第657号
2019年11月24日
【歩けば異界】⑧
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【おしらせ】
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毎週日曜日更新のウェブマガジン。
俳句にまつわる諸々の事柄。
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【週俳10月の俳句を読む】
ツッパリ
田中目八
始めに私自身の話で恐縮ですが、普段俳句を読んでいるとき、その句の意味を考えたりして読むことは無いんですね。
なので何となく良い!とかグッとくる!という、言うなればキン肉マンにおける「屁のツッパリはいらんぜよ」とそれに対する「言葉の意味はわからんがとにかくすごい自信だ」のレスポンスのようなものが興るかどうか。
ということでこう改めてそれらを言葉にして書き表すことができるのだろうかと、まず「鑑賞」の意味を調べるところから始めたのですが、結局力量不足否めなく「鑑賞文」は今回諦めて、潔く?メモ書きのような体のままでゆくことにしました。読み難いことご容赦ください。
◆ありえない音楽が聞こえる 青本瑞季
タイトルゆえに全句に音楽の要素を見出そうと思ったのだけれど残念ながら読み取れず。また、タイトルが14音だったので各句の前や後に付けて読んでみたりもしました。個人的に、最近特に連作について考えていたのもあり、季語の三旬の並びなど興味深く読ませていただきました。また、偶然かもしれませんがご姉妹であるということの先入観ゆえか、荻と萩の句を一句ずつ、眼の奥をと目に奥を、棗、舟、芒、菊、(もしかしたら鹿も?)と青本柚紀さんの作品と共通する季語、言葉を遣っているのも興味深かったです。
夜ゆゑに文月は草木はれやかに 青本瑞季
文月は秋、七夕に因むということでやはり夜と月に親しい。はれやかといえば太陽の照る昼を思うが、文月だけは違うのだろう。草木萎れる秋、草木も眠る夜であるけれど月の光ります文月となれば歌いだすのかもしれない。
澄む秋はあばらのこゑで軋みつつ 同
激しい運動であばらが軋んだような、それが声に聴こえるというのならわかるのだけれどあばらのこゑで軋む、という。澄む秋は音もよく聴こえる、ということなので普段は聴こえぬあばらの声も聴こえる、寧ろあばらがもっと、もっとと身体を軋むほどに動くことを要求するのだろう。また、軋めば軋むほどに秋は澄んでゆくのかもしれない。
荻の袖眼の奥を歌たちのぼる 同
間違って検索したら浄瑠璃「袖萩」を知った。要注意、袖萩ではなく荻の袖。歌たちのぼるということで荻の声を連想する。袖は花穂のことかしら。恐らく風にそよぐ荻の音に眼を閉じて耳をすませた、するとその音がふっと消え、歌がたちのぼる。それは人ならぬものの歌ゆえに耳では聴こえない。しかし「眼の奥に」ではなくて「眼の奥を」だ。歌が立ち上るのではなく歌達が上る、なのかしら。恐らく前者だろうけれど後者も楽しい。
てのーるてのーる小鳥来るくちびるは熱 同
平がなでてのーるてのーると繰り返されるとカタカナよりも軽く感じる。また、秋になってむっくりとしてきた愛らしい姿にも見えてくる。小鳥だし、きっと手に乗った!と思ったら次々と手に乗り始めて、手に乗る手に乗る手乗る手乗るてのーるてのーる…違うか。るが4度続くのも快く、繰り返してるうちに熱が帯びてくる。
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす 仲秋の季語小鳥来るのあとに初秋の季語である萩の句。は、ともかく、萩に服をかけたらこぼれ出した、のでなくて、こぼれだす萩を見て思わず羽織っていた服を一枚脱いだ、その爽やかな風を感じるために、ということか。
孔雀から梵字あふれて秋の風 孔雀、梵字とくれば孔雀明王を連想してしまう。古代インド文字である梵字がインドの国鳥でもある孔雀からあふれて梵語またはマントラが聴こえる、秋の風に乗って、ということだろうか。因みに孔雀明王は明王というものの菩薩の姿の優しい明王らしく、きっと秋の風の冷たさも和らげてくれたに違いない
菊日和まばたくたびに褪せて背は 満開の菊とその香に心奪われ前を行く人の存在が薄れてゆくということか。それともその菊日和さえ瞬きの度に新鮮さを失ってゆくということか。
パラフィン紙ひよの盛りを入日して ひよどりがうるさいぐらい鳴いている、その中を日が沈む。パラフィン紙でカバーされた本を読んでいたのだろうか。それともカバーがけをしていたのだろうか。どちらにせよ(どちらとも違うにせよ)ふと、した瞬間。ひよどりは南天や梅もどきなど赤い実を食べる。夕日もあっという間に食べられそうだ。秋のはっきりとした夕日にすりガラスのような蝋引きのパラフィン紙の取り合わせがよい。
焦がれては舟が芒となる夜か 焦がれて、は漕がれて、と掛けてあるのかしら。誰かに(月?)どうかどうかと焦がれ引き止められ舟行を止めて停泊する、岸一面の芒原に舟(=私ともう一人)が溶け込む。真赭の芒かもしれない。
燃えるたび鹿は麓をかきくらす 恋に燃える牡鹿、きっと失恋続きなのだろう、新しい恋に燃えるたびに麓に下りてきては畑を荒らすので町の人びとは暗い気持ちになる。或いは恋に燃えた鹿自身の火灯りで麓が陰り暗くなる、ということか。後者のほうが面白い。
泪声ほやほやと野の鶉なる 同
日本では雨音をざーざーと表現するが中国語ではほわほわ(ほあほあ)と表現するそうで音の鳴り所の着耳点?の違いが面白い。ほやほやとは炎や湯気などの立ち昇るさま。柔らかく温かそうなさま。をいうらしくニュアンスも似ている。泣き声でなく泪声としたところからも恐らく悲しさや辛さによるものではなく嬉しさなどに因るもので、蹲って泣いている、それが鶉のようなのだろう。
来る鶴に糸巻きなほすぬるい部屋 同
鶴と糸といえば鶴の恩返し。一度去った鶴がまたやって来るのだろうか、その前にほつれたままの糸を巻きなおしておこうというのか。それとも二人の関係を修復しようということなのか。慌てて暖房を着けたのか部屋はまだ暖まりきらずにぬるい。いや、関係をやり直すなんてぬるい、ということかも。糸は五線譜、糸巻きはト音記号か。
秋虚ろ祝祭の首重くのべ 同
秋の祝祭といえばハロウィンかミカエル祭か。それとも単に豊年の秋祭りだろうか。単に秋の寂しさに心が虚ろだということではないだろう。虚ろであるからこそ、そこに実る余地があり、また、収穫が終われば再び虚ろに戻る。脱穀された籾殻なども虚ろだといえる。刈られた麦の穂は誰かの首であるのかもしれない。落穂ひろいの重労働を思うか。祭りには音楽が付き物だろう。落穂ひろいの様子にヘ音記号を思い浮かべた。
初秋 ぱれーどよ棗が舌に痩せてゆき 同
前句の祝祭でのパレードだろうか。平がなでぱれーどと書かれると何となく物憂く、どうでもいい、投げやりな感じを受ける。よ、は詠嘆ではなく呼びかけだろう。口に入れた棗も味わうというよりぼんやり飴玉を舐めるような。前々句鶴来るが晩秋の季語なのでここで初秋の季語である棗というのも気になる。やはりパレードにも音楽が付き物だろう。
感光の渦の鰯よさやうなら
感光といえばまず写真を思い浮かべるのだけれど、光電池や、退色、着色も感光に寄る作用らしい。鰯がマグロなどから身を守るために群れなして渦巻く、あれのことをイワシタイフーンというが、そのイワシタイフーンに光りが当たり輝いてる光景なのだろうけれど、それが外敵の為ではなく、光の作用で鰯が渦為しているとして、更にその鰯からの感光で別れを決意したのだろう。群よ、さらば。ということか。もしかしたら渦はト音記号か。
◆水の回遊記 青本柚紀
原稿を書いている途中、調べ物をしていたら偶然からこの連作に源氏物語が絡んでいるということに気付いたときは興奮しました。第一句に浮舟とは、逆説的に身を沈めたことかもと読んだのですが、後になって源氏物語の浮舟が入水すると知ったときの驚き。しかし残念なのは私が未だ源氏物語を読んだことが無く、もし読んでいたらもっと発見があったかもしれないということ。普通に鑑賞文を書いてる途中で源氏物語に気付いてメモのように片言のように記していったのを、敢えて、というか情報量などに力尽きたのもあり、整理して書き直すことは諦めそのままにしておくことにしました。読み難い点などご容赦頂ければ。
