署名したらいいか迷っている人は、これを真似して書いておけばとりあえず大過はあるまい。



ところが、贈呈する本に「恵存」と書くのは失礼である、と言い出す人がいた。国文学の泰斗、池田弥三郎先生(1914-1982)である。
後輩の一人がわたしに自分の著書をくれて、扉に「池田弥三郎先生・恵存」と書いた。この後輩にも言ってやった。
――君。「恵存」というのは先輩が後輩に贈るときに使うんだ。「おい、とっとけよ」ぐらいの語だ。君がわたしに贈るのなら「挿架」とでも書きたまえ。「書棚の片隅にでも、おさしはさみおきください」ということになる。(池田弥三郎『郷愁の日本語――市井のくらし――』)
この文章は「文藝春秋」の昭和54年7月号に掲載されたのだが、読者からの反響が大きかったようで、その中におそらく異論もあったのであろう、翌月号で池田自身が釈明することになった。
恵存という語は、もともとは謙辞ではなく、「とっておけよ」といったような意味だということは、だいぶ以前のこと、中国文学に造詣の深かった、なくなった私の叔父、池田大伍から聴きました。その後、五、六年前だったと思いますが、吉川幸次郎先生のお説として、土岐善麿先生からうかがいました。そのとき、やはり土岐先生が、「挿架」という語があることを、吉川先生のお説として、教えてくださいました。(中略)
わたしの小文は、もちろんああした戯文ですから、ことばの慣用や通用をことさらに無視して、わざとペダンティックに、語原説を持ち出して、話を効果的にいたしたわけであります。
言うまでもなく、ことばは、その慣用や通用は無視できません。近代・現代のことばの辞典は、その慣用・通用を主として、説明いたしますし、それで十分に現代語の辞書として役立ちます。恵存が、かりにもとはどうであれ、今日、謙辞として通用し、慣用していれば、それはその限りにおいて、あやまりではありません。(中略)
ざれぶみで、とんだおさわがせをいたしました。(同書)
ことば遣いというのは時代とともに変わっていくもので、語源に過度に拘泥する必要はないと、泰斗も保証してくださっていますね。「恵存」の代わりに「挿架」と書いておくと、学のある人と思われるでしょうが、「知識をひけらかしやがって」と逆に顰蹙を買うかもしれません。

世の中にはさらにうるさい人がいて、署名するときは相手の姓だけを書くべきで、名を書いてはいけないという説があるらしい。「四ッ谷龍樣」と書くのは失礼で、「四ッ谷樣」としなければいけない。これは、「この世界で四ッ谷樣と言えば龍様のことに決まっております。わざわざ下の名など書くのは、あなたはそれほど知られておりませんと言っていることになってしまいます」という意らしい(≫こちら)。

しかし名字帯刀がサムライにしか許されていなかった時代とか、本を出版したり受け取ったりするのが数少ない知識人の特権だった時代ならいざ知らず、これだけ出版事業が大衆化した今の時代、「鈴木様」「山田様」などと書いてもいったいどこの鈴木さんやら山田さんやらサッパリわからないことになってしまうだろう。こういうルールはもはや賞味期限切れということにしておきたいものだ。

3. 名刺への署名

さて、世の中にはもらった本をろくに読まずに古本屋に売ってしまう人がいる。その結果、刊行後日を経ずして古本屋に自著が並ぶことがあるのは、著者としてはあまり喜ばしくないものである。しかもそこに署名がしてあると、送り主は安く見られた感じがしてしまうし、受け取り主はいかにも情の無い人のように思われてしまうだろう。そこで、署名は本には直接せず、名刺を挟んでそこにサインするという手を考える人もいる。古本屋に売る時にはこの名刺は捨ててくださいね、そうすればお互い嫌な思いをしなくてもすみますから、と暗にお願いしているわけだ。ところが、中にはそれを捨てることすらサボって、名刺ごと古本屋に売ってしまうものぐさ太郎も存在するから、厄介である。石垣りんの詩「へんなオルゴール」は、そうした事例について語ったものだ。
ところは銚子
ある年 海に近い国民宿舎で
歴程夏のセミナーが開かれた。
二日目遅れてかけつけた私が夕食を終えたころ
玄関ロビーに見知らぬ紳士の来訪あり
古本屋で買ったアナタの詩集『表札など』に
サインせよ とはかたじけない。
そのとき本の間にはさんであったのも
捨てずにおきましたと。
捨てないばかりか
ひらいて見せた扉の上にぴったりはりつけてあった
一枚の名刺
丸山薫様 石垣りん
おお 帆・ランプ・鷗!
(「へんなオルゴール」より――詩集『略歴』所収)
この件を石垣はエッセイにも書いていて、その中でなぜ丸山薫は名刺一枚捨てる手間すら省いたのかと恨み節を綴っていた。

