第28号
2007年11月4日
CONTENTS
■ 久保山敦子 「月の山」10句 →読む
■ 鴇田智哉 「ゑのぐの指」10句 →読む
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ 気管支から肺へ ……佐藤文香 →読む
■〔サバービア俳句・番外編〕
SUBURBIA SAMPLER for Haiku Weekly
……lugar comum × さいばら天気 →読む
■成分表11 カンペキの神 …… 上田信治 →読む
■週俳10月の俳句を読む
堀本 吟 現代俳句の帰結その他 →読む
鈴木茂雄 多種多様 →読む
ひらの こぼ 俳句のちから →読む
羽田野 令 生きている途中 →読む
中山宙虫 家族のかたち →読む
榊 倫代 深い井戸の底 →読む
上田信治 俳句の「正解」 →読む
菊田一平 蠅の心臓ってどんな →読む
【俳句総合誌を読む】
■ 『俳句界』2007年11月号を読む ……五十嵐秀彦 →読む
■ 後記+出演者プロフィール →読む
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■ 角川俳句賞 落選展2007 →読む
■飯田哲弘 ■石原ユキオ ■上田信治 ■岡田由季 ■金子 敦
■さいばら天気 ■澤田和弥 ■すずきみのる ■谷 雄介 ■中嶋憲武
■中村光声 ■中村安伸 ■藤 幹子 ■山口優夢 ■山田露結
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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2007-11-04
週刊俳句 第28号 2007年11月4日
Posted by wh at 1:05 0 comments
Labels: 表紙
感想・告知ボード 026-028
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Posted by wh at 0:59 5 comments
Labels: 感想・告知ボード
鴇田智哉 ゑのぐの指
週刊俳句第28号2007-11-4 鴇田智哉 ゑのぐの指
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Posted by wh at 0:47 0 comments
第28号 2007-11-4 10句作品
ゑのぐの指 鴇田智哉
風上にゐて目の玉の冷えてゐる
とび降りてしまへば秋のゆがみたる
蚯蚓鳴くゑのぐの指を洗ひをり
秋の夜の赤いボタンを押してみる
芋虫のこもれるさまを空のなか
屋上に秋の蛹が横たはる
ひとときをとばし読みして風のいろ
草の香にあしたのことを思ひつく
月面が芒を過ぎてから見ゆる
十月の壁が染まつてきてをはる
月の山 久保山敦子
羽の国の羽毛のやうな鱗雲
新蕎麦や簾の外のよく見えて
ひと雨のあと十月の法師蝉
わがままを通すままこの尻ぬぐひ
舟唄の最上はよけれ新走り
蟹の罠しづめて岸の薄もみぢ
山寺は石の寺秋澄みにけり
天にあるごとき秋風五大堂
色鳥や家より古りし屋敷林
これよりの月太りゆく月の山
Posted by wh at 0:46 0 comments
Labels: 10句作品
気管支から肺へ 佐藤文香
気管支から肺へ ……佐藤文香
晴れた朝を一人で歩き、車がやっと一台通れるその道で、北側の蜜柑畑からのスプリンクラーを少し浴び、生きる幸せを自らの呼吸の内に見出すように、湿度を保ちながらも澄んでいる気体を肺に取り入れる感覚が、落選展の俳句を読んでいて、「きた」。長い眠りから覚めた気がする。嬉しい。
岡田由季「仮眠室」より
ロマンチストかたちのままに煮る蕪
蕪が俄然、姫のごとくに感ぜられる。菜箸が鍋の縁を遊ぶ。煮る湯もきっとコトコトと、ままごとみたいな音を立てているのだろう。
山田露結「輪転」より
秋風と口の間にハーモニカ
四角く穴の並ぶ冷たい金属を行き来して呼気は。かすれたり強くなったりして音は。肌に髪に唇に触れる秋風は。秋なのである。
上田信治「そとばこ」より
花きやべつ配電盤が家のそと
私生活の近くで生きる花きやべつと配電盤。しかし我々は後者を、努めて気にかけようとしない。あの箱の中は、楽しいのかも知れない。
さいばら天気「愛書家」より
ゆふぐれが見知らぬ蟹を連れてくる
蟹はゆふぐれが連れてきた、ゆふぐれはどこから来たのか。浜辺に波のあと。海草のひっかかった流木。それらの影。蟹に影。ゆふぐれは、そして去る。
「雰囲気」という言葉を解体して、雰 囲 気 ……そんなものを最近の私は愛する。対象を取り巻く、目に見えぬ「何か」。それを描き出すには、技術に加えて、愛しいとか懐かしいとか、気管支が一瞬冷えて徐々にあたたまるような気分が必要なのではないか、と考えつつ。
津川絵理子「ねぐら」より
秋草に音楽祭の椅子を足す
いずれその場を満たす音楽と人々を、受けとめる秋草は露けく色づいている。加わった椅子の足並が他からずれていたりして、そんなことを音楽は愛しやすい。
■■■
Posted by wh at 0:45 0 comments
SUBURBIA SAMPLER for Haiku Weekly
〔サバービア俳句・番外編〕SUBURBIA SAMPLER for Haiku Weekly
……lugar comum × saibara tenki
さいばら天気(以下TK)::不思議なことがあるものですね。ネット上で出会うなんて。リアルにはもう十数年会ってないんじゃないですか?
lugar comum(以下LC)::そうなりますねえ。でもね、いまでも半信半疑。ボクが知ってる天気さんだよな…イヤちょっと待てよ、と。
TK::あの頃は私、まだ俳句なんてやってなかったし、lugar comumさんは今も俳句とはまったく無縁。
LC::ですが自称『週刊俳句』ウォッチャー、アウトサイダー代表w。こうして『週刊俳句』の記事を一緒する。なにか奇妙な感じ。
TK::昔と同じに、今日もタラッと行きましょう。「サバービア俳句」のシリーズの一環、といっても、僕らは俳句を離れて、音楽の脈絡を押さえておきたいということで、まず、今の日本の音楽業界で「サバービア」といえば、もともとの英語の意味、「郊外」から離れて、ある種のジャンルになっているようですね。
LC::「サバービアもの」というやつ。てっとり早いところで、まずは以下をご参照。
http://www.apres-midi.biz/index.cgi
TK::googleで「サバービア」とカタカナで検索すると、トップにコレが来る。『週俳』のサバービア俳句の記事をアップしたときコメント欄に、「サバービアってコレのことですか? このどこが俳句と関係があるんでしょう?」といった書き込みがあった。
LC::このサイトを見た人は、そう思って当然。
TK:: googleで次に上位に来る「はてな」だと、本来の意味は無視。橋本徹関連、つまり音楽の話だけ。3番目にやっとWikipediaの「郊外」が来る。サバービア俳句の参考としては、こっちの一般名詞のほうなんですが、橋本徹の「サバービアもの」がサバービア俳句と無関係なわけじゃない。気分でつながるところがあるような気がした。それで、音楽のほうも押さえておきたくなった。
LC::レコード業界やクラブ、ショップ、各種媒体を巻き込んだ動きは、80年代から綿々と続いていて、それこそ、今年にはいってからも、すでに多数のコンピやシリーズ再発がリリースされています。だから、suburbia suite をはじめ、ここから派生したfree soul、cafe apres-midi などの小ブランドを含んだ、総合ブランド名としての「サバービア」の名称は、すっかり定着しちゃっています。この、とりわけ狭い日本の洋楽業界のタコ壺の中だけのハナシですけど、ね。
TK::音楽の一定趣味領域?
LC::というか、「サバービア」って、フツーに使うコトバ。もう実用語の類いで、つまり「橋本徹がどこかでレコメンドしたレコード」という意味。ね、身も蓋もないでしょ。例えば、レコード・ショップの店員が「サバービア的」と言えば、「サバービア誌に載っていてもおかしくない」の意。買っといた方がいいですよ、と。あと、アナログ盤のネットオークションのサイトとかで、検索を狙って表記するタグのひとつに「サバービア」。同じようなタグの「オルガンバー」とか「ダブルスタンダード」とか「ムジカロコムンド」とかと一緒。
TK::ちょ、ちょっと、わかったようなわからんようなカタカナ語をそんなに一斉に言われてもw
LC::混乱しちゃいますか? 知りたい人は検索してください。例えば、82年のオリジナル「サバービア誌」の誌面に載っている盤の場合などは、「サバービア誌掲載」なんて、太字で。これで高値間違いなし。
TK::中古市場での価値が決まるわけだ。
LC::ボクなんぞは、この「サバービア」人気、とてもありがたいですねえ。信じられないくらいレアなトラックが、コンピレーションで手軽に入手できたり、再発CDでまるごと買えるようになったもんで。 いま手元にあるボクのi-pod、入っている約10,000曲うち「サバービアもの」が半分以上。
TK::フリーソウルのシリーズは、私も何枚か中古で買いましたね。他人の推薦コンピレーションにオカネを出すのは野暮と思いながらも。
LC::便利ですからね。まあ、こんなふうに商品や商売の話、と言ってしまうと、ほんとに身も蓋もなく終わってしまうので、ついでにこっちも。昨年発売された橋本徹の彼の2冊の集大成本「Suburbia Suite; Evergreen Review」と「Suburbia Suite; Future Antiques」。その際のインタビュー。
http://www.usen-cs.com/column/cafe/vol19.html
TK:: 10000字インタビューね。長いけど、ざっと目を通しました。ひとつ目にとまったのは、橋本徹氏の発想の元のところに、クレプスキュール・レーベル体験があったこと。「なるほど」というか、「やっぱり」というか、合点が行った。レーベルの各種アーティストを集めたFrom Brussels With Love(1980)、The Fruit of Original Sin(1981)は、当時、私もずいぶん愛聴しました。
LC::『ブリュッセルより愛をこめて』! 当時、天気さんちでかかっていましたね。同じ頃によく聴いたドルッティ・コラムも同系レーベルの所属でしたね。ひゃあ、懐かしい。…いや失礼。
TK:: 軽薄に言えば、オシャレで知的な音楽。ジャンル横断的でもあった。いきなり「月の光」(ドビュッシー)のピアノ独奏が入ったり、マルグリット・デュラスの朗読が始まったり。ベルギーという日本の音楽ファンにとっては唐突な点も「オルタナティブ」な匂いを強くして、私を含め好事家が、クレプスキュールのこの「感じ」(クレプスキュールの「音」じゃなくて「感じ」というところが重要)に深くはまったと思う。この80年代初頭の音楽愛好のひとつのスタイル、好事家的で融通無碍、でもちょいと趣味がいい、という感じのスタイルを、広い範囲に展開したのが、橋本徹氏の仕事だったのかと思うんですが、そこのところどうですか?