浮舟よ口に棗の緋を交はし 青本柚紀
源氏物語の浮舟だろうか。棗を口移しに交わすとも緋色の唇を口付けるとも読める。官能に、沈んでいた感情が浮き上がる。若しくは浮かべた舟から身を沈めたか。
仮枕手を流れ出て色は葛 同
河原でか舟の上での仮寝か。前句からの流れを思えば抱かれた手から、或いはこの世の外へ流れ出たか。この色とは色恋の色とすれば前句浮舟も浮世に浮かぶ身を、仮枕も所詮この世は仮初の宿りとも取れる。
また枕浮くも連想。色は葛は紫の上か。手は手習か。
忌の薄い鐘をとほして木槿にゐ 同
忌の薄い、というのは忌み言葉としての薄い、ということか。縁が薄い。この世とは縁が薄かった。棗の緋、葛の赤紫から白く儚い、しかしまだ少し色のある木槿へ。
浮舟の詠んだ「鐘の音~」か。また木槿(槿)は朝顔の古称とも。忌の薄い=薄雲(藤壺宮)の崩御か。
くだる身のあなたを波になる菊が 同
川を下り流れる向こうに一面の菊菊菊が押し寄せる波のようだ。菊の黄色は黄泉の色か。
波はやがて近づいてくる。くだる=流されるのは浮舟か。波は青海波。菊を頭挿にしているのが源氏。くだる身、とは女二の宮の降嫁、菊は二の宮のこと。または菊=源氏も挿すから降嫁した三の宮も含むか。
秋蛍食べては砂の弧をうつし 同
蛍は成虫すると何も食べないそうな。蛍の発光体には猛毒がある。誰が何を食べるのか。川が蛍を飲み込み、その度に川底の砂が映るのか。それとも空の、砂子を刷いたような弦月か。調べると蛍は卵も幼虫も発光するらしい。となれば、水中の幼虫がカワニナなどを捕食してその度に光る、ということか。うつし、は現し身か。
源氏の放った蛍か蛍兵部卿宮か。 源氏蛍の由来に光源氏説もあるらしい。「恋はせで~」玉鬘の詠む歌。うつす、うつるのは玉鬘の姿か。玉鬘は美髪の美称であれば、砂子を刷いたように美しく光る天使の輪のことか。
藻に代へてとどまる鮎を藤の香 同
歳時記に前田普羅の「落ちて鮎の木の葉となりにけり」という句が載っていた。鮎に藻の代りに身をついばむ。赤味を帯びた、やがて子を産み力尽きて死にゆく鮎。秋なので藤の花は咲いていない筈だが香魚とも呼ばれる鮎に対して我が身は藤の香ぞということか。藻に喪を読むのはゆき過ぎか。
海士のたく藻、海士の刈る藻か。鮎は瓜科の香がするという、源氏の母桐壺の宮と藤壺の宮が瓜二つという意味を含むと取るのはゆきすぎか。いや、死んだ桐壺(やはり藻=喪であろう)に代えて藤壺を慕ったのだろうからあながちそうとは限らないと思われる。
明け暮れの散らかる川を骨は葉に 同
ここで謂う明け暮れとは生死のことでもあるか。絶え間なく続く朝の光りと夕の光りがちらちらと川面を照らす、その一つ一つが様々なものの生死。川底には魂たる石もある。前句を考慮に入れると落ち鮎についばまれた身は骨だけとなり木の葉のように川を流れてゆく。桐一葉。
桐壺の宮。「明け暮れの慰めに……」
萩は目に奥をひづめの澄みながら 同
土手の景だろうか。萩は目に映るものの、その奥をゆくものの姿は見えず。ただひづめの音だけが聴こえる。萩とくれば和歌では鹿らしい。また別名鹿鳴草、鹿妻草ともいうらしい。目には萩、耳には鹿、ということか。
萩の上露。源氏の乗る馬、或いは牛車の音か。雌鹿を求めて鳴く牡鹿の光源氏か。
わたくしを傾け壺に棲む獏は 同
悪夢を食べてくれるという獏が壺中天ならぬ壺中獏。寝ているわたくしを優しく傾けて…つまり後頭部から悪夢を食べるのでしょうね。
わたくしは光源氏、壺は夢に現れた藤壺の更衣だろうか。獏が喰らうのはその悪夢なのか浅き夢なのか。藤壺に住む女御=藤壺の更衣であるから壺に住む獏は藤壺の更衣その人か。
いろは坂昏くてとどく雁の呼気 同
いろは坂といえば日光が有名だけれど映画『耳をすませば』のモデルになったという多摩市のものもある。中禅寺湖へと続く前者か。夕方の観光客も絶えた坂に湖へと向かう雁の音、その呼気さえ聴こえるというのだろう。また雁は鹿同様和歌では萩と詠まれることが多いらしい。
しかし此れは実在のいろは坂ではなくこの連作世界のものと思いたい。蛇行する川のような実在のいろは坂と色は匂へど……のいろは歌とを含むもの。いろは歌の中に「あさきゆめみし」の一節。雲居の雁。「うらやましきは帰るかりがね」
まばたきをうすももいろの鵙の木々 同
鵙落の眼を縫われた囮鵙だろうか。まばたきの瞬間、目蓋の裏の薄桃色が見える。
光源氏の「ほてった薄桃色の顔」か。鵙は光源氏、木々に刺されるは贄は女達か。「まばたき」玉鬘。夕顔。
見えてゐる痣に芒がかかり笑む 同
見えている痣とは何処にある痣なのか。芒がかかる高さならば一メートルから二メートル。自身の痣なのか、側にいる誰かの痣なのか。芒がかかって痣が隠れた、ことに笑ったのか。
芒=薄=薄雲か。女の薄絹のぬくもりか。痣とは瑕なき玉=冷泉帝か。
満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が 同
野の花が満ちている。満ちているからこそ野の花なのだ。その野の花の中、池だろうか舞い降りた最後の一羽が作る最後の水の輪、それが拡がり野の花が満ちてゆく。
水の輪を作るのは入水した浮舟か。鳥は貌鳥か。野の花は源氏物語の女達か。
ここは月の間千の夜がどしや降りで来る 同
月、千夜とくるとどうしても千夜一夜物語、アラビアンナイトを思い浮かべてしまう。月の間は地球と月の間ということだろうか。その境界では千の夜もあっという間に、どしゃ降りのように来て過ぎるのだろう。
須磨の月。千夜が過ぐさむ心地、か。月には桂、ならば月の間は源氏住む桂殿か。源氏は月に喩えられるという。源氏物語から千年。
木犀をはなれて舟の野に覚める 同
木犀を離れて、その香が薄れてゆく。香に酔っていたものか、はっと目覚めてみるとあたり一面は野原。打ち上げられた半ば朽ちた舟の上で夜を明かしたのだろう。あの千の夜は一夜の夢、或いは浅き夢だったのだろうか。
木犀の別名に桂の花とある。源氏住む桂殿を暗に含むのか。また木犀といえば香、つまり薫、匂宮も含むか。入水に失敗した浮舟。出家することは浮世の外に出ること、つまり浮舟からただの舟となる。野とは浮世の外のことであり、浮舟の出家した場所、小野も含むか。浮世の極たる桂殿の物語から覚める。
最後に鑑賞の対象とさせて頂いた二作品の作者である青本瑞季さん、青本柚紀さんのお二人、お誘いくださった西原天気さん、有難うございました。とても愉しませていただきました。
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【週俳10月の俳句を読む】
鶉のジェンカ
山田耕司
初恋よどこ澄む水の夕つ方 田中惣一郎
「どこ吹く風」という言葉が「風がどこを吹いているのか、知ったこっちゃない」という意味で用いられていることを下敷きにするならば、「どこ澄む水」には「水のどこが澄んでいようが、知ったこっちゃない」という意味が込められていることになる。
さて、句の表面的な趣としては、〈こっちは「はつ恋」で忙しいんだから、水がどうなろうが知ったこっちゃないぜ〉という「現場、ど真ん中です」というよりは、〈水がどうなろうが知ったこっちゃないように、初恋ともかなり距離ができちゃっているんだけどね、ちょっと懐かしいじゃないか、「初恋」ってものは〉というような「そんなこともあったね」という外側からの視点こそがメインになるようだ。
だからといって、作者が恋愛から距離のある生活をしているかどうかはわからないことであるし、そんなことを報告したかったわけでもないだろう。
おそらくは「秋の水」という言葉への距離をどのように見定めるのか、そこのところの手触りが作者にとっての面白みだったのではないだろうか。古来多くの人に詠まれた(よく言えば磨き上げられ、悪く言えば手垢のつきまくった)語を、ちゃっかり自分の世界に入れ込んでしまうのではなく、むしろ、遠い手触りを遠い手触りとして詠みあげること。そんな心意気こそが読解されるべきだろう。「初恋」は、自己に限定したエピソードなどではなく、誰にとっても「遠くにあって思うもの」という趣(「初恋」なんて、まさに、それ)で用いられているが、それこそが、自分の作品のテーマをきわだたせるための仕掛けであるといえようか。
てのひらを懐しうする火もがな 同