人から頂戴した本を処分するときには相手の感情を害さないようによくよく配慮しないと、後から無念の思いを詩や文章に書かれかねませんよという、いわばマナーに関する教訓譚としてこの詩をときどき思い出す。

4. 人にサインを求められたら

以上が献呈本に自分からサインする場合の話。

続いては、本を買ってくれた人から「サインして~」と頼まれたとき、どうするかである。

有名人のサインがほしいというのは、時代や国を問わない人間の欲望のようで、『おくのほそ道』には、全昌寺に泊まったときに若い僧たちが紙と硯を持ってきて「サインしてぇ~」と芭蕉に追いすがる場面が描かれている(私も小学生の時にはサッカーの杉山選手のサインをもらったし、大学生の時には、ピアニストのマルタ・アルゲリッチにサインをもらいに、楽屋出口へ押しかけたっけ)。

せっかく本を買ってくれた人には、できれば機嫌よくサインに応じてあげたいものである。私の場合は通常、相手の名前、句集の中の一句(散文集の場合は一文)、自分の名前、日付というのをセットにして署名している。日付も入れるのは、後で触れるが西洋風のやりかたを真似たもの。このへんはいろいろで、高名な作家がサイン会で次々サインしなければならないときには、自分の名前を書くだけで精一杯だろう。あれこれ情報を書き込むのは本を汚すから、サインは著者名だけでよいと考える向きもあるに違いない。

以前ネットで読んだ話だが、タダで手に入れた本に著者のサインをねだり、それを古本屋に叩き売った人物がいるという。つまりサインをねだったのは、本の売値を少しでも上げてやろうという下心によるものだったわけだ。心からの厚意がしばしば裏切られて逆用されるのは、残念ながらサインに限らず世の中によくあることのようだ。

5. いろいろなサイン

さて、最後にいろいろなサイン本の実例を見てもらおう。

塚本邦雄『増補改訂版 薔薇色のゴリラ――名作シャンソン百花譜』(北沢図書出版)


塚本先生は万年筆を使うとき、ペン先の表裏をさかさまにして字を書かれていた。「専門家はこういうペンの持ち方を嫌うんですけどね」と言いながらサインしてくださった。さかさまに持つせいで、字に鋭角的な造形が生まれ、そこに先生の個性がよく表現されている。

ところで余談だが、「今日はサインを求められるかもしれないな」と予感したら、サイン用の自分のお気に入りのペンを持ち歩くようにしたい。好きなペンでサインすると、気合も乗るというものである。ペンの持ち合わせがなくて相手の筆記具を借りてサインするのは、他人のパンツを穿いて歩いているような気がして、私はどうにも落ち着かない。

鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)


画像は素粒社のツイートより。

この本は見返しが黒い紙だったので、いったいどうやってサインするのだろう、と考えていた。もう2枚めくって白い扉にサインするのかな、と思ったら、黒地の上に銀ペンを使って署名している。銀ペンのせいで金属的な印象が生まれた。普通の万年筆でこういう崩した絵画的な署名をするとちぐはぐになってしまうのだが、筆記具をくふうすることで変格的なサインも可能になってくる。

個性を表現するために独自にカラーペンを使用する人もいるが、そうしたインクは変色したり褪色したりする可能性があることは想定しておいたほうがいい。墨や大手万年筆メーカーのインクは、そうした変化が少ないことがすでに確認されている薬品なので、普遍的に利用されるのだ。

亜樹直『神の雫』(講談社)


亜樹直は『金田一少年の事件簿』『サイコドクター』など数多くのヒット漫画の原作者として知られている。『神の雫』はワインをテーマとした大河漫画で、神咲雫と遠峰一青の二人が究極のワイン「神の雫」とは何かを求めて競うという物語である。この漫画は日本だけではなく韓国でも大ヒットし、さらにはワインに関する知識教養を広めた功績によって作者がフランスにおいて芸術文化勲章など数々の顕彰を受けている。

