2010-07-04

週刊俳句 第167号 2010年7月4日

第167号
2010年7月4日



秦 夕美 厨にて 10句  ≫読む

後藤貴子 バナナの黒子 10句  ≫読む
………………………………………………………………………

たいぎであった …… 西村麒麟  ≫読む

炭太祇 100句抄 西村麒麟選  ≫読む ≫テキスト版
………………………………………………………………………

「俳句甲子園」を考える
東京大会見聞記 ……小野裕三  ≫読む

【芝不器男俳句新人賞・公開選考会レポート】

新しさとは何なのか 〈まとめ編〉〔後篇〕……松本てふこ  ≫読む

〈年老いたデザイン〉を考えてみた 〔後篇〕
……鈴木不意  ≫読む

■高校生が読む新撰21 第4回

矢野玲奈・相子智恵 ……山口萌人・青木ともじ ≫読む

林田紀音夫全句集拾読 122 …… 野口 裕  ≫読む

商店街放浪記33  大阪 佃島 〔前篇〕……小池康生 ≫読む

世界は俳句で出来ている
今週の五七五 no.04 ……さいばら天気  ≫読む

〔週俳6月の俳句を読む〕
鈴木茂雄 ポエジー・スナップショット ≫読む
曾根 毅 即反故なのか ≫読む
田中英花 草のせいではないけれど ≫読む
長嶺千晶 蝶とエロスと乾き ≫読む
湊 圭史 (で、私にとっては快い) ≫読む
山田耕司 
そっちの方向に「おいでおいで」する単語 ≫読む
吉田悦花 次々にくちびるに当ててみて ≫読む

〔俳句総合誌を読む〕
むむー
「俳句」2010年7月号を読む……上田信治 ≫読む


■第2回石田波郷新人賞のお知らせ≫見る
■第118回現代俳句協会青年部勉強会[自動機械]のお知らせ≫見る
■haiku&me 特別企画Twitter読書会『新撰21』
第10回「村上鞆彦+津川絵理子」≫お知 らせ


後記+執筆者プロフィール ……山口優夢  ≫読む

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秦夕美 厨にて

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週刊俳句 第167号 2010-7-4 秦夕美 厨にて
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後藤貴子 バナナの黒子

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週刊俳句 第167号 2010-7-4 後藤貴子 バナナの黒子
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10句作品テキスト 秦夕美 厨にて

厨にて  秦 夕美

水無月の影を売りたる男かな

火柱もくづをれやすし一夜酒

歴代の油じみあり花うつぎ

やゝ欠けて夏の月いづ皿屋敷

鉢かづき姫のおはなし瓜茄子

鍋島の猫の眠りや合歓の花

ほとゝぎす包丁塚の濡れゐたる

俎板にしみつく音も明易し

塩田をよぎる梅雨雲父の声

初夏や砂糖のごとき龍馬伝

10句作品テキスト 後藤貴子 バナナの黒子

バナナの黒子  後藤 貴子

恋語るバナナに殖える黒子(ほくろ)かな

老農の生命線ににじむP(リン)

端座してきのうの我と遇う古書肆

鰭たたむ京王線の群衆よ

増えすぎたグッピー仕舞う祠かな

にがよもぎ千年明かり洩れる部屋

教卓に彫られ『I(アイ)♡NY(ニューヨーク)』

キューバより届く切手よ空の海

はつなつの吸い玉の柄のみぢかけれ

南国忌SP盤の黒光り

「俳句甲子園」を考える 東京大会見聞記 小野裕三

「俳句甲子園」を考える 東京大会見聞記 小野裕三


最近の俳句界の変貌ということを語る際に、欠かすことのできないキーワードとして「俳句甲子園」がある。二十代を中心として活躍する若い俳人たちの多くがこの俳句甲子園出身であることは周知の事実だ。俳句界全体の「若返り」を促進し、有望な新人を排出する装置として俳句甲子園は確かに有効に機能しているように思える。

勿論、よい面ばかりでもあるまい。結社に属さない俳人たちの活動について、長期的な観点から懸念を示す声もないわけではない。また、ネットなどで見る限り、俳句甲子園というイベントについても批判がないわけではない。だがいずれにせよ、今後の俳句界を考えていく上で俳句甲子園は無視できない存在になっていることは確かだ。

そんなわけで、俳句甲子園には少なからぬ関心を抱いていたのだが、縁があって、今年の俳句甲子園東京大会の審査員を務めることとなった。そこで、「審査員の眼から見た俳句甲子園」ということで、簡単にレポートしてみる。



東京大会の会場は、東京都人権プラザという施設で、浅草から巡回バスで10分ほど乗った辺りにある。バス停を降りてから、途中のコンビニで弁当なども買いつつ地図を頼りに会場を探す。すると、途中の道で高校生たちの一団にいくつも遭遇。引率の先生らしき方がやはり地図を片手にしている。なるほど、きっと彼らは俳句甲子園の出場メンバーなのだろうな、と思いながら彼らの列を見送る。

会場の人権プラザに到着すると、そこからすぐにまた第二会場の方に誘導される。出場校数の関係もあるのだろうが、今年の東京会場は二つに分かれているらしい。

第二会場の審査員は、大高翔さん、上田鷲也さん、そして僕(小野)。すぐに試合は始まるはすだったのだが、どうやら直前になって出場辞退の学校があったとかで、対戦の組み合わせをやり直すことになり、スタッフの方々がばたばたしている。なにごともイベントには、この手の不測のトラブルはつきもの。大変だなあと同情しつつ、とりあえず審査員は「待ち」の状態。結局、勝ち抜き戦だったものが急遽総当たり戦となり、試合が開始されることになった。

ご存じない方のために、俳句甲子園の「試合」の方法を簡単に説明する。5人編成のチーム同士の対戦となるのだが、それぞれのチームが兼題に沿って一句ずつを三回出す。一回ごとに出されたそれぞれのチームの句に対して審査員が優劣を判定する。それを三回繰り返して、優判定の多かったチームがその試合の勝者となる。

審査員は、作品に対する評価を基本としつつそれぞれのチームによる鑑賞力への評価も加味して総合的に判定し、優劣を決める。審査員はきちんと点数を付け、その結果をよく武道の試合などで見るような紅白の旗を使って示す。紅チームが優勢と判断すれば紅い旗を、白チームが優勢と判断すれば白旗を上げる、というわけだ。いたってシンプルと言えばシンプルな仕組みである。

僕自身、審査員参加は初めてだったのだが、俳句甲子園が「団体戦であること」「句同士の優劣を直接対決で競うこと」は以前から知っていた。そして、率直に言うならそのようなやり方に、以前は疑問を感じていなくもなかった。そもそも、俳句には「団体戦」という発想が馴染まない気がする。それに、句の優劣を直接対決の試合形式で決めるというのも、そのような形で俳句の「優劣」が明確に判断できるものだろうか、という根本的な疑問もあった。

また、優秀な生徒たちが集まったとは言え、まだまだ十代の生徒たちである。ある程度の長い経験がどうしても必要になる俳句の世界では、やはり所詮は「初心者」の大会なのではないか、という先入観も正直に言うとあった。

しかし、結論から先に言おう。僕自身が持っていた俳句甲子園に対するそのような疑念や先入観は、実際の大会に参加してみて見事に吹き飛ばされた。

まず参加者たちの作品のレベルには、まさに期待以上というか、眼を見張るものがあった。高校生ということなど関係なく、世の中で活躍する多くの俳人と比較しても遜色のないような、作品として充分な完成度に到達している句もいくつもあったし、一方で荒削りながら将来性を感じさせるセンスが光る句も多くあった。勿論、いかにも「これは初心者…」と思える句が中になかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に完成度の高く、センスの光る句が圧倒的に多く、本当にその点では驚かされた。

一方で、審査の方法についてだが、句の優劣を少数の審査員が判定するというこの方法が、想像以上に精巧に機能する仕組みであることもわかった。

それぞれの句について、審査員が点数をつけると、勿論、絶対評価では点数はぶれる。だが、相対評価で見るならほとんどぶれがないのである。このことは審査員自身としても驚きの発見であった。要するに、どっちの句が優れているかという句同士の優劣については驚くほど審査員間での意見が一致するということだ。

これも勿論、例外はある。当然ながらテーマや形式に対する審査員の「好み」のようなものはあるので、そこで優劣の評価がぶれる場合はある。また、微妙な差という場合にはそれを同点とするか、一点差とするか、というのはやはり審査員によってぶれる。

それに鑑賞力に対する評価点が加われば、総合点としての優劣の判断はまちまちになる場合もある。しかし、作品自体への相対評価は基本的には驚くほど一致する(それに対して、鑑賞力に対する評価は審査員によってやや見解がばらついた印象だった)。

ある試合では、二つの句がどう見ても同格だったので僕が「うーん、難しい」と思わず呟いてしまったところ、隣の審査員席でもまったく同じ呟きが漏れてきた、ということがあった。このように、句の間に優劣をつけるという行為は実はおそろしく精巧な仕組みとして機能しうるのだ。

ただし、俳句甲子園でひとつやはり物足りないと思ったのは、団体戦という仕組みになっていることだ。というのは、やはり5人もいると、その中で特にきらりと光るものを持っている人が必ずいる。そういう人を評価の対象として掬いあげたいと思っても、団体戦という制約上、どうしても限界がある。理想を言うなら、団体戦と並列で個人戦部門のようなものがあっても、本当はいいように思った。勿論、運営の便宜ということもあるので、簡単には行かないかもしれないが。

とは言え、団体戦にも意味はある。というのは、団体戦で戦う以上、生徒たちはグループで俳句に取り組む。そして、俳句の楽しみの多くが「仲間でやる楽しさ」にあることは、おそらく多くの人が実感していることだろう。団体戦という制約を作ることで、逆にその俳句の楽しみに目覚めやすくなる、という効果はあると思う。そう考えれば、便宜的な面だけではなく、やはり団体戦という形式にも大きな意味はあるだろう。



そして最後に、俳句甲子園というイベントが存在することの意義について考えてみたい。

賛否いろいろな意見はあるのだろうが、少なくとも俳句という視点、もしくは文芸全般という視点から見るなら、このようなイベントの存在する意義は非常に高いと思う。

会場で出会った、きらりと光るセンスを持つ多くの高校生たちは、このような大会がなければ俳句もしくは文芸にうまく出会う機会を見つけられなかったかも知れない。別に俳句の将来のためだけではないと思う。この大会に出た生徒たちが、俳人ではなくて将来的には詩人や劇作家や小説家になったっていい。言葉を使った芸術の面白さ、そのことの醍醐味のようなものを凝縮したこの大会に参加したことが、彼らの人生に大きな影響を与えることは十分にありうることだし、それは文芸という観点からは大きな資産になりうる。

少し大げさに聞こえるかも知れないが、寺山修司が十代で俳句・短歌に出会ってそれから広いジャンルで活躍したように、俳句甲子園が若い才能の原石を発掘・刺激し、その光を掴みだすきっかけになることは大いにありうることだ。