生身よりも二次元をこそ愛してしまう事態を想起するとわかりやすいのかもしれないけれど、それそのものの現実的存在よりは、〈情報という次元にいったん遠ざけてこそ、身のうちに取り込みたくなる〉という愛のカタチが、この世界には、ある。それが良いとか悪いとか分別する意味はない。さるにても、田中惣一郎氏の作品にただよう言葉との距離には、〈遠ざけてこその愛〉のありようを見ること、禁じ得ず。「てのひら」という自己と分かちがたいものを「懐かしうする」という発想なども、また。
●
この人のベッドの秋の蛾を追ひつ 島田牙城
ほっておくと「蛾」は季語として夏を示してしまうから、わざわざ「秋の蛾」とするわけだけれど、「秋の」昆虫という表現は、〈死に近いところにあるにもかかわらずなお生きようとする〉というような趣を抱え込んでしまいがちである。〈無常にあらがう健気さ〉とでもいうべき趣向は、それなりに俳句の大好物とするところなのだが、であるからこそ、そこに一句の眼目も吸い取られてしまいかねない。
「ベッド」のあたりの「蛾」を「追」うという行為は、これといった屈折もないそのままの事柄であるとも言えるし、写生的な視点における点描というところでもあるのだろう。そこに「秋の蛾」という趣向が加わると、ひょっとして、この「ベッド」が、重い病の床ではないのか、という〈深ヨミ〉が誘発されてしまう。そんな病床から〈無常〉を連想させうるものを追い払った切実さと、〈無常にあらがう健気〉な存在を吹き払ってしまったことへのやるせない後悔のようなものがともどもに入り混じった感情などを〈深ヨミ〉してしまう読者もいるだろう。〈深ヨミ〉が、悪いわけではない。ただ、そうすることにより、写生的な手応えは影を薄くし、むしろ、言葉は、伝えたいイメージの〈喩〉という佇まいに変容してしまうだろう。それを良しとするかどうかは作者によって異なるわけだが。
さて、それはそうと、「この人の」とはどう解釈したら良いものだろう。
「この人のベッド」というところが素直な汲み取り方だが、「この人の」の「の」を主格として解釈すると「この人が蛾を追う」という文脈が浮き上がってくる。そもそも「この人」の「この」とは、どのように飲み込んだら良いのだろう。
作者の置かれている状況を知ることで腑に落ちるところがあるのかもしれないが、俳句読解とは身の上調査ではないので、あまり深く詮索するつもりはない。ただ、わたしは、ここに、〈喩〉として読解されてしまうことに対して、〈あ、現実に、この状況は存在したんです、ほれ「この人」です〉というような意味を感じ取った次第。
これは、作者の意地のようなものであろう。
●
泪声ほやほやと野の鶉なる 青本瑞季
『伊勢物語』における
年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむというやりとりで、「鶉」は女の自己像として、かつ、一首の歌の風情ある眼目として味わい深い存在感を示している。これを本歌とすると言われる
野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉なくなり深草の里だが、鴨長明の『無名抄』の記述によれば、代表歌を尋ねられた藤原俊成が「面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峰の白雲」にもまして自らの「おもてうた」であると応じた一首。
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【週俳10月の俳句を読む】
認知とことば
谷村行海
毎月第二日曜に「街」が行っている研究句会では、ここ半年ほど「○○を作ってみよう」と題して特定の俳人を取り上げている。その俳人の思想や生き方・生涯などを取り上げ、そのあとに作風の特徴を細かく見ていく。この「○○を作ってみよう」シリーズが始まってから鑑賞のことをいろいろ考え直すようになり、毎月参加するたびに自分がぐねぐねと変わっている気がする。
◆ありえない音楽が聞こえる 青本瑞季
一読して素直な作品だと思った。それと同時に、その素直さは自身に対する素直さであって、ときに読者を置いてきぼりに、ときに読者をこれまでの考えではありえなかった新たな世界に誘ってしまう魅力を秘めていると感じた。
夜ゆゑに文月は草木はれやかに 青本瑞季
「はれやかに」ということばは俳句に使うにはちょっと大胆で、ものに接したときの作者の心情が素直に表現されている。読者側にとっても、このことばからイメージはふっとわいてくる。一方で、「夜ゆゑに」は読者側(少なくとも私)にはわからない。「はれやかに」ときたから昼間の様子ならしっくり(すぎるほどしっくり)くる。それに対して「夜」だからイメージが崩れてしまう。しかし、作者にとっては「夜」こそがしっくりきたもので、「ゆゑに」の強い言葉・書き出しにそれが表れている。
焦がれては舟が芒となる夜か 同
ぱれーどよ棗が舌に瘦せてゆき 同
「焦がれては」では、読者はなにに焦がれたかがわからず、それは作者のなかに秘められたままになる。同様に「舌に痩せてゆき」はどう痩せていくのかがカットされ、読者側としてはそれを想像していくしかなくなってしまう。これも素直さの表れで、具体性をカットしてでも自己の心情・感覚を描き出そうとしているように感じられる。今まさに舌のうえで棗が痩せていっているぞ、という体験をしているときにはいちいちそれをどう痩せていくのか記憶しておく暇などないのだ。大切なのはそのときの一瞬を味わうことなのだろう。
感光の渦の鰯よさやうなら 同
最後におかれたこの句も「さやうなら」が「はれやかに」以上に強く、自身を描き出そうという強い意志のようなものが感じられた。ここまで挙げた四句の内容に関しては作者のみ知る世界で、句に表れたエネルギーを味わう俳句といった趣がある。
孔雀から梵字あふれて秋の風 同
一方、この句だとその自己の放出が奇妙な普遍性を伴って読者のもとにやってくる。孔雀から梵字があふれてきましたなんて言われたら一瞬首をかしげてしまうだろう。しかし、そう言われたあとに自己のフィルターを通して孔雀を眺めてみると、形状から厳かな雰囲気に至るまで不思議なほどにしっくりとくる。これ以降に孔雀を見るたびに梵字のことを思い出してしまいそうだ。自身を表すことがそういった世界に読者を誘導してしまう力を持っている。
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす 同
この句も孔雀と同様にそのときの感覚を表しつつも読者を別世界に連れて行ってしまう。水がこぼれてしまうとか、ものがこぼれて崩れてしまうといったように、「こぼれ」はネガティブな雰囲気も伴っている。しかし、「歌ふ」とくるとイメージが変わり、こぼれることも別に悪いことではないなと妙に納得させられてしまう。この作品が掲載された号で上田信治さんがふれられていたリズムもイメージの転換に一役買っているのかもしれない。
◆水の回遊記 青本柚紀
瑞季さんの俳句はどちらかというと日常を生きての素直さ・感覚であったのに対し、柚紀さんの俳句はどこか日常と地続きの不思議な世界に迷い込んだときのような感覚・感動が出ているように感じられた。
わたくしを傾け壺に棲む獏は 青本柚紀
壺に棲むわけだから、動物園などで大衆の目に晒されている獏(壺に棲む大きさ的に子どもの獏かもしれない)だろうか。周知のとおり獏は夢を食べるなどと言われている。獏枕ではなく単に獏と表記されているから、現実世界で獏を見たと考えるとそのときに味わったのは傾けられているという感覚。像を見ているのか犀を見ているのかわからなくなってしまう獏独自のあのフォルムは認知をゆがませ、自身を傾けてしまうのに十分な迫力を持っている。
見えてゐる痣に芒がかかり笑む 同
痣は極力人に見られたくないものだ。「見えてゐる」とわざわざ書くということは見えていないところにも痣はあるのだろう。そこに芒がかかったというだけのなんともないことではある。しかし、それは心をくすぐられてしまうようにも思えてくる。ただでさえ痣は見られたくないのに、そこに芒がかかるともうどうしようもない。どうしようもないとき人は笑うしかなく、自分でも予期しない身体の深いところからこの笑いがやってきたのだろう。
ここは月の間千の夜がどしや降りで来る 同
