【2021落選展を読む 2(了)】
……上田信治
以前「成分表」にこんなことを書きました。
〈ぺたぺたと地を打つ鱏の尾鰭かな 岡田耿陽〉(昭和4年)この句はすごくよく書けていて、ぺたぺたする「尾鰭」のことしか言っていないことで、かえって本体である「鱏」がただそこに平たくあるというばかばかしさに届いている。俳句は、そこに書いていない何ごとかに届けば、ひとまず「書けた」と言える。そこに書かれていない何ごとか、すなわち「外側」があるかどうか──。
俳句の、数ある判断と受容の指標の一つですが「言いおおせて何かある」とはよく言ったモノで、自分は、たとえばそんなことを頼りに俳句を読んでいます。
(*)は一次予選通過作
11. 小西瞬夏 鳥慰(*) ≫読む
炎帝やうしろの蛇口あけつぱなし
「炎帝」は全空間を支配しているけれど、自分のうしろには、開けっぱなしの蛇口がある(え、まさか「炎帝」の「うしろ」なのだろうか?それはそれでおかしい、鬼コーチみたいで)「炎帝」はその季語じたいが擬人化だから、句を甘く観念的に傾けるけれど「うしろ」という語をもってきたことで、「炎帝」=全空間との位置関係というナンセンスを発生させた。これは、発明と言っていいのでは(そして無意識かも知れないけれど、沢木欣一の〈塩田に百日筋目つけ通し〉が響いている)。
青空は穴石鹸玉しやぼんだま
このような理知や観念にも「外側」はあって、たとえば「青空は穴」というワンアイディアの余白を、季語をリフレインして何も述べずに乗り切って「そう思ってしまった自分(がここにいる)」という景を立ち上げることに成功、理に落ちていない。これもまた一つの発明。
鳥籠のすみずみ冷ゆる真昼かな
白魚のからだからまたからだかな
鳥交る伎芸天女のぼんのくぼ
一語一語泡立つやうに豆の花
13. 青島玄武 紫陽花の門 ≫読む
荒梅雨やときどき壁を作る人
「壁を作る」はもちろん心理的な「壁」ととるべきなんだろうけれど「荒」の一文字があるために、いやおうなくざらっとした壁が想像され、結果、ときどき「荒壁」を塗り上げる困った人が発生する。「親子酒」のマクラを連想する人もいるだろう。
紫陽花の門に二人の巡査かな
十時から十九時までの作り滝
「巡査」の紺の制服も「作り滝」の稼働時間も景物となっている。この人の世界はバカバカしく楽しい場所だ。
14. 薮内小鈴 遊覧船 ≫読む
立雛に影さす棕櫚の戦ぎける
棕櫚という異国風の植物と立雛の取り合わせ、モダンな金屏風のような絵柄で、さらに「戦」の一字があることで、安土桃山?とかそんなことを楽しく連想。
アイディアを押し込むようにして書くことで、内容と形式が摩擦して詩が発生することに賭ける、そういう書き手だと思っていたのだけれど、アイディアの充満振りはそのままに、それを俳句的美意識の範囲に押し込むことに成功しつつあると見受けた。
猫柳しづくは枝を行き渡り
さへづりの向かふ方角崖近し
天井の光りは反射目借時
竹落葉今来し人と入れ違ひ
蟻速し雲はいづこか穴が開き
坂道を芋虫よぎるずれながら
逆さまに八手の花を池の水
万国旗あふぐ冬帽もう一つ
ゆつくりと魚のほかも煮凝りぬ
15. 仙保恭子 感光(*) ≫読む
これといふ竿を振り出す秋日かな
何を言い出すのかという切り出し方、もったいぶり方が、ひょういっとはずみをつけて仕掛けを飛ばす、魚釣り竿の運動を思わせ、さらに「秋日」でカメラを引いて、釣り人のシルエットを見せるという、ずいぶんと技の効いた句。万太郎みたい。
〈新宿のビルの紙めく春の雨〉〈釣銭もやさしく貰ふ帰省かな〉〈落ち着かぬ風に花火の打ち上がり〉のあたり、やや常識的とはいえ、気分のよさはある。
門口のへうたんのこと話したき
秋光やとろけるやうに砂を盛り
しかしこういう、モチーフを「言う」ことにやや失敗しているような「この人は何を言っているんだろう」と思わされる句に、自分は「外側」を、俳句の味な部分を感じる。