実は亜樹直というのは2人の共同ペンネームで、姉と弟が共同で執筆している。お姉さんのほうと私は小中学校の同窓で友人であることから、飲み会ではよくとっておきのワインをご馳走になっている仲である。

わが家のトイレには『神の雫』全44巻と続編の『マリアージュ ~神の雫 最終章~』全26巻が山積みになっていて、それを引っ張り出して読み返すのがトイレに行く楽しみである。(汗)

このサインもそうした飲み会の席でお願いして書いてもらったもの。さすがに漫画本のサインということになると、堅苦しい署名は似合わない。性格としては色紙とか、野球選手のサインボールとかに近いものになるので、亜樹のサインもやわらかい崩し字になっている。サインとはある意味デザインの一部であるから、本の性格と署名の字体・内容は一致している必要があるだろう。まさに「字は人なり」である。

小津夜景『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)


白いページの中央にリチャード・ブローティガンの文章が印刷されている。
言葉とはなにもないところに咲く花々。あなたを愛している。
サインを小津さんに頼んだら、この引用句を輪で囲みながら、自画像(?)とローマ字の署名を書き加えてくれた。サインの入れかたがとてもうまく決まっているので、「最初からここにこういうサインをしようと思って文章を一行入れるレイアウトにしたの?」と本人に聞いたら、うなずいていた。造本にあたって署名のことまで想定するとは、よくそこまで考えるなあ。小津さんは策士ですね。

ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』(ピエール・ラフィット社)

ネットで外国語の署名の例を探していたら、ある古物商のサイトでガストン・ルルーの署名が見つかったので、紹介したい。


フランス人はこのように、扉の隅に斜めにサインするということをわりと好んでやる。この本では左上に書いているが、右下に書いたりとか場合によりいろいろである。ルルーは次のように署名している。
モード・パテ、わがミキとちびのマドレーヌの大事なともだちへ
楽しかった怪人の車の思い出をこめて
ガストン・ルルー ニース、1921年1月1日
フランス人は「××の思い出に」というような言いかたを好みますね。それから、署名した土地の名前と日付を入れる。

人名について補足しておくと、モード・パテは有名な映画会社「パテ社」の創業者であるシャルル・パテの娘。ミキとマドレーヌは、ルルーの息子および娘である。

版元のピエール・ラフィット社は、モーリス・ルブランの「怪盗紳士ルパン」シリーズを刊行した出版社でもあるが、ルルーは自分の「黄色い部屋の秘密」を「ルパン」がパクったと思ったため、二人の作家の仲は険悪だったという。

吉岡実『ムーンドロップ』(書肆山田)


おしまいに、ひとつ自慢をさせていただこう。詩人の吉岡実さんが、生前最後の詩集『ムーンドロップ』に妻の冬野虹と私のために書いてくださった献辞である。妻の名前のほうを先に書いてくださっているのは、吉岡さんらしいレディファーストの細やかな心遣いだ。

版元の書肆山田の事務所で、出来上がった本に署名しながら吉岡さんは「僕はこの二人の名前を並べて書くのが大好きなんだ」とおっしゃっていたそうである。

塚本邦雄先生も「虹というのは龍さんに合わせて考えたペンネームなんですか? ほお、違うんですか。とてもいい組み合わせですねえ」とおっしゃってくださったものである。虹というのは、古代中国では龍が空に横たわった姿だとみなされていたので、(龍を暗示するため)虫偏になっている。だから「龍」と「虹」はうまいペアになっているわけだ。私の名前は本名であるし、虹のペンネームも私と出会う前から使っていたものなので、示し合わせたわけでもなくこれは偶然の符合であるが。

『ムーンドロップ』を取り出し、表紙をめくって献辞を眺める。吉岡さんのひとことひとことが、思い出によみがえる。やがて目を閉じると、吉岡さんやあの世に行った人たちの姿が脳裏にありありと浮かぶ。心は在りし日へと飛んでゆき、すでに私はあの世の住人たちと語らっているのである。

(石垣りんの詩の所収探索にあたって、永島靖子さんのご協力をいただきました。記して感謝します)

【空へゆく階段】№37 解題 対中いずみ

【空へゆく階段】№37 解題


対中いずみ

「ゆう」3号には、2000年1月に行われた創刊記念句会の記録が掲載されている。「青」の精鋭たちや、友人の上田青蛙氏、夫人と三人の子供たちなど40名ほどが集った。主宰としての挨拶はこのたびもたいへん短いもので、「『ゆう』はあせらず着実に進めてゆきたい」「一誌を持つことにより、自分の句を見つめ直してゆきたい」と述べている。