LC::その、80年代初めの頃ってヨーロッパの独立系レーベルの動きが活発化してきて、脱メジャーとかポスト・パンクっていう流れになってきた時代ですね。目立ったところでは、ラフ・トレードとかチェリーレッドとかファクトリーなどがありました。どのレーベルも、手作り感や目利き的なスタンスを打ち出していて、それぞれがサンプラーレコードを発売した点なども共通していました。でも、いま改めて眺めれば、すべてが洗練されたスタイルという訳でもなく、行き当たりばったりの感もあるし、また音楽的にも玉石混交で、まあ、だからこそのオルタナティブ、という様相だった気がします。
TK::パンクのあとのオルタナティブ。
LC::そんななかでも、クレプスキュールとかエルのようなレーベルは、小さいけれども突出したオシャレ感というものをムラなく、さりげなくアピールしていた気がします。橋本徹氏が、その「感じ」をうまーく抽出したという点、そのとおりだと思いますね。
それがどんな「感じ」かというのが、うまく表現できないんですけどね。どこか引っかかる意匠であったり、真正面からではなくて斜め後方からうっすら聞こえてくるような汎ジャンル的な音であったり。そんなものに導かれた、なにやら小洒落た、チョイ脱構築的空気(爆。そんな感じが、suburbiaのブランドやショップ作りに用いられたんだな、と。これ、あくまでも「音」自体のハナシではなく。
ところがこの人、DJ活動の中で「音」の方も取り入れてしまうんですね。コンピ盤やイベントの選曲で、R&B、ジャズ、ラテン、モンドの並びの中に80年代ネオアコを忍ばせてしまう。そのあたりインタビューにもありましたけど、意図的だったんですね、署名的というか。でもこれ、正直、違和感あるんだよなあ。収まり具合が、今ひとつ。
TK::なるほど。橋本氏のことは、これまで知らずにフリーソウル・シリーズを買ってたりしましたが、すこし知識が得られた気がする。でね、もっと重要、というか「サバービア俳句」に関連する内容が、10000字インタビューの3ページ目にある。「サバービア」という命名について説明した箇所。引用しましょう。
もともと「Suburbia Suite」がなぜ「Suburbia」になったかっていうと、一つは僕が高校生の時に出たドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』というアルバムのインナースリーブの中に、彼が寄せたちょっとしたコメントがあって、そこには「このアルバムは50年代後半から60年代前半にかけてアメリカの郊外(Suburbia)の街で育った若者が抱いていたはずのある種のファンタジー(A Certain Fantasy)を扱ったものだ」と書かれていたんですね。その感覚とその文章がどこか頭の中にひっかかっていて、フリーペーパーの名前をつける時に、これは「80年代から90年代にかけて東京の郊外で育った若者ならきっとわかるであろう、ある種のセンスやテイストみたいなものの組曲」になるのかなと思えたこと。(橋本徹)
LC::なるほど、ドナルド・フェイゲン〔1948~〕の『The Nightfly』ね。
TK::これには、猿丸さんも言及しています。橋本氏も猿丸さんも、「サバービア」という用語のきっかけが、ここにあったんですね。ひとつ、引っかかるのは、『The Nightfly』のあのスティーリー・ダンの進化形みたいな音と、橋本氏のコンピの傾向とが、私のなかでうまく合致してくれないこと。言葉だけもらったと解釈すべきなんだろうか?
LC::これは、さっきのクレプスキュールの「感じ」と同じで、「キャッチコピー」の部分だけでしょうね。アルバム『The Nightfly』のトラックは、suburbiaコンピとか同系のイベントでは使われてないのでは、と思います。むしろ使えない、というか。
何故かというと、このアルバムの音ってインナースリーブの言葉どおり、編集者的視点から一度エディットが施されたコンセプチュアルなものであって、その視点というのが、それこそsuburbia的視点なわけだから、それ系のDJが、それ系のイベントで『The Nightfly』を回すのって、めちゃめちゃ野暮ですよね、DJとして。
80年代のネオアコものを、ボクが収まり悪く感じるのも、同じ理由。ヒネった音を、もう一度イジるというところが引っかかる。
で、ちょっと面白いのは、これをさらにもう一度ヒネると、OKになる。ドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』の曲を、後にベテランジャズ歌手のメル・トーメがカバーしていて、マーティ・ペイチ楽団とやっていて、むちゃくちゃカッコいいんですけど、こっちのトラックは使える。再度イジることによって『The Nightfly』のエディット感がリセットするんですね。
TK::エディット感。わかる気がする。「読み直し」のような作業かもしれませんね、音楽の。別の脈絡に置いてみると、また別の価値が出てくる。このあたりたいへん興味深い。また、エピソードやテーマを見つけて、発展させましょう。
LC::そうですね。
TK::ところで、この『週刊俳句』向けに、曲を見繕ってくれたんですよね?
LC:: はい、「サバービアもの」と呼ばれるレコード20枚のなかから1曲ずつ、『週刊俳句』っぽいイメージのplaylistを作ってみました。
単なるボクの空想。「週俳」の読者層ってこんな感じかな、とか、あ、これゼッタイ知ってる人いるよな、とか。
TK::どーだろ? 俳人は平均年齢、高いですよw
LC::ふふ、そういうつもりじゃなかったけれど、60年代のレコードが中心。それから、天気さんちのレコード棚はどんな感じだったっけ、とか。
TK::おお、レコードでしたよねえ、あの頃は。
LC::あ、そうそう、もしも「週俳」主催のオフ句会みたいのがあって、その打ち上げパーティがあったりしたら、こんなBGM、どうでしょう、なんて。
TK::オフ会? わあ、それは思ってもみなかったけど、そう言われると、開催もあり得ますねえ。はい、そのときは必ず、BGMに。
LC::じゃあ、お聞かせしますね。DJ lugar comumが「週俳」読者の皆様へ、「週俳」のイメージでお届けする、「サバービア」セレクション。題して、
lugar comum compile annex: SUBURBIA SAMPLER for Haiku Weekly
SIDE A
-opening- JOHN SIMON/Beach Music from the OST “You Are What You Eat” (1968)
1. THE KINKS/The Village Green Preservation Society (1968)
LC::導入部に続いて、フリーソウル・パーティの人気曲を。まずは「週刊俳句」へ捧げます。だって、週俳と言えば日曜日。日曜日といえばキンクス、これ定理。
TK::導入から1曲目、涙出るほどカッコいいですねえ。昔ね、「日曜日にはローストビーフとキンクスを」というコピライトがあって、キンクスのレコードのライナーノーツか音楽雑誌かは忘れたけど、書いたのが亀淵昭信あたりか違うかも思い出せないんだけど、まさにキンクスは日曜日。「日曜日には週刊俳句とキンクスを」ともじってみましょう。「サバービア俳句」提唱者、猿丸さんも、大のキンクスファンなので、この1曲目は、とてもいいと思う。
2. GAL E CAETANO VELLOSO/Onde Eu Nasci Passa Um Rio (1967)
LC::日曜日(Domingo)からもう一曲。立ちのぼる陽炎のような音は、ボサノヴァのイコンです。サバービアの走りの頃、このブラジル・オリジナル盤(1万円はくだらなかった)を入手し、オリーブ少女に片っ端からプレセントするという友人が。
TK::信じられない口説き方だw
3. JOSE FELICIANO/Golden Lady (1974)
LC::外タレが珍しい時代に歌謡番組で見かけたこの人が、10年後にクラブの大ネタとして復活しました。冴えるギターにエレピとストリングスが絡む冒頭から、よくアガるトラック。
TK::私の世代のほうが馴染み深い人ですね。レコード以前、ラジオでやたら聞きました。
4. HENRY MANCINI/Party Poop (1968)
LC::ブレイク・エドワーズのコメディ映画にはマンシーニの小粋なアレンジがよく映えます。あ、女性スキャットって、サバービアの基本成分。映画にはクロディーヌ・ロンジェも出演していました。
TK::『パーティ』! おおっ、この映画、どれだけ好きか! 大好きを通り越して好きなのですが、これが入りましたか。そういえば、クロディーヌ・ロンジェのLPからは今回1曲も入ってませんね。当時のA&Mのちょっとペラッと薄くて軽い、明るい音とクロディーヌ・ロンジェの声は、懐かしさの微妙なところを突いてきます。
5. BEN SIDRAN/Chances Are (1972)
LC::この人とか、マイケル・フランクスとか、ケニー・ランキンとか。
TK::いわゆるAOR(Adult Oriented Rock)の脈絡ですね。ベン・シドランは好きでたくさん持っていますが、これは知らない曲。
6. MICHEL LEGRAND AND HIS ORCHESTRA/Brasil (1971)
LC::好バージョンがたくさんあって。
TK::ジェフ・マルダーとかね。
LC::いつも迷うこの曲ですが、本日はルグランの“観光地シリーズ”から。変幻自在な展開をお楽しみください。
7. LAURINDO ALMEIDA/The Girl From Ipanema (1964)