この俳句も感覚的。田舎に帰ると星がやけにきれいに見える。その感じは都市部では味わえず、月の世界に迷い込んだような錯覚に陥る。これまで過ごしてきた夜が一瞬で自分の中をめぐり、今見ている夜の光景に辿りついていく。どしゃ降りということばは少し強いようにも感じられるが、そのくらいのインパクトがあったのだろう。また、三音(「ここは/月の」「千の/夜が」)でたたみかけ、それが変調するリズムもこの俳句の内容に対して効果的だと思う。リズムによってどしゃ降りらしさが味わえる。
明け暮れの散らかる川を骨は葉に 同
以上三句は感覚的な俳句に感じられたが、これは趣を別にしていると思った。川は確かに四方に流れ、散らばっているように思えてくる。「骨は葉に」のフレーズは最初よくわからなかったが、読み返していくにつれて不思議としっくりくるような気がした。輪廻転生を表しているようにも見えるし、人生を表しているようにも見えてくる。世界をどう認知しているかが表れた句で、読めば読むほど魅力的に思えてくるするめのような句だと思った。
◆はつ恋考 田中惣一郎
タイトルの通り恋に関する句もあるが、恋そのものを詠むというよりは恋からのイメージの広がりを意識された俳句が多いように思えた。また、十八字切字を使うことで句の内容を拡張しているようにも感じられた。
葦の舟神話のために未来あれ 田中惣一郎
一瞬平易な句に見えたが、読み返してみると「未来あれ」がおもしろい。確かに神話として残り続けるためには未来がなくてはならない。また、すでに神話化されたものも未来がなくては永遠に失われてしまう。そういった意味では神話も無力感のあるものだ。それはどことなく初恋の感覚にも似ている。恋をしている際は全能感を感じていても、すぐにもろく崩れ去ってしまう。よくよく考えると神話にも恋をベースにしたお話が多い。
初恋よどこ澄む水の夕つ方 同
掲載時の後記を拝見すると十八字切字を多く使うようにとのオーダーに基づいて作られた作品群だとわかるが、この「よ」は実に効果的だと思う。呼びかけのようなかたちにすることで読者の興味をぐっと引き付けてしまう。その後に来るフレーズには時間帯に水と感傷に浸るに十分すぎるアイテムが配置されていて、初恋に対した思いが一挙に伝わってくる。「や」で切ってしまうよりも「よ」のほうが思いの伝わり具合がよく、後からもじわじわと効いてくる感覚がする。
てのひらを懐しうする火もがな 同
「火もがな」が非常に巧いと思った。字足らずになってはいるが、声に出して読んでみるとこの前に来る「しう」の伸ばしたような印象から「火」も「ひぃ」と伸ばしたように言え、五音になりはしないにしてもそれに近い音数のように体感させられる。十八字切字を多く使うようにというオーダーがあったにせよ、一応はそのままストレートにほしいと詠むこともできはする。しかし、「もがな」だと声にしたときの不思議な感覚も相まって、先ほどの「初恋よ~」のように余韻があとに残り続ける。それによって火に対する思いについてしばらくの間考えさせられてしまう。やはり「もがな」でないとこの句はいけないと思う。
◆風 島田牙城
惣一郎さんと同様に十八字切字を多めに使うとのオーダーによってつくられているが、牙城さんの俳句はことばそのものに対して真剣に向き合い、そのおもしろさを抽出するとともに世界に対しての振り返りの機会を提示しているような印象があった。
かなそれからの流れにも澄むことを 島田牙城
「かな」はもちろん切字の1つ。切字に対してはさまざまに語られてきた。その切字の歴史、つまり流れをみてみると議論はどれも真剣そのもので、ことばに対して澄んだ心で向き合い続けている。それは何百年、何千年と時代を経ても変わることはなく、2019年の今を生きる私たちにも生き続けているものだ。
ほれそれと言ふに飽きたり秋の風 同
ながながと秋はありけり水たまり 同
とはいっても同じことばに向き合い続けていると飽きてしまう瞬間がふとやってくる。しかし、それも一瞬のことで、時間が経てばまたそれまでのように澄んだ気持ちで向き合えるようになる。四季を通じた風のなかでも「秋の風」はしみじみとした感慨が深く、そうしたことばに飽きてしまった瞬間には最適だろう。一度これまでの自分と向き合って世界をどう見てきたかを考え直してみると同じことばが別の姿を見せてくれる。「水たまり」はこれまでの堆積の1つでもある。
そこにあるかなやけりやや秋の風 同
そして最後にまた秋の風がくる。この句を見たときに永井陽子の「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」という短歌が頭をよぎった。永井陽子のこの歌は一度聞くとこのリズミカルな韻律が頭を離れなくなってしまう。この句も同様に中七のフレーズが心地よい余韻を残し続けてくれる。また、現代でよく使われる「かな」「や」「けり」の切字で構成されているため、読者は同時にこれまでに自分が使ってきたこれらのことばと向き合うことにもなる。世界を今後どう見ていくかあらためて考えなおさせられる機会に出会えて幸福だった。
以上、四名の作家の作品をみてきた。これらの感想は2019年11月の私によるものであって、来月にはまた別の感想を持っているのかもしれない。ちなみに「○○を作ってみよう」シリーズ、12月は三橋敏雄を扱うとのことだ。
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第四回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ
●未発表の俳句作品20句をお送りください(多行作品は10句)。
●受付開始 2020年1月15日
●応募締切 2020年2月15日
●年齢・俳句歴の制限はありません。
●ご応募の際には、お名前(筆名・本名)、ご住所、メールアドレスなどの連絡先をお書き添えください。折り返し、編集部より連絡申し上げます。
●受賞作品は「円錐」85号(2020年4月末日刊行予定)に掲載。
●選者
澤 好摩
山田耕司
今泉康弘
宛先 「円錐編集部 ensuihaiku@gmail.com
ホームページ http://ooburoshiki.com/haikuensui/
上記HPにて、今までの受賞作品・審査会の様子などをご覧いただけます。
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第163回現代俳句協会青年部勉強会
「柿本多映俳句集成を読む」
現代俳句協会青年部で、今年上梓された「柿本多映俳句集成」を読み合います。
※テキストは持参いただかなくても参加可能です。
URL: http://gendaihaikukyokai-seinenbu.blogspot.com/2019/10/163.html
日時:12月7日(土)
13時30分ー16時30分
(受付13時〜)
場所:荻窪セミナールーム
(JR・地下鉄荻窪駅改札徒歩5分)
東京都杉並区荻窪5-15-7白凰ビル
4階 401
※参加予約いただいた方に会場アクセスのご連絡いたします。
基調報告
加藤絵里子(「山河」) 柳元佑太(「澤」)
司会
野口る理(現代俳句協会青年部)
テキスト
『柿本多映俳句集成(深夜叢書社)』
お二人の基調報告と100句選をもとに、
参加者の皆さんと読み合うことができればと思います。どなたでもご参加ください。
参加費
一般 1000円
学生 500円
参加申し込み
genhai.seinenbu@gmail.com
までお願いいたします。
皆様のご参加をお待ちしております。
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第162回勉強会「フキオとカキオ」告知
URL:http://gendaihaikukyokai-seinenbu.blogspot.com/2019/11/162.html
愛媛県松野町出身の芝不器男と、八幡浜市・保内出身の富澤赤黄男。同時期に南予で育ったフキオとカキオには、俳句の新しい時代を切り開く、みずみずしい詩精神がありました。
子規・虚子・碧梧桐以後にも脈々と息づく、愛媛のはぐくんだ俳句の力。
二人の俳句を読み解くのは、愛媛在住・出身の若手俳人たちです。
基調報告と二人の百句選をもとに、参加者のみなさんと自由に語り合ってみたいと思っています。
協会青年部の企画ですが、参加に所属や年齢などの制限はありません。どなたでも自由にご参加ください!