3号の裕明句は以下の通り。太字は句集収録句。

 七草

いつになくこころしづかに年忘れ

口中に歯の尖りけり年の暮

外へ出てみれば明るし冬の山

霜柱目にあきらけく昼の酒

かつて見しごとき白昼霜柱

薺打ちながらみどりといひにけり

次男坊遠くへゆけりなづな粥

七草の仕事してねむたくなりぬ

寒の水この手にうけむこころして

強き樹にならむとすらむ厄落


【空へゆく階段】№37  「ゆう」の言葉 田中裕明

【空へゆく階段】№37

「ゆう」の言葉

田中裕明

「ゆう」2000年3月号

桜の木ひかりそめたり十二月  喜代子

「ゆう」の創刊にあたって、詩情を大切にしたいということを書きました。この句などは上質のポエジーが感じられます。あらためて、俳句における詩情とは何かを考えました。雰囲気や感情に流れるのではなく、季語がひろげる世界を具体的に描き出すこと。
「言の葉の多く遺りぬ龍の玉」は椹木啓子さんを悼む作品です。故人の面影がいきいきと浮かんで心にしみます。


書信さはやか切干に影生まる  昭男

この作者は季語から俳句に入ってゆく。一つの句会で同じ季語の作品を何句も出されます。句会で出句する八句なら八句という句がすべて同じ季語ということもあります。しかも一つの季語をいろいろな角度から詠んで、かならず発見があります。季語から入ってゆくことは、俳句のはじめであり、また至りつくところでしょう。


枯萩の吹かるる音のほかはせず  明澄

俳句は視覚の詩という側面があります。具体的にモノを描き出すことが俳句の強みです。「物の見えたるひかり」とはそういうこと。その一方で聴覚は俳句に深みを与えます。耳をはたらかせると一句が味わいぶかくなる。「踏みゆくは枯萩の影ばかりなる」こちらは、眼のよく効いた作品です。


菊を焚く用意もありぬへんろみち  秀子

四国以外の住人にとっては、遍路とは歳時記の知識の中のものですが、四国の方にはもっと日々の暮しの中に近しい何物かでしょう。菊を焚くという、さりげない日常と遍路道が交錯するところに面白みが生まれました。

衣笠山眠り双ヶ丘眠る」は、やはり椹木啓子さんにたいする追悼句。二冊の句集名がすなわち一景をなすところに啓子さんの暮しがしのばれ、また作者の共感も伝わります。


貸餅や越中ことば行き交うて  紀子

さて、富山の訛というと具体的には思い浮かばないけれども、こう言われると越中ことば以外ではいけないというのが俳句の妙味です。貸餅という季語も、なつかしくかつユーモラスなかんじがします。


酔ふほどに大人も踏める霜柱  愛

地球の温暖化ではありませんが、最近は霜柱を見ることが少なくなりました。都会ではそもそも土を見ることがない。残念なことです。霜柱も子供の頃の思い出のものになってゆくのでしょうか。この作品も子供の目で見た大人のすがたであるようです。あるいは大人の中にある子供ごころ。


笹鳴や僧に上ぐ経覚束な  和代

昨年末に牧野春駒さん椹木啓子さんをあいついでうしないました。私たちにとってたいへん悲しいことですが、ご家族の方の無念さはいかばかりかと思います。この句、覚束なに悲しみがあらたなことが伺われます。


象とても横顔たのし冬の空  栄子

動物の顔が楽しくも見え、悲しくも見える。それは見る人間の側の気持の反映でしょう。象の絵はいつも横顔のように思われます。そこにユーモアが生れます。冬の空という大きな季語が全体を包みこんでいるのも手柄です。


枯野から身をはがしたる男かな  龍吉

枯野に伏していた男が体を起こした姿を、「身をはがしたる」と大仰にとらえました。もちろん男は作者自身。身をはがしたと認識することによって、それまでの枯野との一体感がよくわかります。認識イコール表現であることも俳句という詩の特徴です。


大原や短日ことに人の情  青蛙

大原や、と歴史のある地名からおおぶりに詠いだすところがこの作者の持味です。はや日も暮れかかってきたことを言うだけですが俳句はそれでじゅうぶん。


【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】The Modern Folk Quartet「This Could Be the Night」