LC::アルバム名が「ギター・フロム・イパネマ」と来て、このジャケットで、このカバーというブラジル産ギタリストのサービス振りに笑みがこぼれます。印象的なウィッスルは名手ジャック・マーシャル。
8. JACKIE AND ROY/Deus Brasileiro (1969)
LC::ブラジル好きが嵩じた夫婦、マルコス・ヴァーリのこの曲までダバダバ調に変換してしまうという。
9. DUKE PEARSON/Sandalia Dela (1969)
LC::ブラジルものラストは、浮き足立つようなジャズ・サンバ。ブルーノートって、これと、モアシール・サントスと、あと数枚で十分という暴言を添えて。
10. CHET BAKER/Look For The Silver Lining (1954)
LC::“すべての雲には銀色に輝く裏地silver liningがある” というのは、とても視覚にクる諺。
TK::この曲はよく聞きました。チェット・ベイカーでいちばん好きかも。文句も泣かせるなあ。
interlude- Burt Bacharach and his Orchestra/Close to You from the OST “The Heartbreak Jid” (1972)
SIDE B
11. THE BLUESTARS/Plus Je Tembrasse (1954)
LC::ルグラン姉妹、ブロッサム・ディアリー、ボブ・ドロウが、50年代半ば、パリのジャズサロンで邂逅。放っておけますか。
TK::おけない、おけないw
12. PAUL WELLER/Close To You (2004)
LC::サバービアの最新作って先月出たポール・ウェラーのフリーソウル・コンピなんだけど、この傑作カバーが入っていなかったので、こちらを。
TK::このカバーはいいですねえ。
13. JANE BIRKIN/Yesterday Yes A Day (1977)
LC::この時期のジェーン・バーキンは、ロリータボイスからハスキーウィスパーへと進化しています。
14. DAVE PIKE SET/Big Schlepp (1971)
LC::本格ジャズ方面から浴びせられる“無節操”との酷評は、デイヴ・パイクにとっては賛辞。
15. MOSE ALLISON/Seventh Son (1967)
LC::ジョージィ・フェイムやヴァン・モリソンたちにとって、最大のアイドルらしい。なるほど。
16. PHAROAH SANDERS/You’ve Got to Have Freedom (1980)
LC::深夜のドライヴBGMにしないこと。家に帰りつける気がしません。
17. THE PERCY FAITH ORCHESTRA/The April Fools (1969)
LC::早いもので、もうチルアウト・タイム。ジャック・レモンのコメディ「幸せはパリで」のためにバカラックが書いた挿入歌。透き通る女性コーラスって、こういうの。
18. TODD RUNDGREN/Dream Goes On Forever (1973)
LC::俳句甲子園とか、ホント驚きます。俳句を詠む若者たちが眩しくて…。彼らのことを思うと、トッド・ラングレンを思い出します。あ、理由はありません。
TK::俳句をやらないキミから、そんなこと言われるなんて、高校生たちは幸せですね。
19. MEL TORME AND THE MARTY PAICH DEK-TETTE/The Goodbye Look (1988)
LC::“80年代から90年代にかけて東京の郊外で育った若者ならきっとわかるであろう、ある種のセンスとテイストみたいな組曲”。うーん、わかるような、わからないような。
TK::さっき話した「suburbia suite」との命名ヒントのドナルド・フェイゲンの「The Nightfly」ね。
LC::では、そのアルバム収録曲をメル・トーメの洒脱なカバーで。こっちがオリジナルでは、とまどってしまいそう。
20. JIMMY SCOTT/Day By Day (1969)
LC::最後は、ルー・リードも「シェイクスピアの悲劇が凝縮されたよう」と慕う、この異形の歌声を聴きながら。おやすみなさい。
TK::はい、おやすみなさい。このセレクションは、徹底的に愛聴しそうです。
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Posted by wh at 0:40 6 comments
Labels: lugar comum, サバービア俳句, 西原天気, 対談・座談
成分表11 カンペキの神 上田信治
成分表11 カンペキの神 ……上田信治
初出:『里』2006年10月号
いやしくも物を作るからには、完全を期して作るべきだと思う。当然、力が足りず苦しむことになるが、とりあえずは目指す。
神ならぬ身のなすわざに完全などありえない、と慣用句的にそう思ってしまうが、よく考えると、そうでもない。完全なダブルプレー、完全な休日、完全なオムライス。
完全は、この世にごくふつうに存在する、物事の相の一つだ。
いしいひさいちによる、ある完全な四コマ漫画。家の中に飛んできた蜂を追い出そうとする山田家の人々。蜂は、おかまいなしに飛び、やがて仏壇の中へ入っていく。「それっ」と、仏壇の扉を閉める人々。四コマ目。塀越しに山田家を見る隣家の主人に、視点が切り替わっている。山田家の庭先に、こちらむきに突き出された扉全開の仏壇。隣家の主人「おいおい…」。
これが完全というものだ。複雑な心情をあらわす、正確な細部とタイミング。たとえば隣家の主人の台詞が、さりげなく、背後にいる妻にむかって言われているらしいこと、家の窓を細く開け、様子をうかがう主人公が、仏壇のうしろに見えていること。
完全な細部を持つ作品には、カンペキの神様が降りている。
カンペキの神様とは、自分の個人的な信仰の対象で、ビリケンさんのような物だと思ってもらえばよい。ビリケンさんが何かと聞かれたら、それはよく分らないが、ともかく。
作品は完全であるとき、それ自身の全体性を持つことによって、作者の恣意による世界から、もう少し確かな場所へと、存在のレベルを移行する。一個人の作物というよりも、この世に生えた何かとして、存在することを許されるようになる。
それを、細部の積上げによってなし得るはずだ、という思いこみは、やはり信仰と呼ぶべきなのかもしれない。
かつて飯島晴子は「詩、殊に定型短詩では、偶然が力を貸さなければ、何ほどのことも出来ない」と書き、一方で「俳句の現在は、意識の効力と、完璧を愉しむこととを忘れているのではあるまいか」と書いた。
それから二十年近くを経た俳句は、偶然と意識と完璧とをどう扱っているか。実作上、偶然を呼び込むことと、完全を期することの二つを、態度としてどう両立させるか。それは意識をフルに働かせながら、口が半開きになっているとか、そういうことか。
いや、そこはきっと、ビリケンさんのお力を借りるしかないのだ。
人の身にかつと日当る葛の花 飯島晴子
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Posted by wh at 0:35 0 comments
菊田一平 蠅の心臓ってどんな
〔週俳10月の俳句を読む〕
菊田一平 蠅の心臓ってどんな
齋藤朝比古 あたらしき夜
標本のやうに秋刀魚の食はれけり
先生の服のをかしき運動会
みなと町で生まれたので、こどものころ朝昼晩、朝昼晩とサンマを食わされ、もうサンマの顔なんか見たくもないと思っていた時期がありました。戦中に育った先輩たちが毎日カボチャを食わされ、カボチャと聞くだけで不快な顔をするのと同じ心境です。けれどもなんの因果なのでしょうか、サンマの水揚げが報じられるとサンマサンマサンマ、サンマサンマサンマと「私の脳内メーカー」がサンマ一色になってしまいます。
「標本のように……」。いいなあ、このように食われたらサンマも本望でしょう。「先生の服のをかしき……」いいなあ「をかしき服」。このトリビアルとも違う朝比古さんの視点に好感を持ちます。
振り子 遺品
郵便に微熱あり鳥渡りけり
彼方といふ喇叭の遺品ありにけり
偶然にも◎を付けていただいた二句は「微熱あり」「遺品あり」と「あり」つながりでした。そこに「ある」から俳句に詠むわけで、「あり」は省略すべしと初心の頃に教わりましたが、掲句の「あり」は違和感なく入ってきます。それ以上に「郵便に微熱ありけり」「彼方といふ喇叭の遺品」の、「微熱」「彼方」というおおよそ唐突とも思える言葉の選択に魅かれました。本来「唐突さ」は「乱暴さ」に通じるはずなのですが、この選択の計算された繊細さはまさに目から鱗でした。
五十嵐秀彦 魂の鱗
鉛筆の尻噛む音のして無月
皇国のブリキ装甲車に芒
なつかしいなあ。わたしもよく鉛筆の尻噛んだから鉛筆は歯型だらけ。消しゴムの付いたやつは消しゴムが取れて金具に歯型が残っていました。筆箱は赤胴鈴之助の絵のプラスチック製。新しいのが欲しかったのに蓋が二つに折れてしまったら線香で穴を開けて母がかがってくれました。五十嵐さんの「魂の鱗」はタイトルが示すように力の入った句が多いのですがそんななかで「鉛筆の尻」、さらには攝津さんを思わせる「皇国の」は魅力的な句でした。
大畑 等 ねじ式(マリア頌)
心臓を乱用したり秋の蝿
ねじ式で卵うみたる秋のマリア
「心臓を乱用したり……」なるほどね。「秋の蠅」のちょっとおどおどした質感が伝わってきて笑ってしまいました。ところで蠅の心臓ってどんな形しているんでしょうね。早鐘のようにどきどき脈打つんでしょうか?関係ないけど蠅に触られるとなんかこう気味の悪いねっとり感が残りますよね。思い出すだけでもあの感覚嫌だなあ。でも大畑さんのこのコミカルな発想好きだなあ。いいですね。「ねじ式」の句もよくはわからないけれど面白い。
岩淵喜代子 迢空忌