日時:11月30日(土)
13時半~16時半(受付13時〜)
場所:もぶるラウンジ
〒790-0005 松山市花園町4-9岡田ビル1階
http://udcm.jp/
第一部 勉強会 13時半~15時10分
基調報告:川嶋ぱんだ(松野町地域おこし協力隊)、神野紗希(現代俳句協会青年部長)
ディスカッション:家藤正人(俳句集団「いつき組」)、川嶋ぱんだ、脇坂拓海(「WHAT」編集部) (司会)神野紗希
第二部 公開句会 15時20分~16時20分
登壇の4名を中心に、当日投句(13時半締切)をもとに句会を行います。兼題「葛」or「落葉」で一句、持ち寄ってください。
参加費
一般 1000円
学生 500円
参加申し込み
genhai.seinenbu@gmail.com
までお願いいたします。
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後記 ◆ 村田 篠
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【柳人インタビュー】
竹井紫乙さんへの10の質問
【句集を読む】
祝祭的迷子、あるいは中嶋憲武『祝日たちのために』に捧げる小さな覚書
小津夜景
1
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」と、ヘミングウェイは書いた。
2
このエピグラフから始まる彼の著書『移動祝祭日』には、彼がガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルドをはじめ、数多くの芸術家たちと交流しながらパリで過ごした日々が甘美な郷愁に満ちた筆致で描かれていて、彼にとってのパリ時代がどれだけかけがえのないものだったのかが手に取るようにわかる。
3
ヘミングウェイに限らず、誰にとっても青春はかけがえのないもので、その時代の経験は重要なピースとしておのおのの肉体に深く組み込まれている。ある人が青春時代になにがしかの幸福な時間を過ごしたならば、どこへゆこうとも、その一片の思い出は祝祭のように心躍るものとして生涯ついて回るだろうーーそれがパリであろうとなかろうと。
4
中嶋憲武『祝日たちのために』に収められた言葉は、それぞれに奇妙な祝祭性を帯びている。ページをめくるたびに出会う、でたらめ風を装った一句。まるで移動祝祭日のスクリーンショット集みたいに。
迷宮へ靴取りにゆくえれめのぴー
えれめのぴー、すなわちLMNOPという描写から、私は、作者が靴を取りに行った迷宮とは「文字の迷宮」なのではないだろうかと空想する。この句集の基本的構図はおおむねシュルレアリスムだから、それを「文字の迷宮」であるという風に思い描くと、全体の雰囲気ともしっくりくるのだ。
自分より孤独春風へハロー
構図がシュルレアリスムだとすれば、色彩はポップである。とりわけ切なさと軽さの二色が基調であるとおぼしい。
5
17種の散文も載っている。
北の風が夜会服を身に纏い、私の前に立つ。アラベスクの低く流れる夕方。電柱の陰に宴が始まると、招待客は皆一列の楽譜だ。私と北風は南へ渡るペリカンのように、遠い星を一つ落とす。ヘミングウェイが遭遇した1920年代のパリの言語空間は、まさにこうした華麗なる錯乱そのものだったに違いない。
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【週俳10月の俳句を読む】
感情の流れのひとかたまり
谷口慎也
対象作家となる青本瑞季さん、青本柚紀さんにはそれぞれの短文が付いていたので、作品共々興味深く読ませてもらった。また上田信治さんが同じところで、この両者の「書法」の一端を、「言葉の音や働きを細かく分節し再構成する」と的確に指摘している。従って私はそこを少し離れて、別の視点を設定してみたい。
◆青本瑞季「ありえない音楽が聞こえる」
冒頭句から順に作品を繰り返し読んでいると、そこには明らかに作者のひとまとまりの「感情の流れ」が見えてくる。すなわちそれが15句という束となって提出されている。従ってタイトルの中の〈音楽〉とは、作者のある日ある時を端緒とした、ひとまとまりの「感情の流れ」(音韻や音調)のことに違いない。
そこを押さえておいて、先ず目に留まったのは、下五に置かれた次のような言葉―〈はれやかに〉〈軋みつつ〉〈重くのべ〉〈痩せて背は〉〈かきくらす〉〈さやうなら〉―等々の感情表現であり、結果として書かれた作品の上の句は、下五の言葉に収斂されていくかに見える。すなわち、感情体である作者の文学的な居場所はなべてこの下五にあり、すなわちここが作者にとっての創作モチーフの在り処なのではないか。
夜ゆゑに文月は草木はれやかに 青本瑞季
燃えるたび鹿は麓をかきくらす 同
感光の渦の鰯よさやうなら 同
一句目は、〈文月〉の夜の湿りと月光に照らされた〈草木〉。それが実際の景であっても、ふと頭の中に想起されたものであってもかまわないが、作者の直観はそれを素早く「晴れやかなもの」として把握したのであって、その景と作者の感情には何の隔たりもない。二句目の〈かきくらす〉は古語。恋の歌によく使われている。であれば〈燃える〉のは胸の内。それが〈麓をかきくらす〉〈鹿〉とぴったり重なり合う。三句目。〈感光の渦〉に〈鰯〉を配合するような句を見たことがない。それは一瞬の光景だったに違いない。一瞬を言い留め、そしてすぐさま「さやうなら」とくる。即ち「反故」である。これはまた、「へーっ」と感心している私(すなわち読者)までもが切り捨てられたような気になり、なんとも愉快な気持ちになる。
つまり作者は、その時々の自分の気持ちに素直に従ってひとまとまりの作品を書いているのだ。それが他者に理解されるかどうかよりも、只々、その時々の気持ちの流れ、すなわち「感情の流れ」を大切にしているのではないか。極端に言えば、あとは読者がどう解釈するかは二の次の問題となる。
泪声ほやほやと野の鶉なる 同
これは15句中で、私が最も好きな句。何とも言えずこちらが〈ほやほや〉となる。古くを言えば、〈鶉〉は鳴き声の鑑賞用として一家に飼われていたものでもある。であれば、〈野の鶉〉にはなつかしささえ伴ってくる。〈泪声〉と共にあるその〈野の鶉〉に託されたものは、遠いものへのある種の親和性という感情ではなかったか。
パラフィン紙ひよの盛りを入日して 同
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす 同
ところがこれらの句は、一連の句巻物のような感情の流れを一時停止させる。他者の理解を考えるよりも先ずは作者の言いたいことに従っている。
一句目の〈ひよ〉は「鵯」。その貪欲な食欲へ〈入日〉が差し込む。すなわち「落日」。そういう光景に半透明のフィルターをかける。それが冠としての〈パラフィン〉。それによって、作者の痛みに似たやさしさが感じられるのではないか。二句目はさらに複雑。〈こぼれだす〉はまた「溢れ出す」でもある。この7・7・5音は意味の上では、14(7+7)+5音となっている。その〈こぼれだす〉までに作者の感情は〈萩〉・〈衣服〉・〈歌ふ〉と分断され〈手つき〉に掛かるが、その分断を辛うじて繋ぎ止めるのが〈に〉〈を〉という助詞である。だがその助詞も日常的な文法の体をなさない不安定なものである。さらに、だが、そう表現しなければ作者は自分の〈こぼれだす〉感情にまでは辿り着けなかったのではなかろうか。だが不思議なもので、これまた何度も読み返すと、〈萩に衣服を歌ふ手つき〉のフレーズも、超論理的に理解できたように思えるから不思議である。
◆青本柚紀「水の回遊記」
この作者は一句構成においてかなり意識的である。
同時掲載された論評【内容/形式についての覚書】は、山口誓子の「連作」論であったが、なかなか熱のこもったものであった。そこに作者が見ているのは「連作形式はあくまでも一句の外の形式である」ということだ。柚紀さんが引用しているのは、誓子の《連作俳句は如何にして作らるゝか》(S・7年「かつらぎ」10月号)からの引用であったが、同じ年の「かつらぎ」4月号で誓子は《「連作廊」雑言》として、『連作俳句の内容は之を「全」として見れば、畢竟「感情の流れ」であった』と書いている。
(もうお気づきの方も多いと思うが、先の私の瑞季作品評は誓子の「連作論」を下敷きにしている。何故なら、瑞季・柚紀作品ともども、感情の流れが、ある統一感のもとに書かれているからである)
ただ柚紀さんにおいては、「連作」は「一句の外にある形式」という認識を明確に持っている。すなわち、あるとき発生した「感情の流れ」(すなわち個々の作品)は「連作という形式」を生み出すということに自覚的であるということだ。「水の回遊記」もまたそれを下敷きにして、独特な作品(連作)を生み出している。