【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】
The Modern Folk Quartet「This Could Be the Night」


憲武●ビーチボーイズのカヴァーということで、山下達郎の「darlin」を推薦しようと思っていた矢先、フィル・スペクター獄中死というニュースが飛び込んできましたので、急遽、The Modern Folk Quartetで「This Could Be the Night」です。

 

憲武●この曲、ハリー・ニルソンが作詞作曲、フィル・スペクターがプロデュースしてます。ニルソンがブライアン・ウィルソンへ捧げるために作った曲です。山下達郎も「Go Ahead!」「Big Wave」、それぞれのアルバムでカヴァーしています。もちろんブライアン・ウィルソンもカヴァーしてますね。

天気●よく知ってる曲な気がするのは、ブライアン・ウィルソンので聞き覚えがあるからですね。このヴァージョンは、ペダルスティール・ギターの裏メロが印象的で、そのせいか、いつものフィル・スペクター・サウンドよりも、やや白っぽい仕上がりです。

憲武●この動画はフィル・スペクタープロデュースのコンサートフィルムで、amazonでも入手できますが、スペシャルゲストがデビッド・マッカラムと、出てる人が錚々たる顔ぶれですね。ロネッツもくるくる回っててかわいいし。いかにも60年代!って感じです。

天気●顔ぶれを観ているだけで、ワクワクして、胸がいっぱいになります。おそろしいことに、全篇が観れますね(≫こちら)。ここから切り取って、個々のシンガー、個々のグループの動画としてYouTubeに上がってるものも多いようです。

憲武●そですね。第546号で推薦したロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」もここからの動画だったようです。僕はこの曲、山下達郎のアルバム「Go Ahead!」で知ったんですが、曲の印象がなんかキラキラしてていいんですよね。光ってる雨が降ってる感じもするんです。冷たくはなくて、温かい光の雨。

天気●夜の曲なのにね。

憲武●はい。なんか夜の感じは希薄です。歌詞の内容は彼女と初めての夜を迎える17、8歳、まあ17歳でしょう、の少年のドキドキ感を歌ったもので、苦笑いしてしまいますね。フィル・スペクター自身一番乗ってて、輝いてた時代だと思います。ウォール・オブ・サウンドって、とやかく言われがちですが、熱に浮かされてる感じがあって、それが、こういった曲の場合、ピタリとハマるんですね。ウキウキしてくるサウンドです。 


(最終回まで、あと824夜)
(次回は西原天気の推薦曲)

〔今週号の表紙〕第718号 枯れ 西原天気

〔今週号の表紙〕
第718号 枯れ

西原天気


枯草や枯木、この時期はどこでも目に入りますが、町なかや庭は常緑樹も多く、また枯草・枯葉を清掃・除去することが多い。その点、河原は〈枯れ〉をふんだんに味わえます。


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後記+プロフィール 第718号

後記 ◆ 西原天気

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no.718/2021-1-24 profile

■四ッ谷龍 よつや・りゅう
1958年札幌市生れ。「むしめがね」編集発行人。句集に『慈愛』『大いなる項目』『夢想の大地におがたまの花が降る』。

■対中いずみ たいなか・いずみ
1956年生まれ。田中裕明に師事。第20回俳句研究賞受賞。句集に『冬菫』『巣箱』『水瓶』(第68回滋賀文学祭文芸出版賞、第7回星野立子賞)。「静かな場所」代表、「秋草」会員。

■小林苑を こばやし・そのを
1949年東京生まれ。「月天」「百句会」「塵風」所属。句集点る』(2010年)。 
 
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。  

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter 

2021-01-17

週刊俳句 第717号 2021年1月17日

 第717号

2021年1月17日




木田智美 ひろく凍つ 10句 ≫読む

…………………………………………………………
 
【句集を読む】
暮らしのひとこま
津川絵理子『夜の水平線』を読む……小林苑を ≫読む
 
中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
ビーチ・ボーイズ「I Can Hear Music」 ≫読む