16. 綱長井ハツオ 溢るる泥 ≫読む
農具市棒と呼ぶには太きもの
三月の鞄なんでも入りさう
冷房やリモコンに部品の継ぎ目
腰の下まで手を垂れて夏の果
俳句のぶっきらぼうなナンセンスは、創作意識のコントロールの「外」に現実がある、ということをメッセージしているから尊い(青島さんの句にも感じたことだ)。
「三月の鞄」というポエミーなモチーフに対する感想がそれ? 人間、手を垂れると「腰の下」までくるのはふつう!しかし「それ」を言うことは「意識の果て」とでも呼ぶべき、ぎりぎりの外側につながっているのだ。
19. クズウジュンイチ 泥鰌鍋(*) ≫読む
荷車に春と箒を載せて曳く
「春」を「曳く」という修辞はロマンチシズム過剰なのだけれど「荷車」と「箒」という道具立てで、その感傷を、書く自分ではなく、荷車を曳く人の内面に押し込めた。手ぬぐいでほっかむりもするといいと思う。
たまに来て軽き列車や葛の花
「たまに」というのは、1時間に一本くらいか。その列車を待っていたわけではなさそうなので、この人は駅ではなく、野山か里のどこかにいるのだろう。その列車が「軽い」のは、きっとそこに乗客の人影がまばらであることを、この人が知っているからで、つまりその列車のこの世のものとしての存在が軽いのだ。
人を拒む荒廃のイメージのある葛という植物に花が咲くことで非現実味が加わる(飯島晴子や永田耕衣、あるいは下村槐太の「葛の花」の句を参照されたい)。からからと軽い音を立ててやってくる鉄道車両の、存在のさびしさとかわゆさが、それに照応している。
海荒れて栄螺の奥がふかみどり
日跨ぎの鍋に火を入る花椿
出来合ひのサラダを提げて花の雨
台風は速く間違ひ電話かな
豆苗の根が張る月の台所
行く秋やしなだれ折れてピザの先
ひさびさに会つて白葱焦げてゐる
昨年の「静かな野球」の俳句の言葉じたいを攻める書きぶり(これも強く外側を意識させること)からすると、だいぶ分かりやすいという気もするけれど、その分、ヒューマンな手ざわりがある。
20.21. ハードエッジ プランA「御国の宝」≫読む プランB「汗の笑顔」≫読む
ざあざあと夏も近づくマンホール「プランA」
横にして傘をバサバサ梅雨の日々「プランB」
この擬音を交えた二句の「雑さ」に注目。「夏も近づく」の唱歌の歌詞の放り込み、梅雨の「日々」と急に意識の幅を広げる展開という、はっきり読みどころのできている句を、このように早い(速い)文体で書くことには、たぶん可能性がある。
梅雨明けの小学校が乾くなり
焼そばの人と相席掻き氷
捕虫網幼き兄を先頭に
地球儀と西日の部屋の全てかな
以下、拾遺です。選ばせていただきました。ご応募ありがとうございました。
5. 片岡義順 舞うて舞うてなんの微熱や蝶の夢 ≫読む
目刺し手にテレビと喧嘩するおとこ
6. 松尾和希 メキメキポッ ≫読む
春さむし目ぐすりのキャップであそぶ
7. んん田ああ 死後に聴く落語の落ち ≫読む
嚙みあとに続く苺の後半部
ばけもののようでたてもの秋の暮
8. 恩田富太 さみどり ≫読む
半月や宿の蛇口の「をん」と鳴り
紫で輪郭を描くざくろの実
9. 伊藤波 ひかる ≫読む
春の長雨オルガンに木のこころ
蜂がきて手紙に蜂をかき添へる
10. 加藤絵里子 ちぎり絵 ≫読む
春の雨卵白ねむる冷蔵庫
12. 川島由紀子 間取り図 ≫読む
キッチンの窓に星来て木の芽和え
水仙の咲いた日空が好きと母
17. 夜月雨 呼吸器不全 ≫読む
天才と馬鹿の間で蜆汁
ひとりずつ消えていったら夏の宵
18. 垂水文弥 去ル・ド・死ネマ ≫読む
はんざきを見た晴なのに晴だから
こんなにも父は糸瓜を死後のため
石榴打ち落とせば西の見えにけり
綿虫のひいふう数へ切れぬかな
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