浮舟よ口に棗の緋を交はし 青本柚紀
仮枕手を流れ出て色は葛 同
くだる身のあなたを波になる菊が 同
萩は目に奥をひづめの澄みながら 同
いろは坂昏くてとどく雁の呼気 同
まばたきをうすももいろの鵙の木々 同
満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が 同
ここは月の間千の夜がどしや降りで来る 同
好きな句を挙げてみたが、どの句も語りだせば多くの字数を要するものばかりだ。また一句には多くの「色」が取り入れられているのが特徴的だ。ひとかたまりの「感情の流れ」が、個々の句の構成の工夫によって、「連作」により複雑な、より緻密なハーモニーを醸し出している。ゆっくり味わうべき作品である。
余談になるが、「連作」という言葉は、今あまり俳壇では聞かない。誓子の唱えた古臭いもの、と人々が何とはなしにそう思っているからなのであろうか。それとも、すでに当たり前のこととして私たちが認識しているからであろうか。
だが個の感情の流れのひとかたまりは、絶えず場所を選ばずにどこかで発生するもので、それがある程度続けばその「連作形式」は自然に消滅するものである。だがしかし、またあるときまた別の感情の流れが生まれてくる。人間の生活も然りである。
一冊の句集も、それが平面的な編年体で構成されるものが今も多いが、まさに多面的に違ったひとまとまりの作品を所収する句集も増えてきた。例えば関悦司さんの『六十億本の回転する棒』や近くは小津夜景さんの『フラワーズ・カンフー』など。それらの句集の章分けには違った感情の流れが多面的に構成されている。すなわち句集一巻は「連作形式」になっていると見ることもできるのではないか。
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【週俳9月の俳句を読む】
風
原知子
迸る滝にヒト科をかがやかす 五十嵐秀彦
滝の激しさに共鳴してかがやいているのか。「肉体」や「こころ」ではなくて、「ヒト科」がかがやく。分類項目である「ヒト科」という言葉からは、直立二足歩行とか、道具や言葉を使うといった、他の動物にない特徴や能力のことを思い浮かべる。同時に、野生を失った動物の繊細さのようなものも。かがやいて、さらに進化するのか。
アルゼンチン・タンゴ窓辺に置く桔梗 五十嵐秀彦
「桔梗」が意外で、でもよく合っている。
控えめで和の印象の桔梗。花びらのはっきりとした形や濃い紫色は、長い脚を大胆に見せて踊るアルゼンチン・タンゴと実は似ていたのか。
物静かだが内面はたいへん情熱的なお嬢さんが窓辺にいるようだ。
窓といふ窓開いてゐる昼寝覚 若林哲哉
小さいころ、昼寝から覚めたら家はシンとしていて誰もいない。母が買い物から戻るまでずっと泣いていたことを思い出した。
寝起きのまだはっきりしない頭で、「窓といふ窓開いてゐる」のを見たら、知らないうちに世界が変わってしまったような不思議な気持ちになるかもしれない。昼寝覚の、まだ夢と現実のあわいにいるようないっときが、うまく描かれているように思う。
父の髪母より長しねぢれ花 若林哲哉
お父さんがかなり長髪なのか、お母さんがベリーショートなのか。標準的な「父母」から、すこしはみ出ているご夫婦なのかもしれない。「ねぢれ花」のすこしずつズレながら上へのぼっていくような姿も、わかりやすい「花」の形とちょっと違っている。
でも、どちらもそれが自分たちには自然なスタイルなのだろう。みんなで秋の野の風に吹かれているような。
やさしくて指をしたたるレモン汁 クズウジュンイチ
やさしくされたら、うれしいけど、同時にちょっとつらかったり、くやしかったりすることもある。やさしくする時も、どこか申し訳ないような気持ちがしたり。
爽やかだけど酸っぱくて苦みもあるレモン。レモン汁にまみれた指先が、やさしさのやり取りのなかの、やさしいだけではないちがう気分を直感的に感じ取っているようだ。
鵙鳴いて襟が合成皮革かな クズウジュンイチ
この「合成皮革かな」には、どういう気分が含まれているのだろう。やっぱりちょっと自虐的なのだろうか。
小さいけど、図太く我が道を行く、というイメージのある鵙。「合成皮革」だけど何か?と開き直っているように読みたいと思う。
旧友のこと思ふなり鳥威 鈴木健司
「鳥威」という言葉に、暗さや不安を感じる。「時代」とか「世の中」の暗さや不安。
作者が、「旧友のことを思っている」ことは、「今を憂いている」ことと繋がっているのではないか。重みのある句。
三角を繋ぎて秋の野に至る 鈴木健司
晴明神社の五芒星のような神秘的なこの「三角」。無数の透きとおった三角をたどっていくと秋の野が広がっていた。サラッとした風が吹いている。この三角が実は秋風の正体かもしれない。虫の声も、草花の種もどこか三角を帯びている。いろいろと想像がひろがってしまう。
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【週俳10月の俳句を読む】
雑読雑考2
瀬戸正洋
「人それを俳句と呼ぶ―新興俳句から高柳重信へ―」今泉康弘(2019年10月10日沖積舎刊)を手にしている。山田千里から「購入したら」といわれ代金を渡しておいた。しばらくして、本人から、この本が届いた。葉書くらいのおおきさの、松本竣介の「街」のコピーも、挟まっていた。
茅ケ崎市立図書館での「湘の会」のとき、はじめて、彼と、ことばを交わした。三十歳くらいだとおもって尋ねると「五十歳代です」といわれ驚いた記憶がある。略歴には、1967年生まれとあった。そのとき、「地獄絵の賦―地獄絵から戦火想望俳句へ―」を読ませてもらった。
後記の日付が、2019年8月15日であったことに興味を覚えた。
●
はや草とは、トウダイグサ科トウダイグサ属の多年草で日当たりのよい山地の道ばたや草原に生える。六月から七月ごろにかけて黄色い花を咲かせる。
はや草の露白しとふ歩みけり 田中惣一郎
秋のひと日、花の終りのころのはや草を足もとに見つけた。あさ露のおりたはや草を足もとに見つけた。雑木林を散策していたのかも知れない。自問自答をしていたのかも知れない。自分は歩いている。これからも、同じように歩きつづけていくのだとおもっている。
わが睨み別烏や退りをる 田中惣一郎
自己嫌悪なのかも知れない。それとも、自分のことを知りたくなったのかも知れない。こころがゆれると自分がわからなくなる。ゆれることが生きているということなのかも知れない。自分のことがよくわからなくなることが生きているということなのかも知れない。
よく考えてみれば、別烏が睨んでいたのである。侮ってはいけないとおもう。
葦の舟神話のために未来あれ 田中惣一郎
神話とは、「世界が始まった時代の神などの超自然的、形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの物語」だという。神話は古代人が信じたように信じるべきだとおもう。現代人にとっての神話は未来につながっていくものなのである。歴史は現代史であると誰もがいう。その通りなのかも知れないとおもう。
葦の舟のためだけの、個人のためだけの未来があってもいいような気がしないわけでもない。
野も花も新しからず秋茜 田中惣一郎
赤とんぼ(秋茜)といえば三木露風である。とんぼのSTARである。私のくらす集落には、どこにでもいる。いつでも見ることができる。新鮮であるのは秋の野でもなく、秋の花でもなく、秋茜である。
初恋よどこ澄む水の夕つ方 田中惣一郎
そのひとのことをよく知らなかったからこその「澄む水」なのである。初恋にかぎらず、恋は「盲目」だという。人生にとって「盲目」であった時代とは危険な時代なのである。すり抜けて来ることができたということは偶然なのである。奇跡的なことなのである。「どこ澄む水の夕つ方」などと感傷にひたれることは幸せなことなのである。
覚めがてに秋水が流るるものか 田中惣一郎
禅問答のような作品である。「がてに」とは、できないでという意である。「秋水」とは、秋のころの澄みきった水である。曇りのないよく研ぎすました刀という意もある。
「秋水」とは、かつて、日本の対B29迎撃のためのロケット戦闘機名でもある。
火不入の一献いかに秋の暮 田中惣一郎
いかにと問われれば頷くしかないとおもう。秋の暮も、それにはふさわしい時候だともおもう。
はたらいていたころ「唎酒師」を招いて講演会を企画したことがあった。神奈川県の地酒をテーマの講演、交流会である。三崎の鮪の解体もメニューに入れた。