〔今週号の表紙〕ダイゼンとシロチドリ岡田由季  ≫読む
 
後記+執筆者プロフィール……福田若之 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

後記+プロフィール717

 後記 ◆ 福田若之

二週にわたる新年詠につづけて、今年はじめての通常号です。 

あれよあれよという間に小正月も過ぎてしまいました。この勢いで節分も来てしまうのかと思うと、ぞっとしない。

それではまた次の日曜日にお会いしましょう。


no.717/2021-1-17 profile


■木田智美 きだ・ともみ
1993年大阪府生まれ。
俳句雑誌「奎」同人。
 
■小林苑を こばやし・そのを
1949年東京生まれ。「月天」「百句会」「塵風」所属。句集点る』(2010年)。
 
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。  

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。「炎環」同人。「豆の木」「ユプシロン」参加。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「オルガン」に参加。第1句集、『自生地』(東京四季出版、2017年)にて第6回与謝蕪村賞新人賞受賞。第2句集、『二つ折りにされた二枚の紙と二つの留め金からなる一冊の蝶』(私家版、2017年)。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。

【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】ビーチ・ボーイズ「I Can Hear Music」

【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】
ビーチ・ボーイズ「I Can Hear Music」


天気●ビーチ・ボーイズのカヴァー第3弾てことで、「I Can Hear Music」。ただし、これまでとは逆に、ロネッツのオリジナルをビーチ・ボーイズが1969年にカヴァーしています。


天気●もともとフィル・スペクター・サウンドだったのが、ビーチ・ボーイズ風になるかというと、そうでもなくて、いいかんじに融合してる。

憲武●カール・ウィルソン、頑張ってます。

天気●ビーチ・ボーイズのなかでいちばん好きなのが、この曲で。オリジナルもたくさんあるのに、カヴァーのこの曲がいちばん、だなんて、ちょっと申し訳ないのですが。

憲武●僕は、この音楽千夜一夜で天気さんが一番最初に推薦した「スマハマ」が好きですね。でもこの「I Can Hear Music」はラリー・ルレックス(のちのフレディ・マーキュリー)を初めとして結構カヴァーされてます。

天気●「キミがボクに触れると、音楽が聞こえる。そばにいると、音楽が聞こえる♪」というサビの歌詞は、音楽の本質、恋の本質に迫るものですし、メロディも明るく胸いっぱいな高揚感がある。歌いたくなりますよね。

憲武●はい、つい口ずさんじゃいます。その制作の背景にどんなことがあったにせよ、作品は作品として永遠に明るいです。

天気●動画を見ると、リードヴォーカルをとってるカール・ウィルソン、それからドラムを叩いているデニス・ウィルソンはもう亡くなりました(それぞれ98年、83年沒)。長男のブライアン・ウィルソンは、精神的に調子の悪い時期だったんでしょう、姿が見えなくて、65年からバンド加入のブルース・ジョンストンがベースを弾いてます。味わい深い動画です。

憲武●そうですね。この曲、改めて聴くと、よく出来てる曲ですね。ロネッツの解散直前の頃の曲ですけどね。

天気●でね、みょうなことに気づいちゃったんですが、ロネッツのオリジナルとこのカヴァー、キーが同じなんです。女性が歌ってるのを男性がカヴァーすると、キーを変えるのが普通なんですが、これは同じ。ビーチ・ボーイズって、声が高いんだなあ、って、ちょっと吃驚したわけです。


(最終回まで、あと825夜)
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

10句作品 木田智美 ひろく凍つ


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木田智美 ひろく凍つ

ふゆかもめ出航式はオンライン

お歳暮の煎餅つつむ青海波

あかぎれに悲鳴ちいさく手を洗う

鳥かごにパーカーかぶせたらおやすみ

去年今年いちどやりたき天の声

雪いろの冬毛のじかんみじかいね

赤いひと赤いマスクを選びけり

操演の人形の距離ひろく凍つ

スリッパもこもこ踵の透けて黒タイツ

冬の星フルフェイス脱ぐ精米所


【句集を読む】暮らしのひとこま 津川絵理子『夜の水平線』を読む 小林苑を

【句集を読む】
暮らしのひとこま
津川絵理子夜の水平線』を読む

小林苑を


鏡餅開くや夜の水平線  津川絵理子(以下同)

選ぶのに困る。どの句にも静けさ、穏やかさ、懐かしさという、和色のような微かなくすみがあり、佳い悪い、好き嫌いで選ぼうとすると、どれも佳いし好もしい。淡々とした日常、住み慣れた定型。俳句が伝えてくれる好いものが詰まっている。