なにもなし萩のトンネルくぐりても
大叔母や末枯れてゐる杏の木
大先輩にこんなこというのは失礼なんですが10句を読んで「あっ!岩淵さん抜けたな」と思いました。この静謐さにたどりつきたくて日々俳句を詠んでいるのですが遠いなあと思うばかり。エッシャーの「だまし絵」のような「なにもなし」のこの連続性、好きです。「枯れ萩」の向うの青い空が見えてきます。「大叔母や」の入り方もいいですね。目線を転じて見上げた「杏の木」の「末枯れ」を見た時に作者の心のなかにどっと湧き上がってくる大叔母への想いが重く伝わってきます。
柿本多映 いつより
ははきぐさ雨戸を閉める途中なり
焦げくさき空ではないか不如帰
努力とか勉強が嫌いなわたしは本当不勉強で柿本多映さんの句をまとめてじっくり読ませていただいたのは今回が初めてです。うまくは言えませんが「雨戸を閉める途中なり」なんてあっけらかんとした表現にはまいったなあと思いました。「焦げくさき空ではないか」の句も同様です。いくぶん背を反らしながら腰に手を当てて「なあきみい!」と従者にしゃべっているような措辞もなかなか……。勉強します。
津川絵里子 ねぐら
霧の中灯ともして家目覚めけり
雀らのねぐらにぎやか秋曇
10句並べると作者がどのくらい俳句をきちんと詠もうとしているかがわかります。言葉を替えていうと作者の俳句への取り組む姿勢が見えて来るのです。ちょっと極端な言い方になりますが途中に破綻があっても着地がきれいに決まると句が締まるのです。津川さんの句の下五の納まり方にはとても安定感があります。「椅子を足す」「蓼の花」「秋灯」「舌のうへ」「音のこる」「はこばるる」「かみごたへ」「目覚めけり」「緋連雀」「秋曇」。ピッチャーに例えるとコントロールのいいひとなんだと思いました。
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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堀本 吟 現代俳句の帰結その他
〔週俳10月の俳句を読む〕
堀本 吟 現代俳句の帰結その他
1 横書きは読みにくいなあ
このウエブマガジンは人気があるというので、好奇心が湧いてはいるが、私としては、依然としてこのスタイルの句の並べ方には馴染まない。が、これも慣れの問題だろう。
ともかく、九月三十日号から十月二十八日号までの七人の七十句、つらつらと句群を眺めた。この量では作家としての全体の輪廓がよく分からないが作家論が期待されているわけではない。出された言葉そのものを読み切る、そういう作品評の場である。そう、ここは読み切り雑誌のページなのだ。にしては一行の文字面を読み下しながらしみじみ味わうという縦書き俳句があたえる楽しみにちょっと及ばない。といっても、別の視点からみると、縦書き俳句は溢れてはいるが、しみじみ〜というのがすくない不全感は、他の総合誌や同人誌の句についても同じである。それはこの雑誌の本質的な欠点ではないのである。ともかくもこういうメディアが出てきたんだなあ、と私はもともともの解りがいいヒトなので、つくづくとながめ、しみじみ考える良い機会となった。
最初はどれもいちおう手触りが(目触り?)がなめらかである、句のかたちがととのっていて抵抗感がすくない。破綻がすくない。それを、「巧い句」「良い句」というべきだろうか?「俳句は、巧くなければいけない」、とある友人が言った。私は、俳句をあまり巧く作れないヒトなので、こういう意見にはおたおたするが。巧さを愛でるときと、しみじみ良い句だなあ、とおもわせるものにあう楽しみ、その両方がここにもあった。
2 「俳句」2007年11月号の筑紫・櫂発言
ところで、「俳句」十一月号誌上、鼎談で、大輪靖宏、筑紫磐井、櫂未知子のはなしは、現況のインターネットを使った句会や俳句青年の関わり方にはそうとう否定的である。ネット句会に、集まる若い人を、「句会や自作の発表を軽く見ている」「勝負の場」とはみていない、と櫂などは、かなり真剣に非難している。これは、どう取ればいいのだろうか?ここに挙げられたモノにも句会、それもネット句会での作品がいくつかはあるはずだが。あまり拘りを感じない。
さいばら天気が、この鼎談の流れについて「ネット句会と週刊俳句は違う」、といなしていたが(10月28日号)、それはそうだ。筑紫発言「安倍内閣とおなじでお友達俳句会の様な気はする」。これも、当事者としては神経を逆なでされただろう、でも、『俳句』の誌面自体が、いまや巨大な規模のお友達関係のメディアに見えるし、「現代俳句協会」でも、「豈」でも、協力関係のあるところでは潤滑油として良い意味で仲良くならねばなにもすすまない、とくに日本では。例の安倍さんはかわいそうなほどあっち立てこっち立ての律儀なヒトだったんだろう。政治の場と文学の場はすこし違うが、週刊俳句は始まったばかりのメディアである。仲良しグループ自体は上り坂のときには、良い活力源となるはずだ。大きくても小さくてもメディアは公器であるから、読者を馬鹿にしたなれ合いは困るけど、そういうようには見えない。
だが、この鼎談のポイントは、週刊俳句賞の応募作品の選考委員をした筑紫磐井の感想の方が大事ではないだろうか?
筑紫「普通の句会や他の賞の選考のときとは、感じが違うなという印象はうけました。櫂さん、あの応募作品の傾向、わりとみな均一化されているとは思うませんでしたか」。櫂「しました。/あのホームページを見に行っている人が応募したのだから、どうしても運営している人たちと近い人が多かったですね。個性という点では淡かった」。筑紫「安倍内閣と同じで…云々」。とつづく。
二人のはなしがおむむくところ「言葉も、そこでした約束も軽くなっている。インターネット全般の傾向」(筑紫)。「句会を勝負の場だと思っていない」(櫂)。句会は顔が見えすぎると言う弊害もあるから、私も時々は、別の方法をかんがえぬでもないが、臨場感というなら、やはりそこに行かねばわからぬものがたくさんある。いますぐに結論の出る話ではないが、ネット俳句の定着をはかっているひとたちは、こういう意見に対して、とくにお互いの顔が見えない、無名化への懸念を、本気でひきうけるのかどうか、というところに立っているように思う。
だいたい、その時代の流れに乗って、一番新しそうなことをするのが未熟な(失礼!)青年の特権であるから、一見軽いと言うことだけでは、彼らのその作家精神ははかれない。結社のお友達関係、師弟関係を基盤に55年間やってきた角川俳句のメディアとは、違うスポットが俳壇を揺るがせるかどうかが、これからの見所である。それが、俳句や短詩形メディア全体を活性化するはずだ。その全体の状況に危機感を感じているのなら、新時代のリーダーたる方々は、もうすこし本質を穿った親切な忠告をしなければならない。天気さんもがんばってほしいが、俳壇と新潮流をつなぐ位置にいる「俳句空間ー豈」の看板スター筑紫磐井サンはとくにがんばって兄貴分として的確なアドバイスをしてあげてほしい。
この二人の句をあらためて読みなおすと、世界に対する勝負の姿勢は、さすがにはっきりしていて、暴力的というほど一個の作家としての文体が確立している。いまもって後続の句群の及ばない迫力やエネルギーがある。勝負意識の希薄化、と彼らがネット俳人のことを物足りなく感じているならば、彼らの位置からのそういう批判は正しいのである。
しかし現代の表現の世界は、発語したことをそのまま時代の言葉として定着させる要素が、以前とはどこか違ってきているわけだから、軽い言葉遊びの途中に、抜きがたい存在の不条理がのぞいたり、重々しいのにどこか滑稽なレトリックがつかわれていたり、そんなふうな反語的意味が流れている言語状況なのではないか?それは若者への非難としてではなく、世代をこえた我々のジャンル自体の転換、としてのりこえるほかはない、そのための忠告が必要なのだ。「週刊俳句」のような、表に躍り出てネット上を流れている表層の言葉を扱っていると、彼らを巻き込んでいる集合意識とどこかでからんでくるはすだ。
3 柿本多映の「虚空」
ということで、ここではまず、若手に混じって最年長の柿本多映が出している俳句を見ておこう。筑紫や櫂のショッキングなはでなパフォーマンス俳句に比べたらおとなしい。
触 れ な ば や 天 の 川 か ら 水 零 れ 柿本多映
後 頭 に 虚 空 ひ ろ が り 蓼 の 花
野 に 穴 を 想 へ ば 月 の 欠 け は じ む
大きな景と小さな自己を対比させながら、内面の感覚を形象化している。「触れてしまったのでしょうね、どこかで誰かが。たから、天の河から水がこぼれ落ちてくる・・」。「野に大きな穴がある、と思いはじめらほらごらんなさい。天上の月が欠けはじめたでしょう?」、とこんなふうに形而上学のような物語がいくつもできる。さすがたいした包含力である。しかし、これら「天の川」「虚空」「野、穴、月」など天体の使い方には既視感がありすぎる。宇宙の測りがたさそのものではなく、身体感覚の喩におさまったりする。これは、自分が自足するための宇宙であり、自分の外に浮く天体ではない。私は、柿本多映の、非在のものの形象化の巧みさにはいつも惹かれるのだ。ただ、私の地上的感性からはこの天上感が近すぎる。むしろ思い切って実感に即して出てきた光景、
舌 を 出 す 倣 ひ 通 草 は 宙 に 熟 れ 多映
が意外な場所に肉感というもののかたち描き出していて、おもしろかった。
発表された頃眼にして、ぞくっときたのが、
通草(あけび)ほどつめたき舌はなかりけり 宮入 聖
『遊悲』(昭和六十年、冬青社)
いらい「通草」と「舌」は切り離せない。熟れて笑った通草の形状はやや淫靡な舌(タネの入った柔らかな嚢)である。そのあらわしかたのおかしさ。
また、柿本句の言葉の面白さは、次のようなところにあらわれる。
階 下 で は 煮 込 ん で ゐ ま す 鵙 の 贄