勿論、センスや才能だけではない。生徒たちの熱い思いが、審査員にも伝わってくる。それもまた、いい意味で初々しい。

俳句甲子園は、少なくとも現状の俳句界に大きな影響を与えつつあるし、俳句界を変える原動力ともなりつつある。少なくとも、その現場で見たたくさんの煌めく才能と熱い気持ちには、本当に驚かされ、また清々しさを感じた。俳句界の未来のため、などというケチくさいことを言うつもりはない。俳句に限らず、文芸全体の未来のために、ぜひ俳句甲子園が今後も貴重な役割を果たし続けてほしいと思う。

〈年老いたデザイン〉を考えてみた〔後篇〕鈴木不意

〈年老いたデザイン〉を考えてみた 〔後篇〕

鈴木不意
承前


誰がデザインしたのか、しているのか

「俳誌サロン」(http://www.haisi.com)を見ると、枠で囲んだり、飾り罫をつけたり、季節のカットを入れて単調にならないようにそれなりに努力していることがうかがわれる。

まったく同じデザインはないけれど、どこか似た印象を受ける。共通して代表句は大きい文字の1行で1段組、一般句は小さい文字の2段組である。(「ホトトギス」の稲畑主宰の掲載句はとても多くてなんと3段組だが)A5判というサイズにある程度の文字サイズを考え効率良く多数の句を掲載するには2段組にするしかない。

一方、評論文、対談、吟行文などのいわゆる本文は、2段組、3段組となるのも自然な結果だろう。

こうしたレイアウト上の制約を考えると、逆に素人でもレイアウトができるということである。素人なりに見よう見まねでレイアウトはできる。文字数を調整して写真スペースを確保しておけば、吟行記などはそれなりに見せられるものになる。

現代の俳誌デザインは惰性のままに今日に至っているという感じだ。言葉は悪いが報告書的である。毎月発行するとなるとそうしたものになるのかもしれない。あの余裕のなさは編集に関わった人ならうなづけるだろう。型に流し込む作業で精いっぱいだ。

経済的な要因はどうだろうか。デザインを外部に依頼すれば結社にとって経済的な負担となる。そこで印刷会社と折衝して妥協できる範囲のデザインを採用する。リニューアルの場合は目先を少し変えただけのものになるので劇的な変化は期待出来ないだろう。いずれにしても妥協の産物としてのページとなる。そこにはデザイナーの痕跡は残らない。誰が作ったという証左の無さが現在の俳誌のスタイルだ。顔が見えるのは表紙だけだ。

所属している結社、同人誌は誰がデザインしたのか、誰がしているのか、そんなことも考えてみることも必要ではないか。

余計な事だが、何十周年とか00号記念パーティという記事をよく見るが、みな立派なホテルや施設で開催している。お金がないわけではなさそうだから節目のパーティのついでに、少しばかりの費用を誌面デザインに投資したらどうだろうか。

俳人はデザインを大事にしてきた

私が所属している「なんぢや」と「蒐」はともに同人誌だが、「なんぢや」の創刊前のデザイン作業は、どこかで見たことがあるようなレイアウトを避けることから始めた。そのデザインを考えるさい、おおいに刺激を受けていた書籍があった。

【カラー版】芭蕉、蕪村、一茶の世界  監修・雲英末雄 (美術出版社)2,500円

書店でもよく見かけられるので、ぜひ手にとっていただきたい一冊である。

副題に「近世俳諧、俳画の美」とあり、短冊、色紙、俳画、絵俳書をカラーで紹介し、わかりやすい解説文が私にはうれしかった。

デザインという視点からこの本を開けばいかに俳史における俳人達が作品に対して「読ませる」工夫を怠らなかったことがわかる。それは「読ませる」前の段階「見せる」ことへの工夫も含まれている。

紙に俳句を残すという表現において江戸時代のほうが平成の現代より、はるかにお洒落で遊び心という豊かなものを感じる。この豊かさが現在の俳誌には皆無と言っていい。見せ方のデザインだけでなく現代の俳句がどこか薄口に感じられるのは、その豊かさが希薄になっているせいではないかと思うことがある。

俳句、絵というと俳画を思い浮かべる。俳画の講座があるくらいだから、俳句と絵の両方が好きな人なら興味が湧くだろう。俳画ですぐに思い浮かぶのが紹介本にも登場する蕪村だ。

蕪村は求めに応じて芭蕉の「奥の細道」の屏風を何枚も描いたことは周知のとおりである。そのうちのひとつを見たことがある。山形美術館所蔵のものだったが、つくづく面白かった。例えばであるが、あの大きな屏風絵を写真に撮って各部分を切り取りよくある俳誌に縮小してレイアウトたらどうだろう。そんなことを考えてみたのである。

山形美術館
http://www.yamagata-art-museum.or.jp/ja/j_collec/j_collec.html

蕪村は画家で生計をたてていたプロだけれど、それにしても江戸時代の肉筆画、木版画のほうが面白いなんてどういうことだろう。

印刷の時代からオンデマンドそして電子書籍へ

明治期に入った印刷技術でそれまで以上に大量な複製物が可能となった。子規時代の印刷技術は当時のハイテクでもあった。貴重な「ほとゝぎす」1号が「ホトトギス」HPで閲覧できる。

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/hototo/hototo01/01/01.htm

白紙に黒色の印字はもっともシンプルで俳句にふさわしいのかもしれないが、平成の世に「なんとかしようぜ!」という声も聞いたことがない。

編集部への投稿をeメールで受付けるところが増えてきた。身近な結社、同人誌ではほとんど郵送とeメールの両方で受付けているようだ。「なんぢや」の場合、投稿はeメール、校正作業はPDFで行っている。印刷はオンデマンド形式をとっている。

注意しておきたいのは、いわゆる印刷とオンデマンドはまったく別なものであるという点である。いわゆる印刷インクによる印刷ではない。コピーの機械による出力だ。オンデマンドはコピー出力のことなのに、どういうわけか「オンデマンドコピー」とはせず「オンデマンド印刷」という呼称が使われ、そのため通常の印刷形式と混同されてしまう。これは日本独特の現象だと聞いた。

少部数の冊子ならオンデマンドでそれなりのものができる。それなりとは半端な言い方だが、印刷インクのテクスチュアは捨てがたいものがあるからだ。品質は印刷のほうがはるかに上である。

アメリカやヨーロッパからのペーパー資料を手にしたときのこと、あきらかに印刷とオンデマンドを使う差異がわかった。「費用、数量、時間、用途」で使い分けているのだ。オンデマンドは安価だが品質は印刷に及ばない事を知っておいたほうがいい。

(身近なオンデマンド製品といえば名刺かもしれない。「費用、数量、時間、用途」の点で見合っているからだ。)

印刷形式に対してiPadの登場で電子書籍の参入が以前より盛り上がってきている。現在、私自身はiPadを必要としていないが、今後どうなるかわからない。欲しいという反面、いらないなあと思う。あれば使うだろうが、費用対効果に見合うものだろうか。使うとすれば上級機種が欲しい。すれば15万〜16万円はかかり、搭載したいアプリケーションがあればさらに費用がかさむ。(パソコン、インターネットと便利な技術に助けられているものの、ふりまわされていることもまた事実だ。)

編集部がんばれ

真鍋呉夫氏の『月魄』が第44回の蛇笏賞を受賞したこともあって、あらためて手にしてみた。作品の文字書体が普通と違うことは買った当初から気付いていたが、この機会にルーペで拡大してみた。文字の縁のカスレから最近作られた書体、さらに印刷方式ではないと思い奥付を見たら「本文活版印刷」とある。なるほどそうかと合点した。

本句集には雪女の句が多く出てくる。「雪」の雨冠の中のヨコ棒にうろこ(明朝体の漢字にあるヨコ棒末尾の小さな三角)がないから、そう古い活字ではないようだが全編を通して味わいのあるものになっている。

パソコンの書体ではこうはいかない。味わいのある活字がこのように健在なことは嬉しい。読めればどんな字体でもいいというのはどこか欠落している人の考えだ。真鍋氏に相応しい印刷形式の選択だと思う。

参考サイト:
http://www.flickr.com/photos/24853146@N03/sets/72157623337097037/

高橋睦朗氏が「選・文」をした『俳句』はデザインワークがきれいで、ときどきページを繰る。最近、安価な「新装版」(文庫本サイズ・内容はほとんど同じ)が出たのでこれまた購入した。
句と解説があり英訳付きなので、海外でも売れそうな気がする。
季節の写真と句・文章が交互に展開されていて、計算されたシンプルなデザインが心地よい。

俳句    (ピエ・ブックス)3,800円
俳句 新装版(ピエ・ブックス)1,600円
 http://www.piebooks.com/search/categories.php?SCID=102&PAGE=2

子規の四大随筆を座右の書としている人も多いと思う。

『病牀六尺』の解説で上田三四二は書いている。

新聞が子規の病状を心配して休載の日をつくったことがあった。
そのとき子規はこう訴えた。
「僕ノ今日の生命ハ『病牀六尺』ニアルノデス。毎朝寢起ニハ死ヌル程苦シイノデス。其中デ新聞ヲアケテ病牀六尺ヲ見ルト僅カニ蘇ルノデス。今朝新聞ヲ見タ時ノ苦シサ。病牀六尺ガ無イノデ泣キ出シマシタ。ドーモタマリマセン。若シ出来ルナラ少シでも(半分デモ)載セテ戴イタラ命が助カリマス。」
——死を目の前にしてこの書くとへの執着、それが子規にとってとりもなおさず生きることへの意志であり、生きることの意味であった。
私の周囲に子規のような状況で投稿する人はいないが、投稿者にしてみれば病気、健康の違いはない。投稿したら自分の句、文章は印刷されたもので読みたい。総合誌、結社誌、同人誌の区別もないはずだ。

編集者とは投稿者の作品を「載せる」という以上の何かを考える立場の人である。手にした人に読ませるという積極的な仕掛けやデザインが生まれるのは、そうした意志によるのではないだろうか。

(了)

中学生が読む新撰21 第4回 矢野玲奈・相子智恵

高校生が読む新撰21 
第4回 矢野玲奈・相子智恵……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載

矢野玲奈論……青木ともじ

   箱庭に天動説を思ひけり
 
最近の俳句を見ていると天動説、地動説というスケールの大きな俳句はしばしば見かけるが、その多くはスケールだけで共感性はほとんど無い。しかしこの句ではそうではないと思う。箱庭というものをひとつの惑星に仕立てて、作者はいわば神の視点から箱庭を見ているのである。そういうところから天動説のつけ方は理解できるであろう。また、多く、このような句は季語もイメージでつけがちであるが、この場合の箱庭は季語の本意を生かせているのように思う。主に箱庭では、現実の世界の庭(あるいはモノ)と虚の世界ともいえる箱庭の対比という感じで読まれることが多いが、この場合、スケールを大きくしたことで句の類想感も防げているようにも思う。ある意味この句は箱庭を使ったことで世界が統一されているのだろう。それでもこういう句に対する好みは分かれるところかもしれないが、私にとってはなかなか好きな句であった。