掲句は句集のタイトルとなった句であろうが、実は、この句集ではむしろ特異。句またがりで二物衝撃或いは衝撃的。切れの強さも他の句にない気がする。だからと言ってなにがあったというわけではなく、鏡開きという年始行事の終わりを、いつも年のように行ったというだけのこと。むろんハレからケへの移行の行事でもある。この「や」をどう捉えたらよいのだろう。餅を割ったとたん、現れるのは夜の水平線。白から闇へ、動から静へ。この突然の場面転換はなんだろう。

収められた句は作者自身が言うように「日々の暮らしのなか、ささやかだけれど心に留めておきたいもの」に違いないが、当たり前に過ぎてゆく日常のひとこま、ひとこまに、夜の水平線が横たわっている気がしてくる。心に留めるのはさり気ないひとこまの中にある永劫のようなもの。人の生よりも遥かなもの。普段、わたしたちは気にも留めないで過ごしているけれど、ふっと気づくことがある。

冬の雲疾し一本の電話のあと

なんの電話だったのかはわからない。冬の雲が動く。「疾し」の不穏さ。大仰に言えば生きていくとはこんなひとこまの繰り返しでもある。余計なことは言わなくてもいい。それは俳句そのものだという気がする。

山の音太きつららとなりにけり

金盥ぐわんと水をこぼし冬

鎌倉の立子の空を初音かな

麻服をくしやくしやにして初対面

加茂茄子のはちきれさうに顔うつす

たどりつくところが未来絵双六

春寒き死も新聞に畳まるる

ちよいちよいと味噌溶いてゐる桜どき

病院の廊下つぎつぎ折れて冬

水に浮く水鉄砲の日暮かな


津川絵理子『夜の水平線』2020年12月/ふらんす堂

〔今週号の表紙〕第717号 ダイゼンとシロチドリ 岡田由季

 〔今週号の表紙〕
第717号 ダイゼンとシロチドリ

岡田由季




干潮時の海岸で出会った千鳥の仲間、ダイゼンとシロチドリです。シロチドリ(小さいほう)は数えきれないほどたくさんいましたが、ダイゼンは一羽のみでした。


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2021-01-10

週刊俳句 第716号 2021年1月10日

第716号

2021年1月10日

 

■2021年「週刊俳句」新年詠 (2)

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二〇二一年新年詠(2) (到着順)