鶏 頭 の 殺 気 ス ペ イ ン ま で 行 く か
彼女はすなわち世界を感受するありかたが特異である。鵙の贄をさらに、人間の贄にするために、「もう煮えたかしら」という茶化しかたをする。ブラックユーモアのからんだ世界がふっと顕れる。彼女は、ナルシシストであるから、自分の宇宙で複雑な感受性の層をさぐり奔放にたわむれることが、それが寛恕の安息なのである。しかし、耕衣、信子、閒石ら新興俳句の思索的な俳人の宇宙感覚にふれてくぐってきた、その内的な体験がやはりものを言っていて、既視感があるとしても余人は多映の句境を簡単に真似できない、個性の中に溶けこんでしまった「虚空」。余人の句柄とはちがう雰囲気を発散させている。
4 アトランダムにアニミズムの面白さをさぐってみる
水 葬 の 意 気 込 み 果 て ん 菊 見 て は 五十嵐秀彦
水 葬 の 足 袋 眩 し か ろ 秋 の 蜘 蛛 大畑等
たまたま同じく「水葬」を詠んだ二人の句。両者は嗜好がかなりちかいのだろう。昔は奇想といったがいまは自在という。そのきわにあそぶ言葉の動きが死を詠っているのに生き生きしている。いま俳句を作っている若い人たちは自在といわれて幸せだろうか?馬鹿にされたとは思わないだろうか?自在か奇想か、すれすれのところで、大畑句は虫愛ずるアニミズムの境地である。
五十嵐句の方は、すこし意味が取りにくかった。大畑句のほうがよくわかった、「秋の蜘蛛」が水葬に付される死体の「白足袋」をまぶしくみている。死がどこかよそ事にされている。蜘蛛が見ているのが屍体の足袋だということが、あり得る様なあり得ないような異様な水辺の風景である。
五十嵐句がわかりにくいのは、「意気込み果てん」とするのが、「菊を見て」いる人なのか、「屍体」なのかがわからず、またその死者が何を意気込んでいるのか、言わなかったことへの想像力のとっかかりがないからだ。意味づけのときにかなりごちゃごちゃする、しかし、これも、死を厳粛なできごととする境地からは遠い、遠いということがはっきり意識されているので、そこで詩になっている。
幹 く だ る 魂 の 鱗 や 居 待 月 秀彦
髪 型 が 姉 と 同 じ の 飛 蝗 と ぶ 等
この範囲では、奇想ではないのだろうが、できあがったのはどちらもなかなか奇怪である。木の肌や、飛蝗の頭部のおかしさ、シュールリアリズムである。
5 現代台所俳句…コーヒータイムが必要だ
漆 黒 の コ ー ヒ ー い れ む 秋 灯 津川絵里子
秋 風 や 紅 茶 の あ と は 畝 傍 山 振り子
舞 茸 の 軽 し 芭 蕉 像 な ほ 軽 し 岩淵喜代子
流石にこのコーヒーにはこくがある。が、秋風の紅茶も単純だがあじがある。「お茶しましょうよ」、としばしばわれわれは休息するのだが、部屋にこもっているだけでは休息にはならない、こころを拡げる広い場所へゆくことも精神安定には大事である。橿原市にいた頃にはこうしてよく畝傍山にのぼった。岩淵喜代子が。舞茸」から「芭蕉像」を引き出したところは連想が面白い。この三人には、女性の日常文化の内側からでてくる感受性が、それもたしかな肯定的な感覚でよこたわっている。台所俳句の発展形態とも言えよう。表現活動は、は生活の中では多面的な役割をする。知を求めながら、心理のある部分ではそこをはなれた時間や感興をもとめているところがある。
ただし、彼女達は流石に単純な生活者ではない。
霧 の な か 灯 と も し て 家 目 覚 め け り 絵里子
彼 方 と い ふ 喇 叭 の 遺 品 あ り に け り 振り子
出 棺 に 真 昼 間 使 ふ 烏 瓜 喜代子
平凡なお三時の休息のときもあるが、だまし絵風の奇抜な取り合わせの描写もならぶ。家に灯が点って家族がめざめはじめたのだが、それを包む世界はまだ霧の中、入れ子的な繊細な自意識の「家」と思える。「喇叭」が遺品なのだが、ここにはなく、遠い幻視の裡に確実な「死」がある。死の実感がここでも薄れている。日常のモノを見詰めながら、わたしたちに胚胎している現実の裏側への旅。又隣り合わせの非現実の世界への参画がはたされる。俳句形式のなんたるかを、いろんな切り口で見せてくれたのだった。ただ、こういう日常詠を基盤にした俳句には、均一化とは思わないが、生活感のなかに飢えとか欲望から生まれる感覚の棘がなくなっている。もっと刺すようなイロニーがあっても良いのではないだろうか。
6 日常が錆びてゆく・斎藤朝比古の不思議さ
この人を最後に残したのは、年齢など詳細はわからないものの一種のグレーっぽい俳諧性を感じて、俳句言語としてはむしろ正統と思われるのに、この中では異質な印象すらいだいたのである。そして、これが、磐井等の言う言葉の均一化状況を先取りし追認し、それを俳句化したのではないかとおもったからである。書かれているのは個々人の内面などではなく、あくまで外部の、それも時代状況の風景ではないか、と思ったからだ。攝津幸彦は思いきって戦前に戻ってそれを虚構にしたのだが、斎藤はちょっとだけ前代にかえっている。
標 本 の や う に 秋 刀 魚 の 喰 は れ け り 斎藤朝比古
何 に で も 醤 油 の 父 や 秋 の 山
す こ し づ つ は だ け て き た る 踊 か な
先 生 の 服 の を か し き 運 動 会
やや古くさい風景だしモチーフもそうだ、生活の場所も都会の真ん中ではなくむしろ農村のようにも思える。「秋刀魚」をこのようにつくづくと眺め扱う習慣は、都会人のモノでも地方人のモノでもない。「何にでも醤油の父」なんて、一昔前なら立派な生活詠である。が、いまや嘘っぽい。この「踊り」方も踊りの本意を知ってたくみにずらしている。
錆 色 に 並 ぶ 自 転 車 花 野 風 朝比古
錆びていても自転車は永遠に古びてそのままおかれている。いつかは走り出すだろうが、むしろ野山の方が枯れる前の命の花をめいっぱい咲かせているのである。滅ぶのは自然ではなく人間がつくりあげた取り替えのきかないこの文明である。その自明のことが自嘲もなく自明のものとして切り取られている。
もし、このような句柄に何か、思想のようなものを感じとるならば、「おやじよぉ。お兄さん達よぉ。けっきょくこうなったんだよ、どうするのさ」といった類の醒めたドキュメント。ただならぬただごと趣味にはそんなだいそれたものはないのかも知れない。しかし、なにか、作品化する視線にひそむ憐憫と恐怖を感じ、また、屈折した批評の視線を感じとるのだ。
斎藤がもつこのテーマが単純な復古調反近代性のあかしならば、いまさらながら世界観が甘い、と言わざるを得ない。それに対して、若い者はうんぬんと世代論はいくつも言えるだろうが、新しい世代が、いま、あらためて過去の方角に目を向け始めたときに目にとめた世界の廃墟化、そのなかの体温すら感じさせるヒトの動き、救いでもあるが危機感も持つ。現代の存在のありかたを書き留めるには、軽み重くれ全体を書きうる抜群の技巧が必要だ、彼は思っているのかも知れない。そういう複雑な感受性が動いているように見える。じつは一番つまらない地味な作風とみえたこの作品群が、これが戦後俳句のその後の現代俳句の帰結と思った瞬間、さいごにいちばん面白くみえてきたのだ。
こんなことで、お茶をにごした感じ。おもったより難しかった。ご意見は謙虚にうけとめますから。作者に異論があれば、コメント下さい。
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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榊 倫代 深い井戸の底
〔週俳10月の俳句を読む〕
榊 倫代 深い井戸の底
後 頭 に 虚 空 ひ ろ が り 蓼 の 花 柿本多映
野 に 穴 を 想 へ ば 月 の 欠 け は じ む
階 下 で は 煮 込 ん で ゐ ま す 鵙 の 贄
虚無とかブラックホールとか、そんな言葉を連想した。
頭の後ろに広がる漠々たる空間。ぽっかりあいた穴の暗さ。もとは蛙だったのか鼠だったのか蜥蜴だったのか、とにかく得体が知れないものが、ガスの青い火の上でふつふつと煮えている、その鍋の中。
後頭の虚空にしても穴にしても、あるいは月の欠けた部分や階下の様子にしても、実際には目に見えていない。それでも確かにそこにある。そう感じることがある。尋常でない気配ともいうべきか。
深い井戸の底を怖々覗くような、そんな三句だ。
秋 風 や 薄 焼 菓 子 を 舌 の う へ 津川絵理子
夕方になると子どもが愚図りだすので、乳幼児用のせんべいを出して、てのひらにのせてやる。
せんべいは白くて軽い。齧りとるときこそカリッという音をたてるが、すぐにふわりと口の中で溶ける。
味は甘いようなしょっぱいようなはっきりしない味だ。いっしょに食べていると少し頼りない気分になる。そもそもいい大人が口にするようなものではないのだが。
秋風がいい。さびしさがいっそ清々しいところ、薄焼菓子に通じるものがある。下五に菓子をのせられた舌の所在なさを思った。
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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上田信治 俳句の「正解」
〔週俳10月の俳句を読む〕
上田信治 俳句の「正解」
夜 学 子 へ あ た ら し き 夜 の 来 て ゐ た り 齋藤朝比古
俳句はときにクイズやアンケートにも似て、一句が、季語という問のカイトウ欄に書き込まれた、答のようになることがある。クイズなら解答、アンケートなら回答ですが、もちろん、俳句に正解のあるはずもなく、そこは、その人なりの「回答」というのが正しい。