矢野氏の句の多くには新しい言葉、斬新な言葉をつかったものが多くある。新撰21を読むなかで多い趣向ではあるが、それぞれに特徴があり皆どこか違うところがおもしろい。彼女の句の中からふたつこういった句を見てみる。


  フィボナッチ指数のごとく蝌蚪生まる
  降る雪や繰り返し聴くジムノペティ

先程書いたとおりこういった句はどうがんばっても好き嫌いは出てしまう。大きな問題は共感性と、固有名詞がどこまでその固有さを生かされているかである。前者はフィボナッチ数列1、1、2、3、5、8・・・という不規則のようで規則のある増え方がどことなくおたまじゃくしらしさを出しているように思う。後者もジムノペティの題名である「悩めるごとく」、「悲しげに」、「厳かに」を作者の心の中で繰り返していく感覚、それを降っては消えていくような雪に託したのだろう。彼女の句は固有名詞の魅力を全面には出さず、あくまで句の世界の材料のひとつとして利用しているがゆえにそれが自然に溶け込んでいるのである。それでして、固有名詞のもつ魅力も出ているのが彼女の句の良いところではないか。特に後者は、固有名詞が生かせている。一方、平易な言葉のみを用いた句に関しては、その観察力が長じていると思う。たとえば

  台詞無き村人Bの息白し
  クリスマスツリーばかりの街にゐる

前者は息の白い人が主役ではなくエキストラ、それも村人Bというのがリアリティーがあり、また不思議な魅力がある。古い劇場のようなところを想起させられるだろう。後者もまた、現代の町並みらしい景である。たしかにいまどきは正月になれば門松が、三月になれば雛が、五月になればこいのぼりが街を埋め尽くす。クリスマスもまた然りである。現代人にとって当然なこととなってしまっているが、あらためて言ったことに魅力がある。
 
彼女の観察力は繊細さ、ではない。そういう意味とは違った、逆にもっと大きな視点をもって、良い意味で抽象的な視点をもっていて、それは前半で述べたような句においても同じようなことが言える。「矢野玲奈小論」において「大らかさ」という表現が使われているが、その大らかさはけっして大雑把とは違う、広い意味で繊細な視点を持っている。大きな視点をもってして繊細である、それが句を読んだときに不思議な気持ちになる、それが彼女の句の魅力につながっているのである。



相子智恵論……山口萌人

   押して抜く浮輪の空気最後は踏み

相子智恵氏の百句の中には、実にさまざまな物が描かれている。ある時は完全に客観的に、またある時は一人称的な体験に訴えかけてくるようにと、その手法もまた、さまざまである。掲句は、実体験に題材をとったものであろう。海水浴やプールで誰しもがしたことのある景の筈だ。「最後は踏み」という下六がいかにもゆっくりと浮輪の空気が抜けていく感じに合っているように思われる。鋭い観察の光る句である。

今回は、掲句のような等身大の生活に対する観察眼の光る百句を、昨年、氏が受賞された角川俳句大賞の五十句を混ぜつつ、見てゆこうと思う。


  ひも三度引けば灯消ゆる梅雨入りかな
  冷やかや携帯電話耳照らす
  冬晴や鳩サブレー鳩左向き 
(萵苣)

一句目、バチンバチンと紐を引く度に蛍光灯の明るさが変わっていくという、日常的な就寝の風景。二句目、本当は年中、携帯電話のライトは耳を照らしている筈なのだが、秋になっていよいよ日が短くなると、一層その仄暗い光が冷えを感じさせるという感覚。確かに言われてみて、季語が動かないように思える。三句目、確かにその通りである。冬の季感もクッキーと合っている。

三句とも、実感という意味では誰もが納得して読むことができると思う。日ごろ必ず見掛けている筈の風景なのだが、それを改めて言語化したことによる再認識(一種の意外性)と、季語との絶妙な距離感こそが、これらを佳句たらしめている。冒頭句も然りである。思わず、声を上げたくなるような実感がある。



  大粒の葡萄剝きをり王妃死す
  一撫でに毛皮冷たし夜に入る 
(萵苣)
  
どちらの句も、上五中七で纏まったフレーズを形成し、一旦切れてから下五に全く別の(且つ季語以外の)フレーズがぶつけられている。俳句ではよくある「構文」のようなものだが、多くは下五に季語を置いて、いわゆる「二物衝撃」の形をとるものが多い。しかし相子氏の句には季語でないものが下五に来ることがあるのだ。それによって一句目は葡萄の高級感が、二句目は夜に向かう沈静した作者の心情を醸し出しているのではないだろうか。一方で、十二文字と五文字がそれぞれで完結してしまっている分、この言葉上のデペイズマン的手法が(前項に挙げたものに比べると)実感を弱めてしまうことにもなっているかもしれない。

三 
  熱狂は対岸にあり揚花火
  茫茫と海月重なる桶の中
  遠火事や玻璃にひとすぢ鳥の糞
 
自分と離れたところで盛り上がっている人の群れ。自分が見ていようがいまいが、浮き沈みを繰り返す海月。鳥の糞が視界に入って初めて、ガラスに隔てられて遠くの物になってしまった火事。この三句には対象と視点の間に不思議な距離をとっている。近くに感じているのだけれど、絶対に触れない距離。それは事物をより客観的に描こうとする姿勢の果てにあるものか、それとも外界に対する心的距離感か。その真偽はともあれ、これらの句が氏の百句の叙景の側面を強めていることは確かである。

以上、数パターンに分類して相子氏の句を鑑賞してきたが、どの句においても叙情より叙景、主観より客観を主体としているように感じた。内容については、はじめはテーマも多岐にわたり、一見統一されていないようにも思えた。しかし、描く世界はさまざまでも、その描き方にぶれが無いのである。その地に足のついた句柄が、百句に安定感を持たせているように思う。

(注)句において、無記載は邑書林『新撰21』、(萵苣)は第五十五回角川俳句賞受賞作品『萵苣』より引用した。





邑書林ホームページでも購入可能。>

『俳句』2010年7月号を読む 上田信治

〔俳句総合誌を読む〕
むむー
『俳句』2010年7月 号を読む 上田信治


先月は「若手俳人の季語意識」という、いっちょやったろう、という意識の見える特集があったわけですが、今月は、平常運転に戻ってしまった? 角川『俳句』です。


モノから読み解く江戸俳諧の黄金時代 伊藤善隆 p.50-

連載第七回は「「点取俳諧」の経済的側面」と題し、大名が主催した句会に、宗匠が批点を依頼された場合の、謝礼はいくらぐらいだったか、という話。百韻一巻につき、今のお金で二万円くらいだった。句会への出張指導は、七万円弱。

大名って、今で言うと、細川護煕とかカルロス・ゴーンくらいの感じですか? だとしたら、お座敷かかって七万円は、ちょっとお安いかんじ。


特集「先人たちに学ぶ俳句の「個性」」 p.73-

この特集は、狙いが分かりにくいんだなあ。

いつもの入門特集のフォーマットにはめるなら、「類想を脱する「自分の言葉」の生かし方」とでもなるんでしょうか。とりあえず、五七五を並べられるようになった人が、どう書けば「自分らしい」句が書けるようになるか、みたいな・・・。

それは、きっともう、さんざんやってるから、今回は、作家研究のかたちでいってみたんだと思うんですよ。

とりあげたのは、子規、虚子、秋桜子、誓子、草田男、楸邨、波郷の七人。

もともと作家と呼ばれる資格があるのは、個有性を、作品に刻印することができた人で、この七人なんかは、どこを切っても個有性みたいな、作品どころか俳句史にその個有性を刻印しちゃった、という、そこらの俳人や、愛好家のレベルから見たら化け物みたいな人たちで、そういう人たちが、どう個性的だったかを論じても、あまり参考にならないような・・・

むしろ、こういう大作家達が、指導者として、彼らに続く作家たちの「個性」を、どう評価し伸ばしていったか、みたいな話が読みたかったかな。

型や季語の習得は、前座の修行。そこからどう「個性化」していくかが、作家修行だと思ってるんで。

なかでは、岸本尚毅が、〈しんしんと寒さがたのし歩みゆく 星野立子〉=〈その辺を一廻りしてただ寒し 虚子〉のように、他の作家と虚子の、似たモチーフの句をカップリングして数組並べてみせたうえで、虚子の「雑音のような小主観を消し去った後に残る、のっぺりとした能面のような俳句」について書いているところが、いつもながら、面白かったです。


現代俳句の挑戦(7) 髙柳克弘 p.168

現代では結社が「教える場所」として機能している。そこでは、俳句はどのようなものかについて「答え」を出さなくてはならない。だが、そのように安易に俳句に「答え」を出してしまうことが、むしろ俳句の命を殺している。

「現代詩手帖」六月号の特集で、髙柳が、結社は「読み」を伝承していく役割を果たすべき、と発言していることとつながっている。

佐藤文香が、俳句甲子園に出場する高校生を指導する上で、「「詠み方」を教えたことは本当に少なくて、「読み方」と、「読んでみたらいいかもしれない句集」を提示してきました」と言っていたこととも、つながっている。


●今号、お、読まなきゃと思わせる作家多し。

手わけして睡蓮が咲き出してゐる 鈴木章和
地の中に土竜嗅ぎあふ茂りかな  相子智恵
土用波ひきゆく石がからからから 安倍真理子
牡丹の一つ雪崩れてしまひけり  浅生田圭史
新橋で降りて歩いて生姜市  星野高士『顔』自選20句より


【芝不器男俳句新人賞・公開選考会レポート後篇】新しさとは何なのか〈まとめ編〉 松本てふこ

【芝不器男俳句新人賞・公開選考会レポート 後篇】
新しさとは何なのか〈まとめ編〉

松本てふこ


芝不器男俳句新人賞公開選考会レポ、後編である。前編の勢いのままに突き進むつもりなので「前回のあらすじ」のようなものは省かせて頂く。ご了承頂きたい。

最初の投票で審査員5名中4名の支持を集めた作品番号029。数の上からすれば、受賞作は決まったも同然だった。しかし、2回目の投票(2作品選出)での最多得票は、最初の投票者全てが再び票を投じ3票を獲得した072であった。029と058は2票獲得。城戸委員、齋藤委員の両名が最初の投票で029と072の両方に入れていたが、2回目で両名とも072支持にまわった格好となった。