はつはるの瞳も耳も萌ゆるべく 赤羽根めぐみ

汝はや酔ひて年始を告げわたる   中矢

竜の玉世界を少し明るくす   神山

マスク干す二日に風のひとつなき   村上

元日の夜や電話して月痩せて    戸澤光莉

お鏡丸くて牛糞ほかほか 平和像    堀本

筆始なんと書くかをぐずぐずと   池田澄子

マンションの門松に傘刺してある   小林鮎美

観覧車の真中を出づる初日かな   松野苑子

金継ぎのごとき雲端初日の出   小谷由果 

歌かるた肉食獣のやうに待ち   西山ゆりこ

おだやかに危機のありけり去年今年 しなだしん

ちよろぎちよろぎ夢の残像転がせり       常盤

四日だとばかり思つてゐた三日   柘植史子

屠蘇散を訝るをのこめのこかな   岸本由香

この猿子届くや陰のアパルトマン   薮内小鈴

雲は鰐喉のあたりに初日溜め   黒岩徳将

太箸といつもの箸と混ざりをり   千野千佳

卒論の長い脚注初筑波   郡司和斗

酒瓶を取りにゆく間に年新た   星野いのり

幾重にも藍を重ねし初御空   坂西涼太

御降を飲みこむ海の息づかひ   鈴木総史

三ヶ日ゾンビ映画を見まくった    山本真也

賀状じまひした筈なのに賀状くる   渕上信子

泣いてる子は泣いてるままに初写真   吉田

牛日の風門に貼るホッカイロ    青萄

冬襖家族ぱらぱら画面去る   斎藤悦子

火星より土星へ飛びぬ絵双六   宇志やまと

のつぺらぼうのやうに過ぎゆく三が日 金子

LGBTのGとしての姫始   雪我狂流

初夢に叫び続けてゐたらしく   松本てふこ

花火爆竹鐘乱打して去年今年    村越

おかけになったでんわげんざい松の内 なかはられいこ

敵といふもの今は有り人勝節   橋本

初日記本日猫の訪ひ来   青山酔鳴

去年今年教会の戸が開いてゐる  小久保佳世子

人日の猫のすり寄るふくらはぎ   大野泰雄

乳清の濁りの豊か日の始め    南方日午

人日や菓子折りの紐とつておく   有瀬こうこ

可愛さや干支三周をまつたうし   佐藤文香

朗らかな声重ね合ふ初電話   相馬京菜

初山河ひとすぢかかる蜘蛛の糸   中西亮太

んぐうるると擦り寄る猫を初抱つこ  茅根知子

寒灸すえたしCOVIDにあの人に  春日石疼

読初は今年はゆけぬ旅日記   内村恭子

独楽飛ばす子を怖れをり姉妹   羽田野

注連飾る項が夜気に触るるとき   森山いほこ

側溝にビニールボール松の内   藤田

ふっと気付けば寒苦鳥なり   岡本遊凪

初東風や朱華にひらく工芸茶   このはる紗耶

ゆらゆらと初湯のところどころ夢  月野ぽぽな

声高にヤンキーら来て初詣    悦史

初凧の糸をたどれば父がゐる    津川絵理子

お雑煮にタイタニックが沈没す    陽子

赤べこの赤あたらしい問いとして   八上桐子

六日には七百円の苺かな   松本

次々に死者の挨拶去年今年    石原

ちはやふる絵札に伸びる手と手と手 小林苑を

初仕事一本もなきちんすかう   龍翔

なまはげの二匹で来れば男女かな   岡田由季

お飾を頭に装着しピン芸人   亀山鯖男

うみうし はつひ うみ ありどころ 高山れおな

鳥の木に朝日満ちたる淑気かな   大井さち子

半島の先端目指し初電車   望月とし江

冬桜すこし寄り添ふことゆるし   藤本夕衣

道中双六あそびごころも遅れたり     谷口慎也

黒豆や壊るゝものに民主主義   今朝

ぽつぺんの耳鳴りぽこぼこと小人    浅沼

人日の七つ並べるハッシュタグ        瀬戸優理子

しょうが湯が濃すぎるのかもこの単語  二村典子

読みはじむ読むほかに興あるべしや 神保と志ゆき

見晴らせば故人たなびく初筑波   岡野泰輔

初空へおほきく口をひらきけり   藤原暢子

初空のそこへ地球を蹴りとばす   大西主計

元朝の縁取る匙のひとつきり   春野

(あごひげ)(くちひげ)に遭ふ初仕事   水野大雅

初風や額にあたらしきニキビ    水野結雅

大風の七草粥となりにけり   川嶋一美

ほのぼのと街の灯届く姫始   町田無鹿

若き水老いたる山の初景色   日原

曳猿が見得を切ります斬られます     藤井祐喜

竹馬にいとこのような雲かかる こしのゆみこ

飲み物にトロミつけられ年男   喪字男

舌で知る臍の浅さの七日たる   山田耕司

七日を過ぎて思ひ出す事もあり   西村麒麟

うみとそら水平線のある賀状   高橋洋子

一枚は日本郵政(株)よりの賀状   松尾清隆

枯菊の密の砕けてゆくけむり   鴇田智哉

元旦の寝覚めの床の虚しさよ    雅樹

くひつみや積読の先づ一書採る   田中目八

初春やハルルハルハレひかり降る  瀧村小奈生

親族の舌の数ほど御慶かな   近江文代

松過ぎて剃るものおほき体かな   樫本由貴

コンビニの賀状いちまいだけ摘む   桐木知実

七種の地霧へ雪の降りにけり   若林哲哉

羊日に思う肢体を連れている   青山ゆりえ

小寒やクラリネットの音高し   宮本佳世乃

双六も箱根越えなる疲れかな   井原美鳥

初日出づ金・銀・鉄の斧をもて   飯島章友

元日や売られておらぬ欲しい花   うっかり

大福茶母より家系図の話   鈴木春菜

初夢や琳派の雨をさめぎはに   太田うさぎ

人日の電気ポットが漏れている   

旧年の葉に風の紋様雨の綺羅   下坂速穂

眺めては灯りがあたり室の花   依光正樹

見えて来るものを見るべく初旦   依光陽子

子を不意に泣かせてをりぬ七日かな  田口茉於

人の輪をはなれて開く初みくじ   進藤剛至

池見ればしづもる枯葉福笑   上田信治

去年今年ふいに時間の跳ねあがる すずきみのる

 


〔今週号の表紙〕ユンボ戦隊重レンジャー吉川わる ≫読む 

後記+執筆者プロフィール……上田信治 ≫読む


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