掲句。「夜学」とは、という問いに、まあ、みごとな答があったものです。泣かせる内容が、そのまんま秋の季感へつながるハナレワザ。〈夜学子〉を気の毒がってないところが、作者の人間性です。
秋 風 や 紅 茶 の あ と は 畝 傍 山 振り子
かねがね「紅茶」が秋の季語でないことを、残念に思っていました。6月に摘まれた新茶(セカンドフラッシュ)が熟成するのが秋頃だといいますし、色も温度も、じつに秋だなあと。〈小 鳥 来 て 午 後 の 紅 茶 の ほ し き こ ろ 富安風生〉
掲句。もちろん秋で、紅茶で、紅葉山なわけですが、一句の眼目は〈あとは〉にある。いびつにかわゆい形の畝傍山が、どうして紅茶の〈あとは〉なのか。それは読者の胸のうち。
ね じ 式 で 卵 う み た る 秋 の マ リ ア 大畑 等
「ねじ式(マリア頌)」と題された10句、うち6句が破調。その破調が、歌の、歌たるところか。俳句を書こうと始めたはずが、とちゅうで炸裂弾がはじけた、という風情の句もありますが、掲句は、バリトンの声量を抑え、静かに歌い収めた。いや、マリアというくらいだから、アリアかな、と。
鉛 筆 の 尻 噛 む 音 の し て 無 月 五十嵐秀彦
少年の自分が、大人の自分といっしょに鉛筆を噛んでいる。そのどちらも、明らかに、現在の認識主体である自分ではないという離人症的感覚が、いかにも〈無月〉です。→「モノの味方(1)鉛筆」
焦 く さ き 空 で は な い か 不 如 帰 柿本多映
〈焦くさき空〉とは、〈真 夏 日 の 鳥 は 骨 ま で 見 せ て 飛 ぶ〉(『夢谷』1984)の鳥が、かつて飛んだ空かもしれません。「ある日、ふと空を見上げると、懸命に翼を上下させながら西へ向って必死で飛ぶ一羽の鳥を見たのです。まるで骨だけで飛んでいるような。ああ、(赤尾)兜子先生そのもの、と思ったのです」(インタビューによる発言「俳句研究」2007/7)。
そのとき、鳥の「必死」に憧れた作者は、いま、声だけの存在〈不如帰〉にむかって、同じ空を共有する思いを、呼びかけているようです。
出 棺 に 真 昼 間 使 ふ 烏 瓜 岩淵喜代子
舞 茸 の 軽 し 芭 蕉 像 な ほ 軽 し
真昼間を〈使ふ〉のは、いったい誰なんでしょう。そして〈芭蕉像〉を、持ってみたりしているのは。〈ご み の 日 は ご み 出 し て ゐ る 椎 の 花〉(『硝子の仲間』2004)とも同様、そこに奇妙に「無責任な」主人公がいることが、これらの句の味わいのような気がします。
げ ん こ つ で ほ ぐ す 足 裏 蓼 の 花 津川絵理子
はじめの話にもどりますが、この作者こそ「季語という問」にみごとな回答を出すことに賭ける人、そう思っていました。〈雛 こ の さ ら は れ さ う な 軽 さ か な〉〈う つ す ら と 空 気 を ふ く み 種 袋〉(『和音』2006) 。「ねぐら」10句中〈秋 の 潮 し づ か に 船 の は こ ば る る〉などは、正にご名答といった佳什ですが、笑ってしまったのは、掲句。女性である作者名があって完成する作品と思います。こういう、よい意味で「厚かましい」書きぶりの作品を、また読んでみたいと思いました。
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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羽田野 令 生きている途中
〔週俳10月の俳句を読む〕
羽田野 令 生きている途中
鳥・砦 の こ ら ず 照 ら す 夜 の 銀 杏 振り子
銀杏の大樹がそびえていて、光がある。そういう秋の一風景の中に鳥と砦を描くとき、空を飛ぶ黒い影と風化した岩の廃墟のような幻影とが浮かび上がる。「とり・とりで」とはじまっている。その二つは、飛翔のかたちと、片や地にじっとある、何らかの意志の遂行のための拠り所となる場所とである。至る所にかつて砦であったところはあるのかもしれないし、自分だけの砦であったと言える場所もあるのかも知れないとも思う。
「鳥・砦」の音の繰り返しの心地よさが何と言ってもこの句の中心である。同じ音を持つゆえにあらゆるものの中から選ばれた鳥と砦は、銀杏の金色の輝きに隈なく浴している。この二つに代表させて全てを語ろうとする作者の心意気のようなものも見えて面白い。
幹 く だ る 魂 の 鱗 や 居 待 月 五十嵐秀彦
木を上り下りする虫がいる。蟻が木や草花を行き来する。夜に黄金虫の類がゆっくり木の幹を這っているのを、もうずっと昔に見たこともあるが、「幹くだる魂の鱗」と言われるとそんな光景を思い出す。いや、別に虫と限らなくてもいい。大きな木は、見ていると何か下りて来そうな気がすることもあるから。樹木は古来神宿るものであるが、その霊性を帯びて地へ下りるものたちは木の魂の一片一片であるのか、もっと大いなる自然の魂であるのか。居待月とは、満月から三日後の月の名であるが、字に「居」や「待」があるのでやはり待っている気分が全体に漂う。
少 年 の 歯 型 盗 ま る 桃 の 寺 院 大畑 等
歯形という身体の一部が写しとられたもの、少年だから少し青々しい感じのあるそれが盗まれたと言う。そしてそれは桃のであるという。「桃の」が倒置されていると読むとそうである。歯形は桃につけた歯形だから。しかし、「盗まる」の後で切れるとして「桃の寺院」と取ることも可能だ。桃の寺院とは不可思議なものだが、「桃の」はどちらにもとれるように置かれている。
言葉と言葉が作り上げる世界、自分の内にある何かに形を与えて組み立てられた言葉たちは、現実世界の整合性をはみ出していても何かをよく表現し得るということはある。掲句では、それぞれの言葉の持つ世界が重なりあい、より鬱蒼としたエロティックな世界が表されている。
寺院はゴシック建築の大伽藍を思うのがいいのではないか。人間が神の高みを求めて伸ばした尖塔を持つ荘厳な様式の中に、メタファーの世界が、盗まれるという密儀として完結するのは素敵だ。
は は き ぐ さ 雨 戸 を 閉 め る 途 中 な り 柿本多映
今の家はあまり雨戸を閉めることもないが、昔は夜雨戸を閉めたものだ。戸の横の戸袋に手を突っ込んで引き出した。雨戸を閉めると真っ暗になった。一日の暗くなり始める時間、母親達はからからと雨戸を引いた。
闇へ向かって雨戸は水平に、時間軸のレールを滑るように動く。一方「ははきぐさ」は、天へ向かって垂直にいくつもの茎を伸ばしているような植物である。いや、茎なのか枝なのか葉なのかはっきりとしないような、幾本ものすじが地面から放射されたような形態、と言ったらよいであろうか。その茫とした立ち姿の植物の名に、「はは」すなわち「母」があることも、この移ろいの時間の景を深くする。ははきぐさと戸の動きの二つのイメージが交差して薄暮が何か壊しく描かれている。「途中なり」は、今生きて在ることを戸を閉じる途中にあると言っているのかもしれない。
火 の や う に 咲 く 花 も あ り 迢 空 忌 岩淵喜代子
火のような色、火のように真っ赤、というのは花の形容としてよくあるのだが、咲き方を火のようだとは普通言わない。水で育つ植物にしては異端ということか。火のようにカッと燃える咲き方、生き方と配されている迢空忌。迢空はいろいろ語られている。ひそけさ、かそけさを詠んだ人であるが、「基督の真はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より」という歌にあるような妖しい火を、生涯抱えていた人なのだろう。一つの生き方を、「~もあり」と客観的に言っているのは、私はそのようではないけれど、ということも含むのだろうか。
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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中山宙虫 家族のかたち
〔週俳10月の俳句を読む〕
中山宙虫 家族のかたち
あ り し 日 の 文 法 歪 む 鶏 頭 花 五十嵐秀彦
テレビをぼんやり見ている。
妻とふたりきりの生活がもう随分になる。
子供たちが一緒に暮らしていたのは何年前だろう?
時々、ふたりで数えてみる。
5年?6年?
暮らしの中から子供の姿が消えた時間を。
バラエティ番組で空虚な笑いが流れる。
僕らもつられて笑う。
ほんとうにおかしいのだろうか?
妻は読みかけの時代小説に目を落とす。
秋の夜長。
数年前までは、子供たちの話題で時間がつぶれていた。
それもここにきて、話題にあがることが少なくなった。
アルバムがほこりをかぶっている。
あの日あの頃。
この写真はいったい何を残してきたのだろうか?
集散する家族の記録。
そこまでは大袈裟なものでもないのだろうが。
笑顔の写真も随分貼られている。
僕らは心底笑っていたように思うのだ。
家族という括りのなかで、僕らは笑っていた。
家族として築いてきたものがすっかり姿を変えてしまった。
子供を送り出したあとの僕ら。
話すことばひとつひとつとってみても。
どこか違っている。
大人の会話なのだ。
お互い分かりきったことは喋ることはない。
それを踏み台にした場所から話は始まる。
ふと気づくのである。
その踏み台にあるものは何なのか?
分かり合っているつもりで、口にしないもの。
あの日、子供たちが家庭のなかにいた日。
僕らが笑いながら話していたこと。
家族の形に少しだけ見えていた可能性。
希望とでもいえるもの。
ふたりの目の前から大きくこぼれてしまった。
いま、ふたりきりで過ごす夜。
窓明かりに、昼間の赤さとは違う鶏頭が浮かぶ。
どす黒いと言ってもいいくらいの鶏頭。
いつかまた。
僕ら家族は形を変える日がくると思う。
そのとき。
どんな色の鶏頭を見ることになるのだろうか?
そして、どんなテレビを見ているのか?