「イメージとしての戦争」「コンピューターの先にある、はじきだされた敵」城戸委員が072を評する言葉は俳句を語るそれではないような響きを持つ。世界のどこかで起こっていることではなく、身近なものとのして戦争を捉えた点を1回目の投票に続き評価している。齋藤委員がその流れを引き継いで戦争詠への言及から「憎しみが戦争を生むのではない、政治の失敗が戦争を生む」という戦争論を展開したあたりで、072への後押しモードは最高潮に高まった。対する坪内委員は〈戦争は発作にあらず月に暈〉〈人間をとことん憎む神の留守〉〈心房はさびしきところ霾れる〉などの句に触れ、「思い+季語」という基本的な形で作句する場合、よっぽど新しいことを言わなければいけないのではないか、と批判的に指摘。〈奈落には奈落のおきて蛙鳴く〉〈退化より進化の不安目借時〉に関してはその古さを指摘した。対馬委員も〈ぼうたんの天上天下すべてやみ〉の下五、〈重力のかたまりとして苺かな〉の「として」の部分に疑問を呈した。定型詩としての稚拙さ、ということか。072への評の中で印象的だったのが、坪内委員が齋藤委員に「(作品の魅力を)納得させろ」とストレートに言葉をぶつけ、対する齋藤委員が「納得させられないんですよねえ」とつぶやきながら評をし始めたシーンであった。納得させられない。重い言葉だ。人と楽しみを分かち合える句群かと言えば、そうではない気がする。城戸・齋藤両委員のロジカルな読みを聞いていて抱いたのは、読者に対して雰囲気で読むことを拒否し、言葉と論理でその魅力を顕在化させることを要求する句群という印象だ。言葉で魅力を解き明かせる点で数学のような楽しみがある、とも言い換えられようか。しかし、説明することと納得させることは違う。「この句いいよねえ、うんうん」とうなずき合える句があるかどうかは少々疑問だ。072を2回目の投票でも支持しながら、「知識としての戦争」という言葉を用いてその観念性を指摘した大石委員長の発言も気になった。

058に関しては、わからなさを大事にしている、読んだ人の世界を広げる、と坪内委員が熱心に評価した。〈泣く人がいそぎんちやくに見えてならぬ〉〈明易のわれもむかしは木から木へ〉は坪内・齋藤委員共に支持していた。自ら票を投じたが「冒険もない、古風でもない、こういう句を選べばいいんだろうな」と評した齋藤委員、「072よりはいい」という対馬委員など、評の言葉が全体的にややローテンションであったためか、2票を集めたにもかかわらずそれほど注目は集まらなかった。

対馬委員の一押しは049081。選が他の委員とかぶらない、とぼやきつつ049の評を進めて行く。049に関し、対馬委員はその屈託のなさ、おとなしいがテーマ性や言葉の意外性に頼らない作品世界を高く評価した。その即物的な描写をほめていたのが〈一枚の障子すとんと外れけり〉。

「気持ちが前面に出ている」「有季定型に変わった点が何かしらプラスされている」「技量を感じる」と対馬委員に絶賛されていたのは081。029、072への対抗として終盤で一気に注目度を上げた。100句としてのまとまりという観点を強く打ち出し、072に関しても「100句としての勝利」と一定の評価を下した対馬委員が定型詩としても1つの作品群としても納得しうる、と最終的に選んだのが081だったのでは、と推測される。「句集になった時にいい句が多い」という評は印象的だった。もう少し早い段階からこの作品が注目されていたら選考会の流れは大きく変わったのではないか。〈毛を刈られ羊は多面体となる〉の現代的なレトリック、〈星条旗の青い部分を昼寝かな〉の「わかるようなわからないような」魅力、〈歌積んで山河を成せと偽勅かな〉の骨格と重厚さ、〈月と日にわれてあはぬよ枯木山〉の堂々とした詠みぶりと寂しさ、どれも読者の心をじわじわと浸食してくる。惜しむらくはその「じわじわ」に即効性がいささか欠如していた点であったかもしれない。

1回目の投票で大石委員長に推された012は、2回目の投票では言及されなかったが、現代性、作者の姿が見える点、季語の使い方の確かさを評価され、大石悦子奨励賞を受賞した。〈抽出にモデルガンあり雁帰る〉〈朝桜ダムの放水はじまれり〉〈リネン室にシーツ山積み夏をはる〉〈月明に大胸筋の張りにけり〉などが注目句として挙げられた。

ご存知の通り、最終的に受賞作となったのは029である。大石委員長の072への疑問は、この029の作品世界への熱い共感あってのものか、と解釈できる発言が沢山出た。上品ではないがウソがない、俳句の可能性を感じる、この人の生き方が現れている、この人が進む道の困難さに半分同情もするetc…。私は大石委員長がグロとナンセンスの世界、と評した〈排泄をしようぜ冬の曇天下〉〈滝のごとゲロを吐く月を背にして〉など、やっぱりどこか懐かしさのある無頼の匂いだな、と感じた。私個人は029に新しさはそれほどないように思う。俳句ではなく生命体がへばりついた言葉のようで、捨て置けないというのが一番正直で強い思いなのだが、そんな言葉では論じていることにならないであろう。閑話休題。072に威勢良く噛みつき、058を高く評価した坪内委員は「これがいい、という作品は少ないが、試みているというか、このパワーだけでやっているところを買いたい」と、ややクールな姿勢。芝不器男俳句新人賞も第3回を迎え、起承転結で言えば「転」の時期にさしかかっている、だからこそ無季も自由律も含まれた029の作品を選びたい、という大石委員長の発言は有季定型への揺るぎない愛情ゆえのものなのだろう。

「句集としてどうなのか、句会で見たら選ぶ句なのか、受賞作として選ぶのは定型詩でなくていいのだろうか?」という疑念を最後まで表明し続けた対馬委員が決選投票直前に放った一言は忘れがたい。「口語、無季なら新しいのですか?」。そんなはずはない、という確信があるからこそ出た発言。これもまた、有季定型への愛ゆえの言葉だった。

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最後に、特別賞の話を。特別賞に選ばれた060の句を、特別賞選者である西村我尼吾参与がいくつか挙げて読み上げたのだが、それが声量たっぷり情感たっぷり、独自の節回しとしか言い様のない名調子で作品世界と絶妙な調和を成していた。西村参与をご存知の方は是非以下の句をおのおのの脳内YouTubeで再生して頂きたい。〈仔鼠をそっと握らば腸(わた)温し〉〈良質の毛皮となりしいのちかな〉〈父子ふたり鹿殺したる絆かな〉〈死にゆく人間にさへもヒエラルキイ

商店街放浪記33 大阪 佃島 〔前篇〕

商店街放浪記33
大阪 佃島〔前篇〕

小池康生


路地裏荒縄会である。
今回のコーディネーターはペーパーさん。
この人、歴史的建造物の設計図を手に入れ、その寸分違わぬ縮小版の紙の模型、つまり建築物のペーパークラフトを造りあげる人である。

腕前はプロだが、それが職業ではない。
職業はよく知らないが、いかがわしい会社で大儲けしているようだ(嘘)。

ペーパーさんは、街歩きのツウなので、難コースを設定する。
だから毎回遭難者が出て、ヘリコプターが飛んだりする。
説明しなくていいと思うが、これも嘘である。

たかが、街歩きである。
しかし、四十面、五十面さげた人間が本気で歩くのである。
飯を食うように水を飲むように尻を触るように、街を歩くのだ。

で、今回はどこへ行のだろう。

俳人である筆ペンさんが、ゲストを連れてくるらしい。
わたしのところにも複数の参加希望者から声が掛っているのだが、次回、自分が幹事の時に案内しようと思っている。

ペーパーさんからのメールには、<北新地駅>集合とあった。
東京でいえば銀座である。ペーパーさんの会社に近い。

約束の時間ぎりぎりセーフの時間に待ち合わせ場所に行くと、赤レンガさんが券売機の横に腰掛けていた。

時間前に来たのは、赤レンガさんとわたしだけなので、赤レンガさんが得意気だ。
「もう、時間やね。どうして業界人は約束にええ加減なんやろうか。・・・へへへ、先、来た時は強気にこんなこと言うたりして」

赤レンガさんが、少し離れたところに立つ女性を指さす。
「あの人が、気になってるの。今回のゲストかな」
「えっ?ゲストって女性?」
「小池さん、メールちゃんと読んでないでしょう」
「女性と、書いてましたか。あぁ、読んでない」
修行僧のような筆ペンさんだから、知人友人と言えど男性と勝手に解釈していたのだろうか。へーっ、女性なんだ。

そんなやりとりをしている途中に、件の女性の元に、待ち合わせ相手の女性が近づき、どこかへ去った。
「違ってたんだね。声かけなくてよかった」
赤レンガさん、新しいゲストに興味があるのか、新しいゲストが女性であることが気になるのか・・・そうこうするうちに、ペーパーさん、筆ペンさん、九条DXが揃ってやってくる。みなさん、背筋を伸ばして遅刻である。

「切符は、御幣島まで買ってください」
「えっ、北新地じゃなかったの?」
「違いますよ」

東西線に乗るらしい。北新地をうろうろするんじゃなかったのだ。
赤レンガさんもわたしも、花の北新地がテーマだと思っていた。
北新地を商店街と捉えるところが実に面白いなぁと思っていたのだが、違いました。あーそうですか。違いましたか。あー分かりましたよ。ミテジマまで買いますよ。

北新地駅の、地の底までたどりつくような、深い階段を下りる。
これだけ掘れば井戸が出るか、温泉が湧くのではないか。

下りても下りてもホームつかない。
長い。しんどい。誰かが背中を押すと、それでお陀仏になるような階段だ。
ナントカ恐怖症の人は、この階段の途中で立ちすくむかもいしれない。
都会はおそろしいとこである。


ホームで電車待ちの間、ペーパーさんから今回レジュメを配られる。
ホッチキスで綴じられている。だんだん本格的になっていく。
授業か、これは。

北新地⇒福島⇒野田⇒海老江⇒御幣島と地底電車は走る。

御幣島。
真新しいホームの壁に、船の絵が印象的。
ここいら辺は、その昔、難波八十島(なにわやそじま)が点在したところである。

地上にあがると、方角がさっぱり分からない。
「北はどっちですか?」
全員が地図を見たり、空を見て、夕日の方向を確かめたりする。
九条DXに至っては、唾をつけた指を風にかざしている。
・・・・協議の末、西が決まり、北が決まる。
近くを通るひとたちがヘンな目がわたしたちを見ている。

ペーパーさんの案内で歩きだす。
目的地は、佃島である。
佃煮の佃島である。
東京にもあるし、大阪にもある。
ご存知の方も多いと思うが、佃島は大阪が本家で、その本家の面々が徳川家康に招かれ、江戸にも佃島を作ったのだ。

ペーパーさんは、すぐに目的地に行かない。
A地点からBの目的地を歩くプランをする人だ。
周辺の匂いもかがせたいのだろう。

すぐに交差点に出る。
五叉路である。信号があるにはあるがややこしい。
地下に潜る。地下に下りると、そこも五叉路である。

地図に上がり、公園を歩く。縦長に長い公園で、ジョギングコースになっているらしく、ランナーとすれ違う。
うねうねと道が続く。
「ここ、昔、川だったんです」
ペーパーさんが言う。そこか、わたしたちはかつての川底を歩いているのだ。

大阪の川がどれだけ埋め立てられたか。
この川もそのひとつだ。
わたしたちは、なんの観光コースもなく、ビューポイントもなく、おもしろおかしい店もなく、トラックの走る産業を歩く
ただ、全員の頭のなかには、今はなき、難波八十島の頃の干潟や点在する小島を想像しながら、すぐそこの海に沈んでいく夕日をみながら、歩いた。

廃版の海図に包むあやめぐさ  康生

                           (次週に続く)


たいぎであった 西村麒麟

たいぎであった

西村麒麟


世のため人のため、などとはやっぱり考えず、太祇が好きなので太祇について好きな事を書きます。炭太祇(1709〜1771)、同時代の蕪村と親交のあった俳人として有名でしょうか。そして、なんと言っても京の島原遊郭に不夜庵を結ぶ、というあたりが、いかにも興味をそそる作家です。実際読んでみると、これが良いんです、想像をはるかに越えて作品が楽しい。これもあぁこれも好き、と困るぐらいなもんです。子規が喜びながら読んだのもうなずけます。では実際見ていきましょう。

目を明けて聞て居るなり四方の春

良いスタートです、いきなり良いですね、やわらかな光を見ているんですかね。こんな老後を迎える事ができるたらなぁ。

年玉や利かぬ薬の医三代

いやいや、三代に渡って駄目じゃないですか?