まさしく、秋の暮であった。予算はオーバーした。地酒の飲み過ぎが原因であった。上司は、日本酒好きだったので何もいわず決済してくれた。
後の世の業にぞ後の村雨は 田中惣一郎
「業」とは、精神的生活をささえるしごとのことである。「村雨」とは、急に降ったり止んだりする雨のことである。「後の」とあるので、季節は秋となる。
「後の世」とは、あとにくる時代のことである。死後の世界のことでもある。
てのひらを懐しうする火もがな 田中惣一郎
「てのひら」とは、手くびから先の握ったときの内側になるところである。「懐しうする」とは、昔が思いだされてこころがうごくことである。「もがな」とは、願望である。
火もがなの「火」について考えればいいのだとおもう。消えかかっている残り火しか持っていない老人にとっては難問なのである。
もみぢ且つちる桜木の巷かな 田中惣一郎
巷とは、世間のことである。にぎやかな通りのことである。桜木とは、「花は桜木、ひとは武士」の桜木である。
私は、すこしずれているのかも知れない。紅葉しながら散っていく晩秋の山村でのくらし。生き急ぐ必要もなく、生き遅れる必要もないと考えている。
真夜やこの水を怖るる彼岸花 島田牙城
子どものころ、彼岸花を忌み嫌っていた。球根には毒があり死人花ともよばれていた。老人たちが、そういっていたからだ。都会のひとが摘んでいるのを見て驚いたものだ。最近は、あぜ道に咲く彼岸花に、ひとびとはカメラを向けたりしている。
「水」について考えればいいのだとおもう。枯れた彼岸花は棒のようなものが突き刺さっているだけなのである。せせらぎは聞える。
かなそれからの流れにも澄むことを 島田牙城
かなとは、表音文字である。かなには、万葉仮名、平仮名、片仮名等がある。かなとは、感動、詠嘆をあらわす。かなとは、自問自答する、念を押す、願望の意がある。理解できない、納得いかないという意がある。
流れとは何であるのかは知らない。だが、澄むことを願っているのである。澄むとは、不純なものを含まず清くなるということである。
天才の二の句ぞつくつく法師さん 島田牙城
天才とは、努力では至らないレベルの才能を秘めたひとのことである。二の句とは、つぎに言いだすことばのことである。「ぞ」とは、強くいいきるのにつかう。「さん」とは、一般的な敬称である。蔑視の意がふくまれることもある。
つくつく法師は、カメムシ目、ヨコバイ亜目、セミ科に分類される。
ほれそれと言ふに飽きたり秋の風 島田牙城
ほれとは、何かを指し示して、相手の注意をひくときに発する声である。それとは、心理的に自分から少し離れたものを指し示す語である。要するに、「声」と「語」なのである。
秋の風とは多種多様である。歳を重ねたいま、かかわり合うのはもういいだろうとおもっているのかも知れない。
薔薇よ秋世の不倫与の不倫 島田牙城
「よ」と「世」と「与」である。「よ」とは、呼びかけたり訴えたりするときに発する語である。「世」とは世間ということでいいのだろう。「与」とは、いっしょに力を合わせて何かをする。仲間になるということである。
不倫を否定もしないし肯定もしない。不倫とは文学にとって必要なものである。不倫に薔薇は似合うにきまっているとおもう。
秋のしほふたりをぬらすなくもがな 島田牙城
自分たちだけが特別であるとおもうのが若者である。「ふたりをぬらすなくもがな」と考えるのは老人である。老人は、さめているのである。老人は、からだがうごくだけで十分なのである。老人は、濡れるとからだにこたえるのである。
この人のベッドの秋の蛾を追ひつ 島田牙城
この人が何ものであるかがすべてである。煩わしいことは真っ平ごめんである。おだやかな老後を送りたいと願っている。それでも、いろいろなことがやってくる。「escape」とは、老人にとって究極の生きるための知恵なのかも知れない。
それでも、たまには、老体にむち打ってベッドの秋の蛾を追ってみたい気もしないわけではない。
茸獲るけ樵一刀の痕か 島田牙城
樵が茸を獲ることは、本来のすがたではない。刀を一回振りおろせば、すべては終わるのである。その痕を見ただけなのである。痕を見ただけで何もかもがわかってしまうのである。生きているということは、そういうものなのかも知れない。
ながながと秋はありけり水たまり 島田牙城
水たまりとは地面に浸透したり蒸発したりしてなくなってしまうものである。ながながと秋はあったのである。ながながと水たまりはあったのである。ながながとした人生はあったのである。
そこにあるかなやけりやや秋の風 島田牙城
そこにあるものは、「かな」「や」「けり」だったのである。それがどうしたのか、だからどうなのか、といわれても、どうでもいいことなのである。ただ、秋の風が吹いている。ただ、それだけのことなのである。それで十分だったのである。
夜ゆゑに文月は草木はれやかに 青本瑞季
こころにわだかまりはないのである。「夜ゆゑに文月は草木」とは作者自身のことなのかも知れない。このようなこころがうごきは幸せなことなのである。
文月の由来とは、中国から伝わったもので、七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからなのだという。
澄む秋はあばらのこゑで軋みつつ 青本瑞季
不純なものなどなにひとつない秋の大気である。大気にもあばらはあるのである。発声器官は、声帯、口腔、鼻腔だけではない。肋骨も歌うことはできるのである。肋骨は、軋むことで意思表示することができるのである。「ありえない音楽」とは、このようなものなのかも知れない。
「意思表示」とは、相手に自分の意志を示すことである。
荻の袖眼の奥を歌たちのぼる 青本瑞季
荻とはイネ科ススキ属の植物である。「袖眼」がよくわからないが、裁縫、編物に関係があることばなのかも知れない。それにしても「荻の袖眼の奥」はわからなかった。
わかるには、分かる、解る、判るがある。わかったつもりでも何もわかっていないことは多々ある。そもそも、わかるとはいったいどういうことなのだろうか。ただ、「荻の袖眼の奥」ということばは、記憶してしまったようだ。
てのーるてのーる小鳥来るくちびるは熱 青本瑞季
てのーるてのーると繰りかえしている。繰りかえすことに作者にとっての何かがあるのだろう。tenoreとは男性歌手による高い声域のことである。熱とは囀るためのエネルギーなのかも知れない。何かをするためには、エネルギーは必要なのである。
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす 青本瑞季
こぼれるには、欠けたりくずれたりして完全なすがたを失うという意もある。完全なすがたとはうごくものである。完全なすがたとは一瞬にしか存在しないものである。
おだやかな秋の日差し。むらさきいろの萩の花がこぼれはじめている。「ありえない音楽」が聞こえはじめている。
孔雀から梵字あふれて秋の風 青本瑞季
孔雀から梵字があふれることはない。だが、作者は「孔雀から梵字あふれて」といっている。だから、そうなのだろう。
作者は、「孔雀」を見ているのである。「梵字」を見ているのである。「秋の風」を感じているのである。ただ、それだけのことなのである。
菊日和まばたくたびに褪せて背は 青本瑞季
菊のさかりのころ、よく晴れて菊の香がしみとおるように澄んだ秋の日のことを「菊日和」という。ひとの胸、腹の反対側、首から尻までの部分を「背」という。
ひとの顔を見ることは煩わしい。ひとのうしろすがたばかり見ていることはさびしい。どちらも見ないでくらすことができればとおもう。
背も顔も、まばたくたびに褪せていくものなのである。菊も秋の日も、まばたくたびに褪せていくものなのである。人生も、まばたくたびに褪せていくものなのである。
パラフィン紙ひよの盛りを入日して 青本瑞季
沈む太陽と、どこからか舞いおりてくるひよどり。その数の多さに何かを感じたのかも知れない。パラフィン紙とは、パラフィン蝋を塗布、浸透させた紙である。
パラフィン紙にも「何」かを感じた。パラフィン紙に「何」かをさせたくなった。「何」かについて知りたいとおもったのである。
焦がれては舟が芒となる夜か 青本瑞季
舟は芒になることはできない。夜になってもできないのである。何故、いちずに、そうおもっているのかは知らない。ところが、世のなかというものは不思議なもので、ひたすら、そうおもっていると、不可能が可能になってしまうことがあるのである。故に「焦がれる」ということばが存在するのである。
燃えるたび鹿は麓をかきくらす 青本瑞季