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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鈴木茂雄 多種多様
〔週俳10月の俳句を読む〕
鈴木茂雄 多種多様
角川『俳句』11月号【大輪靖宏・筑紫磐井・櫂未知子・合評鼎談11「選と句会は俳人を鍛えるか」】の中で「週刊俳句賞」が話題として取り上げられていたが、ところどころで腑に落ちない発言があり、インターネット句会を知らない人に誤解を与えかねないような印象を受けた。ことは『週刊俳句』にかぎった問題ではなく、インターネット句会に参加している者として看過できないものがあった。
その全文を引かないで語るのは片手落ちの懸念を抱かないわけではないが、角川『俳句』の俳句愛好家および俳人に及ぼす影響は大きく、従ってその発言は重く受けとめられる。とくに「安倍内閣と同じで、お友達俳句会のような気はする(笑)。角川俳句賞が、いい悪いは別にして純写生派からシュールなものまで混じっているのと比べて、同じ傾向の作品が多い感じがしました。句会でも同じような現象が出ているかも知れないという気がしたのですが。」という筑紫氏の発言である。なかでも驚いたのがつぎの発言だ。【櫂「横だとさっと読み下せないから、句を選ぶスピードが遅くなる。それと、ネット句会って大体が、協会はどうか知りませんがタダでしょう。それもありがたくなくていやだなあと思うんです。」大輪「伝統俳句協会は有料ですよ。登録した上で投句するんです。」櫂「なるほど、それはえらい。普通のネット句会だと大体取らないんです。遠隔地に住んでいる者同士が句会をやりたいというのだったら分かるし、体が動かないから外に出られないという人がネット句会をやるのは必要というか仕方がないと思うのだけれど、ちゃんと体が動く人がネット句会をやって何か意味があるのかと私は思うのです。(略)」】【筑紫「私はプリントアウトしない限り俳句でも文章でもないと言いたい(笑)。」櫂「私は顔を合わせて句会をやりたいので、基本的に自分が行う句会は欠席投句は一切認めません。参加したければ京都からでも仙台からでも来いと言い放っています。」】と、言いたい放題。「紙」様を信仰するのは自由だが、インターネット句会にもオフ会(off-line meeting)というのがあって、実際に会ってお互いに親交を深めているという現実があることも知って欲しい。
また前置きが長くなってしまったが、上記の記事について触れたのは、別段他意があってのことではない。ただ「雑誌(紙)」対「雑誌(インターネット)」といった画一的な比較の構図はナンセンスだと思ったからであり、後者の作品はみな同じような顔に見えると言っているように思えたからだ。では、はたしてつぎの俳句たちは彼らの目にはどう映るのだろうか。作品の評価は別にするとしても、わたしには、みな、じつに個性的な顔つきに見える。
齋藤朝比古「新しき夜」10句
振り子 「遺 品」10句
五十嵐秀彦 「魂の鱗」10句
大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句
岩淵喜代子 「迢空忌」10句
柿本多映 「いつより」10句
津川絵理子 「ねぐら」10句
す こ し づ つ は だ け て き た る 踊 か な 齋藤朝比古
今回は上記の七作品を読ませていただいたが、なかでもこの句は季語「踊」という言葉が内臓する「盆踊」という民間の伝承文化を引き継いで、しかも「踊」という季語をひとつ更新したような新しさが、その表現にある。「すこしづつはだけてきた」と言って、踊りにあわせて「踊子」の浴衣の胸もとが次第に開いていく様子を描写し、踊りの輪そのものも時間が経過するにつれて、だんだん踊る人と人との間隔に乱れが生じる様を大景として把握。しかもこの「はだけて」には「手や足を大きく広げる。また、目・口などを大きくあける。」という意味が二重奏になっていて、踊子の踊るしぐさがだんだんと大胆になり、踊りの輪も次第に勢いが増していく、そんな様子まで生き生きと力強く描き出すのに成功している。
髪 型 が 姉 と 同 じ の 飛 蝗 と ぶ 大畑 等
「飛蝗」の頭部を「髪型」と言い、しかも「姉と同じ」という発想が新鮮だ。この「髪型」はフェミニンなものではなくボーイッシュなもの。つぎに飛蝗に出会ったらきっとこの斬新な「髪型」が思い浮かぶに違いない。新しい飛蝗像がここにまたひとつ完成したと言っていいだろう。
舌 を 出 す 倣 ひ 通 草 は 宙 に 熟 れ 柿本多映
柿本多映と言えば「美術館に蝶をことりと置いてくる」「もう春の山脈として濡れてゐる」「炎帝の昏きからだの中にゐる」「わたくしが昏れてしまへば曼珠沙華」「月光はコクヨの罫に及びけり」等の秀句で知られる著名な俳人だが、こんなところでふいに意中の俳人の一人にめぐり会えるのもこれまたインターネット俳句のいいところである。
一読、冒頭の「舌を出す倣ひ」とは何だろうという思いに駆られる。「舌」というのは断るまでもなく味覚を感じる感覚器官だが、それに付随する言葉の意味から受ける印象はというとあまりいいものはない。「二枚舌(うそをつくこと)」「舌が長い(おしゃべりだ)」「舌が回る(よどみなくよくしゃべる)」「舌の先(コトバのうえだけ)」などがそれである。また「舌」は喋るという行為を象徴する記号でもある。昔から「ウソをついたらエンマさんに舌を抜かれる」という民間の言い伝えがそれを如実に物語っている。
再読、揚句の「舌を出す」という行為は、「アッカンベー」に見られるように、人をからかい侮蔑するしぐさか、あるいは自分の失敗を誤魔化すときにおどけて、ペロッと舌を出してみせる照れ隠しのしぐさだということに気がつく。いや、それともこれは、かわいく見られたいためにときとして見せる、女の仕掛けとしてのしぐさではないだろうか、ということに思い至る。いつしかそんな「倣ひ」がこの作者の身に付いたという自嘲の詩、そんなふうに解しては作者に対して礼を失することになるだろうか。
三読、「通草」がひとつ「宙に熟れ」ていると言う作者の声が聞こえてくる。それなら通草の実の表皮は裂け、その中には黒い種子をたくさん含んだ通草の白い果肉がざっくりと見えているはずだ。甘い匂いがする。官能的でさえあるが、その実はすでに「熟れ」、そして誰にも触れられず、採られず「宙に」ぶら下がったままだ。この「舌」が災いしているからだろうか。通草の熟れる秋の華麗で残酷な風景。この作品からは、作者の生と死の美学まで読み取ることが出来る。
つぎの作品も印象深かった。
手 も 足 も さ び し き 秋 の 電 気 街 振り子
秋 麗 や 鳥 人 三 山 に 参 る 五十嵐秀彦
出 棺 に 真 昼 間 使 ふ 烏 瓜 岩淵喜代子
げ ん こ つ で ほ ぐ す 足 裏 蓼 の 花 津川絵理子
現代俳句は今後この「週刊俳句」をはじめとするインターネットという舞台でさらに個性的で多種多様な役柄を演じてくれることだろう。
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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ひらの こぼ 俳句のちから
〔週俳10月の俳句を読む〕
ひらの こぼ 俳句のちから
熱 気 球 音 な く 流 れ 蕎 麦 の 花 齋藤朝比古
なんだか作者の澄んだ視線がすべてに感じられて、まとまりのある10句。どの句にも好感を持ちました。やさしい気持にさせてくれる。俳句の力って大きい。そんな思いにさせてくれる作品です。
風に流されている熱気球。晴れ渡った空。そして一面の真っ白な蕎麦の花……。「なんでも受け入れる」そんな気分に溢れた句。視座がしっかりした俳句はやはりいいですね。それは、あとの10句にも通底していると思いました。
満 月 は 水 夫 の 匂 ひ さ せ て 歩 く 振り子
蕪村の「御手討の夫婦なりしを更衣」の句からは短編小説が書ける。同じようにこの句のなかの言葉を紡いでいけば、数十行の現代詩の一篇になりそうです。
たとえば「水夫の匂ひ」を軸にすればどんな内容の詩が展開できるか。そんな楽しみ方もできる句だと思いました。読者を選ぶ句かもしれませんが、こういう方向はあるなあと……。といってじゃあ鑑賞してみろと言われても実は困るのですが。
少 年 の 歯 型 盗 ま る 桃 の 寺 院 大畑 等
俳句ならではの物語性。やはり俳句は詠み手と読み手の共同制作物だと思わせてくれます。少年の歯型のついた桃を盗んだのは誰か。では、なんのために。そしてそのあと少年になにが起こるのか。サスペンスです。いや、面白いです。
上 七 軒 昼 顔 昼 の か ほ を し て 柿本多映
京都は北野天満宮あたりにある花街。お昼に普段着の芸妓さんや舞妓さんがちょっと用事にといったシーンを思い浮かべます。
昼顔は夕方には萎みますが、それから先はさてどんな花になるのやらなどと気にもなります。上七軒あたりの風情なども昼顔にぴったりだと思いました。
げ ん こ つ で ほ ぐ す 足 裏 蓼 の 花 津川絵理子
山歩きなどでの1シーンでしょうか。香辛料としても使われる蓼と凝りほぐしがなんとなくつながるようなところも面白いです。
角川俳句賞受賞、おめでとうございます。
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『俳句界』2007年11月号を読む 五十嵐秀彦
『俳句界』2007年11月号を読む ……五十嵐秀彦
相変わらず散文中心に読んでみましょう。
今回は、なぜか「です・ます」体で書くことにしました。
●錦秋特集 現代の「いろ」と「かたち」
秋を特集するに当たって、「いろ」と「かたち」にしぼりこんだところがポイントで、私は面白く読みました。
デザイン批評家・柏木博の「経年変化する色を味わう」は、大半の俳人が普段気にとめない都市の色彩についての論考で、大都市の中心部がモニタ化しているという指摘や、住宅街ではメンテナンスをあまり必要としない建材の使用によって家並の印象が明るくなったことなどを挙げ、経年変化する風景というものを都市が失ってしまったことを語っています。時とともに変化する色彩を美しいと味わう感覚というものが確かに危機的な状況に置かれているのかもしれません。俳句については語られていませんが、こういう視点で都市を見つめる俳句というのも可能性として興味をひかれました。
小林尊晴の「『俳写』考」は、次の「おくのふぉと道 秋の俳写吟行at上野」の導入部となるエッセイ。以前からあった「俳写」が、デジタルカメラとブログの普及で、ここにきてブームとなってきて、新ジャンルの庶民文芸として発展していく予感を語っています。
はたしてそれが新ジャンルの文芸と言えるかどうかは若干の疑問を感じますが、句と映像が互いに補うのではなく、イメージの喚起としてぶつかりあえば、そこに面白いものが生れてくるかもしれません。
その小林氏と4人の若手俳人たちとが上野にカメラを持って出かけます。
若手俳人とは、榮猿丸、佐藤文香、山下つばさ、ゑりゐの4人。
それぞれの写真と句とエッセイが1ページずつ掲載されていますが、印象としてはどうだろう。やはり映像に引きずられているように見えるのは私だけでしょうか。
●読書の秋特集 入門書再入門
二つ目の特集で、榎本好宏、安部元気、大串章、鍵和田柚子(ゆうは禾偏が正しいです)、ひらのこぼ、中上哲夫の6氏が書いています。
注目したのは中上哲夫の「ビートたちが俳句に熱中したころ」。
’55年のビートニクの誕生に際し、その大立て者であったギンズバーグが俳句に熱中し、その代表作『吠える』は俳句の省略の発見が基礎になっていたという指摘は、なるほどと感心させられました。
そしてケルアックの小説からの次の引用などからも、当時のビート詩人たちが俳句をどうにか理解しようと努力していたことが分かります。
《こうした土地を歩いていけば、東洋の詩人たちが詠んだ俳句という珠玉が理解できるだろう。かれらは山の雰囲気に酔うなんてことは決してせず、文学的な技巧や凝った表現などは使わずに、目に映ったものを子どものようにいきいきと書きつけて行くのだ。藪の斜面をくねくねと登りながら、ぼくらは俳句をつくった》
彼らに俳句を教えた本が、R.H.ブライスの『俳句』でした。ビートニクの俳句にも入門書があったというわけです。
しかしまた中上が言うように、《アメリカ社会にノーを突き付けたビートたちの関心は、アメリカへの反措定としてヨーロッパ(とくにフランス)や東洋へと向かった(単なる比喩ではなく、実際に多くの者がヨーロッパや東洋へと旅立っていった)。ビートたちの禅ブームや俳句熱なども、そんな流れのなかにあった》のであり、一時的な流行に終わってしまったとも言えるのでしょう。
テーマが俳句入門書に関する論考であり、枚数も少なかったのが残念。
この人の、ビート俳句盛衰記のような文章を読みたいものです。
●池田俊二 「松田ひろむさんへの疑問」
さて、今月号で最も問題のある文章を取り上げてみましょう。
このことはそもそも池田の『日本語を知らない俳人たち』という本から始まっています。同書は「き」の完了用法を誤りとして否定することが力説されている論文でした。
松田ひろむは『俳句界』に「文法の散歩道」を連載していて、9月号で池田説を批判。今回はそれに対する池田の反論です。
まず、その「元凶」となった『日本語を知らない俳人たち』ですが、私はそれを読んで示唆されるところ少なからずと思いながらも、非常に基本的な部分への疑問を拭えませんでした。
それはつまり、池田が好んで使う言葉「誤用」への違和感です。
文法の誤用?