春駒や男顔なる女の子

春駒と置く事で、めでたさと凛々しさが感じられます、将来が楽しみ。

羽子つくや世ごころ知らぬ大またげ

あんみつ姫というか、じゃじゃ馬的な女の子を感じます、微笑ましい一句

な折そと折てくれけり園の梅

ザ・風流

情けなふ蛤乾く余寒かな

情けなふ、との置き方は今見ても面白くはないですか?あー情けない、トホホな感じが良い味です。

里の子や髪に結なす春の草

めでたい、みんな元気。春の字が子供を可愛く見せますね。

海の鳴る南やおぼろ朧月

カッコイイ句!鳴るが力強いです、おぼろおぼろ月となっているのがモコモコしてて良い。

欺いて行きぬけ寺やおぼろ月

うまい事言って、この寺を抜けてやったぜ、という俳句ですが、風流と言うか不審者と言うか。

声真似る小者をかしや猫の恋

ね、猫八さん(動物のモノマネ名人)!?あ、でも小者とあるから、その真似の真似ぐらいかな。僕は猫八さんの『盛りのついた猫』の真似が大好きです、あ、思い出し笑いが、あぁ暗い暗い、はい、太祇太祇と。

遅き日を見るや眼鏡をかけながら

見えません、古典的ギャグでしょうか?でも・・・僕はなかなか面白いと思います。

小一月つつじ売り来る女かな

一ヶ月間だけ来る花売、毎日顔会わせるとだんだん挨拶とかするようになるんでしょうね、で、いつの間にか来なくなる、あぁあの娘さんは元気かしら、なんて古典的でしょうか?美しい句だと思います。

やぶ入や琴かき鳴す親の前

うんうん、立派になったね、と涙ぐむ両親、琴、が良いですね、泣かせますね。あまり関係ないですが、八木重吉の『素朴な琴』という詩を思い出しました。

大工まづあそんで見せつ春日影

子供に船の模型でもささっと作ってあげたのでしょうか、粋ですね。僕はぞっとするぐらい不器用なので、こういう場面をカッコいいなと思います。

不自由なる手で候よ花のもと

優しい挨拶句ですね、なんだか子規の、寒からう痒からう人に逢ひたからう、を思い出しました。

ふらここの会釈こぼるるや高みより

有名な一句ですね、山本健吉にして、『「会釈こぼるるや」とは、心にくいほどの手だれである。』と言わせたほどの俳句(引用は『俳句鑑賞歳時記』)、たしかに、こぼるる、よりこぼるるや、の方が声にだしても楽しいですね。

死なれたを留守と思ふや花盛

おーい、うまさんや、居るかい、なんでぇ、死んでやがらぁ、と言うような句、花盛がなんだか救いな感じがします。西行さんじゃないけど、あの世へ行くなら桜の頃が良いかなぁ。

長閑さに無沙汰の神社回りけり

ご無沙汰の飲み屋はありますが、無沙汰の神社、とは面白いですね。

春の夜や女をおどす作りごと

へへへ、怖いかぁ、とこういう事もやってみたい。あぁ島原なんだなぁと感じます。

行く春や旅へ出て居る友の数

あいつもあいつも元気かなぁ、僕も東京に居るとなんだかそんな事考えます。

物堅き老の化粧やころもがへ

この句がなんだかもっともリアルな島原の感じが出ていると思いませんか?今なら夕方あたりの歌舞伎町あたりですかね・・・

蚊屋に居て戸をさす腰を誉めにけり

色っぽい。

蚊屋くぐる女は髪に罪深し

この句、古典俳句ベスト10に入るぐらい好きです。島原の遊女の豊かな黒髪、うんうん、黒髪はなんとも罪深い、いやほんと。

麦秋や馬に出て行く馬鹿息子

このバカ息子ー!とこち亀の部長のごとく追ってくる父。どうでも良いけど、僕も実家に帰ると、よく父に言われます、馬鹿息子って、言わないで欲しい。

盗人に出会ふ狐や瓜ばたけ

うおっ盗んどる!?ドロボウも狐もびっくり。

風呂敷につつむに余る団かな

お手本のような写生句かなと、意味的にはただ事なんだけど、きちんと定型に納めるとこんなに良い句に。

めでたきも女は髪のあつさ哉

この句からも豊かな黒髪を感じます、あー、罪深い罪深い。

病んで死ぬ人を感じる暑さかな

ぞっとするリアルな暑さを感じます、やっぱり太祇の精神は繊細なんだなと。

勝逃の旅人あやしや辻相撲

もしやあいつはプロの相撲取りではないだか?強すぎるぜ、ただ者じゃねぇやな。
ユーモアたっぷり

送り火や顔覗きあふ川むかひ

送り火と置けるあたりが繊細ですね、ほのかな灯り。

秋さびしおぼえたる句を皆申す

あぁわかります、寂しい時は俳句が助けてくれる・・・はず

名月や君かねてより寝ぬ病

眠り薬利く夜利かぬ夜猫の恋
松本たかし

を思い出しました。

後の月庭に化物つくりけり

後の月が利いてると思います。名月なら化け物の感じがでないです。

石榴くふ女かしこうほどきけり

綺麗な指の遊女を感じます。僕なら石榴、かしこうできそうにない。

茄子売る揚屋が門やあきの雨

揚屋とは、広辞苑によると、遊里で、遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家。それを知ってると、とたんに良い句と思いませんか?

新米のもたるる腹や穀潰し

これも実家に帰ると良く言われます、穀潰し、言わないで欲しい。

どうあろとまづ新米にうまし国

良いですね、素晴らしい国、日本。まぁこの時代だから日本というか、ふるさとの事ですかね。

薬掘蝮も提げてもどりけり

ど迫力薬掘。

永き夜を半分酒に遣ひけり

ダメじゃん、いやいやでもそんなもんです。

寝て起きて長き夜にすむひとり哉

なんか突然離婚されたお父さんってこんな感じなのかなと。

玄関にてお傘と申す時雨かな

この句、カッコイイです!鬼平のような伊達な世界を感じます。傘出しておくれ、時雨の時期だねぇ、と言ったとか言わなかったとか。

なき妻の名にあふ下女や冬籠

これもドラマがありますね、その名が気になる。

僧にする子を膝元や冬ごもり

僧になる子のうつくしやけしの花
小林一茶

と比較すると面白いです。

いつまでも女嫌ひぞ冬ごもり

遊郭に居るとそんなもんですかね?

それぞれの星あらはるる寒さ哉

僕は初めて、

ことごとく未踏なりけり冬の星
高柳克弘

の句を読んだ時、太祇のこの句を思い出しました、どちらも大好きな句です。深読みすれば、宿命とか運命とか色々言えそうですが、ごちゃごちゃ言わずに味わえば良い句です。

足が出て夢も短き蒲団かな

ちゃんちゃん♪かわいい句。

鰒売に食ふべき顔と見られけり

この句、太祇の句ではトップスリーに入るぐらい好きです。なんだか、死ぬべき、と言われているような、ならず者のカッコ良さを感じます。本によっては、顔を、となっていたり顔と、とあったりしますが、僕は断然顔と、が良いです。

見返るやいまは互に雪の人

カッコ良すぎますね、ドラマです、こういうのが、こういうのが良いじゃないですか。

一対か一対一か枯野人
鷹羽狩行

も大好き。

うつくしき日和になりぬ雪のうへ

有名な一句、やっぱり、美しい、綺麗、楽しい、なんてのも使って悪い事はないと思います、ただしうまくはまっていれば。

大名に酒の友あり年忘

僕も大名とお近づきになりたい。

宝船わけの聞えぬ寝言かな

昔包丁を持った女の人が筏に乗って追いかけてくる夢を見て、その時は、うを〜と言っていたらしいです、あ、僕の話はいらないですか、すみません。

僕の文章はあまり皆様の参考にはならなかったでしょうが、あくまで太祇の句を楽しんでいただければと思います。実は入れたい俳句がありすぎて、今回は『太祇句選』からのみ選びました、つまり『太祇句選後篇』は手付かずですので、やりたい方がいれば是非やってみてください。太祇という作家は、こんなに面白いのだから、どこかの出版社から、サクッと読める文庫本でも出してもらえないでしょうか。そのうち・・・でないかなぁ。

えーと、たくさん太祇は関連本があると思いますが、我が家の本棚にあるやつは僕でも読めるものなので、研究者向きではなく読みやすいと思います。

いくつか紹介させていただきますと

有明堂書店『名家俳句集』
非売品となっているので・・・頑張って手に入れてください。

山本健吉著『俳句鑑賞歳時記』
これを読むと太祇が贔屓の作家だと気付くはずです。

荏原退蔵著『俳句評釈』
これは名著、よく出来てます、角川文庫で上下巻とあるのですが、この二冊でさくっと古典俳句のおいしい部分を学べます、ただ・・・、頑張って手に入れてください。