恋い焦がれるたびに悲しみにくれる。すそ野いちめんに暗雲がたちこめる。鹿は、神か、恋人か、それとも害獣か。
私のくらす集落では、イノシシ、ニホンジカを捕獲した者に対して、8,000円の補助金が交付される。鹿に襲われて入院したひともいる。
恋い焦がれることと、ひとを傷つけることとは紙一重のことなのかも知れない。
泪声ほやほやと野の鶉なる 青本瑞季
「涙声ほやほやと」とは、やさしさのことなのである。「野の鶉」とは、やさしさのことなのである。
ベートーベンの「月光」とドビッシーの「月の光」を聴いている。「ピアノ」は、やさしいのである。「夜」は、やさしいのである。「月」も、やさしいのである。
来る鶴に糸巻きなほすぬるい部屋 青本瑞季
恩は返さなくてはならないのである。できる範囲でいいのである。誰かに返さなくてはならないのである。なにがあっても返さなくてはならないのである。ぬるい部屋で糸を巻きなおしてみればいいのである。
秋虚ろ祝祭の首重くのべ 青本瑞季
ぼんやりしたこころでいるのは秋である。ぼんやりしたこころでいるのは作者自身でもある。祝いと祭り、祝日と祭日、おもいことばである。何を、そうしようとするのか。何を、そうしたいと願っているのか。とある秋のひと日、身もこころもがらんどうになっていく自分を見つめている。
ぱれーどよ棗が舌に瘦せてゆき 青本瑞季
見物人のための行列をパレードという。棗の果実は乾燥させると菓子の材料になる。舌でころがされているのは行列をしているひとなのである。あるいは、見物しているひとなのかも知れない。もちろん、棗そのものであるのかも知れない。パレードをしたからといって何かが変わるなどとおもうことはやめたほうがいい。
感光の渦の鰯よさやうなら 青本瑞季
鰯にしてみればいい迷惑なのである。感光の渦にいること事態いい迷惑なのである。鰯はさよならといわれているのかも知れない。だが、さよならといいたかったのは鰯自身のほうなのかも知れない。
「回遊」とは、諸方をめぐり遊ぶこと。魚などが群れを作り季節的に移動することとあった。
浮舟よ口に棗の緋を交はし 青本柚紀
愛されることも遊びなのかも知れない。悩むことも遊びなのかも知れない。死ぬことも遊びなのかも知れない。何かを書くことも遊びなのかも知れない。
たすけられることは、偶然なのかも知れない。出家したことは、偶然なのかも知れない。俗世の愛を拒むことは、偶然なのかも知れない。棗の緋を交わしたことは、偶然なのかも知れない。
仮枕手を流れ出て色は葛 青本柚紀
葛の葉のおもては濃く、うらは淡く、野性的なたくましさをかんじるとある。旅先のできごとなのである。手を流れ出て葛となるのは「おもい」なのかも知れない。それとも、そのひとの「たましい」だったのかも知れない。
忌の薄い鐘をとほして木槿にゐ 青本柚紀
境内には木槿が咲いている。「あたりが暗くなったころに、鐘を撞きます」と副住職はいった。
鐘がなっている。「忌」には、清浄の忌もあれば穢れの忌もある。「忌」には、濃い忌もあれば薄い忌もある。
くだる身のあなたを波になる菊が 青本柚紀
堕落しているのである。そんなときだからこそ、波となるのである。そんなときだからこそ、「こころ」は、おだやかでなくていはいけない。このまま、ずっと、波にゆられ、菊の香につつまれていることができればとおもっている。
秋蛍食べては砂の弧をうつし 青本柚紀
食べるとは、ありがたくいただいて食すという意がある。砂の弧をうつすことなど、誰もできないし無意味なことなのである。生きるということに、似ているのかも知れない。
ただ、「うつす」には、しっかりと、こころに焼きつけておくという意もある。「秋の蛍」からは、よわよわしく放つひかり、季節はずれのわびしさを感じる。
藻に代へてとどまる鮎を藤の香 青本柚紀
木造りのベンチに腰かけて藤棚をながめている。そのとき、鮎は、私の前を通りすぎた。藤棚のまわりを鮎はおよいでいたのである。鮎は、藻を否定したのである。水の流れを否定したのである。藤の香はひとのこころを不安定にする。鮎のこころを不安定にする。藤の香は、ひとのこころを惑わす。鮎のこころを惑わすのである。
明け暮れの散らかる川を骨は葉に 青本柚紀
「朝夕の整理整頓されていない川、汚れている川」としたら味も素っ気もないだろう。
「骨」とは、脊椎動物においてリン酸カルシウムを多分に含んだ硬い組織とある。「葉」とは、根・茎と共に、高等植物の基本器官のひとつであり、枝・茎からはえ、葉緑素をもち炭素同化作用をおこなうとある。
何もかもが生きているということなのかも知れない。
萩は目に奥をひづめの澄みながら 青本柚紀
視覚はてまえに、聴覚はそのうしろに、としたら身もふたもないのかも知れない。萩の花は咲きみだれている。どこかで馬の蹄の音がきこえる。のどかな秋の日の昼下がりである。
萩は、マメ科ハギ属の総称、落葉低木、秋の七草のひとつである。萩の花言葉は、「思案」「内気」「柔軟な精神」である。
わたくしを傾け壺に棲む獏は 青本柚紀
獏は悪夢を食べてくれる伝説の動物である。その獏は壺に棲んでいるという。「わたくしを傾け」とあるので食べつくしてくれたのではないのである。そのことに対して不満をいっているのかも知れない。もちろん自分自身の見た夢の獏に対してである。要するに、自分自身に対して不満をいっているのである。
いろは坂昏くてとどく雁の呼気 青本柚紀
いろは坂とは、日光市街と中禅寺湖、奥日光を結ぶ観光道路である。はじめていったのは小学校の修学旅行であった。記録的な大雨が降り車中泊をした思い出がある。半世紀以上もまえのことである。東照宮も華厳の滝も何もかもが雨のなかであった。
「昏い」とは日暮れどきの暗さ、道理がわからないことなどの意をもつ。だから雁の吐きだす息が聞えたのかも知れない。
まばたきをうすももいろの鵙の木々 青本柚紀
まばたきとは、まぶたの開閉運動のことである。まばたきには、「周期性まばたき」、「反射性まばたき」、「随意的まばたき」、とがある。このまばたきは、鵙をうすももいろに見るためのまばたきであったのだとおもう。
「随意」とは、強制がなく自由であること、自分のおもうままとあった。
見えてゐる痣に芒がかかり笑む 青本柚紀
にこにこしていたのは誰なのだろう。痣であるのかも知れない。芒であるのかも知れない。他人であるのかも知れない。わたしであるのかも知れない。痣が見えていること。芒が風にゆれていることだけは確かなことなのである。
満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が 青本柚紀
野の花が咲きみちている。池の水の輪の消えかかるところに鳥が。「いる」のか「下りてきた」のか。とにかく、その鳥は「何か」をしたのである。池に水の輪ができた原因も気になるところである。
ここは月の間千の夜がどしや降りで来る 青本柚紀
鄙びた温泉宿の、とある部屋の名を「月の間」という。徳利の首をつまんで差しつ差されつ、障子をあけると上弦の月とくれば、岡本おさみの世界である。
ところが、「千の夜がどしや降りで来る」である。青春の淡い思い出など一瞬でかき消されてしまう。どしや降りとは、土と砂が降ることである。加えて、千の夜が来るのである。そして、ここは、どうしても「月の間」でなくてはならなかったのである。
木犀をはなれて舟の野に覚める 青本柚紀
野原にある湖、その湖にうかぶ舟のなかで眠りからさめたのである。そのとき、こころの迷いも何もかもが消えたのである。木犀からはなれたことが、そうさせたのかも知れない。
はなれることとは、たいせつなことなのかも知れない。距離がひらく、分かれることを「離れる」という。束縛がとけることを「放れる」という。誰からもはなれて生きていけたらいいとおもっている。自分からはなれて生きていけたらいいとおもっている。
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梅の剪定をした。枝と落葉をあつめてたき火をする。晴れて風のない午後の半日仕事である。通りがかりのひとは、ふたこと、みこと、ことばをかけ立ちさっていく。いつもの十一月の風景である。
神奈川県西部の山村にくらす、生産性など皆無の老人で、何かをいう資格など全くないことを承知なのだが。
テレビのニュース番組で、デモの終わった歩道に座りこんでいる放心状態の老人のすがたを見た。若ものだけではないのだとおもった。
無力なのだから、余計なことはいわず黙っていたほうが分相応なのである。自分のからだの心配でもしていればいいのだとおもう。
それにしても、日のくれた、残り火の美しさは格別であるとおもった。
Posted by wh at 0:04 0 comments