それはいったいいつの時代のどの文法を基準としているのでしょうか。
今回の松田への反論を読んでも全く同じ印象をいだきました。
松田が9月号で、平安末期に「き」の連体形「し」が完了存続の用法として使われていた例として、
わが庭の咲きし桜をみわたせばさながら春の錦延(は)へけり(二条為忠 「為忠集」)
思ひきや賀茂の川波たちまちにかわきし袖にかけんものとは (「広本捨玉集」四)
この二首を挙げ《存続完了だから誤用といってもそれはあたっていない》と述べたのに対し、池田は《「為忠集」「捨玉集」に右の二首があることは事実ですが、それを以て「したがって・・・あたっていない」、「誤りということが誤り」とは、なんとも秀抜な御託宣です。二集はそれほど完璧なものなのですか。『旺文社全訳古語辞典』以外に理論的根拠があるのですか》と反論しています。
松田ひろむが過去の実例を挙げて、かなり古い時代から「き」「し」の完了的用法があったと指摘するのに対し、池田はあくまでも用法の正用・誤用にこだわり続けます。
そしてどうやら池田が大いに私淑しているらしい萩野貞樹の『旧かなと親しむ』からの次の引用が、また私にはひっかかるところなのです。
《藤原為忠といふ人は、藤原俊成や源頼政を歌人として育てたパトロン、歌壇のボスといつた存在のやうですが、俗言俗語も平気で使ふ型破りの人のやうです》
《そもそもこの『為忠集』なるものは、為忠の歌を集めたものではなくて、後世、鎌倉期の趣味人が、あの為忠ならこんなものを作つたり喜んだりするんぢやないか、とばかりに興じてまとめたものでせう。当時の俗書と見て結構です》
池田は、だから為忠の歌は誤用だと決め付けています。
もうこの辺でいいでしょう。
池田はこの世界のどこかに高貴で正しく普遍的な日本語があるという仮定のもとで正用・誤用を語っているのです。
「俗言俗語」や「俗書」は「正しい日本語」では無いと言いたいのでしょう。
文法というものは時にこうした勘違いを人に起こさせるものかもしれません。
私たちは文法のために話したり書いたりしているわけではないはずです。
言葉は常に時代によって変化し続けてきました。それを事後的にまとめてみたのが文法であるのに過ぎず、その逆というのはありません。
大人にとってちょっと理解しがたい現代の若者言葉だって、それが流通する限り立派な日本語です。
池田の論は、時間の停止した文法の教室空間のようなもので、彼の松田批判は狭い教室の中の出来事にしか見えません。
日本語は池田説とは全く無縁の世界で、今日も生き生きと変化し続けている、そう私は思うのでした。
●栗林浩 「悼む 中臺春嶺」
今月号の記事の中で、もう一つ挙げておきたいのが、この「悼む 中臺春嶺 俳句弾圧事件 最後の生き証人の死」です。
この夏、99歳で世を去った《戦前の特高による俳句弾圧事件の最後の生き証人》中臺春嶺への追悼文ではありますが、こういう俳人の紹介こそ総合誌としてぜひやってほしいものです。
赤き日にさびしき鐡を打ちゆがめ
獨房に病みてしらみと遊びけり
さくらんぼ妻の青春還るなし
百歳の台風ゆるるも運命かな
《春嶺の死を以って、俳句事件は幕を閉じるのであろうか。そうあってはいけない。新興俳句が戦後、社会性俳句や前衛俳句と形を変えながら現代俳句を形作った功績の一端を、春嶺は背負ったのである。それを忘れてはなるまい。》
●小澤克己 特別作品「詩の覇王」50句
最後に小澤克己の50句の中から数句紹介して終りにします。
わが首座の冬オリオンを詩神とす
猪狩の無骨な顔とすれ違ふ
猟銃の中より蒼き声したり
淡々と生きあはあはと牡蠣啜る
蕪村忌の菜へ月光の羽毛ほど
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後記+プロフィール 028
後記
神奈川県相模湖駅の駅前の角にある「かどや」という定食屋に出かけました。句会には都合がつかなかったけれど、二次会に参加してきたのです(句会は二次会からに限る、というのが持論。すみません)。
「かどや」は、気持ちのいい店です。感じのいいおかみさんとアルバイトさんの働きぶり・応接がいい。食事が美味しい。値段は「これでいいのか?」と思うくらい良心的。2階ではカルチャー教室や展覧会が開かれ、地域のセンター(中心)のような感じさえします。
相模湖町は、おもしろい町です。「かどや」のような、「昔からここでやってますよ」といった風情の店がたくさんあります。相模湖畔は、射的やスマートボール、ピンポンに足漕ぎボートと、往事に栄えた遊興地のおもかげを残しつつ、いい感じに寂れています。機会があれば、ぜひお出かけになってはいかがでしょう。
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さて、今週号から、俳句作品を縦組みで掲載することにしました。先週号で信治さんが吉岡実の詩を縦組みで掲載。俳句もコレで行きましょうか、と。
画像をクリックして、大きくして、お読みください。
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『俳句』2007年11月号の鼎談で「週刊俳句」の名をありがたくも露出していただいたわけですが、この鼎談で提示された「インターネット俳句観」のようなものへ、いくつかの反応がありました。「週俳10月の俳句を読む」の鈴木茂雄さんの記事、堀本吟さんの記事、そして記事に寄せられた鮟鱇さんのコメント。
私自身、「俳句とインターネット」について考えていることがあるので、近いうちに記事にしたいと考えています。すこしだけ予告すれば、鼎談で語られている内容にはほとんど首をかしげます。かといって、「インターネット陣営」につく気はまったくない。そんなところで、とりあえず「お楽しみに」と申し上げておきます。
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先週号から開いている「落選展」にはたくさんの人に詰め掛けていただいています。ありがとうございます。まだすこしのあいだトップページに入り口を掲げておくことにします。ひきつづきお楽しみください。また、ご遠慮なくコメントをお寄せください。
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トップページ右のサイドバーに常備している動画 haiku mp 1 を冬物に変えました。 またトップページ下の haiku mp 2 の今週は「ダイアン・アーバス特集」。いずれもパソコン環境・通信環境によっては見ることができないようですが、視聴可能ならお楽しみください。
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今回の「後記」は、話題が多くて、ちょっと長くなってしまいました。たまにはいいですよね?
(さいばら天気・記)
no.028/2007-11-4 profile
■久保山敦子 くぼやま・あつこ
1955年、福岡県久留米市生まれ。2005年、朝日俳句新人賞受賞。「白桃」同人。
■鴇田智哉 ときた・ともや
1969年木更津生まれ。第16回(2001年)俳句研究賞受賞、第29回(2005年)俳人協会新人賞受賞受賞。句集に『こゑふたつ』。「雲」編集長。
■佐藤文香 さとう・あやか1985年生まれ。「ハイクマシーン」「里」所属。高校1、2年で俳句甲子園に出場。第四回団体優勝、第五回団体準優勝・個人最優秀賞を果たす。第二回芝不器男俳句新人賞対馬康子審査員奨励賞受賞。http://www.geocities.jp/aya6063/
■lugar comum
1961年生まれ。渋谷育ち。ベッドルームDJ。
■堀本 吟 ほりもと・ぎん
1942年犬山市生。松山市に育つ。生駒市在住。1983年、坪内稔典、攝津幸彦等の「第五回現代俳句ゼミナール」を聞きに行き、はまる、「船団」から「豈」へ。そのまま現同人。大阪で「北の句会」、「ヒコイズム研究会(読書会)」など参加。川柳と俳句、短歌のジャンルを超えた交流の模索をつづける、豈関西編39-2号の編集。評論集『霧くらげ何処へ』(1990/深夜叢書社)。
■鈴木茂雄 すずき・しげお大阪生まれ。インターネット俳句結社「きっこのハイヒール」所属。HP「WEB 575 Internet Haiku Magazine」http://homepage1.nifty.com/ssweb575/
■中山宙虫 なかやま・そらん
1955年大分県生まれ。ずっと九州で生きている。俳句は1999年より。現代俳句協会会員。九州俳句作家協会会員。「麦」「霏霏」同人。ブログ「おじさん(Age.51)日記」http://musinandanikki.at.webry.info/
■羽田野 令 はたの・れい
大分県生まれ。「吟遊」同人。山繭の会(短歌)会員。京都市在住。
ブログ「けふえふえふとふてふ」http://yaplog.jp/ef_ef/ メルマガ「ふわりと一句」 http://mini.mag2.com/pc/m/M0051420.html
■榊 倫代 さかき・みちよ1974年愛知県生まれ。「天為」同人。
■ひらの こぼ
1948年京都生まれ。「銀化」同人。著書(最新刊)『俳句がうまくなる100の発想法』(草思社)。
■菊田一平 きくた・いっぺい
1951年宮城県気仙沼市生まれ。「や」「豆の木」所属、俳句「唐変木」代表。現代俳句協会会員。句集『どつどどどどう』。三陸書房のウェブサイト「オリーヴ」に俳句エッセイ「〔歳時記風に〕けせんぬま追想」を連載中。
■五十嵐秀彦 いがらし・ひでひこ
昭和31年生れ。札幌市在住。現代俳句協会会員、「藍生」会員、「雪華」同人、迅雷句会世話人。第23回(平成15年度)現代俳句評論賞。
サイト「無門」 http://homepage2.nifty.com/jinrai/
■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。ブログ「胃のかたち」 http://uedas.blog38.fc2.com/
■さいばら天気 さいばら・てんき
播磨国生まれ。1997年「月天」句会で俳句を始める。句集に人名句集『チャーリーさん』(私家版2005年)。ブログ「俳句的日常」 http://tenki00.exblog.jp/
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