小学舘発行、日本古典文学全集42巻『近世俳句俳文集』
これは収録数が少ないわりに引用句のチョイスが素晴らしい、説明も丁寧、一家に一冊、ただ・・でかくて重い。

角川書店発行、栗山理一著『俳諧の系譜』
横になって読める本ではないですが、丁寧なお仕事かなと、タイトルの渋さが良いです。

講談社文芸文庫発行、正岡子規著『俳人蕪村』
これなんか薄いし、さくっと手に入りさくっと読めます。

高浜虚子著『俳句読本』

さくっと俳句の歴史を学ぶ事ができます、古典を読みたい気分の時はこれを一冊鞄に入れておけば十分です。

えーと、これぐらいにしておきます。是非太祇百句も見ていただければ幸いです。

テキスト版・炭太祇100句抄

テキスト版・炭太祇100句抄 西村麒麟選


目を明けて聞て居るなり四方の春

年玉や利かぬ薬の医三代

春駒や男顔なる女の子

春駒やよい子育てし小屋の者

羽子つくや世ごころ知らぬ大またげ

な折そと折てくれけり園の梅

東風吹くと語りもぞ行く主と従者

情けなふ蛤乾く余寒かな

里の子や髪に結なす春の草

引寄せて折る手をぬける柳かな

起き起きに蒟蒻もらふ彼岸哉

海の鳴る南やおぼろ朧月

島原へ愛宕もどりやおぼろ月

欺いて行きぬけ寺やおぼろ月

耕すやむかし右京の土の艶

山葵ありて俗ならしめず辛き物

声真似る小者をかしや猫の恋

草をはむ胸安からじ猫の恋

春の日や午時(ひる)も門掃く人心

遅き日を見るや眼鏡をかけながら

蚕飼ふ女やふるき身だしなみ

小一月つつじ売り来る女かな

やぶ入や琴かき鳴す親の前

花守のあづかり船や岸の月

大工まづあそんで見せつ春日影

不自由なる手で候よ花のもと

ふらここの会釈こぼるるや高みより

ふり向けば灯とぼす関や夕霞

山独活に木賃の飯のわすられぬ

朝風呂はけふの桜の機嫌かな

塵はみな桜なりけり寺の暮

死なれたを留守と思ふや花盛

やぶ入の寝るやひとりの親の側

長閑さに無沙汰の神社回りけり

桃ありてますます白し雛の顔

春の夜や女をおどす作りごと

山吹や葉に花に葉に花に葉に

人追うて蜂もどりけり花の上

行く春や旅へ出て居る友の数

物堅き老の化粧やころもがへ

行く女袷着なすや憎きまで

能く答ふ若侍や青すだれ

盗まれし牡丹に逢へり明る年

蚊屋に居て戸をさす腰を誉めにけり

蚊屋くぐる今更老が不調法

蚊屋くぐる女は髪に罪深し

蚊屋つるや夜学を好む真裸

切る人やうけとる人や燕子花

麦秋や馬に出て行く馬鹿息子

盗人に出会ふ狐や瓜ばたけ

書きすてし歌も腰折れ団かな

風呂敷につつむに余る団かな

夜を寝ぬと見ゆる歩みや蝸牛

めでたきも女は髪のあつさ哉

病んで死ぬ人を感じる暑さかな

まづいけて返事書くなり蓮のもと

かたびらのそこら縮めて昼寝かな

橋落ちて人岸にあり夏の月

涼しさのめでたかりけり今朝の秋

初秋や障子さす夜とささぬ夜と

勝逃の旅人あやしや辻相撲

つる草や蔓の先なる秋の風

行く程に都の塔や秋の空

南無薬師薬の事もきく桔梗

送り火や顔覗きあふ川むかひ

二里といひ一里ともいふ花野哉

静かなる水や蜻蛉の尾に打つも

秋さびしおぼえたる句を皆申す

身の秋やあつ燗好む胸赤し

名月や君かねてより寝ぬ病

後の月庭に化物つくりけり

雪ふれば鹿のよる戸やきりぎりす

石榴くふ女かしこうほどきけり

くはずとも石榴興ある形かな

寝よといふ寝覚の夫や小夜砧

茄子売る揚屋が門やあきの雨

空遠く声あはせ行く小鳥かな

新米のもたるる腹や穀潰し

どうあろとまづ新米にうまし国

薬掘蝮も提げてもどりけり

永き夜を半分酒に遣ひけり

長き夜や夢想さらりと忘れける

寝て起きて長き夜にすむひとり哉

行く秋や抱けば身にそふ膝頭

玄関にてお傘と申す時雨かな

盗人に鐘つく寺や冬木立

冬枯や雀のありく戸桶の中

なき妻の名にあふ下女や冬籠

僧にする子を膝元や冬ごもり

いつまでも女嫌ひぞ冬ごもり

それぞれの星あらはるる寒さ哉

足が出て夢も短き蒲団かな

死ぬやうに人は云ふなりふくと汁

鰒売に食ふべき顔と見られけり

見返るやいまは互に雪の人

うつくしき日和になりぬ雪のうへ

駕を出て寒月高し己が門

大名に酒の友あり年忘

怖(おど)すなり年暮るるよとうしろから

宝船わけの聞えぬ寝言かな

炭太祇100 句抄 西村麒麟選

炭太祇100 句抄 西村麒麟選

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【週俳6月の俳句を読む】曾根毅

【週俳6月の俳句を読む】
即反故なのか ……曾根毅


俳句の作り方は千差万別だ。一日一句、ノルマを課して書き溜めたという俳句もあれば、締め切りに間に合わせるためになんとか量産した句もある。吟行に参加してとりあえず出来たもの。あるいは、歳時記と格闘しながら題をもとに作った俳句。通勤途中、突然頭の中に降ってきた句。読書していたら、言葉の連想でつい出来てしまった句などもあるかもしれない。

最終的に出来上がった俳句がどうかだ、という作品本位の意見もあるが短絡的だ。芭蕉は「文台引きおろせば即反故なり」と言う。経験を作品化する技術。何を求めて、どのような方法で創作するのか。また、読み手としてのかかわり方は如何に。そんな答えのない俳句を誰もが探し続けている。



伏見にゐ葵祭をうつちやつて 鈴木不意
ひやしあめをんなあるじの狐がほ
川太郎は帰りかはほり飛びかうて


固有名詞を上手く活かした作品が目立った。それぞれの言葉の持つ風味が効いており、後味がいい。



はつなつのうみにひかりのながかりし 五十嵐義知
水流のとどまるところ夏蝶来
草取の帽子のかたち見えかくれ

夏つばめ地をかすめたるはやさかな
入口に日傘の色のならびけり

印象を大掴みに表したかと思えば、一瞬の把握を緻密に取り出して見せる。導入口として、例えば一句に前書きのような機能を持たせつつ、楔として句群のリズムを意識した配し方を忘れないなど幅と技のある作風。



綿棒を軽く使ひて月涼し 茅根知子
泳ぎ来し少年の耳美しく
蚊遣火のしばらく雨を待つてをり

揺れてゐる水に西日の匂ひかな

繊細な感覚、言葉で紡ぎ出す美しい時の流れが印象に残る。



息深く吸ふ炎天に橋光り 松野苑子
ハンバーガー口に溢れて日の盛
さらさらと基地のポストに蜥蜴入る


事象の捉え方が独創的で引き込まれる。感性の為せる技に瞠目した。



みなし子にローズマリーが咲きました 四ッ谷龍
来ぬバスを立浪草の凪と待つ
愛言えば死のこと答うジギタリス


物と思いの交感。五七五から溢れ出す圧倒的な抒情。



金魚藻の波に遅れてなびきけり 中本真人
田植笠今年の汚れのみならず
遠泳の過ぎたるブイを引き揚ぐる


題への踏み込み方、一句に込められた発見と喜びが直接的に伝わってくる。



夜更けの公営団地に牛蛙の声ばかり 矢野風狂子
ヤモリの居る家に流れる子殺しのニュース

全身の細胞総出で句作したかのような生命力を感じる。それぞれの句のリズムに、思いを形にするための経過が滲み出ているのだろう。



人日や琴爪しまふ箱の冷 灌木

終りの始まりとでもいうべきか、端正にして不気味な句。


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【週俳6月の俳句を読む】吉田悦花

【週俳6月の俳句を読む】
次々にくちびるに当ててみて ……吉田悦花


草笛となるまで草を替へにけり   中本 真人

「草笛」なるもの、私は、実際に試したことがないせいか、俳句に詠んだことはほとんどない。題に出されて詠まざるを得なくなった場合、実感が伴わないためか、ことごとく失敗している。そんな私であるが、掲句は、一読、「なるほど」と思った。

草笛というのは不思議な楽器だ、と思う。きっかけは散歩の途中、野草や樹木の柔らかな葉をふと手にとり、軽くくわえるように下くちびるに当てて吹いてみた、という気軽なことであっても、吹けばたやすく音が出るというものではないらしい。ときには、思いがけず鋭く鳴ることもあるだろう。でも、音程を取ろうと思ってもなかなかできない。

運の良い人は、すぐに音が出るけれど、たいていは、コツをつかむまで1週間ほどかかるらしい。毎日、数分でも練習を続けて、なんとか音程が取れるようになるという。熱中して長時間練習すると、酸欠状態のようになって頭が痛くなることもあるので注意、なのだとか。練習を続けると、自然と曲らしきものが吹けるようになってくる。さらに数ヶ月、根気よく続けていると、さまざまな曲を自由に吹けるようになる、という。

草笛は、そこに一葉が介在するだけである。楽器を奏でるというより、くちびるに触れた一枚の木の葉を通して歌うといったイメージなのだろう。心の中の思いのまま、いつでもどこでも吹けるようになったら、どんなに素敵なことだろう。

人間に個性があるように、一枚の葉にもさまざまな個性があり、その違いが音に現れる。高音には固く弾力のある葉、低音はやわらかい葉が向いているというように。くちびると葉の相性というものもありそうである。

作者は、まわりにある葉を手当たり次第といった感じで、次々にくちびるに当ててみて、音の出具合を試しているのだろうか。たかが葉っぱ、されど葉っぱ。だからこそ全身全霊で、いつか草笛となるまで。


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【週俳6月の俳句を読む】長嶺千晶

【週俳6月の俳句を読む】
蝶とエロスと乾き ……長嶺千晶

「掌中」四ッ谷龍

掌中に白蝶捕らえたるも憂き

白 蝶は女身の比喩なのかもしれない。〈抱きしむるからだの脆き西日かな〉〈愛言えば死のこと答うジギタリス〉に恋の顛末を思う。中村草田男の独身時代の「と らへたる蝶の足がきのにほひかな」の句には蝶の翅を指でつまんでそれに見入る草田男のまなざしに一種サディスチックなエロスがあった。しかし、この句のよ うに掌中にしたとたん白蝶に「憂さ」を感じてしまうのはすでに終わりの予感なのだろう。この「憂き」とまで述べる詩のような表現が恋のアンニュイを伝えて くる。



「あくる日の」 茅根知子

あくる日の光の中へ夏の蝶

ま るで、恋を終えた蝶が新たな光の中へ飛び立ったかのようである。この溌剌とした息づかいこそ夏という季節の源なのかもしれない。それは「昨日」を棄て、 「明日」という陳腐な青春ドラマを越えて、選びぬかれた「あくる日」なのである。この語感に大人の女性を感じた。〈綿棒を軽く使ひて月涼し〉〈吊るされた ままでバナナに夜が来る〉何げない気づきが常に新鮮である。衰えることのない感性を羨ましく思う。



「象の化石」松野苑子

さらさらと基地のポストに蜥蜴入る

基 地を詠んだ句群の中で、この句はどこか抒情が感じられた。ポストに蜥蜴が入るということ自体珍しい情景だし、それが基地という場所の設定で、ワイルドな砂 の乾きがひろがってくる。きっと「さらさら」のオノマトペが一句に抒情という潤いを与えているのだろう。〈予定貼る画鋲六つの暑さかな〉〈ハンバーガー口 に溢れて日の盛〉この即物性に苑子さんの新しい傾向を見る気がした。



「撃ち抜かれろ、この雨粒に!」  矢野風狂子

蒸す夜の粘つく蛙の声の中に寝る

都 市の郊外。蛙の声の響きの寝苦しい夜の暑さ。現代風景とひとことでかたづけてしまうことのできない何かを内包している作品群である。否定的な表現、不快指 数の高さ、息苦しいほどの若さのにおい。自己の存在の苛立ちや憤りが俳句のかたちに凝縮している。〈月さす牛の匂いすらない牛舎〉〈夜業明け茶ぶっかけて 喰う冷や飯〉この生々しさに裏切ることのない言挙げの凄みがある。



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【週俳6月の俳句を読む】田中英花

【週俳6月の俳句を読む】
草のせいではないけれど ……田中英花


草笛となるまで草を替へにけり   中本 真人

これなら鳴るかも知れないと、今度はちょっと太そうな草に替えてみる。何度も何度も草を取替えている姿が見えてきて、その心境がよくわかる。

きっと、草のせいではないと思うのだけれど。



水着絞ればキュルキュルと手を逃げる  松野苑子

泳ぎ終えたあとの水着を洗っていると、こんな感触があり、そこを句に詠まれているところがとても新鮮。タオル地や綿生地のように、手に馴染むものは絞りやすいが、それらに比べて、水の抵抗が少ないようにと考えられた水着の素材は、絞るたびに手からはみ出してしまう。はみ出した水着の形や色が見え、キュルキュルという音も聞こえてくる。また、その一方で、泳ぎのシーズンが終わる頃、夏が終わろうとする頃の、人の気持ちも見えてくるような気がする。



来ぬバスを立浪草の凪と待つ  四ッ谷龍

「バス来ないですね」と、誰かに話しかけたいところだろうが、あいにく待っている人は他にいない。旅先などで本当にバスが来るのだろうかと、改めてバス停に貼ってある時刻表を見直しながら不安になったことがあるが、まさしくそんな気持ちだろうか?そんな不安をよそに、海は凪いでいて立浪草に心が安らぐ。来ないバスを待っている心情を、立浪草の凪によって、「まっ、もう少し待ってもいいか」とも思え、作者の気持ちに変化を感じる。

「来ぬ」「待つ」の言葉から、人の動作をいろいろと想像することができ、思いがひろがる。自分自身の昔の記憶にまでも繋がってゆくのが不思議なのだが、鼻の高かったバス、舗装などされていなかった道、バスから吐き出される煙と匂い、そんなバスのあとを追いかけて走っていた幼い頃のことまで、そんな日々を懐かしく思い出している。



夕立のあたりより来る電話かな  茅根知子
蚊遣火のしばらく雨を待つてをり

一句目、今話している電話のむこうの夕立なのだろう。なんとなく遠い地からの電話を思う。もしかしたら、かつて作者が住んでいた地からの電話かも知れない。久しぶりの相手との電話、そのむこうから聞こえてくる夕立、作句の上で、音のあるものに音を重ねない方がいいと言われるが、この句の場合、夕立と電話のこえはむしろお互いを引き立たせているような気がしている。

二句目、「しばらく」の言葉から、この雨はたいした雨ではないと思われるが、作者は雨があがるのを待っているのだろう。外を降る雨に対して、室内にいる作者の視線が、小さな蚊遣の火、這う煙にそそがれているのがとても印象的である。



ひやしあめをんなあるじの狐がほ  鈴木不意

時代劇にでも出てきそうな場面。事実だけを述べているのだが、「ひやしあめ」から想像をふくらませることができて、おもしろい。季語のよろしさ。



水流のとどまるところ夏蝶来  五十嵐義知

堰のようなところかも知れない。ここまではどんどん流れてきた水であろうが、流れるとも、とどまるとも言えないところに夏蝶が来ている。堰をくぐリ抜けてゆく水の白さが見え、そこに夏蝶が見える。「夏の蝶」ではなく「夏蝶来」に、美しい揚羽蝶が過ぎって来る景を思うのだが。


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【週俳6月の俳句を読む】湊圭史

【週俳6月の俳句を読む】
(で、私にとっては快い) ……湊圭史


鈴木不意の一〇句は「時代俳句」といったところか。幕末から明治初期にかけての雰囲気を出そうとしているように見える。

伏見にゐ葵祭をうつちやつて  鈴木不意
寺田屋の簾が見えて川下り
ひやしあめをんなあるじの狐がほ

一種のアナクロニズムは、葵祭のときに伏見にいる、寺田屋を川から見る、「あるじ」ではなく「をんなあるじ」といった、中心を外した視点への嗜好につながっている(あるいは、そちらが主か?)。

あぢさゐの色のはじめの浅草寺
五重塔はつなつの風吹いてくる


などになると、まるでJRかなにかの宣伝コピーという気もする。そこから見ると前半の句にも、NHK大河ドラマの役者が顔をのぞかせそうだ。観光はタイムトラベルができない以上、疑似体験にも必然性があるだろうが、文芸においては古句がいくらでも読めるわけだし、こうした遊びにどれほど面白みがあるのか、と疑問もわく。



五十嵐義知の句はわざと言葉を緩めたところがあって、そこから生まれるゆったりしたリズムに特徴がある。

海原につづく植田の澄みにけり  五十嵐義知
青鷺の同じ姿に降りたちぬ

一句目は「つづく」、二句目は「同じ」に緩みがある。俳句は言葉を詰め込むことという固定観念がある俳人には気持ち悪いかもしれないし、これらの語を省いて同意趣のことも言えるだろうが、五十嵐においてはこの緩みは句作全体のテーマであろう、事象の背景にある連続性から由来している。「海原」と「植田」を包含するような広がり、一羽の鷺と続いてくる鷺のあいだの種としての同質性。作者が独自に感知している世界の連関があるのだ。

水流のとどまるところ夏蝶来
草取の帽子のかたち見えかくれ


この二句でも「ところ」や「かたち」といった語が緩みを生んで、そこに透明な場のイメージが生起している。ただ水の流れと蝶、草取りの帽子を示したのとは違って、場のイメージを通して、それらの何でもない物の出現に、一種の啓示といった雰囲気がただよう。

はつなつのうみにひかりのながかりし

は、この意味で、この俳人の視線の底にあるイメージ以前のイメージだろう。がここまでストレートに表出されると(ひらがな書きの仕掛けがあるとはいえ)、読者としてはあまり楽しめない気がする。



茅根知子の句は、焦点のずらしを短詩的なレトリックでつかまえた時に成功しているように見える。描かれる対象よりも、言葉が示す「視点」にうまみがあるということだ。

夕立のあたりより来る電話かな       茅根知子

実際には、電話の向こうに叩きつける雨の音が聞こえたのだろう。そこを「夕立のあたり」とぼかすことによって、電話の掛け手との関係へと想像がふくらむ。

蚊遣火のしばらく雨を待つてをり

この句ではまず「の」の弱い切れによって、以下への繋がりをちらつかせておいて・・・、うまいのは次の「しばらく」である。この副詞によって、「蚊遣火」という具体像から、雨を待つ主体の時間感覚へとするりと移行しつつ、一句を成就させている。

重さとは水のまはりの金魚鉢

こちらの句は発想がじゅうぶん俳句的な言葉に収まっていないように思う。かといって面白くないと言っているわけではなく、現在、現代川柳を書いている私からすると、水の重みを容器である金魚鉢にうつす特異な発想そのものを一番楽しめたりするのだが、これは、作者の希望する読まれかたからは遠いのかも知れない。



松野苑子は、茅根とは反対に、目の付けどころがそのまま句になった(と思えるように言葉が決まった)とき好句に恵まれるようだ。

ドック灼け東京タワー入る大きさ      松野苑子

「入る大きさ」と把握がざっくりと大ざっぱなのだが、そのことが字余りのリズムとともに魅力として定着されている。米軍基地という反歳時記的な対象を扱うにはぴったりだが、かつての前衛俳句に影のように貼り付いていた暗さもなくって、なんだか不思議(で、私にとっては快い)。

基地に蟻潜水艦の上に人

単純に見えて「基地に蟻」と「潜水艦の上に人」で、大小が交差していて楽しい。時事的に、感傷的になりやすい対象だが、あくまで対象として非情に扱っていて隙がない。先ほど大ざっぱといったのは外界の把握のしかたのことであり、措辞にはじゅうぶんな注意が払われているので読みにはブレが出ない。

夏の月象の化石の出でし基地

太古の時間から「象の化石」、歳時記的季節サイクルから「夏の月」、現代から「基地」と、三つの時間性をとり込んでみせている。いちばん魅力的なのは、ただ知っている事実、目に見えた事象を並べただけですよ、というノンシャランな調子だ。この書きかたができたら、吟行句会では敵無しだろう。



四ッ谷龍の一〇句には、題材とは別に設定されたテーマがある。他の俳人の一〇句とは違って、そこを軸に読まないとじゅうぶんには味わえないと思える。そのテーマとは、九句目で明示されているように、「愛」と「死」の相克である。

文届くローズマリーの咲く朝       四ッ谷龍
みなし子にローズマリーが咲きました

始めの2句にはどうしても田中裕明の句、例えば「水遊びする子に先生から手紙」を想起せずにはおれない。ここで(四ッ谷自身とは限定しないが)句の語り手は「みなし子」につよく一体化しているようだ。生のなかに残されたものへのメッセージとしてローズマリーの花が咲くのだろう。

罌粟の花雲青ざめて航くばかり
来ぬバスを立浪草の凪と待つ

亡き人の呼吸も聞こゆる森林浴

掌中に白蝶捕らえたるも憂き

三句目以降は奇蹟的なメッセージの受け手としての子どもから離れて、現実の大人の語り手をつつむ生の倦怠が描かれる。最後の二句はこの倦怠を振り切るように、いささか乱暴に言葉を叩きつけている。

愛言えば死のこと答うジギタリス
ラブソングは終わりだ梅雨の石を噛め


「愛」と「死」との相克、と始めに書いたが、実際には四ッ谷のこの連作では、ふたつは何よりも切り離せないものとして描かれている。自然と一体化した至福の幼年期、愛と死の相克と不可分、断念という名の成熟。ロマン主義の典型パターンであるが、たった一〇句のなかでそれを十分に展開しきっていることに驚く。



中本真人の一〇句は、句の中にかなり強引に「発見」を作ろうとしているのが目について、どうかなあと思った。

爪楊枝ほどの小枝も今年竹
田植笠今年の汚れのみならず

競べ馬いきなり鞭の入りにけり

「ほどの」、「のみならず」、「いきなり」といった言葉の指定が強すぎて、読者としては無理に面白さを読みとるよう強いられている感がある。「そっちではなくて、こっちを見て下さいよ」とうセールストーク的くさみだろうか。

ダービーの朝から混めるシャトルバス
缶ビール佳き音立てて開けにけり

お値打の新茶手の出ぬ玉露かな

『新撰21』を読むと、中本の本領はこの辺りの「風俗詠」にあると思うのだが、ここでは「ただごと」を定型で掬ったときに生まれる面白みもずいぶんと薄味。否定的実感がべったり貼り付いているせいで事象が立ってこないからだ、と推測する。いっそ句の中でぐらい、シャンパンを空けて、玉露をがぶ呑みすればいいんじゃないの、と思う。でも、

大蟻や小蟻を抜いてまつしぐら

は好き。この単純さ、いいですね。



矢野風狂子「撃ち抜かれろ、この雨粒に!」は、タイトルの勢いのよさとは相反的に、全体に古風な自由律だが、

道路沿いにちゃぽんちゃぽんとイモリの泳ぐ日向水  矢野風狂子
月さす牛の匂いすらない牛舎

のさみしさがよいと思った。



灌木の「五彩」では、  

陽炎や冬虫夏草にきざす酔  灌木

全般に外界への感情移入がつよい作風と読んだが、「陽炎や」の一句は、句の中の事象(「陽炎」と「冬虫夏草」)に循環や浸透が起こっていて、広がりがあると思った。




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【週俳6月の俳句を読む】鈴木茂雄

【週俳6月の俳句を読む】
ポエジー・スナップショット ……鈴木茂雄


ひやしあめをんなあるじの狐がほ  鈴木不意

おそらく即興の作と思われるが、上手い。(ほんとうは「うまいなあ。」とつぶやいた。)あるいは即興の句と思わせる手練の作と言ったほうがいいのかも知れない。読者のわたしをしてそう思わせるのは、いささかのケレンも感じさせないものが、この作品にはあるからだろう。それにしても一句を評するのに「上手い」はないだろう。自分でもそう思う。が、揚句は上手いというほかに適切な言葉が見当たらなかった。それほど俳諧的興趣に富んでいて、誤解をおそれずに言えば批評の隙がない。たんにコトバを再構築した代物ではないからだろう。とりあえずはかつて俳句は捻ると言っていた時代の上手さとでも言っておこう。

上句「ひやしあめ」とそれに続く「をんなあるじ」との間にある切れ字的空間の存在が、夜店などの出店でひやしあめを売っている光景を現出させる。もちろん主人公はこの句の作者である。お金を払ってひやしあめを買い、すぐさまひやしあめの入ったそのコップを口元に持っていく。そのときコップの中に、その店の「をんなあるじ」が見えたのだ。その顔が「狐がほ」だと把握するが、それは一瞬のこと。上手いと思わせたのはほかでもない、「ひやしあめ」と「をんなあるじの狐がほ」のその取り合わせが醸し出す、いわく言いがたい妙にあったのだと思い至る。

一句全体を平仮名表記で綴ったのは、コップの中の「ひやしあめ」を表現するためだ。その平仮名表記の中に漢字「狐」を嵌め込んで、あの稲荷神社の鳥居の色を彷彿とさせる真赤なルージュの「をんなあるじ」の「狐がほ」を巧みに色濃く浮かび上がらせるのに成功している。たった一杯の「ひやしあめ」という小道具に、場末の店の「をんなあるじ」の妖しい身形風貌を見事に語らせている。「あぢさゐの色のはじめの浅草寺」という作品もまたそうである。作者はたぶん、そっとつぶやいただけなのだろう、「あぢさゐの色のはじめの」と。だが、よく見ると、そのコトバはなんと「浅草寺」に掛かる枕詞になっているではないか。(うまいなあ。)



重さとは水のまはりの金魚鉢  茅根知子


重力を扱う物理学にもポエジーがあるんだ。そう思わせる一句がここにある。日記とも違う、エッセイでもない。強いて言うなら、ポエジー・スナップショット。俳句形式はこういうシーンに出会うことによってその詩的効力をさらに発揮する。そして大胆に断定する。「重さとは」と。

持ち上げると、なんて重たい金魚鉢なんだろうと思ったが、それは水が入っているせいだからだろうと。だが実際は、水を抜いても重たい「金魚鉢」という存在に気がつく。そのことを「水のまはりの」と表現したのは言い得て妙、上手い(なあ)。




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【週俳6月の俳句を読む】山田耕司

【週俳6月の俳句を読む】
そっちの方向に「おいでおいで」する単語 ……山田耕司


作品を読み作者を読まないように気をつけました。

さらさらと基地のポストに蜥蜴入る   
松野苑子

「縄跳びの子ら跳ぶ基地の内と外 豊里友行」たとえば、この句では、「基地」が内と外を分ける区分として位置付けられている。物理的な区分だけではなく、政治や歴史の上での「内」と「外」まで示そうとしている筆者の意図は、内と外にあえて「縄跳びの子」を相似形に配置したところに現れている。「基地」が「重たい言葉」なのではない。豊里のこの作品においては、ちゃんと「重たく読めるように書いてある」のである。

一方、「さらさらと基地のポストに蜥蜴入る」の句における「基地」には、広大な敷地、そして関係者以外立ち入り禁止の閑寂、平らな地面、目の休ませどころのないような単調な景色、こうしたイメージが引き出されている。「ポスト」もまた、おそらくその視野における唯一かもしれない闇、冷えていて謙虚な闇という役割。

言葉の引きずるイメージの裾をまさしく「さらさらと」さばいてみせた作者の腕さばきは鮮やか。

「ポストには遠くの誰かに届けようとする思い」が込められている、とか、「蜥蜴は日常に潜む危機感の卑小さを象徴する」とかいうヨミかたが仮にあるとしたら、それは俳句作品を読む場合にはあまりオモシロイとは思えない。
 
精神分析のまねごとを廃したくなるのは、科学的な分析を忌む日本人の叙情性の脆弱さなどから来るものではなく、たんに「単語で過剰反応してどうするよ、おい」という判断に基づく。



掌中に白蝶捕らえたるも憂き  
四ッ谷 龍

(とはいうものの、単語へと過分な先入観を注ぎ込みたくもなるよね、にんげんだもの。)
 
「白蝶」、ケガレなき命、無垢なるものの象徴、こんな風にイメージを注ぎ込むことで、作者のプライバシーに踏み込む「光」の鍵をゲット、ということになりかねない。
 
「ほつぺたに睾丸ふるる寒さかな 北大路 翼」この句の手つきと「掌中に白蝶捕らえたるも憂き」の手つきとは、大きく異なるところが無い。平明で落ち着いた文体である。ただ、「ほつぺた」の句の方は、「睾丸」という単語がダークマターとして機能し、読者に、作者のプライバシーへの「闇」の鍵を渡すことになるのだろう。(この句の注目すべきポイントは、二人の人間がいることを二人と書かずに、それと感じさせるところにある、と思うのだが。)
 
作者それぞれのプライバシーへの関与は、本稿の意図するところではない。(が、そっちの方向に「おいでおいで」する単語が、それなりな位置にいますよね。)
 
ここに掲げた二つの句は、文体や、そのイメージが作者の内面への鍵となりうることを自覚した上で単語を選択している気配において、対称関係にあるように思う。
 
ここで、「掌中に」の句のシカケとすれば「も」に注目せざるを得ない。ここでは語られない憂い、その憂いへの類推のよすがとして、掌中の白蝶が位置付けられている。屈折している。作者の語られない内面の憂いと白蝶を捕らえたることが<喩>として関わる、そのすれすれに句を立たせている。
 
北大路のこの句の古典性に比して、四ッ谷のこの句の方がいちまい屈折している。が、そのことで句の善し悪しを論じようというわけではない。あくまで、句と句を並べて差異を述べたかったのである。
 
ましてや作家同士を対置させたり、世代論的なとりまとめをしようというわけではない。むしろ、使われている単語のレベルで、作家論を展開したり、世代というものを取りまとめるようなことには少なからぬ懐疑を持つ。無理がある。ともあれ、批評家というものは一貫性を持たせることに多少の無理をおかし、作家というものは一回性を演じるために多少の無理をおかすものではあるが。



蒸す夜の粘つく蛙の声の中に寝る    
矢野風狂子

「打ち抜かれろ、この雨粒に!」という題がついている。

10句全体が、つめたいブルースである。
 
ブルースは、短歌と相性が良い。しかし、「蒸す夜の粘つく蛙の声の中に寝る」をはじめ、<喩>をあえて排除した文体が、俳句としての手触りを示している。それにしても、<調べ>が悪い。あくまで書き言葉としての<調べ>。五七五は俳句の必須事項ではないが、書かれた作品を潜在的に五七五というグルーヴで読み捌こうとする傾向が、読者の方に備わっている。そのグルーヴ、いわばノリに上手く乗らない句群である。これをもって、作者のリズム感を疑うのは早計であろう。むしろ、作者は、読者に内在する<調べ>ではなく、自分の<歌>を自分のグルーヴで歌いこなしていて、そして、俳句として書かれている言葉の情報以上に、その<個のグルーヴ>を伝えることを、俳句作品を書くための動機としているのではないか。




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林田紀音夫全句集拾読 122 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
122




野口 裕



洋上の遁走髪を風に解き

昭和四十三年、未発表句。たぶん吾子俳句なのだろうが、髪の所有者の年齢を引き上げると、えらくロマンチックな光景に読者の目には映る。紀音夫の原質の中にそうしたものがあると、解するべきだろう。ときおり、未発表句の中にロマンチックな光景の句が混じるが、従前に展開されているとは言い難い。自選の段階で、落とされた可能性である。

 

兵餐の傷いまも浮く風呂の中
風に流れる兵餐夕べ火を焚けば

昭和四十三年、未発表句。兵餐という言葉があるのかどうか、知らない。検索してもうまくヒットしないところを見ると造語かもしれない。行軍中の野外食と取れば、意味はすんなり通る。造語してまで確かめておきたい記憶なのだろう。

 

ぜんざいに箸あそばせて月当たる萩

昭和四十三年、未発表句。第一句集に、「ぜんざいを食ひ終へし眼の遣り処かな」。食欲の差が歴然とある。自身の句を回想しつつ、物思いに耽る。有季回帰の端緒とも見える句。


タワークレーンの青ぞら死者のいろの海


昭和四十三年、未発表句。タワークレーンで画像検索をかけると、多くの写真の背景が青空となっている。

 「あのクレーンは何と言うのかね。最近よく見かけるが。」
 「ああ、タワークレーンですね。ビルの建設ラッシュですから。」
 「タワークレーンか。そうかね…。」、そして、紀音夫は一句を得る。

紀音夫の職業上の立場から、こんな会話を想像してみるが、もちろん外れているであろう。